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第160号  2017年9月



 (第2509話) ガン治療
2017年09月29日 | 人生

  “一年前、仕事先のタイから 帰国した息子が私に告げた言葉は、がんを患っているとのことでした。頭が真っ白になりました。手術も抗がん剤もやらないといいます。残りの人生を、自分の思うとおり生きたいと言い、親は寄り添うことしかできませんでした。
 九ヵ月の療養の末、年老いた両親を残し、五十三歳で五月十五日に永眠しました。この文章を書いていても、涙で字がにじみます。
 毎日泣いてばかりいたとき、四十九日の法要前、会社の部下たちが来てくれて、いろんな思い出話をしてくれました。会社では、みんなを思いやり、愛し親しまれていたとのこと。二十二年前に家を出ており、親は知らないことばかりでした。親の心に、お金では買えない大きな財産を残してくれました。
 そして「後ろを振り向いて、悲観ばかりしていてはだめ。前を向いて笑って生きて」という言葉を残してくれました。人を思うあの子の優しさと思いやりを心の糧に、前を向いて残りの人生を大事に生きていきます。たくさんのことを、悟らせてくれて、本当にありがとう。”(9月10日付け中日新聞)

 愛知県津島市の蒲さん(女・76)の投稿文です。50才でガン治療を拒否するとは、どんな症状だったのであろうか。かなり進んでいて、治療の効果が余り望めなかったのであろうか。今の時代、ガンはかなりの割合で完治する。早期発見ならよりそうである。そうとは言ってもガン治療にはかなりの負担を伴う。肉体的にも金銭的にもである。
 ボクと同年の人で、前立腺ガン治療を拒否している人を知っている。PSA値はボクと同程度である。ボクはガンだと言われた時、どうするか一瞬だが迷った。でも、検査をしたと言うことは悪い結果が出た時、次の対応をするという気持ちがあったからである。そんな気持ちがなかったら検査などすることはない。そう思ったら次の決断に躊躇はない。そして結果的には手術となった。今前立腺ガンの心配は全くしていない。でも手術してもう1年半以上になるが尿漏れが残った。苦であると言えば苦である。しかし、余り気にしないようにして生活をしている。なってしまったものは受け入れるより仕方がない。
 あの知り合いはどういう気持ちで生活をしているのだろう。時折心配になることはないだろうか。前立腺ガンはガンの中では、転移や進行の心配の少ないガンである。それでもガンを持ったままの生活が、平常心を保てるだろうか。ボクの担当医師にこの話をした「そういう患者が一番困る」と言っていた。

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(第2508話) シソふりかけ

2017年09月27日 | 人生

 “食べ物がなかった戦時中、麦の真っ黒いご飯に赤いシソのふりかけをまぶしたおにぎりは、おなかが膨れる唯一のごちそうだった。戦争が終わってからも毎年「土用」になると、曽祖母が梅に漬けたシソをむしろの上で干してからからにし、すり鉢ですって、きめ細かなふりかけを作ってくれるのが楽しみだった。
 嫁いでからはしゅうとめが同じようにふりかけを作ってくれ、私の三人の子どもたちも大好きだった。しゅうとめが八十六歳で亡くなってからは、私が引き継いで作るようになった。得意というほどの手料理がない私にとってシソのふりかけだけは、子どもたちの三家族に夏の贈り物として届けて喜んでもらっている。
 今年も友人にたくさんのシソをもらい、三日がかりで天日干しをして、汗だくになってすり鉢ですった。市販のものよりもきめ細かに仕上げ、子どもたちに配った。夏の仕事が一つ終わった達成感に満たされた。”(9月7日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・浅井さん(79)の投稿文です。ボクの母も毎年むしろの上で干してからからにし、すり鉢ですってシソふりかけを作っていた。にぎりめしにすることはなく、そのままご飯に振りかけていた。こうすればおかずなど全くなくても済む。それでも何の不満もなかった。似たような物しか知らないのだから不満の起こしようがない。卵ぶっかけご飯が大ごちそうであった。ボクの子供の頃はそんな時代だった。
 母がしなくなったら、妻がするようになった。昨年、梅の木が植えてあった畑を売却した。梅の木がなくなると、シソを漬けることもなくなった。今年もシソは畑に種が落ち自然生えしていた。しかし、使われることもなく、抜かれてしまった。長い年月作っていたシソふりかけも今年から作られなくなった。今年で会社も辞めた。一区切りつく年となったと思っていたが、こんなところにも区切りがつくとは思いもかけないことであった。

