ha1508

第135号  2015年8月

2015/08/30(Sun) (第2152話) 読みごろ 寺さん MAIL 

 “いつごろからだったろうか、「しゅうかつ」という言葉を知って、それは「就活」で若い人が対象の言葉だと思っていたら、「終活」と書いて、人生の終わりに向けた事前準備を意味する言葉もできていた。
 「断捨離」も耳にしていたから、特に衣服については気をつけていた。それが、今になって気になりだしたものに本がある。戸を開けることさえ減った本箱の、その中でも存在感の強い全集もの。まず「日本詩人全集」が目についた。その中の一冊、手にしたのは「会津八一」。ぱらぱらとめくると、本を開いた形跡はあるが記憶にない。
 しかし、香薬師を拝して詠まれた「みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにはらかすみてあるらし」と、ひらがなで表記された短歌にひかれてしまった。奈良を詠んだものが多い。ただ、寺院そのもの、仏像そのものというより、それらのある奈良が詠まれた作品が多いと思う。それが、ひらがなとぴったりマッチして、穏やかな和みとなって心に響く。
 若い時には、素通りしていた一冊の本。食べ物に食べごろがあるように、本には読みごろかあるようだ。読みごろの本をゆっくり読むのも、終活の一つだろう。”(8月16日付け中日新聞)

 愛知県津島市の若林さん(女・81)の投稿文です。同じ本でも興味の湧くときと、湧かないときがある。この場合の若林さんのように年をおいて、知ることもある。それを「読みごろ」と表現されるとはまた味なものである。こんな若林さんだから、こんな句にも惹かれよう。全く精神的に若い若林さんである。一回り若いボクだが、とても及ばない。
 終活もいろいろ言われている。何かせかされている気もする。ボクも寿命が見えてきた。終活として何をするのか、どんな順番でするのか、本気にならねばと思うが、なかなか一歩が踏み出せない。踏み出さないまま終わって、恨まれるのか。そんな愚は避けたい。




2015/08/28(Fri) (第2151話) ひまわりと川柳 寺さん MAIL 

 “七年前、夫が難病の筋萎縮性側素硬化症(ALS)を発症した。私は介護を覚悟して仕事を辞めた。だんだんと体が動かなくなってきた三年目のころ、一緒にできる趣味を持ちたいと川柳を始めた。と言っても、たまに新聞や冊子に投稿する程度。教わったわけではないが時々載るようになり、夫はうれしそうな顔をしていた。、.
 声を失い、指一本も動かなくなった今でも、意思伝達装置を使ってポチ、ポチ、と一字一字打って句を作る。つらいであろう闘病生活なのに、夫の作る川柳は明るくて素直だ。十七文字の世界の中では夫は自由になれる。
 最近、私は友人に誘われて月一回、川柳句会に参加し始めた。雅号をつけたいと相談した折「例えば、ひまわり」と言ったら、先生から「ひまわり、良いですね」と、成り行きで決まった。
 実を言っと小さな花が好きで、大きなヒマワリにあまり興味がなかった。でもその日以来、ヒマワリを見つけると立ち止まり見入ってしまう。その名の通り、夏の太陽に向かって真っすぐ背を伸ばしている。キラキラしてすてきな花だったんだと気づいた。川柳と出合い、ひまわりになったからには、明るく生きよう。ずっと夫を支えていこうと思っている。”(8月7日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・田中さん(56)の投稿文です。実はボクの義弟が筋萎縮性側素硬化症(ALS)である。患ってもう10年近くになるだろうか。今の症状は、田中さんのご主人ほどではないが、それでも近いものである。だんだん進んでいくので田中さんのご主人と同じようになるのも時間の問題であろう。義妹は大変な苦労である。田中さんのご主人はそんな中でも、共通の趣味として田中さんと川柳を始められた。共に楽しんでおられる。ここが義弟と違うところである。義弟は聞いているとかなりなわがままで、独りよがりである。気持ちも分からないではないが、この違いは大きい。妻はいつも妹を気遣っている。苦境に落ちたときほど本領発揮である。残る生を慈しんで欲しい。
 ひまわりとはいい名を付けられた。一般に雅号を付けるものには付けて楽しんで欲しい。ボクも川柳を始めてすぐ付けた。もう一つの名である。別人格とまでは行かないが、違った雰囲気がある。




