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第77号  2010年9月

2010/10/01(Fri) (第1344話) 冥土の土産 寺さん MAIL 

 “六十二歳になる母の話です。二〇〇二年に兄と私が次々に結婚し、ほっとする間もなく、父のがんが見つかりました。見つかったときには、がんはかなり進行していて、医師からは「五年生存率が5%にも満たない」。毎日、早朝から夜まで病院に通い、看病したものの、翌年のクリスマスイブに死去しました。その一年後には祖父も亡くなりました。
 泣き暮らす時期もあったと思います。心身ともに疲れ切っていたと思います。しかし、母が幼子を抱えた兄夫婦や遠方に住む私を頼ることはありませんでした。周囲の気遣いに甘えて相手の負担になることを人一倍気にして仕事や運動を始め、気丈に一人で暮らしていくことを選んだのです。
 有り余る時間と周囲の心配の声を振り払うためか、若いころからの夢だった二級建築士の資格試験に五十七歳で挑戦することに。自分の子どもより若い生徒らと机を並べ、先生にも恵まれて二度目の挑戦で見事合格。五十八歳の新米二級建築士の誕生です。
 いよいよと思った直後、祖母が認知症を発症。介護生活を続け、母も還暦を迎えました。取った資格で「社会に還元したい」という気持ちがあっても、もう六十二歳。本人は「冥土の土産」と笑います。年を取ったからとあきらめるのではなく、いつからでもスタートして夢を成し遂げた母の努力を誇りに思います。”(9月16日付け中日新聞)

 岐阜市の主婦・野村さん(35)の投稿文です。9月20日の「(1339話)夢の語学短期留学」で、若い時の夢を達成した話を紹介したが、今回もそんな話である。それももっとすごいのである。58歳で2級建築士の資格取得である。それも「社会に還元したい」からという言葉には感じ入る。前向きな姿勢は人に感銘を与える。「母の努力を誇りに思う」と言わせるのである。
 介護生活になり、当面その資格は役に立たなくなったが「冥土の土産」と笑って言われるのもいい。悔しさはあろうが、人生いろいろな場面が待っている。明るくやり過ごしたいものだ。ボクなどすぐに深刻になる質なので、この姿勢が羨ましい。見習え、見習え!




2010/09/28(Tue) (第1343話) 誇りの歌舞伎 寺さん MAIL 

 “わが地域には、お国自慢の祭りがある。江戸時代から統く伝統的な農村歌舞伎である。舞台の創建は二百年も前。回り舞台がついており、両脇には浄瑠璃語りが座る太夫座もある立派なものだ。戦時中など、一時中断の時期はあったが、戦後になって再興。平成時代になると、老朽化による舞台取り壊しの話もあったものの、市当局や地域住民の努力により大修理をし、現在に至っている。
 毎年祭りが近づくと、歌舞伎の練習など準備が大変である。子どもはセリフをすぐに覚えるが、大人はなかなか覚えられない。しかし、この農村歌舞伎の舞台は市の文化財にも指定されており、伝統ある歌舞伎奉納は今後とも末永く統けていきたいものだと思っている。”(9月11日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の鈴木さん(男・78)の投稿文です。愛知県や岐阜県は全国でも有数の農村歌舞伎が多い地域です。ボクも愛好家で一時よく見に行った。大劇場の歌舞伎もいいが、農村歌舞伎は出演者と観客の一体感がある。おひねりが飛んだり、菓子をぼりぼり食べながら見られる気楽さもある。
 歌舞伎は舞台、衣装、演技等総合芸術である。素人が維持するのは本当に大変であろう。文から察するに鈴木さんも係わっておられるのだろう。高齢ではあるが、生き甲斐にして頑張って欲しい。愛知県の奥三河には「花祭り」と言う有名な伝統芸能がある。ここもかなり維持が難しくなって、できない地区が増えているようだ。ボクは今年「花祭会館」と言う常設館で見てきた。各地区で一晩通して行われる本番とは違うが、これも維持していく一つの手法なのであろう。知恵を絞り頑張ってもらいたい。




2010/09/26(Sun) (第1342話) 善意の花壇手入れ 寺さん MAIL 

 “名古屋市天白区の野並交差点には、歩道の角三ヵ所に花壇がありますが、30〜60センチぐらいの雑草がぼうぼう。年1回くらい整備しているのを見かけますが、後はほったらかしの状態です。
 思いあまって近くのカレー屋のシャッターに「何とかして」と書いた紙を挟んでおきました。すると翌日、雑草は処理され、近辺の植え込みの下草まできれいに。店長や店員さんが頑張ってくれたんでしょう。本当にありがとうございました。”(9月10日付け中日新聞)

