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第178号  2019年3月


 (第2765話) 障害者の一人旅
2019年03月30日 | 活動

  “私は身体障害者で、足がしびれて歩行が困難だった。しかし老人ホームで歩行訓練したおかげて、数百メートルなら休まずに歩けるようになった。そういう状況下、名古屋の中学のクラス会の案内が来た。どうしても行きたい。ホームでは老人の単独の遠方旅行の例がない。慎重論が出た。  しかし切符購入時にみどりの窓口に依頼すれば、無料で改札口から乗車まで、それと下車後、タクシー乗り場まで車いすに乗せてくれる。問題は金沢駅の西口から改札口までのわずかな距離であるが、これぐらいは歩ける。やっとホームから許可が下りた。  いよいよ当日。タクシーで金沢駅へ。改札口までは一人で用心深くつえをついて歩けた。改札口から「しらさぎ」の席まで駅員さんが車いすで運んでくれた。名古屋駅ではプラットホームに駅員さんが待機。タクシー乗り場まで全く歩く必要がなかった。  会の参加者は九人、うち女性四人が誰か分からない。名前を聞いて、あーそうかと思い出し、昔の面影を探した。  楽しい時間はあっという間に過ぎ、何人かが名古屋駅の改札口まで送ってくれた。帰りは行きと同様に両駅の駅員さんの助けで、時間通り無事老人ホームまで帰れた。やったぞ、と感じ、今後の生き方に自信が持てた。”(3月12日付け中日新聞)

 金沢市の関崎さん(男・77)の投稿文です。関崎さんはボクの知人です。と言っても面識はありません。関崎さんの奥さんがボクの妻と同じ職場であった。と言ってももう45年近い昔のことです。妻と奥さんは仕事を辞めた後も年賀状のやり取りをしていた。もう何年も前に奥さんが亡くなり、年賀状のやり取りもなくなった。数年前、突然関崎さんからメールが届いた。その後時折メールのやり取りをする。それだけの知り合いである。でもこうして関崎さんの文が目に止まった。同じ文でも知り合いかないかで大違いである。すぐに見た旨、メールを送った。励みになったろうか。  車椅子の人が、金沢から名古屋まで一人で往復することができる。書かれている通り、たくさんの人の親切を受けることになるが、でもそれができる日本になった。自然に任せておけば、強者がますます強くなるのが人間社会。それをいろいろな知恵で、弱者に優しくするのが国家としての社会ではなかろうか。高齢化社会が進むこともあって、車椅子の人はますます多くなるだろう。明日の我が身かも知れない。そういう人達もできるだけ街に出ることが必要だろう。引きこもりはますます事態を悪化させる。関崎さんのように、活動的であって欲しい。

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(第2764話) ことばのバランス

2019年03月28日 | その他

  “「選挙の時に出馬とか出陣式などと耳にするけど、時代劇のようだなあ」「俺もそう思うよ」「それなら、いっそのこと、補者を殿、有権者を領民、得票を年貢なんて呼んだら面白いだろうなあ」「車に乗る時は、馬を引けって号令をかけたりして・・・はっはっは」  冗談を言い合う二人の前に、ちょうど街宣車がやってきた。「この町を良くするためには、私がここで討ち死にするわけには参りません。絶大なご支援をお願いします」  「やっぱり時代劇だ」”(3月10日付け中日新聞)

 「300文字小説」から愛知県岩倉市の水谷さん(男・71)の作品です。面白いところに目をつけられた。選挙は戦争だ。でもそんな昔の時代劇であってはならない。封建主義ではない、民主主義の時代だ。でもこのように時代劇のことばを使っている。実態を表しているかも知れない。  ボクも同級生が、前回市議選でに出たことから選挙に深く関わることになってしまった。4月の統一選に向けてもう準備が始まっている。先日説明会にも出た。その決まりの細かいことに驚く。長い間にドンドン細かくなってきたのであろう。すき間を突く人が多かったのだろう。初めて知る人には異常な世界に思えるだろう。時代劇でない、もっと素直な世界であって欲しい。これでは普通の人が出るのは難しい。

