ha1605

第144号  2016年5月

2016/05/31(Tue) (第2278話) 月 寺さん MAIL 

 “「ちょっと、外に出てみて。月がすごくきれいだよ」。残業中の主人からのメールでした。私もその日は忙しく、くたくた。もう、この忙しいときに月?と思いつつも、料理の手を止めて外に出てみました。すると、そこに見えたのはなんてなんてきれいな月なんでしょうか。真っ暗な広い空に、真ん丸の大きな月がいっぱいに輝いています。
 時間に追われてイライラしている私の周りの時間が、一瞬で変わりました。「本当にきれいな月だね。ありがとう。今夜も仕事遅くなるようだけど、頑張ってね」と送り返しました。なんて平和な時間なんだろう。同じこのきれいな月空の下、熊本では大きな地震でたくさんの方が亡くなられたり、けがをされたり、家が倒壊したりと、つらい思いをされている。それを思うと、私はなんて幸せなんだろう。この当たり前のように思っている平和な時間に感謝。そして、それを気付かせてくれた主人にも感謝です。
 早く地震が収まって、熊本の人たちが地震の以前の平和な日々に少しでも早く戻ることができますように、月に祈ります。今夜も月、きれいかな・・・。”(5月14日付け中日新聞)

 三重県多気町の主婦・福地さん(55)の投稿文です。感動したことを妻にも味わって欲しくてメールで伝えてくる。妻はそんなことをと思いながらも私を気にしていてくれるのだと嬉しく思う。こうした一寸した心遣いがいい夫婦を築く。その手本のような話である。月は毎日のように出ている。でもジッと見ることはほとんどない。心に留めることも少ない。ゆとりがないと思う。夜、空を見上げることがないのだ。家の中にいては見られない。でも本当にまん丸な大きな月は感動ものである。これは夕方が特にいい。この時間は忙しいものだ。特に主婦は夕食の準備など忙しい。一時手を休める。そして熊本のことまで思いが走る。ボクの妻は毎日夜7時半ごろ散歩に出かける。時折月に感動して帰ってくる。中空の月もいいのだ。こそこそ目の前や下ばかり見ているのではなく、大らかに大空を見上げる時間を持ちたいものだ。




2016/05/29(Sun) (第2277話) 川柳と祖父 寺さん MAIL 

 “ぼくは川柳が好きです。きっかけはおじいちゃんでした。保育園児の時、おじいちゃんの家に遊びに行ったら、川柳を考えていました。「川柳を投稿すると新聞にのるかもしれないぞ」と教えてもらい、五・七・五で考えてみました。二回目の投稿で中日新聞の「あすなろ川柳」にのりました。四歳の時でした。新聞にのったのでうれしくなり、また投稿しました。毎週金曜日は新聞を見るのが楽しみでした。新聞にのるたびに、おじいちゃんはとってもほめてくれました。
 おじいちゃんは新聞にたくさんのり、文芸祭でたくさん賞をとりました。自慢のおじいちゃんでした。きっと今、おじいちゃんは天国から見ています。川柳でおじいちゃんとつながっていたいから、これからもぼくの思いを川柳で表現していきたいです。おじいちゃんにささげる一句。
   「忘れない 優しいぼくの おじいちゃん」         ”(5月14日付け中日新聞)

 岐阜県美濃市の小学生・後藤さん(男・10)の投稿文です。10歳の少年から川柳の話を聞こうとは・・・思いがけないことである。それもおじいちゃんに勧められ、4歳から始めたという。おじいちゃんが亡くなっても続けている。これからどんな進展になるだろうか、興味が湧く。
 ボクのやっている川柳連れ連れ草に平成26年1月から子供さんか投稿してくる。当時は6歳、幼稚園年長さんであった。お母さんが参加されているので、その勧めであったろう。それから毎月、お母さんのメールで投稿されてくる。始めて今まで一度の休みもない。毎月2句と言えども立派なものである。主宰者のボクとして嬉しいことである。これからも続けて欲しい。この経験はきっとよい影響を及ぼすはずだ。この後藤さんと同じようにこの先が楽しみである。




