ha1312

第116号  2013年12月

2013/12/31(Tue) (第1879話) 写真機 寺さん MAIL 

 “小学生だったころ、いつものように友達二人と一緒の帰り道。職業訓練校の学生たちが大きなオートバイにまたがって写真を撮っていた。写真機(カメラ)が高価で、ほとんどの家庭になかった時代。撮影風景を見たのも初めてだった私たちは、その光景をじっと眺めていた。
 あまりにもうらやましそうに見ていたせいか、「撮ってあげる」と言ってくれた。天にも昇るような気持ちで、お兄さんたちのまねをしてオートバイに三人でまたがった。
 撮ってもらったことすら忘れていたころ、少し大きく引き伸ばした写真が学校に届き、担任から渡された時は跳び上がって喜んだ。
 それまでの私の写真はすべて学校で撮ってくれた集合写真で、緊張し口を真一文字に結んだ顔の写真ばかり。お兄さんたちが撮ってくれた写真は、生まれて初めての笑顔の写真で、今でも私のベストショットだ。
 まだ物がない時代に、貴重なフィルムで見ず知らずの私たちを撮ってくださり、お金もかかっただろうに焼き増しして、わざわざ届けてくださった優しいお兄さんたち。私にとって生涯忘れられないすてきなプレゼントとなっている。”(12月13日付け中日新聞)

 浜松市の平松さん(女・68)の投稿文です。平松さんはボクと全く同世代、言われることがよく分かります。ボクも小学校時代の写真は、学年始めに撮ったクラス集合写真の他にあるものと言えば、学芸会の小さな小さな写真2枚のみです。そんな時代に、見ず知らずの人に撮ってもらった写真はまさに宝物でしょう。
 それにしても親切な人があったものだ。写真を撮った上、焼き増しして学校に届けるとは。思いがけない親切を受けるとその行為だけでは無く、その思い出も一生の宝になる。こうした親切を一生の間にいくつ受けるのだろう。受けた親切を別の人にまた与えていく。こうして社会は回っているのである。




2013/12/29(Sun) (第1878話) 伝統の餅つき 寺さん MAIL 

 “私の住む地域で、餅つきなどをする「おこない」がありました。昔は青年団が六〜七俵の餅を一晩中つきましたが、今は青年団はなく、一俵程度に減りました。つき手も、氏子総代や厄年会の人になり、なんとか伝統の行事を守っています。
 餅つきは四人一組で掛け声や太鼓のリズムに合わせて順番に棒のきねを振りおろし、餅を手前に引っ張って餅の奪い合いをしているかのようにしながら、ついていきます。近年はつき手も経験が浅いため、今ひとつ盛り上がらないのですが、今年は大いに盛り上がりました。氏子総代の努力もあって大勢の観客が集まり、餅つきがピークに達した時、観客から拍手が起こりました。太鼓のリズムとつき手のスピードが上がり、うまく餅が出来上がった時でした。観客とつき手が一つになれたのです。私は感動し、これからもこの伝統行事を守り抜いてほしいと思いました。”(12月12日付け中日新聞)

 滋賀県長浜市の会社役員・浅井さん(男・68)の投稿文です。伝統行事を守るには非常に難しい社会になった。生活様式が全く変わり、また地方には若い人がいなくなった。自然に任せていたらほとんどの行事はなくなってしまうだろう。なくなったものを戻すのは至難のことである。頑張っても無くなっていくのは仕方が無い。それまではいろいろな手段を講じなければいけない。浅井さんの地域では少し復活したようだ。それだけに感激であったのだろう。
 ボクはこうした行事は、苦労が多くても不合理であっても、無くすのには賛成しないことにしている。ボクの地方には全国的にも奇祭として有名な国府宮神社の裸祭がある。ボクの村から神社まで7kmくらいあるが、以前は25歳の厄年の人が裸で走って奉納しに行った。ボクは慣例に従って25歳の時に走った。そして42歳になった時、もう25歳の人は走らなくて42歳が走った。そして、今は誰も走らなくなった。若い時に比べ他にもたくさんの行事が無くなった。
 ボクの近所に年末に一族郎党が集まり、昔ながらの杵で餅をつく家族がある。感心している。ボクの家も今夜は「餅っこ」による餅つきならぬ餅練りである。娘家族が皆集まってくる。わが家のささやかな伝統になっている。




