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第97号  2012年5月

2012/05/29(Tue) (第1615話) 受賞を励みに 寺さん MAIL

 “私が老人施設でお年寄りと絵手紙を描いたりするボランティアグループに入会したのは約十五年前。その「はぐるまの会」が、長年の奉仕活動が認められ緑綬褒章を受章した。
 私たちは趣味の延長で楽しく活動してきただけなので、驚きともったいない気持ちでいっぱいだ。三十四年余続いてきた会も存続が危ぶまれた時があった。でも、先代の功績をここで消滅させたくないと頑張った。何とかここまで続けてこられたのは、おのおのが自分の生活に無理のない範囲で楽しめる活動をしてきたからだと思う。健康な体であることと、私たちの活動を喜んでくださる方々や、好きなことをやらせてくれる家族のおかげた。
 受章は創設時から今日まで会に携わってきたことのある皆さんの功績の証しでもあり、全員への表彰だと思う。現在、会員である私たちの時代に受章したことに感謝したい。”(5月17日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の主婦・寺倉さん(46)の投稿文です。ボランティアグループが34年続くというのは大変なことである。中心となる人も何人も変わったであろう。言われるように存続が危ぶまれた時があったと思う。ボクもいろいろな会に関わってきて、いろいろなことを見てきた。中心となる人の1代目は意欲がある人なので、創立期の苦しみもあろうが、何とかなっていく。2代目にうまく引き継げれば当分は行く。会の内容、性格にもよろうが、その後難しい時期が来る。そして、それを乗り切ってしまうと無理もなく続く。34年続けば表彰に値する。
 一宮友歩会もどうなっていくだろうか。ボク1代で終わってもいいとも思うが、できれば良い後継者を見つけたい。まずは2代目である。




2012/05/27(Sun) (第1614話) 二足の靴(その2) 寺さん MAIL

 5月13日付け中日新聞の「(ほろほろ通信)母の日と古ぼけた二足の靴」の後半部です。
 “そんな自分が、今は父親になった。先日のことだ。会社に着くとコートのポケットが膨らんでいることに気づいた。手を入れると、ミカンと一通の手紙が出てきた。それは小学四年と一年の娘からのものだった。それぞれに「お仕事がんばってね。みかん食べて風邪ひかないでね」「パパ大好き」。残業続きで午前さまが続いているのを心配してくれたのだった。その手紙は小栗さんの宝物になっている。
 母の日に、小栗さんから母親へのメッセージ。「生んでくれてありがとう」。そして、娘さんたちへのメッセージ。「生まれてくれてありがとう」”

 「親(大人)の背中を見て子は育つ」それをまさに感じる風景です。本当に子は親のするようにする。小栗さんが親を大切にされているから子供さんもそれを感じられたのであろう。ひょっとすると奥さんからの入れ知恵であったかもしれない。それならそれでも良い。また別の意味を学んだであろう。
 子供は意味を知らなくてもするので、子供の前では大人の中で許されることでも気をつけねばいけない。ボクも孫とよく行動するので気を使っている。孫といて初心に返る気分の時もある。
 小栗さんの母親への、娘さんへのメッセージも良い。こんな言葉を素直に言える小栗さんは素晴らしい。考えてみればボクもそうだが、こんな言葉は素直に出てこない。




2012/05/25(Fri) (第1613話) 二足の靴(その1) 寺さん MAIL

 5月13日付け中日新聞の「(ほろほろ通信)母の日と古ぼけた二足の靴」を2回に分けて紹介します。まずは前半部です。
 “名古屋市瑞穂区の小栗健吾さん(四〇)は毎年、母の日に二人の子どもを連れて実家を訪れる。お姉さんもニ人の子どもと一緒にやってくる。四人の孫が競うようにして肩をたたく。小栗さんの両親はそれを楽しみにしている。
 二年前の母の日のことだ。実家の玄関で二足の靴を見かけた。ペアのトレッキングシューズだ。茶色に変色し、ずいぶん古ぼけている。「あれ?これって・・・」と首をかしげたとき、母親が言った。「この靴、十五年前にあなたが初任給で買ってくれたものだよ。大切に履いていたので今でももっているのよ。これからも大事に履くからね」。小栗さんは当時のことを思い出した。「初任給で何かプレゼントしたい」と言うと、「夫婦でハイキングに出掛けたい」というので贈ったことを。
 自分でも忘れかけていたのに、ずっと大切にしていてくれたのだと思うと泣けてきてしまった。母の日に反対に大きなプレゼントをもらった気がしたという。”

