ha2009

第196号  2020年9月


 

(第3027話) 史跡を保存

2020年09月29日 | 意見

 “第二次世界大戦中、名古屋市緑区の有松駅近くに捕虜収容所があったことを知りました。愛知県内唯一の収容所で終戦時、米英の捕虜約二百七十人がいたそうです。捕虜は同市熱田区の鉄道車両工場で働かされ、電車で通う姿を小説家の城山三郎さん(1927~2007年))が「捕虜の居た駅」でこう書きました。
 「それまでも時々声高に何かどなりながら捕虜の列に附添っていた下士官や警防団員たちが、待ち構えていたように襲いかかるのだ。半靴で蹴上げる。ゴンボ剣と呼ばれていた短い帯剣で、尻や背筋を突く。背伸びして棍棒を振るう者もいた」捕虜たちはひどい扱いを受けながら働いていたのでしょうか。
 私は捕虜収容所があった場所を訪ねてみました。目印はなく探すのに苦労しました。後世に戦争の残酷さ、悲惨さを伝えるためにも同市はここを史跡として指定して、しかと保存し、案内プレートを設置してもらいたいと思っています。”(9月9日付け中日新聞)

 名古屋市の南さん(男・66)の投稿文です。ボクも全く同意見です。地域はどんどん変わっていく。跡形もなく変わっていく。そしてすぐ人間は忘れる。こうした戦争遺跡はもとより、その他の史跡も保存に努めて欲しい。保存と言っても案内表示板一つでいい。これが地域を知ってもらう大きなきっかけになることもある。また地域住民に及ぼす影響もあろう。役所にとってそれ程大きな費用ではない。ただ気持ち、考え一つである。
 そして作ったら、作りっぱなしではなく、目を掛けて欲しい。壊れたものや見えなくなったものは、その姿勢を問われる。これが結構多いのである。役所であれば担当者も変わっていく。目の付け所も違ってくる。でも、折角作ったものは良好な状態を維持して欲しい。そしてこの姿勢は市町村によって大きく違っている。各地を歩いて回るボクの素直な感想であり、このコメントは以前にも全く同じことを書いていると思う。それだけボクの思いが強いのである。

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(第3026話) 東海豪雨の記憶

2020年09月26日 | 出来事

 “たたきつけるような雨は勢いを増し、玄関前は川のようになっていた。広報車が避難を呼び掛けるのが辛うじて聞こえる。半分寝たきりの父を抱え、母と三人で役場二階に避難できたのは深夜だった。幸いにも横になれる場所がありひと安心したものの、避難所には次々と人が到着し、あっという間に廊下や階段も足の踏み場もなくなった。
 ふと見ると、湿った階段踊り場に妊婦さんが一人で力なく座っている。臨月と分かる大きなおなか。小さな荷物一つ抱え、慌てて避難されてきたのだろうと想像がついた。この避難がいつまで続くか、高齢の両親のそぱにいてやらねばと、自分の都合が頭をよぎり、すぐに声を掛ける勇気がなかった。
 十分ほどして、やはり自分の席を譲って差し上げようと行ってみたが、すでにその場にいらっしやらなかった。他の方が席を譲ってくださったのか、役場の方が助けてくださったのかは分からない。今でもたくさん雨が降る夜は不安になる。そしてあの時、すぐに席を譲れなかった己の弱さを思い出しては、いまだに後悔し続けている。あの妊婦さんは、あの混乱の中、無事に出産されただろうか。もしご無事なら、お子さんは今年二十歳になられているはずだ。”(9月7日付け中日新聞)