2013/12/26(Thu) (第1877話) お・も・て・な・し 寺さん MAIL 

 “三十目を数える今年の流行語大賞の発表があり、過去最多となる四語が同時に選ばれました。「じぇじぇじぇ」「今でしょ!」「倍返し」そして「お・も・て・な・し」と、孫たちの会話で何度も聞かされましたし、どなたにも親しまれた流行語として、この結果は異存のないところでしょう。
 中でも私は、東京五輪招致活動の最終プレゼンテーションで、終始笑顔で流ちょうなフランス語としなやかな手ぶりでスピーチをされた滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」が、最高ではなかったかと思います。
 その模様と決定的な瞬間をテレビで見ていて私も感動を覚えました。滝川さんのスピーチが東京開催決定に大きく貢献したのは間違いなく、おかげで「お・も・て・な・し」は世界中に知られるようになりました。日本の文化であり、心でもあるこの言葉は大賞にふさわしいし、今後も受け継がれていく言葉だと思います。”(12月12日付け中日新聞)

 愛知県小牧市の久野さん(男・71)の投稿文です。滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」の動作をボクもニュースで見た。うまいと思った。これをきっかけに「おもてなし」がよく使われるようになった。そして流行語大賞になった。多くの人の胸を打ったのであろう。おもてなし、誰もが心がけたいことである。そうすればよりよい社会になるだろう。しかし「おもてなし」とは逆の社会になっていて、この流行は願望が含まれている気がする。
 あの五輪のプレゼンテーションはどの方も素晴らしかった。プレゼンテーションはこうして行うものだったのかと知った。東京都知事も必死に頑張っていたが、その後は残念なことであった。




2013/12/24(Tue) (第1876話) 芋の子を洗う 寺さん MAIL 

 “最近読んだ小説の中に、近ごろの若者は「芋の子を洗う」をちゃんとイメージできないという記述がありました。混み合った海水浴場の映像で使われることもある言葉なので、それ自体は知っているけれど、実際どうやって芋を洗うのかは知らないようです。早速、娘に「芋の子を洗うって、何芋か知ってる?」と聞いてみたら、彼女の答えは「サツマイモ」。
 正直驚きました。娘はクイズ番組が好きで雑学はよく知っていて、食べ物を扱う仕事をしています。その娘が知らないのでは、世間の認知度も低いのではないかと思います。
 私は子どものころ、近所の八百屋さんが、水と一緒におけに入れたたくさんのサトイモを木製の道具でゴシゴシこすりあわせるのを見ていたので、「芋の子を洗う」をよく知っていますが、その様子を見たことがない世代になれば、この言葉が死語になるのはやむを得ないかも、と思います。
 私たちの生活がすごい勢いで変化しているので、言葉も変化していくのは、避けられないのでしょうね。”(12月12日付け中日新聞)

 愛知県江南市の会社員・小沢さん(女・54)の投稿文です。芋の子を洗う、確かに今の子に、今の青年に、否今の壮年の人に聞いても分からないだろう。例えの内容が分からないでは、その言葉も理解できないだろう。ボクは農家だったから、この芋の子を洗うは、理解できるが多くの人にはなかなか難しいことである。今までの言葉が死語になり、新しい言葉が生まれるのは自然である。僕らでも武士社会の言葉、否明治時代の言葉で分からないものが多かろう。そして厄介なのは、今の若者言葉が分からないことである。更にカタカナ言葉の氾濫である。不満も言いたいが、これも成り行きであろう。誰もがいくつになっても学ぶ、これは生きていくための必然である。




