ha1609

第148号  2016年9月

2016/09/28(Wed) (第2336話) 発言欄読み 寺さん MAIL 

 “今年の夏休みは中日新聞の発言欄を読み、スクラップブックに貼って、その意見に対する自分の意見を書きました。その中で、幅広い年代の人たちの考えや思いからたくさんのことを学びました。戦争の体験談を読み、僕たちが今の平和を大切にして守っていかなければならないと強く感じました。熊本地震の被災他の中学生の投稿もあり、大変な状況も知りました。
 今の世の中について、若い人と高齢者の人のとらえかたの違いもよくわかった気がします。はやりのゲーム「ポケモンGO(ゴー)」について、若い人はマナーを守って遊べばよいと言います。高齢者の方は、ゲームは仮想のことだから、もっと自然の美しさに目を向けてほしいといった思いを持っていることが伝わってきました。
 いろんな人の「発言」を読むと、「あ、そんな考えもあるのだ」という新しい発見があります。そして、自分の考えも幅広くなると思いました。”(9月9日付け中日新聞)

 三重県四日市市の中学生・奥野さん(男・12)の投稿文です。12歳というと中学1年生であろうか、投稿欄のスクラップとは良いことを思いつかれたものだ。そして気がつかれたことも立派である。こういう姿勢をいつまでも忘れないで欲しいものだ。専門家や世に名の通った人の書かれた本や文を読むことも必要だ。しかし、普通の人の書かれたものを読むことも必要だ。ボクの「話・話」はほとんどが投稿を利用させてもらっている。これは身近な事例であるからである。自分が遠く及ばない人の話ではない、身近な事例は自分もその気になればできる可能性があるからである。奮起を起こさせる。読者の皆さんにもそう思って頂けると思っている。
 そして気をつけたいことは、批判的な話である。例えば「今の子供は○○がいけない」といえば「大人でも○○の人がいる」と言って対抗する。個々を取れば世の中いろいろな人がいる。立派な大人ばかりではない。社会一般の話になった時はその割合である。悪いことの話になった時、それが大半か半分以上かである。一部の人の話になったら批判合戦になってしまう。これはすべてのことに言える。批判合戦には気をつけたいものだ。ところが良い話はいい。1人の行いでも大いに宣伝すればいい。大いに宣伝して広めればいい。これが「話・話」のめざすところである。




2016/09/26(Mon) (第2335話) 幸福 寺さん MAIL 

 “「省ちゃんは幸せだよな。おれは幸福なんかとは無縁だ。はっきり言って不幸な人間だよ」友達の口から出るのは不満ばかりだった。ふしぎなのは、不平不満を並べる時の彼が生き生きと元気なところだ。二日前には、何年も通っている歯医者さんの悪口や、年金が減額されることへの怒りを延々と聞いて、くたびれた。
 「腹立たないのかよ。省ちゃんはよっぽど幸せなのか、鈍感なのか、どっちだ」と、失礼な男だ。省三さんの場合「ま、こんなもんだろ」と前向きにあきらめる。(中略)
 幸福も不幸も心の持ちようだと思う。不満だらけの友達は、実は金持ちだった。貯金が減るのが、怖くてたまらないらしい。「早い話が幸福になる方法を探して苦労するより、自分はこんなとこが幸せだと数えてみる。意外にあるよ、幸福ってもんは」友達は皮肉っぽく「ふふん」と笑うばかりだった。”(9月7日付け中日新聞)