2016/05/27(Fri) (第2276話) 農業日誌 寺さん MAIL 

 “稲作の季節を迎えた。毎年つけている農業日誌は四年分が一冊となっており、今年は九冊目の最終年。今の日誌を購入したときは、最後まで書き切れるのだろうかと不安だった。体の不調はあるものの、人さまに助けていただきながらも農業を続けられるのはありがたいと感謝している。
 三十年以上前、夫を病気で亡くして途方にくれる私に、しゅうとが買ってくれた一冊目。「これからはおまえが主となって、この家の農業をやっていくのだ」という言葉に、身の引き締まる思いがした。以来、私と農業日誌との付き合いが続いている。
 一年目はすべてしゅうとに相談しながら、二年目からは日誌の前年の記録を参考に工夫も加えた。やっとわが家の農業の一通りのことが分かるようになったころ、それを待っていてくれたかのようにしゅうとは帰らぬ人となった。無我夢中の日々であったけれど、自分なりに研究したり、新しい作物に挑戦したりと、農業は奥深く興味は尽きない。収穫には達成感がある。私も、しゅうとが亡くなった年齢に近づき、今では若い方が相談をしてくれることもあり、うれしく思っている。日誌を開けば、農業の記録とともに、時々の家族の姿もあり、胸が熱くなる。農業日誌は私の大切な宝物である。”(5月9日付け中日新聞)

 長野県高森町の農業・佐々木さん(女・81)の投稿文です。農業は天候、土の状態などいろいろな状況が加わり、毎年同じと言うことはない。毎年同じことをやって同じになれば容易いことである。そうはならないところが妙味である。ボクの父は毎年1年生と言っていた。それでも過去の記録は最大の参考事項である。それを参考しながら今年の対応を考える。記録と長年の経験がものを言う。ボクは農業日誌を知らないが、4年分が1冊になっているというので、使いやすいものだと思う。数年前は最大の参考資料であろう。
 佐々木さんの人生は大変だったと思う。これからはボクの推理になるのだが、多分専業農家に嫁がれ、ご主人に従いながら農作業を続けた。そして、50歳にならない前にご主人を亡くされ、自分が農業を担うことになる。舅に仕え、教えて貰いながらの作業である。農作業というのは本当に大変だ。今ではかなり楽になったが、30年も40年も前となると、今なら地獄の作業と言うであろう。それでも佐々木さんは頑張ってこられた。ボクの母親と重なる部分があり、懐かしく読ませて頂いた。昔の人は本当に頑張り屋さんであった。




2016/05/25(Wed) (第2275話) 挑戦だー 寺さん MAIL 

 “三月のある日、姉からの電話。「ねえ、カンケン受けてみない」「カンケン? 何それ」。日本漢宇能力検定のことだとやっと分かった。受験も就職も、これから履歴書を書くことはないだろう。無駄かもしれないと思ったが、父の遺品の中に四字熟語辞典を見つけ、がぜんやる気が出てきた。
 問題集と過去問題に、頭をひねる毎日が始まった。読むことは何とかこなせるが、漢字に直すことが難しい。ぼんやり形は分かっているのに書けない。四字熟語を知らないことに、情けなくなる。新聞や本に読めない字があると、見逃すことができないで辞書を引く。台所に立っても、ラジオからの言葉がどんな漢字なのか気になり、また辞書に手を伸ばす。漢字一文字にそれぞれ意味があり、興味深い。習ったことは覚えていないけれど、教科書に載っていた漢字がたくさんあるように思う。
 問題は記憶力。覚えたはずの字が、翌日には頭からこぼれ落ちている。テキストを読み進めるよりも、復習する方が多いのではないか。私の頭の中に、しっかり残る漢字はどのくらいなのだろう。先日、友人から電話で言われた。「『あまた』ってどう書くか分かる?」。もちろん、辞書を引いてみます。”(5月3日付け中日新聞)

 長野県上松町の大畑さん(女・68)の投稿文です。ここに前回の文のままに生きている人がいた。68歳にして漢字能力検定に挑戦である。お姉さんに誘われたと言われるから、お姉さんは大畑さん以上に凄い。この歳になると漢字を書くことで自信をなくしてしまう。以前書けた文字が書こうと思ってもかけない。情けなくなるほどである。漢字検定ともなると普通に使う文字どころではなかろう。それを挑戦である。新たな世界に入っていくこともあろう。言われるように、こういうことに挑戦すると日頃の心構えも違ってくる。分からないとすぐ調べる気になる。忘れることを気にする必要はない。笑いながらまた覚えればいい。
 先日はボクはとんでもない失敗をした。歯医者の予約した日に出かけることを忘れてしまった。その日は確かに覚えていたのだが、出かける前に何かあったのだ。そして今度は、予約した前日に出かけようとした。「行ってくるよ」と妻に言うと、どこへ行くのかと問う。そこで間違いに気づくのである。思い込みがあったのだ。全くひどい状態だ。こんな状態で「永遠に生きると思って学びなさい」何てあるのだろうか。こんな状態で「話・話」を書いている。大丈夫だろうか。読者の皆さんには賢明な判断をお願いしたい。




