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第182号  2019年7月

 

(第2820話) 万感の金婚式

2019年07月31日 | 出来事

  “六月十六日の「父の日」、私たち夫婦は結婚五十年の節目の金婚式を迎えました。その記念にと四十代の息子が一泊二日の温泉旅行をプレゼントしてくれました。温泉宿では夕食時にスタッフから「おめでとうございます」との祝福を受け、特別に用意したというパイナップルのデザートをいただきました。横たわると、夫と苦楽を共にした日々がいろいろとよみがえってきて涙があふれ、なかなか寝付けませんでした。
 父の勤め先に夫が働いていた縁で私たちは出会い、一年半の交際を経て結婚し息子二人を授かりました。夫は子煩悩で仕事が終わるとすぐに家に帰り、わが子を風呂に入れてくれました。夫は普段私を気遣ってくれますが、旅行中も「お母さん、ここまで元気でいられてよかったね」と優しい言葉を何度も掛けてくれました。夫婦円満で共に健康だからこそ金婚式を迎えられたのでしょう。幸せをかみしめています。”(7月9日つけ中日新聞)

 三重県桑名市の松島さん(女・74)の投稿文です。金婚式、結婚50年、今の時代多くなったかも知れないが、考えてみると大変な事業である。結婚に行き着く経過は様々だろうし、全く生活を別にしてきた他人が一緒に暮らすのである。いろいろな軋轢があって当然である。それを乗り越えての50年である。本当におめでとうを言いたい。
 我が夫婦の金婚式は来年である。先日あることからの思いつきで、結婚に至る経過を文章にした。ボクが文章を書く機会ができたのは40代の時である。だからそれ以前のことを書いたことはほとんどない。今年は数回に分けて青春時代を書いてみようと思う。それは自然妻との触れ合いを語ることにもなろう。来年金婚式を迎えるに当たり、いい思いつきではなかろうか。
 今の若い人が金婚式を迎えられるのは、かなり希有のことになるのではなかろうか。まず結婚しない人が多くなった。障害未婚率は男23%、女14%と言う数字がある。そして、結婚しても離婚する人が多くなった。金婚式はますます尊いものになろう。

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(第2819話) 二人の母のユリ

2019年07月27日 | 出来事

  “庭のテッポウユリがぐんぐん伸びてきた。生前、庭を管理していたしゅうとめは「このユリは八月十日になるとちゃんと咲いてくれる。お盆には供えてね」と言っていた。  ユリといえば三十年以上も前のこと、実家の母がカノコユリの球根をくれたので庭の隅に植えた。その翌年、母は急逝し、私はユリのことは忘れていた。
  ある日のこと、庭の手入れをしていたしゅうとめが息せききって私を呼び、「ユリが咲いたよ。はよ、お母ちゃんに会いに行ってりゃあ」と言う。飛んでいきたい気持ちを抑え、遠慮も手伝いおもむろに庭に行くと、ピンクのユリが目に飛び込んできて、しゅうとめの計らいに心が温かく震えたのだった。あの日のしゅうとめも、浄土へ旅立ち十七年になる。
 今では庭の手入れは私の仕事。ここ数年の温暖化で、ユリの開花は一週間以上早くなった。今年、庭を埋めるユリの本数を数えてみると、百五十六本あった。今年のお盆前には、もう咲いてしまっているかもしれないが、真っ白のユリを上から見下ろす二人の母を思うとき、何とも安らいだ気持ちになる。”(7月7日付け中日新聞)

