“異様な光景だった。取材の帰り道。稲沢市内で車を走らせていると、高齢の女性が一人、信号のない道路の横断歩道を対向車線側から渡ろうとしていた。視線が右に左に動いていた。だが、数台の車が前を通り過ぎていく。私が横断歩道の手前で停車すると、女性は自転車を押してようやく渡り始めた。その途端、バランスを崩してその場に倒れた。「危ない!」。すぐに車から降りて自転車を起こすのを手伝った。だが、周りの運転手は気にも留めず、何事もなかったかのように通過していった。
愛知に赴任して約半年。横断歩道に歩行者がいても、止まらない車が目立つ。運転手に一番大事なのは、思いやりのはず。今回の一件に、県の交通事故死者数が全国ワーストをなかなか返上できない一端を垣間見た気がした。
自分には関係ないー.そう言わんばかりに悠然と通り過ぎる車を横目に、もやもやが心の底に残った。「助かったよ。ありがとう」。その女性が掛けてくれた言葉に少しだけ故われた。”(6月6日付け中日新聞)
「モーニング」という欄から牧野さんの文です。牧野さんは異様な風景と言われる。ボクにしたら特に異様でも何でもない。横断歩道で車が止まらないのは、愛知県では普通のことである。と言うより、止まる車の方が珍しい。他県から来ると、愛知県の交通状況を見ると、これでは交通事故死者が一番で当然と言われる。愛知県民は本当にもっとこのことを自覚する必要がある。
何事にしても、その中で過ごしてしまうと、異様を異様と感じなくなる。これは非常に恐いことである。正しい、正常な社会を知って今の自分をみることが必要である。例えばボクには今のテレビの中味も異様に感じられることが多い。特に何をと言わないが、余りそんな番組を見ないボクだから、異様と感じるのであろう。この番組に浸ってしまうと異様と感じない。制作者はこれで本当に良いと思っているのであろうか。視聴率がとれるのなら何でも良いと思っているのだろうか。テレビ番組について書いたが、ゴミのポイ捨てや犬の糞の始末などについても同じである。広がり始めると、あっと言う間にそんな場所になってしまう。ボクの家の近くに犬の糞で歩けないような歩道があったが、その前に店ができた。そしたら、そんな人はなくなった。誰かが見ているから、できなくなったのであろう。大人のほとんどは事の是非は知っている。良い環境にすれば、すべてが良い方向に向いていく。