 名古屋市の女生(85)の投稿文です。紙を挟んだ積極性も良いが、すぐに答えた店も良い。そして、このことに感謝して投稿されたのも良い。
 しかし、公共の場であっても自分の周りは自分できれいにする社会であらねばと思う。道路は役所の管理だから草取りも役所がやって当然と言って、注文をつけるだけでは街はきれいにならない。どこの役所も赤字、そうして欲しければ増税せねばなるまい。
 最近、道路の植栽帯がどんどん舗装されているのが目に付く。ボクが想像するに、多くの役所の財政は真っ赤か、綺麗に管理できるだけの予算がないのである。この話のように、草ぼうぼうになって見苦しい、苦情も多い、それなら舗装してしまえと言うことであろう。住民はどちらを取るか・・・増税か、植樹帯をなくすか、住民も管理に協力するか・・・・。ボクは3つ目の方法が採れればいいと思うし、そうしなければと思う。少なくとも自宅前の歩道くらいはごみを拾い、草を取る位のことはしないと・・・・。ボクもささやかながら自宅前の歩道のごみは拾っている。最近地域でボランティア団体を作って協力している場合が多くなった。もっと広がっていって欲しいと思う。




2010/09/24(Fri) (第1341話) 暑さ和らぐ親切 寺さん MAIL 

 “「熱帯夜最多日に」「各地で9月最高気温」。暑苦しい見出しが連日紙面に躍っています。こんな猛暑は一体いつまで続くのか・・・。
 仕事帰りの電車に乗った途端、ついウトウト。夏バテを引きずっているんでしょう。そんなある晩、かすかな風を肌に感じて「アレッ?!」。隣り合わせて座った知らないおばあちゃんが、うちわで私をあおいでくれていたのです。「じゃあ、私も」と扇子を取り出してフワフワ。感謝を込めて・・・。”(9月10日付け中日新聞)

 愛知県半田市の会社員(男・53)の投稿文です。本当に今年の夏は暑かった。暑がりのボクには全くこたえた。通勤もこたえた。
 涼しい風?隣り合わせたおばちゃんがうちわであおいでくれていた!嬉しかったろう。この場面を想像するに、自分をあおいでいた風が隣にも当たったのか?まさに隣の人のためにあおいでいたのか?・・・。文から想像するには後者であろう。このおばちゃんは勤めで疲れた息子をうちわであおぐ母親の気分だったろうか。いずれにしろほほえましい風景である。街の中にこういう風景が広がると和やかになる。
 急に涼しくなりました。すぐに寒いと言わなければならないだろうか。人間は身勝手だから、あの猛暑が恋しいと言うかも知れない。




2010/09/22(Wed) (第1340話) 南吉の童話 寺さん MAIL 

 “先日、夫と一緒に愛知県半田市にある「新美南吉記念館」へ行った。記会館は閑静な場所にたたずみ、館内には南吉にまつわる展示室や絵本などが納められている図書室などがあった。
 南吉は大正二年生まれ。二十九歳の短い生涯を閉じるまで、数多くの童話をこの世に残している。十八歳で旧制中学を卒業後、半田市の小学校で代用教員として勤務し、雑誌「赤い鳥」に次々と作品を発表した。後には、誰もがよく知っている名作「ごんぎつね」を生み出し、「手袋を買いに」や「おじいさんのランプ」など多数の作品を書いた。
 大人から子どもまで誰でも楽しめる童話の世界を、南吉は見事に描き切り、世代を超え時代を超えて、今もなおわれわれ読む者に夢とノスタルジアな空間を与えてくれているのだ。
 彼岸のころ、記念館の傍らの矢勝川堤に百万本以上の彼岸花が咲き乱れ、赤いじゅうたんを敷き詰めるという。その季節、もうー度「ごん」に会いに出掛けてみたいものだと思っている。”(9月9日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の主婦・壇上さん(61)の投稿文です。新美南吉は半田市が、また愛知県が誇る童話作家です。新美南吉記念館と共に、生家や童話の舞台になった場所がよく保存され、説明板も付いている。地元の人が一生懸命手入れをしている。ボクは以前この地を訪れた時に彼岸花も満喫している。
 その思いを明日、鉄道会社が主催するウォークに参加し、小学4年の孫に満喫させてやるつもりであった。しかし、終日雨の予報と今年の猛暑で彼岸花の開花が大分遅れている情報に取りやめることにした。折角の機会に残念だが、思うように行かないのが自然だと言うことを分からせるのもいいだろう。それだから自然は大切なのだ。またの機会を待ちたい。
 今夜は中秋の名月だが、昼間の上天気が嘘のように今は厚い雲に覆われ、今にも降り出しそうな気配である。ここにも思い通りにならないことがある。




