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第139号  2015年12月

2015/12/30(Wed) (第2208話) 大切な場所 寺さん MAIL 

 “先月下旬、東京で母の家族葬を営みました。享年96でした。その葬儀が終わったばかりの本堂で、ご住職が法衣のたもとからハーモニカを取り出しました。焼香の香りが漂う場所には不似合いな楽器の登場に皆驚きました。
 「あまりないことでしょうが、お母さまに一曲ささげたいので聴いてください」とイングランド民謡の「埴生の宿」を吹いてくださいました。右手で音を揺らす手つきも本格的で、素晴らしい音色でした。ご住職の説明によると、この曲は「大切な場所」「幸福なすみか」を歌っているとのことでした。この曲を耳にして、母は半世紀以上前に亡くなった夫(私の父)と三年半前に亡くなった長男(私の弟)と再会して今、幸せな場所にいるのだと確信しました。
 ご住職の温かいご配慮に心から癒やされました。母を見送った日から、この「埴生の宿」が一番の思い出の曲になりました。”(12月13日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・武田さん(63)の投稿文です。ハーモニカで死者を弔う住職に遺族が感動する。こんなこともあるのだ。仏教の住職も様々になってきた。様々な試みをする人、ただお経のみ唱えお布施を受け取る住職。そして何かと寄付を無心する寺院。
 ボクはお寺に関わることが多くなった。数年前から檀家総代を引き受け、今年は地域代表として十八講という団体に参加し、来年4月からは個人として参加することになった。また今年4月から西国33ヶ寺参拝を始めた。仏教に非常に帰依が深いかと言えば、そうとは言えない。ボクは親鸞さんや空海さんを否定するものではない。もっと学ばねばと思う。ただ今の寺院や住職には批判的である。親鸞さんや空海さんが壮大華美な寺院を造れと言ったのか、多額な費用を掛けた供養祭をやれといったのか、多額なお布施を要求したのか等々である。そして住職はそれに見合った社会貢献をしているのか、民を救っているのかと言う疑問が浮かぶ。そんな中、この住職のように様々な試みをする住職もある。ボクの近くでも境内で音楽会を開く人、漫才をする人などもある。そうした中で仏教思想を語り導く。従来の形式にこだわらず、様々な試みをする中で民に安穏を与えて欲しい。
 今年最後の「話・話」にします。ご愛読、ありがとうございました。




2015/12/28(Mon) (第2207話) 看護師になってよかった 寺さん MAIL 

 “江南市の仙田八千代さん(五一)は、看護師になって三十年がたつ。だが数年おきに体調を崩し、勤務先を退職。復調すると再び病院に勤めることを何度も繰り返し、あちこち転々とする自分を落伍者だと思っていた。
 つい先日のこと。近くのショッピングモ−ルで女性から声を掛けられた。四年ほど前まで勤めていた病院に週一度、通っていた患者さんであることを思い出した。「ぜひお目にかかり、お礼を言いたいと思っていたのですが辞められたと聞い・・・」と話し始めた。「私が、ベッドで処置をしてもらっていたときのことです。カーテン越しにあなたと別の患者さんの会話が漏れ聞こえてきました。『この病気は冶るかしら』と不安げに尋ねる患者さんに、あなたは答えられました。『病は気から、と言います。それは、病は本人の気持ちからという意昧だと思います。医師や薬剤師、看護師は援助者として傍らにいます。家族や友人も支えてくれるでしょう。でも、ご本人が自分から病気に立ち向かっていこうという気持ちがあって初めて周りの力を活用できるのだと思います』と。私はそのとき、検診で早期の胃がんを宣告されたばかりでした。手術を受けるか否か迷っていたのですが、あなたの言葉を聞いて決心し手術を受けたのです。そのおかげで今も生きています」
 仙田さんは「思わず涙がこぼれました。そして心の中の霧が晴れた気がしました。やっぱり看護師になって良かったです。もう明日死んでもいいと思えるほどに」と話す。”(12月6日付け中日新聞)