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(第2507話) カミングアウト

2017年09月23日 | 人生

 “父が逝ってから、八年が過ぎた。いまだに三姉妹が集まれば、優しかった父の話題になる。次女の私は、特別に父に大事にされていたという自信があり、二人の間には秘密があった。
 うちは妹が生まれてすぐに、母が雑貨屋を始めた。駄菓子も置いてあり、友達の家に遊びに行くときは、持たせてくれたのだが、ほかのお店屋さんで買い物がしたくてたまらなかった。そこで、郵便局に勤めていた父の元へ。裏口から「父ちゃん」と呼ぶと、奥の方からにこにこ顔で、ズボンのポケットを探りながら出てきて、二十円をくれる。もちろん母にも、姉、妹にも内緒。私だけ特別だと思っていた。ところが、父が亡くなり、しばらくしてそのことを、ちょっと自慢げに「実は」とカミングアウト。
 すると、姉と妹は「ええっ、私も」。三人が代わる代わる、父の元へ行っていたらしい。母は「初耳」と驚くし、改めて「やっぱり、父さんすごいわ」三人に同じように愛情をかけて、大切に育ててくれたんですね。
 お盆には、来てくれていたのでしょうね。相変わらずかしましい娘たちの姿を、あのにこにこ顔で見ていてくれたのでしょうね。”(9月5日付け中日新聞)

 三重県南伊勢町の主婦・木本さん(63)の投稿文です。カミングアウト???・・・この言葉を知らなかった。調べてみたら「白状、隠していたことを表明する」とあった。なるほど、この話はまさにカミングアウトである。父親が自分だけにこづかいをくれていた、それを明かしたのである。子供である。こづかいのことは大事である。自分が父親に一番愛されていた。これは大きな自信であったろう。それを父親が亡くなった後、姉妹に明かしたら、皆そうであった。がっかりすると共に父親の愛を知った一瞬である。父親としてはしてやったりであろう。面白くも良い話である。多くの親とはそういうものである。普通の時にはいろいろあろうが、いざという時には皆同じように可愛いのである。
 ボクは高校時代から父親との関係は悪くなっていった。それが長い間続き、結婚しても別居になった。父が余命幾ばくもないと聞かされ、ボクが謝って同居した。余りにも遅かった。父が亡くなって、父の話を思いがけない人から聞くことが度々あった。やはりそこには息子に対する期待と愛情があった。子供とは愚かな者である。ボクには悔いがある。木本さんはこのようなカミングアウトで、幸せであると共に親孝行であったと思う。

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(第2506話) 夢ふたたび

2017年09月21日 | 活動

 “二年前、中部国際空港で、妻と関東に住む息子家族が「お父さん お帰りなさい」の手作り横断幕を手に、海外でのボランティア活動を終えて帰国した私を、温かく出迎えてくれた。久しぶりに見る初孫は、歩けるまでに成長していた。
 私は「教員を定年退職したら、途上国で国際貢献したい」という夢がかない、国際協力機構(JICA)などから、アフリカや東南アジアの国々へ派遣された。赴任先の学校は、停電、断水が当たり前だったが、純朴で瞳がキラキラ輝く生徒に囲まれ、周りの人たちの優しさに支えられ、健康で充実した生活を送ることができた。
 一方、四年半の赴任中、家は妻一人で守り、親戚や町内関係、老犬の世話など、孤軍奮闘の活躍でたくましくなっていた。
 そんな折、突然「もう一度力を貸してほしい」という派遣依頼が届いた。「まさか」。もう出かけることはないと思っていたのに。この年になっても、まだ必要とされることに胸がキュンとする。妻からは「これが最後」と引導が渡された。二人でのんびり過ごす時間は、もう少し先になる。再び夢を見させてくれる妻には、感謝の気持ちしかない。この秋には出発する予定だ。”(9月3日付け中日新聞)