2016/05/23(Mon) (第2274話) 明日死ぬかのように 寺さん MAIL 

 “  【明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。】マハトマ・ガンジー
 アメリカでの講演のあと、「死の宣告は仏の慈悲か」という質問があり、私は答えた。「われわれは皆例外なしに死刑囚。いわゆるの死刑囚は人為的に死刑が宣告され、あるいは難病で死の宣告を受けた人は、むしろ死を自覚することで生命の尊さにも気づくことができ、死の準備もでき、さらには許された一日の生命をどう生きるべきかも真剣に考える。その意味で死の宣告は仏の慈悲だと思う」と。
 一方、学びを深めるという面からは、道元禅師が「道窮まりなし」と示し、「学びが深まるほどに足りない自分に気づくもの」とおおせられ、余語翠巌老師は「無限に食欲がおきるというような求道のあり方でなければならない」と語っておられる。
 教えの光に照らされることにより一層貧しい自分に気づかせて頂きながら、生々世々にわたり喜びの中に学び続けけたいと切に願うものである。”(5月3日付け中日新聞)

 愛知専門尼僧堂長・青山俊董氏の「今週の言葉」からです。もう何度も紹介したが、ボクの机の上には【明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい】と書いた紙が乗っている。これは2013年2月3日の「話・話」第1721話に書いてあったものを参考にしたのである。その出典は知らなかった。それが偶然知ったのである。それがこの新聞である。マハトマ・ガンジーの言葉であったのだ。そして青山さんの言葉である。死の宣告は仏の慈悲か・・・思いもつかない。死期が分かることによって準備や心構えができる。死ぬことは分かっているのにいつだか分からないことによって何となく過ごしてしまう。そして心残りを作ってしまう。「死の宣告は仏の慈悲」と思うことによって悲しみも救われる。
 ある程度の歳になると、自分の生涯はほぼ終わったと判断してしまい、今更学んでどうなると勝手に決め、努力することを止めてしまう。そして10年どころか20年、30年と生きる。もう一生涯ある場合もある。人の命など分からぬものである。もう一花咲かすつもりくらいで生きてもいい。そう思ってこの言葉を意識して過ごそうと、書いて置いているのである。




2016/05/21(Sat) (第2273話) 手帳 寺さん MAIL 

 “今年八十九歳になる主人の父は、いつも手帳をポケットに入れ持ち歩いている。手帳には、陸軍養成所に人隊した日、起業した日など自分自身のことはもとより、家族の誕生日、結婚記念日などが細かく記されている。もちろん私たち夫婦の結婚記念日もだ。
 その手帳に、父の大好きなお酒のページがある。名酒と出合ったときに銘柄、産地、アルコール度数を書くのである。先日、わが家での食事会の時も「このお酒はうまい」とうれしそうに書き足していた父。そのページは今では行数が足らず、紙を貼り付け短冊のように延びている。
 義父母は三年前、裏庭に念願だった小さな畑を作った。母がこぼしていた。母が野菜を採ろうとすると、父が「俺が採るから、採ってはダメだ」と言うのだとか。父は収穫したトマトやキュウリ、ピーマンなど多くの野菜を、正の字を書いて数えていた。そうなのだ。いつしか、手帳に野菜のページができていたのだ。ゴムでくくられた小さな古い手帳は、父の歴史そのもののようだ。
 以前のように体は自由に動いてくれないようだ。だが、今年も野菜を収穫し、手帳に書けるよう、いつまでも元気でいてほしいものである。”(4月30日付け中日新聞)

 岐阜県土岐市のパート・神崎さん(女・55)の投稿文です。古い手帳と言われるから、1冊の手帳をズッと使ってみえるのだろう。その手帳に採れた野菜の数まで書かれるというのだから、どのくらいの手帳になるのだろうか。毎日付ける日記のような手帳ではなく備忘録といったものであろう。それをいつも持ち歩き、必要な都度取り出す。賢いやり方だ。いろいろなやり方、使い方があるものだと感心する。
 多くの方は何らかの形で手帳を使ってみえるだろう。今は携帯電話やスマホが手帳という方も多かろう。多くは予定表である。全く物覚えが悪くなったボクらは手帳を見ないと予定が分からない。最近よくあることに、病院へ行ったときである。手帳を忘れていくと、次の予約に不安を感じる。もう完全なる必需品である。ボクはもう長いこと同じ手帳を使っているが、特徴は、薄いものであるが別冊の備忘録が付いていることである。この部分は毎年使う。書き直さなくてもいいのである。