 愛知県稲沢市の主婦・酒井さん(68)の投稿文です。実母のくれたカノコユリを義母が面倒を見てくれていた。自分は忘れていたのに。そのユリが咲いた。義母には実母の生まれ変わりと思われたのであろう。共に嬉しかったろう。このような投稿をされる酒井さんの嫁姑の関係は非常に良好なものであったろう。
 そして素晴らしいと思うのは、酒井さんが今156本ものユリを栽培されていることである。156本と言えばかなりの面積を占める。姑の庭仕事を引き継がれたのである。引き継がれたときには何本であったろうか。丁寧に栽培し、増やされたのであろう。ボクもユリを栽培したことがある。5球ばかりの球根を買ってきた。数年もする内に増やすどころか年々球根は小さくなり、その内なくなってしまった。こんな経験があるので、ユリを増やすのは難しいと思っている。酒井さんは立派だ。思い入れが違ったのだ。そうして故人を懐かしむことができるのだ。

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(第2818話) まず学ぼう

2019年07月25日 | 意見

  “長崎に原爆が投下されて二年後の八月九日に生まれました。子どもの頃、誕生日には朝からラジオで原爆にまつわる悲痛なニュースが流れました。私の名前は「戦地で手柄を立てて勲章をもらえるように」という願いが想起されることもあり、複雑な気持ちになりました。
 思えば小・中学校や高校の授業で太平洋戦争をしっかりと学習した記憶がありません。縄文・弥生、平安などと古い時代から学び始め、昭和初期に入ったところで時間切れになり、どの先生も「各自教科書を読んで」と言いました。
 一九四五(昭和二十)年の敗戦で日本は国民主権の民主主義国家に生まれ変わったことを踏まえ、四五年前後の昭和史を学んでから時計の針を前に戻すように学習したらどうでしょう。太平洋戦争を知らない日本人が大半を占める中、戦争へ突入した背景をひもとき戦後の平和憲法の理念を理解することが今を生きるために不可欠だと考えるからです。”(7月7日付け中日新聞)

 愛知県東海市の山下さん(男・71)の投稿文です。ボクも全く同じような体験を繰り返してきたから、これはいい考えと、頷く。今の学校授業もこのようになっているなら、参考にして欲しいと思う。歴史教育云々と言って関係者の論争はかまびすしいが、実際の現場はどうなっているのだろう。ボクも昭和の歴史を授業で受けた覚えはほとんどない。古代から始まって昭和にくる前に、授業は終わるのである。先生の配分計画が悪いと言えるかも知れないが、でもほとんどの学年でそうであった。昭和の歴史は皆が知らなければいけない最も大切な時代ではなかろうか。それを名目上、学んだことだけになっている。
 歴史は繰り返すという。でも昭和の戦争の歴史は絶対繰り返してならない。そんなこと繰り返すわけがない、と言われるかも知れないが、それがあり得るのが人間の歴史である。現に少しずつながら戦争ができる体制に向かっている。ボクは戦後生まれだが、でも戦争後の苦しさ、貧しさを知っている。戦争に行った人の話を聞いている。でもこれからの人は戦争の話を実感できる場はほとんどない。学校教育がますます重要となろう。今もいろいろな苦しさはあろうが、あの時代の苦しさとは意味が違う。ボクには頷ける投稿であった。

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(第2817話) 母の免許返納

2019年07月23日 | 活動

  “数年前、七十代半ばだった母に車の運転免許証を返納してもらいました。同居しているとはいえ、返納後に私がどこまで母をサポートできるかと考えると、私からはなかなか切り出すことができませんでした。街から外れた地域で暮らしているため、母の日頃の買い物はもちろん、通っている美容院や整形外科への送迎を私がしなければならないからです。
 実際、そんな母の生活支援を私一人で担うことはできませんでした。このため母は宅配サービスの利用を始めました。カタログから選ぶかたちですが、買い物の楽しみは味わえるようです。介護認定を受けて施設でのデイサービスを使うようになり、施設に出張して来る美容師にきれいにしてもらっています。
 母にはいろいろと我慢を強いていますが、ハンドルを握り続けて事故を起こしてからでは遅く、今は免許証を返納して本当に良かったと考えています。”(7月6日付け中日新聞)

