2016/06/10(Fri) (第2283話) 墓じまい |
寺さん |
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“「墓じまいをする」。群馬に住む義母から突然電話がかかってきた。ええ?89歳の義母がもしもの時は、どこに埋葬すればいいのだろう。バブル絶頂の頃、義父が埼玉の山の中のお寺の分譲墓地を購入。亡き義父のお骨だけが納まっている。義母は自分の娘の嫁ぎ先の広島の老人施設に入居を決めた。 東京に住む長男夫婦も、遠いお墓になかなか行けないし、これから先維持費を払うのも大変だと、義母は判断したようだ。私たち夫婦はお墓をつくらず、近くのお寺に永代供養、共同墓地への埋葬を決めている。 田舎育ちの私は、お盆、正月、命日には家族そろってお出かけ気分でお墓参りをしてきた。いとこたちとわいわい遊びながら草取りをしたり、ご先祖さんの武勇伝やルーツを聞いたり、家族の伝承の場であった。 私の故郷島根に帰り、お墓参りをすると、思った以上に「墓じまい」が進んでいる。ご先祖様をしのんで家族、親戚が集まることはどんどんなくなっていくのだろう。家を継ぐ、お墓を守る。そういう言葉が死語になるのも、そう遠くないのかもしれない。寂しい日本になってしまったような気がしてならない。”(5月25日付け朝日新聞)
愛知県尾張旭市の主婦・宮本さん(62)の投稿文です。「墓じまい」などという言葉があったのだろうか。広辞苑にはない。墓を処分することであるから、昔からこの行為がなかったわけではなかろうが、盛んになったのは近年であろう。墓は少し遠くてもお盆やお彼岸の日にはお参りに行く、これが長いこと続いてきた日本の慣習である。少し面倒でもそれが優先された。ところが家族そのものが希薄になり、現世利益や合理性が優先され、よく分からぬ先祖はないがしろにされていく。宗教心もあまりない日本人が、安易に流れるのは早い。葬儀も近隣住民は関わりがなくなり、家族だけのものになっていく。また火葬場直送もあり、骨上げもないこともあるようだ。その先の墓である。先祖代々から個人墓になり、共同墓になる。散骨して終わりもある。昔からの慣習は急激に廃れていく。ボクは専門家でもないし、身近な事例といろいろな情報として知っていることを書いている。ボクは前時代の人間である。現代生活を満喫していると共に過去も懐かしく想っている。第2281話の女高生の話でもあったが、親がいて自分がいるのである。先祖があって自分があるのである。そんな先祖をないがしろにしていいのだろうか。宮本さんもお墓は作らないという。子供の都合を思ってのことである。こんなことにまで子供のことを思う必要があるのであろうか。これが子供を思うことであろうか。これではすべての繋がりが消えていく。それが本当に良いのだろうか。ボクには疑問ばかりである。
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