2015/08/26(Wed) (第2150話) スイカ 寺さん MAIL 

 “今が旬のスイカ。子どものころは丸ごと買ってきておけで冷やし、母が「バサッ」と音を立てて切ってくれた。大きなお盆の上に並ぶと皆が一目散に集まり、どれが大きいか見比べて、早く手を出した方が勝ちだった。あのころのスイカは種がいっぱい。外で食べるときはハエが寄ってきて、追い払いながら種を取って食べるのに忙しかった。
 子どもたちが小さい時に働いていた私は、日中は近くの実家で子どもの面倒を見てもらった。学校から帰ると「おじいちゃん、スイカある?」と父に問い掛け「あるぞ」と聞くと、ランドセルを投げ飛ばして裏庭のテーブルに並べてあるスイカに食らい付いたそうだ。汁が口からたれて、食べ終わるころには赤い大きな口になっていたとか。「子どもは外で食べさせる」が父の持論で、ベタベタに汚してもしかられず、健康的だった。
 スーパーで上品にカットされたスイカがおいしそうに並んでいて目を引く。手を汚さず、すぐ食べられて便利だが何かわびしい。口の周りをベタベタにして太陽の下で食べていたあの時代、幸せと夏を体で感じていた。息子たちが帰ってくるお盆に、久しぶりにスイカを丸ごと買ってみよう。”(8月6日付け中日新聞)

 三重県四日市市の主婦・阿部さん(61)の投稿文です。一時代前、夏の代表的果物と言えばスイカという人は多いでしょう。スイカと聞けば飛んでいくほどのものであった。阿部さんもそんな子供の頃の懐かしい思い出を持っておられた。何でもお金でたやすく手に入る時代にはない思い出です。ボクの娘や孫など、スイカと聞いてもほとんど興味を示さない。
 ボクの父親は専業農家であったが、スイカは自家用や親戚知人に配る程度にしか作っていなかった。果物など買う余裕はないので、スイカは食べられる代表的果物であった。冷蔵庫のない時代、井戸に落とし冷やすのである。おいしいのはもちろん言うまでもない。もっとおいしかったのは、畑でちぎって、そのまま食べるのである。手で叩いて割る。当然変な割れ方になり、一方は大きな中味の塊になっている。これにかぶりつくのは至福である。真夏の畑で食べるので熱いままである。それでもおいしい。ボクにはこんな思い出がある。
 ボクは今も毎年自家用に作っている。妻もあまり食べないので、ほとんど自分一人で食べている。会社や外から帰ったとき、真っ先にスイカにありつく。この姿は昔の思い出が残っているからだろうか。
 ここでスイカは果物と書いたが、野菜の範疇かも知れないと思って調べた。どうも場合によってうまく使い分けているようだ。この文で、野菜と書いたら興味半減である。




2015/08/21(Fri) (第2149話) 同窓会 寺さん MAIL 

 “「ねえ、先生から来た?」と私。「来た。『菱田さんを誘って参加ください』と書いてあるわ」。電話の声が答えた。「私のには、あなたを誘って、と書いてあるわよ」高校時代の恩師から友人と私に宛て、大学の同窓会にお誘いくださる手紙が届いた。高校三年間の担任だった先生は、友人と私にとって同じ大学の先輩でもあるのだ。
 大学の同窓会となると規模が大きく、参加者の年齢も幅広いので気後れしていた。でも、恩師からのお誘いとなると断れない。二人一緒でなら、と初参加した。授業さながらの教授の講義や、ビンゴゲームと楽しませていただき、先生も喜んでくださった。
 高校の卒業時に先生が言われた言葉がある。「同窓会に出られるような人になりなさい」というもので、今も同級生の間で話題になる。
 全体の三分の一が参加したら成功、とされる同窓会。参加するには経済的、精神的な余裕が必要だ。家族の理解もしかり。また、昔の自分を知る人に、今の自分をさらけ出す勇気もいる。先生がさりげなく言葉に込めた意味が、この年になって分かってきた。八十歳になられた恩師は自らそれを実践しておられる。先生、次は高校の同窓会でお会いしましょう。(8月2日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・菱田さん(57)の投稿文です。小中学校の同窓会の代表幹事を長年しているボクには、同窓会については大変関心がある。「同窓会に出られるような人になりなさい」という言葉にも「全体の三分の一が参加したら成功」といわれる言葉にも納得するものがある。言葉には言えないなかなかの難しさがある。
 まず同窓会に出るには菱田さんが言われるようにそれなりの境遇にないと出にくい。家族の世話に大変なときにはなかなか出席辛い。他に出にくい事情もあろう。でも年1回、また数年に1回のことである。よほどのことでない限り、少々の無理をしてでも出て欲しい、と思っている。自分はそれ程でなくても、喜ぶ人がいるかも知れない。
 会いたくない人もあろう。学生時代のこと思い出したくない人もあろう。でも、一度出て欲しい。時は流れている。その結果でまた考えてもらえばいい。「そんなに同級生は良いものですか」と問われれば、人それぞれ事情があり、確信を持って「そうです」とは言い難い。でも、良いものであるのも確かである。同窓会は学校時代の知り合いである。社会人になってから知り合った人とは少し違うのである。この歳になるともう何回も同窓会はできないだろう。会う機会はなくなる。ボクの場合、小学校は5割、中学校は4割くらいであろうか。