 西田小夜子さんの「妻と夫の定年塾」からです。世の中口を開けば不平不満である。幸せ、満足と人前で言うのがはばかられる感じがある。これはどこから来ているのであろうか。批判精神を養いなさいと言われてきた。批判精神がないと愚かと思われるほどである。しかし、批判精神から満足は生まれない。この豊かな友達の不平不満も批判精神の別の形ではなかろうか。不平不満と批判精神は違うものと識者は言われるかも知れないが、一般の人には格別の違いはない。前回でも触れたが、一億総中流とか国民総中流といった時代がある。中流、人並みと思えばそれ程の不満ない。当時より今は格段に豊かになったはずだ。それでも不満は格段に多くなった。物で賄い得ないことも分かった。物より心というようになった。不平不満は絶対的なものではない。昨日より今日が良くなれば不満は少ない。また、人との比較で生じるのである。格差が大きくなれば不満も多くなる。これも前回でも触れたが、2極化してきている。これが今の状態ではなかろうか。これで省三さんの言葉が生きてくる。「幸福になる方法を探して苦労するより、自分はこんなとこが幸せだと数えてみる」。そして、「意外にあるよ、幸福ってもんは」となるのである。満足では進歩発展はないかも知れない。でも老いたら満足でいいのではなかろうか。そうは言っても満足ってなかなか得られるものではないのだから。




2016/09/24(Sat) (第2334話) 視覚障害者に声かけを 寺さん MAIL 

 “東京メトロ銀座線で盲導犬を連れた男性がホームから転落死する事故がありました。以前、電車通勤をしていた頃、無人駅のホームで白いつえを持った人が電車のドアを探しているのを見かけました。「危ない」と、私は車内からホームに飛びだして「こちらがドアですよ」と誘導しました。その時は視覚障害の知識もなく声を掛けました。その人は、電車によってドアが変わるので困ると話していました。それから会うたびに駅の改札口まで一緒に歩くようになりました。
 いつも短時間の会話でお互いに名前も知りませんでした。ある時、私の勤務するスーパーに家族と共にポロシャツを買いに来てくれました。色の見たてをしてとても喜んでもらったのを鮮明に覚えています。
 私は今、視覚障害者ガイドヘルパーの資格を持っていて、危険な場面を見かけたら、遠慮せず知らせてほしいとの声をよく耳にします。周囲の皆さんの声掛けが命を守るのですから。”(9月6日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の障害者相談員・大谷さん(男・69)の投稿文です。この転落事故は大きな反響を起こしています。晴眼者のボク達に盲人の方の世界はなかなか理解できないものです。そして、町の中で何気なくいろいろな間違いをしています。点字ブロックの上に立ったり物を置いたり、白杖の前をぎりぎりに通り抜けたり・・・。最近はスマホなどを眺めている人が多く、障害のある人が来ても気がつかない。町中のバリアフリー化もかなり進み、障害のある人も町に出やすくなった。まだまだ改善の余地はいくらでもあろうが、それをしても晴眼者が理解しなければ生きてこない。これからは人の問題が大きくなる。しかし人の問題は逆行している気がする。その点、大谷さんは立派だ。電車の中から飛び出して呼びかけ、そして今では障害者相談員である。この人との出合いが相談者にさせたのかも知れない。心ある人はいくらでも進化する、人とはこんなものかなと思う。今の世の中、何事につけ2極化している。望ましいのは近寄ることであろうに、これも逆行している。一億総中流と言われたのはいつだったかな。その時はどのように世の中を言っていたのか、もう一度振り返ってみたい。




2016/09/22(Thu) (第2333話) 娘の誕生日 寺さん MAIL 

 “夏の暑さが一時和らいでいた七月下旬、勤務先で帰り支度をしていた私のスマートフォンがビーと鴫った。「一緒に飲もうよ」。缶ビールを持って笑う写真が添付された、娘からのメールだった。今日は娘の二十歳の誕生日。これから堂々とお酒が飲める日だ。予想外であったが、こんなお誘いはうれしいもの。急いで帰路についた。
 実は娘がお酒を口にするのは、今日が初めてではない。二歳の誕生日。目を離した隙に、私のビールグラスに口をつけている。苦くてすぐやめるだろうと思い、私はビデオカメラでそのかわいいしぐさを撮っていたが、チュッチュ飲み始めてしまったのだ。
 この出来事を以前話したことはあったが、自分の成長ビデオを見ることが好きではない娘は、全く記憶のない幼い日のエピソードには触れられたくない様子だった。だから今日はその話はしないと決めて帰宅した。着替えもそこそこに「乾杯!」。娘との久しぶりの楽しいうたげでした。その夜、娘が寝静まってから、そのビデオを引っ張り出して見て、思い出に浸りながら無事に成長してくれたことに感謝。
 今度はお父さんから言うね。「一緒に飲もうよ」って。そしてお嫁に行っても、時々は付き合ってね。”(9月6日付け中日新聞)

