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第132号  2015年5月

2015/05/31(Sun) (第2115話) 赤いゼラニウム 寺さん MAIL 

 “平成十五年の五月でした。二日が誕生日の私に娘が「お誕生日と母の日のプレゼントは何かいい?」と聞いてきました。お兄ちゃんとお小遣いを出し合い、ほしいものを買ってくれるそうです。当時、小学六年だった娘の一ヶ月のお小遣いは五百円でした。中学二年だった息子は三千円です。
 「花の苗がいいわ」そう答え、三人でホームセンターヘ買いに行きました。宿根で四季咲きのゼラニウムの苗が九十八円、植木鉢が二百九十八円。家に帰り、赤い花を咲かせた苗を植木鉢に移しました。どこから取ってきたのか、娘が平らな石の表に「おたんじょう日おめでとう」、裏に日付と白分たち兄妹の名前を書いて、添えてくれました。
 玄関に飾った真っ赤な花は毎日私に元気をくれ、時には疲れた心を癒やしてくれました。十二年たった今、茎は細くなって土色に変わりました。葉っぱも随分小さくなり、赤ちゃんの手のひらぐらい。それでも、今年も小さなつぼみをつけています。
 子どもたちは、共に社会人三年目の春を迎えました。名古屋で暮らしている息子が帰ってくる五月の連休中に、赤い花を咲かせてくれるのを楽しみにしています。”(5月2日付け中日新聞)

 三重県いなべ市の主婦・筒井さん(53)の投稿文です。母の日のプレゼントに子どもたちと買った赤いゼラニウム、それが12年たった今も花を咲かせている。植木鉢でこれだけ持つのも貴重に思い、大切に扱った結果であろうか。ゼラニウムは育てやすい花の一つであるが、それでも植木鉢だとなかなか管理が大変である。ボクは路地で何度も作っていたが、知らぬ間になくなっていた。いい加減な作り方である。
 子どもとの思い出になるものがあるというのは嬉しいことである。子どもが大きくなって、離れていく頃になるとより感じるものであろう。筒井さんにはゼラニウムであった。生きているものだけにより良い思い出であろう。ボクに何かあるか???・・・・シャツがあった。
 昨日妻は二女家族に母の日の祝いの招待を受けた。こちらの都合で遅くなった。食事をし、好物をもらって帰ってきた。全く嬉しそうであった。ボクは素直に頷いた。




2015/05/20(Wed) (第2114話) 障害の有無超え 寺さん MAIL 

 “障害のある人と一緒に料理を作るサロンを月一回始めて、二年がたちました。地域の中に輪が広がり、参加者が増え続けています。去年の夏は、地域の高校と老人クラブと合同で流しそうめんをしました。秋には、企業の協力でリンゴ狩りに行きました。
 この会の特徴は、障害児と保護者だけでなく、家族そろって参加できる点です。あるとき、障害児のきょうだいがお母さんに「僕、運動会よりこのサロンに来たい」と言いました。障害児がいると、家族そろって楽しむ機会がなかなかありません。いつも我慢をしているきょうだいの、新しい居場所となったようです。
 障害のない子のお母さんは「障害があっても僕たちと変わらないよ」「障害なんて意識したことがないよ」という子どもの声を伝えてくれました。自然な関係が、知らないうちにできています。そんな声を大切にしながら、障害のある人もない人も、ワイワイガヤガヤおいしくたのしく過ごしています。”(4月28日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の障害者相談員・大谷さん(男・68)の投稿文です。障害者をサポートするにもいろいろな試みがあるものだ。大谷さんは障害者相談員と言われるから、もちろん関心があってのことだろうが、感心する。参加する方にしてみれば月1回のことだが、主催する側にしてみれば、この1回のためにどれだけの時間と手間が費やされているのか、計り知れない。妻は月1回の料理クラブに参加してもう長いことになる。役員になると、事前に講師からレシピをもらい、人数分の材料を調達してこなければならない。その他会計等いろいろいろあろうが、まだ講師があるから楽だろう。大谷さんはいろいろな企画をされているから大変だろう。でもその大変も、参加者の喜びで一掃されるのである。そして自分の喜びにもなるのである。会を主催すると言うことはそういうことである。
 障害者と言うが、それは単なる体の特徴である。障害と言うから健常者に比べその点では不便もあろうが、その人の人格に係わることではない。はげ頭の人を障害者とは言わない。人数が多いからである。あるがままを受け入れ、周りもそのように見て、上手に対応していくことだろう。




