“よく人違いされる。見知らぬ人に「○○ちゃんだよね?」と声をかけられ「違います」とムッとした二十代。「よくある顔みたいで、いろんな人に間違えられます」とにこやかに答えられるようになった四十代。そして五十代になった今、「私に似てるなんて、その方、美人さんですね。アハハ」と笑い飛ばせるまでになった。
物覚えが悪くなったり、小さな文字が見えにくくなったり、昔はできたのに今はできなくなったことはいろいろある。この年齢になり、できるようになったこともある。初対面の人と楽しく会話ができるようになったのも、その一つだ。保育園に勤めてもうすぐ十年目になるなんて、小さな子が苦手だった昔の私が知ったら、どんなに驚くだろう。他にも、知らないことを「教えて」と言えるようになった。感謝している人に素直に「ありがとう」と言えるようになった。若い頃には照れてできなくても、年を重ねてできるようになったことは枚挙に暇がない。
娘に話すと「羞恥心がなくなっただけじゃないの?」と笑われるが、私はこれを密かに「進化」と呼んでいる。できなくなったことを嘆くより、これからも楽しみ、心に余裕のある大人を目指したい。”(1月8日付け中日新聞)
愛知県豊川市のパート・能勢さん(女・50)の投稿文です。多くの人は老いて死を迎えるのが最終段階である。毎日がそれに向かっていることを思えば毎日が進化である。しかし、これを普通の人は進化と言わない。寂しい老化という。進化と言うには、優れたものに変わることである。能勢さんが言われる進化は具体的には楽しくなれることであろう。どうも人間楽しいことに勝れるものはなさそうだ。とは言っても若い人が楽しさだけではやっていけない。苦労に耐え、乗り越えてこそ生活もできる。その先に楽しい生活もあろう。そしてものは受け取り方である。同じ事があっても、面白く無い人と楽しい人がある。能勢さんは何事も楽しくなるように受け止める。これぞまさに進化であろう。能勢さんの人生は楽しくなろう。
さて老いたボクらはどうであろうか。ボクはもう楽しいことしかやらないことにしている。無理して楽しくないことはしない。それがシルバーカレッジの委員長辞任にもなってしまった。さてこれが良かったか、悪かったか?もう少し先に結果が分かろうが、ボクが辞任したことによって教室の雰囲気はかなり変わった。良かったと今は思っている。できなくなったことを嘆くばかりではいけない。順調に老いているのである。