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第141号  2016年2月

2016/02/29(Mon) (第2232話) 学びたい熱意 寺さん MAIL 

 “アルバイトの塾講師として、不登校だが一生懸命勉強する生徒を受け持ち書いた投稿「学校嫌いでも勉強好き」が昨年十二月の本欄に掲載された。反響を呼び、私のもとには知人を介して多くの依頼が舞い込んでいる。そのなかに、通信制高校に通う十六歳の少年からの依頼があった。
 彼は中学時代に不登校で、基礎知識を持っていない。高校の授業に出席してみるものの、彼にとっては内容が難しく、わからないからつまらない。そのため授業にはほとんど出席せず、アルバイト中心の生活を送る。そんな彼からの依頼は、高校でついていけるよう基礎からやり直したいから、私を家庭教師として、中学校の内容を教えてほしいというものだった。
 その費用を、自分のアルバイト代から払うというので、驚いた。まだ十六歳の彼のその一言に、並大抵でない熱意を感じた。彼は心から変わりたいと願っているのだ。その熱意を信じて、最大限のサポートをすることを決めた。”(2月11日付け中日新聞)

 岐阜市の大学生・山田さん(男・21)の投稿文です。中学生時代不登校だった少年が、通信制高校に入ったが、さっぱり分からない。そこで、アルバイト代を使い家庭教師に来て貰うというのである。学びたい、知りたいと言う自ら生じた欲望である。多分大きな結果を生じるだろう。
 大半の高校生は、また大学生も成り行きで通っているであろう。ほとんどが行くから行く、親が行けというから行く、将来を考えると言っておいた方がいいから行く、それが大半であろう。学びたい、知りたいと言う切なる欲望の人は少ない。学校は学ぶ場所である。学びたいという切なる欲望を叶える場所である。でも上手に過ごし、学歴を取って卒業していく。ボクの時代は今とは随分違う。それでもボクは、ただ中学高校の成績がある程度良かったら行っただけの気がする。学びたいという欲望ではない。行っておいた方が将来有利だろうと言うことであった。もっと有益に過ごすやり方があったはずだ。もったいないことをした。
 それでも夜学生となると、少し違ってくる。学歴もあるが、学びたいという欲望の人が多くなる。ボクは夜間大学にも通ったので、その実態を少しは知っている。昼間とは違うと思った。働いた後、通うのである。ただ行くだけにこんな苦労はできない。




2016/02/27(Sat) (第2231話) しょうゆの縁 寺さん MAIL 

 “高校入学と同時に、電車通学が始まった。満員電車に慣れなかった私は、登校が苦になった。嫌々ながら電車に乗っていたある日、網棚の上に置いたかばんから、弁当のおかずのしょうゆが染み出し、網棚の下の席に座っていた男性の背広の肩に落ちてしまった。
 電車は終着駅に着いたが、背広の主は気付かない。私は男性に声を掛けた。「ごめんなさい」と頭を下げると「一緒に行こう」と言った。私の高校の先生だった。
 私の学生服を見て、自分の学校の生徒だと、分かっていたようだ。先生は「罰として、サッカー部に入らないか」と言われた。それから三年間、先生には進学のこと、部活動のこと、職業観や倫理観など、いろいろな悩みを聞いてもらった。夢も語った。もちろん、通学電車は苦にならなくなった。
 その後、先生には仲人にもなっていただいた。先生は、今も元気で活躍しておられる。”(2月7日付け中日新聞)

 愛知県尾張旭市の山木田さん(男・68)の投稿文です。何とも愉快な楽しい話である。山木田さんはボクと同じ年代である。この話からボクもそんなことがったことを思い出す。後にゴムパッキングのついたおかず入れが出てくるが、それがまだない時代である。アルミ製の弁当箱にご飯とおかずが一緒に入っている。おかずは煮物がほとんどである。弁当のおかずの汁が外まで垂れだし、袋や鞄まで汚してしまう、ボクもよくあったことだ。ボクにどんな失敗があったかは思い出せないが、山木田さんの話は愉快だ。先生が「罰として、サッカー部に入らないか」と言われたのもまたいい。出会いが出会いだけに親密感が生じたのであろう。長い付き合いになった。これが縁である。良い縁になった。人生でこんな縁を幾つ持てるか、ひとつの分かれ目の気がする。
 先日の一宮友歩会2月例会で面白いことがあった。60回にしてボクは始めて歩けなかった。終えていろいろな報告が来た。ある寺院で説明を受けたという。そんなことは頼んでなかったので驚いた。調べて見ると、以前説明をお願いした人であった。寺院からこんな団体が来ると聞いて、説明を買って出たという。その後メールをやりとりしていろいろな縁が分かった。良い縁となった。これから先の楽しみが増えた。