 三重県松阪市の主婦・小林さん(50)の投稿文です。免許返納は誰にも難しい問題ではなかろうか。今まで利用してきた便利さを手放すのである。それも自主的にである。当事者が不便になれば、周りの人の助成も必要になってくる。小林さんはそれでもよかったと言われる。  ボクの家の場合で考えてみよう。車を使う頻度はボクより妻の方が多いだろう。妻は毎日のように使っているが、ボクは週に数回である。使うと言ってもほとんどが往復10km程度、また未満であろう。自転車でも行くことはできる。と言っても自転車が安全かというと、こちらの方が返って危ないとも言える。雨の日は更に危ない。と言うことは、車を止めるということは、自転車も止めるということになる。ボクの家からバス停までは、歩いて10分弱で行くとはできる。でもバスは行く方向が限られている。また、歩いて行って待っている間に、車ならほとんど着いてしまう。ボクのところはまだ比較的便利なところである。それでも車を止めたら、それを補うのはもうタクシーしかなくなるだろうか。どう考えても、もっと活動を止めなければ車を手放すのは無理だという気がする。活動を止めては本末転倒である。活動ができる間は、まだ大丈夫と思っておこう。このように止められない理由、できない理由等自分に都合がいい理由はいかようにもつく。  ボクは今年3月に、安全装置がいっぱいついた車に買い換えた。カタログの安全装置を見れば、自分が加害者になることはかなり避けられると思う。まずは安全な車に買い換えることではあろうか。

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(第2816話) 救った言葉

2019年07月21日 | 教訓

  “引きこもりの経験がある知人男性は私よりも年齢は少し下だ。休日返上で毎日早朝から深夜まで働いたが、ある朝、急に起き上がれなくなり仕事を休んだ。布団から出られない日が続き、うつ病と診断されて十数年勤めた会社を退職した。一人暮らしをしたがやむなく実家に戻り、人目を避けて通院し、気配を消すために部屋の雨戸を閉め切ったという。
 ある日、彼は友人から「精神障害者施設を立ち上げるので手伝ってほしい」と誘われた。無理だと断ったものの、「居てくれるだけでいい」と言われてやむなく顔を出した。しばらくしてこの先迷惑をかけるかもしれないので降りると言ったら「おまえは障害者の気持ちが分かるだろ? 居てくれるだけでいい」と強く引き留められたそうだ。
 彼はその言葉に救われたという。「役立たず」と言われていたら「死んでいた」と言っていた。その後、彼はその施設の共同経営者となった。こうして彼は社会復帰を果たした。”(7月3日付け中日新聞)

 三重県四日市市のパート・寺本さん(女・47)の投稿文です。言葉の「一言」の大きさを知る投稿である。一言が何でもない場合が多いと思うが、時にはとんでもないことを引き起こす。そして多くは人を傷つける言葉であろう。言った本人は余り気にしていないし、言ってもすぐ忘れる。しかし、言われて方はいつまでも心に残っている。これが仲を裂くこともあるし、恨みになることもある。
 そしてこの場合である。人の命まで救ったことになった。障害施設を立ち上げられた人は、どんな思いで「居てくれるだけでいい」と言われたのだろうか。ボクは本当の気持ちだったと思う。彼のためだけではなく、入所者のために彼が必要と思われたと思う。障害を乗り越えた体験者が目の前にいる、その存在は大きい。高邁な言葉よりも体験者の存在の方が強いことが多いのではなかろうか。この経営者はそれを知ってみえたのだ。だからこの言葉に救われた人は、共同経営者にまでなられたのではなかろうか。本当に言葉一つは人を生かしもし、殺すもするのである。

