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第120号  2014年4月

2014/04/29(Tue) (第1937話) 身辺整理 寺さん MAIL 

 “今年8月に還暦を迎える妻が正月に「今年こそ身辺整理をするわ」と抱負を述べた。私もかねがね思っていたことなので賛成した。医療の進歩により平均寿命が延びる一方で、認知症の増加が社会の深刻な問題になっている。また、旅行中、不慮の事故で死に見舞われるかも。
 その時に困るのは実家の片付けをしに来る子ども。息子一家は遠い岡山県に暮らし、仕事を持ち、孫は幼稚園に通っていて、遺品の整理と処分にかける時間も労力もない。親が子どもの負担を減らす「終活」をしておくことは必須だ。
 手始めに、暑くなると外の作業がしづらくなるので物置を片付けた。足の踏み湯もないほどたまっていた、まだ使えそうな物を思い切りよく町のリサイクル施設へ運んだら見進えるほどすっきりした。
 次は、解約などが必要な通帳や書類などをまとめ、分類する身辺整理。これは結構面倒な作業になると先延ばししていたら、妻が転んで上腕を骨折して入院してしまった。私は支払いに必要な預金通帳はどこにあるかと探し出すのに四苦八苦。困るのは子どもより先に私だった。完治したらすぐに作業に着手せねば。”(4月9日付け朝日新聞)

 岐阜県北方町の安藤さん(男・64)の投稿文です。身辺整理の話は過去にも取り上げている。最近は「断捨離」とか言って、いろいろ捨てる話は多い。あまりに豊かになり物が多くなりすぎたせいであろう。ダイエットと同じように全く不可思議な話だ。世界人口の9割の人にとっては不謹慎な話にもなろう。という話は外に置いておいて、ボクもご多分に漏れずである。特に僕ら世代の人までは物のなかった時代に育ち、大切に扱ってきた。それだけに一度手に入れるとなかなか捨てられない。ボクの家は農家で比較的広く、二人だけの生活になった今は物の置き場所に困らない。捨て物が何かの折りに捨てなければよかったという経験があるとより捨てられない。ボクなど物を工夫して活用する方なのでそんな経験ばかりである。だから整理をしたがる妻に、無理に整理する必要はない、と言っている。でも子供には困らないようしておく必要はある。特に預金や保険、書類の整理は必要であろう。捨てなくてもいいから、ボクがいなくなったらは捨てていいものと捨ててはいけない物の仕分けも必要である。暇になったらと思いながらなかなか手につかない。これがボクに限らず普通の人であろう。




2014/04/27(Sun) (第1936話) 畳の香り 寺さん MAIL 

 “私の祖父は、畳店を経営し、父もそこで畳職人として毎日何枚もの畳を作っています。家が畳店ということで「畳っていいよね!」「においもいいし、いいね!」と友達にほめられたことが何度かあります。
 しかし、私は生まれたころから畳のイグサのにおいを嗅いできているため、畳のにおいがあまり分からないし、「畳イコール古い」と思っていました。
 その考えが変わったのは中学三年の時です。私の家に米国から女の子がホームステイに来ました。その子が部屋に入った時、畳を見て「これが日本の畳ね。とてもいいにおいね!」と言ったのです。畳は日本特有のものであり、フロ−リングを使用することが多い今の世の中で大切にしていかなければならないんだと、私は気づかされました。
 今は自分の家が畳店であることを誇りに思っています。そして、いろいろな物が洋風化する中で畳を大切にしていきたいです。”(4月8日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の高校生・柴田さん(女・16)の投稿文です。日本文化は欧風化でいろいろ捨て去れていく。それを外国人の言葉によって見直されることが多い。柴田さんは畳によってその良さを知られた。畳はいい、ボクも好きである。畳のない家でボクは過ごせないだろう。床にゴロンとなれない家には住めない。座り込んだり寝転ぶのが難しい娘の家に行ってもすぐ帰ってきてしまう。
 日本ではフローリングの家でも床の座り込んだり寝転べるように絨毯など引いている。寝転ぶなら畳の方がいい。ベットや椅子のない畳の部屋は同じ部屋が何にでも使える。食堂にも居間にも寝室にも、全く多目的に使える。もちろん洋室にも良さはあろうが、畳の和室をもっと見直した方がいい。




