ha2011

第198号  2020年11月

 
 (第3072話) 短い手紙
2020年12月29日 | 行動

 “「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は日本一短い手紙として知られます。退職して文書を書く機会はめっきり少なくなりましたが、思わぬところで効率的な短文作成の必要性を感じることがままあります。その一例が携帯電話間のショートメール。私の携帯では一回の発信は七十字までとの制約があり、簡潔に打ったつもりでもすぐに字数オーバーとなります。二回に分けて打てばいいのかもしれませんが、できれば一回の送信で済ませたいものです。
 本欄での各投稿の見出しの十字を手本に私は、頭の体操の意味も込めていろいろな表現に挑戦してみようと思い始めています。”(12月7日付け中日新聞)

 名古屋市の鈴木さん(男・79)の投稿文です。簡潔要領よくは読む方に楽である。理解も早い。いい文章の条件である。これはもう技術である。これは日頃から心がけ、修練を積むのである。メールも使い方である。頭の体操と気づかれた鈴木さんは、老いてまだまだ成長されるだろう。
 さてボクはどうか。この「話・話」 は随分文章を長くしている感じがある。引用文が主体の「話・話」 であるが、引用文より長くしたい思いがあるからである。引用元もはっきり示しているし、著作権侵害とは言われることはないと言われているが、気にしている部分ではある。ということもあって長い文になっている。本当は引用文の方を読んで欲しくてボクの文などどうでもいいが、この機会を利用して自分史のつもりで書いている。自分を振り返るにいい機会である。何事も機会の捉え方である。人にチャンスはいくらでも訪れる。そのチャンスを生かすか、ただ見逃すか、そのことによって人生は大きく変わる。鈴木さんはそのチャンスを上手に生かそうとされている。

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(第3071話) 終活いろいろ

2020年12月27日 | 行動

 “ある日、息子が私に向かって言った。「あなたたちが趣味で集めた骨董と花木をぼつぼつ整理してね。俺たちでは何も分からないからね」
 そりゃあそうだ。夫と私が飛び回って集めまくった結果には、責任がある。私は終活に向かって動きだした。まず骨董店に電話した。ところがドッコイ。そう簡単ではない。高く買ったのに・・・。もう値段なんてどうでもいい。処分、処分!次は花木。これは生き物。一番の難題である。数が半端ではない。夫と二人で生花店巡りに明け暮れた日々。若かった。楽しかった。大勢の仲間たちと出会えたなあ。その結果がすごいことになっていた。鉢花千三百以上、地植えは数えることすらできず・・・。そして同罪の夫は入院中である。
 私一人の肩にズシリときた。やるしかない!覚悟はできた。それに花たちも私と同じく老いていた。「長い間、ありがとう」と感謝しながらの作業が続く。ところがこれで終わりではなかった。忘れていた。私が嫁いだ時、すでに柿などの果樹の大木が四本もあり、今も健在だった。これは本職に頼んでください。請求書は夫まで。以上、よろしく。母より。”(12月6日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の主婦・山脇さん(77)の投稿文です。趣味に没頭するのも人生である。収集は夫婦一方の場合が多く他は抑制に回るのだが、夫婦2人で当たれば集まる訳である。この文で、骨董品はどの程度だったかは分からないが、鉢花1300以上と聞いてびっくりである。生きている花が鉢である。水遣り等どのように管理されていたのであろうか。地植えがほとんどであるボクには想像ができない。処分に覚悟はできたが、でも身を切られるような思いであったろう。長い間楽しんでこられたのだから感謝であろう。本当に終活もいろいろである。
 ボクも庭には随分樹木を植えてきた。脚立に乗っての剪定が危なくなってきた。昨年秋、ほとんどの木をボクの身長くらいの高さに切り落として貰った。見栄えも気にしなかった。ほとんどの木を脚立に乗らなくても剪定できるので、今年は随分楽であった。いずれ根元から切るときも来るだろう。それまでもう少しの間、楽しみたい。
 収集趣味を誰かが引き継いでくれればいいが、なかなかそうは行かない。ボクの友人も随分苦労して処分していた。まだ集めている友人もいる。どのように考えているのだろうか。