2010/09/20(Mon) (第1339話) 夢の短期語学留学 寺さん MAIL 

 “私は学生時代から、一度は単独で短期語学留学に行きたいと思っていた。かなわぬまま二十歳で結婚、出産し、四年ほど前から夢を現実にする計画を立てていた。
 今年初めに長女が結婚し、次女は就職。チャンス到来! 七、八月の約ニカ月間、家を空けることに不安もあったが、家族や周りのサポートもあって単独渡米が実現した。この年にして学生寮に入り、現地の英語学校に通い、日本語が全く通じない環境がうれしく、失敗さえ勉強になったと思えた。娘たちと同じくらいの年の外国人に交じっての生活は新鮮で、多くの友人もでき、失敗を含め二百点の短期留学だった。学んだことは英語以外、数知れず。テキストだけでは学べない旅をして無事帰国した。
 この時を二十五年くらい待ったのかな? この旅は私を一回り大きくしてくれたかもしれない。もう四十三歳じゃなく、まだ四十三歳。夢はかなえるもの、かなうものだと知った。今、それを快諾してくれた家族と周りの人に心から感謝している。ありがとうね。次は、いつ、どこへいこうかな?”(9月2日付け中日新聞)

 名古屋市のパート・坂本さん(女・43)の投稿文です。十代で持った夢を一段落した40過ぎになってかなえる。語学留学など若い時に持つ一時の夢で終わる場合が多いのに、素晴らしいことである、おめでとうございます。夢は持ち続けてこそかなえられる、そんな身近な実例でしょう。余裕ができたと言え、まだまだ忙しい40代、この時期にこんなことをを考えられるのだから、多分は坂本さんは次から次へと夢が拡大していき、どんどんかなえられるでしょう。
 40代前半か・・・・確かにあの頃は社会でも一人前と認められる人生の最旺盛期、やる気があればいろいろできる時期である。ボクのあの頃「一宮第九を歌う会」の会長をやった。これは夢でもなく、成り行きでただ嵌められたことである。しかし、よく頑張ったと思う。あの時の努力、苦労がボクを一回り大きくしたと思う。あの時の苦労を思えば何でもできるという思い、これがボクの一つの財産だ。だから一宮友歩会もやっている。
 先日ボクは満65歳の誕生日を迎えた。市から「シルバー優待カード」が支給された。本当に老人の仲間入りをした思いである。でも、もう65歳ではなくまだ65歳、こう思って歩き続けよう。




2010/09/18(Sat) (第1338話) 終活 寺さん MAIL 

 “最近、あるテレビ番組で「終括」という言葉を知った。「就活」「婚括」は既に周知されているが、「終活」は初耳だ。
 いつの日にか訪れる人生最後の「終の日」に備えて、生きているうちからいろいろ考えておく必要がある。そのために活動するということだそうで、《なるほど》と、後期高齢者の私は妙に納得してしまった。夫は既に他界、娘二人は嫁いでおり、目下、一人暮らしである。そこで、二、三年前からエンディングノートなるものを作り、「無駄な延命治療はしないで」とか「葬儀は地味葬でいい」など、万一の時のために残された者が慌てないようにと書き留めている。
 先日も、墓参の折、葬儀の話に触れると、娘は「葬儀は残された者の務めだから、そんなことは心配しなくてもいいよ」と言ってくれ、うれしく思った。そして「お母さんがどんな葬儀をしてほしいのか、希望があればそのようにしてあげるよ」とも。
 さあ、そろそろ具体的に「終活」をしなくちゃ・・・。「終の日」を意識して真剣に考えるとともに、今を悔いなく過ごしたいと思っている。”(9月1日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・武藤さん(76)の投稿文です。社会はいろいろ短縮した言葉を作り出すものだが「終活」という言葉もあったのだ。
 6月に母が亡くなり、親はすべて看取ったので、ボクの親族ではボクが最年長者になった。ということはボクが一番死に近いと言うことである。父親が亡くなる歳まで後3年である。「終活」は人ごとではない。
 母が亡くなって2ヶ月半、まだその後片づけをしている。物は生前にかなり片付いていた。年金や保険の廃止手続きはしたが、預金の引き出しや相続の手続きはまだである。母でさえこの難儀さである。世帯主のボクだったらどうなるだろう。できるだけ簡素にしておいてやらねばならぬと思うが、まだまだ明日があると思っているボクにはなかなかできぬ事である。
 残された人が意外に捨てにくいのが、日記やアルバムなど思い出の詰まっているものではなかろうか。本人も生きている間は捨てにくい。先日、フィルムスキャナーなるものを知って早速に買った。デジタル化すれば持っていても苦にならぬ。少しずつ始めた。古い写真に思い出がよみがえる。思い出に浸ってなかなか作業は進まないが、思いがけない効果である。まだ20年は生きているつもりだからゆっくりやればいいだろう。