 志賀内氏の「ほろほろ通信」からです。少し長いですが全文を紹介しました。落伍者だと思っていた自分が感謝される、本当に嬉しかったでしょう。命を救われた思いとは大げさでしょうか。でもそれくらいのものがあります。
 早期ガン、ボクも今全くそんな状況におかれています。手術と決めたが、本当は手術をしなくてもいいのではないか、この選択はよかったか、まだ迷いがあります。本人は迷うばかりです。これには他に人からの後押しが必要でしょう。この胃がんの人にはそれが仙田さんであった。ボクにはそれが妻であるようだ。ボクには監視療法という方法があります。手術をせず、検査を続けて状況を見守っていくという方法です。どれにも一長一短があります。でも手術と決めました。今ではまだ迷っている口ぶりをすると「キチンと取ってすっきりしなさい」と叱られます。まだ人生はあるつもりです。この間、ガンを気にしながら過ごすより、すっきりした方が良い気はします。ボクの場合、手術がキチンといけば後の心配はほとんどないはずです。分かっていても後押しは必要です。
 大きな病気をしたことがないボクが、今病院に通いながらいろいろ感じています。医師や看護師さんは人の命を預かる大変な仕事です。この大変さを毎日しています。その中で優しい心遣いもせねばなりません。仙田さんはそんなことをやってこられたのです。




2015/12/26(Sat) (第2206話) 祖母と私の五七五 寺さん MAIL 

 “神戸で一人暮らしをしている91歳の祖母からよく電話がかかってくる。祖母の生活は大変シンプルだ。仏壇に向かってお経をあげ、食事を作り、姉や私に電話をして、眠る。話を聞いていると、何かあるわけでなくとも日々きちんと生きている様子が分かり、尊敬に近い気持ちが生まれる。その一方で、共通の話題がなく、何を話したらいいのか困っている自分もいた。
 そんな祖母が俳句を作るようになった。「頭の体操よ」と笑っているが、声もぐんといきいきしてきた。ほぼ家から出ることのない生活だが、日々の小さな出来事を丁寧に詠んでいる。私も高校生の頃から句作をしているため、それがいかに大変なことか、少しは分かるつもりだ。
 ある日、「下手な句もいいねと孫や秋の夜」という句を祖母が作った。最初は別の季語だったが、2人で推敲し、この形になった。その時ふと、俳句の話をしている間、気詰まりな空気がなくなっていることに気付いた。祖母も、成人した孫と何を話したらよいのか戸惑っていたのだろう。明日はどんな句を聞けるだろうか。
  冬夕焼の両端にゐる二人かな   ”(12月4日付け朝日新聞)

 東京都の大学生・東影さん(女・20)の投稿文です。高齢者と若い人が話すには、お互い気持ちはありながらも何を話していいのか戸惑いがあります。時折ならまだしも、いつもとなると共通の話題がないと難しい。共通の話題を捜すことも難しい。ついつい疎遠になる。それを俳句という共通の作業が見つかった。これは稀な幸運なことです。お祖母さんが90歳を過ぎて俳句を始められたきっかけは分かりませんが、稀なことでしょう。そして、東影さんが20歳で俳句をされているというのも稀なことです。こうした稀が重なるのは更に稀なことでしょう。お喜びを申し上げたい。
 高齢者の多くは次第にシンプルな生活になります。そのシンプルが受け入れられるようにしておかねばなりません。ボクにはそれが心配です。暇が苦痛でなりません。いつまでもその時の状態に応じキチンとした生活になるような態度を作り上げておかねばなりません。体が動く間はウォークと農作業、そしてホームページ作成(川柳等)とこの「話・話」、動けなくなったら後の二つ、これで大丈夫だろうか。




2015/12/24(Thu) (第2205話) すてきな青年 寺さん MAIL 

 “赤信号で停車すると、前の横断歩道を少し腰の曲がった高齢の女性が渡っていた。足が悪いのか、年齢のためか、とてもゆっくり歩いている。つまずかないようにだろうか、下を向いて歩を進めている。「早く渡りきってしまわなければ」と、頑張っているに違いないと思われた。
 横断歩道の半ばで信号が点滅を始め、赤に変わった。もちろん、歩行者が渡っている最中に発進できないので待っていると、高校生ぐらいの男性が駆け寄ってきた。彼は彼女の1メートルぐらい後ろについて手を挙げ、一緒に渡り始めた。渡り終えると何も言わず、何ごともなかったように立ち去った。私も車を発進させ、その場を離れた。
 そういえば四年ほど前、今と同じ光景を見ていたなと、ふと思い出した。その時は雨が降っていた。やはり横断歩道を渡る高齢の女性が、信号が赤に変わるのに間に合わなかった。すると先に渡っていた男子中学生が横断歩道に戻ってきて、女性に寄り添って一緒に渡り、そのまま立ち去ったのだ。
 「さっきの若者は、もしかしたらあの時の中学生だったのだろうか」ちょっと奇跡的な、心温まる出来事に立ち合ったのかもしれない。”(12月3日付け中日新聞)