 愛知県北名古屋市のパート・小島さん(女・48)の投稿文です。東海豪雨は 2000年 ( 平成 12年) 9月11日 ~ 12日 を中心に 愛知県名古屋市 およびその周辺( 中京地区 )で起こった豪雨災害である。今年でちょうど20年である。ボクは、小島さんほどではないが、少なからずその影響を受けた。伊勢湾台風以来の大水害である。11日夕方、職場を出るときはまだそれ程ではなかったと思う。途中で電車が止まり、その後歩いたりタクシーに乗ったりしてほうほうの体で帰宅した。田畑は水浸しとなったが、家にはそれ程の被害はなかった。幸いの方であったろう。
 小島さんは避難された。その時の体験である。とっさの場合、何を思い、どう動くか。その結果どうなるか。このとっさが大きな分かれ道になることもある。小島さんは未だに後悔し続けていると言われる。こう言っては申し訳ないが、たかが知らない人に席を譲らなかっただけことである。それだけ誠実な人である。人間ことあるごとに判断をし、行動をしている。日々どころか時々刻々である。そうした中にとんでもない大きなことが生じている。例えば交通事故に遭うか、避けられるか、一瞬の判断である。こう考えると、日々平穏に過ごすと言うことは、とんでもない幸運に恵まれ素晴らしいことである。話はかなりそれたが、日々平穏はまず感謝すべきことである。最近は全国で東海豪雨並みの災害が多く起きている。心の準備だけは怠らないようにしておきたいものだ。それがとっさの判断になる。

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(第3025話) 芝馬祭

2020年09月24日 | 活動

 “稲で馬を作り、住民の無病息災を願う県指定無形民俗文化財「水法の芝馬祭」の神事が五日、一宮市浅野の白山社であった。芝馬祭は、鎌倉時代にモンゴル軍が襲来した元寇で、浅野地区から派遣された防人が馬に乗って活躍したことを祝って始まったとされる。今年は新型コロナウイルス感染防止のため、小学生男児が芝馬を引き回す祭りを中止。地元住民による芝馬づくりと神事のみを行った。
 芝馬は地元住民らでつくる祭りの保存会が手掛け、イネ科の「チガヤ」で胴体を作り、顔の部分にはナスの目を付けた。奉納後、神主が祝詞を上げて、無病息災や家内安全を願った。奉納された芝馬は、一年間境内で保管する。
 保存会の岸利光会長(七二)は「神事だけでもやらないといけないと思った。来年はコロナ禍が収束し、二年分の厄を集めたい」と話した。”(9月6日付け中日新聞)

 記事からです。この白山神社は、ボクの家の近くでありその前もよく通る。そしてこの祭も知っている。それがこのコロナ禍である。今年は芝馬づくりと神事のみになってしまった。ボクは今年から地元神社の氏子総代を務めている。もう2回行事をやったが、いずれも役員による神事だけにしてしまった。この後秋祭りと年末年始の行事があるが、どうなるのだろう。
 この記事から芝馬祭の起源が鎌倉時代に遡ることに驚いた。県指定無形民俗文化財と言うのも納得である。そして、最近ボクはチガヤの栽培場所を知った。5月頃から近場のウォーキングを始めて、その場所を見つけたのである。その畑に表示してあったのである。嬉しい発見であった。身近なことでも知らないことは多い。そしてそれを知ることは嬉しい。知るも知らないも心がけ次第である。大いに心がけたい。

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(第3024話) おばあちゃんと私

2020年09月22日 | 行動

 “「おはようございます」とあいさつを交わす。まずは親鸞の立像を拝する。木々を渡る風は心地よい。近所の九十五歳のおぱあちゃんと私。ラジオの声に励まされ、二人だけの体操を始める。私は十年来、ラジオ体操を楽しんでいる。体操をすることで、足腰がスムーズに動くことが何よりと思っている。十分のラジオ体操の間、顔を見合ったり、笑ったりしている。
 最高気温は三八度と報道されるが、朝は、ヒマラヤスギ、ケヤキ、桜、とりどりの木々の間を渡る風がすがすがしい。今日の大切な一日の始まりである。この地に嫁いで五十五年、おばあちゃんや多くの人々に学び、今日がある。おばあちゃんは腕を広げ、そよ風をいっぱい吸い込んだ。「気持ちがいい風だなも」と笑う。私もまねをして深呼吸した。体の中を風が通り過ぎてゆく。コロナ禍の今、ただ自分たちの身を守ることに徹している。おばあちゃんもそうだ。
 終戦から七十五年を迎え、おばあちゃんも思いが去来しているに違いない。年代の差はあるが、私も思いがある。朝の日が少しずつ昇る。「また明日なも」と言って、おぱあちゃんは手押し車を押して家へ向かった。”(8月30日付け中日新聞)

