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第78号  2010年10月

2010/10/31(Sun) (第1359話) むねのともしび 寺さん MAIL 

“  「ちいさなことでいいのです あなたのむねのともしびを
     あいてのひとにうつしておやり」  板村 真民
 十五歳の春、頭を剃って修行道場に入堂した私。夏休み、自坊に帰るべく市電に乗った。終戦後まだ日の浅い市電は混雑をきわめていた。名古屋駅で降りるとき、財布が見つからず困っていると、一人の方が自分の回数券を一枚切りとり「どうぞ」といって下さった。お礼の言葉もそこそこに道路に降り立った私を残して、市電は風のように走り去った。どこのどなたかお顔も名前も全く分からないが、回数券の一枚を私の手に持たせて下さったその手のぬくもりと「どうぞ」の一声は、六十年余り経った今も私の心にたしかなものとして生き続けている。
 ことは回数券一枚。しかしその一枚に托された温かい心は、限りなく大きなともしびとなって私の心を支えつづけてくれている。小さなことを大切にしたいと思うことである。”(10月16日付け中日新聞)

 久しぶり青山俊董さんの「今週の言葉」からです。終戦後のまだ自分ことで精一杯な時期に、回数券1枚と言えど見ず知らずの人に渡すのはできることではないと思う。渡された方にしてみれば感激で忘れられないことである。これが逆に、騙されたり盗られたりした場合はどうであろう。用心深くなり、人を疑う気持ちばかりになろう。その後の人生のこの両者の違いは回数券1枚程度の話ではない。特に若い人にはこの点を考えて接したいものだ。今の青山さんがあるのもこうした良い出会いの結果であるだろうか。
 板村さんの言葉は住みやすい社会を造る原点である。今の社会、自分だけを見て他人への関心が薄れ、その原点からますますほど遠いものになっている。会社のボクの机の上には、「日にひとつよいことを」という頂き物の色紙が置いてある。1日一つは難しいが、この気持ちを忘れないようにして日々過ごしたいものだ。




2010/10/29(Fri) (第1358話) 「トリエンナーレ」にはまる 寺さん MAIL 

 “今、「あいちトリエンナーレ」にはまっている。街中に点在する会場には著名なアーティストによる大がかりな作品から、無名のアーティストの手作り感いっぱいの作品まで、多くの作品が展示されている。「むむっ」と凡人には理解しがたい難解なものもあるが、形や色彩の美しさに魅了され、楽しいアイデアに「にやっ」とし、記憶や心に残る作品が多い。絵画、彫刻、映像と多種で次の展示室には何か、とわくわくさせられ、テーマパークに迷い込んだよう。新聞で期間限定パフォーマンスを見逃したことを知り侮しがったことも度々だ。
 会期も残り3週間を切った。この間、思う存分楽しみたい。名古屋には多くの美術館だけなく名古屋駅ビル、オアシス21など人々が集まるオープンスペースが応る。トリエンナーレを一過性のイベントにするのではなく、これらのスペースで最新のアートを、いつでも楽しめるような街になることを期待したい。3年後の「あいちトリエンナーレ」が、またその時の名古屋の街が、より魅力あふれるものとなっていることを願っている。”(10月14日付け中日新聞)

 名古屋市の裁判官・板津さん(男・38)の投稿文です。ボクもここまでは行かないが近い所を行っている。そして、言われることは全く同感である。よくぞ近い所で開いてくれたと思う。
 この催しは想定来場者をすでに越えたようで、まずは成功のようである。が、一番の成功はボクのようなこうした芸術に無関心な人に目を向けさせたことではなかろうか。長者町会場など地図を持った人がうろうろしている。いろいろな階層、年齢層を見かける。ボクの全体の感想として、この新しい芸術はかしこまった所がない、日常生活の一コマが作品になる、そんな感じを持つ。それだけに見た作品の発想がどこかで何かにつながる予感がする。ボクの掲示板でこの作品を話題にしているし、今月のボクの川柳連れ連れ草の句は、このトリエンナーレを題材にした。いつも題材を見つけるのに苦労しているが、ここに役立ってくれたのもいい。この句も一つの感想である。見て頂きたい。