2010/09/16(Thu) (第1337話) 親子の成長 寺さん MAIL 

 “「おばあちゃんちまで一人で自転車で行ってもいい?」。小三の娘にいきなり、こう聞かれた。同じ市内とはいえ、旧音羽町の自宅から実家までは車で二十分はかかり、距離にして十キロはあるはず。山暮らしなので自転車に乗る機会が少なく《本当に行けるだろうか?》《それより、事故に遭ったらどうしよう》と心配になったが、娘の意志を尊重することにした。
 首に保冷剤入りタオルを巻き付け、ヘルメットと帽子の間にも保冷剤を入れ、水筒とあめを持って元気よく山を下りて行った。車で先回りし、市民病院近くの実家で娘の到着を待つ間、救急車のサイレンが間こえるたびにドキドキし、生きた心地がしなかった。
 そんな親の思いに反して、娘は一時間ほどで到着した。初めての一人旅がとても楽しかったらしく「今度は違う道を走ってみたい」と笑顔を見せた。
 過保護で親ばかだと分かっていても、大切な一人娘を一人で十キロも走らせることは、かなり勇気がいることだった。でも、娘と私が、少し成長できたように感じた夏の一日だった。”(8月30日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の主婦・氏原さん(45)の投稿文です。小三の子供が一人で10数キロを自転車で出かける、初めての事では親は気が気でなかろう。こうした体験の繰り返しで成長していくのである。親子の愛情も確認しながら。
 こうした文を読むとボクにも思い出すことがある。ボクが大学生時代、自転車で旅行していたことは以前にも書いた気がするが、父親は猛烈に反対した。周りにも同意を求めて話して歩いた。大学生であっても、無謀なことで心配でたまらなかったのであろう。子供のことなどほとんど無頓着な親であったと思うが、それでもこういう状況だった。ボクは親の心配など全く無視して出かけた。そして、この旅行はボクの原点になる程に有意義だったが、親に対する配慮は全く欠けていたと思う。今悔いてもどうにもならぬが、思うほどに悔やまれる。親子が話し合って理解し、共に成長できる関係であれたらどんなに良いだろう、ボクの親子関係がそうでなかっただけにより思う。




2010/09/14(Tue) (第1336話) くつわ踊り 寺さん MAIL 

 “少子化の影響で途絶えていた津島市中野町の「くつわ踊り」を十年ぶりに復活させようと、地元ゆかりの人たちが活動を本格化させている。はかま姿の子どもが歌に合わせて踊るにぎやかな民俗芸能で、踊り手となる子どもの確保が課題だ。校区内の保護者に理解を求めるため、二十九日に南小学校で説明会を開催する。
 雨ごいの踊りとされ、子どもらが馬のくつわを鳴らしたり、タンバリンのような銭太鼓をたたいたりする。大人は歌い、傘を回す。戦国時代、清須城主だった織田信長に、津島の有力者が踊ってみせ、喝采を受けたとされる。
 中野町の保存会が継承し、一九六七(昭和四十二)年に県の無形民俗文化財に指定された。ほぼ毎年、秋に地元の八剣社と津島神社で奉納してきた。しかし、町内の子どもが少なくなり、九八年ごろから踊りができなくなった。保存会も高齢化などで活動停止に。
 「伝統を終わらせたくない」と、高校まで中野町で育ち、踊っていた印刷会社社長の八谷順一さん(46)が復活を計画。町内だけでは子どもが集まらないため、地元の南小学校区に広げて踊り手を育てようと決心した。二十九日の説明会では、保存会への加入を呼び掛ける。来年にも保存会の活動を再開させ、踊りを披露したい考えだ。
 八谷さんは「踊りを指導できる入も一人になってしまった。復活させるなら、今しかな
い」と意欲を見せている。”(8月25日付け中日新聞

