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第118号  2014年2月

2014/02/27(Thu) (第1908話) 管の粥 寺さん MAIL 

 “農産物の作柄などを占う伝統行事「管(くだ)の粥」が十四日愛西市の日置(へき)八幡宮であった。毎年旧暦一月十五日に地元住民や氏子らが行い、少なくとも江戸時代から続いている。麻ひもで結んだ長さ15センチのヨシ31本と米、小豆を釜で炊き、ヨシの中にどれほど米や小豆が入ったかを見て占う。炊き上がったヨシをカッターで二つに切ると、ナスや大根、サトイモなど六種の野菜が「上の上」と出た。
 今年は総じて真ん中より少し上の「六分」との結果。日置町実行組合長の吉川崇志さん(七三)は「悪くない結果。田んぼより畑の方がいい傾向が出た」と話していた。”(2月15日付け中日新聞)

 記事からです。2月22日(土)に一宮友歩会の4月例会の下見で、この神社を訪れた。門前に「管の粥」神事の状況が掲示されてあった。すぐに数人がテレビで観たという。ボクは後日この新聞記事を見た。そして「話・話」での紹介となったのである。何事も何かつながりがあると興味を引く。多分、この記事を見ただけでは取り上げなかったと思う。これだから人生は面白い。一宮友歩会も面白い。
  2013年12月29日の「(第1878話)伝統の餅つき」で滋賀県長浜市の「おこない」を紹介した。長浜市に住む知人がこの「話・話」にコメントをつけて紹介してくれた。更に、掲示板でこの2月22・23日に行われた状況を紹介してくれた。これだから「話・話」は面白い。止められない。




2014/02/25(Tue) (第1907話) 帰り道 寺さん MAIL 

 “ポロポロンー。学校からの帰り道。住宅街の路地に漏れるピアノの音に耳を傾けるのが、私のひそかな楽しみだ。
 ピアノをやめてしまったのは、小学6年の時。周囲には悔いはないような顔をしていたけれど、最大の特技だったピアノに別れを告げたことへの後悔は、正直言って大きかった。
 中学に入り、気分転換にいつもと違う道から下校したある日、そのピアノの音は耳に飛び込んできた。「子犬のワルツ」は、いつかは弾けるようになりたいと思っていたが、結局楽譜ももらわずじまいだった。
 やがてこの家の前を通るルートが、新しい[「通学路」になった。弾いているのは、想像の中では小学生の女の子。たどたどしい音もたまに聞こえてくるけれど、人一倍、譜読みの苦労を味わった私には、大変さがよくわかる。日に日に滑らかに弾ける部分が増え、完成に向かっていくワルツは、「継続は力なり」という言葉の意味を再確認させてくれる。
 この人にはピアノ、ずっと続けてほしいな。そんな願いを込めて、今日もこの道を通って帰る。かすかに響く音色にのせて、ワルツを口ずさみながら。”(2月13日付け朝日新聞)

 横浜市の中学生・北川さん(女・14)の投稿文です。北川さんはいい楽しみを見つけられた。通学もこうなると苦にならなくなるだろう。ピアノを弾く小学生の応援にもなろう。もしか、2人が将来会うようなことがあったら新たなドラマも生まれよう。何が何となるか分からないのが人生である。
 通学路であこがれの人に会う楽しみを持った方は多かろう。そのために通学路を変えたり、時間を合わせた人もあろう。これはこれでいい青春である。どこにもドラマは潜んでいる。
ボクの娘も小学生の時ピアノを習わせた。ピアノが弾けるのが強みになっていた時もある。今そのピアノは娘の家に行っている。そして孫が使っている。ドラマは続くのである。




