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第146号  2016年7月

2016/07/30(Sat) (第2308話) 桃太郎の力で 寺さん MAIL 

 “民話の紙芝居を手作りし、毎月二つの高齢者施設で演じるボランティアを始めて7月で11年目になる。6月は「一寸法師」をした。鬼が忘れた打ち出の小づちを振ると一寸法師は姫様にお似合いの長身に。利用者から「よっ」とかけ声がかかり、盛り上がった。ラブストーリーは好評だ。
 介護保険がない頃認知症の母をみた。徘徊しないよう、一時も母から目を離せなかった。いつも寝不足で、疲れていた。あるとき、2人とも元気なくつまらない顔をしていた。ふと私は「桃太郎」の話を始めた。途中まではがんばって話したが、一瞬、寝てしまった。すると耳元で母のしゃがれ声が聞こえてきた。不正確ではあったが、話を続けていた。
 1998年に母をみとった後、私は介護相談員になった。日中、施設で利用者がぼーっとしているのが気になった。あの日のことを思い出し、「桃太郎」の紙芝居を持ち込んだら、好評だった。図書館で本を借りては紙芝居を描いて、今は14作品に増えた。皆さん小さい頃の記憶を覚えていて、話をもとにした童謡も歌ってくれる。7月は「大黒さまは〜」の「因幡の白うさぎ」をやる予定だ。”(7月11日付け朝日新聞)

 埼玉県春日部市の介護相談員・高畑さん(女・73)の投稿文です。お母さんの介護を終えて介護相談員となり、今は高齢者施設で紙芝居のボランティアをしている。ボランティアを始めて11年、今73歳である。やる人はやるものである。ボクの妻も長いことボクの母親の介護をしてきた。終えてホッとし、もう介護は開放だ、と言う気持ちのようだ。本当に高畑さんには脱帽だ。
 何事にもきっかけや起因となるものがある。高畑さんが紙芝居を思いついたのが、お母さんの介護中の出来事だったというのがまた面白い。面白いと言っては失礼だが、何がそうさせるのか、また分からないものだ。こうなると人間性と言うより仕方がない。これは一朝一夕にできるものではない。日頃からの心がけである。その心がけが生き甲斐を作る。何も桃太郎さんの力ではない。高畑さんの力である。ボクのこれからはどうなるのか。これからの生き甲斐になるものを蒔いてきたのか、心もとないのである。




2016/07/28(Thu) (第2307話) 傘寿展 寺さん MAIL 

 “さまざまな趣味の八十歳の小学校同窓生七人。たそがれにはいまだ間があると、頑張る日々を送っています。先日、皆で百貨店のギャラリーで「小学同窓傘寿の記念展」をやりました。水彩、油彩、パステル、ちぎり絵、写真、書など教室で学んだり、あるいは趣味に励んだ作品を持ち寄って出展しました。出来栄えは、趣味ならまあまあのレベルかな、という程度。さすが百貨店の会場。多くの方が来場され、それぞれお褒めや励ましの言葉をいただきました。
 無事展覧会を終え、気持ちが盛り上がったところで、「もう一度やりたいね」の声。温厚なT君が「傘寿の次は米寿かな」。再挑戦に異議は出なかったものの、「八十八歳は無理でしょう」の意見。再びT君が、「あきらめればそこで終わり。あきらめなければ夢はかなう」。
 みな年相応に、何らかの症状と向き合っている。かつては八十歳代などは超高齢、おじいさんの世界だった。今は八十歳代など普通だ。なにせ、傘寿展を自分たちでコーディネートしているのだ。あきらめなく努力していけば「ひょっとして、ひょっとする」場面がくるかもしれない。夜のとばりが降りる前に、もうひと踏ん張り頑張ってみようか。”(7月9日付け中日新聞)

 浜松市の鈴木さん(男・80)の投稿文です。小学校の同窓生7人で作品展を開くとは、素晴らしいことである。同じ教室ならあり得るかもしれないが、いろいろ違った文芸である。それも80歳である。何人の同窓生であったろうか。そんなにどこにもあり得ることとは思えない。地元の公民館程度ならこれも分かるが、百貨店のギャラリーとはまた堂々たるものである。やはり意気込みがあったのだろう。80歳で始めてやって、更に再度を目指されるとは、やはりここにも意欲が現れている。本当に今の老人は凄い。
 さてボクについて可能性を考えてみると、ボクには川柳がある。これを色紙にプリントすればボクにはできる。同級生に伊勢紙をしている人がいる。押し花をしている人がある。捜せばまだ他にあるかも知れない。数人集めて公民館程度ならできるかも知れない。それにはまずボクが地元の秋の作品展に出すことだろう。本気で考えてみよう。




