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第122号  2014年7月

2014/07/30(Wed) (第1979話) 子ども孝行 寺さん MAIL 

 “父が亡くなってから四度目のお盆を迎えた。お盆になると、私は母に「お父さんは帰ってきましたか」と聞く。母はいたずらっぽく笑いながら「『やっとかめやったな。こっちは暑いな』と言いながら帰ってきたよ」と言う。母のこの手の話は、どんどん広がっていく。うれしそうに話す母に調子を合わせる私。
 母がお墓参りに行けば「遅くなるから、もう帰れよ」と父は言い、母がわが家に来るとき、父は「ゆっくりしてこいよ」と言うらしい。母の都合で父は現れる。主人は「かわいいおばあちゃんやな」と言ってくれている。
 父が入院する日、父は「おれに何かあったときは、ばあさんを頼むぞ」と、主人と私に言った。その日からわずか一ヵ月半。父は帰らぬ人となった。
 その後、隣町に住む母は一人暮らしとなったが、「気楽だし、友達が多いので元気なうちはここを離れたくない」と言う。父が「娘の所へ行けよ」という日は来るのだろうか。何はともあれ、元気でいてくれるだけでありがたい。主人いわく「それが一番の子ども孝行!」。”(7月22日付け中日新聞)

 岐阜県土岐市のパート・神崎さん(女・54)の投稿文です。亡きご主人と会話を楽しまれる。それもユーモアたっぷりの会話をである。聞く家族も楽しい。夫婦の一方が欠けたとき、どんな事態になるか、ある程度の期間はうちひしがれても、その後は立ち直り、神崎さんのように行きたいモノだ。夫婦が何十年一緒に過ごしても十分と言うことは無いが、最後は別れねばならないこと。そのことを思って、今を十分に過ごすことだろう。子ども孝行という言葉も面白いが、それが子供にも安心感を与える。そして親孝行にも繋がるだろう。神崎さんも「娘の所へ行けよ」という言葉を聞くようになったら素直に従って欲しいと思う。それも子ども孝行であろう。




2014/07/28(Mon) (第1978話) 還暦ワイン 寺さん MAIL 

 “数カ月前、娘から還暦祝いにと、私の生まれた年に収穫されたブドウで作ったワインを贈られた。そのコルクを抜くには、勇気が必要だった。浦島太郎の玉手箱を開けるような怖さがあった。60年もの長い年月の中で、いったいどんな変容があったのだろうか。良い熟成であればいいけれど、渋みと苦みばかりが強かったらどうしようかと。
 慎重にコルクを抜きながら、私の60年の歳月を振り返った。少女の頃、20代、30代、40代、50代。それぞれの年代に特有の悩みもあったし、喜びもあった。明るく楽しいことばかりではなかったが、そのときそのときの風雪に耐え、あまりよれよれにもならず生きてきた。
 60年ものの赤ワインは、深く透明感のある褐色で、プラムやブルーンの香りがして、驚くほど甘かった。これだけの力強さがなければ、60年もの長きにわたって熟成することはできないだろうと思われる深い昧わいだった。
 私のこれからの歳月は、若くフレッシュではないけれど、このワインのように深く澄んだ昧になるよう生きていこう。娘よ、すてきな還暦祝いをありがとう。”(7月18日付け朝日新聞)

 宮城県柴田町の大槻さん(女・61)の投稿文です。還暦祝いに娘さんからワインを贈られる。それも60年熟成したワインをである。熟成期間が長い方がいいと言っても60年も熟成するワインとはどんなものであろうか。大槻さんには不安の中で味わった感激である。還暦祝いとは嬉しいことである。けじめに祝いをし、新たな気分で次へ進んでいく、良いしきたりと思う。
 さてボクの還暦はどうだったろうか。いろいろ還暦同窓会に出席した記憶はあるが、家族はどうしてくれただろうか、よく思い出せない。それより今年ボクは古稀である。家族から何かあるだろうか。誕生日も近くなってきた。何かを期待したい心がうずく。




