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第119号  2014年3月

2014/03/31(Mon) (第1924話) 感謝込め 寺さん MAIL 

 “「私からあなたへの愛です」と、ひと抱えの袋を夫に手渡す。三十数年間続いているホワイトデーの朝の光景だ。普段は地下鉄通勤の夫も、この日はマイカーにクッキーの入った袋を載せての出勤となる。病院勤めの夫の職場には女性が多い。うれしいことにバレンタインデーにはたくさんチョコレートをいただく。その頃から私はクッキー作りの準備を始める。時間のある時に少しずつ生地を作って冷凍しておく。数カ月前からラム洒に漬け込んだレーズンとクルミを入れたロッククッキー、ゴマや抹茶、ココア昧、ハートや星、花をかたどったものなど数種類。
 ホワイトデーの数日前から家事をしながら焼き始める。部屋中に甘い香りが漂い、幸せ感に包まれる。孫たちに送る分も合わせて焼き上がったクッキーは、お菓子工房さながらテーブルの上いっぱいになる。いよいよ小分けしてラッピング開始。最近は100円ショップにかわいい袋がそろっていて、選ぶのも楽しい。
 夫の仕事をサポートして下さる方々への感謝、そして仕事を続けられている夫の健康への感謝。そんな思いの詰まったホワイトデークッキーができあがる。”(3月22日付け朝日新聞)

 福岡市の主婦・小島さん(64)の投稿文です。男性ばかりの職場で過ごしたボクには、経験の無い生活がここにもあった。バレンタインディーにたくさんのチョコレートをもらい、そのお返しのホワイトデーに妻がクッキーを作る。それも30年以上、車で運ぶほどにである。小島さん夫妻には大きなイベントになっている。しかし考えてみると全く不思議な光景である。バレンタインディーは女性が男性に品物を渡しながら好意を示す習慣であり、ホワイトデーはそのお返しである。妻のある男性がもらい、そのお返しを妻が作るとはどういうことであろうか。嫉妬に狂ってもおかしくないのにである。というようなつまらない詮索は置いておいて、小島さん夫妻には良いイベントになっているのである。「私からあなたへの愛です」と、夫に手渡しされるのだから、もう言いようがない。まさに夫婦の信頼関係である。それが職員との交流にも役立っているのである。職員も小島さんからの手作りクッキーを楽しみにしておられるであろう。世は実に様々である。




2014/03/29(Sat) (第1923話) リーダーを務め 寺さん MAIL 

 “私たちの学校には、三年生を送る会があります。私はプレゼント係のりリーダーになりました。最初は「しっかりできるかな。ちゃんと皆をまとめられるだろうか」と不安でした。でも何回か練習していくうちに、不安から自信に変わっていきました。私が指示した通りに、皆が動いてくれると分かったからです。
 本番の日は、合唱も発表もよくでき、プレゼントもちゃんと渡せました。すべてがよくできたから、大成功の会になりました。
 今回、リーダーになって学んだのは、1人で抱え込まず皆で話し合うこと、いろいろなことの積み重ねが自信につながるということです。私はもうすぐ最上級生になります。これからも、積極性を大切にし、責任感を持って行動し、信頼される人間になりたいです。そして、私だけでなく、クラスのみんなで、中学校のスターを目指していきます。”(3月14日付け中日新聞)

 岐阜県七宗町の中学生・古田さん(女・14)の投稿文です。それぞれに能力がある。しかし新しい挑戦があって能力が上がっていく。隠れていた能力を知ることもある。特に若い人には大切なことである。中学生の古田さんは三年生を送る会でそのことを自覚された。自信も持たれたであろう。これからはもっといろいろ挑戦されていくだろう。良い経験となった。
 ボクは先日、来賓として小学校の卒業式に参列した。自分の卒業式以来の卒業式であるから、約55年ぶりと言うことであろうか。驚くばかりであった。厳粛な部分と後は学芸会である。歌と掛け合いの発表である。それも生徒主導によるものである。大変な練習を要したであろう。特にリーダーは大変であったろう。自分の卒業式がどうだったかあまり覚えていないが、講堂もない時代である。ピアノが弾ける人も指揮を執れる人もいない時代である。その時代に比べ、こんな立派な卒業式をして、健全な青年に育たないのはおかしい。卒業式を忘れないようにして頑張って欲しい。




