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第124号  2014年9月

2014/09/29(Mon) (第2007話) 「傘かしげ」の心 寺さん MAIL 

 “今夏は、傘をさしての外出の機会が多かった。狭い歩道なのに、スマートフォンを見ながら歩く学生、時間に追われ急ぐ社会人。擦れ道いざまに傘が当たりそうになり、ひやりとすることも多々あった。
 すれ違う相手に水滴がかからない方向に傘を傾け合う「傘かしげ」という言葉を聞いた。互いに周囲に気配りして歩きたい。景色や季節の移り変わりだけでなく、人の優しさを垣間見たり、それによって自分も人に優しくなれたりもする。
 スーパーのレジで、四人家族でかごいっぱいの買い物をする私のすぐ後ろに、お弁当とお茶だけを手にした人が並んだ。昼食時間が決められているのだろう。順番を譲れるのは、子育て中、ぐずる息子と並んでいる時に、よく譲られた思い出があるからだろう。
 体験から得た優しさは、いつまでも心に生き縦ける。雨の多い時季、あちこちで傘かしげが見られる世の中になりますように。”(9月13日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・藤原さん(47)の投稿文です。「傘かしげ」、また美しい言葉を知った。でも、傘が当たらないように傾ける、行為ということでは当たり前のことである。いや、今では当たり前のことではなくなったかも知れない。「自己主張」が大切とされた時から何かおかしくなってきた気がする。それも大切かも知れないが、場合である。歩きながらのスマートフォン姿が多くなった時代、傘のトラブルも増えよう。「傘かしげ」の精神を忘れないようにしたいものだ。
 レジの譲り合いの話も時折聞く。藤原さんは優しい。ボクが最近気になるのは点字ブロックを邪魔する行為である。傘かしげもレジも体験ができ、気がつくことがある。ところが点字ブロックのことは晴眼者には体験ができない。悪気はないが、知らないうちに過ちを犯し、そのことに気がつかない。いつも気配りして周りを見ることを忘れてはいけない。




2014/09/27(Sat) (第2006話) めでる風習 寺さん MAIL 

 “「中秋の名月」は長雨や台風の時期と重なるため、天気に恵まれないことが多いが、昨年は雲一つなくきれいに見えた。出が少し遅れるところから、いざよって(ためらって)いると思われた「十六夜月」、立って待つ間に出る「立待月」、座って待つ「居待月」、さらに遅れて寝て待つ「寝待月」も観賞。ほぼ1ヶ月後の「十三夜」も見て、すごく得をした気分になったのを思い出す。
 月をめでる風習は、娯楽が少なかった先人たちが夏まで忙しかった農作業が一段落し、収穫を祝ったのが今に伝えられていると聞いた。すてきな名前から、どれほど楽しみにしていたかが想像できる。しかし現在はほとんど行われなくなったのが残念だ。
 秋は空気が澄んで、月が一番美しい季節であり、眺めていると幸せな気分になれる。今年も一連の名月が楽しめるよう願う。皆さんも月見で英気を養ってみませんか。”(9月7日付き中日新聞)

 愛知県豊川市の松下さん(男・66)の投稿文です。月をめでる、まさに日本の良さを感じます。その月にいろいろな名を付ける、これも日本人の良い知恵です。松下さんからそのいわれを聞くとまた納得です。現代人は忙しいと言うが、テレビやスマホなど余分なことで忙しい人も多い気がする。こんな人はもちろん、本当に忙しい人も時には月をめでる時間を持ちたいものだ。
 ボクは今年の中秋の名月やその翌日の満月は外に出てゆっくり眺めた。短い時間でも豊かな時間を持った気がしてくる。僕らが多く時間を過ごす居間は東も南も西も大きな窓がついている。月も太陽もよく見える。ふと見上げて朝日や夕日の美しさに驚くことも多い。こんな時間を忘れないように、多くの時を持ちたいものだ。