2016/02/25(Thu) (第2230話) 運転手さんのお陰 寺さん MAIL 

 “娘のセンター試験の日、仕事から帰宅すると、主人が「担任の先生から電話があって、あと20分で来なければ試験が受けられませんと言われたんよ。ああやらかしたと思ったけど、『無事に終わった』って本人からメールがきたから、大丈夫と思うよ」と言う。
 何かあるかわからないから1時間前に会場に着くように、お金も余分に持っていくように伝えていたが、私の頭はパニック気味に。娘は2時限目からの受験と思い込んでいたが、本当は1時限目から受験しなければいけなかったらしい。
 しばらくして娘が興奮して帰ってきた。バスの中で先生から連絡を受けた娘はタクシーに乗り換えた。運転手さんに事情と所持金を伝えると、「間に合うことが先だから」と言って、所持金では足りない都市高速を通り、見事なハンドルさばきで試験開始10分前に到着してくれたという。机に座ったのは3分前。でも気持ちを落ち着かせて受けることができたそうだ。
 翌日、タクシー会社に不足分の支払いとお礼に行ったが、その運転手さんには会えなかった。本当にありがとうございました。センター試験のたび、娘はあなたを思い出すでしょう。”(2月6日付け朝日新聞)

 北九州市の看護師・森山さん(女・55)の投稿文です。心優しい運転手さんに出会えて、間一髪セーフの話である。センター試験ともなれば人生を左右しかねない試験である。それを勘違いして遅れ、タクシーの運転手さんの機転で間に合った話であるが、これは森山さんの娘さんに大いに反省してもらわねばならない。何事にも間違いはあるものだが、していい間違いとしてはいけない間違いがある。これはしてはいけない間違いである。もし間に合わなかったら一生悔やむことになる。この事件を教訓に、今後を過ごしていて欲しいものだ。それがこの運転手さんに対する最高のお礼になるだろう。
 もし間に合わなかったら、それで人生終わりではない。また別の人生があるだろう。人生何がどうなるか分からないものだ。学校など、人生のほんの一端である。いつも前を見て歩いて行きたいものだ。




2016/02/23(Tue) (第2229話) 字を書く楽しみ 寺さん MAIL 

 “「よしこちゃんは字が下手だな」。小学3年生のころ、担任から言われた。がっかりするよりも、「そっか、私は字が下手なんだ」と納得してしまった。大人になってもうまくはならず、あのときの一言を言い訳にしていた。反省もたまにはして、ボールペン習字、書き方入門など通信教育に幾度かチャレンジしたが、続かなかった。
 退職後、思い立って書写の教室へ週に1回通いだした。万年筆を手にするのは40年ぶりだろうか。軽く滑るように書けて疲れることもなく、ほぼ皆勤で続いている。
 3年が過ぎて、行書や草書という日常では使いそうにない文字に至った。書くことはおもしろく、「私は好きだ!」とわかった。上達のほどは定かではないが、自分ではちょっと上手になってきたかなと思っている。今は「天声人語」の書き写しも始め、漢字練習、脳トレも兼ねて楽しんでいる。
 最近はEメールでやりとりしている若いころからの文通友達に、いつかびっくりされるような字で手紙を書きたいと思っている。すてきな便箋だけはもう、準備しているのだけれど。”(2月5日付け朝日新聞)