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(第2815話) 病気

2019年07月18日 | 活動

  “「あんた丈夫だねえ」とよく言われる。「おかげさまで」とは言うものの、十年ほど前、膵臓の四分の三を切除して以来、一日三回インスリンの注射を打っているし、手術の後遺症で十年来、ほとんど毎日下痢が続いている。元気に見られるが、人知れずつらい生活を送っている。
 病気とお付き合いしているが、インスリンの量と食事の量をうまくコントロールできず、高血糖だったり、時には低血糖で倒れそうになったりすることもある。測るたびに、一喜一憂の日々である。  ある日、アサリを採りに行った。ザクザク出た。おもしろくて楽しくて、はまってしまった。雨が降ろうが、風が吹こうが、手がかじかんでアサリが採れないほどの冷たい真冬でも、潮の良い日は休漁日以外、毎日行く。「私、病気になった」と娘にメールしたら、「その中毒なら大丈夫」と返信が来た。少々頭が痛くても、おなかの調子が悪くても、気持ちが晴れなくても、海に行けば忘れてしまうから不思議。海の力ってすごい、と実感している。
 「お父さん、今日も頑張ってくるでねー」「こんな大雨でも行くのか」。ん、夫の遺影から、声が聞こえたような気がする。だって、病気だもの。”(6月30日付け中日新聞)

 愛知県半田市の影山さん(女・78)の投稿文です。毎日三回インスリンの注射を打ち、ほとんど毎日下痢という状態で、潮の良い日は休漁日以外、毎日アサリ狩りへ行くという、はまりようは信じられない。海の力ってすごい、といっても理解しがたい。これがはまるということであろうか。でも、いいものにはまられたものだ。辛い体に、夢中になれるものがあればかなり癒されるでしょう。こういう道を見つけないと、いろいろな問題を起こすことになる。
 最近ボクの近しい人が体の不調を訴える人が多くなっている。70歳半ばも過ぎれば当然かも知れない。その時、どんな癒し方を見つけるか、見つけられるか、大きな違いとなってこよう。それにはいろいろ出る場所を作っておくこと、できることを見つけておくことが大切と思う。ボクは今、そんな場所を提供することにやり甲斐を感じている。歩こう会やサロン、健康体操クラブ等々。参加者を増やすことにも努力をしている。老人会をうまく活用すれば、まだできることがあるかも知れない。そんな勉強の場にも出かけている。そして思う。ボクは何と恵まれているのだろうか。恵まれていれば、それを社会に生かして行かねば申し訳ない。そして、そんな期間は短い。いつ利用させて貰う側になるかも知れない。それまで、精一杯楽しんで頑張ろう。

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(第2814話) 青年団時代

2019年07月16日 | 人生

  “七十二年前、十四歳で青年団に入った。四歳上の兄に伴われ神社の社務所であった寄り合いに顔を出し皆にあいさつした。流行していた少年漫画「冒険ダン吉」の主人公ダン吉に風貌が似ていたことから「ダンちゃん」と呼ばれた。
 青年団の活動は多岐にわたっていた。夏は田んぼの溝掃除や野道の草刈りに汗を流した。秋はみこしの担ぎ手となり、冬は夜警をした。他にも長老からいろいろな仕事を頼まれ、けんかの仲裁や男女の仲を取り持つ役目もした。現代のように娯楽が豊富にある時代ではなかった。地方選挙のお祭り騒ぎが大好きで、団員らを担ぎ上げて議会に送り出した。青年団員は消防団にも所属することになっており、火災があると手押しのポンプを引いてそれこそあちこちの現場に駆け付けた。
 十八歳で国鉄に就職してからは転勤があったため次第に青年団の活動は遠のいていった。あの頃は本当に楽しかった。そして私は若かった。”(6月29日付け中日新聞)