 名古屋市の会社員・浅見さん(男・51)の投稿文です。娘さんから一緒にビールを飲むことを誘われる、これはいいですね、父親にとってはたまらない嬉しさでしょう。こういう子供を育てた褒美でしょうか。娘さんにとって父親は、鬱陶しいものが一般でしょう。ボクなど典型でしょう。女房はしょっちゅう食事などに誘われるのに、ボクにはほとんどない。あっても妻と一緒である。妻を誘えば費用は出してくれるから、マアたかりみたいなものではあるが。でも、そういう機会を持つ、親子にとっては大切なことです。親子に限らず、夫婦でも友達でも接触の機会を持つ、心がけていきたいことです。最近のようにメールやラインなどに頼り、直接話す機会が減った現在こそより必要でしょう。




2016/09/20(Tue) (第2332話) 「全然」の使い方 寺さん MAIL 

 “「ママ、あの映画全然おもしろかったね」。買い物帰りのレストランで隣り合ったテーブル越しに少々違和感のある母子の会話が耳に留まった。最近とみに耳の遠くなった私。「全然おもしろくなかったね」の聞き違いかとも思ったが、違ばれたお子様ランチも「全然おいしい」と楽しげだ。帰って辞書を聞くと、「あとに打ち消しや『ちがう、別だ』などのことばが続いて(まったく、まるで)」とある。少なくとも私はこの半世紀、そう思ってきたが、先日、テレビでリポーターの質問に「わが家は全然大丈夫」と答えていたのを聞いた。
 時とともに言葉は変化する。言葉の乱れとめくじらをたてず、「全然平気」を受け入れた方がいいのかもしれないとも思った。”(9月6日付け中日新聞)

 三重県亀山市の主婦・岡田さん(85)の投稿文です。日本語の話ももう何度も書いたことである。特にこの「全然」の使い方は、未だボクも全くなじめない。多分、最初は知らなかったのか奇異を狙って使ったのか知らない。それがいつの間にか一般になってしまった。岡田さんが言われるように、言葉も生き物、変化していくものかもしれない。しかしこれなどは間違いとはっきり言って欲しいものだ。こうした使い方始め、変な造語、カタカタ言葉の氾濫、正しい日本語はどこへ行ったのか。正しい日本語をわきまえての氾濫ならまだいいが、その正しい日本語を知らずに変化していく。英語教育に力が入れられている。日本語をなくそうというのであろうか。そうではあるまい。それならまず正しい日本語を教えてからの英語であろう。高齢者にはやりきれないことであろう。ボクなどイライラしている。




2016/09/18(Sun) (第2331話) 日日美しい 寺さん MAIL 

“自分の意思では何ともならない名前。以前、「ひととき」欄で私と同じよう思いをされたかたの記事を読み、ペンを執りました。
 私は「昌美」。80年前に生まれた女の子は「○子」「○枝」などが主流でした。小学校の時、漢字は違うけど読み方が同じ男子がいたため、男の名前だとからかわれました。中学生になった時、同級生の雑学博士君から「縦に線を引いて左右対称になる字は、昔から良いって言われているよ」と初めて名前についてうれしい言葉をもらいました。開眼でした。
 社会人になるにつれて自分の名前が好きになりました。「昌を上下に分けて、日日美しいと書きますが、現実は大変難しいことをこの顔が証明しています」と、説明を楽しむ言い方も見つけました。80歳になり、自己紹介する時がありました。待っていましたとばかりに、「老いてなお、日日美しい中島です」と言うと、しわくちゃ顔を見て爆笑され、雰囲気が良くなりました。
 小さい時は命名した祖父を恨みましたが、自分の名前で、こんなにうれしい時が来るなんて思ってもみませんでした。おじいちゃん、ありがとう!”(8月29日付け朝日新聞)