2015/05/18(Mon) (第2113話) 堂々と補聴器 寺さん MAIL 

 “二十日付生活面の認定補聴器技能者の仕事を紹介する記事で、「補聴器をつけたくない。からかわれるから」と子供が言ったとあり、ひとごとと思えませんでした。心の内の声に耳を傾け、持てる技能を役立てようとがんばる人がいることを、うれしく思いました。
 私が補聴器デビューを宣言して一年あまり。新たなスタートを切ったつもりですが、聞こえの必要な場所には必ずつけていくものの髪で補聴器を隠すようにしています。隠したい気持ちが捨てきれないのです。
 聞こえの方が今ひとつなのも、堂々とできない原因かもしれません。しかし補聴器店のスタッフは、毎回親身に微調整を繰り返してくれます。私も装着を決心したときの切実な思いを思い返し、人それぞれ違う難聴のつらさを事細かに伝えます。
 試行錯誤してくださるスタッフに良い報告ができるよう、つける時間も増やし、補聴器が自身の一部となるようにし、老後を明るく過ごしていきたいです。”(4月28日付け中日新聞)

 愛知県新城市の主婦・豊田さん(63)の投稿文です。補聴器を取り上げたのは、そう遠くないうちにボクもこの場面が訪れるかも知れないからである。ボクはだんだん耳が遠くなってきている。毎年健康診断の度にヒヤヒヤしている。今のところまだ補聴器は必要ないことになっている。しかし、人の話が聞こえないことは度々である。何度も聞き返すのが嫌で、空返事をすることも多い。変だと思われていることも度々ではなかろうか。家でテレビを見るときはヘッドホンで拡大して聞いている。
 補聴器について聞いたこともあるが、まだその気になれない。豊田さんはボクより若い。それでもされている。まだその良さが十分に至っていないようではあるが、前向きに捉えられている。ボクも少しならず関心があるので、取り上げた。良いものは使えばいい。それだけのことだ。




2015/05/16(Sat) (第2112話) 献血331回  寺さん MAIL 

 “先日、血小板成分献血を行った。三百三十一回目の献血である。学生時代に始めたので、われながら「よく続いているなァ」と思う。献血ができるためには、健康な身体が必要だ。それに問診などがある。服薬や歯科治療などでできないこともある。海外渡航歴も問われる。私も献血センターまで行きながら断られた経験がある。
 忙しくて献血に行けない日々もあった。献血ができるということは健康の証しであり、時間的にゆとりがなければできないと思う。そのことに感謝しての、ささやかな社会貢献のつもりである。
 最近は旅先で献血する楽しみも覚えた。鹿児島、鳥取、東京、群馬、長野、富山など十都県で献血をした。それぞれの献血事情を垣間見ることができて、興味深い。若いころはこんなに続けるとは思わなかったが、この年齢になり健康でいられることのありがたみを痛感している。当面の目標を三百五十回にして元気に過ごそうと願っている。”(4月23日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の団体職員・日比野さん(男・62)の投稿文です。62歳にして331回か、なかなかできないことである。若い頃、ボクも献血を盛んにしていた。成分献血が出来るようになって成分献血にした。成分献血1回が3回分に数えられたこともあって200回近くに行ったと思う。表彰も何回か受けた。しかし、ある薬を飲んだことでできなくなってしまった。それ以来、献血のことは忘れていた。日比野さんが言われるように、献血ができることは健康な証である。また余裕の証でもある。多分、今も献血事情はあまりよくあるまい。献血できる人は積極的に応じて欲しいものだ。
 331回は日比野さんにとってそれ程のことではないだろう。ある習慣の元に長年続けた結果である。人間、続けると言うことは大きな結果を生む。具体的には言わないが、ボクも長年続けていることがある。月1回、もうまもなく丸45年になる。回数にすると540回である。続けると言うことはこういうものである。




