“三月中ごろ、一宮市千秋中学校宛てに一通の手紙が届いた。差出人の名は「江南市○○」とだけ書かれてあった。校長の川口和彦さん(54)が開封すると、こんなことがつづられていた。
「先日、手押し車を押して踏切に差し掛かった時のことです。五、六人の男子中学生が『こんにちは』と声を掛けてくれました。『こんな年寄りにありがとうね』と答えると、『そんなこと、当たり前だよ』と言われました。さらに『おばあちゃん、気を付けてね』と。うれしくて学校名を尋ねると、千秋中学校とのことでした。私は涙があふれて止まりませんでした。あの子たちを教育してくださった先生方になんとお礼を申し上げたらいいか。誠にありがとうございます。88歳」
川口さんは思った。「こんにちは」の一言が、なぜそんなにもおばあちゃんの心に響いたのだろう。それも涙するほどに。(後略)”(4月16日付け中日新聞)
志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。一言の挨拶がこんなに喜ばれるとは、こんなこともあるのですね。やはり少しでも良いことはするべきです。良いことをして悪いことになることはありません。こんな思いもかけない結果になることもあるのですから。校長先生も「たかが一言、されど一言。今回の手紙を生徒に披露し、たった一言で人を感動させられる場合もあることを教えたいと思います」と言っておられます。
この千秋中学校はボクの母校です。ボクも嬉しくなってこの「話・話」で紹介しました。良い話が広まっていくのはまた嬉しいことです。そしてまた良いことに繋がればボクの「話・話」もより生きるというものです。
でもこうは言いながらも、挨拶は普通のこと、良いこととわざわざ言わねばならぬことがおかしい。それだけ現代社会は挨拶が減ったと言うことでしょう。昔は村中で出合えば知らない人同士でも挨拶をしあったものです。この春休みに高校2年の孫がニュージーランドへ短期留学をしました。そして帰って来た報告で、どこでも声をかられる、例えばエレベーターに乗るときでも声をかけられたと、感激して話していました。乗るときにも声をかけて乗るのが普通のことのようです。それだけ挨拶が生活の中で習慣のようになっている。ボクも地元で会う人には挨拶を心がけていますが、知らない人では返ってくることの方が少ないですね。