 横浜市の主婦・中島さん(80)の投稿文です。名前の話ももう何度も取り上げた、それだけいろいろな想いがあるのだ。中島さんは、男の名前と間違えられて嫌になり、それから縁起がいい名と言われて開眼し、更に自分で意味を見いだし楽しむようになった。日日美しいはいいですね。名前は本当に日日使うもの、それも人から読んでもらう場合が多いもの。名前で感じる第一印象もある。名前を付けるのは親の権利であるし、義務でもある。だからいろいろ考える。その時何を考えるかが問題である。最近の名前にボクは疑問ばかりである。親の思いがあってだろうが、使う本人のことを考えているのだろうか。中島さんが最初嫌ったように男か女か分からない名前、読めない漢字、書くのが非常に辛い漢字、ボクにはそんな名前が最近非常に多いと感じる。今年の甲子園野球を見ながら、妻と選手の名前を読んでみた。これで間違いがないと自信を持って読める名前の少ないこと、驚くばかりであった。名前は親から子供への最初のプレゼントでもある。使う子供の身になってよく考えてもらいたいものだと思う。幸いボクの家族は、孫まで含めて10のうち8人は間違いなく読んでくれるし、書くのにそれ程の苦労はないと思っている。




2016/09/16(Fri) (第2330話) 制限された大人 寺さん MAIL 

 “高校生を大人として見るか子供として見るかという議論は今に始まったことではないが、私は高校生は「制限された大人」として捉えるべきだと思う。私たちが何かをしようとすると「高校生にはまだ早い」と言われる半面、「高校生だから我慢しなさい」ともよく言われる。時には「高校生のくせに」とも。大人は一体、高校生をどう捉えているのだろうか。私は、高校生は立派に大人と同じような思考を持ったり、大人のような振る舞いもできたりすると思う。
 確かに、高校生は社会的な責任が取れないとされ、残念ながら責任感の欠如した人もいる。しかし、高校生でも罪を犯せば逮捕されるし、賠償させられることだってある。だからこそ私は、高校生が法律や規則から「制限された大人」だと思う。
 したがって、私たち高校生は大人として捉えられるよう、社会に出た際にきちんとした大人であれるよう、自分の行動への責任を自覚すべきだ。”(8月26日付け中日新聞)

 名古屋市の高校生・福定さん(男・17)の投稿文です。単なる意見であるが、これは検討する価値があると思って紹介した。働くならもう子供ではない、大人である。子供扱いをされたら怒りも生まれよう。これはボクの感覚である。高校へほとんどが行かなかった昔は、中学を卒業すれば大人であった。多くが高校へ行くようなって中途半端になってきた気がする。選挙権が18歳に引き下げられた。これは全くの大人である。結婚年齢は男は18歳、女は16歳である。結婚は自立すると言うことである。これが子供というのはおかしい。女が16歳と言うことを改めて思い出し変な話だと思った。成人式は20歳である。飲酒喫煙は20歳である。これは実態とかなり離れている気がする。いろいろちぐはぐがある中で、高校生は制限された大人という言い方に、なかなかいいと思った。大人扱いをして自覚を持たせる。そうした中で一部の制限があるとこれも自覚させる。今、成人年齢を18歳に引き下げる民法改正が議論されている。ボク達も考えて見ていい問題と思った。