2014/09/25(Thu) (第2005話) 「ママ」の日記 寺さん MAIL 

 “「小学生の時、ママも日記書いたんだね」夏休みの作文を書いていた孫たちが、私が出してきたノートを読んでいる。孫たちのママ、つまり私の娘が小学生の時の日記帳は、いつか娘に返す宝物だ。
 「せんせいあのね。みんなよるしかいないから、インコがなつかないの」「おかあさんがおそいから、おとうさんがごはんつくったよ」これは、1年生の最初に書いた「せんせいあのね」の作文。この作文に始まり、娘は日記を6年生まで先生に出した。日ごと、先生の赤ペンが入っている。
 その頃の我が家は共働きで忙しい日常だった。私の日記はない。ところが娘の日記には、その頃のことが素直な子どもの言葉で記されていて懐かしい。私が行った参観日のこと、親戚のおばちゃんに歯医者に連れて行ってもらったこと。ある時は「おかあさんに私の貯金を貸しました」と書いて、先生と大笑いしたこともあった。
 色々と大変だったろうに、親のいやなことは書いていなくてありがたい。「ママ、よく書いたね」と孫たち。仕事から帰宅したママも「私、案外まじめだったんだ」と笑っている。”(9月4日付け朝日新聞)

 山形市の小林武子さん(女・71)の投稿文です。小学校6年間、日記を書き先生に提出する。それを母親が保存していて孫に見せる。何ともほほ笑ましい風景である。こういう姿もあるのかと感心する。どんな形でもいい、日々の記録を書いておくというのは大切なことである。思いがけないところで役に立つ。人間、過去にこだわるばかりではいけないが、過去をおろそかにするのもいけない。
 ボクも日記などいろいろな形で残すことを心がけているし、妻は結婚以来家計簿をつけ、短い文を書き込んでいる。こんな親を持ちながら子どもらは特に何もやっていないようだ。




2014/09/23(Tue) (第2004話) 憩いの場 寺さん MAIL 

 “先日、スイカとトマトの収穫が終わった。今年もおいしいものがたくさん取れ、家族全員大満足だった。野菜も順調に生育しており、先祖からの田畑の恩恵に感謝する毎日である。
 しかし、現在月一回、息子に頼んで、所有する耕作放棄他の雑草をトラクターで退治してもらっている。周囲を見渡すと、耕作放棄地となり、手入れができていない田畑がたくさんある。自然環境の悪化に歯止めがかかっていない。終戦直後と比べると雪泥の差である。時代の流れに対応できなくなったのだろう。
 一方で、近くを散歩すると、ある企業の周辺の環境整備が行き届き、地域住民の憩いの場となっている。これは雑草対策のよい見本といえる。雑草が伸びないうちに除草するなど環境美化に尽力されている姿に接し、まねのできる範囲で見習おうと思う。たくさん教えられることかあるので、地域でそれを生かしていきたい。”(9月2日付け中日新聞)

 岐阜県関ヶ原町の西村さん(男・80)の投稿文です。耕作放棄地はボクの周りでも少しずつ増えている。わが家でもそのうち問題となるだろう。先日も妻と話した。「自分が動けなくなったらわが家の畑はどうなるだろう。娘たちがやってくれるだろうか。無理な気がする」。ボクの家以上に心配になる家がボクの周りには沢山ある。跡継ぎが家にいなくて、後期高齢者だけで畑を守している家も多い。農協や法人がやってくれる時代が来るのだろうか。父は全精力を注いで畑を増やしていった。それを知っているボクはおろそかにできないが、それでも負の財産となりつつある。個々に任せていたら至る所荒れ地となってしまう。行政などの大きな力が必要だと思う。西村さんが感心されている企業はどのようなものなのか、もう少し具体的に知りたい。