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(第2763話) 漢学塾「有隣舎」 

2019年03月26日 | 活動

  “一宮市木曽川町黒田の漢詩・吟詠愛好家、甲賀猛さん(七五)が、江戸期から明治末期に同市丹羽にあった漢学塾「有隣舎」の歴代当主と門人の漢詩を読み解いた冊子を作った。四十四作品を選んで書き下し文や意訳、語釈を添えた労作。「若い人からお年寄りまで、尾張の漢詩文化に親しむきっかけになれば」と思いを語る。  甲賀さんは三十代前半から趣味で詩吟に親しみ、十年ほど前に「漢詩の意味を理解し、作品の世界をイメージしながら吟じたい」と漢詩を学び始めた。全日本漢詩連盟理事の鈴木桐山さん(半田市)の添削を受け、一宮の情景を詠んだ漢詩の創作にも励んでいる。  地元の詩吟発表会や書道展で、一宮出身の漢詩人、森春濤(一八一九~八九年)の作品が取り上げられても、春濤が学んだ有隣舎の当主の漢詩には日が当たっていなかった。また、今に伝わる歴代当主の漢詩集はすべて白文で、初心者は容易に読みこなせないという問題もあった。それらの漢詩を「発信したい」と考えた甲賀さんは二〇一六年から二年ほどかけ、冊子を書き上げた。(後略)”(3月8日付け中日新聞)

 記事からです。一宮友歩会の4月6日の例会に、この有隣舎がコースに入っているのである。グッドタイミングの記事である。早速甲賀さんに電話を入れる。できれば当日、現地で説明を期待したが、予定があってダメであった。  この漢詩を読み解いた冊子は、今75歳の甲賀さんが一人で書き上げられたのである。もちろんいろいろな人の助けもあったと思うが、素晴らしい。30代前半から詩吟を学び、10年ほど前から漢詩を学ぶ。そして、今回の成果である。やはり何事も一朝一夕ではならない。特に趣味のことは、時間の合間を縫ってである。若い時から目覚められたことは幸運である。若い人には仕事や子育てと忙しいことではあろうが、定年後と言わず、今から心がけチャンスをつかんで欲しいと思う。今定年が延びている。いろいろするチャンスを逃すのではないか、とボクは危惧している。  先日のサロンで、この有隣舎の話も持ち出した。そしたら、丹羽出身の人があって「碑が立っている家は小鳩クルミの生家だ」と教えてくれた。ネットで調べると確かにそう書いてある。全く面白い。一宮友歩会のこの例会では森春濤の碑も見て行く。楽しみな例会になった。

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(第2762話) 大震災支援が縁

2019年03月24日 | 出来事

 “八年前の三月に東日本大震災が起きた直後、私が住んでいる地区ではそれぞれが生活物資を段ボール箱に詰め、代表者が被災地へ届けました。私が用意した三箱のうちの一つを受け取った女性からすぐに丁寧な礼状が届きました。以来年賀状のやりとりを続けています。
 彼女が長年つづってきた日記帳が津波で流されたと知り、少しでも前向きな気持ちになれればと私はおしゃれなノートを贈りました。新たな土地で家を再建したことや、息子さんと娘さんが成人したといううれしい知らせもありました。今年も色とりどりの手描きのイラストが添えられた賀状が届き、ホッとしました。まだ会ったことはありませんが、文面やイラストから明るそうな女性だと想像しています。
 いまだ被災地には震災前と同じような生活を送れていない人がいると聞きます。それでも季節は巡ります。一人でも多くの被災者の方に笑顔が戻ることを願ってやみません。”(3月7日付け中日新聞)

 愛知県東郷町の主婦・下地さん(74)の投稿文です。3月11日を前後にして、東日本大震災関連の話がいろいろ報道される。改めてあの震災の凄さを思う。そして、いろいろなドラマが生まれた。下地さんのこの投稿もそんな話の一つである。震災を元に新たな縁が結ばれた。辛い中にも良い出会いとなった。
 同日の中日新聞に「豚汁募金」の話題も出ていた。少し引用すると【東日本大震災の被災地を支援しようと、一宮市伝馬通三丁目商店街の女性でつくる「おかみさん会」が七日午前十時から、同市本町四のふるさとプラザで「豚汁募金」を行う。百円以上の寄付をしてくれた人に豚汁一杯を提供する。震災の翌年から毎年開催。】とある。この記事には写真もあり、その中にボクの知り合いも写っていた。
 8日の中日新聞には【音楽愛好家らでつくる一宮市市民団体「音の輪会」は、東日本大震災から8年となる11日午後7時半から、同市の尾張一宮駅前ビル3階シビックテラスで誰でも自由に参加できる演奏会を開く。会は震災後、毎月11日に演奏会を続けている】とある。いずれも行事を通じての寄付である。日本は素晴らしい。