2014/02/23(Sun) (第1906話) とげとげ言葉 寺さん MAIL 

 “めいの4歳の長男が風邪で保育園を休んで、1日預かることになった。「さあ、お昼ごはんにしましょ。その前に手を洗いなさい」と促すと、「おばちゃま。『何々しなさい』って言ってはいけないんだ」と返ってきた。「じゃあ、なんて言えばいい?」と聞くと、「手を洗いましょうね、とか」だそう。「何々しなさい」という表現は、「とげとげ言葉」だから使わないように、と保育園で教わったという。初めて耳にする言葉で腑に落ちなかったが、「ふうーん。ごめん」と謝り、手洗いにこぎ着けた。
 いよいよ迎えた食事時。「あなたはお肉が好きだけど、お野菜も食べないとね」。これも不用意だったらしい。「あなた、とか、あんたとかも言わないで。ちゃんとお名前があるでしょ。名前を呼び合ってお話をしなければいけないの」と、すかさず返された。
 早速「とげとげ言葉」をネットで調べると、差別語や人を傷つける言葉で、反対語は「あったか言葉」「ほのぼの言葉」とある。幼児のころから言葉遣いで他人を気遣うことを教わるとは、将来は明るい。4歳児から教えられることが多い1日だった。”(2月11日付け朝日新聞)

 神奈川県藤沢市の北村さん(女・75)の投稿文です。ボクも全く知らなかった、びっくりです。命令ではなく促す、代名詞ではなく固有名詞で呼ぶ、確かに良いことだと思う。これには幼い時からの習慣化が必要である。ある程度の年齢になるともう困難であろう。社会がそうなるためには習慣化した人が大人になるまでかかるであろうか。でもそうなって欲しい。
 夫婦の間でパパ、ママやお父さん、お母さんと呼び合うのはボクには以前から違和感があった。子供といた時の呼び方がいつまでたってもそのままであるのだ。実はボクの夫婦もそうだった。数年前に妻に変えようと持ちかけた。妻はすぐに直った。名前か「あなた」に変わった。ボクはお母さんと呼ぶことはなくなったが、なかなか名前が呼べない。この歳で何が抵抗になっているのだろうか。




2014/02/21(Fri) (第1905話) 手描き絵ノート 寺さん MAIL 

 “昨年末にテレビを見て、手描き絵ノートというものを知りました。お土産、頂き物などの絵を描き、気持ちを書き添えるのです。私もお土産などを頂くと食べる前に絵手紙の礼状を出していましたが、手元に残るのでいいアイデアだと、年明けに始めました。
 正月に息子や孫が手土産にカニや刺し身を持って来ました。早速、カニ鍋や手巻きずしにしてにぎやかな食事会に。「京子流手描き絵ノート」の記念すべき最初のページに丸ごとドーンとカニを描き、楽しい食事の様子を書き添えました。今、最初の力二の絵を見ると、湯気の向こうの孫の笑顔や歓声を思い出します。何度も楽しむことができ、うれしくなります。
 嫁のお母さんからの土産、親友からの珍しいお菓子など、手描き絵ノートの材料が次々と届きました。「気力、やる気、即実行」をモットーに、手描き絵ノートで残りの人生をさらに楽しみたいと思います。”(2月6日付け中日新聞)

 岐阜県関市の主婦・後藤さん(73)の投稿文です。「手描き絵ノート」とはまた新しいことを知った。絵手紙は人に出すものであるが、これは絵を描いて手元に置くものである。消耗品の頂き物は、特に食べ物は使ってしまえばなくなってしまう。そして忘れてしまう。それを絵に描いて残しておく。感謝の気持ちがいつまでも残るだろう。いろいろな手法があるものだ。
 最近ボクは絵手紙に興味を持っている。いつか始めようと思っているが、まだ手についていない。妻の身近で女性ばかりの絵手紙の教室があるようだ。まずは妻を急き立てようか。昔、と言ってももう40年も前のことになるが、ボクが点字を習ってきて妻に教えた。この逆になると幸いだ。




2014/02/19(Wed) (第1904話) 切り干し大根 寺さん MAIL 

 “澄んだ冷気が肌を刺し、夜空高くにオリオンが輝きを増す寒さのなか、私は今年もまた、切り干し大根を作り始めた。掘りたての大根を薄い短冊に切ってざるいっぱいに広げ、あるいは輪切りにして糸を通し、日当たりの良い軒先に干す。十日も干すと、軽く美しいベージュ色になって、手の中に収まってしまう。
 甘みとビタミンが凝縮した切り干し大根は、幅広い料理に使えるけれど、特に煮物がおいしい。少しの二ンジンと油揚げを入れ、しょうゆだけで味付けしたものは皆の好物。保存ができ年中使える。手土産としても喜ばれるのがうれしい。
 幼い日、祖母が縁側で背を丸めてトントンと大根を切っていた姿を思い出す。やがて母に受け継がれ、ひび割れた手で切っているのを横目に見ていたときは、よもや自分かつくるようになるとは思いもしなかった。この年になってこそできる業なのかもしれない。
 「わあ、うれしい」と切り干し大根を喜んでくれる嫁御も、「おいしいよ」と食べる娘もいつかつくる日が来るのかしら。今はまだ考えられないけれど、時がめぐり、業も受け継がれていくのかもしれない。”(2月5日付け朝日新聞)

