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第167号  2018年4月


(第2607話) 放流会 

2018年04月30日 | 活動

 “私たち「上垂木ホタルを守る会」は、三月三日と六日に、昨年六月から飼育したゲンジボタルの幼虫を、垂木川に放流しました。三日は広報紙などで募集した親子が参加。放流の仕方の説明を聞いた後、お父さん、お母さんと子どもが一緒になって、「元気でね」「バイバイ」と、幼虫と餌のカワニナを放流しました。あまりにもグロテスクな幼虫の姿を初めて見た子は、目を丸くし、びっくりしていました。
 六日には、地元の桜木小学校四年生四クラスの児童が、心を込めて作ってくれたホタルの絵を描いたのぼり旗と、ホタルヘの思いを書いた作文をいただきました。この後、脱皮を繰り返し大きく育った幼虫に、皆思い思いの言葉をかけて放流しました。
 桜木小は四年ほど前から、環境を考える行事として、毎年十月から幼虫を飼育しています。放流後、児童たちは「守る会」の私たちに、「ホタルの舞う時を楽しみにしています」と、ハイタッチして帰っていきました。
 四千二百匹余りの幼虫を無事放流し終えました。五月下旬から六月上旬にホタルになり、乱舞することを願っています。”(4月5日付け中日新聞)

 静岡県掛川市の松浦さん(男・72)の投稿文です。ホタルを飼育する会は各地になります。ボクの町内にもあります。ボクがグラウンドワーク東海に所属していた頃はこんな会の人と話す機会もありましたし、ホタル鑑賞会に参加する機会もありました。しかし、退会してからはその機会も減りました。
 こうして書き始めて、環境改善活動はやはり会に加入していての活動だな、とあらためて思っています。各地で環境改善活動は広く行われています。個人でするのは、余程の熱意のない限り限度があるでしょう。ゴミ拾いなどの清掃活動は一人でもできますが、ホタルを飼育するなど自然に立ち向かうことはまず無理でしょう。会社を退職し、老人クラブ連合会長を辞めた今年からはまた新たな生活の始まりです。従来からやってきた一宮友歩会や十八日講、同窓会の役員などに加え、今年度から千秋歩こう会やサロン世話人会の役員を引き受けました。考えてみるといずれも仲間作りの組織、楽しく過ごすための組織です。偏っているな、と気がつきました。環境など社会をよくする会に入っていない、自己を研鑽する場に入っていない。考えねばならないことだと気がつきました。

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(第2606話) 100歳まで

2018年04月28日 | 活動

 “今でいう小学校の同級生だった男性七人と先日、同窓会を開いた。久しぶりの再会だったが、話すうちに皆すっかりあの頃に戻っていた。私以外の六人は成績が優秀で名門の旧制中学校へそれぞれ進んだ。「方の私は少年兵を目指していたので国民学校高等科へいったものの、戦争が激しくなってきたため、二年生のときに学徒動員で軍需工場で働いた。
 現代の若い人たちからすると想像できないだろうが、私たちの世代には青春時代の楽しい思い出なんて何一つなかった。「欲しがりません勝つまでは」を合言果に子どもも戦争に協力させられた。戦争に負けて初めて、敵国・米国との力の差を知り、私は「えらい国と、よくもまあ本気で戦ったものだ」と逆に感心したものだ。
 同窓会で私以外の六人はそれぞれひ孫と出会えた感激を話していた。私たちは百歳になるまで同窓会の開催を続けることを約束して、散会した。”(4月3日付け中日新聞)

 名古屋市の木原さん(男・87)の投稿文です。ふるさとの話に続いて小学校の同窓会の話です。共に小さい頃の話です。共通するものがあります。87歳、何年ぶりの再会でしょうか。ボクももうだいぶ高齢者になりましたが、87歳と聞いてはまだ一時代あります。これからの10年、15年はだいぶ空の上のことです。こんな話ができるようになりたいものだと思います。
 この「話・話」でもう何回も同窓会の話を書いたと思いますが、ボクは小学校、中学校の同窓会の主宰者(会長)をもう何十年も続けています。小学校は今年1月にも開催しました。平成6年以来11回になります。原則は1年おきです。中学校は今年も6月の開催案内を送ったところです。中学校は卒業して以来19回になります。平成18年からは毎年開いています。毎年開くようになって13年になります。参加者はかなり固定化していますが、それでも時折思いがけない人が参加してきます。人それぞれの思いも年と共に違ってきます。同窓会を、その案内だけでも嫌う人もあるでしょう。時折案内の要る、要らないを聞きます。今まで要らないと言っていた人が欲しいと言われる時もあり、びっくりします。そして嬉しく思います。思いは違ってくるものだ、と知ります。年を経るほど懐かしく思う、特にふるさとや同窓会に対する思いというものは、そういうものだと思っています。ですから、ボクはしつこく繰り返しています。毎年開くことの是非もありましたが、機会が多ければ参加できる機会も増えます。ボクらにそのうちはもうありません。できる今が機会です。この思いでやってきましたし、これからもそうしていきたいと思っています。