 浜松市の主婦・鈴木さん(48)の投稿文です。誰でもできることです。ほんの少しの気遣いができるかどうかの問題です。とっさのことです。優しさとその心がけをいつも持っていないととっさの行動は起こせない。鈴木さんがいつも通られる道だったら、この高校生はその中学生だったのでしょう。こんな若者に大きな幸があることを祈りたい。
 横断者がある時になぜ車を止められなかったのか、ごみを見た時になぜそのごみを拾えなかったのか、ボクは後でいつまでも気にすることがよくあります。気にするくらいならしておけばよかった、なぜできなかったのか。とっさのことです。すぐに行動に移さねばなりません。できないと言うことは、常日頃からの気遣いがないからです。とっさのことは芯から優しい人にならねばできません。この高校生は素晴らしい。
 最近スクランブル交差点が再び多くなった。車と歩行者を完全に分離するので歩行者の安全が図られのは確かであるが、歩行者の通行時間が短くなったのではなかろうか。斜め横断をすれば更に距離は長くなる。この若者が出合ったような場面が多くなる気がする。設置者はどのように考えておられるのか気になる。またいろいろな信号方式が取り入れられ、戸惑うことも度々である。




2015/12/22(Tue) (第2204話) 次こそは! 寺さん MAIL 

 “「まさか娘夫婦と、こんなこふうにテニスができるとはねえ」と母が言った。それもそのはず。両親の年齢は二人合わせて百三十歳。趣味とはいえ、テニスはかなりハードだ。コートは広く、走る量も半端でない。体力に併せて頭脳も使う。心身とも健康であるからこそできるスポーツだ。
 「もっとラケットをしっかり持って」「今の球はちっと下がってから打って」両親にアドバイスをもらいながらのプレー。私が小さいころも、こうしてテニスに連れていってもらったっけ。その時はただラケットを振り回して邪魔ばかりしていたけれど、一緒にテニスコートに出掛けることが好きだった。
 驚いたことに、何度ゲームをしても私たち夫婦は両親に勝てない。走るスピードも、球の強さも若い私たちの方が勝るはずなのに、一勝もできなかった。両親は互いに相手を信頼してプレーしているように思えた。やはり四十年以上一緒にいるからだろうか。
 仲が良く元気でいる両親をあらためてうれしく思った。いつまでも一緒にプレーしたいと思った。その後、お昼ご飯をごちそうしてくれた父に「お父さん、私たちが勝ったときには私たちがごちそうするね」。そんな日がいったいいつ来るのかな。”(12月1日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の英会話教室講師・北川さん(女・40)の投稿文です。また親子が競う話です。親夫婦と娘夫婦がテニスで競う、いいですね。そして、親夫婦がいつも勝つ、これもいいですね。勝った方が食事をおごる、これもいい。普通は負けた方でしょうね。こういう親子関係はお互いの気持ちが大いに関係するのでしょう。お互いにそういう気持ちがあれば、捜せば何かあるかもしれない。2202話では陶器作りであった。ウォーキングなら技術も要らない。小4の孫とボクだけのものであったが、その気になれば親族みんなでもできる。まずはそういう気持ちがあるかどうか、気持ちの問題であろう。




