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第90号  2011年10月

2011/10/22(Sat) (第1516話) 夫の免許証 寺さん MAIL

 結婚したころ、車の運転ができるのは夫だけ。だから、どこへ行くにも一緒で、頼りきりだった。私が免許を取って運転できるようになると、夫に頼まなくてもいいので、だんだん別行動になった。それはそれでお互いに自由で良かった。
 昨年、夫が病気になって病院通いが始まり、久しぶりに一緒に車に乗ることになった。《病院通いがデート》と私はひそかに楽しんでいた。いつかまた、それぞれが自由に運転する日が来ると思っていたから。ところが、夫は今年五月に入院したため、私一人での病院通いになった。そして七月、夫が亡くなった。
 先日、警察へ夫の免許証を返却しに行った。「返却されると、処分してしまいます。いいですか」と、受付の女性が笑顔で尋ねてきた。《変なことを聞くのだな。ひょっとすると、希望すればもらえるのかしら》と思って確認すると「はい」という返事。思いがけない言葉にびっくりし「頂いてもいいんですか。お願いします」と、私も笑顔で答えた。うれしかった。しばらくして、「無効」の判が押された夫の免許証が手渡された。大事にしまい、一緒に帰宅した。”(10月4日付け中日新聞)

 三重県四日市市の稲垣さん(女・63)の投稿文です。この文でまずおやっと思ったのは、もう使う予定のない免許証を返しに行くのだろうか、ということである。放っておけば失効するのである。放っておけない人である、律儀な人である。これが本当だろう。ボクなどもう使えない、使わないカードがいくらも引き出しの中にある。
 そして、亡き夫の免許証を嬉しく持ち帰る。長年一緒に暮らした夫の記念になるものなら、何でも嬉しい。それが稲垣さんの気持ちだったろう。いい夫婦だったと思う。ボクの妻ならさっさと処分だろうな。
 ボクももう古いことになるが、出勤時、妻に車で送ってもらっていた時期がある。いろいろ話すいい時間である。これもいいものだと思った。人の話を聞きながら昔を思い出す年齢になった。




2011/10/20(Thu) (第1515話) 日本の運動会 寺さん MAIL

 “一番上の子どもが小学一年生で、初めて小学校の運動会を見に行った。運動会は子どもたち全員出番があり、みんなハイレベルな体操を披露してくれた。運動神経が鈍いと思っていたわが子も、とても上手にできた。
 私が生まれた中国の運動会は、個人競争の場で運動が堪能な少数の子どもだけが輝いていた。ごく平凡な私は彼らがずっとうらやましかった。
 それに比べて日本の運動会は、子どもたち一人一人が主人公だった。応援に来た親や祖父母にとって、子どもや孫は夜空で一番輝いている星のような存在だ。おばあちゃんたちは、孫が走る姿を見て「オリンピックヘ行けるみたいだなあ」と自慢し、笑いあった。
 雨が降ったり晴れたりした。雨具を持っていない人は、他の家族が用意したテントで雨宿りしたり、テントの片付けを手伝ったりした。とても心が温かくなる情景だった。世界に誇る日本の団結心は、このように気付かないうちに生まれ、はぐくまれ、引き継がれていくのだと思った。”(10月3日付け中日新聞)

 滋賀県長浜市の主婦・横田さん(40)の投稿文です。外国で生活した人から見た日本の運動会の話である。運動会はどうしても苦手な人が出てくる。それでも日本では誰もに出番があり、それぞれ楽しんでいるように見える。それに感動されたようである。こういういわれると苦手な人も頑張らざるを得ないだろう。当たり前が当たり前でないことを知る、これも大切なことである。それによって感謝も生まれ、また批判の目も養う。
 ボクも今年初めて孫の運動会を見に行った。もう5年生である。行けたら行っていたと思うが、どうして行けなかったろう。徒競走、組み立て体操を見た。組み立て体操は懐かしかった。徒競走は一番だったし、組み立て体操もしっかりやっていた。帰ってから褒めてやった。自分にもいい日だった。




