ha1908

第183号  2019年8月

 
 

(第2834話) 孫の一人旅

2019年08月31日 | 出来事

  “川崎市に住む中学校一年生の孫息子が夏休みに入ってすぐ滋賀県米原市のわが家に初めて一人で遊びに来ました。数日後、米原駅から新幹線に乗って帰途に就きました。孫は新幹線車内の三人掛けの通路側の席に座り、その後眠りに落ちたといいます。下車する新横浜駅到着の目前、通路を挟んで座っていた夫婦連れらしい一人組に起こしてもらったそうです。
 この二人組は一人で乗り込んだ孫を気に掛け、いろいろと話し掛けて降りる駅を聞き出してくださったとか。孫から聞く限り乗り過ごしてもおかしくないケースだっただけに、のんびりとした性格の孫にはとても良い社会勉強になったはずです。その節は本当にありがとうございました。”(8月11日付け中日新聞)

 滋賀県米原市の田中さん(男・67)の投稿文です。こういうさりげない心配り、親切には全く感心する。子供の一人旅だから気にかけてあげないといけない、と思われたのであろう。このご夫婦はそれだけ周りのことに関心を持たれる方なのだ。他人には無関心な世の中である。それだけにより感心する。
 昔に比べれば、多くのことを自分一人でできるようになった。人の助けがあまりいらなくなった。そうなると人が煩わしくなる。どんどん一人の世界に入っていく。すると周りが見えなくなる。自分勝手になる。世の中そんな流れの気がする。ところが一方、恵まれた分、人に優しくしたり、ボランティアに精を出す人も現れる。自分の行動を人の喜ばれることに見いだし、自分の喜びとする人も現れる。何か両極端になっている気がする。

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(第2833話) スイカとシジミ

2019年08月29日 | 出来事

  “子供のころの私は体が弱く、両親の心配を一身に集めていた。中学に入ってすぐに、腎臓を患い、半年以上寝たきりの状態となり、近くの医者の得意先になった。食欲のない私に何かを食べさせようと、父親は季節外れのスイカを求め、当時珍しかった温室から手に入れた。高価な物だったそうで、きょうだいの多い中、私一人に食べさせてくれた。体の弱い私は中学一年生を二回経験する。
 高校受験を控えた中学三年時には、肝臓病にも見舞われた。修学旅行に行く級友を見送って惨めな思いもした。そんな折、いつもそろって学校に行く二人の友達が、自分たちで採ってきたシジミを私の母親に差し出してくれた。シジミが肝臓に良いと知って、 採ってきてくれたのだ。 寒い中、冷たさで真っ赤になった二人の足を見た目は、その優しい気持ちに打たれ、涙にくれたそうである。「公博はすばらしい友達を持って幸せだねー」と、ことあるたびに言っていた。
  何とか高校に入れたのを機会に、医者や親たちの反対を押し切り運動部に入部、激しい鍛錬に耐えて元気になった。スイカとシジミを前にすると、胸の奥から込み上げるものがある。二人の友達も元気でお付き合いをしており、感謝の気持ちでいっぱいだ。”(8月10日付け中日新聞)

 浜松市のアルバイト・氏原さん(男・78)の投稿文です。半年以上寝たきりや、 中学一年生を二回経験するなど弱い少年が、今や78歳である。肝臓や腎臓も患ったという。肝腎かなめのところを患われたのである。人の命は分からぬものである。その氏原さんの少年時代の思い出、温かい話で生涯忘れられないのだろう。父親が求めた季節外れのスイカを独り占めで食べた思い出。兄弟からは誰も文句を言わなかったのだろうか。シジミが肝臓に良いと知った級友が、寒い中採ってきてくれた思い出。母親が「すばらしい友達を持って幸せだねー」と、ことあるごとに言われるのも、決して忘れていけない、という思いからであろう。
 人は一人では生きていない。多くの人に囲まれて生きているのである。優しい人も意地悪な人もあろう。肌が合う人も合わない人もあろう。共に上手に受け入れたいところではあるが、なかなかそのようには行かない。人間関係で悩む人は多い。ノイローゼになったり、職場を辞める人もある。まずは謙虚に対応することだろう。そして、自分の行く道を見つけることだろう。生やさしくはないが、助けてくれる人はある。 