 東京都府中市の主婦・亀谷さん(62)の投稿文です。昔に比べ、今はあまり字の上手下手を問題にしないが、実際には大変な違いがある。字の上手な人は尊ばれ、人格さえ上に見られる。昔は多くの人が上手だった。読み書きそろばんと言って、書くことを重視していた。最近は、パソコン等でき全く軽視している感がある。本当に下手になったと思う。機器がいくら普及しても書く機会はある。そんなとき上手な人は目立つ。上手な人の価値が上がったとさえ思える。亀谷さんは下手と言われながら、50歳後半から書くことを学び始められた。思いついたときが吉日、始めるのに遅いということはない。また老後には、頭や手を使いいい過ごし方であろう。
 ボクも上手とは言えない。随分損をしてきた気がする。幸い妻が上手であるので、助かることが多い。慶弔袋などはいつも書いてもらっている。
 「天声人語」の書き写しはボクも数年前から始めた。まだあまり熱が入っていないが、時折時間を見つけて書いている。全く慣れないが、ゆっくり続けていこうと思っている。




2016/02/21(Sun) (第2228話) 不満日記 寺さん MAIL 

 “日記は中学時代から書いていました。子育て時代は夫への不満、思うように進まない子育て、夫の実家との付き合いなど不満ばかりをかくことでストレス解消していました。
 ある日、クラブの仲間と日記の話題になり、自分の意見を話したら、友人が「もし貴女亡き後ご主人がその日記を見つけ読まれたら悲しい思いをされ、何も知らなかった方がよかったと思うのでは。築いてきた夫婦の絆が一瞬に切れ、ショックも大きいでしょうね」と言いました。確かに私の日記は夫への不満が多かったと反省し、今までの日記は全て捨てました。
 20年前から5年日記にし、毎食の献立、その日の出来事、お互いの健康状態、友とのつきあい、子ども、孫との楽しいことを書きます。書くスペースが少ないのでほとんどが記録です。最近の自分の生活は年とともに平凡になり、ゆっくりペースでストレスもなく不満を書くこともあまりありません。残された家族が悩まないで処分できると自分では思っています。これから何冊書けるかわかりませんが、続けられるまで書きます。”(2月3日付け朝日新聞)

 愛知県一宮市の加藤さん(主婦・74)の投稿文です。日記の効用はいろいろある。その人の使い方次第である。加藤さんは不満を書き、ストレス発散の場所として活用されてきた。これはこれでよかったのであるが、高齢となり、行く末を考えるときが来て、さあこの日記をどうすればいいのか。加藤さんは人に言われて、アッサリと捨てられたのである。ストレスは発散すればそれで終わりである。目的は達したのである。未練もあったろうが、これで良かったと思う。
 さあボクはどうだろうか。今3年日記が11冊になっている。記録的意味が大半だと思うが、不満が書いてない訳ではない。人の批判も書いてあろう。子供らには、自分が亡くなったらスッパリ捨ててくれとは伝えてある。でもすぐには捨てられず、またヒョッとして興味を持ってみるかもしれない。ここはやはり自分で処理した方が良さそうだ。書いた時点で大きな役目は終わっている。過ぎたものはもうほとんど見ることはなかろう。古いものから順次捨てた方が良かろう。もう少し考えて見よう。




2016/02/19(Fri) (第2227話) 心の病に 寺さん MAIL 

 “私は思春期のころより、今日までさまざまな心の病を抱えて、苦しんできました。同じように、もがき苦しまれている方に、何かプラスになることを書きたいと思いつき、ペンを取りました。簡単です。「か行」です。
 「か」考え過ぎない。「き」規則正しい生活をする、気にしない、気分転換を図る。「く」薬をきちんとのむ。「け」ケース・バイ・ケースで考える。「こ」根気強く待つ、治す。
 さらに、自分なりの方法を考えてくださると、いいと思います。例えば、私の場合は「好きなことをする」です。
 私は長い間苦しんできましたが、今では悩みに救われた、悩んできたことが自分の成長にプラスに作用したと思っています。しかしながら、今もって苦しんでいます。最後に言ってあげられることは「一緒に頑張ろう」という励ましです。”(1月27に付け中日新聞)

