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第107号  2013年3月

2013/03/30(Sat) (第1746話) 第二希望でも 寺さん MAIL

 “人生にはいくつかの岐路がある。第一希望の方向になればうれしいが、時には第二希望になることがある。人生を振り返ると、第二希望になることが結構多かった。高校受験。行きたかった高校は、担任の先生から無理だと言われ、第二希望の高校に進んだ。大学受験。私は中学校教員を志し、教育学部中学校課程を受験したが、結果は第二希望の小学校課程に合格した。教員採用試験。これは第一希望の中学校教員に合格した。晴れて中学校に行けると期待していたが・・・。初任校は小学校だった。
 第一希望に進めなかった直後は悲しかったし、落ち込んだ。でも、人生何とかなるものである。第二希望で進んだ人生でも、さまざまな人との出会いが悲しみを忘れさせ、気持ちを前向きにさせてくれた。第一希望で進む人生も素晴らしいが、それに勝るとも劣らない私の「第二希望の人生」である。”(3月20日付け中日新聞)

 名古屋市の教員・佐野さん(男・59)の投稿文です。これは人生で大切なことである。最も大切なことかも知れない。人生順風満帆の人は一握りである。また一時期である。多くの人は挫折の連続である。それに耐え、立ち上がって行かねばならない。多くの人はそうしてきた。佐野さんの話はまさにその証明である。第一希望にくじけ、それでも第二希望でそれを果たしている。第二希望で目的を果たしているのは、耐え、努力されたからであろう。人生はやり直しがきかないから、どちらが良かったのかよくは分からない。ヒョッとして第二希望の方がよかったかも知れない。
 ボクは、元々大して望みを持っていなかったから、高校までは想定以上に順調に進んだ。大学受験で第一希望に落ちて、第二希望に進んだ。ボクはこのことを、ボクに与えられた幸いと思うことにした。あのまま第一希望の大学に進んでいたら、うぬぼれ、傲慢の塊になっていたろう。いやな奴になったろう。この体験が少し控えめな態度になり、努力にもつながったと思う。




2013/03/28(Thu) (第1745話) 「回覧ですよ」 寺さん MAIL

 “私は朝夕刊の配達をしている。たまに、朝刊配達時に郵便受けに入っていた回覧板が、夕刊の配達時になってもそのままになっていのを見かける。内側からは回覧板が見えにくい構造の郵便受けがある。本当は家の人に声をかけて手渡しすれば、早く回覧できるのになあと思いつつ、家の人が分かりやすいように入れ直す。
 幼いころを思い出す。私の家では、回覧板を次の家へ持っていくのは子どもの仕事だった。家の人に一声かけて留守だったら、そのまま置いてきていいと今は亡き母に言われていた。この「一声かける」ことが子ども心にとても負担で、留守だとほっとしたものだ。
 今、私はわが子に同じことはさせていないし、自分でさえもインターホンを鳴らさずに置いてくる。わざわざ呼び出すのは申し訳ないという気持ちもあるからだ。しかしご近所とのつながりという点から考えると、母はとても大切なことを教えてくれていたと思う。”(3月18日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・三浦さん(50)の投稿文です。この文に出合ってハッとした。もう長いこと回覧板は黙って置いてくるもの、それが当然と思っていた。声をかけて渡してくる・・・そうだったのだ。絆・絆と言いながら世の中はますます水くさいものになっている。まずは隣近所からである。機会を捉えて声を掛け合う、何より大切なことである。また郵便ポストに入れたままだと回覧が遅れるし、時にはポストからはみ出していて濡れてしまう。相手先の状況にもよるが、気配りしていいことだ。