2014/03/27(Thu) (第1922話) 51年ぶりのラブレター 寺さん MAIL 

 “僕の青春時代には携帯電話はなく、固定電話はあっでも個人での所有ではなかったので、通信網といえば封書かはがきだけだった。彼女に伝える恋心も、口頭以外は郵便しかなく、それをラブレターと称した。それをポストには投函せず、友達を介して相手に渡す手もあった。その人のことを「ちょうちん持ち」と呼んだ。そんな思い出が懐かしい。僕も、後に妻となる女性にせっせと手紙を書いては送り、胸をときめかせて返事を待ったものだった。
 その女性と結ばれ、金婚式も終わったけど、結婚してからは妻に手紙を送ったことは全くなく、五十年間、「ありがとう」と言った記憶もない。そんな時、北海道の松前町が「夫婦の手紙全国コンクール」の作品を募集していることを知った。良きパートナーとして五十年間一緒に暮らしてくれたことに対する感謝の気持ちをこめ、「妻、瑞子ヘ!!」と題して一通したためた。
 入選するかどうか分からないけど、こんなチャンスをいだだけただけでありがたく、ラブレターを書くほのぼのとした気分を五十一年ぶりに味わうことができて、とてもうれしく思っている。”(3月18日付け中日新聞)

 岐阜県高山市の農業・谷口さん(男・83)の投稿文です。3月19日の「(第1918話)夫恋しきときは」に通じる話である。夫婦となると、恋人時代とは全く違った行動になる。いくら愛しく思っても毎日一緒に暮らしているのだから当然である。ラブレターなどは必要なくなる。谷口さんは「夫婦の手紙全国コンクール」の募集を見て、51年間忘れていたラブレターを思い出された。そして感謝の気持ちを込めて応募された。この歳になると人間、素直になるものだなあ、と感心する。とかく高齢の男性、特に戦前生まれの男性は素直になることに慣れていない。感謝の気持ちはあっても表には出さない。これではいけないのだ。もう残り時間は少ない。早く素直になろう。と言うボクは先駆者である。数年前にがらりと変えた。




2014/03/25(Tue) (第1921話) 顔なじみ 寺さん MAIL 

 “引っ越しを機に、およそ8年ぶりに車通勤から電車通勤になった。学生時代は名古屋から岐阜まで片道四十分かけて通学した。毎朝決まった時間の電車。車両に乗れば、いつもの位置に見慣れた顔が数人立っていた。顔ぶれはほば毎日同じで、数力月ちたてば妙な親近感がわいた。その中の一人が乗っていない日は、風邪でもひいたのかと勝手に心配した。
 今、車内では大半の人が目線を下に向け、スマートフォンやタブレットを触っている。そのせいか、数カ月がたった今も、乗客の顔ぶれが把握できない。どこかで期待していた親近感がわかない。車内や駅講内の痴漢防止ポスターも増えた。乗客の皆さん、たまには顔を上げませんか。私はここに立っています。”(3月18日付け中日新聞)

 名古屋市の歯科医師・吉田さん(男・29)の投稿文です。電車の風景は全く面白いものである。随想にも書きこの「話・話」でもよく取り上げている。この話もまさにそうである。決められている訳ではないが、毎日同じドアーから乗り、同じような位置に立ち同じ行動を取る。自然に顔なじみになる。しかし何かのきっかけでもない限り、いつまでたっても言葉を交わすこともなく赤の他人である。ボクは週1回くらいトレーニング室に通い、更衣室に入るときには挨拶をするようにしてるが、返事が返ってくることはほとんど無い。こんな場所でもないのだから電車では更に難しい。他人に挨拶や声をかけるのは本当に難しい。でも、内心は吉田さんのような人も多いかも知れない。良い出会いがあるといいのだが。