 三重県名張市の細見さん(男・50)の投稿文です。五十音を教訓にした話は過去にもいろいろ紹介しましたが、久しぶりの話題です。人それぞれ自分に合ったように作ればいいのです。細見さんはいろいろ悩まれた人のようです。そうした中でこのような教訓になったのです。この心構えを持つことによって良い生活になるのです。覚えやすい5語にすればすぐに思い出せ、心構えを立て直せる。人間は弱いものです。何かネガティブなことがあるとすぐに崩れる。そんなときこんな知恵があれば、スムーズに立て直せるでしょう。
 ボクも今、手術後の経過が面白くなく、ついネガティブになりがちです。ボクにはこんな5語はなく、しまったと思っていますが、この「話・話」でいろいろな知恵をもらっているので、今のところあまり悲観的にならずやっています。




2016/02/17(Wed) (第2226話) 書き初め会 寺さん MAIL 

 “わが家の恒例の書き初めを、九日に四人でした。ガラス越しに冬日のさんさんとふりそそぐ座敷の座卓にロウバイを生け、焼きそばランチでもてなした。昼食後、静かに墨をすり、筆を運ぶ。
 四十四歳のめいは「ひとに優しく、己に厳しく」と書く。スタッフ七人をかかえる彼女のスローガンだ。健闘を祈りたい。七十七歳の友は「触れあい、思いやり」。いつも優しく接してくれているが、秘めたものがあるのだろう。八十歳の友は「健康第一」と力強く書く。「健康だったら何もいらない」とも語る。誰もの究極の願いだ。
 私は、大きな文字で「感動」「感激」「感銘」「感服」と、四枚書いた。体力、気力のなえを感じるこのごろ、心の躍動感を味わいたい。最後は「翼をください」を四人で合唱した。歌のように身も心も自由な世界へはばたけますように。”(1月21日付け中日新聞)

 三重県大台町の主婦・上平さん(74)の投稿文です。身近な人が集まって書き初めをする、なかなかな趣向である。恒例と言われるからもう長いことであろう。花を立て座敷を整え、昼食も準備する。その後筆を持つ。忘れかけている日本の文化である。筆を持つ人はもう少ないであろう。書き初めであるので、書く言葉も新年の願いが込められている。多くの家庭で復活したい行事である。
 この文から、わが家でもある時期妻と二人でしていたことを思い出す。それは妻が習字を習っている頃だと思う。まさに40の手習いだった。師範まで取ったのだから我が妻ながら偉いものだと思う。わが家もそんな時代があったのだ。懐かしい。




2016/02/15(Mon) (第2225話) 礼儀正しい親子 寺さん MAIL 

 “定年後、市のリサイクルステーション管理のバイトを始め三年になります。新聞、雑誌、飲料缶、ペットボトル、古着などが持ち込まれます。会社員生活よりも、世の中いろんな人がいると痛切に感じます。
 年末は大忙し。品物を投げ込まれてイライラしたり、こごとを言われたり言ったり、腹の立つことが多くあります。そんな中、両親と小学二年生くらいの男の子がきました。男の子の第一声は元気に「こんにちは、おねがいします」。分別方法を母親に聞き整理して袋に入れ、帰り際にまた「ありがとうございました」と元気な声。「両親のしつけがしっかりされている家庭だな」と感心しました。
 「僕偉いネ、将来誰にも好かれるすばらしい大人になるネ」と言うと「はい」の返事。母親はそばで「ありがとうございます」と笑み、父親も「ごくろうさんです」と言ってくれました。忙しい中、感動した気持ちで新年を迎えられました。”(1月21日付け中日新聞)

 愛知県豊田市のアルバイト・牛木さん(男・68)の投稿文です。この会話を見ていると本当に礼儀正しい親子です。「子は親の後姿を見て育つ」という。まさに「この親にしてこの子あり」である。お金を払っているのだからしてもらって当然、お礼を言うのはお金をもらう方、と言うお金を中心にした傾向があるが、これは大間違いである。してもらう、させてもらう、五分五分である。どちらが欠けても成り立たない。その時の需要供給の力関係ではない。そんな心がけで人生過ごしていきたいものだ。そこに感謝の気持ちが現れ、この親子のような姿になる。




