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第95号  2012年3月

2012/03/29(Thu) (第1588話) 時と国境を越え 寺さん MAIL

 “出会ったころは互いに二十代前半だった。「待っていてくれ」。ベトナムの男性の言葉を、北朝鮮の彼女は信じた。二人は、往来が不自由な壁を越えて三十年後に結婚し、今はハノイで暮らす。
 1971年、カイン氏はベトナムから北朝鮮の工業大学に留学した。実習先の工場で働くヨンヒさんに一目ぼれした。「恋人はいますか?」。二人はひそかに会うようになった。恋愛は禁止で、発覚すれば退去措置もあり得た。彼は留学期間を終えた七三年一月、帰国するしかなかった。(中略)
 それでも諦めなかった。ニ○○一年、訪朝する国家要人に結婚を懇願する手紙を託した。北朝鮮当局は電撃的に許可し、2人は翌年結婚した。それから十年六十二歳になっ。一歳上の彼女をオートバイに乗せて二人でハノイ市内を走る。「いつも自由に走り回っているよ。一緒に走る気分は最高だから」
 その姿はできすぎた映画の主人公のようでもあるが、彼は照れた。「いや、二人はただの平凡な人間だよ」”(3月15日付け中日新聞)

 「海外だより」の欄からソウルの辻渕さんからの報告です。全く映画の主人公である。異国の人と、それも交流が難しい国の人と、様々な困難を乗り越え、様々な努力をし、30年越しに結婚する。人を想う気持ちはこれほどに強いのだろうか。人様々と言うが、こういう信じがたいほど強い愛もあるのである。困難さが横たわっていた故に、これほどに強い愛になったのであろうか。そうであれば、その困難さは強い味方になったとも言える。こういう大恋愛が実って、今困難に立ち向かっている人に勇気を与えるのである。
 恋愛がスムーズに結婚まで至れば単なる恋愛であり、大恋愛と言うとき、結婚にいろいろ障害がある場合の恋愛であろう。大恋愛を望む人もあろうが、恋愛は単なる恋愛がいい。ボクの場合、大のつく範疇になるだろうか・・・。




2012/03/27(Tue) (第1587話) 私じゃない私 寺さん MAIL

 “この年になって初めて「私以外の私」に出合った。実が五個ほどついた一枝を知人からいただいたのは、昨年秋。「あ、アケビですね。かわいい」と言うと「いえ、これはムベ。よく回違えられます」という言葉が返ってきた。
 手にすると、弾力性がある薄紫色の実は、ずっしりと重たかった。ムベは「郁子」と書く。私の名と同じである。そのことは以前から知っていたが、これまで実際に目にしたことはなかった。「初めまして『郁子さん』。あなたは、私ですネ」
 手付きかごに挿し、周りにつるを絡ませた。野趣に富んで様は、まるで一幅の絵のようだ。そして、紫色が深みを増してきたその中の一つをナイフで切り開き、真綿布団に包まれた漆黒の種を□に合むと、ほのかに優しい甘さ。「これって共食い?」。思わず苦笑してしまった。
 種は庭の片隅に埋めた。《春になったら芽が出てくるかしら?》。私が生きているうちに、つるがぐんぐん伸びて、ゴムまりのような薄紫色の「私じゃない私」が枝もたわわに実る日を夢見ている。しまった。写真を撮っておけばよかった。後の祭りである。”(3月14日付け中日新聞)

 名古屋市の高田郁子さん(女・77)の投稿文です。ムベは郁子と書くのか・・・辞書で引くと確かにそうなっている。なぜこの字を当てているのか調べても分からなかった。しかし、高田さんが「私じゃない私」と表現し、愛着を感じられたのは面白し、楽しいだろう。
 自分の名前と同じや関連があると愛着が沸くものである。しかし、それは自分の名前が好きであってこそである。嫌いとなるとまた大変である。それだけに名付けは重要である。最近の普通にはほとんど読まないような名付けで本当に大丈夫だろうか。
 ボクの名前も、読み方を変えるとあるものになる。自分の名前が嫌いではないが、名前の能力がないのが恥ずかしい気がしている。




