“外から見えにくい障害や病気のある人への配慮を促す「ヘルプマ-ク」を愛知県は二十日から配布するという。私は大腸の難病を患っている。幸い今は症状が落ち着いているが、埼玉県に住んでいた数年前は入退院を繰り返していた。体調が悪いときは通院や通勤時に電車内で立っているのがつらかった。外見からは分からない病気のため優先席に座るのは気が引けて、かばんにヘルプマークを付けて座るようにしていた。
私にとってお守り代わりだったヘルプマークのおかげで席を譲ってもらったことがある。関東地方で大雪が降った日、満員の駅のホームで立ったまま一時間待ってやっと乗れた電車内で私のかばんのヘルプマークを見た女性が声を掛けてくれた。疲れ切っていた私はありがたく座らせてもらった。あのとき席を譲ってくれた女性には今も感謝している。今度は私が誰かのヘルプマークに気付く番だと思っている。”(7月16日付け中日新聞)
愛知県一宮市の図書館職員・染谷さん(女・31)の投稿文です。ヘルプマーク、最近新聞等でも紹介されている。この「話・話」でも扱ったことがあると思う。社内の優先席、このことにも何度も触れた気がする。見た目に明らかに弱者と分かる人にも譲らない優先席である。見て分からない人に譲られる訳がない。染谷さんのこの投稿は、ヘルプマークが役だった話である。しかし、この文で気になったのは、ヘルプマークが役立ったのはこの1回であろうか。何かそのように読み取れる。
ボクはもう73歳である。まだ老人ではないと若気ぶっている身でもない。最近、ボクは優先席が空いていれば素直に座る。先日、ボクは優先席に座っていた。明らかに高齢の弱々しい人が乗ってきた。どうしようかと見ていると、その人は優先席に座っている若い人に向けて、替わってくれと要求したのである。そして座ったのである。こんな光景を見るのは珍しい。替わってくれとはなかなか言いにくい。言われて文句を言う人はきっとある。今の時代、どんなトラブルになるかも知れない。こんな時、ヘルプマークはきっと役立つと思う。しかし、問題は多くの人の認識である。弱者のマークはかなりある。どれほどに認識されているのであろうか。