2016/07/26(Tue) (第2306話) イチロウニナル 寺さん MAIL 

 “高校1年生の息子が、学校から進路希望の用紙を持って帰ってきた。受験したい大学名と学部を書かなくてはいけない。高校受験がやっと終わって3ヵ月ほど。将来の仕事や大学受験のことは、まだ漠然としていて決まっていない。
 2、3日悩んだ末、息子は意を決して難関大学3校の名前を書き込んだ。それを見て私は「えっ!」と思ったが、「まあ、いいんじゃない」と伝えた。すると息子は「ボク、イチロウニナル」と言った。私は驚いて「もう一浪すると決めているの」と聞くと、「達う、イチロー選手のようになる」と返事した。「人に笑われたこと、達成してきた」という大リーグ・マーリンズのイチロー選手の新聞記事を読んだからだ。
 息子は今まで身の丈にあった目標をそれなりに努力して達成してきた。難しいと思うことはあえてチャレンジしなかった。これからは、ちょっと背伸びをして上を目指して歩いていこうとしている。壁にぶつかるかもしれない。でも夢をつかめるかもしれない。有言実行できなくても、今の気持ちを忘れずにいてほしい。全てのチャンスは自分の心の中にあるのだ。”(7月9日付け朝日新聞)

 兵庫県三田市のパート・百田さん(女・54)の投稿文です。イチローがピート・ローズが持つ大リーグ記録の通算4256安打を日米通算で上回った時の談話をボクもテレビや新聞で見た。「子どもの頃から人に笑われてきたことを常に達成しているという自負がある」と明かした。他人には分不相応に高いと思われる目標を掲げるから笑われてきたというのである。そして笑われることの悔しさもあって、目標を達成してきたというのである。百田さんの息子さんはそれを読んで、親にはとんでもない高い目標と思われる大学名を書いたのである。「人は考えたとおりの人間になる」という格言がある。イチローはこの格言を身を持って教えている。高い目標を掲げ達成する努力をする。そして達成してきたから敬意を持たれるのである。多くは努力し、相応の達成で終わる。これでも十分である。百田さんの息子さんは「イチロウニナル」と言われた。敬意を表する人を目標にするのもまた良い。より励みになるだろう。ボクはあまり誰かのファンになると言うことはないが、イチローには気が惹かれる。彼はスポーツマンであり哲学者だ。
 「イチロー」を「一浪」と取り違えたのは愉快だ。高校に入学したばかりでもう希望大学を聞かれるとは驚いた。ボクの孫はどうなっているのか聞いてみたい。大学名など言えるだろうか。




2016/07/24(Sun) (第2305話) 90歳のボランティア 寺さん MAIL 

 “父が二年前に八十八歳の誕生日を迎えた時、私はお祝いに何を贈るのがいいかと考えました。日ごろから父が練習をしているハーモニカでミニコンサートができたら、と思いつきました。「祖父が皆さんの前で演奏したいと言っているので、コンサートを開催できませんか」。私の子が早速、仕事を手伝っているデイサービス施設に声をかけてくれました。
 曲目には、よく却られる八曲を選びました。父は目が見えません。肩をポンとたたかれるとスタートし、耳と頭を使いながら、音を探りながらの演奏です。替え歌やおしゃべりなどを交えながら、楽い一時間余りを利用者さんたちと一緒に過ごしました。
 九十歳になった今年、また機会を得て演奏することになりました。本人もデイサービスに通っていますが、他の施設でボランティアをさせていただきました。
 二人で帰る途中、父は「九十歳のよい記念になった」と喜びました。元気に毎日が過ごせ、目の見えない老人でもボランティアができてうれしいことや、家族、特に妻に感謝していることなどを話してくれました。物ではないプレゼントを父にできたことに、私も幸せを感じました。でも疲れました。慣れない司会をして。”(7月6日付け中日新聞)