 岐阜県池田市の主婦・森さん(68)の投稿文です。今の我妻の風景でもある。自作の大根を細く切って干す。できたものを娘の家にも持って行く。妻の姿がいつか娘の姿になるであろうか。
 切り干し大根干しは我が尾張地方の冬の風物詩であった。ボクの家でも行っていた。大根を専用の用具で突く。大根を包丁歯に向かって突き立てるので、突くと言った。それを葦簀のようなものに敷きならして乾燥させた。あの冷たい強い伊吹おろしを活用した。小学生ながらボクもよく手伝った。手が凍えた。手を突いて怪我したこともある。今ではこの風景をほとんど見かけなくなった。懐かしい風景である。前回のもらい風呂と言い、「話・話」は懐かしいことを思い出させてくれる。




2014/02/17(Mon) (第1903話) もらい風呂 寺さん MAIL 

 “「もらい風呂」。懐かしい響きの言葉である。家にまだ風呂がなかったころ、隣の家へよくもらい風呂に行った。いなかのことで銭湯はなかった。
 冬。夕食を終え八時を過ぎると、母と隣家へ。その家は大きく、居間にはラジオがあった。私の家にラジオはなく、母に呼ばれるまで放送を聞いていた。風呂に入ると、母はいろいろな話をしてくれた。湯や手ぬぐい、せっけんの使い方など風呂のマナーも教えてくれた。私がその日の出来事などを話すと、うなずきながら聞いてくれた。最後は首まで湯につかり、数を数えてから出た。
 外に出ると冷たい北風が体に吹き付け、母は羽織っていた着物を私の背にかけてくれた。「家にお風呂があるといいね」。当時は家族8人が食べていくので精いっぱい。それ以上は言えなかった。満天の星を仰ぎながら母と歩いた遠い日が、昨日のように思い出される。”(2月3日付け中日新聞)

 愛知県幸田町の加藤さん(男・71)の投稿文です。「もらい風呂」、ボクにも懐かしい響きの言葉である。加藤さんと状況は違うが、ボクも水道が引ける小学6年生まではもらい風呂をしていた。風呂がなかった訳ではない。風呂を毎日沸かすのが大変だったので、近所の3軒で順に当番を決め、当番の家にもらい風呂に行っていたのである。季候のいい頃は家中の入れ物に水を入れ、日中外に出しておくのである。太陽熱の利用である。少しは効果があったのであろう。それを夕方五右衛門風呂の風呂桶に入れ、藁などを燃して湧かすのである。夕食後時間を見計らって当番の家に出かける。農作業で汚れた体をひとつの風呂桶に十数人が入るのである。外で洗ったらすぐに湯がなくなってしまうので、中で洗う。最後頃はどんな湯になっていたろうか。多分泥水であろう。それでも死ななかった。今は天国だ。
 風呂から妻の話を思い出す。妻は夜間高校へ通っていた。家に風呂がなかったので、学校の帰りに銭湯に寄ったという。学校へ行く時、金だらい(金属製の洗面器)を持って行くのが非常に嫌だったと言っていた。ここにも今、天国の人がいる。




2014/02/15(Sat) (第1902話) 同窓会ファッション 寺さん MAIL 

 “久々に届いた高校時代の同窓会の通知。「出席」に○をつけた後、頭をよぎる一つの問題。《何着て行こう?》。女性ならば誰しも直面する大問題だ。出席は楽しみでもあるが、それまでにクリアしなければならない最大の悩みである。
 変に着飾り過ぎて浮いてもいけないし、流行を追い過ぎても「若作り」とひんしゅくを買ってしまうだろう。かといって、無難な地味なスタイルで全く目立たないのもちょっと悔しい気もする。中年女性の同窓会ファッション。たかが二、三時間の会食の席だけなのだが、日頃さほど代わり映えしない毎日を送っている主婦にとってば一大イベントだ。おのずと力が入ってしまう。
 悩んだ末出した結論は、三十年前のスーツのリフォーム。結婚したころ二、三回着ただけで、質が良い生地なので見劣りはしないが、そのままでは着られない。がっちりした肩パッドを外し、スカートはギャザーをかなり減らしてすっきりしたデザインに。新しいスーツを買うことを思えば何分の1かの費用で古いスーツは復活を果たした。
 同窓会の日。三十年前のスーツと共に出かける。古いスーツも久々に日の目を見て喜んでいたに違いない。”(2月3日付け中日新聞)