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(第2832話) お磨き

2019年08月27日 | 行動

  “ 「郡上おどり開幕」との新聞記事を読み、思わず郡上節を代表する「かわさき」を口ずさんだ。この曲は農耕の所作を振り付けた踊りのようで、何となく郷愁を覚え、心に染みる歌である。農耕といえぽ、昔は多くが手作業。八月に入りやっと農閑期になり、家々では月遅れの盆を迎えるため、仏壇の掃除を始める。縁側に新聞紙を広げ、その上へ仏具を出し、くしゃくしゃにもんで柔らかくした新聞紙に、専用の白い磨き粉をつけて磨く。私が幼いころ、この「お磨き」を、母と姉の三人で、クマゼミがシャーシャーと鳴き立てる声を聞きながら、朝の涼しいうちに済ませていた。
 私には五人の兄がいた。長兄と次兄は昭和十九年に戦死している。母はお磨きをしながら「もう一年早く戦争が終わっていれば、あの子たちは死なんですんだのに」と悲しそうに話していた。もっと悲しそうに話したのは、次兄の出征の日のあいさつである。門口で「ほな行ってきまっさあ、靖国神社で会いまひょな」の言葉を残し、ひようひようと出て行ったそうだ。七十年も昔の話であるが、今でも泣けてくる。
 もうすぐ盆が来る。年老いた姉と、今は二人しか知らない話をしながら、郷里の墓参りをしたい。”(8月8日付け中日新聞)

 名古屋市の金田さん(女・81)の投稿文です。「お磨き」という言葉に惹かれて紹介しました。この言葉を聞き、我が家ではもう何年も前に忘れた言葉になってしまったな、そんな思いです。母が生存したいた頃には、お磨きは年中行事でした。金田さんが書かれているように、まずは古布に磨き粉をつけて磨き、仕上げは新聞紙です。ボクの近郊では、11月下旬頃に住職が「お仏事」と称して、お経を上げに来ました。それに併せてお磨きをしていた記憶です。母とこれをするのが慣例でした。お盆にもお磨きをしていただろうか、これは思い出せない。そして、お磨きをしなくなったのは、多分、前の住職が亡くなり、お仏事に来られなくなった頃からだろう。来客がなくなって、手を抜いてしまったのです。こうして思い出すと、妻と二人で10年程度はしていたことになる。縁側で二人、仏具を磨きながら何か話しをしていたのだ。良い風景だ、懐かしくなる。仏事に関わることは、何か安らぎにつながる気がする。
 こうしたことや、子供や孫が大きくなってしなくなった行事も多い。日常にメリハリがなくなっていく。それが時間を早く感じる原因でもある。こうなれば夫婦二人の行事を考えねば、と思う。

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(第2831話) 公共交通機関で

2019年08月25日 | 行動

  “近所のスーパーにさえ長年車で行ってきたのに、昨年秋に車の連転免許証を返納してからわが生活は一変した。公共交通機関を利用しなければどこにも行けないことを逆手に取って、時に迷い道をしながら、これまでの思い出の地を巡っている。
 七月中旬には岐阜市の長良川沿いにあるすし店を訪れた。五十年ほど前、それこそ出会ったばかりの妻をトラックの助手席に乗せて出掛け、昼食を取るために立ち寄った店だった。記憶を頼りに電車とバスを乗り継いでたどり着いた店の構えほすっかり新しいものとなっていた。刺し身の盛り合わせとノンアルコール飲料をいただきながら一人で思い出に浸り小一時間を過ごした。あのときの大将は八十代となり、息子に代替わりをしていた。今度ほぜひ妻と来たいと思った。
 ハンドルを握らない、こんなゆったりとした旅は発見の連続でなかなか乙なものだ。”(8月5日付け中日新聞)