2015/05/14(Thu) (第2111話) 家族を思い 寺さん MAIL 

 “母からこんな話を聞きます。「職場にあなたたちと同じくらいの年の人がいると、何かしてあげたくなるよ。外で私がその子たちに優しくすることができれば、あなたたちも誰かに優しくしてもらえるんじゃないかと思って」
 母は祖父母の年代にも優しく接します。亡くなった自分の母に「もっとこうしてあげたかった」と後悔しているとも聞きます。遠くに住む父方の祖母に、精いっぱいの愛情を行動で示しています。
 今は母の気持ちがわかります。私も日ごろお会いする年配の方と祖母を重ね、人に優しくお困りであれば手を差し伸べたくなります。おいやめいもいますから、子どもにも年齢に合わせ接するようになりました。見返りを求めるわけではなく、誰かに優しく接することで、自分の家族も誰かに優しくしてもらえるのではないかー。それが母の教えです。
 母の考え方を理解し始め、人間関係が変わったと感じます。母の娘で本当に良かったと思っています。”(4月25日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市のパート・三枝さん(女・35)の投稿文です。「情けは人の為ならず」を地でいく話である。人に情けをかけておけばいずれ回り回って自分にその情けが返ってくる、どんな場合でも人には親切にしておくべきである、と言う諺である。人に情けをかける人は何も自分に返ってくることをあてにしている訳ではなかろう。そうであっても、それは自分を鼓舞する気持ちであろう。どんな理由付けをしようが、人はできる範囲で人に優しくするべきである。
 人間社会冷たく言い放せば、いい人にいい境遇がくる訳ではないし、悪い人がすべて悪い境遇になる訳ではない。あんないい人になぜあんな悪いことばかり起こるのだ、ということも多い。理不尽なものである。このことも知っておかねばならない。悪いことばかり起こっても、やけになってはいけないし、自暴自棄になってはいけない。それはますます事態を悪くする。このことを知り、耐え、冷静に対応すべきである。それしかできない。




2015/05/12(Tue) (第2110話) 食のありがたみ 寺さん MAIL 

 “近所のお肉屋さん主催のバスツアーに、六歳の息子と参加した。松阪牛の牛舎を見学したあと、バーベキューを食べる内容だ。肉牛を見るのは初めてだった。山間の牛舎には、驚くほど大きな黒光りした牛たちが、つぶらな瞳でこちらを見ていた。中には子牛もいる。見学が進み、何度も目が合うにつれ、このあとバーベキューを食べるのがつらくなってきた。
 その時、飼育農家の方が、一頭の牛に歩み寄った。その牛は鼻水を垂らしている。「風邪がなかなか冶らんなあ」と鼻先をなでるさまは、私が自分の息子にするのと同じように、愛情に満ちあふれていた。
 こんなに丹精込めて育てられた牛を私たちは頂いているのだと思ったら、それまでの自分の感傷がとても恥ずかしくなった。家畜はペットとは違うのだ。残さず大切に頂くことで、この命に恩返しができるのだ。すべての食べ物に対して感謝を持つことを、息子にも伝えていきたいと恩わされるツアーだった。”(4月21日付け中日新聞)