2012/03/25(Sun) (第1586話) まーちゃんときよちゃん 寺さん MAIL

 “三年前、母が脳梗塞で倒れた1ヶ月後、父も前立腺がんで余命半年と宣告された。しかし、母のことを心配した父は手術をせず、通院治療しながら母の面倒をみる決心をした。
 母は「要支援」から「要介護5」に。緑内障も発症し、視野はあと少しになった。八十一歳になった父は夜中も母のおむつを替え、早朝から食事を作って「どうだ、うまいだろう」と話しかけながら食事をさせるなど、家事すべてをこなしている。
 余命はもうとっくに過ぎているのに・・・。父の大きな愛が、がんの進行を遅らせ、神様から延命というご褒美をいただいたのだろう。二人の仲むつまじい月日が流れている。
 先日も実家に行くと、父は母の手を握り、お互いの昔の呼び名で「まーちゃんは、きよちゃん大好きよ」と節をつけて歌っていた。母は右手の人さし指を自分の鼻に当て、その後、父の鼻を触る。父が「おまえも、おれが好きか」と問うと、ほほ笑みを浮かべてうなずく母。父は私に「母ちゃんの笑った顔、かわいいだろう」と言う。私は二人の笑顔が本当に好きで、この両親の娘であることに心から感謝している。”(3月13日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・近藤さん(47)の投稿文です。またまた夫婦愛の話です。前回はまだ若い人、今回は高齢者である。これぞ円熟した夫婦愛であろうか、この文からはもう何を言うこともありません。全く麗しい風景である。
 ボクは夫婦2人の間で「お父さん」「お母さん」と呼ぶのはおかしなことだな、と時折思っていた。そこで先日思い切って、この呼び方は止めよう、と提案した。妻も同意をしたが、なかなか名前で呼ぶことができない。自分もつい「お母さん」と言っていたりする。もう30年以上呼び続けた言い方である。よほど意識しないと変わりそうにない。今更そんなこと・・・とも言えるが、まだ20年30年あるかもしれない。だから意識して変える意味はあるだろう。変えればまた万年夫婦の雰囲気も違ってくるだろう。どういう成り行きになるだろうか。




2012/03/23(Fri) (第1585話) 夫あってこそ 寺さん MAIL

 “夫は毎日、朝早くから夜遅くまで忙しく働いています。私も働いていて、大変さはよく分かります。私は、嫌なことやつらいことがあると、すぐ弱音をはいてしまいます。そんな時は、夫に助言をもらい、とことん話を聞いてもらいます。自分が穏やかに過ごせている時は、この日常が当たり前と思ってしまいがちです。こうして幸せに暮らしていられるのは、夫が頑張っていてくれるからだと思っています。
 夫にもつらいことやしんどいこともあると思います。ですが、毎日笑顔で「行ってきます」と職場に向かいます。「ただいま」と疲れた顔で帰ってきますが、子供の顔を見ると笑顔に戻ります。面と向かうと恥ずかしいのでなかなか言えていません。ですが感謝の気持ちは忘れていません。”(3月11日付け中日新聞)

 三重県桑名市の介護職員・間口さん(女・35)の投稿文です。前回は母親の大切さについて、今回は夫である。親の大切さに気づくのは、遅かれ早かれはあるが、ほとんどの人が到達する。ところが配偶者となるとなかなかそうはいかない。いさかいが多く、時には離婚にまで至る。本当は親以上に大切にしなければいけないのにである。親は選べないのに、配偶者は自分で選んだのにである。夫婦は共同協力者、過ごす期間も親以上である。配偶者の大切さを早く気づく人は幸せである。
 「面と向かうと恥ずかしいのでなかなか言えていません」これはいけません、できるだけ早く素直になって、言葉でも表すことでしょう・・・と、言える資格はボクにありませんが・・・。それでも、今年のバレンタインデーに妻と出会って初めて花を贈りました。その後の妻の態度が更に優しくなった気がします。