2014/09/21(Sun) (第2003話) 愛された人が眠る墓地 寺さん MAIL 

 “お盆が過ぎ、だいぶ涼しくくなりました。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉に、なるほどなあと納得の思いです。
 お盆にお墓参りに行った時、私は、先祖代々のお墓ではなく、墓地の片隅にひっそりとある共同墓地の石碑に手を合わせる人たちに気付きました。家族で来ている人も、夫婦で来ている人も、一人で来ている人もいました。皆、悲しんでいる様子で、涙ぐんでいる人てもいました。
 私はその光景を見て、そのお墓に眠っている人はとても大切な人で、愛されていたんだなあ、と思いました。もしかしたら犬や猫かもしれないけれど、それでもとても大事な家族で、かけがえのない命がそこにはあったんだ、と。
 もう会えなくても、人々の心の中できっと故人は元気な姿で生きているんだ、と思いました。私はとても温かい気持ちになり、その人たちに「ありがとう」と心の中で感謝しました。”(9月2日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の山本さん(女・31)の投稿文です。ボクの村にも霊園がある。ボクの家の墓もある。妻はよく行くが、ボクは時折にしか行かない。数年前に霊園管理委員長を務めた。度々行かねばならない。墓参りに来る人が多いことにびっくりした。サロンにもなっている。水子供養観音や無縁墓地もある。そこにも花がたてられている。誰かがお参りしているのである。この時以来ボクにも墓地は近いものになった。
 墓地は先祖の人が眠っている。遠い先祖の場合にあるし、まだ近い人の場合もある。墓に立つ人の気持ちは様々であろう。でも先祖があって今の自分がある。先祖なくして自分はない。「お母さん、私を産んでくれてありがとう」「おばあちゃん、お母さんを産んでくれてありがとう」。先祖をおろそかにしてはいけない。
 今墓がよく話題になっている。墓を守る人がいない、いても遠くて守るのは大変である、また守れない。ボクの村の墓も毎年返却が何件とある。競争や抽選であったときもあったが、今は空きがたくさんできている。埋葬も様々になっている。先祖の墓に入らない人もあるようだ。墓がない人は自分だけの埋葬法を取っていく人もある。時代と共に形はどんどん変わっていく。残された人や子孫はどうやって父母や先祖を偲び、敬っていくのだろう。この気持ちを大切にする形式を取っていきたいものだ。




2014/09/19(Fri) (第2002話) 感謝する気持ち 寺さん MAIL 

 “最近は、何でもやってもらって当たり前という考え方が目につきます。でも、私は何事に対しても、ありがたいと思う気持ちが大切だと思います。
 私は普段、自転車で習い事に行きますが、雨の日は祖母に送迎してもらいます。その日、私は何だか機嫌が悪く、祖母に送ってもらったのに、ふくれた顔をしてお礼も言わず、車を降ろしてもらいました。帰宅したら、母に「せっかく送ってもらったのだから、ちゃんとお礼ぐらい言いなさい」と注意されました。
 思い返してみると、自転車で来ていた友達は雨にぬれていたけれど、私は車で送ってもらったので雨にぬれずにすんだのです。祖母が送迎してくれることが、とてもありかたいことだと気付きました。
 私はあらためて、お礼を言ったり、感謝したりすることは、これから大人になって社会に出ても、常識として、とても大事なことだと思いました。”(9月1日付け中日新聞)

 名古屋市の小学生・姫路さん(女・12)の投稿文です。この文で良かったと思うことはいくつもあります。まずおばあちゃんが孫の態度を母親に告げたこと、そして聞いた母親は自分の娘を叱ったことです。おばあちゃんは自分で叱ってもよかったし、黙っていてもよかった。こんな小さなことでもいろいろな対応がありますが、でもこれが一番よかった気がします。よかったと言うには良い関係、特に信頼関係がができていればこそです。そして子供は素直に聞き、反省し、感謝の気持ちを持った。この投稿文になったのは更に良い。どうしてこの投稿までいったのか、ボクはそれにも興味があります。子供の自発性なのか、親などから示唆があったのか。これで更に記憶に残ります。忘れられない出来事になります。良いことばかりです。子供は素直でいい、素直な子はいい。