 名古屋市のNGOボランティア・佐藤さん(男・68)の投稿文です。定年退職後の過ごし方はまさに様々である。過ごし方を多くの方は自由に選べる。やっと自由を得た思いであろう。だからここからこそ大きく人生が違ってくる。全く今までと違う道や、今までの経験を生かした道やいろいろあろう。佐藤さんは今までの経験を生かした道を選ばれた。それも国際協力機構(JICA)などを頼り、外国へ行かれる道を選ばれた。これは生半可なことではない。今まで以上に大変な道である。家族も大変である。それだけ思いが強かったのである。そして十分に満足して帰られた。そしてまた依頼が来るのである。それだけ関係者の信頼も厚かったのであろう。これには誠意と熱意だけでは済まない。その上に能力も必要である。素晴らしい。
 今の60才など元気な人には、青年と変わらない。ボクは60才で第一の人生を終えた後、ボクの定年は70才と思ってやってきた。そして今年6月第二の人生も終えた。いよいよ余生に入った。気分はがらりと変わった。余生と思ったら、より自由な気分になった。言いたい放題、やりたい放題である。ある機器によれば体年齢も体力年齢もまだ50歳代を保っている。行けるところまで行く気分である。

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(第2505話) 人生にじむ

2017年09月19日 | 活動

  “今年88歳になった母のたった一つの趣味は短歌を詠むこと。農家に17歳で嫁いできてから、母のもんぺのポケットにはいつも鉛筆と紙が入っていた。厳格なしゅうとめのもと農作業に明け暮れた母。田畑を耕しながら頭に浮かんだ歌を忘れないようササッとメモし、家に帰って皆が寝静まった頃ノートに書き写していたという。
 ある日、母は短歌を本格的に学びたいという気持ちが抑えきれず、父に相談した。当時、農家に嫁いできた女性に自分の趣味の時間などあり得なかった。養子だった父も両親に遠慮があり、言い出せなかった。しかし父はある日、こんなことを思いついた。リヤカーの荷台に母の着替えを隠して、2人で山の畑に農作業に行き、父は「夕方までには帰ってこいよ」と母を送り出す。そんな父の計らいもあり、母は念願かなってお寺の歌会に通えた。
 最近そんな母の短歌のノートがみつかった。野に生きた熱い思いと、わが子への愛が切々と歌われていた。母の歌は、母の人生そのものであり、私たちにとって宝物である。「吾子のため学資とならんこの畑に 立ち去りがたく月の影踏む」”(9月5日付け朝日新聞)

 東京都の会社員・加藤さん(女・63)の投稿文です。姑に気づかれないように、夫婦が協力して短歌を学びに行く、この熱意にも感嘆である。昔の農家である。嫁が趣味などにうつつを抜かすことなど、とんでもなことであろう。でもご主人も理解があった。奥さんの苦労と熱意を知っているからであろう。こんなことまでして、短歌を学ぶ。そんな時代、そんな女性があったのである。今の時代の何と豊かなこと、自由なことであろうか。そんな豊かさ、自由さが当たり前になり、さほどの努力もせず、不満を言っていることはないだろうか。努力のない中に喜びは少ないのである。もちろん今の時代も辛い生活をしている方は沢山あろう。一時に比べ、収入も減ってきた、労働も過酷になってきた人も多い。日本全体では豊かになっているのに、何かおかしい。
 ボクは今、老人クラブ連合会長としてある初事業に熱意を持って取り組んでいる。ボクの熱意で人をどこまで動かせるか、大変ながらも楽しみにやっている。

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(第2504話) 閉店への思い

2017年09月17日 | 活動

 “二〇一五年末をもって、夫と二人で二十年営んできた揚げ物屋「ころころ」を閉じた。閉店前は、開店時と同じく、寝る間がないほど忙しかった。最終日、バタバタの中で、お米の水加減を誤り、固いご飯になっていたことに気付く余裕もなく、残ったご飯を始末するとき、最後にひどいものを出してしまった、と後悔した。
 その後、居場所が分かる方、スーパーでお会いできた方には、お代をお返しすることができたが、あともう一人になかなか会えず、人が集まる場所ではいつも捜していた。それが先日、やっとお会いできた。「お元気でしたか」とあいさつされたが、それどころではなく「その節はすみませんでした」とお代をお返しすると「そんな昔のことは忘れてしまった。それよりいつも持ち歩いていてくれたのですか」と涙ぐまれた。立つ鳥跡を濁さず、というが、長い間の思いが解け、本当の意味の閉店ができた。
 「幼いときから来ていたので寂しい」と言ってくださった方、花や寄せ書きなどプレゼントをくださった方。言いだせば切りがない大勢のお客さま、本当にありがとうございました。私は今、人生最後の仕事に燃え、頑張っていますよ。”(9月1日付け中日新聞)