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(第2761話) 放課

2019年03月22日 | 知識

 “「『放課』と一緒で方言ですよ」。一宮市の多くの小中学校が体育館を「屋運」と呼ぶ理由を調べる中、愛知教育大副学長の中田敏夫さん(66)に言われた。東京出身の私にとって、この「放課」もなかなかなじめない言葉。「放課後とは違うの?」との疑問がいつも浮かんでしまうからだ。
 放課は県内で学校の授業と授業の合間を指す。授業後の時間は全国的にも「放課後」と呼ぶが、授業間は「休み時間」だと思う。なぜこの地域だけこう呼ぶのか。調べると、明治時代の規則に準じ、昔は全国的に放課を使ったそう。屋運同様、変えずに使い続けた「オンリーワン」だった。
 「愛知には、方言のような学校用語が結構ある」と中田さん。模造紙を「B紙」と言うのも独特らしい。着任から二年。やっと「放課」の疑問も解けた。今後、学校にアポイントを取る際は「放課に合わせて行きますね」と気兼ねなく言えそうだ。”(3月7日付け中日新聞)

 「モーニング」と言う記事欄からです。ボクは今まで、この記事に出てくる「放課」も「屋運」も「B紙」も方言と思っていなかった。この新聞記事を読んでも「そうなのか」と思う程度である。この後も方言だからできるだけ使わないようにしよう、とはとても思えない。そのようなことを気にしていたらもう書けないし、話せない。ボクの手元に「一宮地方の方言集め」と言う本がある。その中から、ボクには方言と思っていない、いくつかを拾い出してみる。あいさ(間)、あんじる(心配する)、うらっぽ(梢)、かいもん(買い物)、きしょく(気持ち)、きつい(強い)、くど(かまど)・・・・拾い出したらキリがない。多分この「話・話」でも方言と知らず、いくつも使ってきたのではなかろうか。人前で話す機会の多いボクであるが、今でも語尾になまりがある。会話を文章にされると、ボクだとすぐに解ってしまう。今更である。気にしないでいる。方言は面白い。話題にもなる。こうして記事にされるとより興味が増す。

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(第2760話) 高校四年生

2019年03月20日 | 人生

 “三月。巣立ちの季節を迎えた。私の青春時代のヒット曲に歌手舟木一夫さんの「高校三年生」がある。今もこの曲を耳にするたび、若かった高校時代やその後亡くなった同級生を思い出しては目頭が熱くなる。
 私は家庭の事情で中学校を卒業して民間の工場に就職し、働きながら二十一歳で名古屋市の定時制高校に入学した。仕事を終えて会社の寮の食堂で早めに夕食を食べさせてもらい、夕暮れの道を高校へと急いだ。同級生は年齢も仕事もさまざまで、夜遅くまで一緒に学んだ日々は本当に楽しかった。四年間通って卒業した。
 高校を卒業できたおかげて公務員に転職し、それからも働きながら夜間制の大学に進んだ。振り返れば高校生活は私の人生の分岐点となる、かけがえのない四年間だった。若い学生の皆さん、悩むことはたくさんあると思いますが、それぞれの青春時代を精いっぱい生きてください。”(3月2日付け中日新聞)

 愛知県東海市のアルバイト・山下さん(男・71)の投稿文です。ボクの妻も全く同じような人生です。妻も中学を卒業すると市内の病院に事務員として就職した。しかし、高校に進学したいという思いは断ちがたく、翌年、市内の定時制高校に入学した。そして4年生になると、名古屋の夜間大学に通うために、名古屋で勤められる公務員試験を受けた。そして4月、名古屋の役所に勤めながら夜間大学にも通うようになった。共に目標を達成したのである。年齢も今71歳、山下さんと全く同じです。
 ついでにその後も少し書きましょう。ボクは4年制大学を卒業すると名古屋にある職場に就職をした。そして1年後は、ボクは妻と同じ夜間大学へ入学するのです。そこで知り合い、結婚するのです。だからボクは夜間学校について大きな思いがあるのです。夜学生の多くは、働いた後で学びに来ます。それだけの苦労しながら学びに来るのですから、学ぶ意欲は大きいのです。そんな場をいろいろ見ました。妻と出会ったこともありますが、夜学生を味わった体験は非常によかったと思っています。