2013/12/22(Sun) (第1875話) 次の10年 寺さん MAIL 

 “「まだ10年は生きられるだろう」と思った10年前、当時仕事をしていた宮崎市の本屋さんで「10年日記」を買いました。あれから10年、その日記の空欄があと、わずかになってきました。
 それまで、日記をつけようとして何度も挫折を経験していました。でも、ある人のエッセーに「日記は書くことが無い日が何日か続くと書かなくなってしまう。食事は毎日とるので、食べた物を書くようにすると継続出来る」とあり、それは名案だと、思い切って買ったのです。
 10年もの日々ですから、親の死や孫の誕生など、色々なことがありました。毎日書くたびに、過去の同じ日の思い出がよみがえります。また、十年一日、食べ物も同じ日に同じような物を食べていることが多く、笑ってしまいます。
 先日、宮崎市に出かけた際、あの本屋はまだあるだろうか、日記はまだ売っているだろうかと訪ねたら、本屋さんも、日記もあり、うれしくなりました。どこの本屋でも買えるのですが、10年後にまた宮崎市に来ようと、もう一度、同じ日記を買いました。本屋さん、出版社さん、そして私も、それまで元気でいようとの願いを込めて。”(12月8日付け朝日新聞)

 北九州市の下中野さん(男・62)の投稿文です。今62歳の人が約10年前と言うとまだ50歳過ぎたばかりの頃である。それが「まだ10年は生きられるだろう」と言う言い方に、少し戸惑う。これからが人生の最盛期である。そしてその後どのような人生を送られたのであろうか、興味が湧く。しかし、個人経営の本屋さんが残っていたのは幸いでした。これこそ10年はおろか数年先も分からない。
 そして、日記に毎日の食事内容を書くという知恵に感心した。日記はなかなか続かない代表のようなもの。多分書く内容に行き詰まってしまうことが大きかろう。それを毎日取る食事内容を書くことにすれば、書くことは毎日ある。食事内容を書いて何になるのかという疑問はあるが、でも続けることによってそれだけでも結構いい記録になるのだ。それを下中野さんは証明されている。また食事内容を書くことは続ける習慣がつくまでの手段である。書かないと忘れものをしたような気分になり、落ち着かなくなればもう続く。ボクはこれでもう29年続いている。
 ボクは2010年に太陽光発電をつけた。まだ20年くらい生きるだろうと思っての工事である。また、先日娘と孫のために、私が80歳まで払い続ける保険に入ってしまった。あまりにも楽観、欲張りすぎだろうか。




2013/12/19(Thu) (第1874話) バナナ 寺さん MAIL 

 “今では至る所にあふれているバナナ。私のバナナ初体験は、17歳の時だった。50年も昔、修学旅行先の東京の宿に、兄が会いに来てくれた。私が「こいちゃん」と呼ぶ2歳違いの兄は当時、横浜で働いていた。
 その日、兄は、田舎者の妹を連れて街を散策し、喫茶店を体験させ、お土産を買ってくれた。クリーム色のバッグと、黄金色に輝く大きなバナナの房だった。バナナなど口にしたこともなかった私は、1本だけおそるわそる味見した。とろりと甘くて優しい舌触り。心配りに涙がこぼれた。つましく暮らす田舎の父と母にも食べさせてやりたい、と思った。残りは全部兄が買ってくれたバッグにしまい、きっちりと密閉した。
 2日後、異様なにおいに気づいた時には遅かった。バナナはバッグの中でぐちゃりとつぶれて無残な姿になっていた。一瞬、優しい兄の顔と喜ぶ父母の顔が目の前をよぎった。こいちゃんのせっかくの心を・・・。バナナの前で私は泣いた。
 父や母にも50年前のあの時に、夢のように甘い「こいちゃんのバナナ」を、都会で頑張るこいちゃんの心と一緒に、届けたかった。今なお心に引っかかる思い出である。”(12月7日付け朝日新聞)