 愛知県稲沢市の介護職・加賀さん(女・64)の投稿文です。食堂を経営していて、間違えて固いご飯を出したので、その後代金の返却に走り回った。最後の一人になかなか会えず、代金を持ち歩いていて、その後会えて返却できた。こんな話が本当にあるのか、信じ難い話である。その場で代金を受け取らない、と言うことなら分かる。店を閉めた後である。閉店の日で混雑していたという。馴染みの人で、多くの人を分かっていたかも知れない。それでも大変なことである。最後の一人になかなか会えずとあるので、顔は分かっているが家が分かっていない。「そんな昔のこと」とあるので渡せたのは何年後か分からない。その事情を知れば、感激するはずである。それだけ客を大切に店を経営されたと言うことである。人間の誠意も人様々である。こんな人もあるのかと、ただ感嘆である。人間最後に最も大切なものは誠意や熱意であろうか。

 

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(第2503話) 夫の遺した日記帳

2017年09月15日 | 人生

 “家族や兄弟夫婦と、ささやかながら心のこもった夫の一年祭を済ませました。生前、夫からは「これは読むな!」と言われていた22年分の日記帳を開きました。夫には持病があり、20年の長い間、体調管理は私の責任でした。食事療法に必死に取り組みました。慣れるまでは夫の思ったような味にならず、一人になって泣いたことは何度もありました。それでも、夫の前では泣き言は言わず、愚痴もこぼすまいと自分の中で決めていました。
 夫はそれを分かっていてくれたのです。つらいことばかりではありませんでした。夫婦でゴルフもがんばりました。ゴルフバッグをかついで、ハワイ、グアムヘ遠征したこと楽しい思い出となっています。
 夫と過ごした55年の歳月の中で「ありがとう」という言葉を聞いた記憶はありません。ところが、日記の中にはいっぱい、たくさんの感謝の言葉があったのです。昭和一ケタ生まれの夫は、意思表示が下手でした。これからは八十路の坂を転ばぬよう元気に歩いて、感謝の日々を送ります。”(8月31日付け朝日新聞)

 静岡県伊東市の主婦・奥原さん(81)の投稿文です。日記を書くというのは非常に良い生活である。ボクももう何十年と続けている。その日記をどうするか、終活の重要な部分である。元々人に読んでもらうために書いたものではない。それを死後に残すのは意図に沿わない。残すと言うことは読まれる可能性大である。生前に処分するのが良かろうが、これがなかなか難しいのである。いつ死ぬか分からない。そして、長年書いたものである。それなりの努力があった。処分とはその努力を捨て去ることである。それができるか。
 奥原さんのご主人は「読むな!」と言われた。本当に読んではいけないものなら処分しておかなくてはいけない。それをされなかった。本当は読んで欲しかったのかもしれない。そして奥さんは読まれた。生前言われたことのなかった「ありがとう」の言葉が沢山あった。奥原さんはそれを知って、感謝された。本当はご主人はこれを伝えたかったのではなかろうか。結果残してよかったのである。さて、ボクはどうするのだろう。まだ考えたことはない。残していいことが多いのか、悪いことが多いのか、それも余り考えたことはない。ボクにはそれを考えるにはまだ十分な時間がある、と信じている人間の愚かさがある。