2013/03/26(Tue) (第1744話) 続ける力 寺さん MAIL

 “この春、高校を巣立つ生徒を取材する機会にたびたび恵まれた。全国商業高校協会の検定試験で全九冠制覇を成し遂げたり、技能の国家資格を数多く取得したり、難関の秘書検定一級合格や全日本合唱コンクール全国大会の最高賞受賞を果たしたりと、優れた業績を残した逸材たちだ。
 興味深かったのは、ジャンルは道っても皆、地道さで共通していた点だ。「知識が増えるのが楽しくて苦にならなかった」「達成感を糧に頑張れた」など、言葉はまちまちでも、そろって飽くなき努力ぶりを語った。天才と片付けるのはたやすいが、三年間にわたって毎日何時間も精力を注ぎ、休日も外出や遊びを我慢してさらに精進するといったことは、素質や変身や魔法でやすやすと活躍する漫画の主人公たちと対極にある。
 私は常々、学問にしろ芸術にしろ、あるいはスポーツにしろ、大成の真の鍵は「続ける才能」にあるのではと考えてきた。甘えやあきらめを克服する力。ノーベル医学生理学賞の山中伸弥さんは、整形外科医の道を断念したり、研究生活に行き詰まったりと何度も挫折しながら「患者を救いたい」一念を貫き、難病治療に道を開くiPS細胞にたどりついた。大リーグのイチロー選手も、素質に安住しない「努力の天才」と呼ばれている。(後略)(3月16日付け中日新聞)

 「あいち現場孝」から中日新聞岡崎支局長の記事からです。「継続」の大切さはボクが最も重視することで、この「話・話」でももう何回も触れた。この継続するに「続ける力」と、最近はやりの力呼ばわりされたがやはりこれも力なのだろうか。楽しいだけのものなら力などいらないだろうが、有益なものに限って続けるには忍耐が必要なようである。でも耐えているだけでは前には進まない。それで続ける力となるのであろう。そして続けるには何かの楽しみを見つければ少しはたやすくなる。また、大きな最終目的の前に、一段一段毎に小さな目的、目標を見つけられればたやすくなるだろう。この見つけることも続ける力と言えようか。




2013/03/24(Sun) (第1743話) 大人の「お母さん」 寺さん MAIL

 “最近、テレビやラジオなどで気になる言葉がある。自分の親を「お父さん」「お母さん」と言うことだ。小学生ならまだしも、20歳を過ぎた若者や、孫がいてもおかしくないような大人までが平気で□にする。私は小学校を卒業する頃、学校の先生に、家の中では構わないが、家族以外の人と話す時は「父」や「母」と言うものだと教えられた。その時、そんなものかと知り、急に大人になった気がした。
 最近の若い人は、受験や入社の面接の時、きちんと「父」「母」と言っているのだろうか。そんなことを気にしている私がおかしいのか。気になる。”(3月14日付け読売新聞)

 広島県福山市の主婦・千代田さん(67)の投稿文です。この話などは全く周りの教えの話である。キチンと教えればそのようになる。当人もあまりに気にかけてこなかったかも知れないが、当人よりももっと周りに問題があると思う。特に両親であろう。日本語の大きな特質である尊敬語、謙譲語が全くあやふやになってきた。ボクも時折分からなくなる。
 ボクはこの話より、人前でも大声で「お父さん」「お母さん」と呼び合っている夫婦のことの方が気になっている。お父さん、お母さんは子供から見ての呼び方である。夫婦で呼び合う時に使う言葉ではない。こちらは明らかに間違いである。ボクの夫婦も長いことお父さん、お母さんと呼び合っていた。ちょうど1年前、ボクからこの呼び方は止めよう、呼ぶ必要がある時はできるだけ名前で呼ぼうと妻に提案した。もう何十年と続けてきた慣習である。照れくささもあっておいそれとは直らない。でも、今では名前で呼ぶか、他の言葉で呼んでいる。お父さん、お母さんは我が夫婦では禁止語、喪失語になった。




2013/03/22(Fri) (第1742話) 親の次 寺さん MAIL

 “私は学校の先生をとても尊敬しています。皆さんは学校の先生を尊敬していますか。罪を犯してしまう先生もいるけれど、それ以上に私たちにとって尊敬できる先生はたくさんいると思います。先生は学校でしか学べない大切なことを、一生懸命私たちに伝えてくれます。勉強はもちろん、人間関係などこれから社会に出ていく私たちにとって大切なことを。
 先生が怒ったとき、その意味など分からず反発してしまうけれど、後になってその意味に気づくと思います。実際、私もそうでした。部活の二年半、顧問の先生から学んだことがたくさんあります。仲間の大切さなど、言葉にはできないくらい大切なことを先生から教わりました。今は「ありがとう」の気持ちでいっぱいです。
 私たちにとって先生は、親の次に近い大人だと思います。そしてこれから社会に出ていく私たちにとって、とても大切な存在だと私は思います。”(3月14日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の中学生・小川さん(女・15)の投稿文です。このように思える小川さんも、またその先生も幸せである。悪い面ばかり見て批判したり、反抗を繰り返すようではこのような話にはならない。100%いい人も100%悪い人もこの世の中にはいない。どこの面を見るかである。良い面を見て感謝し、悪い面を見たら他山の石とすべきである。批判しているばかりでは何も生まない。
 この文でボクが感心したのは、親を第一と思っておられることである。このご両親も幸せである。この文が最も反抗的な時期の中学生であることがまた嬉しい。