2010/10/27(Wed) (第1357話) 読んで考え 寺さん MAIL 

 “いつのころからか、新聞記事を切り抜いてはノートに張り、余白に自分の意見を書くようになった。「そうだ、その通りだ」と賛同することもあれば、「それはちょっと違うんじゃないか」と反対意見を書いてみることもある。いずれも自分の中にあるもやもやしたものが言葉になり、形を成し得て、いっぱしの評論家になったような気分になる。
 そうして作った記事ノートは20冊を超え、ちょっとした日記のような感じにもなっている。こんな楽しいことは新聞以外ではできようもない。私は毎日欠かさず届けられる新聞を心から楽しみにしている。全国の人に読まれるという緊張感や責任感は、恐らく計り知れないものであると思うが、そうして書かれたものだからこそ価値がある。
 新聞には責任感を感じる。事実を正確に分かりやすくという意志が感じられる。そうして、私は今日も新聞を読む。ただ一人自分の好きに生きているのではなく、社会の中で生きているのだと感じるために。”(10月13日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・白井さん(28)の投稿文です。新聞を切り抜くことまでは比較的簡単にできる。それをノートに張り、意見まで書くとなるとなかなかできないことである。それが20冊を超え、それも28歳の若い主婦である。最後の「ただ一人自分の好きに生きているのではなく、社会の中で生きているのだと感じるために。」という言葉も良い。
 記事に意見を書き保存しておくというのは、ただのスクラップからもう一段階進んだ手法である。いろいろな発想があるものだと感心する。と言うとボクの「話・話」は更に進んだものといえよう、誇ろう。




2010/10/25(Mon) (第1356話) わがままな主婦 寺さん MAIL 

 “私は、今大人気の家庭用ベーカリー。手造りパンを食べたいという主婦の元に買い取られ、私の持つ性能を充分に発揮していた。ところが、ある日の事。
 「あぁー駄目だ、太ってしまった!もうパンは食べないッ」納屋に放り込まれてしまった。
 二階の奧で眠っていたら、ダイエットマシーンが突き飛ばされてきた。「どうしたんだい?」「どうもこうもないさ」マシーンがぼやく。「最初の頃は気に入られて仲良かったのに、急に、‘このマシーンはおかしい!これほど努力しているのに全然やせない’なんて言われて、この始末さ。暇さえあれば、つまみ食いばかりしているクセに」
 暫くして、体重計が投げ込まれてきた。”(10月10日付け中日新聞)

 続いて「300文字小説」から三重県津市の主婦・村田さん(45)の作品です。これは実際の話だろう。そうでなくても似たようなことは多くの家庭であるのではなかろうか。ボクの家にももう何十年も埃をかぶったままのトレーニングマシーンがある。人間、機械文明に踊らされている。わがままは主婦だけではない、買いたいのも人間の欲望のようだ。
 ダイエットは禁煙と同じように難しいもののようだ。ダイエットの本など有象無象にある。ダイエットに効くという情報が流れると大騒動になることはもう何度も聞いたことである。生命維持と活動に必要な量の食物だけにすればいいだけのことに何をそれほど騒ぐのか、考えてみれば全くおかしいことである。本当に人間の身勝手さと愚かさを思う。




2010/10/23(Sat) (第1355話) 夏夜のしあわせ 寺さん MAIL 

 “ある金曜日、夏の暑い夜。こんな夜は家で妻と晩酌をと、早めに仕事を切り上げ帰宅する。ビルの光にか弱い繊月の光はかき消され、都会の光に照らされたベランダのサボテン鉢植えが妖しく光る。
 スルメに、冷奴に、えだまめ。準備は万端。まずはビールで乾杯し、のどを潤す。今も昔も、しあわせのかたちは同じだ。風に吹かれようと窓に手をかけたその時、後ろから妻の声が・・・。
 「だめよ、外に出るならクーラースーツを着ないと!」そんな、2060年の夏。”(10月10日付け中日新聞)

 「300文字小説」から奈良市の会社員・海野さん(男・27)の作品です。2060年の夏か?この話は十分ありうると思う。現在すでに盛んに涼しい衣服が開発され、扇風機のようなものが付いた作業着が売り出されたことを聞いた気がする。そして、今年の夏の暑さである。そのうち体を涼しくしないと外に出られない時代がこないとも限らない。ありうる未来小説である。
 今名古屋では生物多様性のCOP10が開催されている。生物はもう沢山の種族が死滅している。それが人間の生活にも係わってくる。地域の利益にとらわれないで、地球、人間全体のこととしてしっかり議論して欲しいものだ。