2016/09/14(Wed) (第2329話) ラジオ体操 寺さん MAIL 

 “今年は私が中心となってラジオ体操をすることにした。一年生のときに比べて、地域の子供のラジオ体操へのしんけんさや参加人数が減っているのではないか。そこで私は体の調子が悪いとき以外は、必ず参加し、しんけんに元気よく取り組もうと思った。祖母からもらったさっしで、ラジオ体操は80年以上前からの歴史あるもので健康を喜び合うためにできたということを知ったからだ。
 子供の運動能力が低下していると耳にする。けいたいゲームの出現、じゅくや習い事通いにいそがしく、自由に外で遊ぶ時聞か減っているからという。ラジオ体操に参加する習慣をつけて、体力を少しでもつけることが大切だと思う。朝起きるのがつらくて、「きょうはもういいや」とつい思ってしまうときもあるが、朝に運動すると気持ちよく一日のスタートをきれる。”(8月24日付け中日新聞)

 滋賀県東近江市の小学生・河瀬さん(女・12)の投稿文です。ラジオ体操はもう何度も話題にしてきた。今回は小学生の話である。子供のラジオ体操と言えば夏休みの活動がある。この話はこの夏休みのことであろうか。年中活動のようにも読める。
 ボクの村にも、夏休みにお寺の境内で子供がラジオ体操をしている。住職の計らいである。そしてボクが参加を始めて4年になる。今年も参加した。大人の参加は数名の父兄の他にはボク一人である。そして、子供の実態を見ている。今のボクに多くの子供を知る唯一の機会である。ラジオ体操を今の学校で教えているのであろうか。キチンとできる子供はほとんどいない。多くはいい加減にやりながらおしゃべりをしている。注意をしようかと思うが、住職は来てもらえるだけでありがたい、と言われるので黙ってみている。娘に言わせると、参加する子はまだいい、ほとんどが参加しないという。30人ほどが来ていたが、全部で何人なのだろうか。
 河瀬さんは全く立派である。最上級生としての自覚がある。ボクの孫も来年は6年生であるが、見ていて全く心もとない。来年の夏休みまでに何とかしてやりたいと思うが、本にがその気にならないとこれも難しい気がする。ボクはラジオ体操を非常に評価をしている。もう少し広まらないかと思っている。今のままでは広まるどころか、衰退であろう。




2016/09/08(Thu) (第2328話) 読書感想文 寺さん MAIL 

 “朝から読書感想文の宿題に取りかかっている小学三年生の息子の機嫌がとても悪い。「あー、できない、できない」と言ってかんしゃくを起こし、周囲に当たり散らしている。そんな息子にイライラしながら、やっぱり私にそっくりだなあと、思わず苦笑してしまった。
 私も三年生の時の読書感想文の宿題で、息子と同じようにかんしゃくを起こし、見かねた母に手伝ってもらった。ほとんど母の書いた感想文を学校に提出した。その感想文は先生の手も加えられ、学校代表となり、最終的に新聞に載り、私は立派な賞状をいただいた。
 母は「あんな思いをするのはもうこりごり」と言って、それ以降、手伝ってくれなくなった。私も同じ気持ちで、それからは自分で書くようになった。
 二日かかって、息子は感想文を書き終えた。本の内容を写しただけの、ぐちゃぐちゃの文字で埋められた原稿用紙を見せられて、思わず「やり直し」と言いたくなった。だが「いいんじゃない」と言って息子に返した。少なくとも当時の私よりは、ずっと立派だと思ったからだ。いつか、自分の思いを文章に書けるようになるといいねと、心の中で息子にエールを送った。”(8月23日付け中日新聞)