2013/03/18(Mon) (第1741話) 時知らずの花 寺さん MAIL

 “庭のモクレンのつぼみは、まだまだ堅い。今年は雪の日が多く、ことさら春が待ち遠しい。それでも日脚は伸び、日暮れも遅くなってきた。眠っている山ももう少しで目覚め、笑うようになるだろう。
 冬枯れの山に、まず春を呼ぶように咲くマンサク、卵ボーロのように丸々と群れ咲くアブラチャン、長い房で咲くキブシ・・・。黄色に咲く花の木で山は満面の笑みをたたえる。この辺りでは、この花たちをひとくくりに「時知らずの花」と呼ぶ。寒さもいとわず、何より先に咲くマンサクをはじめ淡い黄色の花は、見る者を温かく包み込む。春が来たことを実感するのである。
 車の中から身を乗り出すように外を見る私に「どうだ、おまえの待っている花は咲いたか」とハンドルを握る夫が問い掛けた。「まだまだ」山の景色を追う私は、がっかりした声で答える。
 「時知らずの花」は、「春の女神」と呼ばれるコブシの花に先駆けて咲く「時知らせの花」と呼ぶのがふさわしい。《もう少し待っているよ》。こう声をかけながら家路についた。”(3月6日付け中日新聞)

 長野県大桑村の主婦・高橋さん(69)の投稿文です。「時知らずの花」と言う言い方も、この文も全く情緒が溢れている。こんな文に出合うと自分も何となく優しくなる。夫婦でこんなドライブをしている姿を想像するとまた癒される。
 わが家のマンサクはもう散ってしまった。福寿草ももう終わりのようだ。水仙は咲き始めた。モクレンはまだつぼみである。これから次から次へと花は変わっていく。この変化を見逃してはもったいない。ゆっくり味わって過ごしたいものだ。




2013/03/16(Sat) (第1740話) ありがとう 寺さん MAIL

 “私はシルバー人材センターより派遣されてスーパーで働いています。仕事の内容は主に買い物かごとカートの整理整頓です。お客さまが使用された後、それぞれの置き場にたまったかごやカートを、折を見て、二力所ある入り□に置き換えます。余力のあるときには、特にベビー・力ーを利用されている方や高齢のお客さまの場合、自家用車の近くまで引き取りにいきます。
 お客さまの対応はさまざま。「ありがとう。ご苦労さまです」と言ってくださる方もいれば「これはおまえたちの仕事。当然だろう」という態度の方も。そんな中で癒やされるのは、カートよりも小さな幼児がお手伝いをする姿です。幼児がカートを押しているときは、周りを確認して、置き場へ収めるまで見守っています。それから大きな声で「ありがとう」と礼を言うと、幼児は肩で大きく息を吸い、大役を成し遂げたかのように両親の元へ駆けていきます。子どもとは何とかわいいのでしょう。私は親切にされたら「ありがとう」と言える人間になりたいと思っています。”(3月5日付け中日新聞)

 岐阜県美濃市の派遣社員・後藤さん(男・70)の投稿文です。「ありがとう」の持つ言葉の大きさは凄いのである。この言葉一つでほとんどのことがスムーズに行くのである。この「話・話」を続けながらそんな文に何度も出合い、紹介してきた。ボク自身も心がけるようになった。先日はコンビニのレジで、自分が何気なく「ありがとう」と言っているのに気づいて驚いた。妻にもよく言うようになったと思う。
 先日、老人会の講演で元中学校長の話を聞く機会があった。「ありがとう」の大切さを説かれた。「昨日、何回ありがとうを言ったか思いだして下さい」と言われた。言っているはずだとは思うが、意外に思い出せない。無意識に言っているのだろうか。自然に出でるようになったことが良いのだろうか。気持ちがこもっていないとも言える。次の問題に気づいた。