2014/07/26(Sat) (第1977話) 朝の散歩 寺さん MAIL 

 “昨秋、早朝の散歩を日課にしようと決心した。夏に道ばたで骨折し、リハビリを続けていたのだが、歩きにくさが残っていた。ゆっくり歩けばいいのだが、根っからの負けず嫌いの私は、普通に歩けない自分がどうにも許せなかった。
 商店街を抜けて公民館までの往復3キロの道のり。自分で決めたこととはいえ、3キロを毎日かと思うと胃がじくじくと痛んだ。それでも、初めての散歩では、すがすがしさと物珍しさが相まって、無我夢中になっていた私がいた。
 何カ月か経つと、慣れてくる。見知らぬ人から「おはよう!」と声をかけられると何とも言えず快適だ。その時は、疲れが癒やされる思いがする。徐々に散歩の仲間も増えてきた。ときどき休みたいなと思うのだが、私が顔を見せないと心配させてしまわないかと正直一日たりとも休めない。逆にほかの散歩仲間の顔が見えないと、その日は一日中心配だ。
 あんなにためらっていた散歩だが、一歩踏み出した勇気のおかげで、骨折する前のように歩けるようになった。いつの間にか朝がくるのが待ち遠しくなった。これからも体の続く限り、散歩を楽しみたい。”(7月15日付け朝日新聞)

 茨城県土浦市の鈴木さん(女・77)の投稿文です。歩く重要性、その効果についてはもう何度も取り上げているし、いろいろなところで書かれている。特に体力、筋力の衰えていく高齢者は必要である。ウォーキング、筋トレは老人のためのものである。
 それにしても鈴木さんは本当に頑張り屋、几帳面な人である。習慣性がつくまではある程度頑張らねば続かない。休む理由はいくらでもつく。そして挫折する。習慣性がつくともう楽になり、別の楽しみを味わうこともできる。別の投稿では植物観察の楽しみを書いていた方がある。
 でも頑張り過ぎは危険である。先日ボクは一宮友歩会10月例会の下下見をした。名古屋では35度を超す気温の日、約20kmを歩いて全く疲れ切った。3人で歩いたが、事故も無く終えられてよかったが、これは実に危険なことである。昨年6月から9月に熱中症で救急搬送された人は5万8千人強、そのうち65歳以上が2万8千人弱と5割近くを占めたという。3人とももう十分に高齢者である。全く迂闊だったと反省している。




2014/07/24(Thu) (第1976話) 夫の身勝手 寺さん MAIL 

 “●夫はテレビドラマ「軍師官兵衛」を見ているが、よく勘違いして「軍兵衛」と言う。ある時「それ、だあれ」と笑ったら「おまえは軍兵衛も知らんのか」と、ばかにした。ばかはそっちよ。(笑われ者の夫の妻・65歳)
 ●いつも私に反対ばかりする夫。「人気のトンカツ店に行こう」と言ったら「嫌だ。選べる店がいい」。仕方なく一緒に食堂に行くと、夫の注文はトンカツだった。素直じゃないのね。(あまのじゃくの夫の妻・69歳)
 ●平日に外出すると、夫は決まって「どこへ行っても年寄りばかりだ」と文句を言う。でもあなたも七十二歳よ。いいかげん自覚したら?(若作りする夫の妻・67歳)
 ●メタボな夫の□癖は「何事も人のせいにするな」。でも先日、体重を量った後で「おまえが一緒にウォーキングしてくれないから、やせないんだ」とぼやいた。あれれ、普段言うことと違うじゃない。ウォーキングくらい一人で行ってよ。(歩かなくてもスリムな妻・43歳)”(7月9日付け中日新聞)