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(第3070話) 大掃除

2020年12月25日 | 出来事

 “一年がたつのは早く、また年末の大掃除の季節がやってきた。大掃除というと、いつも思い出す出来事が、私にはある。幼い頃、町内そろって行う大掃除があった。母に聞くと三月から四月の春先の行事だったという。家中の畳を上げて天日に干し、乾いた後は床板にDDT(殺虫剤)をまき、新聞紙を敷いて畳を元に戻す。こんなダニ対策であろう大変な作業を、どこの家も当たり前にやっていた。
 当然、小さな私や弟もお手伝いをさせられたわけであるが、楽しみもあった。何と、畳と畳の隙間に一円玉や五円玉、うまくいくと十円玉が見つかることもあった。私と弟吟は歓声を上げながら手伝ったものである。
 日々の暮らしの合間に転がった小銭が偶然、畳の間に挟まったものだろうと、私は大人になるまで信じて疑わなかった。四十代に入って昔話に花が咲いたとき、その話をした私に、母は笑ってこう言った。「あれは、あんたたちを喜ばせようと、前の日に父さんが一生懸命、埋め込んだお金だわあ」
 父は七年前に亡くなったが、貧しい中でも温かく育ててくれた両親に、あらためて感謝している今日この頃である。”(12月4日付け中日新聞)

 愛知県常滑市の主婦・伊奈さん(69)の投稿文です。これはまた楽しい話ですね。畳の隙間に入り込んでいた小銭を、畳掃除の時に見つけ、貰っていた。しかし、それは親が仕組んだ仕掛けだったとは。機転の利く親です。楽しい親子です。しかし、実際に小銭が挟まっていたこともあったでしょう。それがするきっかけだったかも知れません。
 昔の村には町内そろっていろいろなことをする行事があったのですが、ボクの村に大掃除の日があったのかは、記憶にありません。でも畳干しは毎年それぞれに家庭でしたものです。畳2枚をハの字型にもたせかけるのですが、一つが崩れてドミノ倒しのように皆倒れたとか、結構重くて運ぶのが苦痛だったとか、そんな記憶があります。またボクの家では、畳は寒い時期だけ敷いて、夏ははがして積み上げ、ござを敷いていました。暑さ対策だったのか、畳を大切に使うためだったのか・・・多分後者だったろうと思います。畳干しはボクの小さいときの記憶で、父の代にもうしなくなった気がします。こうして言われるといろいろなことが思い出となってよみがえってきます。どの時代もそれぞれの思い出があると思いますが、ボクらの時代は生活に密着していた気がします。

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(第3069話) 習字箱と先生

2020年12月23日 | 出来事

 “小学生のとき、新任だった女性教師が一~六年生までずっと私の担任だった。あれは六年生のときだ。弟が教室の後ろの出入り口から入って来て「お兄ちゃん、習字箱」と言って私に箱を手渡して去って行った。みな一斉に弟を見て、級友の一人から「おまえんちは習字箱一つしかないのか」とからかわれた。先生はその級友をたしなめて「そういうことは言ってはいけません」と。授業が始まり私はすずりで墨をすりだしながらも涙が込み上げてきて用意していた新聞紙にポタポタと落ちた。それからは習字の日は弟と重ならなくなった。先生が私の新聞紙を見逃さなかったからだろう。”(12月4日付け中日新聞)