 名古屋市のパート・河合さん(女・66)の投稿文です。これはまた愉快で良い話である。お父さんの誕生日祝いに、お父さんが趣味でやっているハーモニカ演奏の発表の場を作った。それがきっかけで、今度はボランティアとして他の施設で演奏したというのである。何がどんな繋がりになるか分からない、人間万事塞翁が馬という。その良い例である。
 それにしても90歳にして目が見えなくて、どうしてハーモニカの演奏会だろうか。人間はやはり気持ち次第だ。意欲があればかなりのことができる。今のボクは、手術以来尿漏ればかりでなく、その他にも不具合も生じている。もう半年である。半年ばかりと言われるかも知れない。もう少しの辛抱とは思うが、大分イライラが募ってきた。そしてやはり意欲がでない。体の不調はともかく影響が大きい。今それを身に負って教えられている。心身満足でない人が意欲的に過ごされていることを見ると、以前よりより凄いと思えるようになった。




2016/07/22(Fri) (第2304話) 就農した友 寺さん MAIL 

 “朝のテレビで一瞬、大学の同級生の顔が目に入りました。春から飛騨高山で新規就農した方たちのニュースでした。彼女とは大学卒業後音信不通でしたがどうしても気になり、岐阜県高山市役所に電話しました。電話口の方は、懐かしくて話がしたいという私の話を聞き、旧姓、年齢、大学名と連絡先を控え、もし該当の女性がいて了承が得られたら、連絡先を伝えてくださることになりました。翌日、彼女から懐かしい声での電話がありました。ご主人と一緒にトマト農家として就農をされたとのことでした。
 私もかつて有機農業をしており、農業の大変さ、楽しさを実感しました。わけあって三年前に離農しましたが、農業という分野で新たな人生の門出をされたお二人が、大変でもたくさんの喜びに恵まれることを願っています。この夏はトマトの香りのしみついた彼女に会いに、家族で高山に行こうと計画しています。”(7月5日付け中日新聞)

 名古屋市のパート・佐々木さん(女・44)の投稿文です。新規就農とは、何がそうさせたのか、どんな経験を積まれている人なのか、いろいろ気になるが大変な決意である。農業に良い点は多い。人とのストレスが少ない、自分の思うままにしやすい、作物の成長を見るのは楽しい。作業はきついが、昔に比べれば機械化もされ大分楽になったと思う。でもこれで生計を賄うというのは、今の時代大変厳しい。決意されたからには頑張って欲しい。
 今の日本で農業は大半において軽視されている。ボクのような都市近郊農業はまもなく全滅するであろう。今ボクのまわりでは凄い勢いで農地が消滅している。ボク自身も今年かなりの農地を手放す。工場や商業用地になる。どの家も後を守りする人がなくもう維持できないのだ。結果農地もなくなる。食を生産する農業がなくなるのも大変だが、農地というか土の土地がなくなることも大変なことである。




2016/07/20(Wed) (第2303話) ボランティア 寺さん MAIL 

 “熊本地震からわずか二日後に週末の名古屋市中村区で、二百五十人の大学生らが募金を呼び掛けた。「時間に融通が利くのが学生の強み」。学生でつくる被災地支援のネットワーク代表で、名城大四年の山口春菜さん(21)は胸を張る。就職活動の合間にスーツ姿で駆けつけ一時間だけ参加してくれた友人もいたという。
 そんな話を聞いたのは、先月、同区の愛知大で開かれたボランティアを募るイベント。会場では他にも大学生が運営スタッフなどで活動していた。「就活のためにボランティアをする人もいるでしょ」。少し意地悪に聞いでみた。「そういう目的もウエルカム(歓迎)。少しの気付きがあったり、最終的に変わったりすればいいかな」と山口さん。堅苦しいイメージを取っ払い、会合への参加も強制はしない。緩く、軽く。一見不安定なつながりなのに、大きな力も発揮する。そんな柔軟な姿勢が、なんだかとても頼もしく見えた。”(7月4日付け中日新聞)