 浜松市のパート・萩原さん(女・58)の投稿文です。女性というものはこういうものかと改めて知る。ボクは毎年、同窓会の準備をし開いている。ボクはボクで大変だが、出席する女性も大変なのだ。男の知らない所である。
 でも萩原さんはこの苦労を楽しんでみえる。こんなこともなければ考えもしなかったスーツのリフォームもされた。何事も楽しみに変えることはできる。気持ちの持ち方、考え方であろう。本当は男も服装を考えればいいのだ。ボクなど昔から無頓着であった。最近などまだましになった方である。この歳になると家にいることも多くなろう。これ以上無頓着になったらだらしない範疇に入ってしまう。オシャレを楽しむようになりたいものだが、生まれ変わらないと無理だろうか。でも生きている今できることがまだある。余裕のできた今こそファッションも楽しみたいものだ。こういう文にも接しているのだから。




2014/02/13(Thu) (第1901話) 最高の表彰状 寺さん MAIL 

 “その少年の理科のできは散々なものだった。英国の名門イートン校で、生物の成績は二百五十人中二百五十番。他の自然科学の科目も、似たり寄ったりであった。十五歳の時の成績表には、こう記された。「科学者になりたいようだが、現状からすると、大変ばかげた考えだ。生物学の基本を学べないのであれば、科学者として働くことは望めないし、まったくの時間の無駄であろう」。この劣等生こそ、山中伸弥さんとノーベル賞を分け合ったジョン・ガードン博士。(中略)
 ガードン博士が開いた道に、新たな金字塔が打ち立てられたようだ。理化学研究所の小保方晴子さん(三〇)らが、より簡単に万能細胞をつくる方法を見つけ出したという。あまりにも斬新なため、英科学誌ネイチャーに最初に投稿した時は「何百年の細胞生物学の歴史を愚弄している」とのメールが送られてきたそうだ。ガードン博士は酷評された成績表を額装して、研究室の机の上に掲げ続けた。小保方さんも、痛罵されたメールを印刷して研究室に飾るといい。これこそ彼女らの成果が細胞生物学の常識を打ち破ったことを示す、最高の表彰状となるだろう。”(1月31日付け中日新聞)

 「中日春秋」からです。全く驚く話だ。人間の能力は全く分からないものだ。偶然も全く分からないものだ。これだから人間死ぬまで生きる意味があるのだ。自分の人生を簡単に見極めてはいけない、この話から思わされる。
 小保方さんの話は聞くほどに驚く。日本ではたくさんのところでたくさんの人が頑張っている。日本の将来社会を悲観ばかりしていてはいけない。日本人の個々を全体で捉えればこんなに素晴らしい国はない、よく言われることである。よく考えながら人生を全うしたいものだ。




2014/02/11(Tue) (第1900話) 一日の終わりに 寺さん MAIL 

 “家族が眠り、自分の時間がやってくる。冬の夜の静けさに耳を傾ければ、今日も一日何事もなく過ぎたことに手を合わせたくなる。静寂は何よりのぜいたくで、どんなことをしても許される寛容さを感じる。
 一日を振り返る夜もあれば、秋深い日に聞こえた虫の音を懐かしむ夜もある。昼間スーパーで買ったお気に入りの温かい飲み物を飲み、ゆっくり湯船につかり鼻歌を歌う。湯上がり、よく働いた手に香りのいいハンドクリームをぬり、労をねぎらう。
 窓から見上げる夜空は、どんな季節より空気が澄み、星がきれいに見える。冬の夜は早く布団に入るからだろうか、読書の時聞が長い。集中して物語の世界に入ることができるのも、冬の季節からの贈り物のよう。かじかむ夜だから、心温まる書物が恋しくなる。
 どの季節にも特有の良さがあり、改めて日本の四季は美しいと思う。明日も地球に生まれたことを感謝して暮らしたいと思う。地球の歴史から考えれば、ほんのわずかな滞在時間だから、借りた場所を汚すことなくお返しできたら本望だと、今夜も冬の月を見上げる。”(1月29日付け朝日新聞)