 「子供の初任給で買ってもらった靴を大切に使う」、ここまで育ててもらった親への感謝、ここまで健全に育ってくれた親の嬉しさ、「この親にしてこの子あり」であろうか。親子であろうとも態度で示すことは大切なことである。実はボクはこの点では大きな落第生であった。そのことを後になって大きく知らされた。ボクの人生の最大の失点であった。落第であっただけにこうした行為に感心する。母の日にも子供を連れて親を訪ね、感謝の心を表す。いつまでも良い親子関係が気づいていけるだろう。
 母の日にはボクの娘もそれなりにしているようだが、特に次女は高価ではないがよく考えてしている。娘婿がそういう意識が強いと思われる。ありがたいことである。




2012/05/22(Tue) (第1612話) 金婚式のお経 寺さん MAIL

 “結婚して五十年の記念日、先祖に感謝を伝えようと夫婦でお墓参りをし、記念のお経を上げてもらいました。「こうした記念日のお経は初めて」と驚いていた和尚さんのお経では夫と私の名前が読み上げられて、仏式の結婚式のようでした。
 すがすがしい気持ちになって帰宅すると、同居の娘と孫娘がユリやカーネーションなどの立派な花束で迎えてくれました。涙が出そうなほど感激。新たな気持ちでまた一歩を踏み出せそうです。”(5月9日付け中日新聞)

 愛知県知多市の主婦(70)の投稿文です。金婚式記念に先祖に感謝してお墓で読経は聞いたことがありません。こんな新たな発想に感心します。父母があって祖父母があって・・・今あるのはすべて先祖があってのこと、我々はそのことをつい忘れがちになります。
 「人生七十、古来稀なり」、金婚式となれば更にです。25歳で結婚して75歳ですから、寿命の長くなった今では結構あると思いますが、それでも夫婦そろっていなければなりませんので、全く喜ばしいことです。先祖も含めて感謝し、皆で祝いたいものです。
 当分は金婚式を迎える夫婦も増えると思いますが、今の結婚世情を見ていると、数十年もすると稀になるのではないでしょうか。




2012/05/20(Sun) (第1611話) 良い生活とは 寺さん MAIL

 “先日の本欄「広い家が『良い家』ではない」を投稿された高校生の永元裕也さん。私も全く同感です。我が家も現在の家を建てる前は、6畳と4畳半が2部屋のアパート暮らしでした。「ご飯よ」と一声掛ければ家族全員に聞こえました。同じテレビ番組を見て、皆で笑い合えました。けんかをした時でも、嫌でも顔を突き合わせなければ生活できませんでした。
 今の家は全員が自分の部屋を持ち、テレビなど家電も一通りそろっています。好きな時に誰に遠慮することなく、くつろぐことができます。とても恵まれているし感謝すべきことです。しかし、懐かしく思い出されるのは、なぜかあの挟いアパート暮らしなのです。人間は一度ぜいたくを覚えると、なかなか元の生活に戻れないのも事実でしょう。「本当に良い家とは、良い生活とば何だろう」と考えさせられました。”(5月9日付け毎日新聞)

 福岡県須恵町の主婦・古川さん(女・53)の投稿文です。我々は世の習い、流れに沿って物事を考えている。いい家に住み、裕福な豊かな生活をする、それが人間として当然のことである。それに向かって努力することは善であり、そうしない態度は時には怠け者とさえ見なされる。皆同じ方向を向かうことによって競争は激しくなり、皆あくせくし、時には体を病み心まで痛めている。
 そうした時、何かの折りにふと振り返ってみる。豊かになった今より貧しかったあのときの方が良かったのではないか、古川さんの投稿文はそんな気持ちを書かれたのでしょう。こんな文を読むとボクも考えさせられます。しかし、古川さんはこう書かれてもあのアパート暮らしに戻りたいとは思われないでしょう。こういう文が書けるのも今が恵まれてるからでしょう。物事に100%の善も悪も、良いも悪いもありません。得るものがあれば失うものもあります。過去は懐かしむものです。それが良い効果を生むこともあるでしょう。ボクはこんな事を思います。
 ボクも結婚したとき、6畳と4畳半二間の借家でした。三軒長屋の真ん中で、風が通らなくて夏は蒸し風呂でした。よくやっていたと今では懐かしいことです。




