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第164号  2018年1月



 (第2565話) 平和のために

2018年01月30日 | 意見

 ”    【平成のために何をしたらよいか 君自身が平和の人になり給え(毎田周一)】
 今日の世界を見てみると、あちらこちらで紛争や戦争が起きている。日本は抑止力と称して武器を持って平和を望んでいる。仏教では兵戈無用といって、本当の豊かさや平和は武器も戦争のための自衛隊も要らないと説く。
 ところが最近の日本は、自衛隊を軍隊として憲法九条に付け加える案が出ている。それはいつでもどこでも戦争ができる国にすることである。「集団的自衛権」を国会で強行採決した。この法案がある以上、米国から要請があれば地球の裏側であろうと自衛隊は参加しなければならない。現在の自衛隊は二面ある。一つは軍隊でなく災害救助隊としての活躍。だから自衛隊は必要だという人もいる。それなら武器は要らない。防衛費五兆円の一部を福祉に使えば、どれだけ国民のためになるか。作家の住井すゑさんは「憲法九条は日本文化の宝である」という。私自身改めて平和の人となることを考えたい。”(1月16日付け中日新聞)

「今週の言葉」から同朋大名誉教授の中村薫さんの文です。「話・話」では身近な出来事を紹介することに努め、政治的なことや宗教的なこともあまり取り上げていない。それは政治宗教はいろいろな主張意見があり、賛否両論様々であるからである。またあまり意見も採り上げていない。言うだけなら何でも言えるからである。今回取り上げたのは、毎田周一さんの「君自身が平和の人になり給え」という言葉に強く同感を覚えたからである。これは何も平和だけのことではない。地域活動でも会社でも家庭でもまず自分が望む人になりなさい、と言うことである。現代社会、自分をかえりみず、人に要求するだけのことが多すぎる気がしている。要求の結果がどのように繋がっていくのか、よく考えて発言したいものだ。
 そして中村薫さんは、ボクにとって時折話を聞く機会がある身近な人であるからである。中村さんはボクのことは知らない。でもこういう文を読んで、中村さんにますます興味を覚えるのである。

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(第2564話) 「落ちない」

2018年01月28日 | 活動

 ”大学入試センター試験初日の十三日、稲沢市平和町のメタウォーター下水道科学館あいも(県下水道科学館)で、落ちない、滑らない仕組みのマンホールのふたに願掛けする企画展「マンホールDEゲン担ぎ!」が始まった。三月十八日まで。
 マンホールのふたは円形で直径が一定のため、開け閉めの際に落下してしまうことはない。表面は滑らないよう、さまざまな溝も施されている。展示は「落ちない、滑らない」にちなみ、試験に臨む受験生を応援しようと、初めて企画した。
 会場では、ふたが落下しない仕組みをプラスチックの模型で解説。昨年十月に新しく決まった県のマンホールのふたのデザインも並ぶ。県の鳥で幸運を呼ぶ鳥といわれるコノハズクと、県花で花言葉は「幸運が来る」のカキツバタがモチーフになっており、縁起がいいという。円形のシールに願い事を書き込むスペースも用意した。(後略)”(1月14日付け中日新聞)

 記事からです。愛知県下水道科学館はボクも少し関係したことがあって、いつも関心がある。そこで粋な企画である。期間中に一度訪れてみたいと思う。
 街中を歩けば、下水道に限らずいろいろなマンホールがある。ボクはホームページを作り始めてその題材として、マンホールの写真を撮って紹介しようと思った。ウォーキング中にできることであり、ボクのホームページにふさわしい内容である。が、あまりにあり過ぎて、ウォーキングにならないのであきらめた、と言う経緯がある。マンホールの多くはその土地にふさわしいデザインが施してある。眺めるだけでも楽しいし、その土地を知ることにもなる。そのマンホールをゲン担ぎにするとはまた面白い発想である。いろいろな人がいろいろな知恵を出す。当たる場合もあるし、残念で終わることもある。でもいろいろやってみることである。