 三重県津市の主婦・林さん(44)の投稿文です。前回は花か雑草か、今回は食肉かペットか、似たようなものだが、人間にとっての価値によって扱いは全く違う。考えるほどおかしなものである。といっても食肉については、人間は食べずにはおられない。食べなければ死に繋がる。そんなことを考えさせるツアーに林さんは息子さんと参加された。
 家畜を心を込めて育てる、そして成育すると殺して人間が食する。一般にはそれを食べる人には知らないところで行われている。知らないように、見ないように頬被りしている。そしてきれい事を言っている。それは偏った見方になり非常に危険なことである。この食肉屋さんは実態を知ってもらう機会を作られている。実態を知った中で考えることは大切なことだ。林さん親子にとっていい経験になった。食に感謝の気持ちが培われた。
 ボクらは子どもの頃に自宅で鶏をつぶして食べる体験を持つ。この話は2011年12月30日付けの「(第1546話)かしわ」を読んで頂きたい。また、2004年12月15日付けの「(第143話) 鶏の解体実習」も読んで頂きたい。




2015/05/07(Thu) (第2109話) 気づかなかった価値 寺さん MAIL 

 “2日間ほど雨が降り、花芽や草が一斉に顔を出し始めた。花壇を見ると細かい草がいっぱい生えている。今のうちに草を取ってしまわなければと用意をしていると、夫も手伝うと言う。2人でそれぞれ別の花壇の草取りを始めた。
 今まで雪があったので、しばらくぶりの草取りである。雨が降って土が軟らかく、気持ちよく取れた。そのうち夫が「もう終わった」と言うので、早すぎると思って行って見てみると、まだ一角に草が残っている。
 「まだここが取れてないじゃない」「ここは後にする」「どうして」「いま花が咲いているから、花が終わったら取る」
 見るとたしかに、1ミリほどの白い花をつけた草が群生していた。これは草じゃないの、と思ったが、鉢植えにでもしたら、一見の価値があるように思われた。
 夢中で草取りをしていたが、急に悪人になったような気がした。草も長い間、雪の下に眠っていたはず。ようやく成長しようとしたところで、むしり取られてしまったのではないか。きれいになった花壇を眺めながら、なんとなく申し訳ない気持ちになった。”(4月21日付け朝日新聞)

 福島県会津若松市の主婦・渡部さん(79)の投稿文です。昭和天皇が「雑草という名前の草は無い」という意味のことを言われたことはよく知られている。雑草とするか、有用な植物とするかは、人間の都合で勝手に決めていることである。ある人にとっては雑草でも、ある人にとっては有用な植物のこともある。雑草と言われる多くの植物は、勝手に生え、それも沢山生えるものが多かろう。それだけ強いのである。日本人は判官贔屓の傾向がある。弱いものはそうしないと生き延びていけないからそうなるのも仕方がないことである。本来の価値とは違う判断が生まれている。一歩離れてみてみると、人間の判断基準というものは面白いものである。
 などとのんきなことを言っているが本当に雑草は強いものである。その繁殖力たるや脅威である。このゴールデンウィーク中、何日雑草退治に費やしたことか、庭や畑があることが鬱陶しくなるほどである。あることの恩恵を忘れ、ここにも人間の身勝手が出た。




2015/05/05(Tue) (第2108話) 地元大好き 寺さん MAIL 

 “十四山村。九年前まで、私の住んでいるところは村だった。村という名にふさわしく、家の裏は一面田んぼで、ビルも無ければ友だちと遊ぶ施設もない不便なこの村がいやだった。この村が好きという祖母や、田舎に住みたいという人の気持ちが、まったくわからなかった。
 この冬、雪がたくさん積もった日。家から出て見えた光景に、心が震えた。誰も踏んでいない真っ白なじゅうたんが広がっていた。説明することができないくらい、きれいだった。
 何もないと思っていたこの村には、たくさんの感動が詰まっていた。なんでもあり、便利な都会では絶対に味わうことのできない特別なものが。
 自然や生きものに囲まれ、家族やご近所さんの愛に包まれ育つことができた。大切なことに気付くことができ、この村が好きになった。私の地元はとてもすてきなところだよ。今なら胸を張って言える。”(4月18日付け中日新聞)

 愛知県弥富市の高校生・川口さん(女・17)の投稿文です。十四山村は愛知県南西部の農村地帯です。川口さんは嫌であった。でもあるときから好きになった。ふるさとを、自分の住んでいるところをどのように思うか、これは重要なことである。日々の過ごし方に影響する。好きで過ごせるに越したことはない。川口さんにはよかった。
 十四山村は田舎と言っても、愛知県の平野である。名古屋などの都会にも近い。交通の便もいい。他を知ればもっと好きになるだろう。他を知ることも大切である。