2010/10/21(Thu) (第1354話) 夏の思い出 寺さん MAIL 

 “今年の夏は猛暑が続いたが、お彼岸を境に一気に寒くなり、衣類など冬物の準備に慌てた。
 ″あつい″と言えば、サッカーのワールドカップ(W杯)も熱く燃えた。夏物の一枚を手にして、思わず笑いだしてしまった。四年前、日本代表ジャパンブルーのユニホームを着て応援した。型は古くなったが、私の唯一のユニホーム。今夜は、これで応援しようと意気揚々、鏡に映しながら着てみた。
 そこへ、「こんにちはー。巡回連絡に来ました」と制服姿のお巡りさん。《わー、どうしよう。これは、まずい。着替えていると、待たせてしまって悪いし・・・。えーい、このまま出て行け》。お巡りさんは一瞬びっくり。でも、すぐ「頑張ってるね!」と笑顔に。
 巡回連絡は早々に済ませ、サッカー談議に花を咲かせた後、笑って帰って行かれた。いい年をしたおばあさんのばつの悪さを察して、私に合わせて乗ってくれたのだ。少し気恥ずかしく、でも楽しいあつい夏の思い出となった。《次回も必ず着て、一生懸命応援しよう》と思いながら丁寧に畳み、夏物と一緒に思い出もしまった。”(10月10日付け中日新聞)

 「くらしの作文」から岐阜県高山市の岩畑さん(女・70)の投稿文です。70歳のおばあさんがワールドカップのユニホームを着て一人はしゃぐ、何とも愉快な姿である。でも、こういうことを本気でできるのはいい。まだまだ若い証明だ。それを見たお巡りさんが話を合わす、これもいい。でも、これは誰が見ても楽しいだろうから、あわすなどと言うことではなく、お巡りさんも楽しんだというところが本当だろう。ボクもいつまでもあくせくしていないで、もうそろそろ信条転換を図らねばなるまい。
 この話で巡回連絡というのが気になった。お巡りさんが老人家庭を巡回しているのだろうか。一人死んでいたという話も多くなった。この地域ではお巡りさんが定期的に訪問しているのだろう。高齢者だけの家庭が多くなり、近隣の人のこうした気遣いがますます必要になった。しかし、個人では難しい時代にもなった。地域が組織的に行うのがいいだろう。




2010/10/19(Tue) (第1353話) 一日の始まり 寺さん MAIL 

 “私の一日は新聞を読むことから始まります。わが家に新聞が配達されるのは、朝五時を少し過ぎたころです。雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、ほぼ同じ時間に配達されます。
 結婚したばかりの今から三十八年前、新聞代は月九百円だったと記憶しています。現在は月三千九百二十五円。朝夕二回配達され、特に夕刊は、映画や演劇情報などがあり、楽しい記事が満載です。テレビ・ラジオと違って、新聞はいつでも、どこからでも読むことができます。いろいろな知識を手に入れる喜びにひたれます。近ごろは月決めで新聞を取らない人も増えているようです。インターネットで情報を得るので十分だと思われています。
 しかし、私は新聞大好き人間なので、時々コンビニで外の新聞も購入して読んでいます。”(10月6日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・伊串さん(64)の投稿文です。。10月15日から21日は新聞週間である。よってこの近辺の新聞では新聞に関する話が多い。投稿欄でも新聞を課題にした特集が組まれている。その中からの紹介です。
 この話はボクの家とほぼ同じである。そして、考えもボクとほぼ同じです。インターネットからボクも沢山の情報を得ているが、それでも新聞のない家庭など考えられない。確かに若い人に新聞を取っていない話を聞くが、不思議に思う。新聞を読む人と読まない人の間に知らないうちに文化の相違が生じてくる気がする。
 ボクのこの「話・話」の題材は新聞がほとんどである。読んで切り取っておく。これが知らないうちに孫にも影響をしているようだ。小学4年の孫は恐竜や動物の記事など目的を持って切り取っている。保育園年中の孫もまねしている。読めもしないのに4コマ漫画を切り取って貼っている。こういう姿を見ると本当に周りの姿が重要と感じる。
昭和46年頃の家計簿を見てみたら確かに900円であった。家庭に新聞が配られるシステムがいつまでも続いて欲しいと思う。