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(第2502話) ゆるゆる服

2017年09月13日 | 意見

 “ここ数年、特に女性が身に着ける服は裾や袖が大きく開いていてアンバランスなものが多い気がします。全体的にふわふわ、ずるずる、ゆるゆるといった印象を受けます。食事、トイレ、階段の上り下りなど日常生活の行動を制限されるのでは? 見ている方が心配になってきます。やはり緊急時は素早く動けないと大変です。
 性別を問わず締め付けすぎず、緩すぎず動きやすくて、温度調整も可能な機能的な服装が最も良いと私は思います。特に若い女性は自分の意思で服を選んでいるつもりでも、次々と流行をつくる商業主義に実は踊らされているだけかもしれません。街を行く皆が同じようなファッションを追い掛けているように私には映り、少し残念です。”(8月28日付け中日新聞)

 名古屋市の細川さん(女・76)の投稿文です。ボクは、服装とは身を守り機能性を持つものと定義付け、ファッションとは非機能性を以て人に見せびらかしたいもの、と定義付けたい。しかし、ただ見せびらかすだけの機会はファッションショーとか結婚式くらいしかない。服を着れば当然行動を伴うことがほとんどである。必ずと言っていいほど歩くことは伴う。階段もある。駅などの階段で、床にするほどの長い服装を着た女性を見るとヒヤヒヤする。少し引っかけたら転落である。かなりの気遣いだろう。逆にスケスケを見るとこれもまた気になる。とても身を守ることになっていない。痴漢を挑発しているのかという思う時さえある。作業服、労働服以外を合理的理由でもって説明できる服装は少ない。
 細川さんが言われるように、いろいろ理屈を付けながらも、所詮商業主義に踊らされているのである、とボクも思う。次々と目先を変えながらも、流行は巡るのである。本当によかったら巡りなどしないのである。と言いながらボクはどちらがいいとも言わない。所詮個人の好き嫌いの範疇である。

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(第2501話) 青い目の人形里帰り展

2017年09月11日 | 活動

 “一九二七年に日米親善のために日本に贈られた米国の人形と、返礼として米国に贈られた日本人形を集めた「青い目の人形と答礼人形 里帰り展」(中日新聞社など後援)が、一宮市真清田一の一宮スポーーツ文化センターで開かれている。二十五日まで。
 人形の贈呈は日米関係が悪化していた大正末期、米国人宣教師シドニー・L・ギューリックさんが提案。募金などを通じ、米国の人形約一万二千七百体が全国に贈られた。日本からはお返しとして五十八体が米国に贈られた。だが、太平洋戦争勃発後、米国から贈られた人形は「敵国の人形」として捨てられたり、燃やされたりした。
 里帰り展は人形を通じた日米交流の歴史を知ってもらおうと、四年前に有志で結成した「答礼人形を里帰りさせる会」が主催。七月から、豊川市と岡崎市で開いており、一宮が三ヵ所目。(中略)
 一宮市高畑町三の無職相沢秀行さん(七三)は妻三子さん(六九)と来場し、「特高警察に捕まることを恐れず、人形を保存していた人は勇気がある」と話した。里帰りさせる会尾張地区実行委員長の酒徳正司さん(七六)=一宮市千秋町=は「九十年の激動の時代を生き抜いた人形たちと、背景の歴史を見て、知って」と来場を呼び掛けた。”(8月24日付け中日新聞)

 記事からです。青い目の人形のことはうっすらとは知っていた。しかし、ボクは今回、その話を聞き、里帰り展にも行く機会を得た。これもちょっとした縁である。記事の酒徳正司さんは私の町内の人であり、電話を頂いた。この里帰り展について、PRをする機会はないのでしょうか、と言う問い合わせであった。同じ町内と言っても酒徳さんを知らない。ボクが老人会会長と聞いての電話であった。そして8月10日の「サロン羽根邨」に来て頂くことになった。展覧会のPRだけのつもりであったが、少し話を聞いて20分ばかり青い目の人形についての話をしてもらうことにした。これでただのおしゃべり会のサロンに彩りができた。サロンも定着したらこういう趣向も取り入れていくつもりであったが、早々にそういう機会になった。こういうのを縁、幸運、運がいいというのである。ボクは運がいい。そして、8月20日に妻と展覧会にも出かけた。