2016/02/13(Sat) (第2224話) 7年で1冊 寺さん MAIL 

 “夫が育児日記を買ってきたのは、長男の妊娠がわかってすぐの頃でした。日記なんて1週間と続いたことのない私。こんなもの書くわけがないと思いましたが、子どもの成長は早いもの。忘れっぽい私が何かに書いておくのはいいことだと考え直しました。
 しかし、長男が生まれ、2年後に長女が生まれると毎日忙しく、ゆっくり育児日記を書くことなどできなくなりました。それでも数日に1ページでも、数行でも、一言でも書き続け、7年かけて1冊が終わりました。
 うれしくて夫に「やっと1冊終わったよ」と伝えると数日後、夫はまた育児日記を買ってきたのです。「なぜ2冊目?! これ書くの大変なんだよ。あなたは買ってくるだけで書かないじゃない」。私は怒り、あきれました。しかし、7年かけて書き終えた育児日記には、確かに7年分の思いがつまっていました。ページをめくれば1、2歳の頃のことも書いてある長男は、いまや13歳。私の足のサイズも身長も超えました。
 2冊目も、もうすぐ終わります。夫に言ったら3冊目を買ってくるのでしょうか。きっとまた7年かかります。”(1月22日付け朝日新聞)

 東京都町田市の主婦・百田さん(43)の投稿文です。続いて継続の話になりました。気の進まない育児日記を傍に置いておき、気の向くときに書いていたら、7年で1冊を書き終えていた。2冊目も13年でもまもなく書き終える。習慣になってしまえば継続もたやすいことである。育児日記である。その内容は深い。家族の歴史になっているだろう。百田さんの日記は形を変えていつまでも続くだろう。
 ボクは3年用日記を使い始めたのは1985年だからもう32年11冊目になる。妻は結婚以来家計簿を日記代わりにしているのでもう47年になる。読み返してみたら凄いだろう。いろいろあって自分で感激するのではなかろうか。




2016/02/10(Wed) (第2223話) 42個のダルマさん 寺さん MAIL 

 “今年のお正月で、小さなダルマさんが四十二個になりました。事の始まりは四十二年前、町内で主人たちが結成した「走ろう会」のメンバーの豊川稲荷への初詣マラソンでした。主人三十七歳の時でした。往復十六キロの道のりを朝四時出発、お参りをして帰宅しました。無事到着のしるしに境内で売っている小さなダルマを買い、目を入れ年月日を記入していました。
 私はその時から、走る人たちの荷物を車に積んで伴走するのを頼まれました。年月が過ぎ、それぞれの方が自分たちで豊川稲荷まで行かれるようになり、気が付いたら私は主人一人の伴走をしていました。
 三年前から近くに住んでいる次男家族や、お正月に帰宅している長男一家の孫たちも参加するようになりました。今年も元日の朝二時に出発。私も歩く仲間に入りました。総勢八人が二時間かけて豊川稲荷へ到着、お参りをしてダルマさんを買いました。孫たちは迎えの車で帰宅。主人と私は帰りも歩いてその後、自宅近くの山に登り、初日の出を拝みました。
 振り返れば四十二回連続の元旦に、体調不良もなく天候で中止もなかったと、四十二個のダルマさんに手を合わせました。「ありがとう」と。”(1月19日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の自営業・小林さん(女・75)の投稿文です。年1回のことではあるが、続けて42年である。30代で始めて今や70代である。この間いろいろなこともあったと思うが、それを乗り越えこの成果である。その感慨やいかなるものだろうか。何事も続けるとその成果は大きいのである。その見本のような話である。こういう人である。他にもいろいろなことを残されたであろう。
 ボクはもう何度も書いたと思うが、凡人には継続を最大重要事項と捉えている。凡人にはささやかなことしかできない。でも、そのささやかなことも継続すれば大きな成果となる。こう捉えてきたボクであるので、三日坊主で終わったことも多いが、何年何十年と継続していることもある。継続していることは力になっている。この「話・話」も2004年5月からだからもう13年になる。だから2200話を越えている。これからも淡々と続けたい。