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(第2759話) 私塾「興民義塾」

2019年03月18日 | 出来事

 “大正初期に創立した一宮市南小渕の私塾「興民義塾」の創設者中村慶吾さんと、初代塾長の安藤秋三郎さんを顕彰する石碑に、案内板が設けられた。「郷土の中心となる有為な青年を育てたい」との熱意から生まれ、千人を超える青年が無償で学んだ夜間学校。設置に携わった地域住民たちは「世のため人のために尽くした先人の偉大な貢献を知ってほしい」と願う。
 興民義塾は一九一七(大正六)年、同市南小渕出身の中村さんが私財を投じ、地元の禅林寺を借りて開塾し、翌年には南小渕に塾舎を新築した。塾長には現在の丹陽町重吉出身で、京都大で学んだ法学士、安藤さんが就いた。
 修学年限は二年間。週三日、午後五時半~九時に、国語や道徳、歴史経済など幅広い科目を学んだ。学費は無料とし、尋常高等小学校卒業程度の学力があり、十七歳以上なら誰でも入塾できた。(後略)”(2月27日付け中日新聞)

 記事からです。興民義塾、もう記憶から思い出すこともなかったことが、新聞記事を読んで突然よみがえった。今は空き地となっているあの場所に興民義塾があった。ボクの家から1.5km程いったところである。新聞には61年閉塾とあるから、ボクの中学生時代まで開校していたことになる。ボクの記憶は閉校した建物である。夜学とあるから、昼間は閉じた感じだったかも知れない。父が行っていたと聞いた気がする。尋常高等小学校卒業程度の学力があり、十七歳以上なら誰でも入塾できたとあるから、そうであろう。父は学歴に尋常高等小学校卒と書いていた。
 この記事には写真が添付されていた。その中に知り合いが写っていた。早速に電話をして、話を聞いた。そして先日のサロンでこの新聞の話をした。ここで学んだという人が見えた。私が質問する形で、皆の前で話して貰った。新聞に書いてないことがたくさん聞けた。生の話である。自分の父が行っていた、と言う人もいた。この後は興民義塾に関連した話で盛り上がった。サロンは高齢者の集まりである。昔のことを掘り起こして話題にしよう。

 

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(第2758話) 素敵な親子

2019年03月16日 | 出来事

 “ある日の夜、インターホンが鳴り出てみると、若いお母さんと小学校低学年と思われる男の子、幼稚園くらいの女の子が立っていました。「何事?」と思ったら、男の子が先日、石を蹴りながら歩いていて、その石がわが家の自転車に当たって傷をつけてしまったかもしれないというのです。男の子はそのことをお母さんに言い出すことができず、何日もモヤモヤしていたとのこと。それでも勇気を出してお母さんに告白し、一緒に謝りに来てくれたのでした。
 平身低頭で謝られるお母さんの姿に、「いいのいいの、もう傷だらけだし気にしないで。ぼく、正直に言って偉かったね、感動しちゃった」と思わず言いましたら、若いお母さんは涙ぐんでいました。きっと子ども以上に、不安な気持ちでいっぱいだったのでしょう。思わず抱き締めたくなってしまいました。なんて正直で、なんてすてきな親子なのでしょう。
 お母さんに正直に告白した男の子もすばらしいけれど、それを受け止めて謝罪に来られたお母さんもすばらしいと、私の心は感動に満ちあふれていました。どうかこの親子がいつまでも信頼し合って、お幸せでありますように、と願わずにはいられませんでした。”(2月22日付け中日新聞)

 愛知県蟹江町のパート・中垣さん(女・49)の投稿文です。謝罪された親子にとって、これは非常によかったと思う。もしこれが、子供が話さなかったり、親が「そんな程度のこと黙っていればいい」と言ったら、どんな方向になるか知れない。こうしたことは意外に心に残るのである。生涯の小さな重荷になるかも知れない。ひょっとしたら子供が間違った道に進むかも知れない。実はボクも似たような思い出がある。小学4、5年生だったと思うが、学校の帰りに石を投げ合っていた。それが大人の人に近くに飛び、多分叱られたと思う。帰って親にすぐ話した。そして、すぐ親と謝りに行った。そして「さすが〇〇さんの息子だ」と褒められた。この親子と全く同じである。こうして今でも覚えている。こうしたことは、その時はうまくや過ごしたつもりでも、心の重荷になるのである。重荷になることは少しでも減らしておいた方がいい。ゆめ、親が子供の重荷になるようなことは絶対してはならない。