 記事からです。各地の伝統芸能も保存が難しくなり、危機に立たされている。こんな話題も多くなった。この津島市の「くつわ踊り」もそんな一つであった。指導できる人も一人となった今が最後の機会と、印刷会社社長さんが復活を計画、実施に取り組まれている話である。近くの地域の話であり、成功を祈りたい。
 8月末に名古屋で開催された「にっぽんど真ん中まつり」は23000人の出演者に200万人の観客。こうした新しい大きな催し物も全国で開催されるようになった。今名古屋で開催されている「なごやトリエンナーレ2010」などを見ると、近代芸術の様々な発想に驚かされる。多種多様になったものである。人間なんでもという訳にはいかない、新しいものが起きれば古いものがすたれるのは自然のならいであろう。しかし、そう言っているだけで良いのであろうか。古いものと新しいものが存在してお互いの良さが分かり、調和した社会、豊かな社会と言えるのではなかろうか。
 しかし、古いものを残していくには、新しいものを作る以上の努力がいる。また華やかなものには取り付きやすいが、地味な伝統芸能のようなものはどうしても敬遠される。くつわ踊りのような試みが貴重に思われる。




2010/09/12(Sun) (第1335話) 民泊の体験 寺さん MAIL 

 “先日、地元の小学生に向けて、地元にこだわり、地元に親しみを感じ、地元に目を向けてほしいとの願いを込め、地元の民家で一泊二日の自然を体験する催しを実施しました。
 地元漁師さんの協力を得ての地引き網体験や、海などの生活環境を学び、人と自然との営みを肌で感じてもらうという内容です。参加した小学生は百四人。実施に当たっては普段、公民館を利用する高齢者から若者まで世代を超えた十五人のボランティアの後押しと、低学年生の面倒を見る上級生の頑張りに支えられました。
 子どもたちには家に帰って頑張った体験談をいっぱいするように言いました。家の方には子どもの話をじっくり聴いて、貴重な体験を何倍にも生かすようにお願いしました。子どもたちとの触れ合いは老いを忘れさせてくれます。”(8月25日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の公民館長・杉谷さん(男・67)の投稿文です。交流の話が続きます。公民館の提案で、地元小学生が民家に1泊し自然体験をする。104人の小学生が参加したと言われるので、その世話をされた地元の人は大変だったでしょう。この効果は小学生はもとより、協力された人に大きな効果があった気がします。大人が団結する機会はなかなかないものです。そして行えば結構やり甲斐があり、楽しいものです。そのことを知る良い機会になったのではないでしょうか。また発展があるかも知れません。
 ボクの会社がある名古屋中区錦二丁目は、今開催されている「あいちトリエンナーレ2010」の会場になっています。この機会に地元の人がいろいろ協力されているようです。9月5日には「グリーンヒューマンプロジェクト」と言う清掃活動の催し物があり、ボクの会社にも呼びかけがありました。急な呼びかけでしたが8人ばかりで参加しました。多分、会社が地元の行事に参加するのは初めてだったでしょう。これから地元とどう係わっていくのか、興味が湧いてきます。一方で交流が薄れているだけに、これからの社会に交流は大きなキーワードではないでしょうか。