2014/09/17(Wed) (第2001話) 根性植え付けた祖母 寺さん MAIL 

 “「ここまでよく頑張った」。優勝へと導いた中京の松井大河投手は、1回戦から1047球を投げた。スタンドで見守り続けた祖母勝子さん(72)は、幼い頃から育てた孫の雄姿に涙を浮かべた。
 「タイちゃんに根性を植え付けたのは私なの」と勝子さんは笑う。3人兄弟の末っ子。幼い頃に両親が離婚し、以来、多忙な松井投手の父親に代わり、勝子さん夫妻が子育てを担ってきた。勝子さんは30年近く岐阜市内で居酒屋を切り盛りし、近所でも評判の「元気なおばあちゃん」。孫たちに「何事も一生懸命に取り組むことが大切。私もそうしているから、よく見ていなさい」と言い聞かせてきた。
 「ちょっと口うるさいけど、言うことちゃんと聞かなきゃって思う」と松井投手。練習に行く時は「パワーを送てるから頑張るんだよ」と欠かさず声をかけた。疲れて帰宅すると腕や足をマッサージしてくれた時もあった。
 「いつもありがとう。今日は勝つ」。朝、勝子さんから体を気遣うメールを受け取り、松井投手はこう返信した。右腕は腫れ腰にも痛みがあった。しかし「みんなの期待に応えたい」と勝子さん譲りの根性で最後まで投げ続けた。
 勝子さんは「優勝したら旅行をプレゼントしてあげる」と約束していた。「大好きな温泉でゆっくり休んで欲しい」と勝子さん。松井投手は言う。「一番近くでずっと支えてくれた。おばあちゃん、ありがとう」”(9月1日付け朝日新聞)

 前回に続いて全国高校軟式野球についての記事から、中京の松井大河投手とそのおばあちゃんの話です。1回戦から延長50回の準決勝を経て優勝までを1047球を投げ抜いたのはまさに根性です。この1047球を投げ抜いた松井投手の根性を育てたのはおばあちゃんという。おばあちゃん自身が嬉しく語っている。こうなるまでにはいろいろな苦労や努力がある。これは何についても同じです。
 でも同じように苦労し努力してもこのように日の当たることは少ないでしょう。苦労して努力してそのまま消えていく人の方が更に多いでしょう。人は結果で判断します。結果は一瞬のことです。人間は生き続けていきます。人がどう思おうとも、本人は経過を重視していきたいものです。よくやってきたと思える経過なら納得しましょう。松井投手の場合、勝った結果より50回投げた経過が賞賛されているのは良かった。そしてそれまでのおばあちゃんとの二人三脚です。




2014/09/15(Mon) (第2000話) 長く熱い夏制覇 寺さん MAIL 

 “4日間で計10時間18分に及んだ準決勝の中京−崇徳戦。延長50回表、中京の後藤敦也主将(3年)のひと振りが試合を決定づけた。無死満塁で外角直球にうまく合わせ、打球は右翼線へ。2者が生還すると、4300人を収容する内野スタンドから外野席まであふれた観客がどよめいた。
 打たれた崇徳の石岡樹輝弥投手(3年)は前日まで3日間で617球を投げてきた。中河和也監督は投手を集めて背番号「1」の重松勝実投手(3年)の起用を提案した。だが、重松投手は「ここまで来たら石岡に投げさせてやって。僕は決勝で投げる」と言った。石岡投手も、「投げ合いを降りたくないです」と再び志願した。
 体は限界だった。試合後、石岡投手は「肩はぱんぱんに張って、指に力が入らなかった」とうなだれた。それでも球を低めに集め、この日は49回まで内野安打1本に抑えた。
 ゲームセットの整列後、石岡投手は中京の松井大河投手(3年)に歩み寄り、「お前、やっぱりすごいなあ」と話しかけた。石岡投手の肩を抱いた松井投手は「絶対優勝するから。決勝はおれらに任せてくれ」。(後略)”(9月1日付け朝日新聞)

