“去年の秋のこと。妻の姉が老人ホームで亡くなった。姉の連れ合いは、姉が認知症を病むと「役立たず」とばかりに暴言と暴力。通報を受けた役所の支援で、そこに逃れてきたのだった。その施設は、戦後間もない頃、近くの寺の住職が身寄りのない人のために始めたという。山里の奥深くにあり、度々面会に訪れた妻を待つ間、裏の林を散策していたら、猿の群れに出会って驚いた。
葬儀は施設の一室で営まれた。参列者は私たち夫婦と職員の方が三人。焼香の後、姉と親しかったという女性が、思い出を語ってくれた。それによると、姉は散歩が好きで、野の花を見つけると摘んで帰っては部屋に飾った。施設で催される行事にも真っ先に手を挙げ喜んで参加したという。最後に女性は「大切な家族を失ったようで悲しい」と遺影に呼びかけた。
その後、挨拶に立った妻は「過酷な人生を歩んだ姉が、最後にたどり着いたこの場所は、優しさに満ちた楽園でした」と礼を述べ、号泣した。
後で聞いた話だが、その施設は献身的な介護と食事の世話で「入った人はみんな長生きする」と、地元の人はうわさするそうだ。帰り道、晩秋の田のあぜで、季節外れの彼岸花が冷たい雨に打たれて揺れていた。”(2月6日付け中日新聞)
三重県東員町の森井さん(男・69)の投稿文です。人間の死について、2月14日付け第3453話で書いたばかりである。改めて死に際のことを思う。森井さんの義姉は、過酷な人生を歩んだ先に、楽園のような施設で亡くなられた。苦しい人生も死に際の幸せ感に救われる。親族の方はホッとされたであろう。死に際はそれ程に大切である。人間はいろいろ自分の思い通りには行かないものだが、特に死に際はそうである。病の痛さでのたうち回るのか、老衰のように静かに死んでいくのか、思いもかけず突然死するのか、本人にも誰にも分からない。こんな重要なことが自分の思うようにならないとは、人間とは何と情けないものか。だから生かされているというのである。
これからは周りに迷惑をかけながら認知症で何も分からない中で死んでいく人が多くなろう。そうなる前に死にたいものだが、これも思うように行かない。人間は、どんな形になろうとも、何歳になっても生きたいものであるから。早く死にたいは、言ってみるだけのことで嘘である。重苦しい話しになった。