 愛知県みよし市の吉村さん(男・74)の投稿文です。いい話です。心温まる話です。ボクらが小学生の頃には、一つのものを兄弟で使いあうという家もあったと思います。こんなことがあったと言う出来事を今思い出せませんが、確かにあった気がします。「新聞紙にポタポタと落ちた」と言う文に、何のことか分からない人も多かろうと思いますが、当時の練習用紙は新聞紙でした。ボクもそうでした。習字紙を使うのは清書の時だけです。それで何が困ったかというと、何もなかった気がします。今はただ贅沢に、ものをうまく活用しなくなった言うだけの気がします。
 この文で「新任だった女性教師が一~六年生までずっと私の担任だった」と部分も気になりました。そういう学校もあったのか。どんな学校だったのでしょうか。ボクは1学年30人という学校でした。大きいとは言えません。でも担任は毎年替わっていました。ボクは3年生の時新任の先生でしたが、その先生は次第に大きな学校に代わっていかれました。そしてその後同窓会に招いたときなどに、ボクらの学校時代が一番良かったとよく言われました。田舎の学校の良さでしょうか。

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(第3068話) ファスナー合流

2020年12月21日 | 出来事

 “ファストフードのドライブスルーを利用して昼食を買おうとした際、店の敷地の内外で車が数珠つなぎとなるほど混雑していて、二本あった導入路はやがて一本に合流する形態だった。私は強引に車を進めて事故を起こすのも嫌なので進路を譲ってくれる車があるまで待っていた。しかし、どの車も急いでいるようで私は動けずにいた。そうこうするうちに私の後方の車が「早く突っ込め」と言わんぱかりの警笛を鳴らした。仕方なく私はやや強引に突っ込み、後方の車も続いた。
 欧州諸国では高速道路などで一台ずつが交互に本線に入る「ファスナー合流」を実施しておりドイツでは法制化されているそうだ。ファスナー合流が日本でも当たり前になったらいいと強く思った。”(12月3日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の光岡さん(男・74)の投稿文です。ボクがファスナー合流という言葉を知ったのは、近くの高速道路のジャンクションでこの方法が取り入れらたことからです。本線と乗り入れる方が交互に入り込む。それまでいつも渋滞を起こしていた本線の渋滞がかなり減って効果があった言う報道がありました。ボクはこの箇所をよく通りますので状態は知っていました。その後も何度も通っていますが、乗り入れる方の渋滞が長くなった気はしますが、本線はスムーズになりました。無規則に突っ込む車が多ければ、突っ込んだ車は早いかも知れませんが、全体は遅くなります。事故やトラブルの元にもなります。こうしたところには、そこに合った規則が必要です。光岡さんはこのことを主張されています。参考にできる意見ではないでしょうか。

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(第3067話) 幸せを見つける力

2020年12月19日 | 出来事

 “「以前、うちでお昼ご飯を一緒に食べたとき、お宅の子どもたち三人が『いただきます』と言ったと思ったら皆一ロ食べて『おいしー!』って言ったのを覚えてる?」 同じ年ごろの子どもを持つ友達から突然、そう聞かれましたが、私はよく覚えていませんでした。その場面を目撃した友達の娘さんは後日、「うちもいただきますの後には『おいしい』って言おう」と提案したと聞きました。
 私は、友達の娘さんの気付きと発想がすてきだと思って友達に「とてもいい子ね」と伝えたら、「あなたは小さなハッピーを見過ごしていない?」と逆に指摘されて・・・。思い起こせばわが子たちは「味が薄いよ」「ご飯が進まないメニューだね」とネガティブなことを発することもありましたが、おいしいときは素直に心から「おいしい」と言ってくれました。そんなネガティブな物言いばかりが頭に残ってしまい、幸せを感じることに私は鈍感になっているのかもしれません。教えてくれた友達と娘さんに大いに感謝しつつ、まだ気付いていない小さな幸せがわが家にもありそうな気がしてきました。”(12月1日付け中日新聞)