2010/09/10(Fri) (第1334話) 盆踊り 寺さん MAIL 

 “今年も地域の盆踊りに出かけた。ちょうちん、やぐら、地元の人たちによる手作りの夜店が並ぶ、小さなお祭りだ。会場の中心では浴衣を着たベテランの人たちが美しい身のこなしで踊っている。「皆さんも参加してください」のアナウンスに、私も思い切って輪に入ってみた。見よう見まねで夢中になり踊っていると、いつしか恥ずかしさは消え、楽しくなってきた。すると、私の後ろに中学生らしい男子数入が入り、私と同じように踊り始めた。「こんな下手なおばさんがやってるんだから」と思って参加したのだろうが、うれしかった。
 私の前には子どもたち、向こう側には見学していた福祉施設の人たちもいた。輪は大きく広がり、誰もがとてもいい表情だった。私の心には大きな感動の波が押し寄せた。老若男女、誰もが楽しめる盆踊りは、日本の素晴らしい文化であることに、あらためて気付かされた。”(8月25日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市のパート・小見門さん(女・41)の投稿文です。盆踊りを続けている地域はまだ多いと思います。いろいろ問題を抱えているかも知れませんが、知恵を出し合って解決し、続けていって欲しいものです。一度廃止したものの復活はほとんど不可能です。
 私の村ではもう十数年前に盆踊りはなくなりました。長いこと村の中心にある神社の境内で行われていたのですが、騒々しい、迷惑だという声や参加者が片寄っている、寄付金集めや準備が大変だと言う声で止めることになりました。この年、ボクは輪番制の組長になっていてこの廃止決定の場に立ち会っていました。そして、町会長から指名を受けたボクを中心にして替わりの行事を検討し、盛大に実行しました。これはこれで大成功で、その後数年続きました。しかし、その後和歌山のカレー中毒事件が起き、それを契機にこれも中止になりました。その後は何も行われていません。あの時、盆踊りを継続するのに何か工夫はなかったのか・・・・カレー中毒事件で、祭そのものを中止する必要があったのか・・・役員が労を減らす理由にしただけではないのか・・・ボクは残念に思っている。




2010/09/08(Wed) (第1333話) 配られた手紙 寺さん MAIL 

 “猛暑の続くある日、郵便受けに一通のはがきが入っていた。暑中見舞いの言葉とかわいいイラスト入りで「お身体を大切に私は元気でやっています」と書いてある。差出人の名前の後に小さく「郵便屋さん」とあった。
 この春、地区で開催された公民館祭りの体験教室で友人とともに絵てがみに挑戦した。隣で描いていた若い男性は私の地区の郵便屋さんだった。「この絵てがみ、郵便屋さんに送るね」と言って住所を聞き、友人と相談し「ファンクラブおばちゃん連より」と書いて投函した。
 配達の際、元気な声で「こんにちは」と笑顔で言ってくれるので、とても気持ちのいい人だと思っていた。郵政が民営化したころから見掛けるようになったので「社員教育も変わったのかなあ」と主人と話していた。
 「暑い中、大変ね。ご苦労さま」と声をかけると、「みんな待っとるから」と元気な声で走り去る。「ありがとう。気をつけてね」と心の中で祈る。携帯電話でメールが手軽に送れる時代だが、何といっても配達してもらう手紙は格別にうれしいものだ。郵便屋さん、いつもありがとう。”(8月23日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の主婦・本田さん(70)の投稿文です。続いて絵手紙の話です。おばちゃんと若い郵便屋さん、良い交流ですね。こうしたちょっとした交流が気分を明るくし、社会も明るくする。
 家族間も係わりを避け、社会の交流も少なくなっていく時代、一人住まいや老人家庭が増えていく。こんな時代だからこそもっと交流が必要なのに・・・・。そうした時代に、郵便や新聞を配達する人、また集金をする人などは各家庭を覗いていく仕事だけに、ちょっとした気遣いや交流が貴重になっています。こうした人の声を受け入れる体制も構築する必要があると思います。自分が大丈夫な時は人を支える側に、そして支えが必要になった時には人に支えられる、人間社会はこうして成り立っていくのです。これを良く理解して行動していきたいものです。




2010/09/06(Mon) (第1332話) 母の幸せ 寺さん MAIL 

 “夕刊の絵手紙欄へ頂いた愛知県豊田市、加藤テル子さん(85)のはがきに、ほろりときた。「(父は早くに亡くなり)母は戦前、戦中、戦後に私ら8人の子を育てた。自分の着物をばらして、この服やもんぺを作り、夜は遅くまで足袋を縫い、わら草履も作ってくださった」「母は(20年ほど前)96歳で永眠しました。私は今、85歳で幸せですが、母どこが幸せだったのでしょう」
 ・・・と書かれた絵手紙には、継ぎはぎだらけの服、草履の絵が添えられている。読みながら井上陽水さんの曲「人生が二度あれば」の二番を思い出した。「子どもだけのために、年とった(中略)そんな母を見てると人生が、誰のためにあるのか分からない」ー。酒場でたまに歌うと感傷的な気分になる。絵手紙の「どこが幸せだったのでしょう」と通じるところがある。
 加藤さんは電話口で言った。「偉大で立派な母だったと絵手紙で伝えたかったのです」「私たちをちゃんと育てることが母の幸せだったのでしょう」と。ほろりとし、感傷的になるのは自分かまだ若いからか。そういえば、絵手紙には「明治の母は強い」とも書いてあった。”(8月22日付け中日新聞)