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(第2757話) ありのままで

2019年03月14日 | 活動

 “同窓会の案内状をいただきました。四月の花の咲くころ、喜寿の記念とのことです。四年前に出席したとき、「次の同窓会でも、元気で会おうね」と約束しました。一人一人の笑顔を思い出し、わくわくしながら、もう当日に思いをはせている私。
 でも私は、すっかり白髪になりました。というのも、一年前から髪を染めることをやめたのです。ありのままで過ごそうと。通知をいただき、「もう一度、若返ってみようかな」とここ数日、気持ちがぐらつき始めました。主人はとっくに白髪です。昨年、主人が両膝の手術、私が腰の手術。お互いに足腰が悪く、歩くのもとぼとぼの状態です。十五年前にがんの手術で片目を失い、頬と目にガーゼを当てています。これもありのままで過ごそうと、義眼も入れず過ごしてきました。ごま塩の頭髪と肌のしわ、年相応かな。一年が過ぎ、以前の染めた髪の色はなくなり、自然の白髪となりました。シャンプーしながら、迷う自分を見つめ叱りました。
 「心は若いときのまま、髪と肌はありのままで」出席しよう。決意を新たに、今は皆で元気でお会いできるよう体調を整えること。とにかく出席の返事を出そう。”(2月21日付け中日新聞)

 長野県飯田市の主婦・林さん(77)の投稿文です。女性はいつまで容貌にこだわるのだろか。女性はいくつになってもり容貌が第一と考えているからだろうか。それが良いのか、悪いのか。歳を経れば衰えるのが自然だ。自然のままではいけないのか。価値観の問題でもある。こんな議論を始めたらキリがないだろう。しかし、容貌のことで行動を規制することは避けて欲しい。男が容貌から行動を止めることはほとんどないだろう。女性もそうであって欲しい。髪については今、グレイヘアーがはやっているようですよ。
 身だしなみとして構うことは大切であろう。高齢になればより気にした方が良いと言う意見がある。歳取れば何でも億劫になる。身だしなみを整えることも億劫になる。ここは逆に身だしなみだけでも気を使った方が良いと言うのである。それが頭を使い、ボケ防止、若返るになるというのである。もっともだ。キチンとした姿をすれば気持ちもキチンとする。ボクの若い時はほとんど着るものに無頓着であった。今思うと、ゾッとするほどであった。陰ではかなりのことを言われていたのではなかろうか。それに比べれば、今は上出来であろう。妻がうるさいからもあるが、自分も先の意見を心がけているからである。
 林さんが同窓会に出られる決意をされたようでよかった。ボクは毎年6月に中学の同窓会を企画している。容姿のことで欠席されている人がいるのだろうか。こんなことは絶対に止めて欲しい。強く言いたい。

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(第2756話) 手紙

2019年03月12日 | 出来事

 ”ポストに、差出人に見覚えのない、母宛ての手紙があった。読んでみて思い当たった。平成十六年、母は骨折して入院していた。同室だった小学生の女の子の顔が浮かんできた。女の子の足には、白い包帯が巻かれていた。飛びっきりの笑顔が印象に残っている。
 手紙にはこうあった。「四年前に大学生になり、社会福祉を学びました。四月に社会人になります。就職が決まり、報告したく手紙を書くことにしました」と。あの女の子の成長した姿が想像され、とてもうれしくなった。母への感謝の言葉に続き「稲葉さんのような大人になります。社会人として頑張っていきます」とあった。
 母が読んだら、どんなに喜んだことだろう。母は平成二十八年に亡くなった。女の子と出会ったときは八十七歳だった。長年、教師をしていた母は、とりわけ子どもが好きだった。四ヵ月の入院生活の中、女の子と出会えたことは、母にとって大きな喜びだったのだろう。きっと、女の子と楽しく会話したのだろう。
 母の仏前に手紙を供えた。写真の母はうれしそうに笑っていた。お手紙ありがとう。社会に羽ばたくあなたに、母は大きなエ-ルを送るでしょう。”(2月19日付け中日新聞)