2014/03/23(Sun) (第1920話) あの時の3円 寺さん MAIL 

 “先日、家電量販店で買い物をした際、レジで値札よりも商い金額を告げられ、一瞬間違いではないかと思った。聞けば、その店では4月からの消費税増税に備え、値札を税抜き価格の表示に変更しているという。
 ある記憶がよみがえった。3%の消費税が導入された頃、小学生だった私は1人で近所のコンビニに牛乳を買いに行った。当時まだ、1人での買い物は冒険にも似た緊張感があり、私は百円玉を1枚握りしめて店に向かった。
 お目当ての牛乳をレジ台に置き、告げられた金額は「103円です」。3円? そうだ、消費税だ。そう気づいたものの、持っているのは百円だけ。頭が真っ白になった。どうしよう?
 家に帰るべきか、それとも家に連絡してもらおうか。私の後ろにはレジを待つ人の列。気ばかり焦った。その時、すぐ後ろにいた女性が3円を無言でスッとレジ台に置いてくれた。急いでいたのかもしれない。女性はもう一つのレジで会計を済ませ、私より先に店を出た。驚いた私はまともにお礼も言えず、レジを済ませて追いかけたけれどそのまま見失ってしまった。あの時のお姉さん、ありがとうございました。”(3月13日付け朝日新聞)

 恵京都の上條さん(女・31)の投稿文です。4月から又消費税が上がる。上条さんのようなトラブルも多くなろう。4月を前に、内税、外税様々になっている。ボクも戸惑うことが多くなっている。両用並記が税の意識も深まり、分かりやすく一番いいと思うが、なぜそうしないのだろうか。税別とだけや、税いくらと書いて合計額が書いてないのは最も困る。上条さんのようなことが起きて売る側も返って面倒なことにならないだろうか。
 前回に続いて善意の話である。上条さんはお礼を言うこともできなかった。3円のことではあるが、いつまでも気がかりである。善意を難しく考えることはないが、あまりへりくだることも無いと思う。




2014/03/21(Fri) (第1919話) 3年前の感謝 寺さん MAIL 

 “3年前の3月11日、JR上野駅は立錐の余地もないほど人であふれかえっていた。病院から埼玉県の自宅へ帰る途中だった私は、閉じたままの改札口の前で、ただ立ちすくんでいた。
 その時、床に座っていた30歳くらいの男の人が、私が座れるよう場所を空けてくれた。不安でいっぱいの私は、彼に一方的にしゃべり続けた。病院からの帰り道であること、ずっと食事ができないと低血糖になってしまうこと・・・。
 夕方になると、男の人は「周りの様子を見てきます。ここにいてください」と言い残して人混みの中を歩いて行った。その後、駅員の指示で私は駅の外へ出ることに。仕方なく移動していると、缶コーヒーと中華まんを掲けてやって来る彼の姿を見つけた。その時のうれしさと言ったら! 寒空の下、ホッカホカの中華まんをほおばり、涙が止まらなかった。おかけで私は体調を崩ずこともなかった。彼はさらに開いているファミリーレストランを探し、私が息子と連絡が取れるまで一緒にいてくれた。
 連絡先を交換し、毎年3月にはメールで近況を報告し合う。いまも感謝の言葉しかない。”(3月11日付け朝日新聞)

 埼玉県川口市の買田さん(女・79)の投稿文です。平成23年3月11日、とんでもない地震に全国各地でいろいろな悲劇やドラマを生んだ。買田さんの思い出もその1つである。駅に人が集中し、大混乱である。誰もが自分の処置に精一杯である。その中で温かい厚意を受けた。生涯忘れられない出来事になったでしょう。動かないでと言われた中で、動かざるを得なかった。でも巡り会えた。どんな状況だったのか、定かには分からないが、でも幸運だったと思う。これも天の配剤だったのでしょうか。人生のこと、紙一重のことも多い。その後も交流があるという。これも良いことだと思う。
 こうした場合、名を明かさない人も多いようだが、これは良心であろうが、恩を受けた人に悔いを残すこともある。人生縁である。買田さんのようにさわやかな交流になることもある。