 「放課後」と言う記事欄からです。ボランティア活動も昔に比べ随分多くなったと思う。良いこと、嬉しいことである。特にこうした学生など若い人がやってくれると嬉しい。こうした経験は必ず生きる。若い人は先が長い。楽しみである。
 この文の中で、興味を引いたのは「そういう目的もウエルカム(歓迎)。少しの気付きがあったり、最終的に変わったりすればいいかな」と言う部分である。ボランティア活動を就活に活用する、それでは無償の奉仕活動と言えない。偽善者とも言うだろう。これをこの学生は否定しない。まずはすることである。している内に変わればいいという。寛容である。ボクもこの態度に賛同する、大賛成である。と言うより、ボクは昔から「偽善も善」と言ってきた。気持ちはどうだろうと、するとしないは大違いである。いくら気持ちがあってもしなくては何の効果も及ぼさない。批評家だけではよくない、まずはする。そして多くの場合、この学生が期待されるように最終的に変わる場合が多いのである。前回の「話・話」で書いたように「人の目を気にしてヒーローになるのである」。




2016/07/18(Mon) (第2302話) おじいさんがヒーロー 寺さん MAIL 

 “名古屋市昭和区の鈴村育子さん(五六)は、多発性硬化症という難病で車いすの生活を送っている。自宅では、なんとか壁などにつかまりながら歩けるが、全身に痛みやしびれがあり、一人での外出が困難。そのため、市バスを利用しての通院や買い物には、ヘルパーさんに同行してもらい介助をお願いする。(中略)
 今年の二月。いつものように、バス停で降りようとした時のこと。鈴村さんが先にバスを降りた。続けて、ヘルパーさんが車いすを降ろそうとした時のことだった。鈴村さんの前に降りたおじいさんが、突然クルッとこちらを振り向いた。「何事か?」と驚いていると、タンタンッと再びバスに乗り込んで行く。そして、車いすをヒョイッと持ち上げて歩道まで降ろしてくれたのだ。「思わずヘルパーさんと顔を合わせて『カッコーイイー』と叫んでしまいました。お礼を言いましたが、ただ笑って去って行かれました。七十五歳くらいの方かとお見受けしましたが、なんて頼りがいのある!つらい日々の中で、ヒーローに出会ったような気持ちになりました」と鈴村さんは話す。”(7月3日付け中日新聞)

 志賀内泰弘さんの「ほろほろ通信」からです。このおじいさんはいつもまわりの状況に気を配り、行動できる心優しい人であろう。とっさの時にこういう行動ができる人はまさにヒーローである。こういう人をカッコーイイーと言うのである。お二人が感激されるのももっともである。ボクなどは後でああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと、行動力のなさを嘆くのである。しないのなら思わないなと結果は同じである。昔に比べ社会は優しくなり、障害者やいろいろ不都合な人を町中でよく見かけるようになった。この話のように少し手助けすれば、更に行動しやすくなる場面もよく見かけるようになった。そんなとき気づいたらすぐに行動である。人の目を気にしないで、・・・いや人の目を気にしてヒーローになるのである。




2016/07/16(Sat) (第2301話) 堤防決壊 寺さん MAIL 

 “川と聞くとすぐ、1976年9月の長良川決壊を思い出します。岐阜県は台風の影響で数日前から記録的豪雨に見舞われました。私たちは三年前に当地に移り住んだばかりでした。消防団に所属する夫は、昼ごろに駆り出されていきました。サイレンの音、消防車が出動する音が、今も耳に残っています。家に一人で取り残された不安がいやでも増しました。
 幸い、わが家は床下を水が通り抜けるだけの災難で済みました。しかし床上浸水し、部屋の半分が漬かったお宅も多くありました。思い出すたびに涙が出そうになります。
 現在は堤防も補強されていますが決壊の記憶はいまだに消えず、豪雨や地震が恐ろしいです。長良川と揖斐川に挟まれたこの地域にとって、川は怖い存在。あれからちょうど40年、災害が繰り返されないよう願っています。”(7月3日付け中日新聞)