2013/03/14(Thu) (第1739話) 点訳本寄贈 寺さん MAIL

 “白紙に並ぶ六つの点を組み合わせ、視覚障害者を本の世界へいざなう。愛知県一宮市の点訳ボランティアサークル「ききょう」の代表で、活字と視覚障害者を結ぶ活動を三十四年続けている。小説を中心に、これまで一宮市立図書館に寄贈した本は計1348冊になる。「本が好きなので読書の喜びを伝えるお手伝いができたら」と点訳の講習会に通い始めたのがきっかけ。サークルに入り、今は33人の仲間と作業をする。
 利用者からの求めで新聞記事や楽譜なども手掛ける。根強い要望があるのは将棋の棋譜。点訳された棋譜を見て表記のルールを研究した。全国の将棋ファン十人ほどに郵送する。
 文章をパソコンで平仮名で入力し、点字専用の印刷機で打ち出す。「点字のタイプライターのころは打ち間違えると大変。六十歳になってから覚えたパソコンで作業は劇的に楽になりました」。作業の多くは自宅で行うため介護など家庭の事情で辞めていく仲間もいた。「続けられたのは夫の理解があったからこそ」と感謝する。「耳で聞くよりも点字で読んだ方が頭に残る」という利用者の言葉が励みになる。七十八歳。”(3月4日付け中日新聞)

 「この人」という欄から三溝佐和子さんの紹介記事です。34年、1348冊、気が遠くなる数字である。でも続ければこうなるのである。継続の力、尊さである。
 実は僕ら夫婦も点訳活動をしていた時期があり、始めたのは昭和49年であるから、もう40年近くも前のことになる。このキキョウの会はまだ無かったことになる。僕ら夫婦は名古屋の鶴舞図書館で活動をしていた「六つ星会」という会に入った。その頃はタイプライターどころか鉄筆で1点1点ずつ紙を打つのである。点字にはいろいろな苦労があるが、この点が均等にならずに不揃いになることが最も大きな苦労であった。ボクは5年くらいで止めるが、妻はその後も続け、タイプライターからパソコンの時代まで続けていた。今となってはもう懐かしい思い出である。この記事からこんなことを思い出しながら、点字活動ならまた復活できることに気がついた。




2013/03/12(Tue) (第1738話) じわり回復 寺さん MAIL

 “龍照院(蟹江町須成)で、「太閤お手植え」と親しまれているイチョウの樹勢を回復させる治療作業が進められている。地元は樹齢400年になる名木の健康を祈っている。
 豊臣秀吉が植えたと伝えられるイチョウは高さが22mあり、町の天然記念物。2009年から二年おきに治療が実施され、今年は25日から始まった。26日は造園業者が根を傷つけないよう、圧縮した空気を出す道具で根の周りに深さ60cmの穴を掘り、堆肥や水をよく通す効果のある木炭を入れた。
 作業を指導する蟹江町蟹江本町の樹木医小堀英和さん(61)は「以前より葉の数が多く、色は緑が濃くなった。実るギンナンも増え、少しずつ状態は良くなっている」と語る。”(2月28日付け中日新聞)

 記事からです。このイチョウには、平成20年6月7日の一宮友歩会第14回例会で訪れている。ボクのホームページにはその時のイチョウの写真も紹介している。治療作業が始められたのは2009年と言うからその翌年からである。だから樹勢が最も弱っていた時に見に行ったことになる。
 樹木医が活躍する時代になった。ボクの知人にも樹木医がいる。いろいろなところで活躍しているようだ。我々が何気なく見る景色にもいろいろな努力が払われている。知らず知らずのうちにいろいろな恩恵を受けている。そのことをいつも感じ取って過ごしたいものだ。
 この記事を見た時、確か見に行ったはずだ。ホームページを覗いてみる。そして、その時の一宮友歩会の例会状況も思い出す。知っていたことが記事を見ると懐かしくなるし、またより身近なものになる。体験が多くなるほどこんな機会も多くなる。これからも積極的にいろいろな体験を積んでいきたい。