 愛知県蟹江町の主婦・二村さん(77)の投稿文です。老婦人2人が、毎朝会ってラジオ体操をする。場所は「親鸞の立像を拝する。木々を渡る風は心地よい。」とあるから寺院であろうか。こんな人もあるのか、全く見上げたものである。タイトルに「おばあちゃんと私」とあるので、何歳のことかと思えば、私は77歳、おばあちゃんは95歳とある。私が40、50なら分かるが、77歳はもう十分におばあちゃんである。自分はいつまで経っても若いのである。95歳と比べれば確かに若い。これはユーモアであろうか。ユーモアのある人は若い。
 人前をはばからず、やりたいことをする、できることをする、こういうことができる人はいいと思う。とにかく活発にする、特に高齢者はこれが必要だ。人前を気にして消極的なるのは避けたいものだ。そして「コロナ禍の今、ただ自分たちの身を守ることに徹している」と言う言葉に、ボクはハッとした。ボクはコロナ禍で何もできないと言って悔やむばかりではなかったか。ボクももう後期高齢者だ。今の時期、身を守ることに徹しているだけで十分ではないか。ボクはほぼ毎日6時半、家の中で妻とラジオ体操をする。そして、朝食等を終えた7時過ぎ、1人で3000歩ばかりの散歩に出る。お墓、お寺、神社等にお参りをして帰る。いい生活ではないか。でもなあ~・・・。

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(第3023話) 祖父江砂丘

2020年09月20日 | 活動

 “木曽川の魅力発信に取り組む団体「mizube38」(一宮市大和町)は25日、稲沢市祖父江町祖父江の国営木曽三川公園ワイルドネイチャープラザ内にある祖父江砂丘で勉強会を開き、専門家から砂丘の保全方法などを学んだ。
 同団体は、2017年に発足。木曽川沿いでイベントを開催するなどして川の魅力を伝え、多くの人でにぎわう場所を創出しようと活動している。勉強会は約10に人参加。参加者たちは砂丘を歩き、名古屋工業大の増田理子教授から、徐々に面積が減少している祖父江砂丘を取り巻く環境や保全に向けた話を聴いた。国内で今も残っている河畔砂丘は少ないといい、増田教授は「祖父江砂丘は貴重な資源。保全には木を生やさないことが大切なので、サッカーをやったり走ったりすると砂が動いて良い」と呼び掛けた。
 参加した稲沢高三年の武山アイリさん(18)は「ここで大運動会を開いて小中学生に興味を持ってもらい、砂丘を維持したい」と話した。団体の高橋武嗣代表(41)は「行政やいろいろな団体と連携し、継続的に人が訪れる場所にしたい」と先を見据えた。”(8月29日付け中日新聞)

 記事からです。祖父江砂丘はボクの近くであり、もう何度となく行っている。一宮友歩会の例会で行ったこともある。川にこんな大きな砂丘ができるのかと、最初見たときはびっくりした。少し調べてみると「昭和63年に木曽三十六景のうちの一つに選ばれ、日本唯一の河畔砂浜ビーチがあり、毎年秋には、稲沢サンドフェスタというイベントが開催されている。砂丘であることを生かし、砂のオブジェの制作・展示を中心として、ビーチバレー・ビーチ・フラッグスなどが行われる」とある。 砂のオブジェは、開催されるときになると必ず新聞に載る。
 少し前を思い出すと、確かに砂丘の面積は減り、草の茂っている部分が多くなっている。すぐ下流に頭首工ができ、上流にはダムができ、砂が運ばれなくなっていることもあろう。貴重な河畔砂丘である。愛知県尾張部の数少ない自然の見所である。こうした勉強会で、認識を広めていって欲しいと思う。この勉強会がどのように広報され、また何人の募集されたのか知らないが、参加者が10人といささか少ないのはこのコロナ禍の中だからであろうか。今年のサンドフェスタも中止のようである。全く残念な気がする。しかし、「mizube38」のホームページを見ると、「今だからできる活動を始めます!」して、いろいろ頑張ってみえることが分った。頼もしい限りである。