2015/08/19(Wed) (第2148話) 遺産継承 寺さん MAIL 

 “四月、愛知県常滑市民病院完成式で、建設責任者の山田朝夫副市長(五三)が用意したサプライズのお話は、以前この欄にも書いた。病院スタッフの大合唱で式のフィナーレを飾るというプログラムにない演出は、来賓にも好評だった。
 曲目は、いきものがかりの「風が吹いている」。職員の決意表明でもあった。その山田さんが七月いっぱいで退職した。最後の院内研修会。山田さんが約一時間の講演を終えたあと、百三十人の職員総立ちの拍手とともに、歌声が聞こえてきた。あの歌だ。ところが何となく元気がないし、そろわない。
 「ちょっとちょっと、何やってんの」と、看護局副局長が中断させた。看護師の一人が言った。「だって指揮者がいないんだもの」。すると山田さんの前に譜面台が用意され、ついたての後ろから電子ピアノが現れて、あらためて伴奏が始まった。「やられたな」。山田さんは夢心地で両手を振った。その日のためにスタッフは、演技も含め、極秘で練習を続けていた。
 「ホスピタリティー(おもてなし)を忘れずに」一番残したかったレガシー(遺産)は、ちゃんと継承されていた。”(8月2日付け中日新聞)

 「世談」という欄から論説室の飯尾氏の文です。下準備よく練られたウイットに富む演出に、何も知らされていない本人はもとより、周りも大いに盛り上がったことであろう。それだけ副市長は人望があったのだ。こんなことをしてもらえる人はそうあるものではない。これだけの話で人柄が偲ばれる。良い話である。
 残念ながら4月の文は掲載しなかったようだ。今回の文を読むと残念だった気がする。遺産継承と言われるので、最初はもっと大きなサプライズであったろう。しかし、この文で「ホスピタリティー」や「レガシー」というカタカナ言葉には戸惑う。括弧書きがなかったらボクには全く理解できない。こういうことは繰り返しながらカタカナ言葉が本流になっていくのだろうか。そして日本語が忘れられ、遺産になっていく。