2011/10/18(Tue) (第1514話) ジム通い 寺さん MAIL

 “スポーツジムに通い八ヵ月目に入った。サラリーマン卒業と同時に妻の勧めで始めた。当面は筋トレを主体に基礎体力づくりをすることにした。体の硬いわが身にはとてもつらい。体が曲がらない、横腹や足腰の筋肉が痛い。予定のメニューを終えるのに三、四時間が必要だ。思った以上に体力がなくなっていたが、三ヵ月を過ぎたころから少し楽になってきた。
 今は、当初の倍ぐらいを半分程度の時間でできるようになった。二、三ヵ月でジム通いも飽きるだろうと思っていた。それが長続きしている。このごろは楽しみでさえある。
 理由を考えてみた。サラリーマン時代からの毎日の繰り返しパターンを緩やかに継続している。基礎体力のなさの取り戻し効果を徐々に実感。自分のペースを守ることにより負担になっていない。これからもコツコツと、気楽に、欲張らず、少しばかりの喜びを実感しながら続けていきたいと思っている。”(10月2日付け中日新聞)

 愛知県犬山市の亀井さん(男・63)の投稿文です。サラリーマンは退職すると生活が一変する。ここを上手の乗り切ると乗り切らないではその後の生活が大違いである。亀井さんはまずスポーツジムに通うことから始められた。定年後の体力作りは大切なことである。そして8ヶ月、喜びを実感されるまでになった。まずはよかった。
 ボクも今年の4月から始めた。週2日を目指したが、なかなか定着しない。平均すれば週1回程度、半月も行かないときもある。これではどこで崩れるか、不安な状況である。楽しみなるほど定着させたい。
 一つに気なっていることは、皆黙々とやって帰って行く。挨拶も会話もほとんどない。挨拶や会話があることは定着につながるのではなかろうか。人を待っていても始まらない。簡単なことだ、自分から声かけをすればいいのだ。試みてみたい。




2011/10/16(Sun) (第1513話) 公園 寺さん MAIL

 “「お母さん、遊びにいってくるね!」「はーい、気をつけて。一丁目の工事現場には入っちゃだめよ、危ないから」「わかってるよ!」
 正夫は家を飛び出した。行き先は、もちろん一丁目の工事現場だ。広い空き地が少し前からトタンの塀で囲われたまま放置されている。中には、土管やブロック、木材といった建築資材が積んである。隠れ家作りや隠れん坊にもってこいの場所だ。危ないから行くなと言われても、そうはいかない。
 「市長、お考えが図に当たりましたな」空地を見下ろす市庁舎の市長室。秘書官が市長に言った。「今時の子供は当たり前の公園を作っても遊びになど来ないからな。彼らをTVゲームから引き離すには、この手しかないと思ったのさ」”(10月2日付け中日新聞)

 「300文字小説」から神戸市の教員・田澤さん(57)の作品です。前回は本当にあった話のようですが、これは小説です。子供が危険なものに興味を示すのは当然のことだ。危険なものほどおもしろいのである。それは悪いことではない。いろいろ経験しながら、本当に危ないものやその対処方法を知っていく。この市長さんはそのところをよく知って見えたのだろう。
 ところが今の時代、大人が危険だと思うものを事前に取り除いてしまう。その結果、安全なことしかしない、また危険なものに落ちて大怪我をしてしまう。ボクは見えない危険は取り除くべきだが、見える危険はある程度残しておいた方がいいと思っている。見える目があるのだから大いに使い、知らせるべきである。




2011/10/14(Fri) (第1512話) 美しいやり方 寺さん MAIL

 "先日、押しボタン式の信号機の前で、ボタンを押さずに車が途切れるのを待っていた。自分1人で、急いでいない時は、車を待たせないようにしようと思う。後から、10歳くらいの男の子が自転車でやってきたのでボタンを押した。横断歩道を渡っていると、男の子が話しかけてきた。「この信号、押すとすぐ変わるんだよね」。知らない子に話しかけられるのは久しぶりで、ちょっと戸惑いつつ 「そうね」と答えた。(中略)
 あれこれ話した後に、彼は「おらは美しいのが好きなんだ」と言った。あら、おませさんねと思い、「きれいなチョウとか?」と聞くと、「そういうのじゃなくて、美しいやり方ってこと」。曲がり角で「じゃあね」と別れた。タヌキの子が化けたら、あんな感じかしら。おとぎ話のような出会いだった。
 しばらくして、ふと思った。ひょっとして、ボタンを押さずにいたのを「美しいやり方」と認めてくれたのでは。いや、子どもがそんな風に考えるだろうか。あの子はやっぱり・・・。”(9月29日付け朝日新聞)