2012/05/18(Fri) (第1610話) 息子よ、ありがとう 寺さん MAIL

 “宮城も例年より遅い春らんまんとなった。昨春は震災により行方不明となった息子健太を捜し女川の浜を一心不乱に家内と歩き続けた。その時目に入る全ての風景はモノクロの世界、つらすぎる現実だった。
 健太は小さな頃から甲子園出場という夢を抱き、多くの人と出会い、さまざまなことを学んだ。大学卒業後は地元の銀行に入行し、地域の皆様に恩返ししようと頑張っていた。そんな中、震災に遭遇し、25年で入生に終止符を打った。健大は私たちには「あきらめる」と一度も言ったことはなく、「夢はかなえるもの」として日々を歩んでいた。強く熱い青年だった。結婚を目前にし多くの夢がかなえられる寸前だった。さぞかし無念であったろう。健太の野球帽には「夢をありがとう」と感謝の言葉が書かれてあった。健太は私の恩師、「あきらめない」「夢はかなえるもの」「感謝」の志を残してくれた。大切な事を教えてくれてありがとう。これからもいつも一緒だよ。”(5月9日付け毎日新聞)

 宮城県大崎市の会社員・田村さん(男・51)の投稿文です。昨年の東日本大震災は本当に凄い被害であった。沢山の人が亡くなられた。沢山の様々な悲劇があったろう。田村さんもその一人で、息子さんをなくされた。子供をなくした悲しみは、悲しみの中でも最大級のものであろう。その中でこの田村さんの文である。亡くなった息子さんの生前を讃え、大切なことを教えてくれたと感謝をされている。ボクは子供のことをここまで言えるのかと驚きもし、感心もした。田村さんが息子さんの分まで頑張って生きられることを祈りたい。
 死の悲しみは当事者にとってみれば1人だろうが100人だろうが同じである。返って1人の方が辛いことだってある。100人の方がより悲しいのは当事者以外の人のことである。心せねばならぬ事である。そしてボクは身内で、不慮の事故や病気で若くして亡くなった人を持っていない。ボクの父親が68歳で亡くなったが、それが早いほうである。皆相応に人生を全うしている。考えてみればこれほど恵まれていることはない。だからボクは本当の辛い悲しみを知らない。




2012/05/16(Wed) (第1609話) 親切な心の輪 寺さん MAIL

 “私が勤める和菓子店の話です。店の従業員が、三十km先の高速道路のサービスエリアに納品に行く途中、運悪くガス欠になり、国道沿いの飲料品店に助けを求めました。そうしたら店主は「さぞお困りだろう」と車を貸してくれ、無事納品を終えて車を返しに行ったら、その間にガソリンスタンドに連絡して、ガソリンを入れ、お金まで立て替えてくださったという。あいにく従業員は、お金の持ちあわせがなかったのですが、「いつでもいいよ」と快くおっしゃったとのことでした。
 責任者はすぐ、お礼に行きましたが、その責任者までも、雨の降りしきる夜道にもかかわらず、心がポカポカしたとのことでした。だましだまされのこの世の中、こんないい人がいるんだ、ということで店中は、その話で持ちきり。田舎のちょっといい話でした。この親切が、大きな輪になって広がり、少しでも明るい社会になればいいなあと思い、筆をとりました。”(5月6日付け中日新聞)

 滋賀県甲賀市のパート・市井さん(女・58)の投稿文です。親切な人があるものだ。ここまでの親切心となるともう人柄である、人格であろう。普通の親切心ではここまで気が回らないと思う。
 この場合、ボクならどうするだろう。まずはガソリンを足すことを考える。幸いボクの家には耕耘機用のガソリンが置いてある。これは簡単なことだ。しかし、それが少なかったらどうするだろう。ボクは見ず知らずの人に車を貸すだろうか。30km先というと自分が乗せて行くには遠すぎる。とっさの時にどういう判断をするか、こういうときに本当の親切心が試されるだろう。ボクには自信がない。