2014/04/25(Fri) (第1935話) 妻を怒らせた一言 寺さん MAIL 

 “介護老人保健施設に入所している実母を妻は毎日のように見舞っている。今日も洗濯した衣類を一抱え、いそいそと出かけていった。そして、帰ってくると開口ー番、係の人が「おばあちゃん、妹さんがみえましたよ」と言ったと告げた。憤懣やるかたない様子で機嫌がすこぶる悪い。
 義母は98歳、妹に間違えられた妻は72歳。絶対あり得ないとまでは言えないのではないか。義母も妻も白髪で、毛づやに多少の差はあるが、よく見なければ分からないほどだ。顔形も、太った体形も似すぎていると言ってもいい。姉妹に間違えられても仕方がない。どちらも高齢者で、姉妹でも親娘でもそんなに大差ないと私は思ってしまった。しかし、妻には屈辱的な言葉として突き刺さったようだ。
 私は笑い話程度に軽く聞いていたが、事は穏やかではなさそうだ。うかつなことを言えば、妻の機嫌をますます損ねる。私は困った。妻の自尊心を癒やすすべが見つからないのだ。罪なことを言ってくれたものだ、と施設の人を恨みつつ、女性はいくつになっても若く見られたいようだと内心苦笑していた。”(4月6日付け朝日新聞)

 愛知県岡崎市の山本さん(男・72)の投稿文です。ただの見かけの話です。男性には笑って済ますような話でしょうが、女性にはそうはいかないようだ。いつまでも若く見られたい、そのための努力をする。化粧ばかりでなく、姿勢や生き方にまで気を使えば好ましいことであろう。相手は何の疑いもなくそのように思われたのである。この歳になると20歳くらいの違いは分からないことも多くなろう。親子が姉妹に間違えられるとは、親が若いと言うことでもある。親のために喜んでもいいのではなかろうか。
 しかし、女性とは男性には理解不可解な性だ。理解不能なものと思っていた方が間違いがない。男のボクは勝手なことを言っている。




2014/04/23(Wed) (第1934話) 幸福の硬貨  寺さん MAIL 

 “私はチェコに一年間、留学していた。まだ言葉が十分に話せないころダンスパーティーが開かれ、ペアになった女性に手作りのアクセサリーを渡すことに。どうしようかと悩んだ末、持参していた何枚かの五円玉をピカピカに磨き上げ、ひもを通して簡単なネックレスを作った。
 当日はそれを見て初めて話し掛けてきた人もいたほど、思いがけず皆に評判が良くてびっくり。理由は、世界では穴が開いた硬貨が珍しいからだった。ほかの硬貨と違って漢数字しか書かれていないのも、興味を呼んだのかもしれない。
 本当は「日本ではご縁がありますように、という願いを込めるときもある」と伝えたかったのだが「幸福の硬貨なんだよ」と伝えるのが、当時の語学力では精いっぱいだった。いま思えば、この五円玉ネックレスがきっかけで仲良くなれた人もいるので、やっぱり効験あらたかだったんだと思っている。”(4月16日付け中日新聞)

 愛知県みよし市の大学生・高田さん(男・19)の投稿文です。続いて小銭の話になった。5円玉でネックレスにする。外国では穴あき硬貨はないと言うことで注目された。まさにお金は使いようである。外国旅行では5円玉を持って行くのも1つの知恵かも知れない。
 名古屋に貨幣資料館というものがある。先日は孫を連れて行った。古い貨幣、世界の貨幣はまさに様々だ。貨幣を発明した人間の知恵は凄い。その貨幣をおろそかにしてはいけない。「一円を笑う者は一円に泣く」という言葉もある。五円玉ネックレスもお金であることを忘れてはいけない。消費税が導入されて小銭の価値を知ることになったのは副次効果かも知れない。




2014/04/20(Sun) (第1933話) ためた小銭 寺さん MAIL 

 “私たち夫婦は、いつのころからか、コーヒーの空き瓶やお茶の空き缶などに、小銭をためるようになりました。数年前、宮崎県で口蹄疫が流行して、発生した農場の家畜は全て殺処分されるという過酷な事態となりました。じっとしていられなくなって、そのとき初めて、ためた小銭を寄付しました。それ以来、何か大きなことが発生したときなどに寄付をするようになりました。東日本大震災のときも、全額寄付しました。
 現在は、スーパーなどに募金箱が常に設置されており、買い物で出た小銭を入れられるようにもなりました。ちょっとした心がけで社会の役に立てるものだなと、今日も小銭を空き缶や空き瓶に入れています。
 わが家は、大災害に遭うこともなく、家族も元気にしています。この幸せに感謝して、社会へほんの少しでも恩返ししていこうと思っています。”(4月6日付け中日新聞)