 埼玉県上尾市の主婦・黒澤さん(49)の投稿文です。10歳くらいで「美しいやり方」なんていう言葉を使えるとは本当に驚きである。多分周りの大人で使う人がいて、そのまねだろうが、それにしても美しい言葉を知っていたものだ。このくらいの子供は周りの影響が大であるので、本当に心して接したいものだ。
 ボクも黒沢さんのような配慮を少しばかりしている。ボクが降りるバス停に、このようにすぐ変わる横断信号機があり、降りてすぐ押すとバスは待っていなければならない。それでほとんどの時、バスが通り過ぎてから押すことにしている。同じようなことを考える人がいるものだと、嬉しくなった。こうした行為を、美しいやり方なんだと思う子供は本当におとぎ話の世界の子の気がする。




2011/10/07(Fri) (第1511話) 子どもに注意 寺さん MAIL

 “地域社会のモラルを高めようとの声があります。そんな中、私はとくに公共の場で、子どもたちのマナー違反に気づいたら大人が注意すべきだと常々思っています。
 私もチャレンジしてみました。図書館でした。涼をとるためエアコンの吹き出し口の下に4人の小学生がいて、大きな声で話をしていました。そこで、私は静かな口調で「ここは喫茶店とは違うよ。図書館だから静かにしない?」と注意しました。知らないおじさんに嫌なことを言われ、何も言わず退室しました。
 ところが数分後、全員が戻ってきて謝りました。その場で謝ることはできなかったが、自分たちでもう一度考え直し、戻ってきたとのことでした。時間差はあったものの反省してくれた行動がうれしくなり、褒めてやりました。注意して本当によかったと思っています。”(9月21日付け中日新聞)

 三重県四日市市の榎本さん(男・61)の投稿文です。本当に人に注意をしにくい時代になったものだ。特に高齢者と若い人では価値観もものの見方も大きく違う。新聞等の投稿欄を読んでて「エエッ?」と思う文によく出合う。投稿する位だから自分の意見に全く疑問を持っていないだろう。これだけ見方が違っていては、注意するのは難しい。
 この場合、図書館という場所でのおしゃべりであるし、相手も小学生と言うことで問題はなかった。この文でボクが感心したのは、榎本さん以上に後で謝りに来た小学生にである。これはなかなかできない。小学生ならではの素直さであろうか。これはお互い、本当に良い出来事になったと思う。
 こんな時代、榎本さんのチャレンジに拍手を送りたいが、十分に気をつけて欲しい。注意をすると言うことは相手を批判することでもある。口論になる恐れは十分にあるし、時には危険を伴うこともあろう。ボクには親切にすることはできても、注意はなかなかできない。




2011/10/05(Wed) (第1510話) ちょっといい風景 寺さん MAIL

 “私は早朝のウオーキングを日課としています。先日、その途中で、ちょっといい光景を目にしました。
 私の4〜5m先を二人の青年が歩いていました。どうやら親しい間柄らしく、話が盛り上がっているようでした。その彼らの少し前に、自転車が見えました。荷物をたくさん載せたためにバランスが崩れて倒れそうになり、女性が必死に自転車を立て直そうとしていました。それに気づいた二人は、小走りで近づいて行きました。しかし、二人が手助けする前に女性は何とか自力で立て直し、自転車に乗って去って行ってしまいました。二人のことには気づかない様子でした。私は《気づかなかったか。うーん、残念!》と思いました。でも彼らは「よかったね。倒れなくて」と語り合ったに違いありません。
 「私がちゃーんと見ていましたよ、お二人さん!」良いことも悪いことも、神様ならぬ誰かが見ているのですね。ウオーキングのすてきな副産物のおかげで、私はその日をとてもさわやかな気分でスタートさせることができました。”(9月20日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・後藤さん(64)の投稿文です。私はこの2人も良かったと思うが、それ以上にこのようなことに感動し、それを投稿される後藤さんの行動も素晴らしいと思う。なかなか文にして投稿するまでにはならないものだ。そして、この2人がこの投稿文を見られたら、更に励みになるだろう。ボクなど結構文は書いているが、新聞への投稿は今までほとんどない。いいことはどんどん投稿して欲しいものだ。良い話を広めれば良い社会になる。そうするとボクのこの「話・話」も話題を探す苦労が減る。
 本当に人の行動はどこでみられてるか分からない。今の時代のように、人ばかりでなく至るところに監視カメラがある社会になっては、本当におかしな行動は取れない。良い行動をしている間は安全だし、この方が楽だ。