2015/12/20(Sun) (第2203話) 白杖SOS 寺さん MAIL 

 “視覚障害のある人が周囲に助けを求めるポーズを岐阜市が図案化し、「『白杖SOSシグナル』普及啓発シンボルマーク」として内開府のホームページ(HP)に掲載された。国の「お墨付き」を得た市は、マークの普及・浸透に力を入れる。
 このポーズは、視覚障害のある人が道に迷った時などに、周囲に「SOS」と伝えるもので、白杖を頭上五十センチ程度に掲げる。口頭で叫ぶだけでは、雑踏の中で気づいてもらえない恐れもあり、福岡県盲人協会が1977年に考案した。
 しかし、浸透は十分とはいえない。岐阜市在住の全盲の渡辺巧さん(77)も、点字ブロックの場所が分からなくなった時などに白杖を掲げるが、素通りする人は多いという。「杖を掲げれば目立つけど、ポーズの意味は知られていない」と話す。ポーズの意味を伝えるマークがないことに着目。昨年秋に案を公募し、青森県弘前市のデザイナー工藤和久さん(50)の応募作品をもとに制作した。今年五月の大会で発表し、視覚障害者の全国組織「日本盲人会連合(日盲連)」も利用促進を決めた。
 市と日盲連は八月、内開府に周知への協力を要望。内開府は十月中旬、障害者に関する各種マークを紹介するHPのコーナーに追加した。(後略)”(11月30日付け中日新聞)

 記事からです。このマークについてこの新聞より前に、ボクは思いがけないところで知ることになりました。12月5日(土)の一宮友歩会の例会です。最初の頃より全盲の人が一宮友歩会の例会に参加されていました。それがこの新聞で紹介されている渡辺さんです。ここ数年、体調を崩され欠席されていました。この例会の前に、体調も良くなったので久しぶり参加したという連絡がありました。そしてガイドを伴って参加されました。
 休憩時間に話す機会があり、このマークのことを知りました。良い機会です。午後の出発の前に参加者全員の集合写真を撮りますので、その後で紹介することにしました。そして、ポスターを持って話してもらいました。その後この新聞を目にしたのです。
 障害者に関するマークはいろいろあります。この「話・話」でも時折紹介しています。でも世の中にあまり知られていません。昔ボクの夫婦は点字本を作る会に参加していました。これも縁でしょう。大いにPRしたいと思っています。




2015/12/18(Fri) (第2202話) 親子で陶器 寺さん MAIL 

 “趣味で陶器作りを始めて三十年近くになります。独身のときから興味があり、妻の在所が窯元ということもあって、ろくろを回すようになりました。これまでに湯飲みやご飯茶わんなど百二十点余りを作りました。陶器作りは簡単ではなく、まして生来が不器用な私は悪戦苦闘。途中でさじを投げかけたこともありました。しかし、そのたびに義兄たちが根気よく教えてくれ、楽しさを覚えたのです。
 そして最近、息子がやりたいと言いだし、月に一、二回、親子でろくろを回しています。息子は手先が器用なのか覚えが早く、仕上げも早いです。そんな息子を見てうれしい半面、負けたくないという競争心も出てきました。作品が完成した日は二人で晩酌しながら品評し合う、良きライバルとなった私たちです。”(11月29日付け中日新聞)

 名古屋市の自営業・宮地さん(男・71)の投稿文です。義兄から学び親子で競う、良い親族関係、良い親子関係です。ありそうでなかなかないことでしょう。ボクの中には全くありません。
 陶器作りにのめり込む人は結構多いものです。ボクに知人にもあります。なかなか思い通りに行かないところが良いのかもしれません。出来上がってくるのに時間もかかる。その間の期待と不安がまた良いと言われるかもしれません。一度聞いてみたいものです。ボクの娘婿も少しかじっていたようです。昨年は娘婿と孫と3人で一度陶芸教室に行きました。これが生涯の思い出になるかもしれません。ボクも不器用ですので、最初から孫にも敵いません。敵わないから最初からしない、これが本音でしょう。これではいけないのでしょうが、最近は孫に負けてばかりです。




2015/12/16(Wed) (第2201話) 横井さんの創意 寺さん MAIL 

 “グアム島のジャングルに二十八年間ひそんで生還した元日本兵、横井庄一さんのくらしの道具の企画展が、名古屋市博物館で聞かれている。くしくもこの期間中、私は初めての作品展を地元で開いていた。すぐに石川県から向かった。
 横井さんが発見されたとき二十代だった私は、彼の衣服が印象深く、脳裏にずっと焼きついていた。自身の手で木の皮から繊維を取り、それを織って仕立てられたという完成度の高さに魅了され、ぜひ見たいと願っていた。
 襟、ボタンホール、擦り切れたと思われる膝部の補修などの細かい作業がていねいで、想像を絶する素晴らしさに感動の涙が止まらなかった。
 私が手織りを始めたのは、横井さんが自然の恵みを生かして作った織物に共感を覚えたのがきっかけだった。企画展の会場で、逆境を創意工夫で楽しみに変える横井さんの生き方に、時を超えてスーッと私の心が寄り添っていくのを感じ、感動した。”(11月26日付け中日新聞)