 三重県津市の主婦・稲葉さん(67)の投稿文です。小学生と87歳の老婆との出会いの話である。出会いは15年前の病室であった。その小学生が大学を卒業し、就職したことを報告してきたのである。投稿文から察するに、この間に交流はなかったようである。この小学生にとってこの老婆との出会いはそれ程に思い出深いものであったのである。こんなこともあるのかと、人生の妙味に全く驚くばかりである。これはやはり稲葉さんのお母さんの素晴らしさ、人柄にあったであろう。幼い子にここまで思わせる姿勢とは何であったろうか。稲葉さんに聞きたいものだ。
 それにしても人の出会いというのは面白いものである。ほんの少しの触れ合いでこのようの発展する場合もあるのである。ボクも今までに出会った人の出会いについて思い出してみる。どんな機会で、その後どのようになったのか。一人ずつ思い出していったら面白いと思うが、キリがない。いつかの楽しみにしたい。
 と書きながら、昨夜、ウォークの大会で出会った人から電話があった。年賀状のやり取りはしてきたが、声を聞くのは30年ぶりである。そして、4月の一宮友歩会の例会で会うことになった。全く面白い。

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(第2755話) 卒業文集

2019年03月10日 | 活動

 ”五十八年前、小学六年生の卒業文集で将来の夢に、バスの運転手と書きました。当時はボンネットバスで、扉はもちろん手動。方向指示器はオレンジ色の腕木が飛び出す仕組みでした。
 隣町の祖母の家に遊びに行く際は、このバスに乗り、舗装されていない山にはさまれた川沿いの道を、ガタガタと揺られて行ったものです。帰りに祖母は、持ち切れないほどの季節の野菜などをバスに運び込み、「運転手さん、家の前で降ろしてやってください」と頼むのでした。家の前まで来ると、運転手さんと車掌さんが荷物を降ろしてくれる、そんなのんびりした時代でした。文集に書いたのは、きっと運転手さんたちの笑顔で優しい対応が、子ども心にもうれしくて格好いいと思ったからでしょう。
 定年を迎えたある日、ふと文集のことが思い出され、バスの運転手への挑戦が始まりました。若者たちに交じり、厳しい教習の末、大型免許を手にすることができました。そして六十五歳で、施設内などを案内して走るボンネットバスの運転手に採用されました。念願かない、七十歳までの五年間、多くのお客さまと出会い、楽しい人生の思い出作りができ、小学生の夢を最高な形で実現できました。”(2月18日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の安江さん(男・70)の投稿文です。小学校の卒業文集に書いた、バスの運転手になりたいと言うことを、定年を迎えた日に思い出し、その後その夢を達成すべく教習所に通い、達成されたという。こんな人もあるのかと、全く感嘆する。1月26日の「話・話」第2736話の中に、20年前の小学5年生の時に書いたカプセルが開かれ、30歳の今、書いたとおりに保育士になった、という人のことを書いたが、それとはまた違う感慨である。定年後に新たなことに挑戦するという話には、いつもながらその意欲にただ感心する。一定のことを成し遂げた後である。安気になって差し支えないのである。その後である。でも意欲がなければ何もかなわない。意欲さえあれば、かなりのことができる。こういう話を心の糧にしていきたい。先日、義弟が69歳で急逝した。そういう時だけに、人間の生き方、生命についてもう少し考えたい。そして生を大切にしたい。
 ボクの家は、歩いて10分足らずの所を電車が走っていた。それだから電車の思い出はあってもバスの思い出は少ない。果たして最初にバスに乗ったのはいつの時だったろうか、思い出せない。その電車は昭和40年4月に廃止され、バスに変わった。

