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第88号  2011年8月

2011/08/27(Sat) (第1492話) 冷茶で一服して 寺さん MAIL 

 “住んでいるマンションは大規模修理中で、たくさんの工事関係者が出入りしています。酷暑の中、作業員の入たちが汗まみれになって働いているのを見ると感謝の気持ちでいっぱいになります。
 それで冷たいお茶を差し入れていますが皆さん「ありがとう」「すみません」と言ってくれます。中には「ああ、うまい!」と一気に飲み干した若い人も。その一言がうれしくって、爽やかな風が心の中を吹き抜けたような気持ちでした。”(8月19日付け中日新聞)

 岐阜市の主婦(59)の方からの投稿文です。ボクもこの暑い夏、工事現場で働く人を見ると大変だな、と思いつつ町を歩いています。熱中症の恐れや日焼けの真っ直中の場所です。それが仕事だからと言ってしまえばそれまでですが、そんな中で、こうしたもてなしを受けると本当に感謝したくなるでしょう。お金を払っているから「頂きます」も「ありがとう」も必要ないという人と何という違いでしょう。人には優しくする、この気持ちを素直に発揮したいものです。




2011/08/25(Thu) (第1491話) 1/4のカボチャ 寺さん MAIL 

 “よく色付いていて、四分の一にカットされたカボチャをスーパーで買った。食べた後、《これなら種も十分熟しているな》と思い、五月ごろ他の苗を植えたとき、十個以上の種を畑の真ん中にぐるりとまいてみた。
 すべて芽が出たようで、畑一面、わが物顔で茎と葉が広がっている。葉っぱは里芋の葉より大きい。その茎と葉は枝豆を飛び越え、一本しかないゴーヤーを覆い尽くし、さらに隣のキュウリまで脅かしている。苦労して外し、地面にはわせたが、今度は葉に生えている硬いとげのような毛が痛くて、キュウリを取りに入れなくなった。小さな大根に至っては、どこにあるか分からない。勢いは止まらず、今ではトウモロコシにまでよじ登っている。
 よく見ると、葉っぱに隠れて大きなカボチャがごろごろなっている。すごい!もともと四分の一だったのに、それが十個以上に増えた。早速、食べごろになったものを収穫し、食べてみた。おいしい。生ごみとして捨てられてしまう運命だった種から成長したものとはとても思えない。来年は、カボチャの種は一つでいいかな。”(8月16日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・滝さん(60)の投稿文です。野菜を作られる人ならよく経験されることでしょう。気候や時期にもよりますが、今のカボチャは凄いでしょう。我が家でもおそがけの1本が今周りを浸食して伸びています。
 我が家では菜っ葉類は多くを、その他キュウリや大根、ささげ、オクラなどは種を取って次の栽培をしています。家で種を取ればいくらでも撒くことができます。まさに滝さんのように畑中になってしまうでしょう。更に我が家では種も取らず、毎年同じ場所に生えてくるものもあります。種が落ちて自然生えです。ゴーヤや冬瓜、紫草がそうです。本当に種子とは凄いものです。
 人間はどうでしょう。かつて日本では1組の夫婦から10人の子供ができ、50人の孫ができた家庭もありました。それは特別かも知れませんが、4、5人の子供は珍しくなかったでしょう。今では1組の夫婦に1.4人(合計特殊出生率:一人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数)の子供です。日本の将来はどうなるのでしょう。カボチャから人間の出生率は話が飛躍しすぎですが、考えてみてもいい問題です。




2011/08/23(Tue) (第1490話) いただきます 寺さん MAIL 

 “七月二十九日の本欄の「いただきます続ける大人に」を読み驚いた。投稿者の高校生の周りには、いただきますと手を合わせる大人が少ないという。私は家庭の食卓、友人とのランチ、居酒屋のテーブル、親戚の集まる法事などを思い浮かべたが、手を合わせていてほっとした。
 幼いころ、祖父母や両親は「食べることは動植物の命を奪うこと。料理が食卓に並ぶまでには、多くの人の手を借りる。それが分かれば、命をいただきます、ありがとうございますという気持ちになるはずだ」と繰り返し言った。
 私もその言葉を自分の子に伝えてきた。礼儀作法のスタイルだけでなく、精神を教えてくれた大人たちに、あらためて感謝する。これからは、もっと心をこめて「いただきます」を言い続ける。大切なことに気付かせてもらった。”(8月14日付け中日新聞)