 滋賀県米原市の学童指導員・三原さん(女・57)の投稿文です。こうした貯金箱の話も時折聞く。そして寄付する。小銭を長い間かかって貯めたお金だけに、負担は少ないが大事にしたいお金になろう。だから寄付という思いつきにもなろう。小さいことながら尊い行為である。
 ボクもしようと思ったときがあるが、消費税が導入されて小銭はより必要となった。1円も大切な小銭になった。ボクは長年金銭寄付をしているので、これが金銭についてはすべての免罪符にしてしまっている。




2014/04/18(Fri) (第1932話) 深夜のサイレン 寺さん MAIL 

 “六年前、本欄に「深夜の救急車 周囲に配慮を」という投稿をしました。深夜の救急車の大きなサイレンの音は煩わしいと感じていましたが、あることが起きて、考えが変わりました。
 身内が明け方に倒れて救急車を要請したとき、わが家に近づいてくる救急車のサイレンの音に、焦りが少しずつ消えていき、安心感が増していったのです。深夜のサイレンに、ありがたみを深く感じることができました。そのときから、深夜の救急車のサイレンは 「緊急なるがゆえ」と心から感じられるようになりました。聞こえたときには、隊員の皆さまにも要請された方にも「頑張ってください」と願っています。今回の経験がなければ、サイレンの意味を真に理解できなかったでしょう。ありがとうございました。”(3月31日付け中日新聞)

 岐阜県岐南町の川出さん(男・70)の投稿文です。川出さんは誠実な人である。投稿した文を投稿で修正されている。それも6年も前のことである。体験して反省させられることは多い。
 世の中必要なものでありながら、迷惑に思うものはたくさんある。特に音については多い。しょっちゅう聞かされる人には耐えられないこともあろう。横断歩道の信号音、車の「左折します」と言う案内、電車やバス内でのくどいくらいの案内、こうした救急車がしょっちゅう通る沿道、まだまだ数えればいくらでも出てこよう。歩道の点字ブロックも車いすの人には迷惑に思う人もあろう。注意喚起のものは体験して始めてありがたみを感じるものである。どの程度にするか、万人が納得することはなかなか難しい。ただ弱者に配慮した社会ではありたい。




2014/04/16(Wed) (第1931話) イクジイの単身赴任 寺さん MAIL 

 “「俺が行かずに誰が行く!」。定年した夫が、孫育てをする「イクジイ」として東京へ行ってから1年になる。娘の職場復帰が決まり、当時4歳と1歳の孫たちは、朝7時半から夕方6時半過ぎまで保育園と子ども園で過ごすことに。娘夫婦はベビーシッターの利用も考えていたらしい。
 東京に行く前、夫はこう言っていた。長時間保育の孫たちはかわいそう。しかし、仕事から帰宅し、夕食作りや家事をする娘夫婦も大変だと。同居を勧めてくれたムコ殿の厚意に感謝しつつも、長続きのコツは距離感だと近くにアパートを借り、資格を生かし週3、4日の仕事も見つけた。
 自転車の前と後ろに孫2人を乗せて送り迎えをし、娘夫婦宅の後片付けや買い物、夕食の下ごしらえもする。休みには夕食をみんなにふるまう活躍ぶりだ。
 娘がうれしそうに話していた。ある日、病院の待合室で、下の孫が夫と同年輩の男性に「じいじ、じいじ、本!」と話しかけて、読んでいただいたそうだ。夫の頑張りが、子どもたちを人好きにするのに一役買っているのかな。福島に残るばあばは、じいじをうらやましく思うのであった。あっ、尊敬もしています。”(3月25日付け朝日新聞)