2016/05/19(Thu) (第2272話) 耳から伝わる 寺さん MAIL 

 “全盲の友人とよく買い物に出かけます。買い物の精算をする時「いつものレジ係さんがいますよ」と言ってそのレジに並びます。その人は、いつも明るい声で気持ちよく応対します。特に感心するのは、お釣りの時です。私にお札と硬貨を見せながら、読み上げをして友人に手渡します。こんなちょっとした配慮が、とても心に響きます。
 友人は、目が見えなくても声の調子や雰囲気でその人の様子がわかるといいます。目が見えなくなって、やさしさや温かさがよくわかるともいいます。そして「いい人に恵まれて幸せです」と話します。こんなすてきな話をいつも聞かせてもらいます。私は答えます。「それはあなたがいい人だからですよ」と。
 障害者差別解消法が施行されました。大切なのはやさしさや思いやりです。一人一人がこんな気持ちを持てば、誰もがもっと暮らしやすい社会になると信じてます。”(4月28日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の障害者相談員・大谷さん(男・69)の投稿文です。障害を持てば人の優しさがよく分かる、足りない部分を補って貰う訳ですからそうだろうと思います。その補い方にもいろいろな気配りがあります。小指1本傷ついても不都合を感じます。それが目が見えない、耳が聞こえない、となると四六時中ですから想像もできないくらい大変です。今ボクは尿漏れ中ですが、これも四六時中ですから、四六時中がいかに大変かを身を持って感じています。そんな人に対応するには、多くの体験も必要です。見かけたら積極的に加わり、体験を積んでいきたいものです。それがこのレジ担当の人のように喜ばれる対応になると思います。この盲人の方は中途失明の方のようです。中途失明の方はより大変だと聞きます。それでもこのように幸せを感じるまでになられた。人間というのは過ごした次第、気の持ち方次第でどうにもなるものだと感心します。
 ボクの主宰する一宮友歩会の例会に、全盲の方が付き添いの方といつも参加されます。ボクも学ばせて貰っています。




2016/05/17(Tue) (第2271話) 折り鶴 寺さん MAIL 

 “娘が大学を受験する日の朝の出来事です。受験校が遠いため、私は大学まで付き添うことにしました。以前下見に来た時以来、二度目となる私鉄の電車。しかも初めて体験する朝のラッシュです。娘はとても緊張していました。何とか途中から座れたものの、混み合った車内で受験票を確かめたりして、落ち着かない様子でした。
 ふと見ると、目の前に立っていた女性が、手提げかばんから折り紙を取り出しました。こんな混んだ車内で何をするのだろうと見ていると、揺れる電車の中で器用に素早く鶴を折り上げたのです。そして娘に「無事合格しますように」と手渡してくださいました。お礼を言って受け取った娘は、緊張も忘れて笑顔になり、大事にコートのポケットにしまいました。
 大学に着くと娘は「これをお守りにして頑張るね」と言って、ポケットをポンポンとたたき、校舎に入っていきました。
 数日後、わが家に合格通知が届き、笑顔の花が満開になりました。四月、娘はあこがれの大学に通うことになり、親元を離れて一人暮らしを始めました。電車の中でいただいたあの折り鶴は今、娘の新しい部屋にお守りとして飾ってあります。”(4月27日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市のパート・杉山さん(女・47)の投稿文です。揺れる電車の中で立ちながら折り鶴を折る、それも目の前にいた受験生の話を聞いて、その人のために。緊張の中、見知らぬ人からの思いがけない親切、嬉しかったでしょう。こんな親切はなかなか受けられない、幸先よし、幸運に思ったことでしょう。この気分は大きな効果を及ぼす。合格に大きく寄与したはずです。杉山さんの娘さんもそれがよくわかり、お守りとなったのでしょう。このお守りはこれから先、まだまだ大きな働きをするでしょう。この女性は何歳くらいの人だったのでしょうか。高齢者でしょうか。以前に、電車の中で親切にして貰った時に渡すお礼の品を用意している人の話を紹介したことがあるが、これも似た話である。人は全く様々、親切も様々です。良い話を聞いて、それを参考する。できることは少しでもしたい。この心がけで残る人生を過ごしていきたい。そんなつもりでこの「話・話」も続けている。




2016/05/15(Sun) (第2270話) ただ一言を 寺さん MAIL 

 “私が銀行に勤め、課長をしていた当時、ある新入女性行員が私の部署に配属されてきました。彼女は一生懸命に仕事を頑張っていました。しかし、1力月ほどして失敗をしてしまいました。そして、支店長からひどく怒られました。彼女は、謝りながら泣いていました。その直後、私は彼女に「気にしなくていいよ。誰でも間違いはあるのだから」と慰めました。彼女も涙をふきながらうなずいて、小さな声で「はい」と言いました。
 それから、彼女は日に日に事務知識を習得し、その支店で「生き字引」と言われる存在になりました。
 月日が経ち、私は転勤し、彼女とは別の支店で働いていました。そんなある日、彼女から電話がありました。「この度、結婚するので退職します。お世話になりました。新入行員の時、慰めてくれなかったら、私は、辞めていました。あの時はありがとうございました。それを言いたくて、お電話をしました」。私が何げなく言った言葉が、彼女にとって強烈な救いとなっていたのだと、初めて気づきました。そして、言葉は「人生の分岐点」になると知りました。”(5月1日付け朝日新聞)