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(第2605話) ベストカップル

2018年04月26日 | 人生

 “「引き算ばかりの人生でした。あなたと再婚して毎日が幸福の足し算です」。二十一年前、旧東海郵政局の「三十三文字愛のメッセージ」で特選に選ばれた私の小文です。
 無口で愚直に家具を作る夫の姿に感動、再婚しました。直後、共同経営をしていた義兄が突然、自死したのです。私たちには多額の借金が残されました。返済のため夫は働きに働き、難問にぶつかると夫婦でとことん話し合い、何とか乗り越えてきました。
 大量生産で廉価の家具が大勢の中、夫の特注家具販売は、苦戦の連続でした。そんな中、四十二年間の家具職人の腕を評価された夫は、「飛騨高山の名匠」と現代の「飛騨の匠」に認定されました。
 ITに強い娘も加わって、未来に黎明を感じていた直後、夫が難冶性のがんを宣告されました。ぼうぜんとして何も手に付かないでいる私に、娘が言いました。「今一番つらいのはお父さんなんだよ。私たちがお父さんを守ってあげようよ。お母さんに今からすぐ続けてほしいことがある。毎日お父さんをしっかりハグして、大声で『大好きだよ』って言ってあげること。お母さんたちはどんな時でもいつも二人で困難を乗りきってきた。お母さんたちは、他に比べようもないベストカップルなんだから」”(4月2日付け中日新聞)

 岐阜県高山市の家具製造業・関西さん(女・69)の投稿文です。関西さんのご主人は今も健在でしょうか。そしてこの投稿文は、そのご主人に対するラブレター、励ましの言葉でしょうか。そうありたいと願うものです。そして、娘さんの言われた「毎日お父さんをしっかりハグして、大声で『大好きだよ』って言ってあげる」ことをされているのでしょうか。されていないなら書かれていないでしょうから、多分されていると思います。こういうことを言う娘さんにも驚きます。羨ましい親子関係です。ほほ笑ましい姿が浮かびます。日本人には少ないが風景でしょう。ボクら夫婦も一時期したことがありますが、ボクの手術以降ここ数年忘れています。またいつかそんなきっかけがあるといいな、とこの文を読んで思いました。
 「あなたと再婚して毎日が幸福の足し算です」こんなメッセージを思いつかれる関西さんは発想豊か、賢い方ですね。「無口で愚直に家具を作る夫」と書かれていますので、ご主人はどんな気持ちで対応されていたのでしょうか。照れながらも嬉しく対応されたでしょう。こんなことを想像するのも楽しい投稿文です。

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(第2604話) ふるさと

2018年04月24日 | 人生

  “「ふるさとは遠きにありて 思ふもの」といわれますが、私は近くに住んでいることもあって、「ふるさとは年とともに思うもの」という表現の方が実感があります。
 終戦の翌年、昭和二十一年一は食料事情が最悪だったと記億しています。くしくもそんな年に、私は師範学校予科に入学し、寮生活を余儀なくされました。寮の食事は運動場を農場にした畑で採れた芋、トウモロコシ、大豆のご飯か雑炊、みそ汁の具は芋のつる。栄養など無視、満足な量もなく空腹の毎日でした。
 当時、ふるさとの飛騨川には魚が多くいました。魚釣りが得意な父がウナギ、アユなどを釣って保存し、帰省のたびに山菜などとともに、たくさん食べさせてくれました。食べ盛りで、体の基礎が形成される時期を乗り越え、学生、社会人時代は各種のスポーツを、定年後は還暦野球、今もテニスをするなど、今の体力の源は、あのふるさとの山川からの恵みに負うところが大だと信じています。
 墓参の折、河原で懐かしいネコヤナギを目にし、山道では芽吹かんとしている山菜を見つけ、思わずあの「国破れて山河あり」の古語が頭をかすめ、ふるさとが永遠のオアシスであることを、心に念じた次第です。”(3月29日付け中日新聞)