 三重県松坂市の主婦・小山さん(52)の投稿文です。先日の新聞に、お金を払っているのに頂きますというのはおかしいと父兄から苦情を言われ、食事の開始を笛や太鼓で合図にしている話があった。全く驚く記事であった。父兄も先生も「頂きます」の意味を間違えている。小山さんのように理解しなければならない。毎日食べている食事だけに軽々しく思いがちだが、食卓に上がるまでの作業、努力と言ったら並大抵のことではない。それに命のあるものを人間のために犠牲にしてもらっているのだ。ボクも必ずしているとは言い切れないが、するように心がけている。
 笛や太鼓の話で、お金を払えばお礼を言う必要がないなどと言う発想も理解できない。買い物などは全くお礼を言う必要はないし、世の中のことはほとんどが持ちつ持たれつ、お礼の言葉は不必要だと言うことになる。また、一個人は様々だからいろいろな人があろうが、学校側がそれを受け入れるというのは更に理解できない。学校側には教師始め多数の関係者がいるはずだ。それがこんな意見を受け入れたとしたら、全く闇然とする。この話は本当だろうか。




2011/08/20(Sat) (第1489話) おすそ分け漬け物に 寺さん MAIL 

 “本欄で、おすそ分けの野菜に関してのさまぎまな意見を拝見しました。私の場合は料理して保存。漬物やピクルスなら一年持ちますし、総菜をたくさん作って冷凍しておくとーカ月は大丈夫です。果物の場合は、ジャムやお菓子にします。
 作る楽しみと食べる楽しみで、おすそ分けしていただいた方への感謝の気持ちも倍増。心から「おいしかったよ。また楽しみにしているよ」とお礼が言えるような気がします。”(8月11日付く中日新聞)

 名古屋市の家事手伝い・女性(42)の投稿文です。おすそ分け野菜の様々意見とは、重なってもらって内心迷惑と思った時の意見である。断ればいやな顔さをされたり、今後もらえなくなる可能性があり言えないとか、ありがくもらっておいて黙って捨てるとか、丁寧に断るとか、そんな意見であったと思う。野菜など少し作ればすぐに余ってしまう。捨てるのはもったいないから誰かにあげたくなる。農地に囲まれたボクの周りではいくらでもあることだ。ない人には全くありがたいが、こうして重なり合うこともあり、おいそれとは声をかけられない。妻は分かっている方だけにあげているようだ。
 この女性のように保存できるものに加工して利用するというのもひとつの方法だろう。できる人、できるものはそうしたい。ボクは以前、夏ミカンをあげたらジャムになって戻ってきた。こうなれば最高である。いろいろな場合があろうが、いずれにしろ誠意を持って素直に対応できたらいいと思う。もらって捨てるというのはボクなら自分が傷つく。




2011/08/18(Thu) (第1488話) 遺跡発掘 寺さん MAIL 

 “名古屋市南区の見晴台遺跡発掘調査に参加した。十七年目。晴天で、暑かった。割り当てられたのは、資料館南の環濠跡を探ろうという南地区だった。環濠は東側に姿を現していたが、担当したのは西端。ひたすら熱田層を掘り出すだけの作業だった。
 スコップは誰もが知っているが、ジョレンは分からない。漢字では「鋤簾」と書く。これで表面を削り、ねじり鎌で表面を引っかく。そして熱田層の赤い土を掘り出す。出土品は、北地区では形が整った土器が出土しているが、昭和の土管や瓦のかけらばかり。どこまで掘れば、削れば、熱田層が出てくるか。掘り方は正しいか、ご見当はつけられるか、考えながら掘るのが楽しい。
 見晴台遺跡は市民が参加できる全国でもまれな発掘調査だ。その市民見学会が今月七日日)に予定されている。歴史に参加できる機会かもしれない。”(8月4日付け中日新聞)