2016/02/08(Mon) (第2222話) 震災後に誕生の孫 寺さん MAIL 

 “一九九五年一月、阪神大震災の時、妊娠六ヵ月の娘が、二歳七ヵ月の長男と夫と、兵庫県西宮市に住んでいました。すぐに電話は不通。待てども待てども連絡がとれません。ある朝、八時ごろに電話のベルが。
 「お母さん、私たち三人とも元気よ」と言うと、プツンと切れてしまいました。後から聞けば、夫婦が交代で長蛇の列に並び、公衆電話は一人一通話、十円で次の人へというルールだったそうです。いろいろ大変だったそうですが、娘は乗り越え六月に次男を出産。その子が今年、成人式を迎えました。
 自殺の報道が絶えず、命の重さを再考したいと感じています。皆さんに助けられ、つなぎとめた命を燃やしてほしい。夢をあきらめないで! 自分を大切にして! そうひしひしと感じつつ、孫の笑顔やパワーに励まされ、老いの日々を喜びと、少しでもお役に立てるようにと感謝を忘れずに過ごしたいと思います。「成人おめでとう」と、心から祝いたいです。”(1月16日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・西村さん(75)の投稿文です。阪神大震災の年に生まれた子どもが二十歳である。大変な混乱の中の出産であったろう。大変な中の育児、生活だったろう。それだけにより尊い命である。その後東北でも大震災があり、このような思いの人も多かろう。命は重い。世の中のこと、すべて命があってのことである。嬉しいことも悲しいことも命があってのことである。
 そして、どうしてこんなに命に軽重があるのかと思う。例えば、ほとんどの小さな命は両親や親族に見守られながら育っていく。一つの小さな命を救うために何千万という寄付金が集まることもある。一方、虐待やいじめなど何とも無造作になくなっていく命がある。何千万という補償金が出る命もあれば、何にも出ない命もある。命の重さを感じながら過ごしたいと思う。そうすれば日々の生活も充実するだろう。




2016/02/06(Sat) (第2221話) 千羽鶴 寺さん MAIL 

 “昨年の師走のある日、不動産業の営業マンから千羽鶴が届いた。私が胃の腫瘍の手術のため、近々入院することを彼に伝えたことがきっかけとなり、ある女性から託されたという。
 愛知県尾張旭市に住んでいる八十五歳の女性で、千羽鶴を折っては病気療養中の方々に無償で贈ってくださっているとのこと。会ったこともなく、名も知らない私に、営業マンを介して届いた千羽鶴をありがたく頂戴し、床の間に置いて手術の成功を祈った。おかげさまで手術は成功し、自宅に戻ることができた。
 自分やお世話になっている周りの方々の幸せを願うとともに、赤の他人の幸せをも願って作っていただいた千羽鶴だ。一つ作るのに、どれだけの手間と時間をかけていただいたのかを思うと、感謝以外の言葉が見つからない。戦前や戦中、戦後の苦労や悲しみの体験の数々が彼女の行動力の源になっているのではないか。つらい体験を超越した博愛精神を学びたいと思う。”(1月11日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の公務員・堀尾さん(女・64)の投稿文です。続いて見舞いの話になった。思いがけない縁で、知らない人から千羽鶴が届いた。千羽鶴には大変な手間暇がかかる。それを赤の他人に贈る人がいる。85歳の老婦人と言われるから、時間はいっぱいあろう。でもその時間を赤の他人に使う人は稀であろう。良いことを思い着かれたと思う。気持ちがあっての思いつきである。
 前回に書いたばかりであるが、ボクもつい先日、入院を経験した。全く思いがけない人から花かごが届いた。びっくりしたが、やはり嬉しいものである。花も嬉しいが、その気持ちが嬉しい。見舞いにも全く思いがけない人が来てくれた。やはり嬉しいものである。看護婦さんの大変さを知り、その気遣いにも嬉しいことが多かった。病人には優しさが嬉しいのである。