 久しぶりに「つれあいにモノ申す」からです。男の身勝手な話を選んで載せたのだろうかと思うくらい、見事に4話が並ぶ。第1話についてボクは、官兵衛、半兵衛が時折分からなくなる。第3話について自分を老人の中に入れていない、ボクも全く同じである。第4話についてはまだ40代である、さすがなかなかいい。それとなく妻と歩くことを要求しているのである。愛情である。でもはっきり言わないところはやはり素直でないか。
 3話が60代後半と自分と同じである。男がまだ意地を持ち、そして少し衰えてきて適切な判断も怪しくなる、こんな話はいくらでもありそうな気がする。ボクも犯している気がする。「他山の石」とすべきである。




2014/07/22(Tue) (第1975話) 大小の目標 寺さん MAIL 

 “人生は、目標を持って生きることが大切だと思います。私は常に大きな目標と小さな目標の二つを持って生きてきました。
 大きな目標だけだと、なかなか達成できず、途中で心がくじけて挫折してしまう恐れがあるので、小さな目標に到達することによる小さな達成感を味わいながら、大きな目標に向けて努力をしてきました。この方法は、自分の人生を充実させるのに少なからず役に立ったような気がします。私は凡人なので、能力豊かな人たちのように目立った社会貢献はできませんでしたが、無為に年を重ねるのではなく、目標に向かって努力をすることで、自分をレベルアップさせることはできたと思います。個々のレベルアップが集約して人類のレベルアップにつながると思うので、ほんの少しは貢献できたのかなあと自己満足しています。
 人生の終盤を迎え、体力も知力も衰えてきましたが、命が尽きるまでレベルアップを心掛けて生きていきたいと思います。”(7月8日付け中日新聞)

 三重県伊勢市のパート・船谷さん(男・68)の投稿文です。確かに良い知恵である。船谷さんはそれを実践してみえたと言われるから立派である。遠くの大きな夢と近くの小さな夢、それをうまく兼ね合わせてくじけない状況を作り、共に達せしていく。そして、命つきるまでレベルアップを心がけて生きたいとは更に立派である。「私は凡人なので・・・」と卑下されているが、このように言えると言うことはもう凡人の人ではない気がする。ことは違うがボクもよく言っている。僕ら凡人は小さなことを続けること位しかできない。でも続けていけばもう凡人では無い。続けると言うことはそれ程に難しい、とうことを例えて言っているのである。この「話・話」はもうまもなく12年2000話である。まだ凡人の域を抜け出さないだろうか。




2014/07/20(Sun) (第1974話) つなびの思い出 寺さん MAIL 

 “昔は春蚕、夏蚕、秋蚕と、養蚕を年三回行いました。農家にとって蚕の繭は貴重な収入源でした。しかし、田植えや畑仕事と重なって多忙を極め、猫の手も借りたいほどの毎日でした。
 父は大きなかごを腰につけてはしごを上り、桑の葉をもぎ取るのがとても上手でした。子どもは枝が揺れて「つなび」(桑の実)が落ちるのを下で待ち構えました。父は枝を思いきり揺すっては色づいた実を落としてくれました。赤紫色に熟した実はイチゴのような味がしておいしく口元を汚しながら食べました。
 幾つかの大きなかごに詰め込んだ桑の葉を大八車に載せて家に運び、蚕に与えました。蚕が一斉に桑の葉を食べる音は、まるで夕立の雨音のようでした。たくさん食べて早く大きな良い繭を作ってくれるのが楽しみだったので蚕の世話も苦にならず、私は養蚕が好きでした。
 貧しかった昔は、子どものおやつは大自然からの頂き物ばかり。いつ、どこに、何か実るかみんな知っていて、子守をしながら誘い合って出かけ、背負った子にも食べさせたものです。自給自足の遠い昔を思い出し、現在の幸せに感謝しながら、貧しさからもらった温かい心をいま一度かみしめています。”(7月8日付け中日新聞)