 福岡市のアルバイト・椛田(かばた)さん(男・63)の投稿文です。椛田さんのひと言が一女性のその後を救った、ひと言が人生を左右する、言葉の重さでしょうか。こういう話は時折聞きます。特に失敗したときのひと言は大きい。
 この「話・話」でも扱ったことがあると思います。そしてボク自身のことについても、再度になるかも知れませんが書いておきます。30代後半のことです。工事現場で雨による被害というか、事故がありました。その処理について上部機関から叱責が飛んできました。もうこれで将来はないかと思いました。すぐ上司に報告しました。そして一言「そんな程度のことか」です。本当にホッとしました。その後「でも、困ったことになったな」とも言われました。最初の一言が大切です。最初に「何をしている!」とでも言われたらそれこそ終わりです。ただでさえ沈んでいるのですから、それこそ撃沈です。その後処理にいろいろ苦労しましたが、懲戒処分もありませんでした。妻はあの時の話になると、ボクは顔面蒼白だったと言います。その後も「人生の分岐点」はいろいろあるのですが、定年まで無事勤め上げました。やはり人に助けられて無事勤め上げられるのです。




2016/05/13(Fri) (第2269話) いっぱいの笑顔 寺さん MAIL 

 “朝食をとっていると、デイサービスに通っている九十八歳の母が「今日は踊りの慰問で、何やら腰を振るハワイの踊りを見せてもらうんやわ」言います。
 私もレクリエーションダンスの会に入っています。「あんたはどんな踊りをしとんの。一度見たいわ」。母の言葉に触発されて、会の方に話したところ、母がお世話になっている施設へ慰問に行くことになりました。三十人ほどのおじいさん、おばあさんが迎えてくださり、母も前列の真ん中で、うれしそうに待っていました。衣装を着けてダンスを披露すると、真剣なまなざしでまばたきもせず見入っていました。その後は懐かしい唱歌、叙情歌をみんなで歌い、手遊びをし、簡単な運動をするうちに、あちらこちらに笑顔の花がいっぱい咲きました。
 たくさんの人と出会えて楽しい時間を過ごすことができました。皆さんが見せてくださった笑顔は、私を幸せにしてくださる何よりのプレゼントでした。また、私と母にとって至福の時間だったような気がします。この一日を宝物として、大切に大切に心の奥にいつまでもとどめておきたいと思います。ダンスの道も、さらに素晴らしい笑顔を求めて歩みを止めず、頑張ろうと思いました。”(4月28日付け中日新聞)

 三重県松坂市の主婦・稲垣さん(71)の投稿文です。親の前で子が踊る、こんな風景はいくらでもある。子供が小さければ普通の風景である。ある程度の歳まで続く。ところが90歳の母の前で70歳の娘となるとこれはまずなかろう。今の時代、この年齢の親子はいくらでも見かけるし、70歳でダンスを習う人も結構あろう。ところが90歳でまだまだ健在で、その娘が親のいる施設で舞うことになるとまず稀である。聞いたことはない。何と嬉しい時間だったろう。元気であればこんなことも起こりうるのである。健康であれば、また生きていれば思いがけない場面に出合うことがある。それには毎日を大切に過ごすことであろう。1日1日の積み重ねである。高齢になればより必要である。
 ボクの今は尿漏れに負けていると思う。でもこの先尿漏れ程度で済まなくなることもあろう。ヒョッとしてその手始めかも知れない。もう入院から4ヶ月近くたつ。体力も大分衰えているだろう。そろそろ活発さを取り戻したい。




2016/05/11(Wed) (第2268話) 御華束作り 寺さん MAIL 

 “稲沢市祖父江町の雲正寺で二十五日、門徒らが親鸞聖人の七百五十回忌の法要「御遠忌」に向けて花束を模した餅飾り「御華束」を組み立てた。二十六日、名古屋市中区の真宗大谷派名古屋別院(東別院)へ奉納する。
 稲沢、一宮田市の門徒でつくる中島郡会の山崎組が中心となり、三日間かけて約四千五百個の丸餅で完成させた。全部で七基あり、最大のものは高さ106cm、幅56cm。赤や青の餅やミカンもあり、美しく飾られた。
 この日完成勤行もあり、七十二人の門徒が参加。雲正寺の吉川淳信住職(79)は「御華束の奉納は、親鸞聖人への感謝の気持ちを形に表した儀礼の一つ」と話していた。”(4月26日付け中日新聞)