2012/05/14(Mon) (第1608話) 老人会に入ろう 寺さん MAIL

 “「長生きが悪い気もする長寿国」という川柳が本欄に載っていた。そう思う時もあるが甘えず、遠慮もせず生きていきたい。
 六十代に老人会に誘われた。先のことと断ったが、会社を辞め、この地がついのすみかと考えたとき入会した。年相応の単純なスポーツや行事。当初は物足りなかったが、七十代になりゆっくり感が合ってきた。八十代の人は外へ出て皆と話すだけでいい、という。年齢と共に衰える体力、家に閉じこもれば、ますます社会から取り残される。
 老人会は地域の見守り隊の役目も兼ねているが、お世話下さる役員も同じ高齢者で、相当な負担がかかる。絆の大切さが叫ばれる昨今。まだまだ元気な六十代の人たちよ、老人会の名称に抵抗を感じても、やがて行く道。多少のボランティア精神も交えて仲間に入って。残りの人生支え合っていこう。”(5月6日付け中日新聞)

 岐阜県笠松町の主婦・浅野さん(73)の投稿文です。高齢者の話が多くなって若い人には恐縮もするが、新聞の投稿欄に高齢者のものが多いのである。若い人の投稿が多くなるといいと思うが、投稿の余裕も気分もないのであろうか。
 ボクは今年老人会の会長(ブロック長)をしていることもあってその実態やあり方について関心がある。ボクの地元でも会員数は減少傾向にある。ボクは60歳になると当然入るものと思って入ったが、今は入らない人が多くなっている。入ればいつか役員をしなければならない。それがいやなのだという。それと老人会に入る魅力である。役員になるとその活動の多さに驚くが、ボクの村の場合一般の人にはその活動がよく見えないのである。ここが問題だと思うが、いろいろな条件があって解決は簡単ではない。この1年、例年にならって努めていくか、新たな問題提起をするか、しばらく様子見であろう。
 人生の事はすべて自分から動くか、働きかけを待つかによって大きく違ってくる。高齢になればなるほど外からの働きかけは少なくなる。高齢になるほど自分から動かないとどうにもならない。




2012/05/12(Sat) (第1607話) マイ・ウェイ 寺さん MAIL

 “主人は十七年前、脳内出血で突然天国に召されました。その時、私は五十八歳でした。その後の長い人生をどう過ごせばいいのか迷った揚げ句、ニュージーランドヘ渡り、英語の勉強をする道を選びました。良い教師に恵まれ、心地よさに永住も考えましたが、七十歳の誕生日に帰国しました。
 その後の趣味として習い始めたのがシャンソン。初心者ながら、先生の計らいで発表会にも出していただけることになりました。娘のピアノ伴奏も許していただけ、週一度の娘との練習が始まりました。(中略)
 今歌っているのは「マイ・ウェイ」。今までの道程を考えながら、お会いできたすべての人に感謝し、時に感慨に浸ります。両親が亡くなり、兄や姉、そして主人までも逝ってしまいました。でも、私はマイ・ウェイを生きていきます。娘が要求します。「力強く、自信を持った声で高らかに歌おうよ」と。”(5月1日付け中日新聞)

 愛知県尾張旭市の主婦・久保田さん(75)の投稿文です。58歳でニュージーランドに渡り、十年以上過ごして帰国。今はシャンソンを習っている。それもご主人が亡くなってからである。ご主人が亡くなって気力が失せるのが普通だと思うが、驚くばかりである。人様々と言うが、この意欲はどうしたものか。女性は連れ合いが亡くなると元気なるとも言われるが、それにしてもだ。久保田さんの若い頃はどんなものだったのであろうか。普通の主婦だったのだろうか、それとも特別の人だったのだろうか。こんな人と比べたらボクなどごろ寝しているようなものだ。そのボクがまもなく勤めも辞めるだろう、地元の役員も終わろう。まもなく本当の眠りに入ろうとしてる。それでいいのだろうか、もうすることはないのだろうか、もうできることはないのだろうか、その後を今から本気で考えねばなるまい。




2012/05/10(Thu) (第1606話) 愛おしい日々 寺さん MAIL

 “鏡を見ていて年とったなぁなんて思っていたら、夢の中で、神様に「好きな年齢に若返らせてあげる」と言われた。
 十代、部活をめちゃくちゃ頑張った。強くはなかったけれど、チームメイトとは今も仲がいい。二十代、少しでもきれいになりたくて、色々なダイエットに挑戦したっけ。それは失敗ばかりだったけど、優しい主人に出会えたのも二十代だった。三十代と四十代は、三人の子供を育てるのに目の回る忙しさ。主人がリストラされたりもして生活は苦しかったけど、いつも笑っていたなあ。
 振り返ってみると全てが大切な思い出で、このまま年をとってもいいやと思えてきた。それに気付かせてくれた神様に、お礼を言った。”(4月29日付け中日新聞)