 岐阜県郡上市の松井さん(女・83)の投稿文です。ボクの地方も蚕の産地であった。しかし戦後生まれのボクにその記憶はほとんどない。戦後にはなくなっていた。ただ桑の葉を敷くための大きな竹製の籠があったことと畑にいくらかの桑の木があったことは覚えている。そして口を紫に染めながら桑の実を食べたことも覚えている。つなびと呼ぶのは知らなかった。
 松井さんは「貧しかった昔は、子どものおやつは大自然からの頂き物ばかり」と言われるが、まさにそうであった。貧しい農家ではほとんど自給自足、食べ物を買うことはほとんどなかった。子供のおやつともなればよりそうである。ボクの家もその典型であったろう。サツマイモにサトの木、サトの木は砂糖キビのことである。いずれも保存しておいて長期間食べる。コウセキウリにスイカ、ナスやキュウリもおやつになった。ボクの家は残念ながら柿やブドウなど木に成る実は無かった。松井さんは「貧しさからもらった温かい心」と言われる。うまい表現である。でも本当にそんな心があったろうか。否、考えて見ると確かにある。豊かに育った人には無い心が確かにある。




2014/07/18(Fri) (第1973話) もらった育児用品 寺さん MAIL 

 “八ヵ月の息子と梅雨空を見上げ、ふと昨年のこの時期のことを思い出した。引っ越して半年、友人がいない地で初めての出産準備に頭を抱えた。何を用意すべきか迷い、タウン誌に「ベビー用品を譲っていただけませんか」とすがる思いで投稿。予想に反して複数の返信をいただいた。
 慣れない道を運転し、お宅にうかがうと「朝から洗って干しておいたの」とピカピカのベビーバスを用意してくださったご婦人、女の子が「おうちでとれたの」と自家栽培のトマトも一緒に渡してくれたご家庭もあった。たくさんのご厚意に触れ、不安でいっぱいだった心が温かくなった。この地で子育てをしていく自信が少しずつわいてきた。
 いただいた物は新品同様ではないが、傷やシミはかってそれが懸命に使われた証しとして、育児に奮闘する私を勇気づけてくれる。私もまた、次の人にバトンタッチできるよう、大切に使っていきたい。”(7月9日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の主婦・清水さん(29)の投稿文です。ただでさえ不安な出産に、見知らぬ人の地で不安はいかばかりであったろう。経済的なこともあったろう、タウン誌に育児用品を求めた。沢山の親切な反応に感謝と自信が湧いた。さすが日本、良い国だ。清水さんは閉じこもっているばかりでなく働きかけられた。そしてこのように感謝の投稿もされた。この姿勢が大切だと思う。行動すれば道は開かれる。
 育児用品は使う時期も短い。痛まないうちに用途が終わってしまう。近くに身内がいれば使い回しをする。経済的であるし、用途のなくなったものの置き場所にも困らない。ボクの家など近くに娘が二人いて、その典型であろう。4人の孫の用途を終えて、また家に戻ってきたものもあるのではなかろうか。




2014/07/16(Wed) (第1972話) 古時計の修理 寺さん MAIL 

 “梅雨の晴れ間、東京・立川から娘がやってきた。目を輝かせて「お母さん、開けてみて」。花柄のハンカチの中から、あの腕時計が現れた。
 60年前、山形から東京に出てきた主人が安い給料の中から買ったスイス・テクノス製の時計だ。直径3センチほどの時計盤は飾り気がなくシンプルで、風格がある。主人の腕から、やがて私の腕に寄り添った。楽しかったことも心がしぼむようなことも、静かに吸い取って時を進めてくれた。
 ところが5、6年前、動かなくなった。あちらこちらへ修理をお願いしたが、断られ続けた。諦めかけたころ、娘から家の近くに古い小さな時計屋さんがあると聞き、望みを託した。
 ぜんまいを取り寄せ、分解して掃除し、丸いガラスを取り換えてくれて、2週間で見事によみがえった。ピカピカになり、秒針が滑るように動いている。うれしくて、いとしくて、思わず抱きしめてしまった。
 命を吹き込んでくださった初老の時計屋のご主人さま。今の時代の貴重な方です。私にとっての腕利きの無形文化財と認定したい思いです。感謝で胸がはじけそうです。ありがとうございました。”(7月3日付け朝日新聞)