 名古屋市の公務員・川上さん(男・58)の投稿文です。地中を掘り返す場合、埋蔵遺跡があるかどうかの判定をし、あると予想されれば発掘調査をしなければならない。愛知県では至るところにあり、建設工事を行おうとする場合、かなりの割合で発掘調査がされる。発掘調査は気の遠くなるような根気のいる仕事である。しかし、その後に建設工事が待っている場合はそんなに悠長なことも言っておられない。私の会社はこの発掘調査の仕事もしている。
 市民参加の発掘調査があるとは知らなかった。こうしたことに市民が参加できると埋蔵文化財に対する意識も知識も格段にあがるだろう。いろいろな催し物があるものだ。積極的に参加して、楽しみを広げたいものだ。




2011/08/16(Tue) (第1487話) 徳積んだと思って 寺さん MAIL 

 “警官に協力したら電話番号を聞かれたのにその後、音沙汰がなかったというお話(7月21日)。投稿された方の思いは理解できますし、畑に落ちた車の脱出に協力した善意に敬意を表します。でもお礼の言葉を期待するとこれからも思い出すたび、ふに落ちない気持ちになるのでは−。
 お礼を言われたら善意の徳がなくなると考えたらどうでしょう。言われなかった分、徳を積んだことになると思えばストレスもなく心身の健康に良いですよ。”(8月3日付け中日新聞)

 大垣市の男性(77)の投稿文です。協力したのにお礼を言われなかった、助けていただいたのにお礼を言いそびれた、こんな話がよく出ています。悪気はなくてもいろいろな事情、状況をあるものです。警察官や郵便局員、また公務員に対しては特に厳しい意見が多い気がします。
 この男性の心がけはどうでしょう。「お礼を言われたら善意の徳がなくなる」普通には思いつかない素晴らしい発想ではないでしょうか。良い気分にさせて良い気分にさせてもらう、これでは5分5分です。徳を積んだことにならない、と言うのです。このように考えられれれば人生腹の立つことは半減するでしょう。
 ボクも以前「仕事をすることは人生で最も尊いことである。しかし、見返りの金銭をもらうことによって当たり前の行為になる」と言っていたことがある。金銭もお礼の言葉もある意味同じである。




2011/08/14(Sun) (第1486話) 寂しい夏の朝 寺さん MAIL 

 “小一の娘は初めての夏休み。私にとって夏休みといえばラジオ体操ですが、この地区では行われないと知ってびっくり! 子どものころ毎朝六時三十分、出欠カードを首からぶら下げて広場に走ったものなのにー。
 一週間だけ行う学区もあるようですが隔世の感があります。そもそも授業でもラジオ体操を習っていないという娘は、市民プールで大人がそろって体を動かすのを見て「何で皆できるの?」。ちょっと残念です。”(7月26日付け中日新聞)

 名古屋市の会社員(女・39)の方からの投稿文です。この文を見て孫らに聞いてみた。1人は2週間位やっているようで、もう1人はないという。やはりそうなのだ、なぜだろう。世話をする人がいないのだろうか。やってもいく子が少なくなったのか、親の関心がないのか、ボクにも寂しく思えてくる。そして、この文で気がついたのは我々の世代では共通の文化になっていると言うことである。急にやっても誰もが何とできるのである。それがなくなるのである。一宮友歩会での準備運動はラジオ体操にしている。誰もができ、それも声を合わせてできるからである。この文化がなくなると気づいて残念である。それぞれの町で独自の体操やストレッチが作られている。しかし、これはなかなか共通にならない。また他市の人には戸惑いばかりである。ボクはほとんど毎朝ラジオの番組に会わせてラジオ体操をしている。その効果についてはこの「話・話」でもう何度も話題にした。ラジオ体操の始まりは1928年だそうだから日本の文化と言うのは言い過ぎかも知れないが、でもボクにはこんな所にも日本の文化が無くなっていくと言う思いである。