2015/08/17(Mon) (第2147話) お母さんの通知表 寺さん MAIL 

 “小学校から中学、高校までと、自分の通知表をとってある。娘が小学生になり、学期末に通知表をもらってきた時に「これ、お母さんの通知表だよ」と見せてみた。五段階評価で、5はほとんどない。体育に限っては、どんなに頑張ってもいつも3の評価だ。古びて茶色くなった通知表を眺め、娘は「先生の手書きなんだね。字が上手だね」と興味津々。
 私が中学の時は、一クラス四十二人。パソコンで入力する今と違い、一人一人の生徒を思いながら手書きした先生は大変だったと思う。娘はうれしそうに、声に出して所見欄を読み始めた。「よく気がつき、係の仕事をしっかりできます」と優しい先生が書いてくださった一方で、男の先生による「ひらがな作文では幼稚」「習った漢字は使え」という国語の評価を見つけて大はしゃぎ。国語は大好きだったが作文は苦手。用紙五枚以上と言われても書けず、なるべく平仮名で書いて文字数を増やしていた。先生ちそれが分かっていて書いた言葉。意地悪だ。
 それから、ことあるごとに娘に「習った漢字は使え」とからかわれた。その娘も中学生。おかけで私より良い成績の通知表を見せてくれる。私の茶色の通知表が少しでも役に立っていたならうれしい。”(7月28日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の主婦・小林さん(48)の投稿文です。小中学生にとって、通知表は重要なものである。本人も親もこれで一喜一憂する。いや、本人はあまり気にせず、親の方が一喜一憂しているだけかも知れない。さて、この通知表をどれだけの人がいつまでも保存しているだろうか。捨てるに捨てられず結構あるような気もするし、ないような気もする。小林さんは保存されていた方で、これを子供に見せられた。そして、この文のような出来事になるのである。親のことを子供に知らせる一つの方法である。
 ボクの家では4人の孫が毎学期見せに持って来てくれる。これは妻が褒美を与えるからであろう。孫の物は今でも手書きである。婿は小学校の教師であるので、通知表の話を聞くと大変な作業のようである。子供や親を一喜一憂させるのだから、そうであろう。良いところを探し出して書かねばならないことも多かろう。実はボクも保存してあるのである。今度孫に見せてみようかな。どんな反応を示すだろうか、楽しみだ。




2015/08/14(Fri) (第2146話) トマトとナス 寺さん MAIL 

 “父が出征し、母と私と弟は親戚の家に身を寄せていた。終戦間際のころ、食糧難の真っただ中で、六歳の私と三歳の弟は毎日ひもじい思いをしていた。熱い太陽が照り付ける中、私たちは母に連れられ、お百姓さんの家を一軒一軒訪ね歩いた。着物や帯などを持参して、母は「芋一つだけでも」と粘っていたが、なかなか交換してもらえなかった。
 弟も私も、長いこと歩かされてくたくたになり、足を引きずるようにして母についていった。それでもやっと、一軒の家で大きなトマトーつだけと交換してもらえた。うれしくて、皆で何度もお礼を言った。
 帰り道、前から歩いてきた三人の女学生と出会った。母は、その方々が持っておられたナス三つと、トマトを交換してしまった。赤く熟れたトマトが食べられると楽しみにしていた私は、子ども心にものすごく恨めしく思った。
 とにかく食べ物を確保するのに必死だった時代を過ごしたせいか、私は食べ物を無駄にできないだけでなく、全ての物がもったいなくて、なかなか捨てることができない。今の時代には合わない習性が身に付いた。それにしても、遠い日のあの真っ赤なトマト。いったいどんな味がしたのだろうか。”(7月26日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の主婦・渡辺さん(76)の投稿文です。お母さんにしてみれば、トマト一つよりナス三つの方がどれだけ有用だったか、それがこんな交換になったのだろう。こんな思い出は胸を熱くしなければ語れない。この年代の多くの人はこんな思い出が一つや二つでは無かろう。そんな子供時代を過ごし、歯を食いしばって戦後を生き、豊かな日本を築いたのだ。恵まれた人もそうで無い人も向く方向は同じだった。
 ボクの家は農家だった。だから渡辺さんとは違う立場であった。ボクの家にも反物を持って交換に来ていた人がいた。うろ覚えながらそんな光景が浮かぶ。でも父母がどんな対応をしていたかまでは記憶にない。農家は食には困らなかったろうが、貧しかったのは間違いない。世間が豊かになっても貧しかった。これはボクに限ったことかも知れないが、貧しく育ったことは何も不幸ではなかった。貧しく育ち、年を追いながら豊かになっていったことが、感謝の気持ちと幸せ感を培っていったと思う。昨日より今日の方がいい、そう思えることはありがたいことである。今も続いている気がする。