 三重県津市の牧野さん(男・86)の投稿文です。牧野さんの文を読んで地域活動の多彩さを知る。知るというより、昔はボクの村でもそうであった。ある歳になったらなったで、その歳に割り当てられた地域活動があった。それが地域の絆であった。  若ければ青年団だったろうが、ボクには記憶がない。消防団はあり、入っていた。ちょうど村で火事を出した家があり、夜警をした記憶がある。夜回りをした記憶もある。ボク達の少し前までは「連中」という組織もあった。同級生だけではなく、3年くらいの年代が同じ組織に属し、いろいろな行動を共にした。同級生だけでは少なく、その上下で助け合っていたのだろう。父の言動からその組織の強さを感じていた。村にはいろいろな行事があり、その行事は助け合わねばできなかったろう。お講組という組織も強かった。葬儀などでは大きな役割を果たした。婦人会(今は女性部という)や子供会も盛んであった。もうなくなった地域も多かろう。考えてみると本当に変わったものである。本当にいい方に変わったのであろうか。

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(第2813話) 中山道28日間

2019年07月14日 | 活動

  “東京都と京都を結ぶ中山道を二十八日間かけて踏破しました。昨年二月、自宅がある岐阜県各務原市を出発し、延べ六日で京都の三条大橋に着きました。その後は同市から東に向かって計二十二日間歩き、三月、東京の日本橋に着きました。
 道中ではさまざまな出会いがありました。長野、群馬両県境の碓氷峠を越えたとき、ガイドブックを手にした外国人には片言の英語で話し掛けました。オーストラリアから訪れたという夫婦で中山道の見どころを選んで歩いているとのことでした。岐阜県中津川市内で会ったフランス人の夫婦は大きなリュックを背負っていて、京都まで歩くと言っていました。
 街道歩きを始めた頃は足の裏にまめができましたが終盤は慣れました。三十五キロを歩いた日もありました。道端の草花を見て季節の移ろいを感じてきました。ブログにもこんな旅日記をつづっています。”(6月24日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の片岡さん(男・70)の投稿文です。ボクは「話・話」の題材を得るために、新聞を10日間前後をまとめて取っておき、改めて読み直す。そして、これは題材になると思った記事を切り取る。切り取ってから気付いた。各務原市の片岡さん? 一宮友歩会の役員をやって貰っている人ではないか。中山道を歩ききったとは、何も聞いていなかった。知らぬ間にこんな大事業をなされたのだ。改めて感心した。本当に熱心な真面目な人である。それは日頃から思っていた。だから一宮友歩会の役員にもなって貰った。新聞を見てすぐにメールを送った。歩こうと思ったきっかけは、ボクと歩いたときに出会った婦人にあった、と言われる。ボクも出会っているのに・・・ボクは感心したのみで何もせず、片岡さんはこんな決意をされたとは。これが人生の分かれ道である。  片岡さんとの出会いも面白い。あるツアーで北京へ行った。ボクは妻と一緒、片岡さんは男4人づれであった。同じテーブルで食事をし、話しているうちに家が近くだということが分かる。多分、ウォーキングの話もしたと思う。片岡さんはウォーキング愛好者であった。帰国後一宮友歩会に参加され、人柄を見込んで役員にもなって貰った。こんな出会いこそまさに人生の妙味である。

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(第2812話) サツマイモ栽培

2019年07月12日 | 活動

  “わが家の畑にサツマイモの苗を百ほど植えた。毎朝夕に水をやると地中にしっかりと根を張り巡らしているであろうサツマイモは生き生きとしてくる。必死に生きているのだ。感動すら覚える。
 わが身を振り返れば年を重ねてすっかり足腰が弱ってきて、ともすれば家に引きこもりがちになる。生きていくためには成り行き任せではなく自分から動きださなきゃ。サツマイモの生育からそう教わった。
 今の私にとってはサツマイモ栽培のために畑に繰り出すことが、わが人生で水を吸い上げるような行為にあたる気がしている。思えば私はこれまで家族や周囲の人からさまざまな力添えを得てきた。体を動かせる幸せに感謝しながら八月の収穫を迎えたい。”(6月20日付け中日新聞)