 福島市のパート・佐藤さん(女・56)の投稿文です。ボクも全く尊敬します。こんな生活や人もあるのだ。と言いながら納得している訳ではありません。最近はこの逆のイクバアバはいくらでもあるのです。ボクの知り合いでも何人かいます。バアバが家出して、ジイジが1人残される。これからこそ本当の夫婦生活です。そこに至って1人住まいになるなんて、ボクは許せません。そこまで子供を甘やかす必要があるのだろうか。子どもらには2人でできる生活をしてくれればいいのです。残り少ない老夫婦にそんなことをさせていいのだろうか。こうした例の多くの場合、子供が要求すると言うより、老夫婦が買って出ている場合が多いのではなかろうか。佐藤さんの場合もそうである。本当に良いのか、悪いのか、ボクにはよく分かりません。
 ボクの場合、2人の娘は近くにおり、1人は専業主婦、1人はパートでこんな事には至りませんでした。もし、イクバアバでボク1人残していくようであったら、即離婚です。




2014/04/12(Sat) (第1930話) 庶民の住宅 寺さん MAIL 

 “明治生まれの祖父が建てた家が取り壊されることになった。建てたのは戦後で、部材は質素なのだが、伝統的な田の字形の間取りで、作物を保存する室が残っている。大工の祖父が手直しも自分でしたため、業者による現代的なリフォームもされず、今となっては貴重な建築物であろう。家を見た一級建築士も「残せばいいのに」と言っていたそうだ。
 私としては手直しして興味のある方やNPOの方などに利用してもらいたかったが、傷みが激しく、叔母の意向もあり、今月中には跡形もなくなってしまう。
 武家や庄屋の屋敷など立派な建物は保存されることもあるが、庶民の建物や生活道具などが残るのはまれだ。写真や図面で残すことはできても、日本人の性質にあった生活空間、細かい造作、風通しなどは建物に入らないと体験できない。身近にこういう建物が残っている方は簡単に取り壊さず、何とか残す方法を考えてみてほしい。それは貴重な生活遺産なのだから。”(3月24日付け中日新聞)

 愛知県みよし市の塾講師・深谷さん(女・46)の投稿文です。古い建物の保存、特にそこに人が住んでいる場合は大変難しい問題である。ここ十数年でも生活様式は全く違ってきているし、何十年ともなればもう全く違う。断熱や防音などの構造もある。新しい様式で快適な生活をしたい。歴史的建造物保存地区などに住んでいる人は全く大変だといつも思っている。公共団体などが買い取ればいいが制限が多いだろう。ちょっとした願望だけでは難しい問題だと思う。
 実はボクの住んでいる家は昭和23年築造の木造住宅である。深谷さんの言われる田の字形の間取りである。鴨居は幅38cmもある木であり、梁もむき出し、天井は踏み天井という1枚の板だけでその上に直接乗ることができる。居間と座敷の境の戸は帯戸と呼ぶ板戸である。古い農家住宅を見たことのある人はおおよそ想像できるであろう。昭和57年に大改造したが、居間や座敷はそのままである。ボクの近くの戦後まもなくの住宅はほとんどが建て直された。ボクの家は当時の全く普通の庶民の住宅であるが、もう貴重な住宅になっていると思っている。ボクには非常に愛着があり、住んでいればまだ何十年、否百年以上も持つだろう。子供らはすでに別に住宅を持ち、ここに帰ってくる気はない。住む人を見つけぬ限り、僕ら夫婦がいなくなれば取り壊される運命だろう。何とかならないだろうか。




2014/04/10(Thu) (第1929話) 母という新聞 寺さん MAIL 

 “「母という新聞は、確実に人生欄を読ませてくれたのである。ありがとう」
 1978年3月17日の「ひととき」欄に、当時15歳の私のつたない文章が載りました。高校受験を経ての家族への思い、特に母への感謝をつづりました。押さえで受けた高校に落ち、自暴自棄になった私。母はそんな私を励まし、応援し続けてくれました。おかけで、第1希望の高校に合格できたのです。
 あれから36年。私はあの時の母と同じ年齢に。そして息子はあの時の私と同じ、15歳の受験生になりました。部活や生徒会活動に熱心だった息子は、勉強との両立を図るため、雨の日も雪の日も一駅離れた塾へ自転車で通いました。ただ、学校や塾のことは話したがらず、聞いても面倒そうに短く返事をするだけ。天国への通信手段があるのなら、兄を育てた母に、男の子の育て方を教えてほしいと何度も思いました。
 県立高校の合格発表日、携帯電話にメールが届きました。「合格しました。いままでご迷惑をおかけしました。これからもよろしくお願いします」
 36年前のあの日、新聞を読みながら泣いていた母の気持ちがわかりました。”(3月24日付け朝日新聞)