2014/03/19(Wed) (第1918話) 夫恋しきときは 寺さん MAIL 

 “一般家庭にまだ電話が普及していないころ、恋人たちの連絡手段は手紙だけでした。ポストに入れてから返事が届くまで4、5日。それが待ちきれず、次の返事が届く前にまるで日記のように手紙を書きました。
 生まれ育ったのは、山陰の山奥の集落。町の中心部に1時間ほど歩いて買い物に出かけるのは、月に1度か2度で、その日だけが2人の会える日でした。
 どうしても会いたい時、夢の中で会えるおまじないがある、と彼が教えてくれたのが古今和歌集の一首。《いとせめて恋しきときはぬば玉の夜の衣をかへしてぞきる》これを3回繰り返して唱え、寝間着を裏返して眠るのだ、と。
 あれから60年。夫は3年前に旅立ちました。離れがたくまだ納骨する気にもなれず、毎日お花と発泡酒を供えて、遺影に話しかけながら暮らしています。与謝野鉄幹作詞の「人を恋ふる歌」などを口笛で吹きながら、よく待ち合わせ場所に現れたものです。
 子どもたちは2人一緒に納骨すると約束してくれました。お迎えの口笛が聞こえる日まで、「いとせめて恋しきときは」のおまじないを繰り返す毎日です。”(3月6日付け朝日新聞)

 東京都の川人さん(女・81)の投稿文です。81歳の方からこのような話を聞くとは、何と人生は素晴らしいものでしょうか。募る愛しさを日数のかかる郵便に託す時代。返事が来ない前に次の手紙を出す。和歌のおまじないに託した行為に至っては感動です。そして、それが亡くなっても続く。恋愛時代はもとより、夫婦の時代もその睦まじさが想像されます。愛を本当に大切にされたのでしょう。何か文学の世界の気さえします。現実にこんな夫婦があるのだ。
 僕ら夫婦の結婚も大恋愛に入る範疇だったでしょう。そして40年以上の夫婦生活は大きな波風もなく過ぎてきました。「ここまで来ればいい人生だった、と言えるなあ」と時折話し合いますが、でも、とても川人さんにはかないません。でもかなう方法は、夫婦揃って元気に川人さんの年齢を超えることでしょうか。これはまだ可能性が残っています。それにしても川人さん夫婦は素晴らしい。81歳でこんな文章を投稿できることが信じられない。




2014/03/17(Mon) (第1917話) 忘れてはならないこと 寺さん MAIL 

 “近所の魚料理店へ車で出かけた。駐車場で主人を車椅子に乗せて店内に入ろうとすると、気付いたお店の奥さんがドアを開けて待っていてくださった。店に入ると、車椅子のまま食事ができるようにテーブルをセッティングしてくれた。これらの計らいがとても自然で、ありがたい気持ちでいっぱいになった。
 食事を終え、車椅子を押して車まで戻ると、向かいに止まっていた車がヘッドライトをつけて照らしてくれた。店内で食事をしていた若い男性だった。主人を車に乗せ、トランクに車椅子を収納して私たちが駐車場を出るまで、その男性はずっとライトを照らしていてくださった。私は何度も何度も頭を下げた。
 今までは何も気が付かなかったが、主人が病気で倒れ車椅子を頼るようになってから、周囲の方々の気配りを心からありがたく思うようになった。恥ずかしいことだが、今までの私だったら、こうした気配りは思い付かない。この日は、お店の奥さんや、あの若い男性に大切なことを教わった。忘れられない、そして忘れてはならないことだと痛感した。うれしくて、対向車のヘッドライトが涙でかすんで見えた。”(3月6日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の主婦・伊藤さん(65)の投稿文です。一般には、多くの一般者、正常者を基準に社会は動いている。障害者になれば、障害者を持つ身になれば不便に感じることも多かろう。気づかされることも多くなろう。しかし、豊かになった最近は障害者を受け入れる仕組みも整ってきた。人の意識も変わってきた。このようなことがあって、この2つの出来事があったのかも知れない。伊藤さんのように感謝の気持ちが起こることもあろう。少しずつ社会は良くなっていると思いたい。
 2013年11月26日の「(第1863話)昔はよかった」でも取り上げたが、ボクは今の方が余程いい社会になったと思っている。特に障害者には、まだ十分とは言えないかも知れないが、格段に良くなったと思っている。感謝は感謝を呼ぶ、そんな社会を期待していきたい。