 岐阜県関ケ原町の西村さん(男・85)の投稿文です。サツマイモの栽培からこのような前向きの姿勢になられることが面白い。ものは捉え方である。サツマイモは茎を切って植え付ける。根は出ていない。挿し木である。根が出て根付くまでにはいろいろな条件が必要である。  妻が余りサツマイモを食べないことがあって、ボクは一時サツマイモの栽培を中止していた。しかし、食べ方を工夫して食べるようになったので、昨年から再び作り始めた。昨年は知り合いから伸びた茎を切ってもらって植え付けた。今年は苗を買ってきて植え付けた。しかし何本かは枯れた。そこで、先日また知り合いから茎を貰ってきた。上手な根付け方があるだろうが、ボクは自然任せである。西村さんは毎日水をやっておれるようだ。何事も愛情であろうか。そして生き生きとしてくるサツマイモの成育に感動し、自分も動かねばと決意される。西村さんは85歳である。ボクより一回り年上である。この歳の一回りは大きい。その歳になった時、ボクはどんな発言をするだろうか。いや、その歳まで生きられる保証はない。

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(第2811話) 元気の数値

2019年07月10日 | 活動

  “ここ十年余の自身の健康に関する数値をパソコンに入力して保管している。毎朝晩に血圧を測り月一回ほど体重を測定している。夜間に排尿で起きた時刻や、朝夕に欠かしていない散歩も含めた一日の歩数も毎日記録している。最近の数値を見返すと、どれもほぼ一定の数値に保てていることが分かる。歩数は一日五千歩弱といったところか。野菜中心の食事に改めるようにし、自分なりに生活を見直してきたつもりだ。
 こうした数値は定期的に受診する内科にもその都度提出している。紙に印刷して医師に持って行けば「健康状態を知る上でとても参考になる」と言ってくれて。これからも元気で暮らしていくために今のわが健康を示す数値を記録していこうと思っている。”(6月19日付け中日新聞)

 三重県津市の富田さん(男・79)の投稿文です。これはまた凄い記録魔である。ボクもいろいろ記録する方だと思うが、とても足許にも及ばない。これでは記録することが仕事である。でも、良い効果を沢山生んでいるだろう。まず、これだけ記録していれば呆けている暇はない。それもパソコンに入力されると言われる。全くいいボケ防止である。そして、健康につながる。記録するとなれば、その数字が気になる。自然いい数字になるように努力する。毎日5000歩前後を歩くと言われる。これが1000や2000の日は苦になるだろう。5000に近づくように歩かれるだろう。ボクなど終日家の中にいれば、1日数百歩である。全く驚く。驚いて終わりである。記録していれば、歩きに出かけるのではなかろうか。言われるようにお医者さんにも判断のいい資料になるだろう。老いればまず心身の健康である。その努力は、してし過ぎることはない。

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(第2810話) 父と教え子

2019年07月08日 | 出来事

  “「すごいことが起きたよ」。親との同居のため、その日、愛知県稲沢市の実家に引っ越したばかりの妹から興奮気味に電話があった。実家の応接間には、家族で撮った写真、孫たちの成長の写真がたくさん飾ってある。その中に、私の父と義理の父が、私の双子の息子たちをぎこちなく抱いて写っているものがある。お宮参りの時の記念写真だ。  たまたま応接間にたんすを運んだ業者の人が、その写真にくぎ付けになり、義理の父を指して聞いたそうだ。「この方って?」と。妹が「私の姉の義理の父です」と答えると、「安藤先生では?」。妹は鳥肌が立ったそうだ。私の義父は高校で長年、理科を教えてきた教師だ。そして、思わず写真に見入った彼は、義父の教え子だった。
 「この仕事をしていて、こんなことは初めてです」と彼。「先生が、僕をこの部屋に呼んだのかな」とも、しみじみ話したそうだ。私も鳥肌が立った。その出来事を、仕事から帰った夫に話した。ちょっと感極まった様子の夫が、ぼそっと言った。「うれしいなあ」天国のお父さん、あなたのことを覚えている人がここにいたよ。あなたは本当にすごい人です。実家に帰って、その写真を見たくなった。”(6月18日付け中日新聞)