2012/03/21(Wed) (第1584話) 母の死で知る 寺さん MAIL

 “大事な物は目に見えないというが、その通りだと思う。三年前、母を亡くした。それまでは、母はいて当然、甘えさせてくれる、最後は助けてくれる。そしてそれが一生あるものだと思っていた。長い闘病生活の後、母は亡くなった。失って初めて気付く。よくいわれる言葉だが、心にドシンときた。今でも、なぜもっと優しくできなかったのか、なぜもっと・・・と後悔しか残っていない。
 父は、母の長い闘病生活に自分の時間をすべて充てた。その時父は、今できることをすべてやる、後悔したくない、と言っていた。
 私は昨年結婚した。夫を持ち父の傍らに住み犬の面倒をみる。命あるものは必ず死ぬ。限りある人生。二度後悔をしないようできることをしている。母を亡くして思ったこと。家族以上に大切なものはない。いつか終わる時「いい人生だった」と家族にもそして自分もそう言えるようにしたい。”(3月11日付け中日新聞)

 愛知県大治町の介護職・加納さん(女・27)の投稿文です。家族の大切さについてはたびたび紹介している。それだけ投稿も多いのだ。そして、ボクは「家族以上に大切なものはない」と言いきるかは分からないが、家族の大切さは十分に承知しているからである。
 加納さんのこれだけの文の中に大切な言葉がいくつも書かれている。「失って初めて気づく」「今できることはすべてやる」「命あるものは必ず死ぬ」「“いい人生だった”と言える」・・・。




2012/03/19(Mon) (第1583話) 名古屋ウィメンズマラソン 寺さん MAIL

 平成24年3月11日に陸上女子マラソンのロンドン五輪最終選考会を兼ねた「名古屋ウィメンズマラソン2012」が行われた。前身の名古屋国際女子マラソンを一新したレースには、市民ランナーを合む13114人が出場し、世界最大の女性だけのマラソン大会として英国ギネス・ワールド・レコード社に認定された。同時に男女ハーフマラソンなどの「名古屋シティマラソン2012」もあり、両大会で計26615人が名古屋を駆けました。
 “被災地復興への願いを胸に、美浜町北方の主婦斎藤静枝さん(六六)は走った。「歩いても遅くても、前へ進めば明るい道が見えてくる。だから頑張って」
 昨秋、地元で震災で汚れた写真を洗うボランティアをした。きれいになった写真に写っていたのは、津波の被害を受けた宮城県名取市の人たち。赤ちゃんを休浴させるおばあちゃん。ランドセルを背負った小学生。四年前、火事で自宅が全焼したときのことを思い出した。焼け跡から、孫が笑っている写真が出てきた。「こういう写真を一枚でもいいから届けたい」(中略)
 フィニッシュラインは、両手を広げて笑顔で駆け抜けた。「苦しさもゴールの感動で吹き飛んだ」。そして、新たな思いが加わった。「一歩でも半歩でもいい。前向きな気持ちになれるようなパワーが東北に届くといいな」。目標タイムには届かなかったが、気持ちはまた一歩進んだ。”(3月12に付け中日新聞)

 3月12日の中日新聞朝刊は東日本大震災の追悼記事とこのマラソンの記事で覆い尽くされていた。名古屋のマラソンは今までの2つのマラソン大会を同日開催にしたことによって一大イベントとなった。その中で、斉藤さんの記事を紹介した。「歩いても遅くても前に進めば明るい道が見えてくる」に同感してである。マラソンも人生もいくら遅くても前に向けて進めばいいのである。スピードはその人の能力や環境によることが多い。自分だけではどうにもならないこともある。でも進むことは自分の意思でできる。そこに生き甲斐も見いだせる。それが肝心である。
 実はこの日、私も別の町のマラソン大会に参加した。10kmを走るのは約20年ぶりである。会場で突然テレビカメラを向けられ「私の頑張りが皆さんの勇気につながることはないが、自分自身への挑戦として頑張りたい」というような意味のことを言った・・・と思う。そして、走る前には不安であったが、一度も歩くこともなく完走できた。満足感でいっぱいである。