2015/08/12(Wed) (第2145話) 見捨てていけるか 寺さん MAIL 

 “ 昨年の十二月、西尾市の井上台司さん(55)がショピンクセンターに出かけたときの出来事。公衆電話の前辺りで男女七人組の高校生のうちの一人の女の子に「助けてください」と声を掛けられた。聴覚障害の男性から何か頼まれている様子。その男性が手にした手帳を見ると「私の代わりに電話してください」と書かれてあった。「ここにある番号へ電話してあげればいいんだよ」と教えると、一人の男の子が携帯電話を取り出して連絡。相手はご家族のようで、事情が伝わったらしい。みんな安心して帰ろうとした。
 ところが井上さんは、男性に袖をつかまれ引き留められた。手話で何か話そうとしている。高校生たちにも理解できない。筆談しようとしたが「書けない」と手を振る。指も不自由らしい。みんなで一生懸命に理解しようとしていたら、何やらハンドルを回すしぐさをされた。「あ!バスに乗りたいのかもしれない」ということになり、みんなでバス停まで案内した。ところが、またまた「違う」と手を振る。一人の男の子が「面倒だから行こうぜ」と言ったその時だった。別の男の子が大声で「困った人を見捨てていけるか!」と怒鳴った。その一言に全員がうなずき、再び男性の手話に注視した。一時間くらいたったころ、男性が近くを通るタクシーを指さした。全員が「ああ」と理解した。再びショッピングセンターに戻り、タクシーの配車を頼んで解決した。
 井上さんは「制服から西尾東高校の生徒だと分かりました。こんな若者がいて日本も捨てたもんじゃありませんね」と話す。”(7月26日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。続いて高校生の話である。省略すると状況がよく分からなくなると思って、少し長いが全文を掲載した。「困った人を見捨てていけるか!」、こんな言葉を吐く高校生もあるのだ。感心すると言うより驚いた。こんな言葉は大人でも出まい。いや、今の世の中、大人が皆良いかというと全く違う。大人の方が他人に無関心のことが多い気さえする。若い人の方が新鮮な目で見ることもある。挨拶だって大人の方がよくするかと言えば、そんなものではない。
 選挙権が18歳になった。18歳ともなれば良いこと悪いこと、世間の良識は皆理解している。理解していてするしないはもう歳ではない。良いことをする若者もいるし、しない大人もいる。迷惑をかける若者いるし大人もいる。ただボクがこの歳なって感じるのは、人間余裕が必要であると言うことである。やはり定年後は余裕ができた。余裕があるとちょっとした良いこともボランティアもできる。世間に関心も持てる。世界一豊かな日本である。もう少し生き方を見直した方がいい気がする。




2015/08/10(Mon) (第2144話) 礼儀正しい若者 寺さん MAIL 

 “先日の日曜日の夕方、息子がにやけて帰ってきました。「どうしたの」と訳を聞いたら、幸せな気分になったとのこと。たまたま息子夫婦が夕食でインド料理店を訪ねたら、店の駐車場に三十台余りの自転車があったため、首をかしげながら入居すると、ほぼ満席状態。わずか数席空いていたので入れてもらったそうです。
 ワイワイ、ガヤガヤと騒がしかったけれど30分ほどして集団は一人一人がレジを済ませ、息子夫婦に歩み寄って「やかましくて申し訳ありませんでした」と丁寧に頭を下げ、店を後にしたそうです。その集団は野球のユニホームを着た高校生グループ。夏の高校野球の打ち上げか、先輩の送別会を兼ねての夕食会だったのでしょうか。
 大人でさえ周囲を気にせずに大声で話し続ける人が多い中、まだこうした礼儀を持ち合わせた若者がいるのだと感心しました。”(7月23日付け中日新聞)

 愛知県津島市のパート・岩田さん(男・68)の投稿文です。少し気遣いのある言葉はこんな程度のことでもこんなに嬉しくなるのであろうか。いや、それ程少なくなったからかも知れない。公衆の場でやかましいのは若者だけではない、老人も一杯である。特におばさんと言われる年代は要注意である。野球の勝利など嬉しくてしょうがない出来事の時には、ある程度好ましく見ておられるが、人の中傷などを大声でやられると、聞こえてくる方はたまったものではない。言葉の与える影響は大きいのである。
 ボクも最近同級生と喫茶店などで会う機会が多くなったので、要注意である。同級生はとかくやかましくなりがちである。この高校生のような気遣いも心がけねばと思う。