 東京都東久留米市の主婦・新野さん(78)の投稿文です。故障した愛用の時計が修理できた、嬉しいことであろう。それもご主人思い入れの時計である。ご主人愛用から、亡くなると自分の腕にはまった。それだけに修理したかった。娘さんも気にかけておられた。こうして夫婦の思いは続いていくのである。さて安物買いの我が夫婦に思いを伝える品物はあるだろうか。思い着かない。
 このように最近は何事に付け修理できる技術職人が減った。昔の技術が生かされない物も多くなった。修理するより買い換えた方が性能もよく、費用もあまり変わらない物が多くなった。故障したら終わり、そんな風潮である。これでは技術職人は生計が成り立たない。減って当然である。高齢の職人さんがいなくなるとすべて終わり、そんな時代が近づいている気がする。これが輸出産業まで及び、技術立国の日本ではなくなることにもなる。円安になっても貿易収支は赤字である。人口も減っていく。日本はどうなっていくのだろう。




2014/07/14(Mon) (第1971話) 夫の一人旅 寺さん MAIL 

 “「おはよう 今日も元気です」。毎朝7時に夫からくるメール。夫は今、念願だった車中泊の旅に出ている。5月1日にわが家を出て2ヵ月。東北をまわり、今は北海道へ。
 去年、半年以上かけて車中泊できるようにとベッドや折りたたみ式のテーブル、収納棚などすべてを手作りで完成させた。その出来ばえは見事なものだ。
 この年、思いがけず自身の入院と手術、そして95歳の母との別れがあり、元気なときにやりたいことはやろうと思ったのだろう。体調もすっかり元に戻り、それからは毎日毎日、.念願の車中泊に向けての作業が始まったのである。
 留守番の私はといえば、朝晩のメールや毎日更新される夫のブログを見て、一緒に旅をしている気分とまではいかないが、結構楽しんでいる。知らない人から親切に声をかけられることも多く、普通の観光旅行では決して味わえない人のやさしさを感じる旅になっているようだ。節約旅なので地元のおいしいものも我慢することが多いらしいが、自然と人とのふれあいが十分ごちそうなのだろう。「お盆までには絶対帰って」と言ってあるけれど、ちょっと心配である。”(7月1日付け朝日新聞)

 埼玉県深谷市の主婦・茂木さん(59)の投稿文です。手作りのキャンピングカーで長期一人旅である。少し意欲旺盛な定年後の男のやりそうなことである。ボクの知り合いで定年後ヨットで気ままな一人旅をしている人が幾人もある。同じようなものである。悪いことではない。自由な時間を持った人の一つの選択肢である。本人は楽しくて仕方がなかろうが、家で待つ人は心配もあろう。だが、茂木さんは楽しんでいる。最近は軽自動車でキャンピング車まがいの物が人気があるという記事が出ていた。
 残念ながらボクは車はあまり好きではないし、ヨットは乗れない。それに1ヶ月も全く自由に過ごせることは、動けなくなったらあるかも知れないが、体が動く間はないだろう。そう考えると少し羨ましくもある。ボクには学生時代、自転車で日本ほぼ半周した実績がある。その素質はある。少しの期間なら考えられる気がする。




2014/07/12(Sat) (第1970話) にわか雨 寺さん MAIL 

 “何の前触れもなく雨が降りだすと、私は達い昔、国民学校に通っていたころの雨の日のことを思い出します。雨が降りだし、学校の下校時刻になると、廊下が気になり、何度も何度も廊下を見ました。
 そして、何度目かに廊下に視線を向けた時、私の目に映ったのが、母の姿でした。年が離れていた私の兄の子をおんぶした母は、私と二人の姉の分の傘を持って廊下に立ち、私を探していました。恥ずかしい気持ちとうれしい気持ちが交差して、顔がほかほかしました。
 母は私に姉たちの分も渡すと、大きな番傘をさして帰っていきました。番傘はとても大きかったので母が小さく見えたことを覚えています。
 私たちの傘は今のようにきれいな色ではなく、黒い色ばかりでした。うれしい気持ちで姉たちに傘を届けて教室に戻ると、友達が寄ってきて「いいなー。お母さん、傘持ってきてくれたの」と口々に言いながら、私の背中をたたきました。とても自慢のひとときでした。私はこうした思い出を持っており、とても幸せに思います。「お母さん、ありがとう」”(7月1日付け中日新聞)