 千葉県八千代市の主婦・小西さん(51)の投稿文です。ここにも母を慕う文があった。そして「母という新聞」という言葉に驚かされた。15歳の学生が、母親をこんな言葉で表現することに感心した。母は新聞のようにいろいろ教えてくれる存在である。読者が何を思おうが無視しようが新聞は怒らない。母親も同じようにただ愛を尽くす。小西さんのご子息は、キチンとその愛を理解し、高校合格の日に短いメールながらその気持ちを伝えた。これで親子関係は十分である。
 高校受験は、多くの人にとって人生最初の岐路である。僕らの頃の高校進学者は半分ほどであったので、失敗してもそんなに深刻さはなかった。受験勉強もそれ程でもなかった。ボクより20歳近く若い小西さんの頃の高校受験はかなり激しいものになっていたろう。そして今は、少子化なので楽であってもいいが、逆に競争が激化している。いろいろな考えがあろうが、失敗をそれ程悲観的に捉えることはない。まだ人生の最初である。いくらでも挽回できると思う。




2014/04/08(Tue) (第1928話) 会いたい人 寺さん MAIL 

 “ある日、夫とあれこれ本の話をしているうちに、霊媒師の話題になりました。そして、夫が「『今、会いたい人に一人だけ会わせてあげる』と言われたら、誰に会いたい?」と聞いてきたので、すぐに「お母ちゃん」と答えました。
 亡き父たちには申し訳ない気持ちですが、一人にしか会えないということなので仕方がありません。ごめんなさい。夫も、やはり「おふくろ」だそうで、「もう一遍、会いたいなあ・・・」としみじみ話していました。母親の姿を脳裏に映し出したのか、その顔は懐かしさで満たされていました。
 私も母にもう一度会えたとしたら、きっと泣きだしてしまうでしょう。まず手を握って親不孝をわび、家族の話を聞いてもらい、そして何より「ありがとう」と言いたいと思います。この年齢になり、やっと亡き親の思いを推し量ることが少しはできるような気がしています。
 二人の母は、ともに病のため、会話ができない最期でした。十数年前のことです。いつまでも、幾つになっても母に会いたい子どもが二人、ここにいます。そして、自分もそういう母親になれているのだろうかと、ふと考えてしまいました。”(3月24日付け中日新聞)

 愛知県小牧市の主婦・加藤さん(60)の投稿文です。亡くなった人で、もう1度会えるとしたらどの人に会いたいか・・・加藤さんではないが、多くの人は躊躇なく「母親」と言うだろう。2番目以降はいろいろだろうが、1番目は母親にほぼ間違いなかろう。どの人にとっても母親はそれ程に大きい存在である。親になってそれをますます覚えるのである。娘達を見ていても、まず母親と言うだろう。悔しいが、父親とは間違っても言わないだろう。
 さてボクは、天の邪鬼ではあるが、父親と言いたい。父は小さな田舎では存在があった。家庭でも母親より存在があった。それだけにボクはよく反発した。反発の青春時代だったとも言える。それがボクを作った。父親に感謝したい。




2014/04/06(Sun) (第1927話) 貝殻忌 寺さん MAIL 

 “童話「ごんぎつね」で知られる作家新美南吉(1913〜43年)の命日となる二十二日、南吉の出身地の愛知県半田市が、この日を「貝殻忌」と名付けたと発表した。
 太宰治の「桜桃忌」や司馬遼太郎の「菜の花忌」など、文豪の命日は作品や業績をしのぶ文学忌になっている。昨年の生誕百年で高まった南吉への関心を絶やさないよう半田市が発案した。
 「貝殻」は南吉が三四年ごろに手がけた詩。「かなしきときは 貝殻鳴らそ」「風にかなしく消ゆるとも せめてじぶんをあたためん」と、悲しみの中でも美しいものを見いだした南吉の生涯を象徴する代表作。南吉の遺族や教え子らが選んだ。市内の雁宿公園に詩を刻んだ碑があり、市民に親しまれていることも理由になった。(後略)”(3月23日付け中日新聞)