2012/03/17(Sat) (第1582話) かきくけこ 寺さん MAIL

 “八十歳を過ぎてなお、短歌と組手紙の講師として日々はつらつとしていらっしゃる男性に元気の秘訣を尋ねた。すると「か・き・く・け・こ」を実践している、という。早速、その内容を聞く。
 「か」は感謝。どんなささいなことにも「ありがとう」の気持ちを持ち、口に出して言う。「き」は興味。世の中の出来事から身の回りのことまで何にでも好奇心を持ち、自分の目で見、耳で聞いて確かめる。「く」は工夫。エコライフやリサイクルなど、どうしたら快適な暮らしができるかを考える。「け」は健康。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と言われているように、すべて健康でなければ成り立たない。食生活、運動、定期健診を心がける。「こ」は恋。思わず「これは難しい」と口走ってしまったが「書や旅、道端の小さな花・・・何でもよい。『ときめき』を持つこと」と教えられた。
 健康な心身で暮らしにさまざまな工夫を凝らし、何かに恋をしていろいろなものに興味を示す。この「か・き・く・け・こ」を心に、かわいいおばあちゃんを目指そう!!”(3月4日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市の主婦・若尾さん(68)の投稿文です。「かきくけこ」については2005年1月10日の「(第166話)カキクケコ老人」で紹介していますから、再度の紹介です。しかし、内容は少し違っています。「考え、記録し、工夫し、研究し、行動する」というものでした。いずれにしろ、積極的な姿勢です。年老いても前向きの姿勢を保つことが大切でしょう。ボクは「いまさら、歳だから」という言葉は禁句にしました。まだ、20年、30年あるのにこんな言葉を使っていたら行き詰まってしまう。
 ボクの先輩で8年前に心臓の大手術をした人がある。昨年も大手術をしている。聞くと気が滅入りそうになるほどの手術である。それを自筆の細かな字で手紙に書いて送ってくる。これもリハビリと考え、また伝えることで気を奮い立たせている。内向きにならず、積極的に生きようとしているのが伝わってくる。彼ならと感心する。どのような状態になろうと、その状態に応じて前向きに過ごすことが出来たらいいと思う。




2012/03/15(Thu) (第1581話) 赤ちゃんの駅 寺さん MAIL

 “乳幼児を連れた人に授乳やおむつ替えの場所を無料で提供する「赤ちゃんの駅」。自治体が地域の店などに呼び掛けて設置する動きが広まる中、名古屋市では前例のない民間主導でサービスが始まった。市に動きがないことを見かねた母親たちが立ち上がったのだ。
 二歳の子を持つ三人のグループ。まちづくり関係の助成金五万円を元手に、募集のチラシや掲示してもらうステッカーを作製し、保育園や企業を回って協力を求めた。「子連れの方が理解を得られることもある」。代表の中谷風吹さん(三〇)の言葉は頼もしいほど。原動力となったのは実体験。森阿美さん(二九)は「子どもがうんちをしたのに、おむつを替える場所が見つからず、家まで我慢したこともある。こうした経験が重なると、家から出にくくなってしまう」と話す。
 民間主導とあって断られることも多かったが、二十三ヵ所の理解を得て実施にこぎ着けた。数が増えてこそ、駅の効果は出てくる。これから母親になる人のために彼女たちが投じた一石。それに応える社会であってほしい。”(2月29日付け中日新聞)

「ぺーぱーナイフ」という記事欄からです。女性の行動力は素晴らしい。行政がやってくれないなら自分たちでと、それも子育て真っ最中の女性である。「赤ちゃんの駅」とは、「○○駅」にあやかっての命名だろうが、分かりやすくていい。今の時代、社会貢献を考えている企業も多く、そんな企業には受け入れやすい提案であろう。要求するだけでなく、自分たちで解決する、賛辞を贈りたい行動である。
 ボクの会社がビルの1階にあったら提案したいところだが、10階だし「こんにちは」といって入ってくるには入りにくい形態になっている。しかし、会社は「くるみん(認定)マーク」という子育て支援などへ積極的に取り組む企業としての認定を受けている。この投稿によって社員への支援ばかりでなく、社員外への支援も考えてみる必要があることに気づいた。