 三重県四日市市の洋服店手伝い・小津さん(女・81)の投稿文です。母親が学校へ傘を持って迎えに行く、心配だっただけにその姿を見たときにはホッとすると共に嬉しいことである。ボクがこの文を見て不思議に思ったのは、この文を投稿された方が81歳の方と言うことである。81歳になっても小学校時代の母親のことを投稿しようという気になる、これは母と娘の結びつきなのか、父と娘、父と息子だったらどうだろうか。いろいろな場合があると思うが、母親と娘の結びつきは一番強い気がする。ボクは娘二人だけに、いつも疎外感を感じている。
 そしていくつになっても親は親、子は子の心情である。子供が年齢的にも一人前になり、親が高齢になれば逆転してもよかろうと思うが、そうはならないのである。こういうことを思う親だから、受け入れられないかも知れない。




2014/07/10(Thu) (第1969話) 楽しすぎるレジ係 寺さん MAIL 

 “ずっと就きたいと思っていた仕事があった。スーパーの食品レジ係。若かりしころは、サービス業は家庭・育児との両立は無理、と諦めていた。しかし、いい年になり、侮いのない人生をと応募した。
 世の中は甘くない。ものの見事に振られるばかり。十数社受けてもすべてペケ。それもそうだろう。年が年だし、レジも未経験。私が人事担当者でも、不合格にするだろうなと思っていた。でも、拾ってくれる奇特なスーパーが現れて、跳び上がらんばかりにうれしかった。新店舗オープンでよほど人数が足りなかったのか、「貴社の株主です」というアピールが功を奏したのか。理由はどうでもいい。引っかかればこっちのものだ。でも好きと上手とは別物らしく、レジの操作を覚えるのに人の5倍の時間はかかった。
 それから2年がたった今も、レジは楽しい。友人、身内に何かそんなにおもしろいのと不思議がられるが、楽しいのだから仕方がない。いつも笑顔で、親切な接客をと心がけている。これからも年金の繰り下げ受給を目指して、働ける限りレジに立ちたい。”(6月28日付け朝日新聞)

 岡山市のパート・高橋さん(女・58)の投稿文です。楽しすぎるレジ係、ここにも元気な女性がいた。レジ係が楽しいなんて、普通には思えないだろう。お金のことである、1円も間違えられない、気を使わねばならない。そして頭を下げ、立っていなければならない。お金をもらうためにやむを得ないという人が多かろう。それが楽しいとは、分からない。本人もあまり分かっていない気がする。多分、社会に役立っているという意識、無駄に時間を過ごしていないという気持ち、人と接触する楽しみ、お客さんの嬉しそうな表情を見たとき・・・・多分いろいろあろう。高橋さんはそういうことに喜びを覚える人なのだ。何回も挑戦しての就職、覚えるのに人の何倍も努力、これだけでも凄い。
 ボクが行く近くのホームセンターはあまりに広く、捜し物がどこのあるか分からない。そこでボクはすぐ聞いてしまう。先日も商品を整理している人に聞いたら教えてくれたが、その場所からは非常に遠いところであった。礼を言ってその場所近くへ来たら、ボクを呼ぶ声がする。先ほどの人が間違えたらいけないと思って、追っかけてきてくれたのである。嬉しかった。多分その人は、高橋さんのようにやり甲斐を持って仕事をして見えるのではなかろう。同じことをしても、楽しいか楽しくないかは心がけ次第だと思う。