2015/08/08(Sat) (第2143話) ホオズキ 寺さん MAIL 

 “待っていた春の芽吹き時、ホオズキが芽を出した。大きな鉢に植えて十本仕立てに。大いに満足して生育を見守った。やがて、白い花が咲きだした。昨年と同様、葉の虫食いが始まった。対策として、ニンニクとトウガラシを煮詰めて原液を作り、薄めた汁を散布した。
 この方法をどこで知ったか覚えていないが、功を奏して虫はいなくなり、葉は青々と茂った。一方、たくさん咲いた花に目をやると、肝心の実が付いていない。昨年も実の付きがいまひとつ振るわなかった。失敗は乗り越えたつもりでいたのに、理由が分からないまま日が過ぎた。
 七月に入って、知り合いの家の庭を訪れた。オレンジに色づいた鈴なりのホオズキに 「あっ!」と声が出た。葉はどれも、虫に食われて葉脈だけのレース状になっている。私はあんなに虫を嫌って、逆に受粉を阻止していたのだと、やっと気がついた。
 花に悪いことをしたと、後悔の念が胸いっぱいに広がった。自然の摂理に逆らった行為を反省した。そして虫に対しても、自分勝手をわびた。鬼が笑うとしても、巡り来る春には自然に任せて再挑戦しよう。”(7月22日付け中日新聞)

 愛知県豊明市の野田さん(女・75)の投稿文です。虫を避ける努力をしたのでホオズキの実も成らなかった、本当にそうだったのだろうか、でも面白い感想である。虫を避けると嫌いな虫も必要な虫も避けてしまう。除草剤でも、一部できるものもあるが、同じである。自然はそう人間の都合よくは行かない。自然に上手に付き合うのが自然であろう。
 それを知り合いの家に行って気がついた。ボクの家もホオズキを作っている。お盆でまもなく出番である。先ほど見てきたら知り合いの方のものであった。見に行くまでもなく、全く消毒などしたことがないから当然である。虫食いながら実もついていた。ボクは野菜も消毒などしたことがない。商品を作っている訳ではない。安心して食べられ味がよければいい。また食品はそれが一番重要である。ホオズキの見かけは必要であるが、野菜の見かけ程必要がないものはない。見かけのための無駄な努力を農家に強いているのは消費者だ。見かけのために危険なこともしている。もっと賢い消費者になって欲しいものだ。




2015/08/06(Thu) (第2142話) フキの葉っぱのコップ 寺さん MAIL 

 “幼いころの、忘れられない夏の日のひとこまがある。病弱だった私は、高熱にうかされて食事もできない状態になった。車の少ない時代、人里から四キロも離れた山奥の一軒家まで往診に来てもらえない。父が大八車にせんべい布団を敷いて私を寝かせ、がたがた道を村の中心地のお医者さんまで引っ張った。
 診察の結果、重いへんとう炎で、棒の先に浸した薬を喉に塗ってもらった。
 帰り道、灼熱の太陽が私にも大八車を引く父にも容赦なく照り付けた。二人とも喉の渇きの限界だった。道路脇にある、特別冷たい湧き水の場所まで来た。父は、苦しんで大八車から降りられない私に先に与えようと、フキの葉を丸めてコップにし、イタドリの茎をストローにして、冷たい水をいっぱい飲ませてくれた。その後、両手で受けてがぶがぶと飲む父の顔から、玉の汗がしたたり落ちた。 
 父が亡くなった年齢を七つ超え、私が年相応に元気でいられるのも、あのときの一杯の水のおかげと信じている。盛夏の時季、私は仏壇に向かって「とったま(父様)、そちらにもおいしい水、ありますか」と語りかける。父がそうだったように、子や孫にこよなく優しい心で接して生きていきたいと思う。”(7月21日付け中日新聞)

 岐阜県高山市の大乗坊さん(男・77)の投稿文です。父親と息子、ここにもいい家族の関係がありました。子を思う親の気持ちに偽りはありません。いざとなればどんな労も惜しみません。自分の食べるものを削ってでも子供に与えます。フキの葉を丸めてコップ代わりにしたなどという思い出は、目頭を熱くしなければ語れません。でも、子供時代はそのことを忘れています。親に悪態もつきます。親となって、子供に同じようなことをしながら自分の親を思い出します。子を持って知る親の恩です。子供への恩送りです。子供を持つと言うことは自分のためにも大切なことです。結婚をしない、子供を持たない風潮については、こういう面でも何か不安を覚えます。
 ボクも親の生きた年齢を超えました。そしてガンが分かり、寿命のあることを実感しています。親の恩を改めて思っています。