2012/03/13(Tue) (第1580話) ぺっちゃんこのツクシ 寺さん MAIL

 “「春は名のみ・・・」のころのことである。田舎に住んでいた私は、かわいい双子のツクシを見つけた。そのツクシを柔らかい紙で幾重にも包み、彼に郵送した。私との結婚を二、三ヵ月後に控えた彼は、その時は五十キロほど離れた町に住み、忙しく走り回っていた。
 三、四日後、急用ができて彼を訪ねた。新居は出来上がったばかり。何もない部屋の真ん中に置かれた机の上に、そのツクシが置いてあった。私はびっくりした。かわいいとんがりおつむは、無残にもぺっちゃんこになっていた。たくさんの手紙の束につぶされてしまったようだ。うっかり屋の私は恥ずかしくなると同時に、がっかりした。
 自宅に戻ると、彼から手紙が届いていた。その手紙には、こう書いてあった。「心温まる春をありがとう」
 五十年近くも前の話である。優しかったその彼が急逝して十五ヵ月が過ぎた。あなた、今年はことのほか寒い冬です。寂しさが身に染みます。またツクシを見つけてお供えしますね。しっかり見てくださいね。”(2月28日付け中日新聞)

 名古屋市の奥村さん(女・70)の投稿文です。ツクシを恋人に見せたくて郵送するが、郵送途中にぺっちゃんこになっていて悲しかった。しかし、彼氏からは喜んでくれた手紙が届く。ホッとしたであろう。温かい懐かしい思い出である。こんな思い出をいくつ持つかによって人生の豊かさ、優しさが違ってくるだろう。今年2月18日に掲載した「(第1569話)妻の宝物」に通じる話である。
 さあ、ボクにはどうだろう。それほど考えることもなく、妻とは思い出がいっぱいである。今となっては色褪せたが、考えてみればそれがあって今のボクがあるのである。妻は何というのだろう。




2012/03/11(Sun) (第1579話) 写真の贈り物 寺さん MAIL

 “私は小学校で教えています。先日、校外学習で地元伝統の鬼祭りに行ってきました。すてきな舞を見て、たんきり飴も拾えて、子どもたちは大満足。「これで風邪をひかずに元気に過ごせるね」などと楽しく話していると、一人のおじいさんが私たちに声をかけてくれました。「どこの学校から来たの。記念に写真を撮ってあげるよ」「写真が趣味でね」。照れながらも笑顔のおじいさん。遠慮なく写真を撮っていただきました。「学校まで写真を届けるから待っててね」。お礼を言って、おじいさんと別れました。
 数時間後、おじいさんは本当に学校に来てくれました。子ども一人に一枚ずつ、計八十五枚の写真をプレゼントしてくださり、名前も住所も告げずに帰っていかれました。
 すてきな出会いに、子どもと一緒になって喜びました。涙が出てきました。きっと、あのおじいさんは、サンタクロースだったんだね。いつか、私たちもサンタクロースになりたいね。おじいさん、本当にありがとうございました。”(2月27日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の教員・宮下さん(女・23)の投稿文です。写真を撮るのが好きな人も多い。撮って渡してくれる人も多い。しかし、見ず知らずの人に85枚もプリントして持って来てくれる、ここまでしてくれる人は少なかろう。やはりサンタクロースである。
 人を喜ばす、社会に貢献する、いろいろな方法がある。人それぞれ、少しの無理の範囲で多くの人がするようになればいい社会になるだろう。現実はする人としない人の差が大きくなっている気がする。