2014/03/15(Sat) (第1916話) 老いの主張 寺さん MAIL 

 “税務署へ行く用事があったので、久しぶりに一人で外出した。持病があるため普段は付き添いの妻が運転する車で出かけるのだが、その日は妻に所用があったため、一人でバスで行くことにした。バスは混んでおり、優先席には若者が座っていた。目が合うと無言で席を立ち、私に譲ってくれた。《優しい言葉をひと言付けてくれるとうれしいのに》と思いながら、お礼を言って座った。私の顔に不満の表情が出たかもしれない。
 税務署の窓口も大変混んでいて、若い係員が一生懸命に整理していた。その係員が「おじいちゃん、待ち時間が長くて大変ですね」と私に声を掛けてくれた。親切な対応はうれしかったが、ついつい「『おじいちゃん』ではなく、『お客さま』と呼ばれるとうれしいんだけど」と言ってしまった。係員は大変恐縮して「勉強になりました」と言ってくれた。
 帰りのバスに揺られながら、行きのバスの中でのこと、そして税務署の受付でのことを思い出し、「老いを主張する自分」と「老いを否定する自分」に少し悲しくなってきた。しかし、今日出会った二人の若者の彼らなりの親切心に、うれしさと感謝の気持ちもわいてきた。”(3月5日付け中日新聞)

 三重県桑名市の伊藤さん(男・71)の投稿文です。「老いを主張する自分」と「老いを否定する自分」、伊藤さんは1日で共に感じられた。本当に身勝手に使い分けていることがある。それに気づかれた伊藤さんはまだいい方で、気づかないことが多い。今の70歳前後は特に難しい。
 ボクはどうだろうか。本人はまだ50歳代と思っている。だから要求することはない。老人扱いされることに違和感を覚えるが、それでもありがたく受け入れることにしている。でも実際はいろいろな所で間違いを犯しているだろう。日々の行動を思うと、正常からだんだん離れていることを感じることが多くなってきた。




2014/03/13(Thu) (第1915話) 一芝居 寺さん MAIL 

 “所用で静岡から水戸へ向かうことになったのは、大雪に見舞われた今月上旬の週末。新幹線のダイヤが大幅に乱れていたので、どうせ遅れるなら、と行き当たりばったりで家を出たが、運良く10分ぐらいしか待たずに乗ることができた。左手に見える遠くの山々は、真っ白に雪化粧をしている。窓側の隣の席は、大学受験で上京するとおぼしき一人の少年。雪が珍しい町から来たのだろうか。スマートフォンを取りだして、車窓から雪景色を撮っていた。やがて、彼はうたた寝を始めた。
 新幹線は聞もなく、富士山に差し掛かった。きょうは格別美しい。彼に伝えなくてー。とっさにそんな思いが巡ったものの、声をかけるのははばかられる。静岡人ではないふりをして、思わず口に出てしまったように小声を上げることにした。「わあ、きれい!」
 むくっと起きた気配に、内心ヨシッ。彼は窓にかぶりつくようにして富士山を撮りまくり、再び眠りについた。私の役目は終わった。中高生の2人の孫も、ちょうど受験の時期。東京駅に降り立った時、私は心の中でエールを送った。祈る合格。”(2月24日付け朝日新聞)

 静岡市の主婦・柴田さん(70)の投稿文です。晴れた日の、特に雪を被った遠くから見る富士山は本当に美しい。これは国籍を問わないだろう。これが新幹線に乗っていて見られるのである。何度見てもいい。折角の機会である。これを見ないという方法はない。柴田さんは隣で寝ている高校生が気になって仕方がない。そこでこの一策である。起こされた方のその後の行動を見れば間違っていなかった。小さなことながら見事な機転である。
 電車の中で爆睡しているかに見える人を見ると、下車駅を通り過ぎてしまわないか、気が気でない。ところがほとんどの人は間違いなく起きるのである。寝ていても降りる駅を意識してるのだろうか。ところが、ボクにはこの頃乗りすぎてしまうことが最近あるのである。これも老化だろうか。




