“第二次世界大戦中、名古屋市緑区の有松駅近くに捕虜収容所があったことを知りました。愛知県内唯一の収容所で終戦時、米英の捕虜約二百七十人がいたそうです。捕虜は同市熱田区の鉄道車両工場で働かされ、電車で通う姿を小説家の城山三郎さん(1927~2007年))が「捕虜の居た駅」でこう書きました。
「それまでも時々声高に何かどなりながら捕虜の列に附添っていた下士官や警防団員たちが、待ち構えていたように襲いかかるのだ。半靴で蹴上げる。ゴンボ剣と呼ばれていた短い帯剣で、尻や背筋を突く。背伸びして棍棒を振るう者もいた」捕虜たちはひどい扱いを受けながら働いていたのでしょうか。
私は捕虜収容所があった場所を訪ねてみました。目印はなく探すのに苦労しました。後世に戦争の残酷さ、悲惨さを伝えるためにも同市はここを史跡として指定して、しかと保存し、案内プレートを設置してもらいたいと思っています。”(9月9日付け中日新聞)
名古屋市の南さん(男・66)の投稿文です。ボクも全く同意見です。地域はどんどん変わっていく。跡形もなく変わっていく。そしてすぐ人間は忘れる。こうした戦争遺跡はもとより、その他の史跡も保存に努めて欲しい。保存と言っても案内表示板一つでいい。これが地域を知ってもらう大きなきっかけになることもある。また地域住民に及ぼす影響もあろう。役所にとってそれ程大きな費用ではない。ただ気持ち、考え一つである。
そして作ったら、作りっぱなしではなく、目を掛けて欲しい。壊れたものや見えなくなったものは、その姿勢を問われる。これが結構多いのである。役所であれば担当者も変わっていく。目の付け所も違ってくる。でも、折角作ったものは良好な状態を維持して欲しい。そしてこの姿勢は市町村によって大きく違っている。各地を歩いて回るボクの素直な感想であり、このコメントは以前にも全く同じことを書いていると思う。それだけボクの思いが強いのである。