2015/05/03(Sun) (第2107話) 思い伝わる 寺さん MAIL 

 “ぼくは人見知りで、人としゃべることに苦痛を感じていた。ある日、生徒会役員に立候補した同級生に、推薦責任者をやってほしいと頼まれた。なかなか決まらず困っていることを知っていたので、迷うことなくやってみることにした。
 選挙活動が始まった。立候補者が多く、八人の伜に十二人もいた。なので、ぼくはやるなら最後まで全力でやり切ろうと思い、声がかれるまでがんばった。
 立会演説会本番を迎えた。どんどん立候補者が話していく中、ついに僕たちの番がやってきた。ひと言ひと言、ていねいに話した。その結果、一回かんでしまったが、堂々と話すことができ、友人は見事当選することができた。
 いろいろな人と話すのは勇気がいるけれど、相手に思いを伝えることはとても気持ちがスッキリするものだとわかった。”(4月16日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の中学生・牧野さん(男・14)の投稿文です。続いて選挙の話ですが、これは中学生の話です。友人が生徒会役員に立候補する、支援を頼まれた。快く引き受け、精一杯頑張る。頑張っている内に自分の気持ちも前向きに変わっていく。いい体験だったと思います。今後に生きるでしょう。そしてボクも今回、生徒会と市議会という違いはありますが、牧野さんと全く同じ体験をしました。そして全く同じ思いをしました。同級生が立候補の想いを持ったときから係わり、中枢での支援を頼まれ、先日無事その責任を果たすことができました。そのことは前回の「話・話」でも書きましたので簡単にしますが、支援をする中で、自分の思いも自然に伝えてしまいます。ボクは公約の中味まで係わっていましたので、ある意味当然です。支援しながら自分の思いも達成していく、ボクの後半人生、いや老後人生も面白くなりそうです。




2015/05/01(Fri) (第2106話) 未来のために 寺さん MAIL 

 “愛知県議会の選挙がありましたが、投票率は38.5%。低さに驚き、戸惑いを感じました。私が小さなころ、足の不自由な祖母を、父が車いすなどを使って投票所に連れていく光景をよく目にしました。「選挙はとても大切なことなんだ」と幼心に感じたことを覚えています。
 不景気が続き、生活格差も開くばかりで先が明るくない状況が続いています。このような状況で選挙から遠のく方が増えるのもやむをえないと思いますが、こんな状態だからこそ、選挙にいくべきだと考えます。投票率の上昇により、われわれの代表者である政治家の繁張感が高まり、今まで以上に政策に期待できると信じているからです。
 当選された政治家には、若者から年配の方までが興味を持つ政策に期待します。私たちも国民一人一人に与えられている一票の権利を確実に行使して、皆で明るい未来をつくっていけたらと感じます。”(4月16日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の会社員・白井さん(男・41)の投稿文です。ボクは棄権したことは一度もありません。そして、この投票率の低さには驚くと共に危機を覚えます。
 ボクは先日の統一地方選で、初めて大きく選挙に係わりました。同級生が市議選に立候補したのです。後援会副事務局長を務め、選挙副事務長を務めました。ボクが立候補した訳ではありませんが、選ばれる側に回った気持ちです。そして、新人ながら当選できました。そして、この投票率を思うのです。ご多分に漏れず我が地区も投票率は下がり続けています。前回より約3%下がりました。棄権する人は興味がない、自分の1票などそんなに関係ない、といった理由でしょうか。投票される側にすればどれだけの投票率で、どれだけの人が支持してくれたのか、これはその政治家にとってその後の意識、活動がかなり違ってきます。多ければその分責任感も多く感じます。いろいろなところで無責任体質を是正して行かなければいけない、こんなことを今回の体験から強く思うようになりました。


 


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