 岐阜県美濃加茂市の牧野さん(男・86)の投稿文です。「ふるさとは遠きにありて 思ふもの」ふるさとというと、このように生まれ育ったところを離れている時に使うことが多いでしょう。牧野さんもそうです。年と共にますますふるさとを思い出すことが多くなる、これが牧野さんの思いでしょう。そんな思い出を持てるふるさとがあることは人生の豊かさでしょう。そして思いに駆られて時折ふるさとを訪ねる。一層ふるさとの良さを思い出す。懐古趣味と言うようなことではありません。
 ボクは新婚当時の10年ばかりを他で暮らしましたが、残りは生まれたところで過ごしました。今もそうです。勤めていた頃はほとんど家にはいず、学校や地元の用務もほとんど専業主婦の妻任せでした。ボクは父親を38歳で亡くしていますので、比較的早く地元に出る機会があった方ですが、それでも多くを妻に頼っていました。それが定年になり、年を経てくると地元の役員も回ってきます。次第に地元とつながりが出てきます。特に66歳からは毎年のように役がついてきました。牧野さんが言われる「ふるさとは年とともに思うもの」と少し違いますが、ボクにとってもまさにふるさとは年と共に大きな存在となってきました。

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(第2603話) 父を見習って

2018年04月22日 | 出来事

 “春らしい陽気に誘われて、夫と散歩に出た。寺の前を通ると、境内に彼岸桜と永代供養の案内が見えた。夫も古希を過ぎたし、自分たちの永眠の場を考えようと思っており、「下見していこうか」と夫に言った。「縁起でもないこと言うなよ」。でも花に誘われ、歩を進める。樹木葬は芝生にプレートが並び、日を浴びている。供養塔の中は、厳かな雰囲気だ。
 私が生前に予約を考えるのは、父の影響がある。父は卒寿を過ぎたころから、絡活を始めた。ノートに没後に連絡してほしい人の連絡先もあった。そのころ菩提寺に、母と永代供養も申し込んでいた。戒名まであって驚いたが、墓の土地を処分して永代供養にしたのは、子どもたちに将来の負担をかけたくないという思いだったのだろう。
 父は九十二歳で旅立ったが、生前の準備のおかげで、迷うことなく終えることができた。七年前のこの時から、私は父と同じように準備したいと思っていた。「俺も次男だから自分たちのことを何とかしなくては」。夫は考え始めた。兄弟や子どもたちにも相談、しばらくして「決めよう」と言った。「決めたら気持ちが落ち着いたよ」と夫はつぶやく。父の遺影に「私も見習ったよ」と話しかけた。”(3月27日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・高橋さん(67)の投稿文です。墓の話です。またまた終活の話になってしまいました。高橋さんは樹木葬にされたのでしょうか。
 永代供養という言葉が出たので、今回は永代供養について考えたいと思います。ボクの檀那寺では毎年春秋の2回、永代供養が営まれます。今年も3月31日に行われました。ボクは檀家総代として受付などの下働きをしました。こうした時に参詣する人は、どこまで意識するかは人それぞれでしょうが、先祖に思いをはせます。ボクの両親の永代供養料は檀那寺に支納してあります。父は生前に自分で、母はボクが支納しました。ボクの家には墓もあります。家の近くにあり、墓の前を通る時には手を合わせます。妻は時折花を手向けに行きます。母は生前、法要や永代経などは仏縁を頂く機会と言っていました。永代供養をネットで調べると、それはお金を払って死後の供養を寺院や霊園に任せることとあります。ドライに言えばお金でその後の手間を省くということでしょう。後継ぎがいない、と言う場合はそれしか方法が無いかも知れませんが、親族に負担をかけたくないという理由も多そうです。ボクには何か先祖や親子との縁を切ることの正当化のような気がしてきます。果たして子供や子孫にとってそれはいいことでしょうか。
 長くなりました。まだよくまとまりません。また考えたいと思います。