 名古屋市の福田さん(男・78)の投稿文です。運転免許証返納は、そう遠くない我が身のことだけに関心が行く。そこでいろいろな例を度々取り上げることになる。返納すれば、人の車に頼るか、公共交通機関か自転車か、ということになろう。福田さんは公共交通機関を楽しんでいると言われる。確かに車ばかりだった人には電車もバスも目新しい発見があろう。旅ともなれば時間をそれほど気にせずにすむし、目新しい風景を楽しむこともできよう。大いに楽しんでほしいと思う。
 さて問題は日常である。これは住環境に大きく左右されるだろう。まずは食料などの日常の買い物である。そして公共施設等の利用、用事である。歩いて十数分ほどで行ける人はいい。これはかなり恵まれた人である。バスなどの公共交通機関が身近な人もいい。これも恵まれた人である。日常で片道1時間、往復2時間はきついであろう。自転車は30分も走ればかなりの距離が行ける。車を手放した人には最適であるが、これが危険である。規則では自転車は車両で原則車道を走ることになっているというが、車道を安全に走ることができる道路がどこにあるというのだろう。ボクのところでは、歩道を歩行者優先の気持ちで気をつけながら走るのが今のところ一番実際的でいいと思う。さてその時はいつか・・・。

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(第2830話) 聖火ランナーへの思い

2019年08月23日 | 活動

  “2020年の東京オリンピックの聖火ランナー募集が新聞、テレピで報じられています。私は長野オリンピックの聖火ランナーとして走った経験があり、知人から「再度挑戦しますか」とよく尋ねられますが、返事は「ノー」。膝関節症で治療中だからです。声を掛けてくださった皆さんには、「素晴らしい経験になり、一生の思い出になるから、ぜひ応募して挑戦してほしい」と答えています。
 長野オリンピックで応募した動機は二つあります。一つは、中学生のころの岐阜国体の記憶。炬火リレーの隊列が、赤々と燃え上がるトーチを持ち、通過するのを見て、「この炬火は町から町へ、人から人へと熱い思いをつなげ、会場でさらに大きな炎となり、皆さんへのエールとなるのでは」と想像しました。
 もう一つは、走る楽しさを知ったこと。幼いころから運動嫌いで、特に走ること苦手でした。でも、高校のマラソン大会で、遅くてもコツコツ地道に努カすれば、完走できる達成感を味わいました。オリンピックはスポーツの祭典です。運動嫌いな私でも、聖火ランナーとして少しでも関わることができ、最高の喜びを体験しました。家に飾ってあるトーチを見て、「今日も頑張るわよ」と気合を入れる毎日です。”(8月1日付け中日新聞)

 岐阜県恵那市のパート保育士・阿部さん(女・68)の投稿文です。聖火ランナーとはいい体験ですね。これはしようと思っても、そのチャンスがなければできないものです。阿部さんはそのチャンスをきちんと捉まえられた。運動は嫌いであった。でもコツコツ努力して自信を持たれた。それが応募する気持ちを起こさせた。この努力がなければこのチャンスはつかめなかったかもしれない。今もトーチは自宅に飾ってあると言われる。これが毎日の励ましの元になっている。聖火ランナーの体験は今も生きているのである。ボクにそのチャンスはあったろうか。あったかもしれない。でもそれは自分には無縁のものと思っていたろう。
 ボクは昔からよく言ってきた。毎日のようにいろいろなチャンスは舞い込む。それをどう受け止めるかである。全く気づかずに済ますのか、気づいても自分には無縁とやり過ごすのか、興味を持って対応するのか、結果は大きく違ってくる。例えばボクにとって川柳とウォーキングはライフワークになっている。川柳を始めた起因は、ホームページの川柳のページにも書いているが、誰に勧められたわけでもなく全くいたずら心から始まった。それでもう40年である。ウォーキングは人から誘われて参加するようになったが、これも今や30年である。ここはやはり好奇心と野次馬根性であろうか。