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(第2754話) 臓器移植

2019年03月08日 | 人生

 ”二〇一〇年の臓器移植法改正後、日本で初めてドナーの家族の意思で臓器移植を受けた一宮市の加藤みゆきさん(四七)が同市西成中学校で講演し、一年生六十七人に与えられた命を懸命に生きる大切さを伝えた。
 加藤さんは十歳の時、原因不明の糖尿病を発症。二十五歳で慢性膵臓病と診断され、人工透析を余儀なくされた。三十八歳だった一〇年八月、脳死の女性ドナーから、女性の家族の同意を得て腎臓と膵臓の提供を受け、移植手術に成功。現在は名古屋市のNPO「日本移植未来プロジェクト」の理事として活動する。
 講演では、ドナーの慰霊祭で別の遺族から「あなたが元気に生きていることがうれしい」と告げられたエピソードを紹介。「自分だけ元気に生きるのは、ドナーの家族の悲しみを踏み付けるようで、申し訳なかった。でも、楽しく一生懸命生きることが恩返しと気付いた」と語った。
 坂結梨さん(一三)は「自分には遠いものだった臓器移植を、身近に感じた。家族と移植について話し合ってみたい」と話した。”(2月14日付け中日新聞)

 記事からです。日本で初めてドナーの家族の意思で臓器移植を受けた人が、我が一宮に見えた。そして一宮の中学校で体験談を話された。身近な人の話だけに、聞いた中学生に心に残るものがあったろう。同じ話でも、自分に身近な人の話だとより真味が増すものである。ボクは老人クラブ連合会長をしていた昨年1月、母校の中学校で開催された講演会に参加した。その時の講師は、この中学校の卒業生で記憶障害のピアニスト・佐藤香織さんであった。「あきらめない心で!」に心動かされ、心に残っている生徒も多かろう。ボクもこのように残っているのである。同じような話でも、話す人によって聞く側は大いに違うのである。
 さて臓器移植であるが、これは提供された人の分まで生きることである。提供を受けて心苦しく思う人もあろうが、提供する人は元気に生きて欲しいから提供するのである。ここは感謝の気持ちを忘れず、堂々と生きて欲しいと思う。そして、こうして命を頂いた人は真剣に命について、人生について考える。それを披露することも大切である。

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(第2753話) 幸運の年賀状

2019年03月06日 | 出来事

 ”一月に抽せんがあった年賀はがきのお年玉くじで三等の切手シートが四枚当たりました。今年も、切手シートのうち六十二円切手をお気に入りのはがきに貼り当せんした年賀状を送ってくれた人にお礼を兼ねて寒中見舞いを送りました。
 すると、その中の一人から驚くべき報告がありました。中学生のときからの親しい友人で、彼女に私が送った年賀状も今年のお年玉くじに当せんしたというのです。偶然とはいえ送り合ったものがそれぞれ当たったということに、今年も互いに良い年になりそうだとうれしくなりました。
 最近は「高齢のため年賀状を卒業する」という話をよく耳にします。しかし思いがけない幸運もあるので私は賀状の交換を続けていくつもりです。”(2月11日付け中日新聞)

 岐阜市の団体職員・清水さん(女・58)の投稿文です。こんな方法もあるのかと感心し、ボクも早速実行しました。5通送りましたが、今のところ何の音沙汰もありません。
 各種の通知やダイレクトメール以外、手紙が届くのは全く減りました。そう思うと年賀状は貴重な手紙です。形式的で無駄という意見もありますが、これは考えようでしょう。形式的であっても意味はありますし、工夫すれば更に意味は上がります。年賀状しか付き合いの無い人は、年賀状がなくなれば全くなくなります。これこそ貴重な機会ではないでしょうか。面倒だと思う気分を乗り越えたいものです。最近、年上も年下も亡くなった話をよく聞きます。そんな人とは貴重な年賀状のやり取りです。今年も「今年で年賀状を失礼します」という通知を幾通ももらいました。ただでさえいろいろなものが減っていく年齢です。こんなものまで減らす必要はない、と言うのが今のボクの気持ちです。