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(第2602話) 草取る先生 

2018年04月20日 | 活動

 “子どもが良い行いをすれば、先生はたいてい褒めてくれます。では逆に先生の場合はどうでしょう? どんなに素晴らしいことをしたとしても「先生なら当たり前でしょ」で済んでしまうのでしょうか。
 私は毎朝、地元の小学校のそばを車で通って勤務先に向かいます。昨年この道を通るようになって、児童が登校する前に校長先生が校門の近くで草取りをしていることに気づきました。雑草が伸びる春から秋にかけて暑い日も風の強い日もバケツと草取りの道具を手にせっせと草を抜いてい声した。この作業をする分、きっと朝早くから学校に来ていたはずです。
 登校して真っ先に目にする場所がきれいな状態なら子どもたちは気持ち良く一日を送ることができることでしょう。このように手入れの行き届いた環境で私の孫たちが学べているのかと思うと、とてもありかたくて。見えないところで子どもたちのために汗を流す先生たちに私は「ありがとう」と伝えたいです。”(3月26日付け中日新聞)

 岐阜県白川町の会社員・鈴村さん(女・70)の投稿文です。「先生なら当たり前でしょ」「仕事なら当たり前でしょ」「役員なら当たり前でしょ」・・・こうした言葉はよく聞きます。でも、そんなことはありません。仕事であろうと、役員であろうと大変なことは大変なのです。そこに感謝の気持ちを持つ、感謝の言葉をかける、大切なことです。それでこそスムーズに行き、調和が保たれるのです。とボクは思います。
 昨年度ボクは老人会の会長をやりました。頼まれたり、選挙で選ばれたものです。今老人会は役員の引き受け手がないことが大問題になっています。会員は沢山いるのに役員の引き受け手がないことで潰れていきます。ボクの町内でも、昨年度の39クラブから今年度は33クラブに減りました。でも衰退しながらも、多くは何とか後任を見つけ、続いていきます。それ程までにして引き受けて貰った役員に感謝はあるでしょうか。何もなければ「ありがたい」というかもしれませんが、何かあれば苦情の山です。こんな程度のこと、それ程言わなくても、と言いたくなることが度々です。ですからますます役員の引き受け手がなくなります。これは今の時代、老人会に限らないことでしょう。要望、要求はますます大きくなっています。気に入らないとすぐに言葉にします。鈴村さんのこの文章を覚えておきたいものです。

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(第2601話) 「明日でなく今日」

2018年04月14日 | 出来事

 “親戚の六十代の男性ががんで入院中と聞いて二月中旬、病院に駆け付けた。一月初旬に検査をしたら末期のがんだと分かり、余命いくばくもないとのことだった。そこで私は男性が生きている限り毎日励ますために通おうと心に決めた。
 翌日は病院に顔を出せるのが午後六時半ごろになってしまい、遅い時間帯なので迷ったが様子を見に行った。病室を出るとき、「じゃあ明日来るからね!」とあいさつをすると、男性は首を縦に振っていた。
 その翌朝、男性が亡くなったとの知らせを受けた。聞けば、私にうなずいてくれてからわずか数時間後に.息を引き取ったそうだ。この経験から私は「会わなければならない人には明日といわず今日会おう」と心に刻んだ。”(3月24日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・久村さん(65)の投稿文です。続けざまに、今日明日の問題です。こんなこともあるのです。久村さんは、遅くなっても出かけて悔いが残らなかった。取り返しのできないことですから、悔いとして残ったら、一生ついて回ります。「会わなければならない人には明日といわず今日会おう」、言うことはできてもなかなかできることではありません。でもこの気持ちを持っていれば、悔いることは少ないでしょう。我々にはそれしかできません。死という最大の問題が身近になっただけに、何事も真剣、誠実さが重要です。なかなか気楽になれませんね。

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(第2600話) 日記続けて

2018年04月12日 | 活動

 “1953(昭和28)年12月に22歳で結婚し、その一週間後から日記を書き始めました。最初は薄いノートにぎっしりと書いていました。その日の出来事や感じたこと、買った物とその値段などをごく簡単に記録しました。やがて三年や五年といった複数年使える立派な日記帳が登場して、今は「三年日記」を使っています。
 この六十五年近くも日記をつづり続けたことには自分でも驚きます。子どもや友達のこと、四季の行事などさまざまな内容をつづってきましたが、今ではひ孫が登場するときもあります。日記は全て保管していて、過去のことを確認したいときには役立ちます。毎晩寝る前の五、六分で書いている日記をこれからも書き続けます。”(3月22日付け中日新聞)