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(第3022話) 診療所での思い出

2020年09月18日 | 出来事

 “小学生のころ、胸の張りを感じ、体に異変が起きたと心配になりました。風邪やけがの時にいつも診てもらっていた近所の診療所の男性医師に相談しようと一人で訪ねました。先生はにこにこしながら、私の話を最後まで聞き、「これはあなたが大人になるための過程で病気ではありません。このまま様子を見ましょう」と言いました。今から思えば、胸が大きくなり始めていたのでしょう。お礼を言うと、先生は「心配なことがあったらいつでもいらっしゃい」とにっこり。帰る時もスタッフたちが「お大事に」と声を掛けてくれました。
 帰宅して母に伝えると、「先生が心配ないと言うなら安心だね。良かったね」と。診療所の皆さんもびっくり仰天したことでしょう。かかりつけ医として、子どもだった私の話を真剣に聞き、見守ってくれたことに感謝でいっぱいです。今も忘れられない、ちょっぴり恥ずかしく、幸せな思い出です。先生、ありがとうございました。”(8月25日付け中日新聞)

 「ホンネ外来」という欄から岐阜県の(女・60)の投稿文です。「今も忘れられない、ちょっぴり恥ずかしく、幸せな思い出です」は本当でしょう。こんな思い出を持つ人があるとは、世の中楽しいですね。男性医師の機転もいいですね。スタッフたちの「お大事に」によりは、別の言葉があってもいいですね。「よかったね、子供卒業だね」とか、「「おめでとう、大人の仲間入りだね」とか・・・直接過ぎるか?
 「ホンネ外来」はいつも読んでいますが、お医者さんは大変だと思う。患者は本気で心配です。そんな患者を相手に毎日何十人と対応します。医師は仕事です。仕事だから精一杯思いやりを尽くして欲しい、という希望もあります。でも他人です。知識や技術で尽くしても、いちいち感情移入していたら身が持ちません。ここらがあからさまになると、患者の不信を買います。ボクは仕事、他人と割り切ることだと思っています。そして、感謝です。これで、腹を立てることはほとんどなくなるでしょう。

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(第3021話) かけていいよね

2020年09月16日 | 出来事

 “コロナウイルス拡大で、自粛を心掛ける毎日です。「少し片付けをしよう」と思い付きでやり始めました。茶色の封筒が出てきて、「何?」と思ったら表札でした。木製で厚みがあり、夫と私の名前が書かれています。そうか、嫁入り道具に親が入れてくれたのだ。母が「すぐにかけなくっていいからって言った気が。
 すぐにはかけられないです。夫の両親、弟たちと一緒の生活でしたから。今思えば、大勢で住んでいたと思います。もちろん、風も吹き、波も立ちましたが、壊れるほどでなかったのは義弟たちがいてくれたから。クッションになっていたように思います。子どもの面倒もみてくれました。「同じ釜の飯を食べたから」と、今でも寄ってくれて「元気?」と声を掛けてくれます。
 結婚して四十五年、しゅうとを送って十八年、しゅうとめを送って五年が過ぎます。夫が「もう表札かけていいよな」。私が「聞いてみてよ」。二人で仏壇の前で聞いてみました。夫「おやじ、何も言わんで」。私「そうね、何も言わないね。でもうなずいているよ。かけていいよね」。玄関にかけました。夫と私は親の思いを感じて、表札を見上げました。立派です。”(8月24日付け中日新聞)