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(第2829話) 難局タクシーに救われ

2019年08月21日 | 出来事

  “来春に短大を卒業する予定の娘が先日、第一志望とした地元企業の入社試験を受けました。一次試験は無事通過しましたが、二次試験の知らせが届いた途端、寝たきりだった義母が突然亡くなりました。その告別式が何と二次試験の日に重なってしまいました。このため娘は斎場から試験会場まで向かわなければいけなくなりました。この間は車でも三十分ほどの距離です。喪主の夫や私は斎場を離れることができず、いくら娘のためとほいえ親戚にも頼めません。
 そこで地元のタクシ一会社に相談してみました。タクシー会社は急な依頼にもかかわらず、実に的確な対応をしてくれました。早くから斎場に詰めて娘を自宅に送り届けそこで喪服からスーツに着替えて軽食を取る間も待機し、二次試験の会場まで行ってくれました。おかげで娘は落ち着いて面接を受けられたそうで、内定をもらうことができました。”(7月27日付け中日新聞)

 愛知県蒲郡市のパート・尾崎さん(女・50)の投稿文です。良いタクシー会社に、また良い担当者に出会われれた。娘さんはおばあさんの葬儀に参列し、試験にも間に合い、内定をもらわれたのである。一番良い形で収まった。この出来事は尾崎さんの娘さんの人生を左右したかも知れない。
 この場合、いろいろな選択がある。葬儀に参列せず、二次試験を受けに行く。たとえ合格しても、参列しなかった事はいつまでも心の重荷になるだろう。会社に事情を話し、二次試験を後日にしてもらうよう、頼み込む。認められるかも知れないが、入社しても、そのことでいつまでも不利に扱われるかもしれないし、いつまでも言われるかも知れない。人は毎日毎日、いろいろな判断をしながら、いろいろな選択しながら生活をしている。その判断や選択がよかったのか、小さな事もあるし、時には大きな事もある。この選択で人生が全く違ってしまう事もある。こう考えると、今こうして生存できることは全く幸運なことである。

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(第2828話) 先生の一言 

2019年08月19日 | 出来事

  “小学四年生ごろの忘れられない思い出です。当時、子供向けの青やピンクのかわいいショルダーバックが出回っていて、遠足にはそれを下げていくのがはやっていました。買ってほしくて親にしつこくねだるも「皆のはピニール製やけど、お父さんのは革の上等品やで」と言いくるめられました。当日、両親がそろって見送ってくれた姿を鮮明に覚えています。今にして思えば、買ってやれない切なさと、いつ、私が「休む」と言い出すか分からないハラハラした気持ちが交錯してのことだったのでしょう。
 暗い気持ちで学校に着き校庭に並んでいると、点呼のため先生が私の前に来られ、開口一番笑顔で「おっ、いいかばん待って来たなあ。本革や、先生もほしいわ」と皆の前で言ってくださったのです。その一言で今までの鬱積した感情が、一気に吹き飛んでいってしまいました。小さな体に不釣り合いな大きなバッグを下げて浮かぬ顔をしている私を見て取り、事情を察知されたのでしょう。
 最近、同級会を開いた下級生から先生の近況を聞いたとき、遠いあの日がよみがえってきました。私も同級会は何回か出席しましたが、先生にはお目にかかれずにいます。川崎先生、あの時は本当にありがとうございました。”(7月25日付け中日新聞)