2013/03/10(Sun) (第1737話) 命日に集まって 寺さん MAIL

 “豊田市の加藤真弓さん(五七)の三女知永(ちえ)さんは中学二年のときに重い病気にかかった。治療のかいがあり一時回復したが、高校受験の翌日に再発。合格通知が届いたものの、一日も高校へ通うことなく亡くなってしまった。二〇〇一年十一月二十三日のことだった。
 その翌年の命日。知永さんが通っていた中学校のバレーボール部顧問の鶴田容子先生が、バレー部のOBや現役部員を連れてお参りに来てくれた。加藤さんは「なぜ、現役の後輩たちが?」と疑問に思った。生徒に尋ねると「バレー部の部室に、千羽鶴が飾ってあるんです。『これは何ですか?』と先生に聞いたら、加藤知永さんという先輩がいて、病気で大会に出場できなかった際に、仲間の勝利を祈って贈ったものだと聞きました。その千羽鶴を見てお参りさせていただきたくて」と言う。
 そのことが語り継がれ、十年余りたった今も、命日になると加藤さん宅に大勢の後輩たちが集まる。もちろん、今は社会人となった知永さんの同級生の姿も。(中略)
 「正直、最初のころは元気な子たちを見るのがつらかったです。でも、だんだんと励まされ、癒やされ、元気をもらうようになりました。今年は十三回忌です。皆さん本当にありがとうございました」と加藤さんは言う。”(2月24日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。折り鶴が縁で、見知らぬ後輩が訪問を続けて10年以上、おとぎ話のような気がします。何がどんなつながりになっていくのか、人次第とは思いますが、不思議な気がします。温かい体験をいくつ積めるか、この逆の体験か、それによって人は大きく変わって来る気がします。
 年度末です。ボクの村では毎年のようにこの時期いろいろな役員が交代します。ボクは今年度は老人会会長を勤め、4月からは町会長を勤めることになっています。こんな中にいるのでいろいろな話を聞きます。淡々と受ける人、しつこく断る人など様々です。ここら辺りにもその人の今までの体験が大きく関わっている気がします。ボクはまだ勤めをしていることもあって何でもというわけにはいきませんが、受けられるものは何でも受けるつもりです。こう思えるのも良い体験を頂いてきたからでしょうか。




2013/03/08(Fri) (第1736話) 工事のお礼 寺さん MAIL

 “市内の中学校の耐震工事に携わりました。完成にあたり、全校生徒が集まって「御礼の会」を開いてくれました。校長先生や生徒会長からの温かい言葉に感激で頭が真っ白、うまく返礼を述べられないほどでした。
 昨年九月の運動会前日、予報を見て足場に大きなてるてる坊主をつるしたら雨が降らなかったことなど、生徒さんは覚えてくれている様子。すれ違うと必ずあいさつしてくれた皆さんに明るい未来を感じました。”(2月21日付け中日新聞)

 岐阜県下呂市の会社員(男・59)の投稿文です。土木建築工事といったものはありがたいことは分かっていても、工事中は迷惑なことが多く、終わるとやっと迷惑から解放されるといった気持ちが強く、感謝を表されることは少ない。それだけにこの「謝礼の会」は嬉しかったことであろう。
 当然といえば当然だが、学校というのは本当に教師次第である。ボクの母校の中学校は数年前まで荒れていたようだが、校長先生が替わって数年で落ち着いた学校になったという。スポーツや音楽の強い学校も指導者に寄るのだろう。そうしてこの学校のように感謝の気持ちを表す学校も教師によると思う。地域の人は教師が能力を発揮しやすい環境作りに努めることだろう。




2013/03/06(Wed) (第1735話) 友情を再確認 寺さん MAIL

 “1951(昭和26)年に中学校を卒業した仲間たちで、成人式を機に「八の会」という同友会を立ち上げた。毎月八日に会い「ばら色の青春なんてない。互いに苦しみ、傷つき、血みどろの闘いをしてこそ青春だ。そして、その後にあるのが真の青春だ」と、叱咤激励しながら、五十五年間続いた。
 六十代になって五人の仲間が世を去ったが、たくさんの素晴らしい思い出を残してくれた。七十五歳の時に「光輝の会」と名称を変え、あらためて仲間を募ったところ、男女三十六人が集まった。
 中学校時代の仲間は最高だが「友情を保つには、絶えず修理していかねばならない」という英国の文豪サミュエル・ジョンソンの言葉を肝に銘じている。”(2月20日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の自営業・田財さん(男・77)の投稿文です。成人式から毎月とは、57年間毎月である。素晴らしい、できるものである。毎月何人くらいの人が集まられたのか分からないが、数人でも素晴らしい。話すことの効用も大きい。多くのことがこの集まりによって乗り越えられたのであろう。
 ボクはこの投稿を読んで、すぐに思い立った。遅ればせながらボクらもやってみよう。2月23日に数人の中学校の同級生に提案した。皆すぐに賛成してくれた。折角行ってみたら誰もいなかったではいけないので、特に予定も無ければいつも行くという人を5、6人確保しておかねばならない。そうすれば誰も来ないと言うことはなかろう。すぐに目途も付いた。場所も日時も決めた。4月に出す同窓会案内にこのことも案内しよう。楽しくなってきた。いい投稿文に出合った。