 三重県四日市市の主婦・佐藤さん(42)の投稿文です。隣の芝生をうらやましがる気持ちは、誰にもあります。それを糧に頑張るのはいいでしょう。でも、自分の幸せを見落として、羨ましがるばかりでは、苦痛は増すばかりです。誰にもどこにも、幸せはあり不幸せはあります。良いところもあり悪いところもあります。上手に見極め、対応するのが賢明ではないでしょうか。
 70代にもなると、いろいろ感じ方が違ってくる気がします。まずこの歳まで生きられたことにありがたさを感じます。若い頃いろいろなことがあったことも、それを乗り越え今がある。いろいろな苦労も過ぎてしまえば大したことがなかったと思えます。苦痛も思い出になります。例えば職場の昇進が少し遅れると、かなりな苦痛になります。ボクはどちらかというと遅れた方です。今となってみれば、そんなこと大したことではなかったと思えます。その後の生き方の方がもっと重要だと思えます。今こうして健やかな過ごしていることを思えば、つまらんことで悩んでいたものだと思えます。幸せを見つける力は大切です。佐藤さんは若いのに良いことに気づかれました。

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(第3066話) 健康な歯

2020年12月17日 | 人生

 “私はこの年齢になっても虫歯を患った経験がありません。おそらく子どもの頃、両親が私の歯を十分におもんぱかってくれたおかげだと思っています。
 都市部にいたわが家は戦時中、母の姉を頼って田舎へ疎開しましたが、そこでも食べる物はあまりなく日々の食料確保に両親は必死だった気がします。母は腹をすかせた私たち三人の子どもにどうすればいいのかと頭を悩ませたはずです。私はそんなことを意に介さず、とにかく日が暮れるまで野山を駆け回っていました。
 そんなことからすると私には一本の虫歯がないことが不思議でなりません。両親に感謝しなければと思いつつも、二人とも既にこの世におらず無常を感じています。”(12月1日付け中日新聞)

 津市の富田さん(男・81)の投稿文です。8020どころか、80歳になっても虫歯を患ったことがないと言われる。全く幸運な人生である。ところがこういう人を時折聞く。実は先日、ボクの知り合いの女性から聞いたばかりである。その女性はボクと似たような年齢であるが「今歯医者にかかっているが、物心ついたときから歯医者に行った覚えがない」という。虫歯ができるかできないかは3歳までに決まると聞いたことがある。少し調べてみると「生まれたばかりの赤ちゃんの口に虫歯菌はいない。それが虫歯になるのは虫歯菌が両親など身近な大人からうつってしまうからである」とある。そしてそうならないためには「コップや箸などの食器の共有や、大人が噛んだものを与えたり、愛情表現のキスなどをしない」こととある。こう知れば、ほとんどの人が虫歯になることは当然である。今は知らないが、昔は大人が噛んだものを与えるのは当たり前であったろう。昔の食べ物は硬かった。噛んで柔らかくして赤ちゃんに与えたと思う。これをしないためには、この知識を持っていなければまず無理である。富田さんの両親はこの知識を持ってみえたのであろうか。
 人間の体、何が欠けても不自由であるが、歯は特に大切と思う。楽しみな3度の食事に使うものである。ボクの子供の頃は歯磨きなどした覚えがない。そして、中学生の時に始めて歯医者に行った。その後虫歯も結構でき、歯についてそれ程健康とは思っていない。今はインプラントが2本、入れ歯が2本あるが、食べるのに何の苦痛もなく、味覚に何の違和感もない。ボクの歳になると総入れ歯の人も時折聞く。これでここまで来られたのはありがたいことと思っている。ここ20年ばかりは定期的に歯医者へ診断を受けに行く。点検し、歯石を取り、悪いところがあれば早めに処理してもらう。今こうしておられるのは、これが良かった気がする。