2014/03/11(Tue) (第1914話) 忘れ物探し 寺さん MAIL 

 “昨年9月、「見学者大歓迎」という言葉にひかれ、地区公民館の茶道教室を見学した。先生と生徒5人は女性。和菓子と抹茶を2服いただき、そのおいしさにも感動し、月2回の教室に通うことにした。
 18歳まで佐渡島で育った。順徳上皇や世阿弥などが流刑された地であり、薪能や鬼太鼓などの伝統芸能が今でも盛んだ。しかし、何一つ学ぶことなく島を出た。このことが、いつからか何か忘れ物をしたような気持ちになり、茶道を学ぶ後押しになったと思う。
 教室に通い始めると、正座ではわずかな時間で足がしびれ、作法は習うさきから忘れ、この年齢からは無理だったのかと後悔した。11月半ばに久しぶりに島に帰省し、謡曲を教えている88歳の叔父に「何歳から始めたの」と尋ねた。叔父は「定年1年前の54歳。最初は板張りに正座するのも大変で、詩や節を覚えるのに苦労したが、今は弟子だちと一緒に謡うことが本当に楽しい」と、背筋を凛と伸ばし、張りのある声で答えてくれた。
 叔父の言葉も励みに、この年齢で新たなことにチャレンジした自分を褒めながら、茶道教室でお茶と和菓子を楽しみたい。”(2月23日付け朝日新聞)

 福岡市の会社員・渡辺さん(男・62)の投稿文です。似たような話を結構取り上げているが、やはり取り上げたい。仕残したことを「忘れ物」と言う表現もあるのだ。渡辺さんは仕事一筋だったことに疑問も持っておられたのであろう。60歳を迎え、茶道教室の見学者歓迎の文字に引かれて公民館へ。そして女性ばかりの教室に仲間入りされた。数回前に取り上げた雪解けにも似た話である。始められて半年ばかり、まだまだこれからである。叔父さんの話もある。続けてもらいたいものだ。
 ボクも今忘れ物探しをしている。先日絵手紙の用具を買ってきた。天声人語の書き写しノートも買ってきた。




2014/03/09(Sun) (第1913話) 浅田選手の演技 寺さん MAIL 

 “フィギュアスケートでかつてこんなことがあっただろうか。五輪の魔物に取りつかれ、ショートプログラムではもう絶対駄目だと思っていた浅田真央選手が、フリーでは不死鳥のごとく見事によみがえった。
 夢を見ているのだろうかと思ったが、夢ではなかった。テレビで生中継を見ていると、決められたジャンプを一つ一つ決めるたびに会場は引きつけられていった。歓声が最高潮に達した時、無事滑り終えた。自分の演技をやり遂げた浅田選手の目に込み上げた涙に、われわれも胸を打たれた。
 逆境に打ち勝ち、フリーで自己ベストの得点を出した浅田選手の演技は本当に素晴らしかった。どうやって気持ちを切り替えたのか分からないが、前日の失敗がうそのようだった。無心に滑る姿は、次世代を担う後輩たちに、諦めてはならないという素晴らしい手本を見せてくれたと思う。六位入賞おめでとう。そして感動をありがとう。”(2月22日付け中日新聞)

 岐阜県養老町のパート・川瀬さん(女・63)の投稿文です。ソチ五輪はいろいろなドラマを作って終わった。それぞれいろいろな感慨を持たれたであろう。ボクはやはり浅田選手の演技である。終えた後の上を向いて涙をこらえている姿には、このボクでさえ目尻に涙を覚えた。この姿に感動した声は多い。そして彼女のこれまでの経過や姿を知るにつれてますます感動を覚える。そして葛西選手である。彼を挙げる人も多い。
 続いてパラリンピックが始まった。彼らの熱意、努力は更に凄いものだろう。興奮の後の大会だけに少し熱気をそぐ方も多かろうが、注目していきたいものだ。2つのオリンピックを1つにしたらという意見もある。主催者は大変だろうが、一考をしてもいいことではなかろうか。
 そしてただの観戦者の僕たちはただ結果を喜び憂うのではなく、これまでの努力をもっと知るべきだと思う。オリンピックに選ばれるような人の努力は並大抵ではなく、どの人にも敬意を覚える。否、オリンピックに選ばれなくてもそれを目指す人も似たようなものである。選ばれる、選ばれない、結果を出す、出さない、いずれも紙一重である。しかし、評価は天と地の違いである。メディアは結果を出さなかった人ももっと取り上げてもらいたいと思う。