 三重県川越町の主婦・井上さん(73)の投稿文です。嫁入り道具で持ってきた表札を、45年後に掛ける、こんな話もあるのか?世の中本当に様々である。表札を持ってきたものの、義父母がいてまだ掛けられない。今の感覚なら掛けられるかも知れないが、当時では無理でしょう。そしてそのまま忘れてしまった。片付けにかかって気がつくとは、少しもったいなかったですね。でも、45年後に陽を見てよかった。遅く掛けた分、長生きして頂いて長く掛けていただきたいものです。
 今は名字が違う2世帯が一緒に住み、2つ表札の掛かっている家をよく見ます。これは男性側が名字の変わるのを嫌ったからでしょう。奥さんの名字に変えた方が自然な気がしますが、これも日本人の変わらぬ意識でしょうか。夫婦別姓の議論もされていますから、その時はどんな表札になるのでしょうか。夫婦2人の名前が記されている表札もありますし、名字だけの表札もあります。多分それぞれの意識の表れでしょう。ボクの家は結婚以来夫婦2人の名前を記していましたが、数年前に作りかえたとき、妻の主張でボクだけの名前だけになってしまいました。本当は長生きする妻の名前した方がよかった気がします。

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(第3020話) アマビエマスコット販売

2020年09月14日 | 活動

 “大口町商工会女性部が新型コロナウイルス退散を願って、疫病封じの妖怪「アマビエ」のマスコットを作った。24日午前10~11時、役場そぱの「MEGAドン・キホーテUNY大口店」で自ら販売し、収益を町社会福祉協議会に寄付する。
 マスコットは14センチ大で色彩豊かなフェルト製。女性部常任委員で縫製業の菊地明子さん(50)がインターネットを参考に原案をこしらえ、委員計六人で形を合わせた。町のシンボルの桜の花を髪に飾って地元感を出している。
 女性部長の仙田孝子さん・(六二)は「盆踊りもできない夏になってしまい、私たちで何かできないかと考えた。アマビエをコロナ感染防止の注意喚起に役立ててもらおうと一針ずつ縫った」と話している。販売は限定五十個で一個五百円。”(8月22日付け中日新聞)

 記事からです。悪疫を鎮める妖怪「アマビエ」、これまで知らなかった人がほとんどであろう。このコロナ禍で一挙に有名になった。これがボクの感じである。そしてボクもまさにその一人である。ネットで調べると、アマビエとは『肥後の海中に毎夜のように光るものが出没する。役人が調べたところ、それは「アマビエ」と名乗る怪物で、六年間の豊作を予言し、病気が流行したら自分の姿を写して人々に見せるようにと伝えて海中に消えたという。 この瓦版には、波間に立つアマビエの奇妙な姿が描かれている。長髪の人魚のようだが、鳥のようなクチバシを持ち、胴体には魚のようなウロコ。3本足ですくっと立っている。』とある。
 実はボクの村の神社がお世話になっている宮司さんの神社に、アマビエに似た人魚の絵が残っていた。それが新聞に載り、またテレビでも放映された。ボクはその絵の写しをもらった。人魚となった神主の娘の絵の添え書きには「私の姿を見た人は絵に写し人に知らせよ。絵を見た人は流行病から逃れて無病息災になる」とある。アマビエと同じ効用である。
 ボクが作っている案山子を、今度はアマビエにできないかと考えている。少しでも似せられないか、そして、新型ウイルス退散にならないか、考えてみよう。

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(第3019話) 戦没者の碑

2020年09月12日 | 活動

 ”「忘却というのは悲しい」。弥富市の元教員、大島静雄さん(九五)は地元の祭りで山車を囲んで街を練り歩く人々を見てそう思った。一行は途中、地蔵にお参りするが、隣に立つ陸軍伍長の石碑には一瞥すらしなかったからという。
 伍長の名は大島源市さん。賢い好青年だったが、若くして中国で戦死した。碑はその両親が建設。だが今、子どもがいない源市さんを知る人はほぼいなくなった。国家や平和のために身命を捨てて尽くしたのに・・・。「でも誰も彼に感謝しないし、碑を訪ねる人もいない」。戦禍の記憶をとどめるため、大島さんは今夏、自身の戦争体験と、住民から聞いた体験談を記録した著書を出版した。
 終盤の章では、同市にあるもう一人の記念碑も紹介されている。元特攻隊長の浅野史郎さん。記者と同じ二十代で、「御国の御為喜んでゆきます」と使命感を遺書に記し、死地に飛びたった。碑はそんな戦時中のいちずな若者の生きた証しだ。そう思うと、素通りはできない。”(8月20日付け中日新聞)