 北九州市の主婦・末吉さん(66)の投稿文です。末吉さんはボクとほぼ同い年、このことはよく分かります。僕らの子供頃、バナナは あこがれの食べ物だった。そのバナナを兄からもらった、そして、親にも食べさせたくてバックにしまった。小さなことながら麗しい心使いです。豊かになった今の日本では考えられないような感情でしょう。
 ボクも小学校高学年のことだったと思う。父親と町へ出ることなどほとんど無かったが、あるとき、腹一杯バナナを食べさせてると言って、町へ行った。そして、バナナを食べた。嬉しかった。しかし、どれほど食べられたのかは思い出せない。バナナだけを食べるので、あまり食べられなかったと思う。また大判焼きを食べに連れて行ったもらった記憶もある。あれもあまりに甘く、意外に食べられなかった気がする。貧しい中の懐かしい思い出である。




2013/12/17(Tue) (第1873話) 花束 寺さん MAIL 

 “三十年ほど前、胃の病気で入院し、何も食べられなかったご主人を持っておられた友人は、何をしてあげるべきかを考えた結果、毎日、病院へ花束を持って行かれました。ベッドの下のバケツは愛の花でいっぱいになりました。いかにご主人を愛しておられたことでしょう。友は「若かったから」と言っておられます。
 友は結婚前、ご主人から「天にありては比翼の鳥、地にありては連理の枝」という言葉が裏に書かれた写真を贈られたそうです。「比翼の鳥」は雌雄とも目、翼が一つで、常に一体となって飛ぶ中国の想像上の鳥、「連理の枝」は木の枝が他の枝とくっついて木目が一つになっている枝のことで、どちらも夫婦の契りの深いことを言い表すそうです。
 何と素晴らしいご主人でしょう。日本人はとかく愛の表現がうまくないとのことです。私たち中高年もお互いに表現力を磨きたいものです。友人は私の電話に「声に張りがあって若いから、あなたから元気をもらっています」と言ってくれます。いつまでも親友でありたいと思っています。”(12月5日付け中日新聞)

 愛知県常滑市の竹内さん(女・78)の投稿文です。「天にありては比翼の鳥、地にありては連理の枝」という言葉を贈り、バケツいっぱいになるほどの花を贈る、この夫ありてこの妻あり、この逆かも知れませんが、全く仲睦ましい夫婦です。そして機知もありますね。
 夫婦となったからには夫婦が何よりも大切な間柄になると思います。親も子供もあるかも知れませんが、でも比較にならないでしょう。そう言える夫婦でありたいものです。
 最近は離婚も多いようです。ボクのような田舎では昔はほとんど聞かなかった。離婚したら恥ずかしくて村におられない、そんな意識が働いていて、我慢した夫婦も多かったでしょう。それが良かったか悪かったかは様々でしょう。でも長い生涯の間には、どんな夫婦でも良い時も悪い時もあります。それを一時の感情で離婚となっては、ほとんどの夫婦で離婚となってしまう。それをどう乗り切るか、それも夫婦でしょう。短気は損気、こんな言葉も忘れないようして欲しいものです。




2013/12/15(Sun) (第1872話) 電車の大冒険 寺さん MAIL 

 “小学五年の長女、一年の長男、年中の次女の三人だけで電車に乗って祖父母の家に行くことになりました。特急で一駅のちょっとした冒険のはずが、大きなハプニングが待ち受けていました。
 お菓子を買い電車に乗り込んだ三人。飲み物もほしくなり、長女は下の二人に「ここを動かないで」と言いホームに出ました。そして飲み物を買っている最中、何と電車が出発してしまったのです。長女は「あー」と、持っていた飲み物を落としパニックに。その様子を見ていた女性は「元気を出して」と駅員さんのところへ連れていってくれ、事情を説明し、長女に付き添い次の電車に同乗してくれました。
 下の二人は、姉の行動を見ていた乗客の方々や、連絡を受けたであろう車掌さんに助けられ、次の駅で降りることができました。皆さまのおかげて、三人そろって無事に祖父母の家に行けました。
 子どもたちが皆さまの温かさ、優しさに触れられ、感謝しています。長女は元気を取り戻し、女性にいただいたお菓子を「ずっと取っておく」と言っています。三人とも「また子どもたちだけで行く」と張り切っています。”(12月3日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の会社員・土屋さん(女・37)の投稿文です。これには本人達も周りの人たちも驚かれたことでしょう。まさに大冒険になってしまった。一歩間違えば大事ですが、多くの人はこうしたことを経験しながら育っていくのです。子供にはこうした冒険もさせねばなりません。そして学んでいかねばなりません。そして、冒険は次から次へと来るし、乗り越えて行かなければならない。こう考えると、人生50年、60年、無事に走り抜けると言うことは凄いことです。それ以上の年齢になるとはまた凄い。ボクはもう60代後半、凄いことである。でもこれは自分1人で出来ることではない。周りの協力や支えがあってのことである。どう考えても周りに感謝せざるを得ない。
 どうもわが家の孫達は子供達だけで電車に乗ったことはないようだ。いずれ始めての事が来るだろうが、どんなことが待ち受けているのだろうか。そしてどんな人生を送るのだろうか。