2013/03/04(Mon) (第1734話) いいこと日記 寺さん MAIL

 “毎年、同じ形式の手帳を愛用しています。今年は他の手帳も手に入り、二冊になりました。どのように使おうかと考えた時に「いいこと日記を書くと幸せになれる」といった趣旨の記事を読んだことを思い出し、実践してみることにしました。
 毎日、いい勉強になったことや心が温かくなったことなど、五つくらい見つけては書き続けて二ヵ月ほどになります。明るくあいさつができた、鉢植えの花が安く手に入った、冬なのに暖かい日で洗濯物がよく乾いた・・・。
 初めは、自分で決めたことだからと義務的に書いていた日もありました。しかし、書いているうちに気づいたのです。小さな幸せはどこにでもあり、今まで見落としていただけだということに。幸せは、目の前にあってもなかなか気づきにくいものですが、ひとたび意識することによって、より大きく広がっていきます。書くことで、心に潤いが生まれ、小さな喜びもキャッチできるようになりました。”(2月19日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・山口さん(68)の投稿文です。前回に続いてまた書く話である。毎日身近に起こった良いことを記録していく、良い行為です。気持ちも温かくなるでしょう。この「話・話」に通じる話ですが、それ以上に素晴らしい。ボクの「話・話」は他人の話がほとんどですが、山口さんのいいとこ日記は自分の話です。その気になって自分を見渡せば、悪いことよりいいことで満ちあふれているでしょう。悪いことはいつまでも心に引っかかるが、いいことはすぐ忘れるし、時には当たり前と気にもかけない。心豊かに過ごすにはいいことに目を向けることが重要でしょう。
 いいこと日記のきっかけが2冊の手帳が手に入ったこととは面白い。ボクは毎年使い慣れた手帳を買うが、人からももらう。もらった手帳は妻が使ったり、時にはそのまま忘れられる年も多い。もう少し頭を使えば使い方はあるのだ。カレンダーもしかりである。




2013/03/02(Sat) (第1733話) ひな人形に託す 寺さん MAIL

 “今年もひな人形を飾りました。もう四十数年前のものなので、箱はぼろぼろ、人形の着物も色あせています。それでも毎年、ひな人形を出すのは、楽しみがあるからです。人形の入った箱の中に、昨年の私から今年の私に向けた手紙が入っているのです。たった一年前のことなのですが「ささいなことで悩んでいたんだなあ」「そうそう、こんなことがあったなあ」と懐かしい気持ちになります。
 この手紙は二十年分ほどたまっていて、古いものから順に読み返すと、ささやかですが自分の成長が感じられます。残念ながら伸びている部分ばかりではありませんが。純粋な思いやり、素直な考え方など、昔の自分と比べて、今の自分か恥ずかしくなることも多々あります。服の洗濯は簡単ですが、心の洗濯はなかなか難しいもの。こびりついた汚れを落とすことは無理でも、せめてその汚れには気付きたいと思うのです。”(2月19日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の保育士・佐野さん(女・42)の投稿文です。「昨年の私から今年の私に向けた手紙」を書く、またまたいろいろな話があるものだ。どんなことを書かれているのか、見せてもらいたいものだ。そんな手紙をひな人形に託されるのだから、また味な話である。
 先日、過去の「話・話」の中から書くことに関した話を抜き出し「書くことの勧め」としてホームページ(付録)に載せたところである。抜き出しながら書くことを取り上げている「話・話」がこんなに多かったのかと自分ながら驚いた。それだけ様々な事例があり、大切なことだと言うことであろう。書く効用の大きさは呆け防止など今更言うことでもあるまい。ボクもいろいろな形で続けたい。
 わが家も今年も雛人形を出した。娘が生まれた時に買った内裏びなで、娘2人がいる二女に持って行くように言っても未だわが家にあり、わが家で飾っている。


 


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