2014/07/08(Tue) (第1968話) TGK48に落選 寺さん MAIL 

 “私は見事にオーディションに落ちました。始まりは4月、高齢者のヒップホップダンスユニット「TGK48」(多治見・元気・高齢者の頭文字)メンバー募集の広報を目にしたことでした。
 ヒップホップダンスは若者の踊りということしか頭にない私は、ずいぶん迷いました。でも、この募集が私を変化の道へ連れて行ってくれる−。そんな気がして、四十数年間リズム体操を公民館で習い続けた経験も後押しし、一歩前へ踏み出しました。
 応募者は68人。74歳の私は年齢が上の方でしたが、最高齢は78歳でした。5回あった全体練習ではこれまで聴いたこともなかったマイケル・ジャクソンの曲にあわせて踊り、テンポの速い動きに慣れようと自主練習も重ねました。
 そして運命の6月2回目の練習。5人ずつ前に出て踊り、用紙に良かった人の名前を2人書く方式などでメンバーが決まりました。「私の動きは柔らかい」とひそかに手応えも感じていましたが、落選。ショックは大きいです。でも、新しい世界を教えてもらい、モチベーションがあがりました。挑戦した自分をほめたいと思います。”(6月25日付け朝日新聞)

 岐阜県多治見市の堀井さん(女・74)の投稿文です。74歳でヒップホップダンスに応募である。そして、落選して非常に悔しがっている。何歳以上の募集か知らないが、何とも元気な高齢者の行動には驚きである。特に女性は凄い。ボクも元気と思っているがとても太刀打ちできない。これは本人にとっても社会にとっても非常にいいことである。
 もちろん体調も環境もあろうから、すべての人に要求はできないが、しかし条件の整った人には是非この意欲、元気を見習って欲しいものだ。条件が整いながら引っ込むのは社会的損失である。こうした趣味ばかりではなく、ボランティアでも低賃金で働くのもいい。何をしていいか分からない、と言う人もあろう。求めよ、さらば与えられん、である。




2014/07/06(Sun) (第1967話) 歩車分離信号 寺さん MAIL 

 “最近、よく利用する交差点の歩行者用信号機が青になると、車の信号機が全て赤になって車が停止する仕組みに切り替わった。ある時、歩行者用が青になったので渡ろうとすると、車が直前を横切った。すぐに気がつき、避けたからよかったものの、一歩間違えればはねられるところだった。私も当初は間違えたが、車の運転者も信号が切り替わったことを知らずに、交差する道路の側の信号が赤になったので、習慣で車を発進させたのだろう。
 交差点には切り替わった旨の看板が立てられているが、運転する人には見づらい。もちろん、目の前の信号をきちんと見て運転することを徹底させることも大切だが、同時に交差点の信号が歩車分離式であることが分かるようにすることも必要だと考える。
 交差点内を黄色などの目立つ舗装にすることなどが考えられる。最近、このような信号機が増えており、うれしいことだが、一刻も早く手だてが講じられることを願う。”(6月26日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の松下さん(男・66)の投稿文です。ボクもこの危険性については以前から感じていたので取り上げた。最近信号機のシステムがいろいろになっている。その交差点の状況に合わせての工夫と思うが、分かりにくい。この歩車分離信号は昔のスクランブル式である。ところが斜め横断の表示がしてないので、分かりにくい。また歩行者用の信号ボタンを押さないと青にならないところがある。自然に切り替わると思って待っているといつまで待っても変わらない。道路を歩くときは気を使って歩けと言うことだろうが、様々になって分かりにくくなっているのが現実だと思う。過渡期とは思うが、分かりやすくもう一工夫して欲しい。
 「交差する道路の側の信号が赤になったので、習慣で車を発進させた」とあるが、ボクも実際に出合ったことがある。でもこれは明らかに運転手が悪い。自分の見るべき信号機を見ていないのである。信号無視である。でもこうした運転手は多い。信号機だけに頼らず、回りの状況をよく見て判断することが一番重要である。人は何をそんなに急ぐのか、何秒を争うほど密度の濃い生活をしているのか、考えると不可解なことばかりである。先日、ボクは横断歩道で横断者があったので車を止めた。ところが対向車は誰も止まらない。結局対向車の20台以上もの車が切れるまで横断者は待っていた。アメリカへ行ったとき、横断歩道付近でウロウロしているだけで車が止まってしまう。これはいけないと反省したが、違いが大きすぎる。