 岐阜県瑞浪市の主婦・加知さん(39)の投稿文です。小学生に感想文の宿題は重荷のようだ。宿題で最後まで残る代表のようだ。9月2日の朝日新聞には「読書感想文マニュアル論争」についての記事があったが、その中に一番手こずる夏休みの宿題で読書感想文が一番とあった。やはりである。それを、ほとんど母の書いた感想文で賞までもらっては、更に重荷になろう。お互いもうこりごりである。実はボクにも似たような経験がある。中学生の時、弁論大会の文をほとんど親に書いてもらった。そして、学校代表にまでなった。可知さんと同じように苦い経験となっても嬉しい経験にはならなかった。本人が一番よく分かっている。可知さんはその経験から自分の子供には黙ってみていた。親の忍耐のような話である。
 先日娘と小5の孫が読書感想文を持って来た。学校代表になったという。可知さんと同じような経過だったろうか、気になって聞いてみた。すべて自分で書き、句読点などのアドバイスを受けただけのようだ。良かった。この後どんな報告がくるか、楽しみだ。




2016/09/06(Tue) (第2327話) 腺友ネット 寺さん MAIL 

 “前立腺がんと診断された兵庫県宝塚市の武内務さん(68)は、希望する治療法にたどりつくまでに約1ヵ月かかった。海外のサイトで得た情報をもとに、当時最先端の「強度変調放射線治療(IMRT)」を京都大学病院で受けたのは診断から約4ヵ月たっていた。
 「同じように治療法がわからず、悩んでいる患者を肋けられないだろうか」。退院後、趣味のマラソンのことを書いていた自身のサイトに、闘病記を掲載した。約3万字に上った。「こんな治療法があるとは知らなかった」と反応が届いた。
 治療法の解説ページもつくった。少しでも理解しやすいようにと、がんを暴走する車に例えてみた。血液中の前立腺特異抗原(PSA)は排気量、がんの進行度は走行距離、悪性度はドライバーに見立て、正しい道(治癒)に戻るため、まずは病態を知ることが大切と訴えた。内容は主治医の溝脇尚志さん(52)ら専門医にチェックしてもらった。(後略)”(8月24日付け朝日新聞)

 朝日新聞朝刊にはもう3100回以上に及ぶ「患者を生きる」と言う連載記事欄がある。この文は「仲間と歩む 情報を届けたい」と言うシリーズの第3回目の一部である。この欄もあまり読んでいなかったが、ガンと言われてから時折読むようになった。そして今回、第1回目から読んで武内努さんに敬服してしまったのである。武内さんのホームページ・腺友ネットを見てみた。今まで見たガン知識のどれよりも詳しい「前立腺がんガイドブック」、専門家の講演の動画、自身の体験話や他の人のがんの話しへのリンクなどが掲載されていて、患者・家族の会「腺友倶楽部」も設立されている。その意欲と能力にただ脱帽である。武内さんは5年生存率20%と言われてもう13年になるようだ。これもこの意欲に寄るのだろうか。手術前に読んでおきたかった。もっとよく前立腺ガンのことを理解しただろう。でもボクの場合、結果的にダビンチによる手術をしたろうし、経過は同じだったと思う。それでももっと知っているのと知らないのは違う。
 また腺友ネットを見てみるが、尿漏れについての内容は少ないと言う気がする。ボクが完全に治ったら、この経過を知らせてみる価値はある気が今はしている。




2016/09/04(Sun) (第2326話) 降格 寺さん MAIL 

 “昨年、勤務先で部長から課長に降格された。理由の説明は受けたが、私としてはなかなか納得できない懲戒理由を押しつけられたような気もしている。サラリーマンとしては、またもや深い谷に落ちた。しかし、そんな中でも依然として「良かった」探しをしてみると、見えてきたことがある。
 まず、降格という経験には希少価値がある。そして、逆境に立たされたときほど、人の真実が垣問見える。「貧の友は真の友」という言葉があるとおり、これまで以上に親切に接してくれる同僚達もたくさんいる。
 次に、単なるワーク(仕事)ノキャリア形成のみならず、広くライフ(人生)のキャリア形成を考えるチャンスだ。かつて電力の鬼と呼ばれた松永安左工門氏は、「人間は、浪人、闘病、投獄の『三つの節』。を通らなくては一人前ではない」と述べた。一見すると、「負」に見える経験が、実はライフのキャリアでは重要な転機になる、と私も思う。(後略)”(8月21日付け中日新聞)