2012/03/09(Fri) (第1578話) 名古屋コーチン像 寺さん MAIL

 “日本三大地鶏の一つ「名古屋コーチン」の発祥地として広くPRしていこうと、小牧市が造った名古屋コーチンのブロンズ像が同市中央の名鉄小牧駅前に完成し、二十五日、除幕式があった。
 市から依頼を受けた名古屋造形大の坪井勝人教授(六四)が三ヵ月かけて制作した。雌雄二体と卵が置かれ、台座を含めた高さは1.7m。春日井市桃山町にある稲垣利幸さん(八三)の養鶏場を見学し、形や大きさは本物そっくりに仕上がった。
 名古屋コーチンは、明治初期に旧尾張藩士の海部壮平・正秀兄弟が国産実用品種第一号として同市池之内で生み出した。壮平の孫の海部昌久さん(九二)=神奈川県茅ケ崎市=ら親族四人も式に出席し、山下史守朗市長らと一緒に除幕した。昌久さんは「立派な像が完成し、先祖へのあつい思いに感謝気持ちでいっぱい」と述べた。山下市長は「小牧が発祥地であることは、市民も意外に知らない。ブロンズ像を新たなシンボルにして、日本が誇るプランド鶏を広くPRしていきたい」と意気込んだ。”(2月26日付け中日新聞)

 記事からです。名古屋コーチンはボクの地域ではよく目にするものだが、小牧市が発祥の地とは知らなかった。いいことをしてくれたと思う。県内に愛知発祥の碑も結構目につくので写真を撮ってきて、ホームページに「愛知発祥の碑」のページを作ることも考えようかな。
 ボクは一宮友歩会の運営をしながら、看板1枚でも欲しいと思う所がよくある。コース選定に資料や地図を見ながらその場所に行ってみると何もない。何もないでは多くの場合寄る気になれない。素人のボクが資料から得た説明では皆さんも興味がわかない。公式の関係者からの看板1枚でもあればありがたいと思うし、寄ってみようという気になる。こうした案内板は街への興味になるし、PRになる。またあってももう見えなくなっているものも多い。経費節減の対象になるほどのものではない。この対応は街によって大きな違いがある。関係者に検討をお願いしたい。




2012/03/07(Wed) (第1577話) 眠ろう 寺さん MAIL

 “二十四時間営業のコンビニやファストフード店は、本来の仕事目的の他にいろいろな役割がある。例えば防犯の役目を果たしていたり、深夜労働者や流通関係者の頼もしい支えとなっていたり、あるいは雇用を下支えしていたり・・・。それを百も承知、二百も合点のうえで、やっぱり見直した方がいいんじゃなかろうか、とおじさんは思うのだ。
 大震災後の自然回帰志向の波に便乗するわけではない。また、深夜の強盗事件多発にかこつけているわけでもない。昔からおじさんが折にふれて思っていたことだ。「夜は寝ようよ」という単純な提案。夜の仕事をしている向きからは怒られそうだが、人は夜寝るべきものではないか。利益追求の果てに不眠不休の商売ができあがってしまった。そしてできてしまったシステムに放り込まれるの生身の人間だ。
 どんな時代であっても、どんな人間であっても、眠らなければ人は生き続けられない。うなるほど金銭があっても、睡眠は買うことができない。もうそろそろ非生物的システムから卒業して、夜はみんな眠るようにしないか、とおじさんは思うのだが・・・。”(2月26日付け中日新聞)

 久しぶりにエッセイスト・飛鳥圭介さん「おじさん図鑑」からです。これももう何度も言ったことであるが、ボクの持論でもあるので再び取り上げた。飛鳥さんの話に全く同感である。人間便利さの追求に際限がない。お金の執着にも際限がない。その結果、そこに放り込まれた人は人間の生理も無視され、生活も不自然なものになる。社会活動でそういう役割をしなければならない人もあろうが、最小限にしたいものだ。
 「夜は寝る」人間はそのように出来ている。社会もそれに合うようにするべきである。ところが社会はどんどん逆行していく。もうここらで止めて欲しい。いやもう行きすぎている。戻した方がいい。
 合理化、経費削減、少しでも安くは世の中これらをすべて正義としている感じがある。ボクはここにも危惧を感じている。合理化した分が余裕につながればいいが、組織も個人も逆になっている。密度が濃くなって更に余裕がなくなっては耐えられない人が多くなるわけだ。