 三重県亀山市の主婦・小林さん(86)の投稿文です。日記の話もこの「話・話」でもう何回も取り上げています。日記を続けることも習慣になればそう大したことではありません。小林さんは65年も続けてみえます。ボクでも3年連用日記を書き始めてもう12冊目、34年になります。
 さて、今問題にするのはこの処置です。いつまで保存し続けるのか、どこかで処分するのか、処分すれるにはいつがいいか、ボクの頭の中にこんなことがふと浮かびます。終活、終活といわれる時代です。できるだけ身軽にして死んでいく。これが残された人の為である。ボクにはあまり終活、終活と言われることに何か抵抗感もありますが、これも一理あるのでしょう。まずアルバムはなんとかしておかなければと思っています。1、2冊に整理し直させばいいと思っています。思っているだけでまだ手に着きません。そして、次は日記帳でしょうか。これは整理し直すことができません。そしてこれこそ人に見せるものではありません。生きている内に処分した方がいいでしょう。でも処分すれば、自分の過去がなくなっていく気分になるでしょう。「明日はない」と思うと共に「過去はない」、未来がなくて過去もない、そんな人生ってあるでしょうか。こんなことを考えている内は何もできないでしょう。意外に決断の難しい事柄です。

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(第2599話) 一人じゃない

2018年04月10日 | 出来事

 “「主人が亡くなった。あれは今から四年前のこと。私たちは毎年の健康診断を恒例行事の一つとし、何の疑いもなく「終わったらモーニングする?」と、久しぶりのモーニングを楽しみに出かけました。
 ところが主人のがんが見つかり、精密検査の結果、「進行性がんで手術もできません」。先生の説明に、隣に座る主人の顔をぼうぜんと眺めたのを思い出します。人はいつかは死を迎えます。しかし、はっきりと余命を告知されて生きるのは、主人にとってもつらいことだったと思います。
 「今度」とか「また」という言葉を気にも留めずに使っていましたが、それからは「今」を心掛け、旅行などによく出かけました。旅先で笑顔で写真に納まったり、ささいなことでけんかしたりの日常生活に、「本当にお父さん、死んじゃうの」と心の中で何度も問い掛けました。
 しかし、主人は両親の元へ旅立ち、残った私は冬ごもり中。心配して声をかけてくれる友人たちの誘いにも、なかなかこたえられずにいます。でも春です。暖かな陽気に誘われて、心も体もポカポカです。人恋しくなり、待っていてくれる友人に「お茶に行かない」と声をかけるでしょう。感謝の気持ちを込めて。”(3月22日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の野口さん(女・72)の投稿文です。こうした話は70歳も超えれば全く身近な話になります。そして、こんな話を聞く日々です。先日は妻の知人が、突然なくなった連絡が入りました。また妻の妹は、10年も前に乳がんの手術をしていますが、それが先日肺に転移していることが分かりました。今大騒ぎしているところです。
 健康診断を、勤めていた昨年までは妻と一緒に受ける機会はなかったのですが、今年初めて5月末に妻と一緒に出かける予約をしました。多分一緒に食事をして帰ることになるでしょう。野口さん夫婦のようにならないよう、笑顔で帰りたいと思います。
 先日法話を聞く機会がありました。「今度また」という言葉は禁句という話でした。もう何度もこの「話・話」で紹介したと思いますが、ボクの机の上には「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」と書いた紙が貼ってあります。また名刺にもこの言葉を書いています。以前は「今がすべて、そのうちはない」と書いていました。今の時代、前者の方が合っている気がしたのです。明日死ぬかは誰も一緒です。でも、なかなか死なないのも現実です。80歳を過ぎればもう十分と思っていても、90歳、100歳の人も珍しくありません。昨年からボクはグラウンドゴルフの会にはいりました。会員はボクでちょうど30人となりましたが、何と半数の15人が80歳以上です。永遠という訳ではないが、そう簡単に死ねないのも現実です。死ねないなら、生きているように生きねばなりません。学んで積極的に生きるのです。

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(第2598話) 己書(おのれしょ)