 名古屋市の主婦・種田さん(43)の投稿文です。1日が終わって静寂な時間が来る。この時間に至福を感じる。そんな時間の過ごし方を見つけられた種田さんに感心する。寝るまでテレビを見て、いやテレビを見ながら寝てしまう人より余程いいだろう。種田さんのように静寂に浸る時間は、何もかも忘れることもあるし、いろいろな思いが寄せてくることもある。今年の1月27日に「(第1893話)季節に敏感」を紹介していますが、自然を感じる良さを書いています。種田さんも静寂な時間に自然を満喫されています。最後の「借りた場所」という言葉もいいですね。よく考えてみたいものです。
 「テレビを見ながら寝てしまう」はボクのことです。これは最近身についたことです。一人先に寝室へ行く。床に入って撮っておいたビデオを見る。ほとんどの場合、いつの間にか寝てしまっている。非常に気持ちがいいのですが、もう一工夫が必要でしょう。




2014/02/08(Sat) (第1899話) 虹と幸せ 寺さん MAIL 

 “遠くに見える虹はきれいです。しかし、虹の中に立っていたら見えません。私は虹を見るたびに、虹と幸せは同じようなものだと感じます。
 小さいころ、私の家族はよく旅行したり外食したりしていました。当時は当たり前のようにあった「楽しいこと」が、成長するにつれ、なくなっていきました。今では家族そろって夕飯を食べることさえ少なくなっいます。
 私は今、飲食店でアルバイトをしています。家族連れのお客さまが多く、楽しそうに食事をしておられます。その様子を見ると、時々うらやましくなります。子どものころは何とも思っていませんでしたが、本当は幸せなことだったのだと気付きました。
 当たり前でなくなって初めて幸せと分かるのは切ないです。これからは、日々の生活の中にある幸せをかみしめて暮らしていきます。”(1月28日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の高校生・東さん(女・18)の投稿文です。幸せを虹に例える、この発想に感心します。幸せはその中にいたらあまり感じません。当たり前になってしまいます。逆に不幸はその中にいたらそのことだけに目が行ってしまいます。一歩遠ざかって眺めた時、冷静に客観的に判断できます。幸せはより幸せを、不幸はそれ程でもないことを感じるでしょう。東さんの年でこんなことに気づかれるのは素晴らしいことだと思います。いい人生を送られるでしょう。




2014/02/06(Thu) (第1898話) 暖房ゼロ生活 寺さん MAIL 

 “列島はいま、震災後初の原発ゼロの冬。私にとっては節電を横に「暖房ゼロ生活」を始めて3度目の冬である。エアコンをつけないのはもちろんコタツも電気毛布もない。知人には「凍死するよ」と心配され、離れて暮らす親も気が気ではないようだ。
 もともと、寒さはめっぽう苦手である。子どものころ冷たい布団に入るとガタガタ震えで眠れず、電気毛布が売り出されたときは何と偉大な発明かと心から感動した。夏はめったにつけないエアコンも冬はぜいたくに使い、温風に豊かさをかみしめていた。
 だから今の生活は、自分でも信じられない。案外あっさりと、寒さをしのぐ方法をみつけてしまったのだ。秘密兵器は「湯たんぽ」である。太ももの上に置き、大きい膝掛けをかける。これだけで十分暖かい。寝る前には湯たんぽを布団の腰の位置に入れておき、布団に入るとき足元に移す。朝までぬくぬくだ。電気毛布よりずっと前に、人類はこんな偉大な発明をしていたのである。
 部屋は冷たい。息が白いこともある。でも自分が温かければ案外どうってことない。不思議なのは、こんな暮らしを始めてから、あれほど苦手だった寒さがむしろ気にならなくなったことだ。(後略)(1月23に付け朝日新聞)