 「300文字小説」から横浜市の自営業・嶋田さん(女・52)の作品です。過去に戻りたい、やり直しをしたい、誰もがふと思うものだが、さて、それでは何歳のどこからやり直したいのか、言おうと思うと決断がつかない。ある時点に戻ったとしても現在が今以上によくなる保証はない。過去があって現在があるのである。今不幸のどん底でない限り、嶋田さんの結論に至っていくのではなかろうか。良くても悪くても過去は懐かしいのであり、愛おしいのであり、宝でもあるのである。2004年5月27日の「第1話 5年の命短縮」も似たような話である。




2012/05/08(Tue) (第1605話) GWは歴史感じて 寺さん MAIL

 “旧国鉄中央線廃線跡「愛岐トンネル群」春の特別公開が二十六日から三十日まであります。JR定光寺駅で下車し、一人百円を支払って散策します。私は数回歩きましたが、かってSLが走った線路跡や重厚なれんが造りの暗いトンネルを行くと、日本の原風景を体験できる気がします。
 トンネル保存会の整備のおかげで、家族連れも楽しめる穴場だと思います。開門午前十時、閉門午後三時で入場は午後二時まで。駐車場はありません。”(4月25日付け中日新聞)

 名古屋市の67歳男性からの投稿文です。この催しに4月30日、ボクも行ってきました。以前から一度行ってみたいと思っていたところ、昔の職場の仲間が行くというのでボクも参加した。参加してみて驚くことばかりであった。凄い参加者である。結局この日は3800人の参加者があったという。そして、その整備具合、受け入れの工夫である。ベンチや東屋を作り休憩の場所にしている。各所に説明板を設けている。樹木に名札を付けてる。活動を始めたのが平成19年と言うからまだ5年ばかりである。現在「NPO法人愛岐トンネル群保存再生委員会」が主体で保存再生が行われてるようだが、どのような経過をたどり、今後どのように続けられていくのか知りたいものだ。簡単にホームページにもしましたのでご覧下さい。http://terasan.dousetsu.com/wah145.html




2012/05/06(Sun) (第1604話) コツコツ歩いて 寺さん MAIL

 “1990(平成2)年の元日から、ジョギングに2つの目標を決めた。一つ目は走った距離1キロ当たり10円を貯金して、そのお金を身体の不自由な方々のために寄託すること、二つ目は鹿児島県の枕崎駅から日本最北端の北海道・稚内駅まで、走った距離をJRの鉄路に置き換えて日本列島縦断を楽しむことだった。
 九年後、膝の故障でジョギングをウオーキングに切り替えた。ジョギングやウオーキングの距離を1ヶ月分まとめて計算し、貯金した。毎月、JRのどの駅を通過したか楽しんできた。二十二年間で三十六万八千余円をためることができ、本社社会事業団へ寄託した。また今年、私の傘寿直前に十二回目の日本列島縦断を達成できた。
 ウオーキングが私の大切な生きがいであることにあらためて気付かされた。これからは自分の体調と健康に感謝し、一日でも長くウオーキングに精進したいと願っている。”(4月23日付け中日新聞)

 愛知県知立市の山ノ内さん(男・80)の投稿文です。いろいろな楽しみ方、やり方があるものである。ジョギングもウォーキングも一人でやっているとき、地道なことだけに何か目標、目的を持たないと続けるのが難しい。何か事を決め、そのたびに貯金箱にお金を入れる。ある程度貯まると決めたことに使う。それが自分のためのこともあるし、人のために事もある。山ノ内さんは身体の不自由な人のために寄付されると言うから更に立派である。元気に過ごせた事への感謝の気持ちであろう。それが37万円にもなったと言うから継続というのは凄いものである。距離では表せるものを街道や鉄道や日本縦断などで継続の力にすることもよくされることである。ウォーキングを続けることも大変だが、記録することはそれ以上に大変なこともある。
 この2つのやり方をボクは知ってはいたが、やっていない。金銭寄付はあることを継続していることを免罪符にしている。記録については今棒を折っている状態である。いずれ健康のために毎日ウォーキングをするようになったときに考えたい。