 愛知県知立市のパート・安藤さん(女・42)の投稿文です。見知らぬ家に行ったら、恩師の写真が飾ってあった。お互い、いきさつを知って感激である。嬉しい偶然である。人生にこうした偶然は時折起こる。日常に大きな彩りを添えることになる。安藤さんはそれを投稿された。更に記憶に残る出来事になった。  こうした嬉しい出来事は結構あるものである。しかしその感激もそのままにしておくといずれ忘れる。そして平々凡々とした人生だったなあ、と言うことになる。この投稿を読んで、その感激を忘れないようにする手段を講じておくことが大切、と気付いた。その簡単な手段は書いておくことである。また、書いたものをこの投稿のように、記憶につながるものにしておくことである。
 ボクは昭和63年2月からある作文の会に入り、最初は月1回、その内2ヶ月に1度となったが、何か書いてきた。昭和13年2月からのもののほとんどはホームページに掲載している。この間のものをどうにかしたいと、先日めくっていた。結構もう忘れている出来事が書いてあるのである。こうした偶然の話もある。記憶にとどめる努力も必要と思った。

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(第2809話) 様式統一

2019年07月06日 | 意見

  “トイレの進化には本当に驚いている。駅やデパート、スーパー、病院などで慌ててトイレに駆け込み、用を済ませようとしても機器の操作に迷うことがよくある。個室から外に出て誰かに使い方を聞くわけにもいかず、うろたえたことがこれまでに何度かあった。
 洋式トイレで水を流すにもボタンの位置や操作は機種によって異なる。便座から体重を移動するだけでセンサーが反応して水が流れるタイプもある。そうかと思えば、数は減ってきているものの、レバーが付いた昔ながらの手動式もある。五十代の私でも困惑するのだから高齢者は対応できるのだろうかと心配になってくる。
 臀部を洗浄したり温風が吹き出したりする機能はメーカーごとに差別化されていていいと思うが、水を流すというトイレの基本機能だけはメーカー間で様式を統一することはできないか。やはり使いこなせなかったら元も子もない気がするのは私だけだろうか。”(6月16日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・犬飼さん(55)の投稿文です。トイレのことだけに、困ったときにはなかなか大変である。人を呼ぼうと思ってもなかなか呼べない。実はボクに犬飼さんと全く同じ体験がある。多分その時はセンサー対応のものであったと思う。手をかざしても一向に反応しないのである。手のひらを近づけたり遠ざけたり・・・結局そのままにして出てしまったのではなかろうか。時折残されたままのことを見ることがある。多分流し方が分からなかったのであろう。メーカーや機種によっていろいろなタイプがある。研究された結果であろう。特許もあろう。使い慣れていればいい。ところが公共施設やホテルなど、あまり行きつけないところは困る。そして言われるように、高齢者社会である。高齢者が新しいものを理解し慣れるのは容易ではない。ボクなど高齢者ではあるが、よく出かけて行き慣れている方であろう。それでも戸惑うことは多い。ボクの妻などもうあきらめている。まだ何十年と生きねばならないのに。犬飼さんの言われることはもっともだと思うし、ボクもそう願いたいが、なかなか難しいことであろう。でも、一考を願いたい。