 第59回全国高校軟式野球に関する記事からです。こんなことはいくら作為的でもできないと思う。それが真剣勝負である。携わっている人は誰もが1回でも早く勝って終わりたい。それが延長50回である。それもゼロが99個並ぶのである。世の中こんなことが起きるのだ、これは奇跡だ。両投手は言うに及ばず、どの選手も全く立派だ。そして生涯に残る思い出になった。
 両投手の扱いにいろいろ意見がある。確かに過酷だ。ヒョッとしてもう野球ができない体になっているかも知れない。多分両投手はそれでも悔いはないと思っていたろう。若くしてこれだけの思い出を作れたことは幸運だと思っているのではなかろうか。野球は終わってもこのことで生きる道は開けたかも知れない。でも、でもである、規則を作る人は考えねばならないと思う。プロでもない若い人の体をこれだけ酷使することがあっていいのか。
 頑張る話が「話・話」第2000回の話題になったのは良かった。2000回が通過点になるとは思ってもいなかった。これからも頑張って行きたい。否、頑張ると言うほどのものではない。こんなことができる境遇を大切にしていきたい。




2014/09/13(Sat) (第1999話) こころの定年 寺さん MAIL 

 “8月19日付朝日新聞の耕論「70歳まで働きますか」の記事を読んで、「こころの定年」という言葉を知りました。40歳前後から、組織で働く意味に悩む「こころの定年」を迎える人が増えているというのです。
 どうやら、私が50歳を前にして悩んだ「うつ状態」は、こころの定年を感じたからだと思い、当時の自分が無性にいとおしくなりました。中間管理職を一歩前にして焦り、他人の評価が気になり、IT機器にも振り回される日々で、自分が職場にいる意味が見えなくなっていました。福祉分野の仕事に携わってきましたが、実践を伴わない仕事の内容に限界を感じていた時期とも重なっていました。
 もがきながら出会ったのが社会福祉士の資格取得でした。全科目を1年で制覇する目標に向かい、ひたすら勉学に励み、特別養護老人ホームで1カ月間の実習もしました。忘れもしません。5年前の3月31日の合格発表の日を。
 こころの定年は2度、3度と繰り返しやってくるものなのかもしれません。いつまでも、そのことに気がつける自分でありたいと思っています。”(8月29日付け朝日新聞)

 さいたま市の公務員・吉川さん(女・59)の投稿文です。この耕論はボクも読みました。定年が延びているのは、一般に元気な高齢者が多くなったこと、年金が不足してきたこと、若年労働者が減ってきたことなどいろいろな要素があるでしょう。しかしながら、平均的に寿命は延びたといっても人は様々、それぞれの状況がある。個人個人は自分に合った方法を選びたい。
 社会はますます複雑になり、なかなか単純には行かない。肉体年齢は延びても心の問題では早くから病んでいる人も多い。定年70歳と言われても心はもうとっくに定年を迎えている人もある。それを意識せず、無理して本当に定年を迎えてしまう人も多い。心の定年を知り、上手に対応することによって、本当の定年を伸ばすこともできる。吉川さんの体験はそれを示していたのである。
 勤めていて辞めたくなることも職場へ行きたくないことも生涯の間に何度も経験することでしょう。ボクも何度も経験した。一々辞めていたら何度辞めたことか。でもここまで来るとそれが何であったか大半は忘れた。忘れるようなことが本当の定年であったか、ここが心の定年だと見極めることはなかなか難しい。




2014/09/11(Thu) (第1998話) 部品届き感謝 寺さん MAIL 

 “十五年使っている魔法瓶で、湯を吸い上げるプラスチックの管が劣化して砕けてしまった。新しく買い替えようと思ったが、その魔法瓶は古びて変色していながらも、本体は壊れていない。家電の部品は七年くらいで製造中止になると聞いていたので、この古い部品はもうないかもしれない。しかし、メーカーは大手で、簡単な部品なので、いちるの望みをかけてスーパーの売り場で取り寄せを依頼した。
 すると、部品が数日で納品され、驚いた。おかげさまで、色あせした魔法瓶の塗装がはがれないよう加減しながら磨き、今まで通り使えるようになった。とてもうれしい。
 メー力ーにとっては、古い部品を売っていては、新商品が売れず、もうからない。しかし、今回のことで、このメーカーの商品への信頼感は確実にアップした。また何か購入する機会があれば、このメーカーのものを買おうと思う。”(8月25日付け中日新聞)