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(第2563話) 湖上の水田

2018年01月26日 | 知識

 ”湖上に浮かび、舟でしか行くことのできない水田が滋賀県近江八幡市にあることを昨年知った。「権座(ごんざ)」と呼ばれているそうだ。同じ県内に長年いながら、私はそれまでまったく知らなかった。
 つなぎ合わせた小舟に鉄板を置き、その上に農機具を載せて田んぼまで運ぶ。収獲物も舟で岸まで運ぶという。転覆の危険もあり舟の上での作業には時間を要する。通常の稲作の何倍も手間がかかるだろうが、地元の人たちが田を守るために汗を流している。人と人とのつながりを大切にしながら集落を守ろうとする地元住民のひたむきな姿勢に私は感動すら覚えた。
 昨年は骨折して現地に行くことはできなかったが、今年は収穫期の風景を見に行きたいと思っている。”(1月14日付け中日新聞)

 滋賀県彦根市の主婦・松本さん(79)の投稿文です。「権座」、初めて聞く言葉です。水郷の町、近江八幡ですからそんな知恵もあったのだろうと、納得できます。昔、大名が大きな川を渡った時にやった舟橋のようなものでしょう。これほどまでにして稲作をし、水田を守った来たのかと、日本人の知恵と苦労に感慨を覚えます。現代はそんな知恵も放棄し、休耕田を増やし続けてきた。時代の流れというのはこんなものなのでしょうか。今では貴重な風景でしょう。
 少し風景は違いますが、ボクの隣村に「島畑」というものがあります。田んぼの中に小さな畑が点々とあります。水田を開墾する際に、導水できる高さまで土地を掘り下げた際に出る残土を水田の中に積み上げたもののようです。昔は各地にあったようですが、隣村の島畑は、残された貴重な風景のようです。ここにも先人の知恵や苦労があります。そう遠くない時期になくなるでしょう。今のうちに見ておかれるのもいいでしょう。

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(第2562話) 繰り返す日々

2018年01月24日 | 活動

 ”日の出は遅く、まだ暗い中、五時半の目覚ましで起床するのは勇気がいる。愛犬の元気をもらい、「エイ」と声を出して布団から出る。列車通勤の息子を六時半に送り出し、身支度をしてまた「ヨシ」と掛け声。愛犬が散歩を心待ちにしている。
 歩くうちに、日の出とともに朝日に照らされ、山々が赤く染まっていく。ああ、なんて美しいんだろう。感動の白い息を吐き、散歩を終え、私の職場、小学校へ出勤。校務の仕事はもっぱら外仕事が主である。しっかり防寒しての作業。今日は剪定した枝の片付けをした。枝の下は切り取って何日もそこに置いてあったせいで、葉が腐り小さな昆虫がわいていた。片付けていると、ジョウビタキがじっとこちらを見ている。虫を食べに来たようだ。「たくさん召し上がれ」と声をかけてみた。山吹色をした尾羽の美しいこと。見ていて笑顔になった。
 給食の支度と片付けをし、一日の仕事を終え帰宅すれば、また愛犬の散歩だ。午後五時になると、夕焼けの赤を背に帰り、夕食の準備をする。そんな日々は繰り返されるが、それが幸せなのだと、年を重ねて感じるようになった。今日も自然に感謝の一日だった。また明日も頑張ろう。”(1月14日付け中日新聞)

 岐阜県川辺町の公務員・今井さん(女・54)の投稿文です。前回は毎日の行動、今回は繰り返す日々です。関連ありです。日々を見ればそれ程に変化がないのが普通です。時折は大きな出来事や変化が起こりますが、日々の変化は少しずつです。同じ事を繰り返しながら、後になって見てみたら結構な変化があったことに驚きます。これが我々凡人の生活です。毎日同じ事が繰り返されることに物足りなさを持ったら、苦痛の日々です。今井さんはそれを幸せと理解された。今井さんは毎日の行動をよく見つめ、観察し、喜びを見つけるように過ごされている。平凡は幸せなのです。前回の嶋村さんは、それを記録し、振り返ることによって、平凡を幸せと感じ、変化も覚えられているのでしょう。
 実はボクは今年4月以降を心配しています。昨年6月までの在職中はないと言ってもいろいろあります。また昨年4月から老人クラブ連合会長になり、それ以前より忙しくなりました。それも今年3月で終わり、4月から本当の無職になります。ボクはどちらかというと自分を追い込み、忙しくして来た人と思っています。暇なことに耐えられるでしょうか。次第に慣れるとは思いますが、当分戸惑う気がします。この文を思い出したいものです。