 滋賀県長浜市の主婦・中井さん(73)の投稿文です。幼い頃は素直だけに、先生の一言をそのまま受け取り、与える影響は大きい。中井さんは、中井さんの両親は先生の一言で救われた。先生は生徒の姿や気持ちをよく見ていた。そして、機転である。良い先生に出会われたと思う。
 中井さんはボクと全く同年代、小学4年生と言えば昭和30年くらいのことである。当時はまだ本当に貧しかった。ボクの家は農家だったから食うには困らなかったと思うが、買うと言うことを知らなかった。そして、一度買えば大切に使ったものだ。貧し中にも人並みにできる家庭とできない家庭があった。それは今でも同じであろう。本当はそうであってはいけないと思うが、人間は比較で気持ちを大きく左右される。人並みにできればまず良いし、以上であれば幸せである。できなければ、不満、不幸である。比較している限り、いくら豊かになっても不満な人は生まれる。こう思うと、一億層中流という時代はよかったろう。安易に満足ばかりしていてはけないが、ことによると思う。ボクのような歳になれば、自分自身については満足ばかりで良い。不満は一つでも減らして終末を迎えたい。  

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(第2827話) 淡い青春

2019年08月16日 | 出来事

  “一九四四年、十四歳で名古屋の軍需工場に入社した。職場の前には、研究室があった。よほど大切なのか、窓は閉ざされたまま。かっぷくの良いおじさまが窓越しに横切るのが見えるばかりだった。
 六月終わりの朝、珍しく窓が開き、若い男性が爽やかな笑顔をくれた。とっさのことに驚いた私は、何も返すことができなかった。同期の仲間に話すと「私らも見たい、どんな人?」とたちまち話題になった。まもなく、その男性と昼休みに時々会えるようになり、私たちのざれ言も笑顔で聞いてくれ、みんな元気になったり空襲の恐怖と空腹に耐える私たちには天使のような人だった。
 八月の暑い日、職場を出ると、その人がいて突然「第二研究室まで一緒に行こう」と言われた。しばらく歩くと「少しだけ時間大丈夫?」と聞くのでうなずくと、細い路地の小さな空き地に行った。桃色の花が咲いていた。「きれいね」と言うと「これオシロイバナって言うんだよ」と、黒い実をつぶし私の頬につけた。みんなに話したかったが、胸に大切に秘めた。
 四五年春、その人は突然消えてしまった。召集なのか、天に召されたのか、知るすべもなく、戦争を恨んだ。今もオシロイバナの咲くころ思い出す。幸せと、悲しみを。”(7月21日付け中日新聞)

 静岡県浜松市の主婦・仲田さん(89)の投稿文です。ボクにはこの文はどう読んでも、若い男性が仲田さんに焦がれ、話す機会を作り、そして相思相愛になった、としか思えない。そして戦争は無残にもそんな仲の二人を引き裂いた。89歳になった仲田さんは今でもそれを思い出す。そんな青春のあったことの幸せと、そして結ばれなかったことの悲しみが忘れられない。こんな話を聞くと全くやりきれなくなる。戦争とは全くむごいものであり、愚かな行為である。
 昨日ボクは、自伝的フィクション小説として「青春放浪記(その1)」をホームページに掲載した。どこまでが事実であり、どこからがフィクションか、それは読んでいただいた人にお任せするが、ボクに恋愛時代があったことは事実である。そして苦労はあったが結ばれた。平和な時代であったおかげである。
 戦争を語れる人が減っていく。この時期だからか、投稿欄には戦時の思い出を語る高齢者の投稿文が多い。戦争は勝っても負けても一般国民には不幸だ。二度としてならない。戦争など日本が起こすわけがない、と思っている人も多かろうと思う。が、ボクは一斉に一方になびく日本人の国民性として、その危険性は十分にあると思っている。事実今はもう少しずつ戦争ができる国に動き始めている。

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(第2826話) 夏に大事「かきくけこ」

2019年08月14日 | 知識

  “地元の社会福祉協議会が月に二度開く高齢者向けのサロンで熱中症予防のための策をいろいろと教わりました。「かきくけこ」を心掛けると良いそうです。「か」は換気をして常に風通しをよくして傘で日陰をつくるようにします。「き」の休憩や休息を十分に取り、「く」のクーラーは上手に使うようにします。「け」は健康管理で体調に合わせて食べ物や服装などを調整し、「こ」は小まめな水分補給です。
 このサロンでは手足を動かす軽い運動や認知症予防の脳トレにも取り組んでいます。「かきくけこ」の実践も合わせて熱中症を吹っ飛ばし、この夏を乗り切りたいと思っています。暑さはこれからが本番です。皆さん、くれぐれもご自愛ください。”(7月20日付け中日新聞)