 石川県小松市のパート・加納さん(女・68)の投稿文です。グアム島のジャングルに二十八年間ひそんで生還した横井庄一さんのニュースには驚いたものだ。それもボクの家からあまり遠くない愛知県の人である。そして、横井さんの織物に共感を覚え、手織りを始めるきっかけになったと言い、今回の名古屋市博物館での企画展に忙しい中、石川県から飛んできて、感動の涙を流す加納さんのような人もある。どれだけ多くの人に影響を与えたであろうか。
 現代の多くの人と対局の生活である。そこには多くの知恵が必要である。与えられるものが多くなればなるほど人間は退化する。それを乗り越え進化するのが理想ではあるが、それができる人は少数である。災害時など今使っているものが使えないとき、どのように対応するのか、進化しても生活の基本が自分でできないのでは、大変心もとない。助けを待っているだけでは困ったものだ。まずは備えをする。その備えには、物だけではなく使う技術も必要である。




2015/12/14(Mon) (第2200話) 年賀状 寺さん MAIL 

“あいさつ状印刷専門サイト「挨拶状ドットコム」が主催する「年賀状思い出大賞」には、書きたいと思って書いた年賀状の思い出が数多く寄せられる。今年の大賞に輝いた斎藤恒義さんの作品を要約してご紹介する=かっこ内は作品からの引用。
 高校を中退して人目をさけて家にこもっていたとき、よく叱られた中学の先生から思いがけない年賀状が来た。「人間一度くらいの挫折に負けるな。応援してる、大切な教え子のひとりを」とあった。「元旦。頑張ります」と書き、ポストに投函。「ポトン、という音は僕の新たな出発の号令に聞こえた。充実した人生。原点は先生の年賀状だった」
 こんな心に響く年賀状を私も書いてみたい。もらってみたい。充実した人生の原点だけでなく、本当に必要な役に立つ年賀状を考える原点も、ここにあるような気がする。”(11月25日付け中日新聞)

 生活手紙文研究家・中川越の文からの抜粋です。年賀状を書く時期になりました。定年も過ぎると年賀状も減ってきます。又この歳?にもなると「今年で年賀状を最後にします」という文にもお目にかかります。年賀状は役に立つものなのか、役立たない単なる年中行事や虚礼なのか、面倒だけのものなのか、楽しいものなのか。これはまず書く本人の心構えに寄ることが大きかろう。年賀状の発行枚数を少し調べて見ると、平成15年の約44億枚を最高に以後減り続けていて、平成27年には約30億枚とある。これは電子メールなどに取って代わられると共に、面倒だと思う人が多いからであろう。効用より面倒が優勢なのである。でもこうした投稿文を読むと、年賀状の効果を知ります。ボクも近年迷ったりしましたが、今は明確にしています。自分からはできるだけ止めない。年賀状程度のことを惜しんでどうするのだ。ボクは夫婦で川柳を始めてから35年になるが、それ以来川柳を載せることにしている。ヒョッとして楽しみにしてくれている人があるかもしれない。事実そのことを伝えてくれる人がある。その人1人のためであってもいい、続けられるだけ続けようと思っている。形式的な印刷屋さんの年賀状でもいい。少なくとも生存していることを知ることになる。昨日も思いがけなことから同級生の死を知った。