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(第2561話) 毎日の行動

2018年01月22日 | 人生

 ”五年ほど前まで自分の一日の行動を手帳に書き込んでいました。作業が終わって線を引くとき、この上ない達成感を得られたものです。手帳をめくれば一週間分の動きなどがすぐに分かったものです。忙しさにかまけていつしかメモをしなくなってしまった今、自分が何をしていたかをすぐに忘れてしまうことが多く、不安に感じることがあります。「あのときにメモしておけば良かった」。そう後悔することも少なくありません。
 それで一念発起して昨年のうちに新年用のメモ帳を買いました。家事でもどんな仕事でもメモをするという作業はその人の力になり、財産にもなると思うからです。新しいメモ帳には一日のやるべきことを記入し、前向きな気持ちで一日一日を大切にして過ごしていくつもりです。そうすれば日々の充実感ももっと味わえるのではないでしょうか。私はそう考えています。”(1月4日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の訪問看護士・嶋村さん(女・43)の投稿文です。日々の行動を記録する、している人もしていない人もあろう。習慣であろう。していた人がしなくなると、落ち着かないものである。嶋村さんはまさにそんな体験者であり、ボクも最近全く同じ体験をした。
 ボクは在職中は毎年同じ手帳を使っていた。予定を書き込み、また行動結果を書き込む。行動結果は、行動時間も分かるように何時から何時と棒線を入れるものであった。昨年6月の退職し、今年からはそんな必要もあるまいと思って、100円ショップで適当なものを買ってきた。ところが使い始めてみると何とももの足りないのである。ここで数百円を惜しむこともあるまいと思って、ネットで探して買い直した。昨年までとは違うものではあるが、今にあうよりいいものが見つかった。習慣ではあろうが、記録することは大切なことである。これだけ物覚えが悪くなると、より大切である。予定も結果も書き込む。書き込む作業もボケ防止である。

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(第2560話) 丁寧にありがとう 

2018年01月20日 | 出来事

 ”師走に入ったみぞれの降る寒い日のこと。急ぎ足で銀行に入ろうと角を曲がった時、「ピシャツ」と私の足に水がかかった。すぐに若い男性が、「すみません」と言った。私とすれ違い、走り彼けていった男性が、わざわざ戻って来たのだった。そして、もう一度頭を下げて「すみませんでした」と言い、忙しそうに走り去った。
 とっさのことで、私は「いいえ」としか応えられなかった。ふと、「どういう人だったのかな」と振り返ってみると、その男性は宅配便の配達の車に乗り込むところだった。仕事柄、猫の手も借りたいほど多忙な師走の時期だろうに、わざわざ戻ってきた男性の態度に感心した。
 急いでいたため水たまりに足を踏み入れ、彼自身の靴もきっとぬれただろう。「故意にしたわけでもないのに、何と丁寧なこと」と思いながら、男性が乗る車を見た。「『ご苦労様、ありがとう』と、こちらからも声掛けすればよかった」と侮やんだ時には、車はもう走り去ってしまっていた。寒い冬の朝、一瞬の出来事だった。この心温まる出来事は、一日中私の心を優しく包んでくれた。”(1月1日付け朝日新聞)