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(第2500話) ヨガで効率アップ

2017年09月09日 | 活動

 “私は会社の許可を得て、就業時間外に月一、二回、個人でヨガ教室を開いている。別の会社に勤めていたときに健康を損ねて苦しんだ経験から、周りの人たちには心身ともに健康であってほしいと願って五年ほど前に教室を始めた。ヨガを教えることは、私が生涯続けたいと思うライフワークだと考えている。この就業外の活動で、本業へのモチベーションも上がった気がしている。
 七月上旬、職場の同僚にヨガを指導する機会があり、「集中力が高まった」「頭がさえて会議で発言できた」などと心身の調子を整えることの効用を実感したようだった。今後は本業の顧客と協力して健康や心身に関わる事業を展開することもできるかもしれない。そんな気がしている。”(8月19日付け中日新聞)

 名古屋市の会社員・鷲尾さん(男・35)の投稿文です。ボクが今年4月、老人クラブ会長になったとき、体操教室の話が持ち込まれた。老人クラブで協力することにして5月から体操教室が始まった。指導に来る人は30代のサラリーマンの男性2人である。こんな人もあるのかと感心していたが、鷲尾さんも全く同じである。軽体操とヨガの違いだけである。人は様々、する人はするのである。鷲尾さんがヨガ教室を開くには理由があった。我が体操教室に来る指導者はどんな理由があったのであろうか、聞いてみたいものだ。
 心と体はお互い働き合って健康は維持される。集中して机に向かっているとき、少し離れて体を動かすと効率はよくなる。共に健康を保つ努力をしていきたいものである。高齢になるとより必要である。ボクはその体操教室に男性ひとりで参加している。多分今年は会長という役目からだろうと思っているだろうが、ボクは来年以降も参加するつもりでいる。老いた女性がほとんどと言えども、女性に囲まれているのは悪くない。

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(第2499話) 落とし物
2017年09月07日 | 活動

 “「あっ、これ見た?」と夫が指さした。朝、出勤を見送るためにガレージヘ出向いたときのことだ。道路沿いのフェンスにくくりつけてある1枚の手紙。ノートの切れ端に、赤いペンでこう書かれていた。「ハンカチひろって下さりありがとうございました。思い出の物なのでうれしかったです」。自然と笑みがこぼれた。
 我が家はカルチャーセンターの隣にあり、結構、人通りが多い。知る人ぞ知る、国道からの抜け道でもある。ゆえに落とし物も多い。ペットボトルやビールの缶、吸い殼といったありがたくないゴミから、タオル、髪留め、子どもの上着まで様々だ。
 私はポリ袋に入れ、「落とし物」の札をつけてフェンスにぶら下げておく。物が豊富な時代、大して困らないのか、ずっとそのままのこともあれば、取り外されることもある。しかし、お礼はめったにない。そうだ。赤ちゃん用ミトンの片方を拾ったとき、リンゴ形のびんせんがくくりつけてあったなあ。あれ以来だ。めったにないことだけれど、おせっかいおばさんはぶら下がり通信を楽しみに、今日も落とし物をくくりつけておく。”(8月17日付け朝日新聞)

 神戸市の大学非常勤講師・小山さん(女・64)の投稿文です。落とし物を見つけたときどうするか・・・拾う場所にもよるが、なかなか厄介なものである。ヘタをすると拾得物隠匿と思われる。それでそのまま見捨てておく。ホテルや店の中であれば、そのところで預ければいい。これは持ち主に届く可能性が大であろう。公園や道路ではどうだろうか。警察に届けるというのが模範的解答かも知れないが、警察が近くにあればいいが、なかなかそうはいかない。警察へ届けるくらい高価なものなら落とした人も届けるであろうが、小さなものだったら届ける人も少なく、返って落とし主に渡らないだろう。この時の対応が、小山さんの仕方であろうか。落とした人はある程度落とした位置が浮かぶであろう。それが通り道であったら、もう一度探して歩くかも知れない。それが分かりやすいところに置いてあたら、こんな嬉しいことはない。お礼も書きたくなると言うものである。
 ボクの家も通りが激しい県道沿いである。落ちているのはもっぱらゴミである。これは落ちていると言うより放って行くのである。困ったものである。小山さんのように心温まる交流は望めないだろうか。