2010/10/17(Sun) (第1352話) ヘルメットの大切さ 寺さん MAIL 

 “10年前、当時小学生だった長男がローラースケートを買った時、夫はヘルメットも一緒に買ってきた。「転んで頭を打ったら大変だ。ヘルメットをしろ」と夫は言った。しかし、当時はヘルメットをすること自体が珍しかった。ローラースケートに限らず、自転車に乗る時も誰もヘルメットなどしていなかった。
 「かぶりもしないのに、わざわざ高いものを買ってきて」。私は夫に怒ったことを覚えている。10年たった。自転車に乗るのにヘルメットの着用が指導されるようになったのはいつだったか。10年間一度も使わなかったヘルメットが三男の常用になった。
 その日、三男はヘルメットをかぶって自転車で友だちの家に行き、交通事故にあった。自動車にぶつかり、顔面右側を強打した。頭を打ったようなので、救急車で搬送されたと聞いた時には一瞬「死」ということすら頭をよぎった。検査の結果は、顔の打撲以外はどこも異常なしだった。ヘルメットが、息子を救ってくれたのだ。私は、10年前に夫に怒ったことを謝った。”(10月7日付け朝日新聞)

 名古屋市の主婦・梶川さん(50)の投稿文です。当初、学生が自転車にヘルメットをかぶっている姿を見た時、何か奇異に思えた。そこまでしなければならないのかと、可哀想な気もした。しかし、梶川さんの息子さんはそのヘルメットで大事にならなかった。
 今では子供がヘルメットをかぶるのは普通の姿である。小学4年の孫はよくスネークボードに乗ってやってくるが、必ずヘルメットをかぶっている。この父親は本当に子を思う気持ちがあったのだ。それがヘルメットを思いつかせたのであろう。一般的でない時期だっただけに素晴らしい。母親も父親の素晴らしさが納得できた。事故が起こって始めて分かったことであったが、まずはめでたしめでたしである。




2010/10/15(Fri) (第1351話) 余命半年 寺さん MAIL 

 “「余命、一年くらいですね」と医師から告げられて半年暮れました。病名は膵臓がんですって。一ヵ月くらいは自分が自分でなくなり、きっと家族に迷惑をかけたと思います。健康な時は「太く短く生きて人生の幕を下ろしたい」と□癖にしていたくせに、現実になったら何と意気地のない私なんでしょう。何かの間違いじゃないかしら。例えば、エックス線写真が他人のものと入れ替わっていたとか、カルテと患者名が違っていたとか、いろんなことを考えて病気を否定しようと努力しました。でも、傷みや苦痛が徐々にひどくなってきて、認めざるを得なくなりました。
 余命半年になった今は、事実を受け止め、今生きていられることを感謝し、今まで支えてくださった方々にご恩返しができないことをわび、静かにその時を迎えようと自分に言い聞かせています。もともと何につけてもいいかげんに処理してきた私に、一生のまとめをちゃんとするように神様やご先祖さまが、残された日々を教えてくださったと感謝し、明るくしっかり生きてみせますね。”(10月4日付け中日新聞)

 愛知県あま市の山田さん(女・65)の投稿文です。人間いくつになっても死にたくないものだ。「死にたい、死にたい」といっている人でも、死が現実になるとうろたえるのである。「太く短く生きて」などと言っている時は死に関係ない時である。山田さんも苦しんだ時期を経て、今死を冷静に受けとめられる境地になられた。ボクがどんな状況で死を迎えることになるか分からないが、経過はどうにしろ、最後は山田さんのように冷静に受けとめられるようになりたいものだ。
 先月、ボクが一宮友歩会の役員に期待していた人が癌で亡くなった。62歳であった。自分より若い人が亡くなるとは、全く残念である。聞く所によると、今年5月頃癌と分かり、いろいろキチンと整理し、かなり細かなことまで配慮し言い残しておかれたそうである。冷静に死を受けとめられたのであろう。奥さんも一宮友歩会に参加されているが「ウォークの友達も多いのだから、いつまでも嘆き悲しんでいないで楽しく出かけなさい」と言い残されたと聞いた時には、ボクの胸にも詰まるものがあった。