2015/08/04(Tue) (第2141話) 宝物は家の中に 寺さん MAIL 

 “社会人1年目の私は、いろいろと悩んでいた。周りの人を見てはうらやましく思い、自分を振り返って情けなく感じ、家に帰ると泣いてしまうこともしばしばで、完全に自分を見失ってしまった。
 そんな時、いつもは口数が少なく、あまり話をしない2歳上の兄が、「このアプリ知ってる? あれ、癒やされるからオススメ」と声をかけてくれた。その時は正直、〈いきなりどうしたのだろう〉と思った。でも後で一人になって考えてみると、元気のない私への兄なりの優しさだったことに気づき、なんだか心が温かくなった。
 いつも親身になって話を聴いてくれる母、隣でテレビをみていると一緒に大笑いしてくれる父、普段と変わらずに甘え、私を頼ってくれる妹。こんな家族に囲まれて幸せだなと思った時、ふと母が言った言葉を思い出した。「自分にないものを欲しがるんじゃなくて、今あるものを宝物だと思って大切にしなさい。そんなにないものばかりを探していても宝の持ち腐れだよ」
 なんだ、近すぎてわからなかったよ。私の家には大切な宝物が、ゴロゴロと転っていた。”(7月21日付け朝日新聞)

 東京都立川市の保育士・上條さん(女・22)の投稿文です。世に親友、友人、その他縁がある人が沢山ありますが、最後頼るのは家族の場合がほとんどです。家族ほど親身になってくれる人はあまりないでしょう。上条さんはそのことに早く気づかれてよかった。家族は宝です。またそう言える人は幸せです。
 厄介なことに、家族は誰よりも憎み合うこともあるのです。世の中に事件沙汰になる家族も多いのです。それはそれだけ近い関係だからです。どうでもいい関係ならそのようにはなりません。
 ですから家族と言えどもいい関係を保つ努力は必要です。でも、それ程の努力をしなくてもいい関係が保てるのも家族です。人間の自然な情が働くのです。今ボクもガンが見つかり、周りはいろいろ心配し合っているようです。本人が一番のんびりしてるのかも知れませんが、それもこういった家族がいるからかも知れません。




2015/08/02(Sun) (第2140話) 恩師の葬儀 寺さん MAIL 

 “家族葬が多くなったらしい。長年のおつき合いがあっても、知らぬうちに亡くなっていたことが多い。知らせがなければ、葬儀に参加もできない。理由としては、相手に迷惑をかけるからということらしい。
 恩師が百二歳で亡くなられた。いつものように電話で奥さんに「先生はお変わりありませんか」と呼んでくださるようお願いすると「亡くなりました」と言われ本当に寂しい思いをしました。あなたには連絡するようにお願いしておいたのに伝わらなかったですか、と言われた。
 人の別れがどれだけ重いものか・・・。残念でならなかった。お世話になった先生には、一言お礼が言いたかったと思う。やはり知らせてほしかった。金銭的に迷惑を掛けると配慮するなら。受け取りを断ればすむことと私は考える。
 時代はかわっていくが、人と人との結びつきがそんなことで切れてしまうとは悲しいことだ。せめて式に参加してお別れをしたかったと心から思う。”(7月14日付け中日新聞)

 岐阜市の木野村さん(女・84)の投稿文です。ほんの少しばかりまで葬儀は人生の重要な儀式でした。家庭で、それも大がかりでした。知人であれば何をおいても駆けつけました。それが葬儀場になり、それがまたあっという間に家族葬ばかりになりました。木野村さんのように恩になった人にも、最後の別れを告げたい人にも行くことができなくなりました。人の縁が全く薄らぎました。遺族に故人がどんな人とどのような関係があったのかはなかなか分かりません。ですから意志も伝えておかなくては分かりません。それでも、木野村さんの場合はうまく伝わっていきませんでした。
 人間は楽な方に流れ始めるとどんどんそちらに進みます。人の縁をつなぐというのは嬉しい面もありますが、難儀な面もあります。特に葬儀は遺族と故人です。知らないことばかりです。ボクは今のところ家族葬にする気はありません。このことも娘らに伝えておかなくてはなりません。


 


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