 「モーニング」という記事欄からです。戦没者の碑はよく見かける。いや、至る所に立っている。ボクは、ウォークなどで碑を見ると必ずと言っていいくらい、よく観察する。しかし、戦没者の碑はいつも素通りしている。考えてみるとこれほど失礼なことはない。命をかけて戦い亡くなった人の碑である。日清、日露、そして第2次世界戦争で亡くなった人である。その戦争にどれだけの意味があったか、その後の論争はかまびすしいが、その人たちは命令され、国のためと思って戦わられたのであろう。そして、亡くなった。その人を忍んで、親族や友人、地域の人が碑を立てられたのである。名誉と思う人もあれば、ただかわいそうと思う人もある。しかし、戦争を語る人と同じように、戦争というものを後世に知らしめているのは確かである。
 今の時代、こうした碑の扱いがかなり問題になっていると聞く。その碑の立っている場所に問題なければ、また管理する人がしっかりしていれば問題はなかろうが、そうでなければいろいろ問題が出てくる。戦争は遠くになりにけり、意識も時代も変わる。難しい問題がここにもある。

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(第3018話) 月下美人

2020年09月10日 | 出来事

 “近くに住むめいが七月中旬の夕方、「今夜は月下美人が咲きます」と電話をくれた。開花を待ち望んでいた私は心弾ませてわが家を出た。月下美人はサボテンの仲間で、夜に咲き始めて翌朝までの一晩でしぼんでしまう花だ。
 めいの家に着くと、この夜を待ちわびていたかのようにつぼみがほころんできていた。めいの知人男性二人もやって来ていたが、彼らは初めて見るということで、まるで少年のように瞳を輝かせていた。
 めいが丹精した花は柔かな香りを漂わせながらゆっくりと開いていった。白い花びらは実に気高く典雅で、雄しべも雌しべも真っ白でエレガントだった。貴重な花を真ん中に四人で記念撮影し、幸せをかみしめることができた。”(8月20日付け中日新聞)

 三重県大台町の上平さん(女・78)の投稿文です。今は枯れてしまったが、昔ボクの家にも月下美人があった。そして、このように夜中に起きて観察した記憶がある。写真も残っているはずだ。そう思って調べてみたら、何と川柳連れ連れ草で取り上げていた。それは、2004年9月号で
 「わが家にもあるが、毎年見そびれていた。しかし、今年はその夜咲く気配を感じ、時折のぞきに行った。そして、めでたく写真に納めることもできた。きしくも私の誕生日であった。」とその章の最初に書いている。その使われている写真が撮ったものである。
 花の命は短くて・・・と言うが本当に月下美人は一晩である。それも夜中である。このように開花の時を知って観察してもらわないと見てもらえない。それが月下美人の性質であり、何も人に見て貰うために咲いている訳ではなかろう。しかし、それが人間を喜ばせているのである。あるがままに行って人を喜ばせる、人もこうでありたいものだ。