 福井県敦賀市の増門さん(女・85)の投稿文です。今年も熱中症の事故が頻発し、騒がれています。特に死に至るのは高齢者が多そうです。暑さに体が鈍感になることがあるようです。そんな中、増門さんはその対策として「かきくけこ」の心がけをサロンで聞かれました。どれも一理あるでしょう。覚えやすいように「かきくけこ」です。ボクもこの歳になって、横着で事故を起こしてはそれこそ笑われものですから、今年は特に気をつけています。今年くらい、自宅のクーラーをかけて過ごしたことはありません。外仕事も気になりますが、最小限にしています。熱中症は突然やってきます。もう10年以上前になるでしょうか、ボクは熱中症になったことがあります。まだまだ用心をしなければならない気候が続くでしょう。この夏も無事乗り切って秋の楽しみに向かいたいと思っています。

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(第2825話) スイカ

2019年08月12日 | 行動

  “夏の風物詩といえば、スイカが頭に浮かぶ。毎年、家庭菜園でスイカを作るのが楽しみである。一番おいしかったスイカの種を取っておいて、翌年春に少しずつ順にまいていく。すると、孫たちが夏休み中食べられるくらい、三十個ほどはできるのである。
 しかし、今年は同じように種をまいても、芽が全然出てこない。普通なら一週間から二週間たてば、小さな芽が出てくるはずなのに、一ヵ月過ぎても出てこない。腐ってしまったかと思い、何度もまいたが出てこない。今年はどうなっているのかと諦めていたところ、次から次へと芽が出てきた。
 夏までに間に合うかしら。「天候次第だよ」。スイカが言っているように聞こえる。今年は雨の日が多い。少しでも太陽が見えると、かぶせたビニールを広げ、お日さまの光を入れ込む。「早く大きくなーれ」。まるでわが子を育てるようである。早く梅雨が明けてほしいと願っている。  昨年秋、弟が入院していたとき、「スイカが食べたいなあ」とひと言つぶやいた。「今年は終わってしまったから、また来年、待っててね」しかし、彼はもう二度とスイカを食べられない。約束していたのに、残念でたまらない。せめて仏前にお供えしてあげたいと思っている。”(7月19日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・恒川さん(67)の投稿文です。ボクも毎年スイカを作っている。苗屋さんで5本ばかり買ってくる。スイカの苗は高い。ビニールをかけ、丁寧に育てる。今年は天候不順であったが、それでもいくつかなってくれた。今毎日のように食べている。
 この文で気になったのは、「一番おいしかったスイカの種を取っておいて、翌年春に少しずつ順にまいていく。」というところである。スイカの種も取っておけば、作れるのか?。ボクはかなりの野菜を自作の野菜から種を取り、翌年蒔いて作っている。種などいくらでも取れるから躊躇なく蒔く。だから安く、食べられないほどできる。でも、スイカは無理と思っていた。恒川さんのこの文から、来年はボクも試みてみようと思う。いろいろ知ることは新たな挑戦と楽しみをもたらしてくれる。
 それにしても、恒川さんにはつらい年になりました。お姉さんのスカイを楽しみしていた、弟さんが亡くなられた。もう次はなかったのである。前々回に載せた「同窓会に出て」でも書いたように、明日は知れないのが人生である。「明日死ぬと思って生きなさい」である。