2012/03/03(Sat) (第1576話) 意外な贈り物 寺さん MAIL

 “今月14日、朝からテレビ、ラジオでバレタインデーのことが盛んに報道されていた。毎年のことなので気にも留めなかった。
 まもなく傘寿と古希を迎える老夫婦にとって、無縁の世界の話だと思っていたところが、昼前に日ごろ懇意にしていただいているご婦人が、「近くを通りかかったので顔を見に寄ったのよ」といいながら、きれいに包装された小箱を夫にくださったのである。よくよく聞けば、わが家だけでなく、何軒かのお宅に届けておられたのだ。頂いた夫はとても喜んで、ご婦人と二人で話し込んだ。夫に対して何も用意していなかった私は完全に蚊帳の外状態だった。
 話が一段落ついた時突然、夫は趣味で習っている木版画の出来上がったばかりの試作品に日付とサインを入れて、1ヶ月も早いお返しをしたのである。”(2月26日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・窪田さん(69)の投稿文です。バレンタインデーに縁のない人にそれを感じさせる行為、人はいろいろなことを思いつくものである。この人の発想がどこから来たものかは分からないが、喜ぶ人は多いと思う。こういう人はいろいろな気づかいが出来る人であろう。歳行けば行くほど気遣いできる人になりたいものだ。
 今年のバレンタインデーはボクにも思いがけないものになった。ボクが妻に花を贈ったのである。妻に花を贈るなんて、妻と出会ってから45年間一度もしたこともなく、つい先日まで考えもしなかった。全く理由がないわけではないが、つい花屋さんのキャンペーンに心が動いたのである。そして、今思うのである。歳を理由にしてはならない。いいと思うことはすればいいのである。




2012/03/01(Thu) (第1575話) 自治会役員 寺さん MAIL

 “毎年この時期になると、どの自治会でも次期役員の人選に頭を痛める。役員の引き受け手がないからだ。実際には早くから適任と思われる人に打診をして感触を探り、人選を進めるのだが、断られることが多い。このため、大抵この時期までずれ込む。「自分は不向きである」「この地域のことはあまり知らない」など、断る理由はいくらでもあり、あげくは「家族が反対するので」と言われれば退散するほかない。定年になり、コーヒーを飲みに出ることを日課にしている人、夫婦で毎日ウォーキングを欠かさない人など適任者は多いのだけれど……。
 こんなことから、最近では1年交代の順番制を採り入れる自治会も増えてきた。苦肉の策だが、自治会の様子が分かりかけた頃に退任が迫り、物足りなさを感じて残念がる人もいる。役員を引き受けてみて、初めて「食わず嫌い」だったことを知るようだ。どうです皆さん、一度引き受けてみませんか。地域の事情に明るくなり、隣近所はもちろん、知り合いが増えて、元気をもらえますよ。”(2月19日付け朝日新聞)

 三重県津市の会社顧問・上野さん(男・74)の投稿文です。地域の役員人選はどこも大変なようだ。実はわが家もつい先日巻き込まれた。妻は今年度老人会の幹部役員をやっており、その後任選びに苦労していた。怒鳴られてきたといってしょげていた。ボクも来年度は老人会の幹部役員である。あっさり引き受けたが、その後任選びには苦労するだろうか。この老人会始め任意団体では役員になることがいやで入会しない、退会する人が増えている。
 選ばれることが誇りであった時代もあった。ボクの父親が町会長(自治会長)に選ばれた時非常に喜んでいたことを覚えている。それがどうして皆忌避するようになってしまったのだろうか。一つには感謝されるより、何か気に入らぬことがあるとすぐに文句を言われるようになったからであろうか。今輪番制の自治会役員をやっているが、何回も足を運ばせて何とも思わない人もある。無償で働いて苦情を言われるばかりでは誰もする気にならない。社会全体がおかしくなってしまった、考えねばならぬことである。
 しかし、上野さんが言われるようにいいこともいっぱいである。いいことに目を向ければ楽しくなり意欲もわいてくる。本当はいいことの方が多いのだ。ただいやなことの方がいつまでも心に残り、苦になるのである。いつも言うことであるが、何事にもいい面悪い面がありどちらを見るかである。


 


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