2016/02/04(Thu) (第2220話) 困った時のご近所さん 寺さん MAIL 

 “「遠くの親戚より近くの他人」とはよく言われますが、最近そのことを身にしみて感じる出来事がありました。昨年11月、体調不良になり、1週間ほど入院しました。入院用品は以前に医者にかかった経験から、すぐに対応できるよう準備していましたが、人手を借りることに関しては心構えがありませんでした。
 それでも、ご近所さんが「お互い様だから」と入院と退院当日の送り迎えや、留守中の郵便物の整理などを気持ち良く引き受けてくださいました。退院後には、洗面所の天井の蛍光管が切れ、交換が必要になりました。いつもなら自分でできますが、病み上がりの身。思い切って地域の民生委員さんに頼んでみると「いいですよ。10分ぐらいで行きます」とのお返事をいただきました。さらに「もしよかったら月1回の訪問もします」との提案も。困った時の神頼みならぬ、困った時のご近所さんです。
 地域とのつながりの大切さを、身をもって知った今日このごろ。今後は、私自身も福祉施設職員として長年働いてきた知識・経験を地域社会に還元していきたいと思います。”(1月12日付け朝日新聞)

 長野県上田市のパート・関さん(女・68)の投稿文です。ボクは1月中旬から10日間、始めての入院手術を経験したばかりである。入院とは本当に大変なことである。見舞いや励ましもたくさん頂いたが、ボクには家族がいる。ほとんどのことは家族がしてくれた。
 関さんは一人暮らしであろうか。一人暮らしの人が入院したら大変なことである。遠くのところに親戚があって、泊まりできてくれるような人があればまだいいが、それでも遠くの人では大変である。家の周りの少々のことであれば、近くの人が少し手助けをすればこと足りる。それこそ「遠くの親戚より近くの他人」である。関さんはそのことを実体験された。しかし昨今は、この近所付き合いがみるみるうちに薄らいでいる。近くの他人と言っても日頃の付き合いがあってできることである。声もかけたことがない他人では、いざという時声もかけられない。付き合いがあっての他人である。このことをよく考えたいものだ。




2016/02/02(Tue) (第2219話) クラウドファンディング 寺さん MAIL 

 “インターネットを通じ不特定多数の個人や団体から事業資金を募る「クラウドファンディング(CF)」の仕組みを使い、名古屋市は2016年度から、市内で埋もれつつある築50年以上の歴史的建物の保存、活用に乗り出す。民間事業者や建物所有者らから再生計画を募り、CFで目標額が集まれば、同額を補助して後押しするのが特長だ。
 CFは金融機関から融資を受けづらい小規模事業者や個人でも賛同を得られれば資金を集められる。市は計画にニーズがあるか、CFへの反応で把握できる。
 建物の風情や機能性を生かし、地域の魅力づくりにつながる取り組みを公募する。民家や空き家、蔵などを改築し、飲食や雑貨店、ゲストハウスなどにする事業を想定する。(後略)”(1月8日付け中日新聞)

 記事からです。クラウドファンディングの紹介です。クラウドファンディングとは『クラウド(一般大衆)とファンディング(資金調達)を合わせた造語で、新規事業をインターネットで紹介し、賛同者から資金を募る。主に資金を寄付する「寄付型」、出資者が完成したサービスや商品を受け取る「購入型」、出資者が配当を得る「投資型」がある。』とある。この言葉を知ったのはまだ最近である。テレビで見て、続いて新聞で見た。インターネットを介してとあるので、始まったのはそんなに古いことであるまい。社会はどんどん変わっていることを感じる。
 市民から寄付・出資を募り事業を立ち上げる。個々にはいろいろあったろうが、インターネットを通じて広く募る。そうしたことを専門に扱う会社やホームページがある。ボクが最初に知ったのは「READYFOR(レディフォー)」と言うものであった。何千と募集があり、何千と目標を達したものがある。何か「ふるさと納税」を思い浮かべた。寄付し、何かの見返りを受ける。ついでに夢も買う。本当に頭は使いよう、知恵は出しようである。悪いことではない。もう少し調べ、寄付を検討してみようと思う。
 最近知らないことが多すぎる、と感じるようになった。現役中は仕事中心で窓口が狭かったのである。仕事一辺倒から少し窓口を広げると次々といろいろなことが入って来る。ボクの人生はこれからという気さえしてくる。



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