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(第2824話) 快適な遊歩道 

2019年08月10日 | 活動

 “近所の遊歩道で黙々と草取りをする七十歳の男性がいる。昨夏の昼すぎ、仕事を終えての帰宅途中に見かけ、その後も連日のように姿を見た。聞けば男性は少し離れたところに住んでいる。散歩で通った遊歩道は雑草で覆われていて、それを避けるためか自転車の学生が車道を走っているのを見て危ないと思ったそうで、それから草取りを始めたという。
 「草取り後の酒は実においしい」と言っていた。スコップを握る手は血だらけだった。男性の草取りは秋口まで続く。姿を見ない日は体を壊していないかと心配になってくる。遊歩道が随分きれいになったからか、男性によると先の自転車の学生は遊歩道を走行するようになった。”(7月14日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市のパート・成瀬さん(女・76)の投稿文です。道路の草取りをする、奇特な人であ る。道路だからと言って、役所任せにはできない。そんなことしていたらいくら税金があっても足りない。こういう人があって世の中スムーズに行くのである。
 実はボクも少ししているのである。昨年、ボクの近くの堤防が舗装され遊歩道にされた。この事業推進にボクも少し関わった。それもあって、ボクの日課にこの遊歩道を歩くことも加わった。夏ともなると両脇の草が大きくなり、蔓草が伸びてくる。そこでボクは時折剪定ばさみを持っていって切ることにした。またそこへ行くまでの道が気になるようになった。草が倒れてきて、道を狭くしている。人も車も当然そこを避ける。結局道路幅が半分になってしまって危険である。ついでにそこも刈っていくことにした。まもなく管理者で草が刈られるだろう。その時まで続けようと思っている。
 ここに紹介された70歳の男性は草取りが日課になっているようだ。こういう人がみえれば、世の中少しずつでも違ってくる。いい方向に向かうことを期待したい。それに比べればボクはささやかなものだが、ボクも心がけたい。

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(第2823話) 同窓会に出て

2019年08月08日 | 行動

  “高校の同窓会に行きました。私たちの学年は本年度七十五歳になり後期高齢者の仲間入りをします。健康に留意してノンアルコール飲料を注文する人が少なくなく、それぞれが患った病歴が話題に上る場面が多かった気がします。それでも昔話や人生の苦労話、妻には言えないような悩みや近況など何でも話すことができました。数年前まで特に理由もなく同窓会を欠席してきたことがもったいなく思えてきました。
 地球上に生まれた以上、家から一歩も出ないで一日が終わるような人生はつまらない。同窓会に出席するようになって皆と話すうちにそう感じるようになりました。新しい出会いを求めて積極的に外に出て、人生をもっと楽しもうと考えています。”(7月11日付け中日新聞)

 三重県四日市市の農業・藤井さん(男・74)の投稿文です。「家から一歩も出ない人生はつまらない。同窓会に出席するようになってそう思った。」と言われる藤井さん。同窓会に出てそう思われたというところが気を引いた。それほどに良かったのであろう、開眼されたのである。小中学の同窓会長を長年務めている私には嬉しい言葉である。来ない人はなぜ来ないのだろう。嫌な思い出や嫌いな同級生がいるのであろうか。そういう人がないとは思わないが、多分多くははこれはという理由はないのではなかろうか。忙しいときや元気なときは同級生など特に意識なく過ぎていく。しかし、老いるほどに小さい頃が懐かしくなるときがくる。ボクはそう思っている。藤井さんがそうであろう。
 小学校は1年おきに、中学校は毎年開催するようになってもう15年以上たつ。毎年開くといったときに多くの人は驚いた。毎年開いたら、1回の参加者が少なくなると心配したのだ。確かにそれはあるだろう。毎年なら、今年行かなくても来年行けばいい、と思う人があっても当然だ。でもボクは機会を多くした方がいいと思った。次行こうと思っていたら開かれなかった。今年ならまだ行ける、同窓会などどうでもいいと思っていたが急に行きたくなった、ということもあろう。