2010/10/13(Wed) (第1350話) 敬老会の手伝い 寺さん MAIL 

 “私は市の主催する敬老会のボランティアに初めて参加しました。担当は案内孫でした。簡単な打ち合わせをしただけだったので、自分の仕事がきちんと務まるのか、どきどきしていました。
 最初は名前の分からない人を案内することにとてち緊張しました。しかし、やっていくうちに緊張がほぐれ、だんだんと楽しくなりました。バスで会場に来た人々に私から勇気を出して「おはようございます」と言うと、おじいさんやおばあさんたちは「ごくろうさま」「ありがとうね」「熱中症に気をつけてね」などという言葉を返してくださいました。短い言葉でしたが、とても心が温まりました。ボランティアをやって本当によかったと思いました。
 一人のおばあさんは若い人たちとおしゃべりしていると楽しくなると言ってくださり、幸せな気分になりました。このような機会を与えてくださった主催者の方に感謝したいです。ありがとうございました。”(10月1日付け中日新聞)

 愛知県大府市の中学生・日比野さん(女・15)の投稿文です。若い時の印象はいつまでも残る。その印象が一生に及ぼす影響も大きい。それだけにいい出来事に出会い、いい印象を持って過ごしたい。そう思うと、日比野さんはいい経験をされた。今はボランティアを体験する機会も多い。積極的に出かけて欲しいものだ。受ける方も、親切な対応には素直に応じ、嬉しい気持ちを伝えることが大切だ。
 乗り物の中で席を替わられて断っている場面を見かけることがある。まだ譲られるほど老いていないと言いたいのだろうが、ここは気持ちよく受ける所だ。譲る方だってかなりの勇気を出してしているのである。最近、ボクも譲られる場面が結構出てきた。ありがたく受けている。




2010/10/11(Mon) (第1349話) 電車ごっこ 寺さん MAIL 

 “その夫婦に会うと、真知子さんはうれしくなってあいさつする。夫の方はちょっと頭を下げるが妻は「こんちは。いい天気だねえ」と威勢がいい。二人とも八十代だろうか。夫の1m後ろを妻が歩いていくのだ。夫は腰に白い頑丈な麻縄を巻きつけている。腰の後ろ中央から延びた縄は先端が輪になっていた。それを妻が両手でしっかり握りしめる。脚と目が不自由らしい。
 夫に誘導されて歩く妻の方が、いやにいばっているのがゆかいだ。「ほれ、フラフラするんじゃないよ。まっすぐ歩く!」やさしそうな夫で、口の悪い妻に抵抗することもなく淡々としていた。(中略)
 真知子さんは自分の夫に二人のことを話した。「おばあさんのいじけてないところがいいし、おじいさんもみじめたらしくないの。誰の世話にもならずに、老老介護のお手本ね」「おれはいやだぞ。電車ごっこはお断りだぞ」。あわてて言う夫を「私が運転士やってあげるわよ」と真知子さんはからかった。”(9月29日付け中日新聞)

 作家・西田小夜子さんの「妻と夫の定年塾」からです。老いた二人の電車ごっこ、愉快な、と言っては失礼かも知れぬが、そんな風景である。夫婦二人の生活はいずれこんな時が来るのではなかろうか。しかし、このように電車ごっこができる期間は少ないだろう。一方が動けなくなる、また亡くなる、そしたらこんなことはできない。一時を楽しんで頂きたい。
 しかし、多くの夫婦はこんなことをする気になるだろうか。馬鹿らしい、照れくさい、そんなこと言って避けるのではなかろうか。特に男の側はそうであろう。ボクもそうだろう。こんな遊び心が欲しい。この文章を覚えていたい。