 記事からです。御華束作りというものを知って貰いたくての紹介です。ボクは昨年から十八講という団体に入り、この4月この記事と全く同じ経験をした。東別院の御華束作りは毎回十八日講が担っており、今回の御遠忌では規模が大きいので中島郡会にも手伝って貰ったと言うことのようである。中島郡会は隣村の団体で会員数も多く、いろいろな面の先輩であるようだ。今回の活動を見ていても学ばねばならないことばかりである。
 寺院へ時折参拝するが、その裏にはたくさんの人々が係わっている。これは何事も同じである。この御華束一つにしてもこの記事のように大変な労力と費用がかかっている。あまり気にしなければ御華束など知らずに帰ることもあろう。大きな花も飾ってあるが、あれも大変な技術が要るようだ。今回裏方に携わって知ったことである。しかし、今の時代技術の伝承が難しくなっている。ボクが感ずるに仏教は衰退の一途である。今の形態を持ち続けることは困難であろう。ボクは大きく変わらねばならないと思っているので、持ち続ける必要はないが、この技術の継承と言うことになるとまた別の話である。ボクの十八日講は昨年度で終わればいいものを、今年も入っている。幹部から乞われたからである。70名近い会員がいるが、70歳のボクは多分若い方から5本の指に入るだろう。ボクは技術の伝承という意味で残ったのである。もちろん十八日講は御華束作りだけではありません。




2016/05/09(Mon) (第2267話) ピアノ発表会 寺さん MAIL 

 “七十歳になって、軽い気持ちでピアノ教室に入門しました。頭と指先を使うから、認知症予防にとてもいいと、毎日練習しました。「夕焼小焼」「おもいでのアルバム」など、なじみのある曲ばかりで、初めてでちそれなりに弾けるので楽しみになりました。
 五ヵ月目に発表会がありました。演奏曲は短いし、家ではまあまあ弾けるので、少し自信を持って会場へ行きました。他の教室の方々や家族が見つめる中、私の番になりました。ところが、舞台に行くだけで転びそうになるのです。グランドピアノが真っ黒に光って待っています。いきなり間違え、弾き直しました。終わって、緊張がほぐれたのか目まいを感じました。他の皆さんも一生懸命弾かれていて、発表会は終わりました。
 家に帰って「もう絶対出たくない」と娘に言ったら、「あれだけの練習で、ミスもなく弾けると思ってるのがおかしい」と言うのです。そして「人生は何事も始めるのに早すぎることはない。遅すぎることもない」と名言の書いてあるノートを見せてくれました。
 七十歳でピアノの初舞台です。だんだん気分が晴れてきて、これからも頑張ろうという気持ちが出てきました。”(4月22日付け中日新聞)

 岐阜県瑞浪市の主婦・中川さん(女・70)の投稿文です。70歳でピアノを習い始め、そして発表会に臨む。習うことなら何歳でもできる。発表会も機会があればできる。でも見上げたものである。意欲の問題ではあるが、70歳で新たなことに挑むのはたやすく出来ることではない。
 もう整理を考える歳でもある。ものも人との付き合いも整理しておかねばならない。今までやってきたことも止めることを視野に入れねばならない。そんなことをふと思ったとき、長年やってきた中学の同窓会代表を降りたらどうかと思った。中学卒業後からと言ってもいい、それ程ボク中心で動いてきた。本当によかったのだろうか。他の人だったらもっと別のやり方をしたのではないか。少し悩んでみよう。意見も聞いてみよう。
 そして一方では新たなことも考えてみたい。今少し尿漏れに負けているが、この状態が続いてもいずれ何かを始めねばなるまい。今の状態は全くうんざりだ。ボクは暇に弱いようだ。暇は天敵の気がする。




2016/05/07(Sat) (第2266話) 息子は「ラストサムライ」 寺さん MAIL 

 “高2の息子は書道部員。去年の9月に先輩たちが引退してから部員は彼1人になった。校内に勧誘ポスターを貼り、「部員士1人だと団体扱いできない」と言われながらも、公募展に作品を出し続けた。
 先日、新入生歓迎会で全校生徒を前に装丁された自分の作品を持って部活動紹介をした。1月に日本武道館での大会に出場していたので、「次は新しい部員のみんなと一緒に出たい」とスピーチした。これが好評だったのか、彼は友達から「よう、ラストサムライ」と呼びかけられた。吹奏楽部の友だちは、吹奏楽部の勧誘チラシを息子に渡したという。それって書道部の廃部は秒読み、と誰もが思っているということじゃない? 家族みんな爆笑だった。
 「ああ、今年も俺1人か」。息子は帰宅するとため息をつく。以前、担任の先生は「たった1人でも部を守ることは次の学年のために意味がある」と息子を励ましてくれた。出品の時は本当に大変で、書道部をよく守ってきたと私は感心する。友だちに「侍」と見てもらえたのだから、これまで闘ってきてよかったね、とたくましくなった息子の背中を見て思うのだ。”(4月25日付け朝日新聞)