2013/12/13(Fri) (第1871話) 緑の通学路 寺さん MAIL 

 “ああ、やっぱりそうか。住民の憩いの場でもある緑道に植えられたサツキが無残にもへし折られているのを見て悲しくなった。ここは通学路でもあり、集団登校の集合場所でもある。これまでにも何かといたずらの跡はあったが、元気な子どものすること、仕方がないと思っていた。
 しかし、今回はどうかと思案し、始業の忙しい時間帯ではあったが、小学校の教頭先生に電話で事情を説明した。一週間後、教頭先生から話があった。複数の児童がサツキの枝や幹を深い考えもなく折っていたと分かった。学校で全校児童に命ある植物をわけもなく傷めることの是非を問うたところ、幾人かの児童が「(今回の件は)私がやりました」と正直に名乗り出たという。
 二週間たった放課後、有志の発案で八人の児童が緑道に集まり、教頭先生と一緒に元気よく七株のツツジを植え始めた。明るい声が緑道に響き渡り、四十分で作業は終わった。こういう先生と児童がいる限り、日本の未来は明るいと思った。”(12月3日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の林さん(男・78)の投稿文です。子供が悪いことをしても子供だからと許さず、キチンと悪いことだと教える。更に反省としてできることをする。子供の育て方として良い例だと思います。大人のキチンとした対応には多くの子供はキチンと答えるもの、それを曖昧のままにしてしまうと子供に間違った方向に走らせてしまう。
 今の時代、注意はしにくいものです。特に他人の子ともなると勇気さえいります。少し大きな子だと恨まれたり、時には食ってかかられたり、時には親に怒鳴られたりする。ボクの娘婿は小学校の教諭だが、聞いているとびっくりするような話が出てくる。それが一部の話しだったとしても注意に萎縮をさせる。現在は「社会で子供を育てる」とよく言われることですが、現実は遠ざかっている気がする。絆も昔に比べら希薄になっている気がする。




2013/12/11(Wed) (第1870話) 生きるに値する 寺さん MAIL 

 “「今でしょ」「じぇじぇじぇ」「倍返し」ー。今年も「流行語大賞」の候補が発表されました。それほど注目しているわけではないのですが、どのメディアでも大きく取り上げられ、自然に情報が入ってきます。今年は特に早くから予想が立てられ騒がれていたように思います。
 候補の中には入っていませんが、私が選ぶならこれと決めている言葉があります。それは、宮崎駿監督が長編アニメーション制作から引退を宣言されたときにおっしやった言葉「この世は生きるに値する」です。監督の作品作りの根底にある思いだそうです。会見の様子をテレビで見て胸を打たれました。宮崎作品は、だからあんなに胸に迫ってくるものがあるのだと妙に納得しました。
 「流行語」という視点からは外れていますが、作品とともにこの言葉を後世に残していただきたいです。「この世は生きるに値する」。人生最期のときには「本当にそうだった」と笑えるように、精いっぱい生きていきたいと思っています。”(12月2日付け中日新聞)