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(第3065話) 昔のビデオ

2020年12月15日 | 出来事

 “山積みのビデオテープを片付けようと思い、近年ずっと取り外していたビデオデッキをテレビに接続してテープの中身を確認しました。三十年以上前にとりためたものばかりで、映画をはじめドラマや音楽番組などさまざまでした。出演者の姿は当然ながら若く、その昔は邪魔に思えたCMがとても興味深く思えました。今はどこにも走っていないような自動車が紹介されていたり、今もある商品の懐かしい宣伝だったり・・・。録画してある内容より面白いくらいでした。
 ビデオデッキ自体、完全に二十世紀の遺物といえますが、目の前にあるビデオテープの数々には思い出がたくさん詰まっているので捨てるに捨てられません。さて、どうしましょう。”(11月28日付け中日新聞)

 長野県宮田村の自営業・酒井さん(男・60)の投稿文です。撮り溜めたビデオテープを久しぶり見てみると、映画などよりもCMが興味を引いたと言う酒井さん。昔のものに新たな発見です。さてこの処分です。ビデオデッキももう昔のものになりました。どの世代も一生の間は変化の連続だったでしょう。ボクらのこの時代が特にかよく分かりませんが、それにしてもどこまで変わるのだろう、と言う感じです。
 ビデオデッキでは、ボクはまずソニーのβデッキを買いました。これがまずく、他のメーカーに圧倒され、まもなくなくなります。困りました。ボクは8ミリ映画を撮っていました。ほとんど家族写真や旅の写真です。これもなくなります。これはもっと困りました。でもまずいながらも自分でビデオテープに変換しました。お金を掛ければDVDに変換することも可能のようですが、そこまでして残す意味がるのだろうか。酒井さんが迷われるように、ボクも確信が持てません。今のところそのままです。ただ、写真はネガからSDカードに保存しました。だいぶ欠けていますが、これで十分の気もします。時代の変化と自分の変化、これを上手に乗り切るのはなかなか難しいですが、ここは知恵の出しどころでしょう。

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(第3064話) バスツアー

2020年12月13日 | 行動

 “結婚して五十年がたちました。寝具やガスこんろを用意して、主人の運転で北海道、九州、四国、紀伊半島、東北方面を車中泊旅行しました。ところが、目も体力もだんだん衰えて、心配が増えてきました。こうなったらバスツアーです。中部地方には知らない場所がたくさんあり、バスツアーを申し込んで旅することが多くなりました。今年はコロナ禍で一度も行っていません。十一月末に紅葉を見るツアーを申し込んだので、今から楽しみです。
 バスは安心です。乗るバスさえ間違えなければ、目的地に連れて行ってくれます。食事は据え膳。名所旧跡も添乗員さんの説明で勉強になります。サービスエリアでトイレ休憩もあり、楽ちん楽ちん。以前は助手席でカーナビと手元の地図と道路標識をにらめっこしながら、運転手を怒らせないように道案内する気苦労がありました。到着までに二人とも疲れてしまいます。北海道でも九州でも一、二回、車内で口げんかになりました。私のせいで道を間違えようものなら「もーこのままUターンして帰るぞ!」。旅もこうなると何も面白くありません。怒らせないよう、あの手この手で尽くしてきましたが、疲れました。やっぱりバスツアーが最高です。”(11月23日付け中日新聞)

 愛知県安城市の主婦・佐々木さん(72)の投稿文です。ボクにしてみれば羨ましいような車中泊旅行です。自分達だけで車で回るのですから、思ったところに自由に行けます。佐々木さんはこうして全国を回られました。決められたコースではありません。その苦労も書いてありますが、ボクにしてみればやはり羨ましいです。
 ボクは車を運転できますが、好きではありませんし、へだと思っています。ですからドライブはほとんどしたことがありません。妻はそのことを不満に思ってきました。その代わりに早くからツアー旅行をしてきました。一番最初はまだ50歳前だったと思いますが、南九州へ2人で出かけました。見知らぬ人との旅もいいものだな、と思いました。それから時を見つけてツアー旅行に時折出かけました。退職後はツアー旅行三昧です。外国旅行はもちろん、国内旅行もツアーです。母が生存中はあまり行けませんでしたが、亡くなってからはそれを取り戻そうとばかりに出かけました。ここ数年は50日以上行ったでしょう。今年は残念ながら十数日止まりです。これは最初の印象が良かったのが、すべての気がします。