2018年04月08日 | 活動

 “私は幼い頃、字を書くことが好きだった。三歳のとき、近所の書道教室の看板を見て「やりたい」と駄々をこねたらしい。通った書道教室では硬筆から始めてやがて毛筆を使うようになり、「おばあちゃん先生」との会話も楽しみだった。教室は小学生以下を対象としていたため、中学生になるとやめざるを得ず、それ以降、筆を持つ機会は減った。
 書道の道具にほこりが積もったまま年月がたったが、昨年四月、通っている障害者施設の講座で書を再開することになった。私がそれまで抱いていた書道室の概念を覆すような講座で、筆ペンを使い自分の心を伝える筆文字を書く「己書」に出合った。先生の「絵を描くように何度も書き足していい」との言葉に従って、私はのびのびと楽しく作品を仕上げることができた。書に、絵の具で色とりどりの絵を添えることもある。四月からは講座も二年目。どんなことが学べるかが今から楽しみだ。”(3月20日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の加藤さん(女・30)の投稿文です。ボクは墨で書は書けません。妻は師範の免許を持っており、書は妻頼りです。時折何とかしたいと思いますが、頼れる人が近くにいるとダメですね。
 「己書」とはまたいろいろあるものですね。書き足しできるというのが面白い。書が難しいのは、一度書いたら手が加えられないことです。修正すればするほど変になってしまいます。それができるというのです。今までの書の概念が覆りますね。少し調べて見ると「味のある文字と絵、それが「己書」です。己(おのれ)の書ですから、ルールはなし。書き方や書き順にとらわれることなく、自分の想いのまま自由に筆を走らせる新感覚の書」とあります。ボクももうまもなく暇を持て余すようになるでしょうから、何をするか、考えねばと思っています。この己書もその一つになりそうです。ボクには川柳があります。今は既製のイラストや写真上にフォントを使って書き、ホームページに掲載しています。それを己書で描く。何か楽しくなってきました。

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(第2597話) 夫はエコロじい

2018年04月06日 | 活動

 “数年前、テレビでアルミ缶で作った風車が飾ってある風景を見て、興味を持った夫は、ネットで作り方を覚え、たくさん作りました。初めは下手くそでしたが、数作るごとに上手になり、いろいろな形の風車ができるようになりました。友達や老人施設に配り、大変喜ばれました。
 風車の次は、アルミ缶折り鶴です。スーパーやエコボックスできれいな柄のアルミ缶を分けてもらい、ビールや酎ハイ柄の折り鶴を二百羽ほど作りました。皆さんの玄関やテレビ台などに飾っていただき、幸せなエコ鶴です。
 昨年の暮れに、私の念願だったかかし作りに挑戦しました。孫娘を喜ばせようと、スーパ-マリオのかかしにしました。廃材で骨組みを作り、胸や腕はペットボトルや針金ハンガーを利用し、服は古着でマリオらしく仕立てました。道端に立ち、愛嬌を振りまく人気者です。
 そして今は、ペットボトルの風車です。形や配色を工夫することは、脳トレにもなります。クルクル回る風車を二人で眺めていると、心が癒やされ楽しくなります。材料費ゼロ円で、いい顔して工作している夫は、「エコロじい」です。”(3月20日付け中日新聞)

 愛知県蟹江町の主婦・大原さん(69)の投稿文です。案山子といいペットボトルの風車といい、何かボクのことを紹介された気分です。ペットボトルの風車を始めたのはもう何年も前のことになります。新聞で知って始めたと思います。もう数十作ったでしょう。庭や畑、今でも10戸以上が回っています。色づけなどもう少し工夫を凝らさせねばと思っていますが、まだ手が着いていません。案山子も数年前から始めました。県道沿いに立てていますので、多くの人が見ていきます。時折声をかけられます。衣装が替わるのを楽しみにしていると言われると、張り切らざるを得ません。家庭の要らないもの、また小物は買ったりして変化を付けています。うまく行った時はにんまりしています。
 大原さんのこのような話を聞くと仲間がいて楽しくなります。大原さんのアルミ缶の風車や鶴は大変だと思いますが、どのように作るのでしょうか。人様に送って飾ってもらえるとは、かなりなものでしょう。ボクのはとても人にあげられるようなものではありません。少し工夫を凝らして、更なる楽しみにしていこうと思います。