2015/12/11(Fri) (第2199話) 山崎川 寺さん MAIL 

 “私の住む街のほぼ中央を流れる二級河川の山崎川。春はサクラの名所として知られ、散策路としても親しまれている。サクラの古木の下に四季の花の植え込みがあり、季節の移ろいを感じさせる。浅く澄んだ水の流れにコイが泳ぎ、流れに沿ってシラサギが舞うこともある。休憩所もあり、都会の中のオアシスといった風情かがあ。
 また、このかいわいは若者からお年寄りまでが、それぞれのペースでウォーキングやスロージョギングをするのに、絶好の場所でもある。
 私は八十歳を過ぎた後期高齢者。医師に勧められて毎日、山崎川でのウォーキングを日課にし、健康づくりに努めている。介護を必要としない健康寿命を維持するために歩いている。私にとって山崎川沿いは「健康寿命維持ロード」であり、季節の移ろいを眺めるすてきな場所である。”(11月25日付け中日新聞)

 名古屋市の光部さん(男・83)の投稿文です。山崎川は名古屋市千種区の平和公園内にある猫ヶ洞池から、南西方向の昭和区、瑞穂区、南区へと流れ、港区で名古屋港へ注ぐ延長約12kmの2級河川です。まさに名古屋の街中を流れる川です。光部さんは瑞穂区ですので、この川の最も良いところにお住まいです。だからこのような文になるのです。こうした環境を身近に持ち、それを十分に活用する。これは恵まれたことです。この環境を活かさないのはもったいないことです。健康寿命維持ロードを皆さんで活用して下さい。
 一宮友歩会では「史跡巡りシリーズ・名古屋編」で順次各区を歩いています。すると途切れ途切れに山崎川を歩いているのです。光部さんの瑞穂区も歩き、山崎川の部分も歩きました。ボクは数年後に「河川探訪シリーズ」で山崎川を通して歩こうかと思っています。楽しみなっています。
 ローカルな話でしたが、その気になって捜せば皆さんの近くにもこんな川はあるはずです。捜して楽しんで下さい。ボクの家のすぐ近くに川があります。数年前、町会長の時にその「川に遊歩道を設置して欲しい」と言う要望を出したが、今実現しようとしています。数年後が楽しみです。




2015/12/09(Wed) (第2198話) 「40周年おめでとう」 寺さん MAIL 

 “夫と一緒に奈良県と大阪府の境にある大和葛城山に出かけ、朝一番のロープウエーに乗った。山上駅から少し歩くと、頂上のススキ野原に着く。見渡す限り空か広がっていた。野原を登山靴で歩いていると、女の人から道を聞かれた。少し話した後、その人が「今日が40周年なんです、結婚して」と言う。まわりには誰もいなかった。「主人は先に逝ってしまいましたが」と明るい口調で続けた。
 「よく一緒に山へ行って……。あれ金剛山ですよね」と近くの山を指した。「そうです」と夫。大台(ケ原山)はどれかしら」「あれです」と夫が教え、「だいぶ遠いですね」と私が続けた。周りに見える山の名前を、3人で挙げていく。生駒、高見、国見・・・。「山から下りたら温泉に寄って帰ります。時間を取らせてごめんなさい」と去っていった。
 道を下りながら夫の背中に語りかけた。「あと10年したら、1人になるかもしれへんなあ」。私たちは結婚して30年だ。あのとき、「40周年おめでとう」と伝えればよかった。”(11月21日付け朝日新聞)

 大阪市の主婦・幸田さん(57)の投稿文です。またまた夫婦の話です。何年前に亡くなられたのか分からないが、今でも結婚記念日を数え、亡くなった人を愛しんでおられる。そして共に生きておられる感じを受けます。良い夫婦というものはこうしたものでしょう。ボクの周りでも配偶者を亡くす人が多くなってきました。古稀ともなれば自然なことでしょう。最も身近な人として両親や子供もありますが、これは養ってもらったり養った関係です。配偶者は本当に共に歩み、共に困難を乗り越えてきた戦友です。共に過ごす時間も一番多いでしょう。その配偶者を亡くすことは片手片足をもぎ取られた感じでしょう。元々は他人であっただけに不思議な間柄です。
 その片手片足がなくなるのも人間の掟です。その後をどのように生きるのか、いつまでも嘆き哀しみに浸るのか、仕方がないこととあっさり割り切るのか、これも様々です。ある時を境目に、キチンと生きることが亡くなった人の願いであり、それが供養と位置づけ、その人の分まで生きることが良いと思うのですが、これはなってみなければ分からないことです。男は意外に弱く、妻を亡くすと腑抜けになることが多いようです。何となくボクもその部類という予感がします。