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(第3063話) 今の学びを

2020年12月11日 | 意見

 “感染が拡大する新型コロナウイルスの影響で大学への不信感が世間で膨らんでいるようで、大学生の子を持つ母親としては息子からオンライン授業を受ける大変さも聞いているだけに全くの同感だ。しかし今、全世界が等しくコロナ禍で未曽有の苦境に立たされている。このような中でも次代を担う大学生には夢や希望を絶対に失わないでほしい。多大な努力と忍耐と時間をかけて合格できた大学ならば、誇りと自尊心を忘れずに今できる学びを地道にすることが大切ではないか。
 夢に見たような学生生活が送れていなくても「災い転じて福となす」と言うように今の苦労はきっと未来のために役立つはず。頑張って!”(11月14日付け中日新聞)

 愛知県日進市の大学講師・上小倉さん(女・56)の投稿文です。人間一生の間は山あり谷ありです。ただ平坦なことはありません。今は大きな谷でしょう。この谷は地球上を襲っているので、簡単に逃れることはできません。でも止まない雨はありません。ワクチン開発の声も近づいてきました。もう少しの踏ん張りでしょう。
 この谷は若い人にとっては特に大変だと思います。ボクの孫にも、大阪に行っている大学生がいます。オンライン事業とが聞いていますが、どんな状況かよくは分かりません。共同生活もしているようで、これもよくは分かりません。でもこの体験が必ず役立つことを祈るだけです。

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(第3062話) 友人と再会

2020年12月09日 | 出来事

 ”転勤で二年ほど広島県福山市に住んでいた。初めは見知らぬ土地に戸惑うことも多かったが、さまざまな人との出会いに助けられた。そして十月、故郷である愛知県江南市に戻ってきた。
 しぱらくして偶然にも学生時代の友人と再会した。約十年ぶりだ。それなのに不思議と久しぶりに会った気がしなかった。時がどんなにたっても、よく会って遊んでいたその昔の感覚はすぐに自然とよみがえってくるからか。
 インターネット社会の昨今、人と人とのつながりの希薄さが指摘されて久しい。ただ今後世の中でどんなに技術革新が起きようとも、人間同士のやりとりから生まれるさまざまな活力は計り知れないものがあるだろう。そのことを改めて実感した。”(11月13日付け中日新聞)

 愛知県江南市の会社員・松村さん(男・37)の投稿文です。この話は12月1日付け第3058話のボクのコメントに通じる話です。古里の良さの話です。古里の良さはいろいろありますが、特に昔からの友人です。今の時代、古里に残っている友人は少ないかも知れませんが、ボクの時代は多くが残っています。
 以前にも書いたと思いますが、一つの例をもう1度書いておきます。ボクが70歳の時、市議選があり、いろいろな経過の中でボクの同級生が立候補することになりました。その選挙活動の下支えをしたのは、地元に残っていた同級生です。予定外のこと、辛いことは同級生が引き受けました。そしてその活動は同級生のつながりをより強くしました。ボクはそれ以来、事務長であり、後援会の事務局をやっています。
 今は新型ウイルスの影響で3密を避ける行動が勧められています。しかし、人間関係の基本は密に接することです。そこでインターネットでは生まれないいろいろなことが生まれます。人間関係の基本を崩すようなウイルスは本当に早く退散して欲しいものです。