 愛知県東浦町の主婦・芳本さん(51)の投稿文です。ものを大切に使う、人間として大切な徳目である。ところが商売との兼ね合いとなると難しい。適当に買い換えてもらわないと商売にならない。部品はどこまで保存しておくか、メーカーとしては重要なことである。それが7年らしい。15年使ったものの部品が見つかる、嬉しいことであったろう。芳本さんは感激し、このメーカーのファンとなってしまった。メーカーにとっては最高の結果になった。両者の得になった。
 この文を取り上げたのは、実はボクも最近芳本さんと全く同じように、魔法瓶のプラスチックの管が脆くなって壊れたのである。かなり古いのでメーカーに問い合わせる気は起きなかった。家庭用品を扱っているあるホームセンターに出かけた。代替え品になるものはないか探した。そして、同じ径のプラスチック用品を見つけ、その長さに切ってもらった。十分用を足し、今も使っている。数百円で賄えた。




2014/09/09(Tue) (第1997話) 教わると言うこと 寺さん MAIL 

 “娘がある会の司会をするとかで、私が振り袖と袴の着付けをすることになった。実家に電話し、30年以上前に私が着たものを送ってもらうことにした。母がこまごまと聞いてくる。「半襟のかけ方はわかるかい? 袴の着付けはできる?」と母。「大丈夫よ。もうネットで調べ済み。動画だから分かりやすいしね」と私が返す。「肌着や半襟の新しいの送ろうか」「ああー、それもネットで安く買ったよ」
 電話の向こうの母が静かになった。見えないが寂しい顔をしている気配を感じ、つい先日、私も同じ気持ちになったことを思い出した。「お魚のおろし方くらい教えておかなくてはね」と張り切って言った私に、娘は目にもとまらぬ速さでスマホをタッチし、「ほらね、料亭の板前さんが教えてくれるから、大丈夫」と答えたのだ。
 分からないことは何でも検索。苦労しなくてもコツまで教えてもらえる世の中だ。「でもね、技術だけではないでしょう。教わるということは」。そう心の中でつぶやきながらぅ母への言葉の反省も込め、娘に教えてやれることは何かと考える毎日だ。“(8月18日付け朝日新聞”

 東京都の料理教室主宰・川越さん(女・53)の投稿文です。この子供の行為を過ちというのか、難しいところではあるが、親を、年長者を寂しくさせている行為であることは事実である。本人は迷惑をかけない気遣いのつもりが、親には寂しいこともある。親はいつまでたっても親である。子供には権威を示したいし、世話もしたいものである。そんな機会を見つけたいものである。かと言ってもいつまでたっても、何もかも親頼りではそれも困る。親子とは理屈通りに行かない、何とも厄介なものである。そこはただお互いを思いやる気持ちだけが頼りである。どうしたら喜んでくれるか、その配慮である。甘えすぎてもいけないし、甘えなくてもいけない。親子関係に限らず人間関係のことで、徹底してやって良いことは意外に少ない。程々、兼ね合いが肝心である。




2014/09/07(Sun) (第1996話) 南勢テクテク会 寺さん MAIL 

 “「ふるさと発見と健康づくり」を目指して、山の会「南勢テクテク会」を一九九七年、仲間七人で結成しました。メンバーは年々増え、今年は約百三十人が登録しています。
 海と山の自然に恵まれた私たちの町には、標高150〜785mの有名な低山がたくさんあります。どの山に登っても、美しい海の風景に巡り合えるのが一番の自慢です。
 会結成は、町民の皆さんこの町の素晴らしい自然と山の良さを知ってほしいという思いが始まりでした。すべての山の登山ルートを整備し、歩行距離を計測、案内標識を立てました。
 月一回、登山大会を開催。町民のみならず、近隣の山の愛好者にも大変喜んでもらっています。うま年の今年は「馬山」が人気があり、県外からの問い合わせも増えています。私たちは地域活性化への視点も踏まえて、さらに山の会を発展させていきたいと願っています。”(8月17日付け中日新聞)