2011/08/11(Thu) (第1485話) 娘だけの家の墓 寺さん MAIL 

 “現代では、子どもが「娘だけ」という家族は多い。その娘が結婚して夫が長男というケースも、少子時代にはざらにあるだろう。この娘だけの家の墓は誰が守るのか。
 実は私の生まれた家族も、「両親に姉と私」という家族構成。三十年前、母が亡くなり墓を建てることになって、問題が起こった。長男と結婚した娘が実家の墓を継いだとしても、娘の子の代になると母方の墓まで継承できず、無縁化するというのだ。三十年後の今、継承者の性別はさほど問われなくなったが、当時、戦後の教育を受けた私にはとうてい受け入れがたい事実であった。
 学んでみれば、民法にも「娘では墓を継げない」とは書いていない。「墓には継承者がいなければいけない」という条文もない。問題は、父系男子で家を継いできた戦前の「家」意識が、墓地に関する法律や使用規則等に色濃く残っている点である。日本の墓は継承者が必要で、その人が管理料を払う限りにおいて永続使用できるが、継承者が絶えれば無縁墳墓として片付けられるのである。
 少子高齢化、核家族化、生き方の多様化が進んだ現代社会で、どれだけの人が代々継承者を確保できるというのか。「家」意識の残存による、永続規範に支えられた墓の継承制が、いま制度疲労を起こし人々を縛りはじめた。”(7月26日付け中日新聞)

 「紙つぶて」という欄から東洋大の井上治代教授の文である。墓にもあまり興味のなかったボクであるが、今年地元霊園の管理委員長を仰せつかってこのことに多くの時間を費やしている。そして、考えさせられることも多くなった。
 日本の慣習が次から次へと変容を見せているが、お墓などと言うものは最も長く残る日本の慣習だろうと思っていた。ところが管理委員長をやってみて分かったのは、近年毎年10件近くの墓地返還者が出ていることである。継承する人がないのである。全部で700区画程度の霊園であるが、返還する人もあれば購入する人もあるので今のところ20区画位の余りであるが、今後どのようになるであろうか。少子化がこんな所に大きな影を落としていたのである。
 ボクの家庭も筆者と同じである。娘2人は相手の姓を名乗っている。我が家の墓には3代7人の墓碑銘が記されている。このことについてまだ娘と話したことはないが、近くにいるので面倒を見てくれるだろうと勝手に思っている。お墓のあり方についてよく考えていかないと無縁仏ばかりになってしまう。




2011/08/08(Mon) (第1484話) 再会 寺さん MAIL 

 “夫の大学時代の友人が、秋田から数十年ぶりにわが家を訪問してくれました。年数回、電話やメールでの交流はしていましたが、今年定年を迎えて時間に余裕ができたので、久しぶりに会うことになったのです。
 まずはビールで乾杯。それから地酒を飲みながら話すこと数時間。私はあいさつだけ済ませ、別の部屋で読書をしていました。
 夕食には私も加わりました。当時あこがれた女性や寮生活、クラブ活動などの思い出、現在の家庭の状況や健康の話題など、尽きることがない話を楽しそうにしていました。そんな中から、普段は自分から話しかける方ではない夫の若いころの一面を知りました。また、その友人の話の端々に彼の優しさがにじんでおり、聞いているだけの私も何だか心地よく感じ、人の優しさが知らないうちに周りの人々に伝わり、みんなが楽しく過ごせることを知りました。
 定年を迎えた今、私たち夫婦二人の時間はたっぷりとあります。この出会いを機に、お互いを尊重し、そしていろいろな出会いを通して楽しい生活が送れれば、とあらためて思いました。”(7月26日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の西尾さん(女・55)の投稿文です。夫婦それぞれの友人を夫婦二人の友人にしてしまう、これは大切なことである。西尾さんのようにお互いのことで知らなかったことを知る機会にもなる、隠し事もしにくくなるし、共通の話題にもなる。昔は自宅に人を招くことも多かったので自然にそうなっていた。ボクの家庭でも若かった頃はよく友人に来てもらっていた。子供も含めて家族付き合いのようになった友人もある。そういう友人はいつまでも続く。
 若かったたというよりまだそういう時代だったのだろう。今では法事などの行事も含め次第に何でも外で済ますようになり、家庭に招くことは少なくなった。楽になった分、失われていくものも多くなった。