2015/12/07(Mon) (第2197話) 友の選択 寺さん MAIL 

 “年1回の同級会。持ってる限りの装飾品とブランドバッグで集合。自慢をちりばめた会話も年々、夫の定年、介護、お墓に相続と、後ろ向き傾向に変容する。だが今回は少々違った。
 それは「夫に腎臓1個プレゼントしたのよ」という彼女の一言から始まった。働きながら子供を育て、義理の両親をみとった。その状況で夫の人工透析が数年続いたという。ある時「移植」という情報が彼女の心にとまる。そういえば医師の説明にもあったと思い出し「なら、一つあげればいいんだって思ったのよ。今、元気になってくれてうれしい」と満面の笑みだ。子供も自立し、夫と元気に生活したかっただけ、とも言う。返す言葉が思い浮かばない。不安や戸惑いもあったろう。ご主人の反応を聞くと「否定も肯定もなく、あ・うんの呼吸だったかも」とのこと。
 残りの人生をいかに自分らしく歩むかは切実なテーマだ。ウーマンリブ運動を聞きかじり、自立、個の尊重と息巻くが、冷水を浴びた思いだ。彼女が健康だから可能だったし、価値観はそれぞれ、誰もがそうすべきだとは言えない。ただ問わずにいられない。私ならどうしただろう……と。”(11月19日付け朝日新聞)

 相模原市の主婦・古明地さん(63)の投稿文です。身内に腎臓を提供して、腎臓移植を行う。最近時折聞く話ではあるが、聞くには簡単なことであるが当人にはそんなに簡単なことではない。手術はいつも成功するとは限らない。提供した人も受けた方も障害が残るかもしれない。
 古明地さんは行った同級生から直接聞かれ、この投稿文となった。伝聞で聞く話と当事者から直接聞く話ではその重み、感じ方がまるで違う。そして自分を振り返る。「自立、個の尊重と息巻くが、冷水を浴びた思いだ」という文に、その感動を感じる。「今、元気になってくれてうれしい」との満面の笑みに、自分の欲望を満たすことより、与えることに本当の喜びがあると感じられたかもしれない。夫婦の良さを感じられたかもしれない。いろいろ話を聞くのは必要なことである。




2015/12/05(Sat) (第2196話) 株売却あっぱれ 寺さん MAIL 

 “カレー専門店チェーンの壱番屋が、ハウス食品グループ本社の子会社になる旨の報道があった。壱番屋の経営は安定しているはずだから驚いた。創業者で大株主の宗次徳二さんが「社会貢献資金にするため、株を売却する」と知り、納得できた。
 中日文化センターで宗次さんのセミナーに参加したことがある。私は「経営の危機はなかったか、成功の秘訣は?」と質問した。答えは「経営危機は一度もない。成功の秘訣は早起きと掃除」だった。今でも名古屋の繁華街で、歩道の早朝掃除を欠かさないという。
 宗次さんはホームレスの支援もする人格者だ。着ているスーツは、すべて廉価品。幼いころ施設で育った。養父は酒飲みで働かず、暴力もふるわれた。「でも養父が大好きだった」そうだ。奥さんのカレーに感動したことが、開業のきっかけになった。人知れず社会貢献をしてきた宗次さんに「あっぱれ」と言いたい。”(11月11日付け中日新聞)

 名古屋市の会社員・室谷さん(男・58)の投稿文です。このニュースを知ったとき、ボクは驚いた。業績でも悪かったのだろうか、そんなはずはないはずだが?。そしてこの投稿文で訳を知った。宗次さんという方はこんな方なのだ。まさに驚きである。
 カレーハウス CoCo壱番屋の(株)壱番屋の本社はボクの家から数kmの所にある。平成10年頃のことだと思うが、一宮の真清田神社から根尾の薄墨桜まで約60kmを歩くウォーキング大会に参加した。その時、CoCo壱の社員と一緒になり、社員がたくさん参加していることを知った。そして、会社のことを誇らしげに話すことで会社のことも少し知った。近くの会社なので親しみを覚えた。会社や宗次さんのことのニュースに敏感になった。最近ではテレビの「カンブリア宮殿」で見た。生い立ちを知り益々尊敬の念を覚えた。この投稿で「社会貢献資金にするため、株を売却する」と言うことや「成功の秘訣は早起きと掃除」と言うことを知り益々驚いた。