 新潟県長岡市の大久保さん(女・73)の投稿文です。悪意はなかった、少し注意が散漫だった、こんな間違いは人間茶飯事である。自分自身で納まっていることはほとんど毎日であろう。それが人に影響を与えることとなると、少し問題だ、この青年は、とっさに謝った。しかし走り抜けてから、謝り方がぞんざいであったと思った。すぐ引き返して再度丁寧に謝った、こんな光景であろう。大久保さんはその態度に感心された。走らねばならないほど急いでいるのである。一度きりの出会いである。一応は謝った。少し気にはなるが、このままでも何ら気にすることはない。そんな時引き返すのである。これはその青年がそうせねば気が済まない誠意、精神である。いつまでも気になって居心地が悪いことはしたくない。それならすぐに行動に移すべきだ。こうは思ってもしないことが多いのが普通である。

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(第2559話) 裏切りたい

2018年01月18日 | 人生

 ”死というものがまだ遠い存在だった二十代の頃、占い師に将来の運勢をみてもらった。そのときに「寿命は七十一歳だ」とはっきりと言われた。その運命の七十一歳に、私は十月になるのだ。
 塩分やプリン体を取りすぎないように食事に気を付け、運転免許証を返納してなるべく歩くようにしてきたにもかかわらず、昨年は大腸がんを患った。高血圧などの体のあちこちの不調から逃れることはできなかった。
 いよいよ私にとって運命となる新しい年を迎えたが、心身ともにまだ健康でなるべく長く社会を支える側でいたいと思っている。まずは数年前に消滅してしまった地域の老人会を復活させることが目標だ。参加者は多いのだが、運営する人がほとんどいない状況だからだ。今年こそ、占い師の見立てが間違いだったと私が身を持って証明したいと思っています。”(1月1日付け中日新聞)

 愛知県尾張旭市の山木田さん(男・70)の投稿文です。20代の人に「寿命は七十一歳だ」とはっきりと言われるとは、どんな占い師であったろうか。ボクは占いやおみくじ、姓名判断、血液型などほとんど信じない。ほとんどと言うより全くと言った方がいいだろう。実はボクも20代の頃に姓名判断をしてもらったことがある。職場に印鑑を売りに来た人である。その姓名判断では、もうこの世にいることが不思議なくらい悪い判断であった。山木田さん以上であったろう。子供が生まれた時名付けの本を読んだことがある。その本に、ある占い師に付けてもらった名前を持って、別の占い師のところへ行ったら必ず否定するだろう、と書かれていた。全く納得である。以来こういうことは信じないことにしている。山木田さんは自分を信じて精進されることであろう。
 ボクがこの文で気になったことは「数年前に消滅してしまった地域の老人会を復活させることが目標だ」と書かれていることである。「参加者は多いのだが、運営する人がほとんどいない状況」と書かれていて、どこも同じだなあ、と感心してしまう。ボクの地域も、と言うより全国どこも同じであろう。なくなって、惜しんでも遅いのである。ボクもこの問題に今直面している。

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(第2558話) 今日のほっこり

2018年01月16日 | 活動

 ”昼時。「今日のほっこりな記事」がLINE(ライン)を通じて私に届く。夫が仕事の昼休みに新聞各紙から選んだ心にしみ込む、癒やしてくれる投稿記事だ。ここ8ヵ月ほど、毎日続いている。
 犬を飼ったことのない私が「犬を飼いたい」と言った時は、ペットをどんな覚悟で飼うのかを教えてくれる記事。客の落とした1円玉を大切に扱う店員さんの思いやりの記事や、実のなる木を庭に植えるのが好きな夫とそっくりな人の記事が届く日もある。どれも共感できて、その時その時を、私たち2人で共に生きていることを確認させてくれる内容だ。
 30年以上一緒に暮らしていても時折すれ違ってしまう心を、ほっこりな記事は「こっちだよ!」と引き寄せてくれる気がしてうれしくなる。私も毎回、メッセージを返す。それは「夫に優しくできているかな。思いやりを持らて接しているかな」と振り返る、大切なひとときでもある。多くの記事から教えてもらった生き方をスパイスに、よりいい味を出し、自分らしく、人にも尽くせる未来を歩んでいきたいと思う。さて、今日のほっこりは何だろう。”(12月25日付け朝日新聞)