2012/05/04(Fri) (第1603話) チョコレート 寺さん MAIL

 “帰宅すると郵便受けに宅配便の不在通知が入っていた。わずか五分差ですれ違ってしまったらしい。智子さんは通販で敷布団を二枚買ったのだが、配達時間が分からないし、仕方ない。重いしかさばるので、再配達する人も大変だ。電話すると、三十分以内に届けますと言う。こんな時のために、智子さんはチョコレートを買っておく。ニ度手間のお礼だ。
 チャイムが鳴り、中年男性が布団を運び入れてくれた。「二回も来ていただいてごめんなさいね。チョコレートですけど」と渡した。男性のいかつい顔がほころぶ。「こちらこそ、いつもどうも。遠慮なくいただきます」と言うから、彼は何度か智子さんのチョコレートを受け取っているのだろう。
 新聞の集金や宅配便が来た時、留守にすることはよくある。百円のチョコレートー枚だが、ささやかな感謝の気持ちを伝えたい。(後略)”(4月18日付け中日新聞)

 西田小夜子さんの「妻と夫の定年塾」からです。これはまた心憎い配慮である。1回目は通常の仕事、2回目以降は余分の仕事をさせたと言うことで、少しばかりのお詫びと感謝の気持ちを1枚のチョコレートで示す。智子さんは気の優しい気配りのできる人である。多分実際の話であろうが、ここまでできる人は少なかろう。そして、された方は滅多にないことだけに大いに感激である。情けは人のためならず、倍になって自分に返ってくるのである。どこかで智子さんに返っているはずである。ボクはこうした配慮に大いに欠けている。妻が何とか補ってくれている。




2012/05/02(Wed) (第1602話) 目で合図 寺さん MAIL

 “去る一月二十七日の午後一時四十五分頃、名古市北区の前田稔さん(八五)は理髪店に行くため黒川(北)の停留所でバスを待っていた。到着したバスの中を「座れるかなあ」と外からのぞく。満席のときには、次のバスが来るのを待つことにしている。幸いこの時は空席があるように見えたので乗り込んだ。
 ところが優先席はお年寄りで埋まっていた。一段高くなっている最後部の座席しか空いていない。「どうしよう」と迷っていると、乗降□近くに座っていた二十代の女性が、パッと席を立ち譲ってくれた。「ありがとう」と目礼して腰掛けた。こんな時、前田さんはあえて「ありがとう」と声に出してお礼を言わないように心掛けている。席を譲った人の多くは、照れくさいと思うらしい。「ありがとう」と言うと、それが増してしまう恐れがある。その証拠に照れ隠しか、多くの人が譲った後でわざわざ離れた所まで移動してつり革につかまる。
 次のバス停で優先席に座っていた人が降りていった。前田さんはすかさずその優先席に移り、先ほど席を譲ってくれた女性に目で合図をした。「さっきはありがとう。席を替わります」と無言で。すると、再び元の座席に着いてくれた。前田さんは、感謝と「気遣いさせて申し訳ない」という気持ちでいっぱいだったので、彼女がまた座ってくれたおかげで心が楽になった。
 二つ先のバス停で降りる時、もう一度その女性に会釈をした。すると、にっこり笑って見送ってくださった。この間、一言も言葉を交わさない。でも、心がつながりポカポカ温かくなったという。”(4月15日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。電車やバスの車内で「席を譲る」ことについて、投書欄を読んでいるとよく話題になっている。席を譲らない、譲って遠慮されて気まずい思いをした、そして、この話のように嬉しい思いをしたなど、身近なことだけのいろいろな状況に遭遇する。
 この話は「目は口ほどにものを言う」をまさに証明する行為である。見知らぬ中ながら気持ちが通じる人柄だったのだ。「ありがとう」も言ってもらわないと何となく釈然としないし、またあまり丁寧に言われるといたたまれなくなる。前田さんはそこの所をよく理解されていて、目で合図されたのである。その後もあうんの呼吸というのか、目で相互理解がいったのである。これほど見事に決まると、してやったりの気分であろう。ボクにも嬉しさが十分に理解できる。


 

川柳&ウォーク