 岐阜県安八町の主婦・中名さん(女・76)の投稿文です。ボクのところで最近の豪雨と言えば東海豪雨である。新川始め多くの堤防が切れた。一面水浸しとなり愛知県下では被害も大きかった。ボクは水害に対して比較的安全な地域に住んでいる。自宅は近くを流れる川の堤防より高く、この時も自宅への被害はなかった。それでも川は溢れ、かなりの高さまで水が来た。その後大きな河川改修がなされ、今では少しくらいの水ならすぐ引いてしまう。稲が水に浸っている時間は格段に短くなり、被害も少なくなった。しかし、一度改修したらいつまでも安全という訳ではない。豪雨の程度がますます大きくなっている気がする。時間雨量100mm越えなどは珍しくなくなった。いざという時の備えはおろそかにできない。特に家が堤防より低いところは要注意である。いつ溢れ切れるかも知れない。すべてのものは老化する。
 長良川豪雨からもう40年になるのか。先日この地方へ行った。あの災害を忘れたように住宅地は広がっている。40年もたてば忘れる訳である。知らない人も増えている。でも地域の特性は知っておいた方がいい。しておかねばならない。




2016/07/14(Thu) (第2300話) 案内放送に感謝 寺さん MAIL 

 “駅の窓□で道を尋ねた際、後ろに三歳くらいの女の子とママが並んでいた。私の次に、ママに抱かれた女の子が「いつもお仕事頑張ってくれてありがとう」と笑顔で、大きな声で駅員さんに話し掛けた。朝からすがすがしい気持ちになった。駅員さんの行動を仕事だから当然だと見ていた。早朝も夜遅くも笑顔で対応してくれるのに感謝したことがなかった。
 通勤電車で、こんな放送を聞いた。次の駅の案内の後に「これから先も気を付けてお帰りください」、「雨が降ってまいりました。傘などのお忘れ物のないようにお気をつけください」。スマートフォンから目を離し外を見ると小雨。気付かなかった。感謝を忘れてはいけないなと、あらためて感じた。”(7月2日付け中日新聞)

 岐阜県垂井町のパート・古山さん(女・59)の投稿文です。こうした鉄道関係者始め接客業の人の態度は、昔に比べ非常に丁寧、親切になったと思う。しかし客の要望も大きくなった。メディアの発達も手伝って、少し不満があると大きく報道される。おちおちしておられなくなった。仕事だから当たり前と言う受け取り方も多い。そうした中、古山さんのこの投稿文はいい。仕事であっても嬉しいことは嬉しいといい、感謝を表したい。努力は評価をしたい。それが努力をしている人の励みになる。何も当たり前ではないのだ。
 この女の子の言葉は両親の躾である。子供は正直である。親の言うことにすぐに従う。もちろん従わない厄介なことの方が多いが。この感謝の言葉は親の態度を表わしたものである。良い親に育てられこの子も幸せである。




2016/07/12(Tue) (第2299話) ぼんぼん時計 寺さん MAIL 

 “実家にかけた電話の向こうから、聞き慣れた振り子式柱時計の音が聞こえる。九十年くらい前から、三十分おきに時を知らせてくれる深みのあるあの音を聞きたくて、いつもその時を狙って電話をかける。黒光りする太い柱に掛けてある大きな柱時計。昭和、平成と移りゆく時代と、変わりゆく家族の姿を、どんな思いで見ていたのかしらと、時々聞いてみたくなる。
 百歳を超えた母が嫁いできた日も、この音が迎えてくれたのかしら。ベッドの中で過ごすことが多くなった母が食卓を囲むとき、昔から決まって柱時計の見える席に着き、時計を見上げる。同じような年め数だけ生きてきた母を、そっと見守ってくれているような気がしてならない。高い柱に掛けられている時計のねじを巻くのは、いつも父の仕事だった。そういえば、病床の父とお別れが近いころ、止まりそうになった時計のねじを、皆で願いを込めて巻いたことを覚えている。
 古時計も母と同じように時々、心拍数が乱れるときがある。ゆっくりと、深い音で、どうぞもう少し、母のお相手をしてくださいね。母が安らかな眠りにつくその日まで。”(6月26日付け中日新聞)

 愛知県新城市の主婦・粂野さん(76)の投稿文です。ぼんぼん時計とはまた懐かしいものが残っている家があるものだ。90年以上使っていると言われる。使えるものだ。手でまかねばならない、時間は狂う、油も差さねばならない、確かに使いやすいものではない。でも今残っている時計はその家の歴史を見てきている。それを知っている人には時刻を知らせる音に感慨を覚えるだろう。懐かしさがある。粂野さんは今も実家で奏でるその時を見計らって電話をすると言われる。気忙しい日々に一時のゆったりした時間になっているのだろうか。
 ボクの家にも古い柱時計があった。父がいつも手入れをしていたのを思い出す。ボクもいすに乗ってねじが回せる背丈になったとき、時折していた記憶がある。父が亡くなり、自宅を改装した時、処分をした。今はその場所に鳩時計がかかっている。こうした文を読むと惜しいことをしたと思う。置物としてだけでも残しておけばよかった。