2015/12/03(Thu) (第2195話) 朝来る幸せ 寺さん MAIL 

 “二日付本欄の「幸せとは朝が来ること」を読んで、私も幸せをかみしめました。年を重ねると毎朝目覚めるたびに思わず感謝するというお話を聞いたことがありますが、「朝が来ることは、どんなことより幸せなことだ」と気付いているこの投稿者は、まだ小学生です。
 一日のうちのどこかで命の危険にさらされれば、次の朝はもう訪れないという真実をじっと見据え、平和な一日一日を大切に過ごしたいと考えておられます。これこそ、現代の大人が肝に銘じておきたいことではないでしょうか。
 私は先日、手術を受けました。その時は「また目を開けたい」「また朝を迎えたい」と心の底から祈ったものです。こうして命がつながり、平和な時代に生きていることに感謝せずにはいられません。どうか危険な時代にならず、朝が来る幸せを一人でも多くの人が味わえますように。”(11月10日付け中日新聞)

 岐阜県瑞穂市の非常勤講師・関口さん(女・61)の投稿文です。「朝がくる幸せ」とはまだボクは感じた覚えがない。朝が来るのは当たり前なのだ。でもそう思わない人がある。関口さんは手術を受けられた時、心底祈ったと言われる。そして迎えた朝に感謝する。病を得ると言うことは感謝を知ると言うことであろうか。でも本当は、病と関係なく感謝を知りたい。それができる人は本当に幸せである。この小学生の文はよく覚えていない。この小学生はどこでこんな大切なこと知られたのであろうか。本当に恵まれた人である。ただ順調に来た人は知らず知らずのうちに傲慢になる。ボクもその1人である。そのボクも昨日入院の手続きをしてきた。来年1月下旬に手術を受ける。全身麻酔から覚めたとき、どんな感慨を催すだろうか。今のボクにはまだ分からない。




2015/12/01(Tue) (第2194話) 家事の重み 寺さん MAIL 

 “男女雇用機会均等法が成立したのは、学生のころだった。これで女性も自由に働くことができると、もろ手を挙げて喜んだ。だが、なぜわれわれ当時の女性たちはあんなにも、女性の労働についてこだわったのか。それまでの女性は男性よりも能力が低く、外で働くことはできないという固定観念を覆すためだった。
 現在は、家にいる人がいない。赤ちゃんを預け、仕事に行く。老いた親の介護を家庭で、という政府の意向はあるが、誰が面倒を見るのだろう? 家族という構成も崩れかけ、他人との絆以前に、家族の絆さえ危うい。
 家事労働は決して楽ではない。主婦という仕事は、社会的には表に出にくい成果しか挙げられないけれど、私たちは何か誤解をしていたのかもしれない。家事労働には対価としての給与はどこからも出ないが、ものすごく重要な仕事であることを、どこかで忘れてきてはいないか。”(11月8日付け中日新聞)

 岐阜県七宗町の福井さん(女・51)の投稿文です。今時こういう意見が投稿されることに少し驚き、又好ましく思った。特に若い時に女性が働くことにこだわった人の意見であるだけに、取り上げる意味があると思った。
 ボクは女性の能力が低いと言ったことはないと思う。男でも女でも得意不得意はある。一面だけを取り上げて批判してはいけない。ボクは家事労働が楽とは思っていないし、重要な仕事と思っている。社会でする仕事はいくらでも代わりはいるが、家事労働に当たれる人はその家庭で1人2人である。家族が皆外に出かけ、家族という構成も崩れ、家族の絆さえ危ういのでは何のための社会進出か。ボクは若いときから、家事労働の価値を高く認めさせる運動をなぜしないのか、と言ってきた。財産も夫婦共有制になぜしようとしないのか、とも言ってきた。男と女を制度的に差を付けるべきではない。後は選択と能力にに任せればいい。働き方や生き方はいろいろできる。今一度よく考えてみてもいいと思う。でも残念ながら、少子高齢化の社会ではもう女性も望むと望まないにかかわらず外で働かざるを得ないだろう。


 


川柳&ウォーク