 岐阜県多治見市の家事手伝い・西家さん(女・30)の投稿文です。「この世は生きるに値する」いい言葉ですね、辛いことがあっても、悔やんでも、悩んでも・・・生きていればそのうち生きていて良かったと思える時が来る。短慮にこの世は生きるに値しないと持ってはいけない、宮崎さんのような人が値すると言っているのだから。勇気を与えられます。本当にこういった言葉の募集もやって欲しいですね。
 12月7日の一宮友歩会の例会では、小さな事ではあるが面白いことがいろいろあった。今「合縁奇縁」と言う題で随想を書き始めたが、これだから「人生は止められない」と言う思いである。




2013/12/09(Mon) (第1869話) 拾われた子 寺さん MAIL 

 “昔の親は、子どもに対し、ずいぶんひどい言い方をしたものだ。「お前は実は橋の下で捨われた子だ」。女の子はともかく、男の子は悪さをした時に、親からこんなことをよく言われたものである。事実ではないから、言える親の軽口なのだろうが、言われた方はそれなりに心配になる。自分はこの家の子どもではないのかもしれない・・・。なぜ親が「橋の下で捨ってきた」と言うのか。由来ははっきりしない。生後間もない子を道や橋の下に捨てるふりをする古来の「子捨て」という儀式と関係があるという説もある。いったん捨てて、拾われることによって、丈夫で健康に育つという親の願いが込められているという。(後略)”(11月28日付け中日新聞)

 コラム「中日春秋」から、六十年前、病院で出生直後に別の新生児と取り違えられた男性(六〇)を話題にした前半部分です。先日はボクは、「話・話」の第1865話で「橋の下で拾われた子」の話をしたばかりである。その数日後にこの中日春秋を読むとは、何とも人生の面白さを感じる。
 この文を読むと、橋の下で拾われた子はボクばかりではなかったようだ。でも「丈夫で健康に育つという親の願いが込められている」とは想い難い。叱り方の一つの方法だった気がする。ボクは叱られたり面白くないことがあるとブラッと橋へ出かけた。川の流れを見ていると気が休まる。ふるさとへ帰った気分だったろうか。ふるさとはやはりいいもののようだ。




2013/12/07(Sat) (第1868話) 手作り教科書 寺さん MAIL 

 “小学何年だか、学芸会の練習をしていて、私は国語の教科書を失くした。どんなに捜しても見つからない。書店にも在庫はなく、後に団塊の世代となる私たちの教科書は、一級上の従兄のとは中身が全く遺っていた。
 その時、両親が考えたことは何か?それは、一人娘のために教科書を作る、だった。近所の友達に頼み込んで借りた教科書を、字のきれいな父が文字を、絵の得意な母が挿絵を担当し、丁寧に写していった。
 幾晩もの夜なべ仕事の結果、どの文字もどんな挿絵も省略することなく、寸分たがわぬ一冊の本ができあがった。表紙に、切り抜きのスワンの絵が貼ってある、世界にひとつだけのその教科書は、同級生の間で評判になり、休み時間にのぞきにくる友も多かった。
 昨年、一昨年と両親を看取り、誰もいなくなった実家の片付をしながら、私はひそかにその教科書を捜している。もし見つからなくても、父と母のぬくもりを感じるよすがとして、心の中に生き続ける、わたし遺産であることはまちがいない。”(11月26日付け朝日新聞)

 ある銀行が募集した「私の遺産」から大賞を受賞された作品です。広告欄ながら何気なく目にし、大賞の3編を読んでしまった。これはその中の1編、兵庫県の北澤さん(65)の作品です。
 夜なべをしながら子供のために小学校の教科書を手作りしてしまう、親の愛とは何と凄いものであろうか。それも同級生が羨むようなものをである。買えなければ作る、北澤さんは私とほぼ同年代、多分昭和30年頃の話しであろう。当時は貧しかった。手作りのものも多かった。それを恥ずかしがる時代ではなかったと思う。
 今は何でもお金で賄う時代である。雑巾を買う話を聞いた時、ボクはびっくりした。そして、今は手作りするより買う方が安い場合も多い。いい時代ではあるが、それが本当に社会にとって、心にとっていい時代かは疑問を覚える。