2011/08/06(Sat) (第1483話) 忘れサール 寺さん MAIL 

 “〈思い出すと穴に入りたくなるような失敗、ありますよね? そんなアナタにオススメなのが、新発売の《忘れサール》! 一錠飲むだけで失敗をひとつ忘れ去ることができます。気になるお値段は、なんと・・・一袋三錠入りで一九八〇円、恥ずかしい思い出とオサラバできますヨ!〉
 「大ヒットですね、社長!」「うむ」「しかし一過性のブームで終わるんじゃありませんか?」「いや、ロングセラーになる」「なぜです?」「恥ずかしい失敗だからこそ教訓が得られる。なのに忘れてしまったら同じ失敗を何度でも繰り返す。そこで、また《忘れサール》が必要になる。どんな記憶も、その人間にとって大切だという事に客が気づくまで売れ続けるさ。わっはっは!」”(7月14日付け中日新聞)

 「300文字小説」から愛知県豊橋市の学生・桜井さん(女・17)の作品です。まったく見事、面白くて人生訓もたっぷりの作品です。どこかの国の鉄道省の方に聞かせたいような話です。
 恥ずかしい思いや失敗は確かに思い出したくないことが多い。しかし、こういったものは逆にいつまでも忘れられないものである。何かの折りにふと浮かんでくる。苦々しい時間になる。もう2度と犯したくなくなる。これが重要である。貴重な体験だし学ぶことも多い。これが「失敗は成功のもと」と言われる所以である。これを消してしまったらまさにこの小説のようになってしまう。優秀賞を差し上げたい作品である。




2011/08/04(Thu) (第1482話) 病気恐怖症 寺さん MAIL 

 “保健センターの健診で、祐介さんは胃の再検査をすすめられた。病院に行き、ドキドキしながら胃カメラ検査を終えた。結果が出るまでの間、がんかもしれないという心配が「胃がんに決まってる」という怖さに変わっていった。二週間後に「異常ありません」と言われた時は、ほっとすると同時に、何か変だなと思った。
 祐介さんは六十五歳である。四十代、五十代のころと違い、機能が衰えるのは仕方ない。毎日少しずつ死に向かうのが人生だ。それなのに、あちこちの病院を走り回る人がいる。モグラたたきゲームと同じで、次々具合の悪い部分が出てくる。そうなると、自分の体ばかりに意識が集中して毎日を楽しめないどころか、今生きている喜びまで遠のく。六十五歳の肉体は、年相応に目も歯も内臓も弱って当然なのだ。健診は大切だけど、病気を怖がり過ぎるのもよくない。(後略)”(7月20日付け中日新聞)

 作家・西田小夜子さんの「妻と夫のための定年塾」からです。 同じような話を先日の「(第1478話)人間ドッグの日」でも紹介した。人間60代ともなれば機能が衰えるのは当然である。検査すれば当然いろいろな不具合が見つかる。医者は何かの処置を言う。この何かが肝腎である。本当に必要な処置なのか、気休め程度の処置なのか、全体を考えたらやらない方がいい場合もあるかも知れない。医者は人の生命を預かっている。商売に走る医者は言語道断だ。保険があるお陰で患者は安く済む。これがくせ者である。治療費の額も知らずに患者はすぐに応じてしまう。お金を払うもので、事前に額を聞かないものが外にあるだろうか。患者はまさに医者の良心に頼っているのである。人間ドッグの話で「肝心なのは全体のバランスを考えつつ病気と上手に付き合うこと」とあったが、このように患者の体全体を考えた判断をして欲しいものだ。我々も西田さんが言われるようにあまり神経質にならないことだろう。心配するより楽しく過ごすことが健康にいいのである。



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