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(第2498話) 私の洋服

2017年09月03日 | 活動

 “「年寄りなんか、何を着ても同じだ」と、夫は言うけれど、私はそんなことなど気にしないで、せっせと洋服を縫っています。デザインから自分で考えて、おしゃれな洋服だといつも思っているので、お出かけの時に着るようにしています。
 今から五十年前のある日、四日市の公園で私は彼(夫)とデートをしていました。夕暮れ時で、辺りは薄いオレンジ色に輝いていました。その日、私は自作のワンピースを着ていました。周りの景色に溶け込むような、オレンジ色のワンピースです。それは当時の女優、ソフィア・ローレンをイメージしたものでした。私は背が低く、もちろん彼女のように美人ではなかったけれど。でもその日、何と彼がプロポーズしてくれたのでした。
 もちろん、当時縫っていた時の気持ちと、七十四歳の今、ミシンに向かっているときの気持ちは同じではありません。今作っているワンピースを来年の夏に、着ることができるかどうかは、誰にも分からないのです。そう思うと、一着一着がとてもいとおしいのです。だから、夫に何と言われようと、残りの人生のひとときのおしゃれのため、私は今日もせっせと洋服を縫っているのです。”(8月14日付け中日新聞)

 浜松市の主婦・名倉さん(74)の投稿文です。この歳だから着るものに気を使わねばいけないのである。若い時は何を着たっていい、若さがカバーしているのである。若さに勝るものはないのである。それをわざわざいろいろやって覆い隠しているのはもったいない、とボクは思う。老いて衰えたとき着飾ってカバーするのである。名倉さんは正しい、ご主人は間違っている。ボクは妻にこのようなことを言ったことはない。さてボクはどうか?昔から着るものにはほとんど無頓着である。そう思えば今の方が気を使うようになったかも知れない。妻もそのように仕掛けてくる。退職してスーツを着ることはほとんどなくなった。それだけにいろいろ着られる。カラフルなスポーツシャツやTシャツを着ることが多くなった。ボクは成長している。
 それにしても女の人はコマ目だ。自分の着るものは自分で作る。着るものを作らない人は、他の手芸や小物を作っている。ボクの知り合いは、ブーケなどをたくさん作り、サロンや老人会の旅行で配ってくれる。これが元気で長生きの秘訣であろう。自作のワンピースを着ていってプロポーズされたなど言う思い出があれば、いつまでも頑張られるであろう。女性はこういったことをいつまでも覚えている。

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(第2497話) 着せ替え狸

2017年09月01日 | 活動

 “昔、行きつけだった蕎麦屋の店先には小さな狸の置物があって、いつも服を着ていた。ある時は浴衣、ある時はサンタ、ある時はなんとかレンジャーのTシャツといった具合だ。全て店主の息子のお古で、季節ごとに着せ替えられる。それがちょっとした楽しみだった。
 麺が美味しくてお気に入りだったが、私の引っ越しにより自然と足が遠のいた。今日、約二十年ぶりに店を通りかかると、当時のまま狸はそこにあった。裏口から小さな女の子が走ってくる。それを追って男性が出てきた。狸が着ているのはフリルの付いたピンクのワンピース。
 着せ替えは受け継がれたらしい。さて、蕎麦はどうだろう。私は期待を込めて暖簾をくぐった。”(8月13日付け中日新聞)

 「300文字小説」から愛知県田原市の主婦・川口さん(40)の作品です。町中のこうした置物は楽しいものである。通りを行く人に楽しんでもらおうという、その家の人の思いやりが感じられる。着せ替えには結構工夫が要る。この店の人は息子さんの古を活用されている。
 ボクの隣村にハッとされられるような野良着姿の案山子をおいている家がある。全く上手にできている。ボクもそれを楽しんでもらおうと、数年前から道路際に案山子をおいた。ただ手を上げて立っているだけの案山子である。楽しみにしていると言われて嬉しくなったが、それからが結構苦労である。年に数回だが着せ替えをする。多くはボクの古着を使うが、ネットで顔の面も買ったし、サンタクロースの衣装も買った。そろそろ次の着せ替えを考えねばならない。先日までトランプ大統領の面であったが、次は誰の面になるだろうか。こんなことを思ってくれる人があったらボクも嬉しい。これもボクの楽しみだ。余生はいろいろなことを楽しもう。

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川柳&ウォーク