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(第2596話) 古稀の卒業生

2018年04月04日 | 活動

 “三月一日、今日は主人の定時制高校の卒業式です。晴れの日を一目見ようと、私も出席させていただきました。若い皆さんに交じって、白髪頭の主人も校長先生から証書を受け取りました。「ハイ」と、元気良く胸を張って受け取る姿は立派でした。
 貧しくて進学できなかった高校に行きたい、という長年の夢を実現させようと、六十六歳で受験、無事合格しました。入学からしばらくは、一人で食べる夕食など、生活パターンに慣れずに寂しい思いをしました。覚えたことを忘れてしまうと、朝夕机に向かい反復学習する姿を見て、私の心はいつしか、応援に変わりました。
 時には、教育ママになり「こんなことが分からないの」と声を荒らげたこともありました。体育の授業で、年を忘れハッスルしたときは、家に帰ってくるなり「疲れた」を連発。「年なんだから保健の先生をハラハラさせないで」と私。でも毎日が楽しいと主人。
 いつまでも若々しく物事に打ち込む姿。さすが私の旦那さま。三歳の孫に「卒業おめでとう」とお手製のメダルをかけてもらい、最高の笑顔です。四年間何も手助けできなかったけれど、私もたくさんの思い出をいただきました。”(3月19日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の会社員・大久保さん(女・67)の投稿文です。高齢になって中学、高校を卒業する、時折聞く話ですが、全く凄いと思います。ボクなど今から中学、高校の勉強と聞くだけでもゾッとします。楽しいことも多いでしょうが、それ以上に努力が必要です。周りの支援も必要です。まずはおめでとうです。
 先日、88歳の女性の方が博士号を受けた報道がありました。これも凄い。ボクの親しい人で、60歳の定年間際に博士号を取得した人があります。その人の活動を知ると、さもありなんと思うほどに精進の日々です。何事も一朝一夕にはいきません。でもただ努力だけではなく、楽しんでやってこられた気がします。とてもボクはこのようにはいきませんが、少しでも社会に役立ちながら、余生を楽しく過ごしていきたいと思っています。

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(第2595話) 輝く大人

2018年04月02日 | 活動

 “私は昨年四月からこの一年間、いろいろなことに挑戦してきました。わが子が通う小学校のPTA会長を務め、地域の皆さんが児童のために力を尽くしてくれていることを肌で感じました。PTA役員についての賛否は分かれますが、私はやって良かったと思っています。
 昨年から地域の交通指導員も始めました。悪天候にも負けずに登校する子どもたちの姿に励まされ、学校のある日は毎日道路に立ちました。頑張る親の背中を見せたいという思いもあって、皆勤を目指しました。
 このようになぜいろいろと挑戦しているかというと小学生のときから尊敬するミュージシャンの一人で「X JAPAN」のギタリスト、hideさんが亡くなった三十三歳に私も今年なるからです。自身の求める音楽や表現方法を貫く彼をかっこいい大人だと私は感じてずっと目標にしてきました。私もいっそう輝いている大人になれるよう、これからも自分を磨いていくつもりです。”(3月19日付け中日新聞))

 三重県松阪市のパート・黒川さん(女・32)の投稿文です。小学校のPTA会長、そして交通指導員、32歳の女性です。どういう経緯で会長になられたか分かりませんが「やって良かった」といわれます。今や地域の役員を快く引き受ける人はほとんど見当たりません。ボクの地域ではPTA役員や子ども会役員はくじ引きのようです。適不適もありません。事情を聞いていたら、皆何か不都合をいうからのようです。非情のようですが、これが現実のようです。ところがやって終えた後は、このように好意的な言葉を多く聞きます。いろいろ新しい体験をした、知人が増えたなどなどです。立候補しろとまではいいませんが、指名されたら、余程の事情のない限り引き受けたいものです。その方が自分の為です。
 ボクの老人クラブ連合会長の後任は明日選挙です。どうなるのでしょう。老人クラブは全く衰退の一途です。ボクの町内では、クラブ数が39から33に減ります。今までは16全地域にありましたが、今年度から3地域でなくなります。会員はいます。理由はただひとつ、クラブ長の引き受け手がないことです。これは全国的なことのようです。昨年の今頃突然老人クラブ連合会長が降ってきました。全くの青天の霹靂です。地域においては大変な要職です。でも「やって良かった」この一言です。連合会長は辞めますが、この延長線上でしょうか、歩こう会の役員を引き受け、サロンの会長も引き受けました。やれることはやって、地域に奉仕し、余生を楽しくと思っています。

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