2014/03/07(Fri) (第1912話) 伴奏者に伴奏されて 寺さん MAIL 

 “知的障害のある次男が成人し、今までたくさんの方にお世話になったので、私にも何か人の役に立てることがないかと考えた。2月9日、大阪市で障害者の伴走者の練習会があることをインターネットで知り、初めて参加した。
 会場の公園に着くと50人ぐらいの方々が集まっていた。たまたま隣にいた同世代の視覚障害者の女性が話しかけてくれて、ペアになることが決まった。ロープを持って伴走(ガイド)するノウハウや段差を口頭で伝えることなど、彼女に1から基本を教えてもらった。
 走り始めて、まずはお互いに自己紹介。走ることが好きというだけでなく、子どもが2人いることや仕事をしていることなど、たくさんの共通点が見つかった。安全に走れるか不安だったが、2時間しゃべりながらゆっくり気持ちよく走ることができた。ただ、ガイドされているのはずっと私の方だった。
 本番の大会では信頼関係がないと一緒に走ることができず、ゴールしたときは個人走とは違った喜びと感激があるそうだ。これからも伴走の練習を続けて、上手になったら大会に出てみたい。それが今の目標だ。”(2月22日付け中日新聞)

 大阪府池田市の公務員・植木さん(女・48)の投稿文です。障害者の伴奏とはここにも知らない世界があった。単に自分だけの喜びに終わらない所がいい。その気になれば活動できる所はどこにもある。一村一品ではないが、ボランティアも一人一行動となれば素晴らしい社会になると思う。そして、それは自分の勉強や喜びにもなることが多い。
 ボクもここ数年地元の大役を引き受けてきたが、来年度からは当分なくなると思う。そこで公民館の端役を引き受けようと思っている。




2014/03/05(Wed) (第1911話) 雪解け 寺さん MAIL 

 “俳句仲間の女性たちは全員が「エーッ」と驚いた。入会して二年になる信吉さんが初めて食事会」に参加するという。新年会、暑気払いといくらさそっても、毎回ボソボソと断られてきた。男性会員には信吉さんと同じ六十代が四人いるのに、だれとも交流しない。終わると一目散に学習室を出ていく。(中略)
 食事会は、学習センターに近い和食の店で開かれた。女性たちは初参加の信吉さんに、配慮しながら話しかける。「うちの女房が」などとしゃべるのを聞くと、「おや、この人にも奥さんがいたのか」と、当たり前のことにみんなでびっくりするのだった。
 その日を境に信吉さんは変身し、先生や他の男性仲間と打ち解けていった。女性たちは「今まで何だったの」とうわさする。つまり頭が柔らかくなるのに二年かかったのだろう。「男には多いの。うちの夫もそうでした」「よかったわ。信吉さんの雪解けね」”(2月19日付け中日新聞)

 作家・西田小夜子さんの「夫と妻のための定年塾」からです。寂しいことながら「男には多いの」は本当であろう。男というのは厄介なものである。勤めていた頃のプライドが邪魔するのか、元々口が重いのか、なかなか溶け込めない。その点多くの女性は全く気安く仲間を作っていく。井戸端会議などは女性の特権である。そしてこのように食事会である。どちらが得か明らかである。でも信吉さんは女性が大半の会に入っているだけでもいい方である。そしてこのように雪解けもあるのである。会社社会から解き放された人は、生き方も転換させねばいけない。ゆっくりでいい、まずはいろいろな会に参加することである。そしていつか雪は溶けるのである。
 ボクはどうか?幸いに若い時から女性が優っている会に参加している。反省すべきところは多々あるが、まずは気軽に応じている。今年度は老人会の旅行5回にすべて参加でき、ボクの町内からはいつも男性はボク1人、女性はいつも5人前後であった。ここまで来るともう達人かも知れない。