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(第2808話) ああ、猿投山

2019年07月04日 | 出来事

  “お天気のよい日、七階のわが家から見える猿投山。卒業した中学校の校歌にも歌われています。懐かしく思っていたところ、偶然にも息子から「猿投山へ行かないか」と誘いがあり、喜んですぐ返事をしました。
 主人を見送り八年目。独居老人の私は腰が悪いのと、いくつかの病気を抱え、昨年夏も熱中症を二度経験するなど、少し心配もありましたが、今年こそ元気でいようと決意しました。果たして登れるかと、前夜はあまり寝られませんでした。当日は息子の後に続きますが、上りになるとさすがに動悸が。何度も座り込む私を、少し上で辛抱強く待ち見守っている息子を見ながら、「頑張れ、頑張れ」と自分に言い聞かせました。
 若いころ気が短かった息子も子を持ち、大人になったんだなと、無我夢中で登りながら少しうれしくなりました。小鳥のさえずりを聞き、新緑を見ながら、やっと頂上にたどり着いた瞬間は、思わず息子とハイタッチ。とても感動しました。
 私にとって思い出深き猿投山は、大きな大きな聖なる山です。根気よく連れていってくれた息子には、大きな感謝です。「また近くの山へ行こう」と言ってくれるので、とても楽しみです。”(6月11日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の松前さん(女・74)の投稿文です。憧れの猿投山に、一人住まいのお母さんが息子さんに誘われ無事登り切る。さぞ嬉しかったことであろう。松前さんは、猿投山を聖なる山と言われる。そんな猿投山に誘われた松前さんにはいろいろな思いが生じたのだろう。何と言っても息子さんと2人で山に登るのである。親子とてなかなか機会のないことである。その気になって作らねばできない。息子さんの優しさ、気遣いである。嬉しそうなお母さんに息子さんはまた機会を作られるであろう。ボクは老いた親と出かけた記憶はほとんどない。こうした話を聞くと懺悔の念が生じてくる。親子というのはどこかに甘えが生じている。何にもないときはいいが、一つことがこじれると他人以上に大変である。日頃のこうした行き来が、他人以上に必要であろう。

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(第2807話) 収穫体験

2019年07月01日 | 活動

  “知り合いの夫婦が営む農園に招待され、小学校四年生の次女と二人でイチゴ狩りを楽しみました。真っ赤なイチゴを籠いっぱいになるまで摘み、一つまた一つと頬張りました。この農園では無農薬でタマネギや二ンジン、キヌサヤ、スナップエンドウなども育てていて、イチゴ以外の野菜収穫も体験しました。
 ここで収穫したものは自宅に持って帰りました。タマネギは生のままサラダにして食べ、豆類はゆでていただきました。どの野菜も自分たちで収穫しただけにいとおしく感じられ、普段は捨ててしまうニンジンの葉と皮からふりかけを作ってみました。こうしてしばらくの間、わが家は実に豊かな食卓となりました。
 まだ食べられるのに捨ててしまう「食品ロス」が社会問題になっています。私は農園で大切に育てられた作物にじかに触れることによって食べ物の大切さを改めて感じ取ることができました。次女にとっても貴重な機会になったと思っています。”(6月9日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・田口さん(40)の投稿文です。収穫の体験、それがこんな良い影響を及ぼすのかと、嬉しく思った。野菜を作る体験ではない、収穫しただけである。そんな体験の無い人も多いのだ。野菜の生産の場が、消費者と余りに距離が遠くなったのだ。農地が減り、目の前からなくなった人も多かろう。地上に成るのか地下にできるのか、知らない子どももあると聞く。農業に接する気がが少なくなった今、こんな機会を積極的に求めるのも必要ではなかろうか。食は命の源泉である。食べ物を大切にし、食品ロスを少なくすることは必要である。田口さん親子はいい体験をされた。
 ボクは全国民が家庭菜園を持つことを望みたい。耕作放棄地が問題になる時代である。畑などいくらでも余っている。良い活用になるのではなかろうか。町から田舎まで行くには交通費のこともあるが、それ以上に農作業体験は良い効果をもたらすと思う。皆、レジャーに遠くまで出かける時代である。レジャー以上に得るものがある。単なる消費ではない、こんな程度の交通費は問題ではなかろう。ボクの絵空事である。

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川柳&ウォーク