 山梨県山梨市の主婦・志村さん(58)の投稿文です。会社の昼休みに新聞を読んで過ごす人は多かろう。そして、読んだ新聞で気になったことをLINEで妻に知らせる。現代らしい夫婦の交流に1つの方法であろう。夫婦と言えども面と向かっては言いにくいこと、伝えにくいことはある。後でと思ったことを忘れてしまうこともある。LINEでそれを上手に補う。志村さんはそれをほっこりな記事として嬉しく受け入れている。夫婦の中も、生活も、いろいろなものを上手に取れ入れれば良い。世の中には一途にならねばならないものもあるし、いろいろなものを使い分けるものもある。道具などは使い分けるものの1つであろう。現代ではスマホなどは使い分けるものの代表であろう。素村さんのほっこりな記事は8ヶ月である。8ヶ月をもうというか、まだというか・・・夫婦の期間にしてみればまだ8ヵ月である。続けられることを期待したい。

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(第2557話) 「葬儀」様変わり

2018年01月14日 | 意見

 ”近所に葬儀社の車が止まっていたので、その家のお年寄りが亡くなったことを知った。後日、近くの自治会の組長に話すと「聞いていない。弔事の際の取り決めもある。香典などを準備しないと」と驚いた様子だった。以前は掲示板に訃報を知らせる案内があったが、いつしかそれも取りやめになった。
 かつて私の住む地区では住民の葬儀の日、係の住民が鐘を打って地区内を回ったものだ。午後一時なら一回、二時なら二回・・・と開始時刻も知らせていた。そんな風習を復活させられないものだろうか。
 新聞の地方版には「おくやみ欄」があり、住所と氏名が載っているが、公表を控える家族もいると聞く。家族だけで葬儀をする人も増えているそうだ。葬儀場所は斎場が主流となり、自宅で行う人は少なくなってきた。日本は世界トップクラスの長寿社会だが、隣近所で助け合う機会が減り寂しい限りだ。”(12月21日付け中日新聞)

 三重県津市の伊藤さん(男・69)の投稿文です。冠婚葬祭も時代と共に変わっていく。ボクの子供の頃と比べればすべてが大変わりであるが、特に葬儀について大きく変わったと思う。地域によって風習の違いもあると思うが、ボクの父親が亡くなった昭和50年代は、まだ近所の人が助け合って自宅でしていた。そして葬儀場ができ、次第にそちらに移っていった。それは大きな違いとなった。近所の手伝いも減り、その内なくなった。最近は家族葬が凄い勢いで増えている。近所なのに亡くなっていたことを随分後に知ることもある。冠婚葬祭の簡素化を叫ばれた結果であろうか。それはここまでを想定していたろうか。もうほとんど絆、人の付き合いが感じられない。全く個々である。だから埋葬の方法も様々になっている。お墓もなくなろうとしている。先祖のつながりも否定されてきている。懐古趣味に浸る気はないが、人間どこへ行こうとしているのだろうか。こうした時代になった現在の地域の仕組みができていない。行き着く先はどこだろうか。ボクには見えない。

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(第2556話) ユズ

2018年01月11日 | 知識

 ”冬至にはカボチャを食べて、ユズ湯に入ってー思えば、ユズのように季節行事に絡む果物は、ほかにないのではないか。秋口に青い実をつけて、冬を迎える頃きれいな薄黄色に熟す香酸柑橘類。さわやかな酸味と上品な香りは和の雅を感じさせ、古くから親しまれてきた。
 ユズを湯船に浮かべるユズ湯は、江戸時代の湯屋で始まったという。寒さが厳しくなる時期、よく温まり、しかも香りや色に癒やされるとあって、広く定着したのもうなずける。
 和食の世界においては、料理を引き立てる名脇役だ。中身をくりぬいて使う柚子釜、料理に添える松葉柚子などの飾り切りこなどは、いかにも優美。果皮の一片を添えるだけでも、どこか特別感が漂う。(後略)(12月17日付け中日新聞)