2010/10/09(Sat) (第1348話) 里帰りした母の手紙 寺さん MAIL 

 “日米友好の証しとして、戦前に米国から贈られた青い目の人形。その答礼として三重側から市松人形「ミス三重」を贈った話は新聞などで見聞きしたくらいで、自分に関係があるとは思ってもいませんでした。それだけに、三重県四日市市で今春開かれた「人形大使ミス三重と青い目の人形展」で米国から里帰りした母の手紙を見つけたときは驚き、熱いものが込み上げてきました。
 当時十二歳の母が答礼人形に添えて送った手紙が米国で大切に保管されていて、八十二年ぶりに里帰りしてきたのでした。「尋常高等小学校児童総代」と毛筆でしっかりと書かれた筆跡は、紛れもなく母の手紙でした。なぜか、この話を聞いた記憶は全くありません。
 その母も戦争で夫を亡くし、戦前・戦後の混乱の中、女手一つで四人の子どもを育て上げてくれました。そして、自筆の手紙に再会することなく、八年前に天国へ旅立って行きました。母を思い出すたび、戦争は二度とごめんだと痛感します。そして今、しみじみと平和の尊さをかみしめています。”(9月29日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の加藤さん(女・74)の投稿文です。こうした偶然もあるのですね。思いがけない出会いにびっくりされ、感激され、涙を流されるのは頷けます。亡くなったお母さんの手紙だけに感激もひとしおだったでしょう。人生いろいろなことがあるものだ。
 親は子のことをほとんど知っているが、子は親のことを知らないものだ。親はあまり子に自分のことは語らないし、子が物心付くまでに親には数十年の人生があり、少なくともその間の人生は知らない。ボクも先日母が亡くなって、母の若い頃のことを何も知らないことに驚いた。亡くなって始めて気がついた。見習うように話と嫌がられるが、淡々と思い出を話すことは必要なのではあるまいか。子も聞いておかないと後悔すると思う。亡くなってからではどうしようもない。




2010/10/07(Thu) (第1347話) 夜の次には 寺さん MAIL 

 “私はこの年まで、ある言葉を大切にしてきました。それは「夜の次には朝が来る。朝の来ない夜はない」というものです。
 私が二十歳になるかならない時に父が亡くなりました。一番下の弟は中学生になったばかりで、私も落ち込みました。父が亡くなって間もないころ、電器店に勤めていた兄が修理のためにテレビを持ち帰ってきました。つけてみたところ「私の好きな言葉」という番組だったでしょうか、この言葉が耳に飛び込んできました。
 そばで聞いていた母が「ええ言葉やなあ」と一言。私は、目の前にはぱーと光がさしてきたような気がしました。私はその言葉を信じ、自分の教訓にしようと思いました。以来、どんなときでも「朝」を信じ、自分を励まして頑張ってきました。
 何年たってもこの言葉を忘れたことはなく、主人が亡くなった時も、自分自身が入院した時も、この言葉を信じ続けました。今思っても、この言葉は本当にその通りです。おかげて今があるのだと思います。皆さんも良い言葉を見つけ、つらい時などに、その言葉で自分を励ましてください。頑張りましょう。”(9月21日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の主婦・岩下さん(70)の投稿文です。言葉の一つの持つ大きさ、こんな話も多いものです。このように励ましになる言葉もあれば、傷つく言葉もある。同じ言葉でも、聞く時の環境、受け取り方で全く違うこともある。前向きな言葉を持てるのはいい。前向きになるように受け取りたいものだ。
 この場合「朝の次には夜が来る。夜の来ない朝はない」とも言える。好調に浮かれているといつ落とし穴に落ち込むかも知れない。この言葉は好調の時に覚えておくことである。
上り坂あれば下り坂あり、吉凶は糾える縄のごとし、である。


2010/10/05(Tue) (第1346話) バッジ 寺さん MAIL 

 “昔の友人と会った時です。高校までいっしょだった友人は、その後、父親の引退に伴い、後継者として国会議員になっていました。
 象徴である金バッジをつけて、「やあ」と横柄な態度で近づいてきて、「久しぶり、いま何をやってるの?」と私に訊きました。「サラリーマンをやってます」そっけなく応えると、友人は隣に控える秘書に、「サラリーマンだって」と軽蔑した声で話しかけました。そして、私を、もう自分の敵ではないと思ったのか、急にくだけた口調になり、「友人と会って話す時は、このバッジはじゃまだなぁ、アハハハ」と笑いながら、胸のバッジを外そうとします。
 仕事で来ていた私は、慌てて検察官のバッジをつけました。”(9月19日付け中日新聞)

 久しぶり「300文字小説」から、埼玉県狭山市の安部さん(男・65)の作品です。そして、ありそうな、時には起こしそうな話です。仕事で来ていたというから、ヒョッとしたらこの後大変なことになるのかも知れない。
 この場合、サラリーマンと言ったのだが、公務員と言ったらどういう反応になったのだろうか。官僚と言ったらどうなのだろう。人それぞれ職業に一つのイメージを持っている。そのイメージはほんの一面である場合がほとんどだ。気をつけねばならない。