2016/07/10(Sun) (第2298話) いつもの朝 寺さん MAIL 

 “ある朝、ガチッと鈍い音。しまった。シンクの中をこわごわ見る。良かった。どこもかけていないようだ。ほっと胸をなで下ろした。このコーヒーカップは夫の葬儀の朝早く、私と夫が毎日通っていた喫茶店のご主人からいただいたものだ。
 葬儀の前日、葬儀社の係の方に夫が大のコーヒー好きだったこと、毎朝欠かさず二人で喫茶店に行っていたことを話した。すると当日係の人が、私に内緒でその喫茶店に行き、店の主人に事情を話し、熱いコーヒーを届けてくれたのだ。その日から一年半余り、そのカップにコーヒーを注ぎ、仏前に供えている。
 退職後の夫と通った店は、カフェと呼ぶにはちょっと違う昭和の喫茶店というのがぴったりだ。店に向かう途中、ご近所の花を楽しんだり、顔見知りの方と立ち話をしたりした。店のドアを開け、いつもの窓際の席でスポーツ新聞を手に取る夫。絵に描いたような平凡な一日。でもそれは平凡ではなく、貴重な毎日だったことが手放してみてよく分かった。
 夫を思ってくれた人たちのおかげで、私たちはコーヒーをはさんでいつもの朝を迎える。夫もきっと喜んでいると思う。”(6月25日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・筒井さん(65)の投稿文です。今回はヒヤッとだけで終わった話である。思い出の貴重品をちょっとした不注意でなくしたら悔やんでも悔やみきれない。大方の失敗はちょっとした不注意である。考えた末の失敗なら、納得もあきらめも早い。まずは良かったと胸をなで下ろすものである。
 最近の葬儀では、遺族から話を聞いて、それを朗読する場面によく出合う。筒井さんの場合でもそうであったろうか。その話の中で、コーヒーの話が出た。葬儀社では、密かにそのコーヒーを手に入れる手配をした。筒井さんにとってはサプライズとなる。そして、まさにそのようになった。筒井さんは頂いたコーヒーカップを大切にされた。毎朝、そのカップにコーヒーを入れて仏壇に供える。大きな心のよりどころになったコーヒーカップである。
 葬儀社も最近はいろいろ工夫を凝らされている。この先日本は高齢化社会となり、葬儀社は大いに繁盛するだろうと思った。それを見込んで結婚式場から葬祭場に変わった例も多かろう。ところが思ったようにはならなかった。葬儀数は増えたかも知れないが、規模はどんどん縮小された。家族葬がどんどん増えた。参列者は減った。客の奪い合いである。知恵を出して評判を取らねばならない。商売はいつも大変だ。




2016/07/08(Fri) (第2297話) 手紙に動揺 寺さん MAIL 

 “今年も無事、誕生日を迎えることができた。前日か当日には友人から誕生祝いのカードや便りが届く。互いにプレゼント交換する友もいる。手紙をくれる友人は毎年、お祝いのメッセージから始まり、近況報告がつづってある。
 ところが、今年は封筒を開くと便箋の文面が違う。いきなり「出会った人に1人じゃ寂しいね、と言われると言葉に出せなくて大きく頷くだけです」の書き出しから始まって、息子さんの所に1人で行った時の様子が書かれてあった。気が動転した。友人はご主人と2人暮らしだった。確か年賀状は受け取った。今年になって何か起きたのだろう。私の頭の中はいらぬ妄想がかけ巡った。
 焦る気持ちに電話の長いベル音はまどろこしかった。容赦なく留守電に切り替わるのだった。ようやく長い一日が終わろうとする頃、彼女から折り返しの電話がかかった。「ごめんね。1枚目を入れ忘れたことに気付かなかったわ。それは2年前に死んだシロのことなの」。安堵したと同時に「もう、驚かせないで」と言いたくなった。けれど、愛犬を亡くした寂しさを今も引きずっていたのかと言葉をのんだ。”(6月24日付け朝日新聞)