 三重県南勢町の団体役員・岡井さん(男・77)の投稿文です。地元の里山の登山ルートを整備し、歩行距離を計測、案内標識を立てる。更に大会を催す。会員も7名から今では130人という。始めて20年弱、全く立派なものである。ボクも一宮友歩会を運営しているだけにその大変さも違いもよく分かり、全く素晴らしい、敬服である。岡井さんのような山里ならいくらでもある。でもここまでの話はあまり聞かない。ボクにどこか見習うことはないか、きっとあると思う、心がけたい。
 地元の発展に繋がることは、その気になって探せば何かあるはずだ。要はその気になるかならないか、するかしないかである。しかしながら地元というのはやりやすいようで、実は全く難しい。ボクも近年地元の役員をいろいろやって、よりそんな気持ちを抱いている。一歩踏み出す勇気がでない。




2014/09/05(Fri) (第1995話) 歩ける幸せ 寺さん MAIL 

 “毎日の暑さを逃れようと、信州へのツアーに1人で参加しました。訪れた長野県の霧ケ峰高原、車山高原、旧軽井沢銀座は平均気温二〇度の別世界でした。同じく1人旅の七十代の男性と知り合いました。
 その方は、毎日が人生最後の日だと思って行動しているそうです。旅先では、教会に入ってお祈りをし、喫茶店に入ってその土地の人と語り合い、緑の中で新鮮な空気を吸い、生きていることに感謝しながら歩くのを楽しんでいるとのことで、感心しました。
 私は観光地をただ見て歩くだけなので、反省させられました。高齢化が進み、「老老介護」が増えている中、健康で歩ける幸せをお互いに感謝しなければ、と語り合いました。
 「朝目覚めたら、ああ、今日も一日生き延びたんだと感謝の気持ちを持て」。高校時代にある先生から言われたそんな言葉を思い出しました。人生を考えさせられた信州の旅でした。”(8月14日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の山田さん(男・78)の投稿文です。時間も金銭も少し余裕ができたとき、観光地を見て、温泉に浸り、おいしい食べ物を食べる。そんな旅は何よりの贅沢、楽しみである。ボクも人生終焉となってきた近頃はそのように考え、妻を誘って積極的に出かけるようにしている。そして、自分なりにホームページの題材を探すなどいろいろな楽しみを持つようにしているが、その土地の人と積極的に話すことは意識して来なかったと思う。また、人生最後の日だと思い、感謝の気持ちを持って歩いている訳でもないと思う。ボクの机の上には「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」と書いてある。そんなボクである。旅に出てそれ程に難しく考えることはないと思うが、この文を読んで少し反省と知恵をもらった。それにしても山田さんの高校時代の先生は、高校生に向かって「朝目覚めたら、ああ、今日も一日生き延びたんだと感謝の気持ちを持て」とは、また凄いことを教えられたものだ。そのことを覚えておられる山田さんも凄いものだと思う。心に残る言葉というものはそんなものだろうか。ちなみに「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」という言葉については2013年2月3日付けの「(第1721話)後期高齢者」を読んでみて下さい。