2014/07/04(Fri) (第1966話) 観戦後のごみ拾い 寺さん MAIL 

 “サッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会で、日本は惜しくも初戦のコートジボワール戦は敗れ、二戦目も引き分けに終わりました。日ごろはサッカーに関心のない私も残念なので、ファンにとっては、さぞ無念だったことでしょう。ましてや現地まで応援にかけつけたサポータ−の皆さんは、どんなに残念だったことかとお察しします。
 しかし、素晴らしいニュースを目にしました。初戦の後、サポーターの方々が観客席のごみ拾いをされたというのです。負けたチームのサポーターの心情としては、なかなかできることではありません。私は善戦した選手たちとともに、このサポーターの皆さんも称賛したいと思います。サッカーに限らず全てのことで、このサポーターの方々の行為を見習いたいものだと思います。”(6月21日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の高橋さん(女・78)の投稿文です。日本のW杯は早々に終わった。しかし、コートジボワール戦が終わった後、日本人サポーターが観客席のごみ拾いをしたことが「結果に満足していなかったにもかかわらずごみを拾い、教育と民度の高さを示した」などと世界で広く報道されたようだ。高橋さんの投稿文もそれを賞賛したものである。誰かの発案であったろうが、よかったと思う。
 さてごみの放棄について、日本人は本当に褒められたものであろうか。非常に疑わしい。自分達の回りにごみだらけの場所は結構多い。こうしたニュースをきっかけに更に日本人の道徳心が高まることを願いたい。世界で賞賛され、もう恥ずかしいことはできない。




2014/07/02(Wed) (第1965話) 父なき父の日に 寺さん MAIL 

 “夕方のウォーキングでふと見上げた空に浮かんだ雲の形が父の横顔に似ていて思わず立ち止まって手を振りそうになった。「おーいお父さん、久しぶり」。父が好きだった水色の空が見る見るうちにオレンジ色に染め上げられ、「元気にしてるかい?」と父がほほ笑み返したような気がした。
 亡くなるまでの数力月、この地、タイで一緒に暮らした日々は毎朝、父が緑茶をいれることに始まった。沸騰した湯が60度ほどに冷めるまで待ち、茶葉に注ぐ。深緑の色と香りを味わう静謐な時間。仕事に向かう前に気持ちを落ち着けなさいとの戒めだったと思う。今、私の習慣となっている。
 子どもの頃、我が家の食事担当は料理の得意な父だった。父がこしらえる晩ご飯は色彩に気を配った季節感あふれるもので、何よりもおいしかった。中学生になった私が台所に立つようになったとき、「調理はその料理を食べる人の喜ぶ顔を思い浮かべることから始めるんだよ」と言った。父が残した様々なことばや形にならない思いは、心をこめて人やものに向かうということだった。3回目の父なき父の日を迎え、父との日々を懐かしく思った。”(6月19日付け朝日新聞)

 タイ・ノンタブリーに住まわれる教員・中町さん(女・58)の投稿文です。ボクも娘にとっては父である。ボクの父と中町さんの父とは大違いである。父が娘のために茶を入れる、子供達のために料理をする、ボクには全くできないことである。沸騰した湯が冷めるまで待つ、と言うことも知らなかった。自分なりに父親の役割は十分に果たしているつもりだが、本当にそうだろうか。ボクが亡くなって何を思いだしてくれるだろう。考えてみると非常に心もとない。
 「亡くなるまでの数力月、この地、タイで一緒に暮らした」とあるので、日本で暮らしていたお父さんを、中町さんはタイへ呼び寄せられたのであろうか。こうした記事を読むと、日本も本当にグローバルになったものだと思う。世界と仲良くしていかないと、どこかで泣く人がいることになろう。


 


川柳&ウォーク