 愛知県春日井市の主婦・大田さん(67)の投稿文です。手紙を途中から読み始めてびっくりした話である。少し笑える話しで、息抜きに取り上げました。当人には笑える話ではありませんが。でもありそうな話でもある。文章もキチンと読まないと大変な思い違いを起こす。当然である。この場合、読んだ人に責任がなくて、送った人が1枚目を忘れたのだから面白い話になる。
 ボクら夫婦も見ていると最近はそそかしくて笑えることやびっくりすることが度々である。電気の切り忘れは言うに及ばず、先日は風呂の水を溢れさせてしまった。手が滑って茶碗は割るし、ものをひっくり返すなどと言うことも度々である。そして余分な仕事を作っている。どう見ても老化である。この文章を書いている今、妻がコードを足に引っかけてあわてている。足も上がっていないのだ。もう少したつとこれで転ぶだろう。そして骨折する。もう笑い話ではない。歳を取るのはもう嫌だ。太田さんの話くらいで終えたいものだ。




2016/07/06(Wed) (第2296話) 田んぼはおしゃれさん 寺さん MAIL 

 “梅雨入り前のある日、愛犬と散歩に行くと、見慣れた田んぼの田植えが終わり、すっかり緑のじゅうたんになっていることに気付いた。水の便が良くなり、いつでも好きなときに田んぼに水が引けることや、田植え機の登場で、田植えの時期はだんだんと早まっていくようだ。
 私が子どものころは、六月が田植えの真っ盛りで、小学生も貴重な戦力として手伝った。ぬかるむ田んぼに足を取られながら、早苗を一生懸命に植えても、その間隔はバラバラで、目印のひもがあるのに真っすぐではない。お世辞ににも上手に植えたとはいえないのを見て、両親にはやかましく注意された。仕事の合間の休憩に母親はこう言った。「田んぼはおしゃれさんやでな。きれいに植えとかなあかん」嫌な仕事を泣きべそかいてやっていた子ども心に、染み込んでくる言葉だった。
 ホタルが飛び始めたというメールも届くようになったこの時期。あちらこちらで見受けられた田植え機の姿はめっきり少なくなった。田植え機で植えられたきれいな田んぼが夕焼けに染まるのを見ながら、三年前に亡くなった母親が笑顔で言った「田んぼはおしゃれさん」との言葉を思い出している。”(6月20日付け中日新聞)

 岐阜県養老町の伊藤さん(男・69)の投稿文です。伊藤さんはボクと全く同年代、いろいろな体験が重なるだろう。子供の頃の話しにあるともう忘れられてしまったことも多かろう。こういう投稿が思い出させてくれる。
 ボクの子供頃には田植え休みや稲刈り休みがあった。田植えをした後休むことではない。小学生も田植えを手伝うために学校が休みになるのである。数日間あったと思う。ボクのところの田植えは7月1日と決まっていた。田にまだ入れない低学年の時は妹の面倒を見た。田植えができる年齢になると田植えを手伝う。田植えの仕方もいろいろあったが、伊藤さんのところのように綱を張って植えるのが一般的であった。こうすれば苗が綺麗に並ぶのである。「田んぼはおしゃれさん」と言うことである。ところがボクの家は綱を張らなかった。当然畝はクニャクニャである。曲がり放題である。綱を張る手間を省いたのである。両親とボクが一列に並んで植える。こんな家はほとんど見かけなかった。昼頃になるともう腰が痛くてたまらなかった。早く植えられたと思うが、疲労は何倍もあったと思う。
 今昔の農業を思うと、あんな大変なことをよくやっていたものだと思う。器具と言えば備中、クワ、万能くらいである。これらはすべて体で動かすのである。動力ではないのである。昔のことを思い出すと涙が出てくるくらいである。その中でも、真夏炎天下で1反以上ある畑を備中で起こすことである。よくあんなことできたと思う。この体験がそのまま今に生きることはないが、知る知らない、体験があるない、は大きな違いである。