 「社説余滴」から社会社説担当の稲垣えみ子さんの文です。ボクの家も数年前から湯たんぽを活用している。そしてその効果の大きさに驚いている。ボクは机に向かう時、石油ファンヒーターを横に置いて使っていたが、湯たんぽの上に足を乗せるようにしたらファンヒーターはいらなくなった。やぐらコタツも使っているが、湯たんぽを中に入れたら電気をつける時間が本当に少なくなってしまった。エアコンはこの冬まだ一度も使っていない。もうこの冬は使わないだろう。
 湯たんぽの湯は朝、夕と2回沸かしている。夕方沸かしたものは寝る時妻が布団に入れている。熱くなくちょうどいいらしい。もっと早く活用すればよかったと悔やむばかりである。




2014/02/04(Tue) (第1897話) クリームシチュー 寺さん MAIL 

 “檀那寺から父親の二十七回忌の案内状が届いた。指定の日に法事を行うことにし、兄夫婦と共に出かけた。父の思い出は年々おぼろげになっていたが、いろいろ話すうちに少しずつよみがえってきた。
 法事が終わってから、ふいにクリームシチューが食べたくなった。子どものころ、明治生まれの父が炊事・洗濯をしたところを見たことはなかった。そんな父が、一度だけ私に食事を作ってくれたことがあった。母が入院をして、しばらくの間、父と二人で暮らしていた時のことだ。私の好みを覚えていてくれたのだろう。ジャガイモたっぷりの大盛りのクリームシチューだった。おいしかった。
 法事を営んだ晩、めったに料理をしない私が数十年ぶりにジャガイモたっぷりのクリームシチューを作った。妻は「料理をするなんて、どうしやーた。それも、クリームシチューを」と驚いていた。夕飯の一品のクリームシチューはことのほかおいしく、すぐに平らげてしまった。”(1月19日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の公務員・纐纈さん(男・59)の投稿文です。前回に続いて男の料理の話である。料理などほとんどしたことがない父親が作ってくれたクリームシチュ−の思い出から、これもまたほとんど料理をしたことがない息子がクリームシチュ−を作るのである。何か温かくなる話である。
 ボクの父親も平生はほとんど料理などすることはなかったが、村祭りの時の料理の準備はよくやっていたことを思い出す。母親よりも張り切っていた気がする。それを思い出すと、ボクなど全くひどいことに気づく。妻がいない時に自分の食べるものくらいはする時もあるが、人の食べるものは全く作ったことがない。ボクは妻がボクより絶対長生きすると思っている。ボクの人生にこの前提が崩れてもらっては困るのである。




2014/02/02(Sun) (第1896話) エプロンは離さない 寺さん MAIL 

 “月に1回、近くの公民館で続いている料理教室がひとまず幕を閉じることになった。先生から、「卒寿を迎えて体調を壊し、これ以上続けるのは無理」という申し出があったためである。
 私の初挑戦のきっかけは、公民館入り口に貼られた料理教室のポスターだった。「60歳以上の男限定」。入会してみると、平均年齢は70歳を超えていた。当時80歳代半ばだった先生から、時には叱咤されながらも、15人の高齢者はエプロン姿で、真剣に、また楽しく包丁を握った。5年を過ぎ、私も何とか妻に喜ばれる料理も作れるようなった。
 そして、お別れ会。みなひと言ずつ、先生の思い出を語りあった。なかには、「我々のおかげで先生の寿命は少なくても5歳は伸びた」と冗談を飛ばす人もいた。先生も「話も聞かない気まま勝手な生徒たちに手を焼いたので元気でいられたわ」と返された。
 今後は、先生の教え子である近所の奥さん3人からご指導を受けられるとの話があり、我々は、解散しないで済む、と安心した。これから先生のお年を超えてもエプロンを離さず続けよう、とみなで誓い合って調理室を後にした。”(1月19日付け朝日新聞)

 埼玉県上尾市の主夫・木本さん(男・67)の投稿文です。男の料理教室の話は時折ある。どんな地域でどんなきっかけで募集が始まったかは知らないが、60歳以上限定で15人、平均70歳とは男もなかなかやる者である。先生に至っては80歳半ばからである。この先生は多分女性だとは思うが。お別れ会の会話もなかなかいい。言葉通りであろう。何かをやることは元気に繋がるのである。今年ボクの町内の掲示板にも男性料理教室募集の張り紙があった。参加した人はあったろうか。


 


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