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(第3017話) シソジュース

2020年09月08日 | 行動

 “梅雨の晴れ間、今年も赤ジソを収穫。昨年畑にこぼしておいた種がいっぱい出て、雨が降るたび、元気よく育ちました。シソの葉を茎から一枚一枚丁寧に取り、何度も洗い、それを鍋で煮出します。その後、葉を取り出して、クエン酸と砂糖で味付けをし、裏ごしして完成です。とても手間のかかる作業ですが、喜びもあります。
 もうずいぶん前のことになりますが、私には忘れられないシソジュースの思い出があります。町内の歩こう大会に参加した時、途中の休憩地でボランティアの人たちから、手作りの冷たいシソジュースをいただきました。その時のおいしい清涼感と、皆さんの笑顔が鮮明に心に残っています。
 年を重ね、全部自分一人でやるのは大変ですが、今年も無事にできました。家族や友達に飲んでもらうのが、喜びの一つです。コロナ禍でステイホームといわれている時ですが、いつもの夏と同じように夢中でやれることがある。そしてやれたことで、小さな幸せを感じています。夏パテ防止や疲労回復にもいいと聞いています。今年も手作りのシソジュースを飲んで、暑い夏を元気に乗り越えたいと思っています。”(8月14日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の主婦・野田さん(69)の投稿文です。わが家も全く同じ状況です。こぼれ落ちた種から生えてくるのも同じです。それを摘んで、妻もこのような手順で作ってくれます。もう何十年となるでしょう。当然今年も飲んでいます。酢のせいでしょうか、氷を入れて飲むと全く爽やかです。今年のように暑い夏はうってつけです。こう言うと叱られるかも知れませんが、へたに買ったジュースよりよほどましです。
 数年前までは梅の木もあり、梅酒も作ってくれました。また梅干しも作っていました。梅干しを作ると赤シソが要ります。その赤シソを干して粉々にし、ふりかけにします。こう考えるとシソは全くありがたい植物です。こぼれ落ちた種で十分生えてくるし、その後の世話も全くありません。放っておいて十分に育ちます。

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(第3016話) ひまわり畑

2020年09月06日 | 活動

 “稲沢市の稲沢青年会議所が今年整備した同市祖父江町祖父江のひまわり畑が、見ごろを迎えている。照り付ける太陽の下、一面を鮮やかな黄色に染め、同会議所の会員たちは「夏の風物詩として、稲沢の新たな観光名所になってほしい」と期待する。
 まちづくりの一環で企画。会員が畑として使っていた借地を活用し、約二千平方びに約一万本を植えた。畑の中には高さ約二メートルのやぐらも設置し、ひまわり畑を一望でき。会員交流サイト(SNS)などで話題となり、咲き始めた八月上旬以降、市内外から見物客が訪れている。
 要望が多ければ、来年度以降も継続を検討し、地元の子どもたちも巻き込んで取り組んでいく。同会議所の大谷典央理事長(三九)は「コロナ禍で落ち込んでいる社会を少しでも明るくして、癒やされるような場所になってほしい」と願った。”(8月12日付け中日新聞)

 記事からです。空き畑を花畑にして観光地化する、こんな事業が各地で広がっている。ボクもツアーで時折出かけた。それがボクの近くでも始まっていた。嬉しいこことである。
 この事業にはいろいろなメリットがある。まず耕作されなくなった畑の活用という面である。放っておけば耕作放棄地である。草が生い茂ることもある。またこの事業には地域の人の結集が必要である。いろいろな行事がなくなり、地域の集まりも少なくなった。このコロナ禍でますます地域活動は希薄になっていくだろう。そんな中で、新たな集まりの場になるだろう。今年は青年会議所の会員だけであったが、来年以降は地域の子供たちも巻き込んでいこうと考えておられる。そうなれば大きな活動の場になるだろう。そして観光名所になれば、更に新たな発展も起きよう。まさに町興しである。
 ボクは青年会議所の会員になったことはないが、青年会議所と関係を持ったことはある。ここは大きな力がある。この力を地域で大いに発揮して欲しい。ここが頑張れば地域は変わる。期待したい。