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(第2752話) 掛け軸の美

2019年03月04日 | 出来事

 ”昨夏義父が亡くなり、床の間の掛け軸を山水画から「南無阿弥陀仏」という書に掛け替えた。年が変わって元に戻そうとしたとき、しまってあった他の掛け軸を広げてみた。これまで義父に任せっきりだったので初めて見るものもあった。日の出と鶴が描かれた絵は正月にふさわしく、見ているだけで希望が湧いてくる気がした。娘が生まれたときに買ってもらったおひなさまの絵は優しく温かい雰囲気だった。渓谷が描かれた清涼感あふれる風景画は夏に掛けたいと思った。すると興味がなかった掛け軸が急に身近に感じられてきた。事務的に生けてきた床の間の花も違って見えてきた。三十数年前にこの家を建てたときから義父は幸せに満ちた思いでこれらの掛け軸を掲げては、眺めてきたのだろう。
 近年の訪日外国人の増加で日本文化の素晴らしさを再認識する機会もぐんと増えた。床の間を造らない家も少なくないと聞くが、わが家に床の間があって良かったと改めて思う。”(2月9日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(61)の投稿文です。この投稿に、ボクも掛け軸のことを書いてみたくなりました。床の間に掛け軸、まさに日本家屋です。その日本家屋を造る人は今ほとんどないでしょう。2人の娘の家も床の間はありません。昭和23年築造のボクの家にはあります。ボクはある時期掛け軸を買い求め、今20本ほどあります。山水画、赤富士、鶴亀や虎、菖蒲やお雛様などの季節もの、南無阿弥陀仏などです。季節毎、また行事ごと掛け替えていました。日比野さんのお父さんと同じようなことをしていました。母が亡くなり、住みやすい離れに住居の拠点を移したことによって、床の間のある母屋の座敷を覗くことは全く少なくなりました。来客を座敷に通すことも少なくなりました。それと共に掛け軸も替えなくなりました。安藤広重の浮世絵の印刷ものなど、時折掛け替えるものは他にもあります。それもしなくなりました。怠惰です。考えれば寂しいことです。忙しいと言っても以前より余裕はあります。今こそすべき時と気づきました。日比野さんの投稿文を読んだ縁で、以前の生活に少し戻してみようと思います。

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(第2751話) 市民活動支援制度

2019年03月02日 | 活動

 ”活動を応援したい市民団体へ市民が一票を投じ、その得票に応じて交付金の額を決める一宮市の「市民活動支援制度」で、2019年度の「投票」が始まった。東海地方の自治体で唯一の取り組みだが、09年度の導入以来、投票率は10~12%と低調。先月の市長選で投票率の低下が話題となっただけに、市民団体や市の担当者らは啓発に力を入れている。 地方税の1%を自ら選んだ市民活動の支援に充てるハンガリーの制度を参考に市が始めた。毎年、個人市民税の1%(約二億円)を団体の活動支援に支給することを想定。その約二億円を十八歳以上の有権者約三十万人で割った、約六百五十円が一人あたりの持ち分。投票後に得票に応じた額を各団体に配分する仕組みだ。投票数が少なければ、団体に支給される総額も減ってしまう。二〇一八年度は、七十団体に計千九百万円を支給(投票率11.7%)。想定分の約二億円には遠く及ばなかった。
 今年の投票は二十三日までで、市に登録する四百の市民団体やNPO法人のうち六十七団体が立候補。それぞれホ-ムページや会員制交流サイトで投票を呼び掛けている。市民に街づくりへ参加する意識を持ってもらおうと導入した制度だが、関心が薄いのが現状。希望する金額を満額受け取ることができる団体は全体の半数程度にとどまっている。(後略)”(2月7日付け中日新聞)

 記事からです。もちろんこの制度をボクは知っている。そして、今年も3団体に投じた。この記事で状況を知った。始まってもう10年、なかなか浸透しないのだ。回り回って自分に恩恵があるかも知れないが、その団体に関係していなければ直接の恩恵はない。それだけ他人事であろう。関心がない。今年の市長選挙の投票率は30%を切った。市長選挙でもこれだから当然ということかも知れない。これだけ無関心ということが寂しい。
 実はボクにしてみれば、サロン羽根邨も一宮友歩会も内容的には応募する資格はあるのだ。もちろん会の規約の充実や手続きは必要である。でも、ボクは今の所する気はない。市からお金を貰うということは大変な苦労が伴う。税金だから当然である。今の所、サロンは老人会の金銭負担、一宮友歩会は役員の無償労力負担によっている。これらの負担に不満が出たり、耐えられなくなったら考えねばならないだろう。
 しかし、今大きな問題は金銭の負担より大きな問題は後継者であろう。市に登録する四百の市民団体やNPO法人のうち六十七団体が立候補しているという。6分の1である。金銭的には何とかなっているのだろう。しかし、どの団体も問題を持っているだろう。それの多くが後継者ではないかと推測する。

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