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(第3061話) 朝時間

2020年12月07日 | 意見

 “せわしない朝は一分一秒を争っている人が多い。通勤や通学の電車やバスに乗る時間が近づいている人もいれば、会社や学校の到着時間が迫る人もいるだろう。私の朝はいつも時間がなく、朝食を抜いてしまうことがある。私だけでなく、朝は何かと忙しいゆえに朝食をすっ飛ばしたり忘れ物をしたりする人はきっと少なくないはずだ。
 朝、時間に余裕がある人はその後はたいてい首尾よく過ごせているようだ。朝食をしっかり取ったため頭もフル回転して忘れ物をすることはまずない。こんな効用は私でも分かる。だから、なるべく朝はゆったりと過ごしたいものだ。特にその後のことに思いをはせると、焦っていいことなんて絶対にない。私にとっての理想の朝はゆっくりとココアー杯を飲めるぐらいのゆとりを持つことだ。”(1月12日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の高校生・天野さん(女・17)の投稿文です。良いことに気づかれました。「早起きは三文の徳(得)」という諺もあります。ボクは元々早起きでしたが、もう25年以上年中5時起きです。その後の2時間から3時間は1日で最も充実している時間です。このことについてはもう何度も書いたと思いますが、特にいいと思うことを再度書いておきます。日記は1日が終わった夜書くものと思っている方が多いと思いますが、これで続けることは難しい。朝は決めたように行えるので、日記を書くことに最適です。夜は気が立っています。メールなど見てすぐに書くと、過激になることが多いですが、朝は気持ちが落ち着いていて、冷静に文章が書けます。この2つはボクが特に実践していることです。その後出かける人は、落ち着いて家を出たいものです。天野さんが言われるように、慌てるとろくなことがありません。事故の元です。「ゆっくりとココアー杯を飲めるぐらいのゆとり」が欲しいものです。実践して下さい。

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(第3060話) 健康実感

2020年12月05日 | 行動

 “会社を退職してしばらくした昨年ウオーキングを始めました。私は三十歳からサイクリングに興じ、自転車クラブチームにも入ってレースに出場するなどしてきました。ところが退職一年前の人間ドックで重大な病気が判明したのです。患部を圧迫するからとの理由で「自転車に乗るのは禁止だ」と医師に強く言われました。
 患った病気よりも、自転車に乗れないショックの方が大きかったです。その治療は終わり、今は経過観察の状態です。自転車に乗るのをやめて体力が落ちたのを実感し、このままでは健康寿命が短くなるのでは? そんな恐怖から今できる運動を自分なりに探す中でたどり着いたのがウオーキングでした。
 今や私にとってウオーキングは趣味となり、歩く距離は随分伸びてきました。風景や自然を楽しみながら毎日二時間程度歩いていて、その効用か近年体調は良くなり、体が軽くなった気がしています。昨年末、名古屋の歴史的な名所を巡る散策イベントに妻と一緒に参加しました。この先も楽しみながら歩を進めるつもりです。”(11月10日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市の武井さん(男・63)の投稿文です。「自転車クラブチームにも入ってレースに出場するなどしてきました」という自転車愛好家の武井さん、ところが人間ドックで重大な病気が見つかり自転車を止められてしまった。そこで見つけたのがウォーキングという。そして今はウォーキングの魅力に取り憑かれられたようです。
 歳相応に、また体の調子により運動の種類も変わっていきます。ボクはこれでいいと思います。最近は高齢者も運動の意識が高まり、いろいろな情報が流されています。びっくりするようなことに取り組まれる人もありますが、普通の人はあまり頑張っては危ない、と言う気がします。若いときに元気な人ほど過信があります。頑張るのはいいことですが、そこには慎重を要します。その点、ウォーキングはあまり心配がありません。速さ、時間などいくらでも調整できます。辛ければ自然落ちます。このコロナ禍です。何もしないのは、これこそ危険です。せめて歩くことはしたいものです。一宮友歩会も再開しました。今日はその例会日です。しかし、感染拡大です。でも、ボクはもう中止にする気はありません。ウォーキングがだめと言われたらもうできることはありません。十分に注意して貰いながら、続けたいと思っています。