2016/07/04(Mon) (第2295話) 野府川美化 寺さん MAIL 

 “一宮市の開明地区を流れる野府川の美化に取り組んでいる市民グループ「野府川をキレイにする会」の活動が四年目を迎えた。かつては草木が生い茂り、不法投棄がまん延していたというが、近くの人が散歩できるほどの憩いの小川になった。会の世話人の長崎典宣さん(69)によると、2013年春に活動を始める以前の川は護岸に土砂が積もり、伸びた木々は堤防道路にまでせり出していた。家具や自転車力とを捨てる人も多く、「誰も寄り付かない川」だったという。
 草木や土砂を撤去する県の護岸整備工事を機に、近くの住民六十人ほどで美化活動を始めた。月に一度集まり、ごみを拾ったり、コンクリートの隙間に生えた草を抜いたりしてきた。「川を守っていこうという住民の意識が変わってきた」と会長の桜庭清三さん(七三)。川の魚は増え、堤防道路も歩きやすくなったという。活動は周囲にも広がり、範囲は当初の三倍ほどの計3.2キロになったという。協力者も百六十人にまで増えた。(後略)(6月15日付け中日新聞)

 記事からです。またボクの近くの地域的な話題である。野府川はボクも知っている。しかし、こんな会があることは知らなかった。活動を始めて4年目と言われるから、知らなくて当然かも知れない。良い活動である。最近こんな活動がボクにも身近なことになる気配があり、興味が湧く。少しでもいろいろな事例を知っておきたいと思っている。
 ボクの家の近くを流れる川の堤防を遊歩道にしようという計画が持ち上がっている。今年度の入って、市から測量や設計が発注された。この計画にはボクも当初から係わっている、と言ってもいい。散歩する人は多い。多くは農道を歩く。堤防を歩ければ安全だし、気持ちもいいだろうが、草が茂って歩けない。そこでボクが町会長の時、市に要望したのである。いろいろな経過を経るが、それが実現するのである。ボクの要望はボクの町内だけであったが、実現すればもちろんボクの町内だけでは終わらない。前後の町内も含めて3km程度になると聞いている。遊歩道が実現したとき、市任せでいいだろうか。地域住民が動かねば乱れていくだろう。この「野府川をキレイにする会」の活動は参考になる。もっともっとこうした活動の情報を集めたい。




2016/07/02(Sat) (第2294話) 道ひと筋 寺さん MAIL 

 “五月の日曜日に、高校卒業五十周年の同窓会があった。いつも東京から参加する級友T君の姿がないので、幹事に尋ねると、体調が思わしくなくて今回は欠席だという。その五日後、彼の訃報が届いた。
 T君は大学卒業後、日本点字図書館に就職し、一生をその仕事にささげた人だ。なぜ点字だったのか。そのきっかけは、高校時代のボランティアだったと、いつのころか聞いた記憶がある。「それが仕事になるなんてね」。彼は恥ずかしそうに言っていた。
 在職中は数々の点字出版物を手掛け、1998年には自らも『点字・点訳基本入門』という手引書を出版した。級友のよしみでいただいたが、地元でほそぼそと点訳ボランティアをしている私には、まぶしくも心強い存在だった。
 遺言で献体し、葬儀は行わないと伝え聞いた。視覚に障害のある方にずっと寄り添い、そのサポートをするボランティアを多数育て、最後には自らの角膜をも提供して、彼は旅立った。「道ひと筋」という生き方に徹した級友は、人生のしまい方も見事だった。そういえば、今年の年賀状は北陸新幹線車窓から写した山河の写真だった。肩の荷を下ろした彼は今ごろ、美しい風景を追って、旅の続きをしているに違いない。”(6月15日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・洲淵さん(68)の投稿文です。高校時代にボランティアで体験したことを仕事にして一生を見事に終えた。道ひと筋に生きた。こういう人は当然大きな功績も残す。良い人生だったろう。少なくとも同級生の洲淵さんは敬服されている。心から1人でも敬服する人があれば、それは1人では終わらない。この文を読んで敬服された人は多かろう。ボクもその1人で、だからこうして紹介している。
 「道ひと筋」この価値をもう一度考えてみたい。これは継続と言うことである。継続の価値は高い。「継続は力なり」続けていれば能力もでき、いろいろな成果も生む。いろいろな考え方、生き方があるが、大きなことのできない凡人には小さなことの継続ならできる。またそれしかできない。それができればもう凡人ではなくなる。継続はそれ程に難しい。これはボクの口癖である。


 

川柳&ウォーク