  食のライター・清水ふみえさんの「旬のフルーツもの思い」からです。我が家にもユズの木はある。あまり手入れをしないから当然かもしれないが、あまり大きなユズはならない。でももったいない精神でそんなユズも使い切る。もっぱらユズ湯である。今は毎回湯に浮かんでいる。そんなユズを手で持ち、匂いを嗅ぎ遊んでいる。ユズは季節行事に絡む最大の果物かは、ボクには分からない。我が家にはあるから身近である。ない家では買ってでも使うのだろうか? 聞いてみたいものだ。あるというのはありがたいものだ。少し調べて見ると”寿命が長く病気にも強い柚子の木にならって、柚子風呂に入って無病息災を祈る風習になった”とある。我が家の柚の木も古くなった。
 今年はカボチャも長持ちした。そしてお陰で冬至に食べることができた。冬至にカボチャを食べると風邪を引かない、という。現にこの冬はまだ風邪を引いていない。

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(第2555話) 一覧性

2018年01月09日 | 意見

 “「いちらんせい」という言葉があります。一卵性双生児のことではなく「一覧性」と書き、全体が一目で見渡せるという意味です。新聞はその一覧性の高い情報源です。ニュースを見たり聞いたりするにはテレビやラジオ、インターネットなどもあり、最近は「ネットだけ」という人も増えているようです。でも新聞は紙面を開けば、掲載されている全ての情報が一度に飛び込んできます。
 拾い読みも魅力で思わぬ記事に目が留まることも多いものです。愛知県内のある進学校では電子辞書の使用を禁止していると聞きました。紙の辞書で調べる過程で他の言葉に触れることも大切だと考えられているようです。若い世代には紙媒体ならではの良さを知ってもらいたいです。”(12月14日付け中日新聞)

 名古屋市の自営業・奥田さん(男・50)の投稿文です。ボクはインターネットやスマホに馴染んでいます。この歳にしてはかなり使う方でしょう。この便利さはかなりなものです。使えない人を残念に思ったりします。でも、この意見には同調します。インターネットやスマホに何か物足りなさを感じます。それが奥田さんの言われる一覧性でしょうか。目的のものしか見えないことと、いろいろなことが同時に目に入ること、この違いは大きいと思います。ボクに新聞のない生活は考えられません。この「話・話」を書くようになってより大切なものになっています。どちらも道具です。上手に使い分けることが賢いでしょう。賢明な判断を期待したいものです。

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(第2554話) 干し柿作り 

2018年01月07日 | 活動

 “日本の四季で秋ほど、色鮮やかな季節はないと思う。今年、わが家の渋柿は、たわわに実をつけてくれた。主人が小さなころからあったという老木は、七十年はとうに超えているだろう。年々衰え、病気で幹の三分の二ほどは腐り、今にも息絶える寸前。にわか樹木医の主人が昨年、手当てしてくれた。そのかいあってか、今年の二度の台風にも耐えて、たくさん実らせてくれた。晴れが続いた十一月上旬、主人と収穫し、七百個すべてを手でむき、柿すだれの完成となった。
 今はお金さえ出せば、おいしいお菓子がお店にあふれている。畑では熟した柿が収穫されず、野鳥たちの食料となっている。自然の恵みを利用しないともったいないという気持ちになる。
 手間と時間をかけて作る干し柿。昔の人の知恵を拝借し、「おいしくなれ」と声をかけて手もみする。そろそろ、柿もいい感じの色に仕上がってきた。この柿すだれを、あの人にも、この人にもプレゼントしようと思い浮かべて、今日も風に当てる。先人たちの知恵と自然に感謝し、病気に耐えてくれた柿の木に「よく頑張ったね」と声をかけ、そっとなでた。来年もよろしくと。”(12月10日付け中日新聞)