 茨城県つくば市の大学非常勤講師・落合さん(女・56)の投稿文です。ここにも頼もしい高校生があった。「ラストサムライ」とはまたいい表現であった。ぴったりである。そしてユーモアもある。吹奏楽部の勧誘チラシを渡されたというのもいい。それを爆笑したのもいい。何とも明るい高校生生活が想像される。
 部活を一人で守り続ける、なかなか出来ることではない。お母さんが頼もしく思われるのは当然であろう。ボクには書道部というのもいい。今の時代は毛筆で書ける人は少ない。書く機会も減ったが、でも筆墨で書きたいときはある。この時非常に重宝されるだろうし、尊ばれるであろう。落合さんの息子さんはなぜ書道に関心を持たれるのか知らないが、いい選択であったと思う。頑張って欲しい。人生において絶対損はない。
 ボクの孫も今年高校に入り、いろいろな話が聞こえてくる。高校時代は青春まっただ中だ。次の大学受験に追われるだけでなく、いろいろ体験して欲しいと思う。できるチャンスは転がっている。




2016/05/05(Thu) (第2265話) 5年前の彼から手紙 寺さん MAIL 

 “5年前の彼からの手紙が届いた。市の企画で、5年後に郵送してもらえる「サクラレター」というものだ。彼は私宛てに手紙を書き、私も彼宛てに書いた。あのときは自分が30歳になるなんて、遠い未来だと思っていた。毎年、桜が咲く時期になるとサクラレターを思い出し、届くのが待ち遠しかった。
 そして今年、ついにその日が訪れた。「これが初めての手紙になります」「もし別れていたら忘れてください」・・・。交際を始めたきっかけや将来の計画などがびんせん5枚に一字一句丁寧に記され、当時の思いが伝わってきた。
 この手紙をひとりで読む未来にはならなかった。隣にいる人に読んで聞かせた。照れながら、ほほえみながら聞く人。それは、私の夫となった彼だった。私が書いた手紙も無事、夫のもとに届き、同じように朗読してくれた。当時のことを思い出し、しばし語り合った。
 サクラレターを待つ楽しみは終わってしまったが、私たちの未来はどこまでも楽しみ。5年間、変わらずにいられたことが、未来への自信につながった。今年も、桜の開花とともに訪れる結婚記念日を祝った。”(4月18日付け朝日新聞)

 茨城県小美玉市の主婦・島崎さん(30)の投稿文です。何と嬉しい、何と楽しい手紙でしょう。童話のような話です。恋人だった二人が書いた手紙が、5年後夫婦となった二人に届けられる。そしてお互いに読み合う。恋人と夫婦は似て否、全く違うものです。もちろんそうでない夫婦の方が多いでしょうが、釣った魚に餌はやらぬ、これも事実でしょう。夫婦となって何年かはよく分かりませんが、恋人時代の手紙をテレながらも読み合うことがきるとはうまく行っているからでしょう。島崎さんは良い企画に出合われ、参加された。まだまだ新結婚気分でしょう。先は長い。いろいろな機会を見つけてお互いを見つめ直し、良い生活を送って欲しいものです。この夫婦なら大丈夫の気がします。
 夫婦は惰性に流されていくものです。そして鬱憤が大きくなり爆発する。取り返しがつかなくなる場合も生じる。だから時折振り返り、見直した方がいいものです。このレターはその一つのきっかけになった。結婚記念日や誕生日を祝うのはその一つのチャンスでしょう。祝いながら過去を振り返り、感謝し反省をする。こういうボクは大切にしてこなかった。悔やまれる。でもまだ遅くない。今年から大切にしよう。