 ダイバーシティ・コンサルタントの渥美さんの「6Kライフのススメ」からです。ここで言う6Kとは、会社、子育て、家事、介護、看護、子ども会のことらしい。今までこの欄はよく読んでいなかったので、今までどんなことが語られていたのか知らない。今回「部長から課長に降格」というタイトルに読む気になった。紹介した文はこの文の前半部分である。そして、この降格は渥美さん自身のことのように読める。それにしては「良かった探し」と言われるように淡々とし過ぎている気がするが・・・。
 サラリーマン世界で「降格という経験には希少価値がある」と言ってみえるが、ボクのサラリーマン経験からしても見かけ上同格にみえる左遷はいくらでもあるが、本当の降格となると少ないと思う。そして読んでいて、ワーク(仕事)のキャリア形成とライフ(人生)のキャリア形成という言葉に引かれて紹介する気になった。これは確かに違う。そしてどちらが重要かというと、それはライフであると思う。ワークはライフの一部であるからである。後半部に「ワーク面での華麗なキャリア人を感心させても感動は与えない。逆に、ライフ面で試練を乗り越えたキャリアは、感動や共感を呼ぶ」とある。頷くのである。ボクも今、前立腺ガン手術から尿漏れ対応に苦労している。ガンになることはマイナスである。でもこのマイナスの体験はライフではプラスになることもあると思っている。この状況がこの文を読ませたのかも知れない。松永安左工門氏の「3つの節」はさすが凡人の域ではない。そうなのか、と唸るばかりである。




2016/09/02(Fri) (第2325話) 免許返上 寺さん MAIL 

 “7月はじめ、後期高齢者とよばれる年齢になりました。気持ちは若いころと変わらないと思っていたのに、いつのまにか、まぎれもない老人になっていたのです。身体は正直です。しわが増え、もの忘れが進み、つまずきやすくなって、家の階段も手すりを持つことが多くなりました。
 3年前、自分用の軽自動車をバックで駐車しようとしたところ、アクセルを踏みすぎて壁にぶつけてしまいました。「大丈夫」という自信がゆらぎ、高齢者の運転事故のニュースも気にかかっていたのに、運転をやめることはできないでいました。けれど75歳を迎えて、身辺整理の第一歩として運転免許を返上する決心をしました。私の運転をいつも心配していた少し年下の夫は喜んで賛成し、今後のアッシー君を引き受けてくれました。
 保険や車検など1台分の経費を節約できた分は、2人で楽しいことに使おうと決めました。そして今私は、片道30分以内ぐらいの用事は運動をかねて、せっせと歩いています。足に筋肉がつき、肩こりも楽になった気がします。これも「一石二鳥」といえるのでしょう。”(8月17日付け朝日新聞)

 岐阜県羽島市の伊藤さん(女・75)投稿文です。運転免許返上の話はもう何度も取り上げたと思う。これだけ車社会となってしまうと、返上が必要と思っても、いろいろな条件が整わないと返上の踏ん切りはつかない。ボクにはまだまだ先のことと思っているが、心の準備は必要である。
 車の必要性について、理性で考えると、ボクの地域ではそれ程必要ではないのである。公共交通機関もある程度ある。自転車で30分も行けばほとんどのことは用が足せる。仕事や通勤に使わなければもう要らない。必要ならレンタカーを借りるなりタクシーを呼べばいいのだ。この方が経費的には格段に安くなろう。これだけ分かりながら、ボクは今年、妻用の軽自動車を買い換えた。2人で2台である。只今度の軽は以前より広く、ボクでも十分乗れる。問題はいつボクの乗っている普通車を手放すかである。手放せば伊藤さんと同じ状態になる。しかし、車屋さんは手放す人はほとんどないと言った。それより手放した人がまた買うことが多いとも言った。車は危険物である、理性は働かせねばいけない。



川柳&ウォーク