2013/12/05(Thu) (第1867話) 友はどこへ 寺さん MAIL 

 “昨年、出身地の大阪で小、中学校の同級生数人が集まる機会があり、「還暦の年にぜひ同窓会をしよう」という話になった。卒業アルバムに載っている住所しか手がかりはないが、区画整理などで住所も変わってしまったようだ。自分で歩いて調べるしかない。一番遠くに住んでいる私が一番暇人なので、1泊2日の旅に出た。
 私の実家は、何十年も前に郊外に引っ越している。2冊のアルバムの入ったリュックを背負い、昔の記憶を頼りに1人で町をウロウロした。だが、家があったはずの場所が広い道路になり、路地があった場所に建物が立ち並んでいる。数人が途中から一緒に回ってくれたが、表札があっても人が住んでいる気配がない家が数多くあった。
 2日目にT君と約45年ぶりに対面できた。彼が「何人かは連絡先わかるよ」と言ってくれ、遠路はるばる来たかいがあった。全員の消息をつかむにはほど遠い。でも時間はまだある。あきらめず、一人でも多くの同級生を見つけたい。(後略)(11月21日付け朝日新聞)

 東京都西東京市の主婦・浦田さん(59)の投稿文です。東京から大阪まで同級生捜しに出かける。同窓会開催のためにである。凄い気力、熱意だと思う。そして、行動をすればそれなりの成果は出るものである。また思いがけない出来事にも出合う。やはり行動は大きな武器である。
 同窓会については長年携わってきたボクであるのでいろいろな想いがある。つい最近、来年1月に行う小学校の同窓会案内を出したところである。小学校は1年おきに、中学校は毎年行っているので住所はほぼ全員を把握している。大学も近年から1年おきに行っているし、30名ばかりであるので全員を把握している。しかし、高校はもう何十年も前に行ったきりである。今年同窓会名簿が届いたが、470名中38名が不明とあった。最近は個人情報保護法のせいか、連絡が取りにくくなった。転居した時には、いろいろなところに通知することも怠りなくしたい。浦田さんのような人に苦労を掛けることもあるのだ。




2013/12/02(Mon) (第1866話) 二毛作の人生 寺さん MAIL 

 “「二期作」の人生が出来るのは、職人や芸術家である。若手と老練とでは、円熱度がまるで達う。同じ人とは思えない熟達ぶりである。
 定年制のある仕事をしてきた私たちは、「二毛作」の人生と捉えたい。現役時代の様々なしがらみから解放され、まったく違うことで充実した人生を選んだほうが生きがいがある。友人を見ていても、この二毛作の生き方をしている人のほうが生き生きとしている。
 では、私の後半はどうであろうか。病気が自分のすることを決めてくれた。まさしく「禍転じて福となす」である。良性の脳腫瘍を手術した後遺症で、左顔面がまひした。医師からは「常に顔面の運動を怠らないように」と言われ、私は合唱とオカリナと朗読を選んだ。共通点は、顔全体を常に動かすことである。
 62歳で手術し、9年が経過した。この三つは何とか継続できている。発表会、演奏会、ボランティアの催しなどに出演できるところまでになった。振り返れば、人生後半の生き方になっていた。現役時代は中学、高校の教師だったので、何とか人生の二毛作になっているのではないかと考えている。”(11月17日付け朝日新聞)

 東京都小平市の乙幡さん(男・71)の投稿文です。人生二期作と二毛作、面白い表現、考え方だと思う。定年前と定年後の過ごした方を、同じようなことを続ければ二期作、全く違ったことを始めれば二毛作というのである。どちらがいいかは人それぞれであり、それぞれの環境がある。
 実はボクは二期作を取ろうか、二毛作を取ろうか迷った。結局二期作と言える方をを取った。二毛作は二期作が終わった後からでもできると思ったからである。でももうまもなく二期作は終わり、否応もなく二毛作となろう。体年齢も体力年齢も今のところ幸いに50代を保っている。それよりも問題は気力年齢であろう。本当に二毛作ができるであろうか。乙幡さんは病を得たことが二毛作のきっかけだったと言われる。病を得たらあきらめるのが普通だと思うが、逆なことに驚きである。やはり一番重要なことは気力である。




川柳&ウォーク