2014/09/03(Wed) (第1994話) 築90年 寺さん MAIL 

 “築九十年のわが家はかつて役牛を養い、カイコを飼った古い家です。ただ、二十年ほど前に母屋の裏に小屋を増築したためか、シロアリが出るようになったため、駆除業者に被害を防ぐ処置をしてもらいました。
 「この家、しっかりしていますね。シロアリに食われた部分もありますが、基本的な構造に問題はありませんよ」。若い作業員が作業を終えて床下からはい出て、そう言いました。最近の家は築後数年で立て付けが悪くなったり、水漏れを起こしたりすることもあるそうで、「僕らの間じゃ、田舎の古民家を買って建て直すのがはやりです。使われている木材が全然違うんですよ」と強調しました。
 全国で空き家が増え、放火などの犯罪が心配されています。しかし、中山間地の家は古くても丈夫です。都会で現役を退かれた人たちや若い子育て世帯の人たちに、こんな古民家の良さを知ってもらい、移住してきてほしいと思います。”(8月14日付け中日新聞)

 岐阜県関市の塾講師・川合さん(男・61)の投稿文です。木造の文化財とは言わなくても、本当に昔の木造住宅は長く持つものである。川合さんは築90年と言われるが、ボクの家も築65年である。だからこの文に親しみを持つのである。
 使い方によれば普通の住宅でも何百年と持つだろう。そうした家も生活様式が合わなくなったとか、もっと機能の良いものにしたいと建て替えている。住宅には素人のボクだが、木造の長寿命と多くの機能は両立すると思うが、機密性は気になる。日本のように湿度の高いところで木造住宅は通気性に気を配ってきた。現在の住宅は機密性を特に重んじていると思う。その機密性と木造の長寿命とは両立するのだろうか。そして現在の木造住宅の寿命が短いのは材質の違いだろうか。専門家の意見を聞きたいものだ。
 人間は飽き性、時折建て替えたくなるものかも知れない。長寿命はあまり意識しないかも知れない。ボクの家も築65年と言ってもそれは骨組みだけで、一部を除いて内装は全く違っている。




2014/09/01(Mon) (第1993話) 蚊帳 寺さん MAIL 

 “電気も薬品も使わず蚊から身を守れる蚊帳が見直され、需要があるそうです。
 私が子どものころは、梅雨入りの時季に決まって押し入れから出される蚊帳は、麻のにおいに混ざってカビのにおいがしました。戸も障子も開け放した家の中で、大勢のきょうだいが一張りの蚊帳の中で雑魚寝をしました。ふざけて暴れ回り、つり手が切れて蚊帳の角がバッサリ落ちて、よく叱られたものです。
 宵のうちに近くで捕ってきたホタルを蚊帳の中に放して蛍狩りをしたり、蚊帳へは雷が落ちないとの言い伝えから、稲妻のたびに昼間でも、蚊帳の中に避難してきょうだいで肩を寄せ合ったりしました。
 蚊帳の中から眺めた軒先の盆ちょうちん、鎮守の森から聞こえる盆踊りの歌、裸電球目指して飛んできたアブラゼミ、そして涼風が吹き、蚊帳の縁でウマオイの音色が響いて秋の気配が忍び寄るころ、蚊帳を外さないでほしいと駄々をこねたことなど、蚊帳には思い出がいっぱいあります。”(8月12日付け中日新聞)

 岐阜県関市の野村さん(男・78)の投稿文です。蚊帳にはボクも野村さんと全く同じような体験がある。ホタルを放したり、雷が鳴ると蚊帳の中に入ったり、振り返ってみれば懐かしい思い出である。ほとんどなくなってもう何十年にもなるだろう、記憶のある人も少なくなっているだろう。その蚊帳が見直されているとは知らなかった。なぜ見直されているのだろうか。
 ボクのような農村でも蚊は少なくなった。今ボクの家では寝室だけ蚊取りマットを使用している。その他はほとんど問題はない。衛生状態が良くなったからであろうか。蚊取りマットとや噴霧状のものと蚊帳とどちらが良いだろうか。比較できることではないかも知れないが、昔は同じものを大切に使った。今は一度使えば終わりのものや使い捨てのものが多い気がする。同じものを使うと言うことは保存しなければならない。保存は知恵も要るし、場所も取る。便利になるほど人間のその部分の能力は落ちる。兼ね合いを上手に採ることであろうが、人間は生来怠け者である。なかなか難しい。


 


川柳&ウォーク