2010/10/03(Sun) (第1345話) 忘れ得ぬ服 寺さん MAIL 

 “自分に限界をつくらない人が一番強いのかもしれない。
 学生時代、家庭科の成績が悪かった私は、ただそれだけで洋裁とは一生無縁に生きるのだろうと決めつけていた。ところが、転機は意外なタイミングで訪れた。四十代半ばでの病気による無念の会社退職。そんなある日、「楽しい洋裁を気軽に」という一枚のチラシに出合った。
 その時よみがえった何年か前に目にした衝撃的な光景。もしかしたら、それが最初の一歩を踏み出せる決定的なものになったのかもしれない。浜松市内で開かれていたその洋裁作品展は、信じられないものだった。製作者(故人)は幼い時に病気で両手両足を失い、すべての服が口で縫われていた。この方が特別器用だったのだろうなどという次元の話では到底なかった。
 あの日から十数年もの時が流れて、私は今、洋裁を仕事にしている。本当にありかたいことに、私の服を買ってくださる方がいる。それなのに今日はうまく縫えず、途中で放り投げてしまった。
 それにしても、あの製作者は、どうやって口で服を縫ったのだろう。謎は謎のまま、思い出すたび今も圧倒され続けている。そして、駄目な私を励まし続けてくれている。”(9月18日付け中日新聞)

 静岡県袋井市の手作り服販売・藤井さん(女・54)の投稿文です。手足がなくて絵を描いたりパソコンを扱ったり、そんな記事を時折見る。裁縫となればまた大変な努力だろう。その人に言わせればそれだけの技術だと言われるだろうが、健常者には信じられない行為だ。藤井さんがいわれるように、特別器用などという次元の話ではない、と思われるの全く頷ける。こういう姿を見れば、そこまでの努力をすれば、健常者ができないなどと言うことは許されない気がする。
 この文で気を引いたのは「自分に限界をつくらない」という言葉である。確かに我々は自分で限界を引いている場合が多い。ほとんどがそうかもしれない。ボクは学生時代の成績の良し悪しに左右されるなんて、全くの愚だと思っている。この時代の好き嫌いもあてにならない。その後の努力や出会い、環境、そうしたものに大きな影響を受けるのだから、早くから自分の限界を作らないのが賢明だ。




2010/10/01(Fri) (第1344話) 冥土の土産 寺さん MAIL 

 “六十二歳になる母の話です。二〇〇二年に兄と私が次々に結婚し、ほっとする間もなく、父のがんが見つかりました。見つかったときには、がんはかなり進行していて、医師からは「五年生存率が5%にも満たない」。毎日、早朝から夜まで病院に通い、看病したものの、翌年のクリスマスイブに死去しました。その一年後には祖父も亡くなりました。
 泣き暮らす時期もあったと思います。心身ともに疲れ切っていたと思います。しかし、母が幼子を抱えた兄夫婦や遠方に住む私を頼ることはありませんでした。周囲の気遣いに甘えて相手の負担になることを人一倍気にして仕事や運動を始め、気丈に一人で暮らしていくことを選んだのです。
 有り余る時間と周囲の心配の声を振り払うためか、若いころからの夢だった二級建築士の資格試験に五十七歳で挑戦することに。自分の子どもより若い生徒らと机を並べ、先生にも恵まれて二度目の挑戦で見事合格。五十八歳の新米二級建築士の誕生です。
 いよいよと思った直後、祖母が認知症を発症。介護生活を続け、母も還暦を迎えました。取った資格で「社会に還元したい」という気持ちがあっても、もう六十二歳。本人は「冥土の土産」と笑います。年を取ったからとあきらめるのではなく、いつからでもスタートして夢を成し遂げた母の努力を誇りに思います。”(9月16日付け中日新聞)

 岐阜市の主婦・野村さん(35)の投稿文です。9月20日の「(1339話)夢の語学短期留学」で、若い時の夢を達成した話を紹介したが、今回もそんな話である。それももっとすごいのである。58歳で2級建築士の資格取得である。それも「社会に還元したい」からという言葉には感じ入る。前向きな姿勢は人に感銘を与える。「母の努力を誇りに思う」と言わせるのである。
 介護生活になり、当面その資格は役に立たなくなったが「冥土の土産」と笑って言われるのもいい。悔しさはあろうが、人生いろいろな場面が待っている。明るくやり過ごしたいものだ。ボクなどすぐに深刻になる質なので、この姿勢が羨ましい。見習え、見習え!



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