 三重県志摩市の主婦・舟戸さん(60)の投稿文です。干し柿はおいしい、ボクも大好きである。柿の木はあるが作ったことはない。買うか、もらうばかりである。ボクの友人に毎年作ってくれる人がいる。退職後、親戚の柿畑の手伝いを始めて、干し柿作りも始めた。もらうのはそのおこぼれである。作り方を聞いていると大変な苦労である。舟戸さんは700個を手でむき、柿すだれを作ったと言われる。写真でよく見るまさに日本の秋を感じる風景である。「おいしくなれ」「よく頑張ったね」と声をかけるのもいい。昔の人の知恵である。ここにも情緒を感じる。これはボクの先入観かも知れないが、今の若い人は理屈が先走って仕方がない。理屈から言えば、こんな声かけなど全くナンセンスであろう。
 自分で作るものはひときわ愛着が増す。ボクから見たら、捨てた方がいいと思うクズの野菜や果物まで妻は使い切る。今年我が家の柿はたくさんじゅくじゅくに熟してしまった。そのままでは食べられない。妻はそれをジャムにした。それを自家製のヨーグルトに入れてボクに出してくれる。嬉しいことだが、これはもう理屈ではない。もったいない精神と愛情ではなかろうか。

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(第2553話) うれしい事

2018年01月05日 | 出来事

 “人生の後始末に取り掛かってもよい年頃となった私にこの一年、生まれて初めてという体験がさざ彼のように押し寄せてきた。
 詩文を書くのが趣味だが小説は苦手なままだった。それがついに岐阜県多治見市が主催する文芸祭の小説の部で最高賞を得た。幸先の良い年始だった。プロ野球の中継をラジオでよく聴いていたが、五月に初めて観戦に行った。中日ドラゴンズが逆転サヨナラ勝ちして感激した。数学の教師をしていた現役時代から疑問だった二次曲線の離心率の謎が十月にやっと解けた。時間ができて自分のために買った数学の問題集に取り組んだからだろう。先日は初めてそば打ちを体験した。きしめん以外の麺類はあまり好きではなかったが、打ちたてのそばのおいしさには舌鼓を打った。
 こんなさざ波の数々から私はまだ人生を楽しめるんだという気になってきている。”(12月10日付け中日新聞)

 岐阜県多治見市の阪野さん(女・69)の投稿文です。阪野さんにはいい平成29年だったようですね。それを「さざ波の数々」と言われるが、この言い方に情緒がある。さざ波と言われるが、小説の入賞や二次曲線の解析はさざ波どころではないでしょう。これは大波です。そしていろいろなさざ波も体験された。ボクの言い方になれば、第三の人生、余生の始まりです。余生はいい、ただ楽しめば良いのです。「人生を楽しめるんだという気になってきている」と言われる。余生の良さに気づかれたのである。69歳女性となれば、もう一人生あります。体には十分気をつければ、大いに楽しめます。
 ボクは昨年から「老人は楽しく、余生を楽しむ」と度々言ってきました。でも楽しむには知恵が要ります。まずは事に当たっては積極的に取り組む。受け身や消極的では楽しくなりません。そして、結果や人の口を気にしない。ただやって良かった、やれて良かった、と思うだけです。もう老人です。成果を残してそれを何かに利用しようと思うから苦労です。余生です。もうどうなってもどう思われようとも構いません。今がすべてです。この気持ちで今年も楽しく過ごしたいと思っています。ボクも平成29年はよかった。

