“親しい友が続いて天国に召され、自分もいつどうなるか分からない年齢となり、遺影を用意しておこうと考えた。アルバムの写真の私は、楽しそうに笑っている。何度も旅行に出してくれた家族や、健康で過ごしてこられたことに感謝している。
十年くらい前の六枚の写真を気に入って選び出した。主人が「今の写真を」と言うので、眉と口紅を少し足して三枚ばかり写してもらった。出来上がった写真は、白髪交じりで顔には黒いしみと深いしわの年老いた女の顔、姿。「これが現実」の声とともに、思わず破り捨ててしまった。結局、昔の六枚の写真を二組に分けて、若めに見える四枚は、仏壇の右の引き出しの目につくような所に入れた。子どもたちが見たら、すぐに見た目が違うと「却下」してしまうだろうけれど。やや老けて見える二枚は、左の引き出しの奥の方に入れておいた。
長いマスク生活で、すっかり自分の顔を忘れてしまったのだろうか。女とはいくつになっても、少しでも若く見られたいと思うバカな生きものらしい。運命のいたずらで、もう少し長く生きられたら、左の引き出しの写真も「却下」されるかもしれない。”(4月5日付け中日新聞)
愛知県高浜市の主婦・加藤さん(85)の投稿文です。遺影の写真も難しいものである。今の時代は一般葬が少なくなり、葬儀に参列する機会は減った。よく参列していた頃、遺影の写真に驚くことも度々であった。事前に準備されていることは少ない。残された家族が適当写真を探し出し、使う。いかにも若い写真、ふさわしくない服装、物調面の顔などもあった。ボクの場合、父の時は適当に探し出し、母の時は用意をしておいた。
加藤さんは自分で使って欲しい写真を数枚用意された。自分の葬儀である。主役である。自分の希望を託すのも良かろう。葬儀の仕方を希望する人も多かろう。残された人が困らないようにこのようにするのが賢かろう。
妻からこんなことを話し掛けられながら、今のところ何ら用意はしていない。まだ先のことと思っているからであろうか。そういう話に触れたくないからであろうか。ソロソロ本気で取り組むことか。