2016/05/03(Tue) (第2264話) 朝ドラが教えてくれた 寺さん MAIL 

 “年明けに、思いも寄らない話が持ち上がりました。十年間、趣味で習ってきたオカリナの指導者にならないかという誘いでした。元来人見知りで、依頼心の強い私にできるわけがないと、断るつもりでした。ちょうどそのころ、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」のあさちゃんが、女子大設立に奔走していて「女子は女学校を卒業してもその先に進む道がない」と嘆いていました。
 「何で進むべき道と生かす場所があるのに、やらないんだす」と言われているような気がしました。ちょうど五十代最後の誕生日を迎え、この先をどう生きて、どう人生を終えるか。そう考えたときに、やらずに後悔するよりは、とりあえずはやってみようと思いました。
 昨年の「マッサン」では、エリーが「人生は冒険旅行」と言い、死の床にあっても、死ぬことさえも冒険旅行だと言いました。
 思えば、自分を変えたくて始めたオカリナでした。どうなるか分からないことに不安を感じますが、どうなるか分からないから冒険旅行なんだと思って、私も旅に出ることにしました。今、指導者養成講座が始まり、固くなった頭と戦っています。まさか、こんな展開になるとは。びっくりぽんだす。”(4月15日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の主婦・中谷さん(59)の投稿文です。趣味で始めたオカリナの指導者になる、良い展開です。十年もやっていれば初心者の指導は大方のことでできます。なるかならないかは本人の気持ち次第、中谷さんの決断の後押しをしたのは朝ドラであった、これがまた良い、面白い。人生、毎日のようにいろいろなチャンスは訪れている。それをつむかつかまないかは本人の気持ち次第。中谷さんはいい選択であったと思う。
 先日ある人から「やることが多くて」と困ったように言われる。ボクは「生きているからですよ」と答えた。その人は生きているからです、生きていて死んでいる人もあります。本当に生きているのです。その時はあるボランティア活動の場でした。忙しかったら来なくてもいいのです。でもその人はやってきた。「君は言う言葉が違うね」と褒められたのか、嫌みを言われたのかよく分かりませんが、ボクにしてみれば素直な返答でした。ボクも尿漏れに負けず参加しました。ボクも生きています。




2016/05/01(Sun) (第2263話) 思い出の合唱 寺さん MAIL 

 “私のいる老人ホームに、市内のコーラスグループが訪れた。服装はそろっておらず、赤ちゃんを抱いた女性もいた。素人の合唱だから、プロ並みの演奏は無理だろうと思っていた。しかし、聴くうちに次第に引き込まれていった。そして、古い昔の記憶がはっきりとよみがえった。
 私は名古屋大理学部の職員、大学院生からなるコーラスグループにいて、仕事の合間に練習した。バリトンに所属していたが、私の浪花節のような声を聴いたプロの歌手が、発声など基本を教えてくれたことは大助かりだった。他学部も含めた八つのグループの合同発表会が決まった。二百円のチケットを売っった記憶がある。バス代が二十円のころで、二百円は決して安くはなかったが、チケットは売り切れたようだ。プログラムが終わったときは、割れんばかりの拍手を受けた。私の研究室の女子学生が言った。「女性指揮者がそっと涙をふいていたわ」。そうだろう。長期間、たくさんの出演者を統率し、指導してきたのだから。
 あの興奮を今も覚えている。録音テープももちろん残してある。見事な合唱だ。あれだけ練習したのだから、当然といえば当然だ。この時、私は二十七歳。甘酸っぱく、楽しい青春時代だった。“(4月14日付け中日新聞)

 金沢市の金沢大名誉教授・関崎さん(74)の投稿文です。少し個人的係わりもあって紹介します。
 青春を思い出す、思い出す青春がある。関崎さんは合唱の思い出を語られた。思い出の合唱があった。よかった。そこで関崎さんは長いこと合唱をされたのであろうか。ボクはこの文からそんなに長いことはなかったと推測する。それだけに思い出の合唱となったのだ。ボクもほんの一時期合唱団に入った。ボクは音楽音痴である。そのボクが合唱団に入り、半年後には初代会長になっていた。この話は過去何度も触れたが、ボクには一生を左右するほどの思い出となっている。この頃ボクは中年であったが、同じようなものである。
 「私のいる老人ホーム」と言う言葉が気になった。職員でおられるのか、看られる側としておられるのか、どうだろうか。職員でおられたら「私のいる」と言う言い方は少し不自然の気がする。短い文はいろいろな推測を生む。
 個人的係わりと最初に書いたが、実は関崎さんから毎年縁賀状を頂いていたのである。名前を見てすぐに気づき、妻に尋ねた。関崎さんのお奥さんとボクの妻が昔、まさに青春の頃同じ職場にいたのである。その縁があって年賀状が届いていた。ボクはお二人を知らない。妻に届く年賀状だけの縁であるが、その年賀状が独特でよく覚えている。家族4人が、それぞれ自分の近況を書いているのである。その内容が全く機知に飛んでいたのである。奥さんは数年前に亡くなり、それから届かなくなった。そして、見つけた投稿文で懐かしく思い出した。投稿文はいろいろな発展がある。



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