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(第2552話) ノーメディア

2018年01月03日 | 意見

 “三歳の息子が通っている保育園の掲示板に「ノーメディアチャレンジ」と題して、スマートフォンやテレビなどの電子メディアを使わない生活をしてみようと呼び掛けるポスターがありました。私はそんなにスマホを操作しませんが、簡単そうだと思って一日チャレンジしてみたら思ったより大変でした。
 朝起きてテレビをつけることが私の習慣でした。知りたいことがあればすぐにスマホで検索し、空き時間にはスマホでニュースを読んでいたのです。私は子どもがテレビに集中している間に家事を進めていましたが、チャレンジの間は子どもが私のそばを離れず、なかなか家事ははかどりませんでした。でもその分、会話は増えて子どもの新たな一面が発見できました。
 テレビで何となく情報を得てきた私ですが、活字媒体の新聞を隅々まで読めばきちんと把握できることが実感できました。今わが家では週に一度、ノーメディアデーを実践しています。”(12月9日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の会社員・羽山さん(女・30の投稿文です。「メディア」という言葉をを少し調べて見ると「情報を伝達する媒体・手段・技術をいい、一般大衆を対象とするものをマスメディアという。そしてマスメディアとして従来は紙を媒体とする新聞・雑誌・書籍、電波を媒体とするテレビ・ラジオだったが、現代は通信回線を利用したインターネットやスマホがマスメディアの代表となっている」と言うことになるようだ。そして羽山さんの言われるメディアも、新聞や雑誌、ラジオを除いたテレビやインターネット、スマホを言われている、と思われる。 一度手につけたインターネットやスマホがない生活なると、これはかなり難しい。生活に組み入れられてしまうので、場合によっては支障をきたす。ボクの場合でも連絡はインターネットやスマホの電話にかなり頼っている。スマホは使い始めたばかりであるが、インターネットはもう20年近い。でも所詮道具である。使い方である。使われてはならない。スマホの電車の中の光景や歩きながらの使用を見ていると、これはもう異常である。毒されているとしか思えない。こういう人にはノーメディアデーを実践してもらいたい。何事も避けるよりやってみるのはいい、体験してみるのもいい。でも毒されてはならない。常に振り返ることが必要である。

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(第2551話) 安全運転サポート車

2018年01月01日 | 知識

 明けましておめでとうございます。日課のひとつになり、ライフワークともなったこの「話・話」を、一話でも多く届けられるように、今年も精進していきます。ご愛読の程よろしくお願い致します。

 “一宮市篭屋三の尾西自動車学校では、市内の老人クラブの役員ら七十人が、四台の運転支援機能付き乗用車に試乗。障害物にぶつかりそうになると自動でブレーキがかかる機能や、アクセルとブレーキの踏み間違いによる急発進を防ぐ機能などを体感した。
 一宮署が学校や県自動車販売店協会(名古屋市)の協力で初開催。自動ブレーキを体験した市老人クラブ連合会の加藤絡会長(八四)=一宮市小信中島=は「初めて乗ったが、しっかり止まるので驚いた。信頼しすぎはいけないが、私たちには助かる機能だ」と話した。
 署によると、県内では今年に入り、高齢者のブレーキとアクセルの踏み間違いによる人身事故が六十四件起きている。年齢を重ねれば運転能力はどうしても鈍るといい、同署の加藤政治交通課長は「運転支援機能は高齢者の事故抑止に効果が見込める。今回の体験が運転を見つめ直す機会になってくれれば」と話した。”(12月8日付け中日新聞)

 記事からです。続いて車の運転の話である。実はこの講習会にボクも参加したのである。そして、ボクの顔が新聞にもテレビに映っていたのである。それを人から言われたこともある。人は見ているものだとびっくりした。
 自動車学校の中であるので、スピードは10km程度で走っていた。それでも急に止まると凄い衝撃である。予期していてもびっくりする。これが50kmや100kmで走っていたらとんでもない衝撃になるだろう。このことだけでも気をつけねばと改めて思った。
 そしてこの乗車体験をして、この車への買い換えを本気で思っている。この車にすれば被害者になることはあまり避けられないかも知れないが、加害者になることは大幅に避けられるだろう。被害者になっても今更加害者にはなりたくない。主催者から5人以上にPRして下さいと言われたが、ボクはもう100人近い人にPRしたのではないか。何せ老人クラブの委員会で話したのだから。そして印象にあるのは警察署長の言葉である。「高齢者に今までは免許返上を訴えていたが、元気な高齢者にこれからは安全運転サポート車に買い換えて活動して下さい」と訴えると言われたことである。

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川柳&ウォーク