2014/03/03(Mon) (第1910話) 活力わいて 寺さん MAIL 

 “六十代半ばの春、「はじめての洋裁教室」を受講した。夫はミシンを買ってくれた。教室は若い女性たちで満席だった。初め先生から簡単な説明があって、スカートの型紙を作ることになった。経験が全くないので本を買ったが分からない。同様に経験がない娘が徹夜をして手伝ってくれた。スカートは半年間かかって出来上がった。
 次の春は名古屋駅前で、初めてパン教室に参加。私のパン作りのやり方を若い女性の先生はみんなの前でほめてくれた。
 その次の春には絵手紙教室に通った。同期の数人と食事やおしゃべりをするのが楽しみだった。他にもカラオケを習ったが、すべて七十歳で卒業。どれも身には付かなかったが、私の人生の中で最も輝いていた時期だった。何かに挑戦する時季は春がいい。陽気とともに心が温かくなって活力がわいてくるから。春に感謝。”(2月19日付け中日新聞)

 「春へ思う」と言うテーマで名古屋市の主婦・河原さん(77)の投稿文です。60代半ばからこれだけのことに挑戦は立派である。何事も意欲である。しかし、70歳ですべてを卒業とある。何か体調などの理由があったのであろうか、少し残念である。まだまだ余命はあるであろう。ボクの町内の今年亡くなった人の平均寿命を調べたら85歳であった。本当に寿命が長くなったことを実感した。
 先日まもなく定年の知人に会った。定年後の過ごし方の準備をかなりしていた。賢い過ごし方と思う。定年後に何か始めようと思っても、それは少し遅いのである。河原さんのように終わる可能性が大きいと思う。ボクは川柳を30代半ばから始め、ウォーキングを40代後半から始めた。今振り返ると最も意欲があったのは始めて数年後であったと思う。今続けているのはその延長線上である。あの最盛期の意欲は残念ながらない。やはり若さだったかと思う。早く始めて良かったと思う。
 でも今からできることもある。まもなく第2回目の定年が来る。ここ数年続いた町内の大役も当分はない予定である。今年中に次の準備をしたい。先日妻は始めて絵手紙の教室へ行った。




2014/03/01(Sat) (第1909話) きれいになった峠 寺さん MAIL 

 “2011年2月27日の本欄で、豊田市藤岡中学校長の梅村清春さんから届いた「戸越峠のクリーン大作戦」なる話を紹介した。藤岡町の戸越峠。深い谷川には二キロにも及び、不法投棄された産業廃棄物や家庭のごみがあふれ「廃棄物の巣窟」と呼ばれている。そこで「ぺんぎんむら」という地域の有志が中心になり、藤岡中の生徒も参加して清掃活動をしているという話。ただ、膨大なごみの量のため終わるめどのない戦いだと聞いていた。
 梅村さんから再び便りが届いた。「丸十年目にして奇跡が起きました。昨年の十二月七日の一斉清掃で、ついに完了しました」と。中学生百二十七人を合む約二百人が参加。さびついた自転車を手の切れるほど冷たい川の中から掘り起こしたり、砂の詰まったスーツケースを引き上げたり。どろどろになった電子レンジや冷蔵庫、金庫、布団などを人海戦術で谷底からトラックまで運び上げた。(中略)
 小見門さんは言う。「生き生きと楽しんで清掃している子どもたちを見て、こちらが感動をもらいました。ありがとうございました」。今回引き上げたごみの総重量は三・七トンにも及んだという。”(2月16日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。深い谷から大きなものを引き揚げるのである。その作業は大変だったろう。範囲は2kmにも及んだという。毎年12月に丸10年のようである。やればできるものである。これが地域力であろう。
 ボクは今年町会長をやりながらいろいろなことを知った。そして、ボクの町内の地域力のなさを知った。それを町内の人に知ってもらうきっかけとしたく、防災講演会を企画、実施した。池に小石を投げたつもりである。このまま沈んで終わりか、これから小さな波紋でも広がっていくのか、今のボクの最大関心事である。


 

川柳&ウォーク