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(第3015話) 天国からの贈り物

2020年09月04日 | 行動

 “断捨離で、押し入れに眠っている来客用座布団を処分しようと処分方法を調べ、可燃ごみで捨てる準備をした。でも待てよ、捨てるにはもったいない。携帯で検索して街の布団屋さんに電話。綿なら打ち直して布団を作ったらと提案され、すぐ車に座布団を積み、お店へ走った。
 店主はその座布団を見て、昔自分が作ったものだと言う。お店の古い地図には、わが家の場所に、十八年前に亡くなった父の名前があり、赤い印がつけてあった。三十年以上前に、両親が座布団を注文して、その後も敷布団の打ち直しをお願いしたようだ。
 今は布団でも量販店が増え、安い布団を買って、古くなったら買い替える人も多い。昔から綿布団の良さを知っている人は、綿を何回も打ち直してもらっているが、職人さんが激減しているそうだ。モノを大切にする教えを思い出した。私は持っていった座布団の綿を打ち直し、掛け布団へのリフォームをお願いした。
 帰り道、今日が母の月命日だったと気付いた。たまたま電話した布団屋さんで、思いがけなく懐かしい父の名前を見つけ、亡き両親に会えた気がした。一週間後、届けられた新品同様のふかふかした布団は、天国からの贈り物だった。”(8月12日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・飯田さん(59)の投稿文です。綿布団の打ち直し、これもボクはもう忘れかかった言葉である。座布団の綿を打ち直して、掛け布団を作る。近年ではなかなか聞かない話ではなかろうか。それもその座布団を作った店という奇遇もあった。いい出会いだったと思う。
 ボクの家でも綿を打ち直して布団を作り直したことがある。その記憶で、妻に問いかければ、嫁入り道具であった敷き布団の綿を打ち直して再度敷き布団を作ったという。その話から、更に子供の頃の話になった。その頃は、母親が買ってきた綿で敷き布団や掛け布団を作ったのである。妻にもボクにもその光景の記憶があった。今では打ち直しのできる綿も少なくなったという。時代は変わる。飯田さんは天国からの贈り物と言われる。押し入れの中で眠っていたからこそ贈り物であったろう。古いものに良いものはいくらもある。断捨離断捨離と捨てるばかりでなく、その前にもう一度活用を考えてもよかろう。

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(第3014話) 戦争は愚か 

2020年09月02日 | 出来事

 “私は憧れの女学校に通うため父とおばと岐阜市内に住んでいた1945(昭和20)年7月9日、岐阜空襲に遭いました。「ヒュー、ドカンドカン・・・」ー。爆音を響かせて編隊で飛行した米軍機B29は焼夷弾を次々と落とし、私は防空壕へ逃げ込みました。しかし壕にいるのも危険だと感じ、私は外に出て皆が逃げる方へ走りました。長良川の堤防に上ったら、「お嬢ちゃん、こちらへいらっしゃい」と声を掛けてくれた方の布団をかぶって焼夷弾の破片から身を守りました。地上でわが軍が応戦することは全くありませんでした。
 夜が明けて自宅へ戻ると家は跡形もなく、一升炊きの釜がぼつんと転がっていました。家も女学校の校舎も一晩で灰になってしまいました。同居していたおばと二人で母が住む家までの14、5キロを歩くしかありませんでした。戦争ほど愚かなことはありません。この世界が平和で仲良く過ごせることを祈るばかりです。”(8月10日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・真鍋さん(89)の投稿文です。第二次世界戦争の終盤は日本国内で行われ、負けが濃厚になったときの真鍋さんの体験談である。その悲惨さはこれを読んだだけでも凄いのに、本人にしてみればまだ言い尽くせないのではなかろうか。「戦争ほど愚かなことはありません」と言いきられる言葉にそれを感じる。
 戦争は自国内で行われれば、勝っても負けても住民に被害が及ぶ。その被害は生死に絡む壮絶なものである。他国内で行えば侵略である。侵略が良い訳がない。戦争は勝っても負けても「戦争ほど愚かなことはありません」をよく心しておく必要がある。
 戦争の悲惨さを体験した人が少なくなってきた。体験で知ったと話で知ったには雲泥の差がある。その話で知ったも少なくなっていく。国を考える人は国対国で考える。その時住民のことは抜けがちである。戦後75年、少しずつ戦争ができる国に向かっている気がする。今コロナ禍で騒いでいる。その中で「自粛警察」が広がった。市民の相互監視である。ある方向に流れ始めたら一挙にその方向に流れる、日本人にはこの傾向が強いという。これがまた気になるところである。「戦争ほど愚かなことはありません」、少しでも国を戦争から遠いところに置いておく必要があると感じています。

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柳&ウォーク