 「世談」という欄からです。人間は自分のために生きていく、これは卑下に思うことでもなく、自分勝手でない限り否定されることでもない。戦後は大いに勧められてきたことである。
 しかし、戦前の母は夫や子供、家庭のために生きる、自分のために生きるなんていうことは考えられなかったのではなかろうか。加藤さんのお母さんのように、子のために生きることが自分の生き甲斐、幸せだったのでしょう。そして、子供にこれだけ思ってもらえれば何よりの幸せになったでしょう。自分だけにした幸せは死ねば終わりである。死んでも残る幸せがもっと気高い幸せではなかろうか。現代人はこの視線が少し欠けている気がする。こうした文を読むと、そんなことを思うのである。




2010/09/04(Sat) (第1331話) トイレ掃除 寺さん MAIL 

 “天白区の安江泰樹さん(三五)は、独立開業資金をためるため、いくつも掛け持ちで仕事をしていたことがある。そのうちの一つ、クラブでアルバイトをしていたときの話。最初に命じられたのがトイレ掃除。これがキチンとできるようになると、ボーイをさせてもらえる。
 ある日、睡眠不足や疲れがもあり、トイレの中で「何でこんな仕事をやらなきゃいけないんだ」と言い、ブラシを床にたたきつけてしまった。それをたまたま先輩に見つかり、首根っこをつかまれて正座させられた。しかられると思いびくびくしていると、こんな話を始めたという。
 「今、こんな仕事って言っただろう。世の中には、そのトイレ掃除を誇りややりがいを持ってやっている人がたくさんいるんだぞ。その人たちに失礼だろう。その仕事があるということは、誰かから必要とされているということなんだ」。そう言われてハッとした。さらに「どんな仕事の先にもお客さまがいることを忘れるな。直接お客さまから声をかけられなくても、お客さまの喜ぶ顔を思い浮かべながら仕事をするもんだよ」。安江さんは気が付くと泣きだしていた。(後略)”(8月22日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。何という先輩の素晴らしい言葉だろう、これだけの言葉は普通の人にはなかなか言えない。安江さんはいい先輩に遭遇された。それを安江さんは素直に受け入れられ、努力され、いい環境を作って行かれた。いい出会いは一生の宝です。
 仕事となれば継続をするものであり、継続することはどんなことも大変である。自分の性格にあった仕事に就けるのは稀であり、多くは就いた仕事に自分の性格を合わせて行くのである。これを間違えると不満ばかりで離職を繰り返していく。人間ある程度のことには順応できるようになっている。辛抱と共に重要な人間の能力である。




2010/09/01(Wed) (第1330話) 香典は何のため? 寺さん MAIL 

 “「まだ香典返しが届かないけど、どうなってるの?」という声を人づてに聞きました。実家の母の四十九日を済ませたころです。喪主である弟は、もちろん手配していました。葬儀の後のバタバタで少し遅れましたが・・・。
 故人の遺志を生かして、福祉への寄付で香典返しに代えるお宅も増えています。遅いと文句を言う方は、そんな時どう思われるんでしょうね。香典は、お返しを期待して出すものではないはず。本性を見てしまった気がします。”(8月20日付け中日新聞)

 大垣市の主婦(53)の方の投稿文です。香典返しは世の慣習になっている。全快祝いも同じである。届かない時、疑問に思う人の気持ちも分からないでもない。でもあげたものはあげたもの、お返しを期待するのはおかしい、と言うこの投稿者のいわれるのは本筋であろう。穏やかな生活をするには、自分勝手な期待を人にいだかないことである。批判などはもっての他、この場合のように人格を損なうのがせいぜいだろう。
 香典返しに変えて福祉施設へ寄付をする。ボクもつい先日、亡母の香典返しでこの手法を用いた。ただし額の大きい人は香典返しをしたが・・・。寄付した旨の礼状を送った人に先日妻が会った時「こういう方法もあるのだ、良い方法だね」と言われたようである。少額では喜ばれるようなお返しできる訳ではなし・・・こういった品物はかなり割高である。自分が寄付したつもりで、少しでも気分がよくなってもらえればありがたい。



川柳&ウォーク