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(第3059話) 大空に舞う

2020年12月03日 | 人生

 “感染拡大が続く新型コロナウイルスは世界中に大きな影響を及ぼしています。中でも国産初となる小型ジェット旅客機開発事業の凍結はわが国の長年の悲願だっただけに就航を楽しみにしていた人は少なくなかったはずです。その衝撃的なニュースと同じく十月下旬の紙面で報じられていたのが政界引退を表明した南米ウルグアイのムヒカ元大統領の言葉「成功とは倒れるたびに起き上がることだ」でした。聖書にも「正しい人は七回倒れても、また立ち上がる」との格言があります。遠い昔から人類は何度も挫折を経験しながらも強くしなやかに、たくましく生きてきたのでしょう。
 この先も日本が大空への夢を失わず、いつの日か機体が宙に舞うことを私は心待ちにしています。”(11月10日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の主婦・小林さん(62)の投稿文です。国産初となる小型ジェット旅客機開発事業の凍結は、中部地方、特に愛知県にとっては、関係者も多く、また力を入れていただけに大きな痛手です。小林さんのようにいつかに期待するだけです。
 そしてこの文で、ムヒカ元大統領の言葉「成功とは倒れるたびに起き上がることだ」を知りました。また聖書の「正しい人は七回倒れても、また立ち上がる」との格言を知りました。人間に失敗はつきものです。失敗を恐れては何もできません。失敗で学びます。だからこの言葉になるのでしょう。失敗してそのままでは終わりです。そこで、その失敗を糧にまた立ち上がる、そして成功に近づくのでしょう。だから失敗にくよくよすることはないのです。また学んだと思えば良いのです。でもこれは言うほどにたやすいことではありません。失意、涙、悔しさ、いろいろ悲観的なことが襲いかかり、なかなか立ち上がれません。でもこの言葉を思い出し、いつか立ち上がるのです。こういう言葉はその時のためです。いろいろ良い言葉を知っていることは、人生の助けになります。どこで知ったか忘れましたが、ボクは「人間の真価はいつ発揮されるか分からない、死の瞬間かも知れない。」と言う言葉を、失意でこのまま終わりたい、と言うときに、大切にしたいと思っています。

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(第3058話) 嫁いで50年

2020年12月01日 | 人生

 “愛知県一宮市から現在の岐阜県本巣市に嫁いで五十年。集落が点在する田園風景では街路灯もなく夜ともなれば真っ暗でした。どうしてこんな田舎に来たんだろう。そう嘆いたことが何度となくありました。
 やがて二人の娘にも恵まれ、友人もでき、モヤモヤも徐々になくなっていきました。今やこの地が自分の生まれ故郷かと錯覚するほどの愛着があります。近くに大型ショッピングモールができ、わが町の人口も随分と増えました。便利で安心して暮らせて住みよい町になってきた気がします。この先、近くに東海環状自動車道のインターチェンジもできる予定です。さらなる発展を願うばかりです。”(11月10日付け中日新聞)

 岐阜県本巣市のの主婦・竹中さん(73)の投稿文です。一宮市から本巣市へ嫁ぐ。ボクにはどちらもある程度分かる町です。そして竹中さんは同年代です。50年前も分かります。当時の一宮市と本巣市はかなり違っていたでしょう。住むところにもよりますが、町と田舎の違いくらいあったと思います。驚かれたでしょう。でも50年もなじむとこのようは発言になります。愛着が生じます。「住めば都」と言う言葉通りです。人間の順応化でしょうか。これも人間の能力でしょう。同じ住むなら好きになって住みたいものです。
 ボクは一時的に生まれ故郷を離れましたが、また戻りました。戻る前の9年ばかりは、どちらかというと、レベルの高い分譲団地に住んでいました。そして古里へ戻りました。古里は古い農村地帯です。近代的な分譲団地と古い農村地帯では、いろいろ雲泥の差です。竹中さん以上の思いでした。その時、唯一のメリットは同級生がいることだと思いました。そしてこの歳になると、古里の良さをたくさん感じています。ボクが感じる良さはまたの機会にしましょう。

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