 記事からです。新美南吉は愛知県では大変な人気がある。生誕地の半田市や教師を勤めた安城市では特に大きい。命日を「貝殻忌」と名付け、南吉を偲んでいこうというのは良い思いつきである。大作家の仲間入りした気分になる。昨年は生誕百年でいろいろな行事が催され、更に関心は広まっている。去る3月22日には半田市と安城市が新美南吉記念館で交流協定を結んだという記事もあった。
 ボクも昨年、新美南吉記念館の学芸員の人の話を聞く機会があった。生涯と作品の紹介があった。美智子皇后が南吉を愛読し、広く紹介されている話もあった。いつか一宮友歩会で南吉ゆかりの地を訪ねる機会を持ちたいと思っている。




2014/04/04(Fri) (第1926話) 父の名残 寺さん MAIL 

 “父は地元の中小企業で農機具製造のための型を作る工員だった。退職後は、畑仕事や体力のない母の代わりに買い物などを引き受けていた。11年前にその父が亡くなった後、実家で、机上に置かれた広辞苑が目に入った。「本格的な辞書を使っていたんだなあ」と驚いた。そういえば、父は何かにつけて良いものを欲しがる人だった。
 私はといえば、高校入学の時に買った学校指定の薄い国語辞典しか持っていなかった。拝借し、ぱらぱらとめくってみると、父のにおいがし、父の名残が色濃く残っていた。以前は、改まった手紙を書くときや学校で文章を書くときくらいしか国語辞典を使わなかったが、近年、新聞投稿をするようになり、はからずも父が残した広辞苑で言葉の意味の確認作業を頻繁にするようになった。
 言葉の把握がいかに頼りないものであったかと思い知るとともに、使い続けたためにいつしか父の名残が消えてしまっていたことに気づいた。寂しく思ったが、取り返しはつかない。だが、置物としておくよりも父の供養になるような気もしている。”(3月23日付け朝日新聞)

 三重県桑名市の高校非常勤講師・中野さん(男・61)の投稿文です。辞書を使う生活は、なかなかありそうでないのである。精々手紙であろうが、その手紙を書く機会も少なくなっている。中野さんは投書をするようになってその機会ができた。そして、父親の使っていた広辞苑を使うようになり、そこに父親の名残を覚えられた。親子二代同じ辞書を使う、良い話である。ボクの辞書も何冊かが娘の家に行った。孫が使うためであるが、使ってくれているだろうか。そうだったら嬉しいことである。
 広辞苑のあの厚さと重さに魅力を覚える人もあろう。ボクも使っていたが、今は電子辞書の広辞苑である。電子辞書では父親の名残を覚えることは無理だろう。手軽さは便利な分、喜びは与えられない。




2014/04/02(Wed) (第1925話) 「まみむめも」 寺さん MAIL 

 “三重県警の交通安全の回覧を見ました。五つのスローガンの頭文字は「ま・み・む・め・も」で、「ま」は待つ、「み」は見る、「む」は無理をしない、「め」は目立つ服装、「も」はもしかして、です。車で出かけることが増える行楽シーズンを前に、車を運転するときも歩くときも、何よりの大切なお守りになりそうです。
 焦らずに待つ。左右を指さして見る。無理な追い越しや割り込みを戒める。夜間に反射材を着用して目立つようにする。もしかして飛び出しや無理な車線変更があるかも、という気持ちを持つし・・・私たちがついつい忘れがちな、でも大切な心遣いばかりです。
 運転者も歩行者も心を引き締め、交通安全に努めたいものです。便利な車は走る凶器であることを肝に銘じて。”(3月22日付け中日新聞)

 三重県亀山市の主婦・岡田さん(83)の投稿文です。人生の教訓を語呂合わせというか、こうした五十音を利用したものも多い。過去にか行やた行、な行を紹介した覚えがある。今回はま行で、交通安全のスローガンである。交通事故の原因の多くは無理である。交通事故は加害者にも被害者にも一瞬にして生活を狂わせる。特に近年は高齢者が係わる事故が多くなっている。被害者にならない工夫も必要である。そのための工夫がこのま行の教えである。幸いにボクは交通違反を含め警察沙汰になることは過去に無く、ゴールド免許保持者である。でもヒヤリとしたことは数え切れない。更に注意を深め、交通事故に係わること無く生涯を終えたいものだ。終えねばならない。


 

川柳&ウォーク