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(第2822話) 私の正信偈

2019年08月06日 | 行動

 “毎朝七時、仏間に「正信謁」のテープが響きます。このテープは菩提寺の先代住職の懐かしい声のお経です。梅雨晴れの今日は夫の三回目の月命日です。毎朝のお祈りの作業も慣れてきて、家族の手を借りなくても手順よくできるようになりました。  経が終わるまで遺影といろいろお話をします。聞きたいこともまだいっぱい。遺品の整理も思い出が手を止め、なかなかはかどりませんが、少しずつ進めています。夕方は庭の花の手入れを終え、夕げの支度にかかります。一人のメニューにも今日は美食家だった夫の好物を一品加え、少し豪華にします。膳のまま仏前に供え、お祈りの準備を入念にして私の正信渇が始まります。まだ住職のテープについていけないので、経本を読みながらです。声もよく出るようになり、あとは節回しですが、カラオケのようにはいきません。
 初盆までには上達したいな。「下手なお経で天国行きの邪魔になりませんか」と話しかけると、遺影は苦笑いしているようです。経が終わるころ、窓には美しい夕日が沈み、今日一日の無事に感謝の手を合わせます。冷めた夕食を食べながら、中日ファンだった遺影の夫と二人、ナイターの交流戦を観戦しています。”(7月10日付け中日新聞)

 岐阜県八百津町の伊藤さん(女・82)の投稿文です。ご主人が亡くなってまだ三月ばかりである。82歳、この短い期間で、こんな投稿文が書けるまでよく立ち直られたと思う。これも正信偈のお陰であろうか。正信偈とは、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文で、真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものである、とある。
 ボクの家も浄土真宗であるので、仏の前に座れば必ず正信偈を唱える。ボクはもう何百辺と唱えたろうが、いまだ暗記できていない。小学生に頃に習っておかなかった酬いである。ボクの寺では、夏休みに日曜学校と言って小学生はお経さんを習ったものである。そのお経さんとは正信偈が中心である。たまたまボクの時代には開かれなかった。ボクの娘は習っている。その後習う機会はない。子供の記憶力は凄いのである。歳いって時折ではいくら唱えても記憶できない。

 

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(第2821話) 夫の独立

2019年08月02日 | 活動

  “夫が二十四年間勤めた塗装会社を辞めて先日独立した。四年前から夫の意志は聞いてはいたが、未就学のわが子二人を抱え、独立して本当に暮らしていけるのかと私は心底不安だった。でも母から「彼の人生」と言われ、家族で支えていこうと思った。ある友人は「私なら楽な方を選ぶから旦那さんは本当にすごい」と言って夫の決断を自分のことのように褒めてくれた。私が先輩として慕っている自営業の女性に夫が独立することを電話で報告したら「おめでとう」と祝福された。そんなことがあって、ようやく喜ばしいことなのだと思えてきた。
 夫が六月末まで勤めた会社の社長や同僚は独立後も応援してくれるそうで、夫が信頼と実績を培ったからこそだろう。妻の私から見ても夫は真夏も北風が肌を刺す真冬も屋外での仕事を本当に頑張ってきた。もう迷いはない。よし、精いっぱい夫をサポートしていこう!”(7月9日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の主婦・池田さん(32)の投稿文です。独立して企業を興す、男のロマンであろう。今の時代、それは非常に難しくなった。周りを見ても個人店や個人企業は廃業するばかりで非常に少なくなって来ている。大型店やチェー店にはかなわないのであろう。  池田さんは塗装店として独立されのであろうか。ボクの知識としてそれなら十分に考えられると思う。塗装はいくら機械化しても、人間の技術、手間である。これなら道はあると思う。あるから池田さんは独立を選ばれたのである。ボクには分からないが、経営というのは見たより大変であろう。でも使われるのではない。従うのではなく、自分の意思で行動することができる。やはり男のロマンである。
 そして、その配偶者である。夫婦にもいろいろな道があるが、やはり好ましいのは二人が同方向を見ていくことである。折角夫婦になったのである。少しでも多く触れあって、助け合って過ごしていければこれに越したことはなかろう。池田さんは「精いっぱい夫をサポートしていこう!」ときっぱり決意された。これぞ夫婦、良かったと思う。成功を祈るばかりである。

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川柳&ウォーク