2011/10/03(Mon) (第1509話) 名前凝りすぎ 寺さん MAIL

 “日ごろ、私が気になっていること。それは最近の子どもの名前です。さまざまな親たちが考えに考えて付けたであろう名前に口出しするつもりはないのですが、難しい漢字を使ったり、意味が分かりにくかったりで「うーん、これは」と感じるものがあります。
 自分の年齢からくる偏見又流行遅れの証しと自分に言い聞かせていました。そんなある日、久しぶりに徒然草を読んでいて、びっくりしました。百十六段。概略は「いろいろなものに名前を付けるとき、昔の人はただありのままに名付けた。ところが最近は工夫を凝らして、煩わしい付け方をしている。人の名前も、読めないような文字を使って付けようとしている・・・」
 私の感じたことが、何百年も昔の本に書かれていたとは。「歴史は繰り返す。いつの時代も人間は同じ」と、吉田兼好先生の天の声に教えられた思いでした。”(9月19日付け中日新聞)

 長野県山形村の前島さん(男・72)の投稿文です。名付けについては以前にも書いたことあると思う。いろいろな考えがあろうが、ボクは7割方の人が普通に読まないような名前は付けるべきではないと思っている。名前に赤ちゃん本人の意思が入る事はなく、まさに親の考え、特権である。それが昨今の名前を見ていると親の独善を感じる。名前は人の分かってもらうための符号である。一生の間に何度呼ばれるか、計り知れない。それがまともに読んでもらうことがほとんどないでは何の名前だと思ってしまう。
 そして、このことが吉田兼好にも指摘されていたとは驚きである。面白い話を知った。




2011/10/01(Sat) (第1508話) 隣の車両に移る 寺さん MAIL

 “大きなおなかを抱えて片道一時間の電車通勤。特急電車は指定席をとれば座れるが、乗り換え後の普通電車はそうはいかない。座席はサラリーマンや学生で埋め尽くされ、二十分立ちっぱなしはかなりこたえた。
 妊娠八ヵ月になっておなかが目立ち始めたころ、会社員らしき中年男性が、私が乗車する次の駅で毎日降りるようになった。しかも、私が確実に座れるように、席を立つ前に手招きをして教えてくれるのだ。
 ある日ふと連結部分の窓越しに隣の車両に目をやると、降りたはずのあの男性が乗っているではないか。目が合うと「しまった!」というような気恥ずかしそうな顔をして、すぐに姿を隠した。そういえば、降車すると勢いよく走りだし、いつも急いでいるように見えた。私が気兼ねなく座ることができるように気を使い、隣の車両に乗りかえてくれていたの?! とてもうれしかった。その後も毎日、その男性は無言で席を譲ってくれた。
 産休に入る前の日、「明日から産休に入ります。ありがとうございました!」と声をかけると、男性は照れくさそうに頭を下げ、いつものように急いで電車を降りた。”(9月18日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の教員・小林さん(女・29)の投稿文です。何という素晴らしい気遣いだろう、こんなことをする人もあるのだ、こんなことができる人もあるのだ、ただ感心する、特筆ものだ。「いつも席を取って、譲ってあげるからね」と言っても、十分な親切だ。普通ならいくら親切な人でもここまでであろう。余分なコメントはここまでにしよう。



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