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第76号  2010年8月

2010/08/30(Mon) (第1329話) もう2,3年生きて・・・ 寺さん MAIL 

 “知人の葬儀に参列した。四十八歳で病に倒れ、二十八年間の闘病生活を送っていた。寝たきりの暮らしが長く続いていたようで、生活のすべてに介助が必要だった。最後は訪問入浴の支援などを受けながらも、ほとんど彼女の夫が自宅での看護をしていた。
 ふっくらとしてほほ笑む遺影は、まだ輝いていた四十代のもの。彼女の夫に「長い間よく見てあげられましたね」とねぎらうと「もう二、三年は生きていてほしかった。わしより先にとうとう逝っちゃって。寂しくなっちゃった・・・」と切ない言葉。
 八十を超えたと聞くが、彼女を車いすに乗せて病院へ行ったり、買い物をした荷物を荷台に乗せ、ハア、ハアと自転車を引きながら坂道を上っていた姿をよく見かけた。夫婦だけの家庭では、妻が病に倒れたら、必然的に夫が介護することになる。これまでの生活が一変し、想像もつかないような困難を強いられるだろう。彼女夫婦には娘さんもなく、二十八年間の看護は長く、大変だっただろう。でも、愚痴もこぼさず、素直に発せられ言葉から、亡き妻への深い思いやりが感じられた。”(8月16日付け中日新聞)

 岐阜県多治見市のインストラクター・井上さん(女・70)の投稿文です。寝たきりの奥さんを30年近く面倒を見、亡くなると「もう二、三年は生きていてほしかった。」という言葉、驚くと共にそんなものかと頷く。人間の素晴らしさを思う。大変と思うことも慣れてしまえばそれが普通の生活、勤めに出かけると同じである。これも夫婦愛があればこそであろうか。途絶えた時、寂しさが寄せてくる、分かる気がする。
 何で自分がこんなことになるのか、何で何十年も妻の面倒を見なければならないのか、そんなふうに不幸を嘆いたり、恨み言を言う人も多かろう。亡くなってホッとする人もあろう。私も先日老母を亡くしたが、寂しさと共に長年の介護にホッとしたのも事実である。長年の介護は状況にもよろうが大変なことである。




2010/08/28(Sat) (第1328話) 心遣いに感謝 寺さん MAIL 

 “修学旅行で山形県米沢市を訪問しました。初日の米沢研修では、僕たちのためにわざわざ副市長があいさつに来てくれました。愛知県東海市から訪れたことを、とても歓迎してくれました。記念品もいただき、うれしかったです。
 宿泊したペンションでは米沢の郷土料理の笹巻き作りをしました。オーナーに教えてもらいながら、クラスの友達と楽しく体験することができました。僕が深夜にトイレに行ったとき、驚いたことがあります。オーナーが僕たちの作った笹巻きを一生懸命に蒸していてくれたことです。気になって再び見に行くと、オーナーはその場で寝てしまっていました。
 僕はその姿に心を打たれました。いろいろな人たちが陰で多くの準備をしてくれたおかげで、僕たちが楽しむことができているのだと感じました。歓迎してくれた米沢の皆さん、本当にお世話になりました。”(8月13日付け中日新聞)

 愛知県東海市の中学生・野畑さん(男・14)の投稿文です。東海市の中学生が修学旅行で感激する出来事を見た。どんなことも表面に見えたことは一部、それ以上に裏ではいろいろな苦労がされているのである。野畑さんはいい思い出を作られた。感謝の心を持つ機会になった。
 米沢藩主上杉鷹山が東海市出身の学者細井平洲を生涯の師と仰いだことから、東海市と米沢市は姉妹都市関係を結んでいる。その関係でいろいろな交流があるのであろう。中学校の修学旅行先が米沢市であるのもそんなことからであろう。
 一宮友歩会では昨年12月の例会で東海市内の史跡巡りをした。そして東海市が細井平洲をどれだけ誇りにしているかびっくりする程であった。平洲小学校があり、市内に5カ所も平洲の像が建っている。




2010/08/26(Thu) (第1327話) 赤紙配達人 寺さん MAIL 

 “第二次世界大戦中、男たちは「赤紙」と呼ばれた召集令状一枚で戦地に送られた。その赤紙を家庭に届けたのが役場の兵事係職員。一九四五(昭和二十)年八月十五日の終戦まで「死地への招待状」の配連係を務めた元職員たちは、戦後六十五年を経てもなお、胸に重荷を抱え込んだままだ。
 一九三〇〜四五年まで、滋賀県大郷村(現長浜市)役場で兵事係として勤務した西邑仁平さん(百五歳)=同市新居町=は、破棄を命じられた赤紙などをひそかに保管し続けていた。なぜ、父は露見すれば失職しかねない行為に走ったのか。長男で元県職員の紘さん(六八)が講演などで父の思いを伝えている。(中略)
 年を重ねるにつれ、語り残さねばならない義務感が仁平さんの中で高まっていたのだろう。三年前、同市の浅井歴史民俗資料館で、仁平さんは保管書類約千点を初公開した。その後、仁平さんは、ぼつりぽつりと話し始めた。母一人子一人の家に戦死公報を届けた話、自転車で村を走ると、自分の家に来るのではないかと、おびえる村民の視線に身が縮んだ話・・・。そして書類を持ち帰った夜のこと。「戦争に翻弄された村人の生きた証しを捨てられなかった」
 仁平さんは、赤紙配達の夢でうなされてきた。昨年末から寝たきりとなった父に代わり、紘さんは県内で講演する。「二度と戦争はあってはならない。戦争を今している国に対して、日本はやめろと言える立場でいてほしい」と、父の平和の願いを届け続ける。”(8月13日付け中日新聞)

 記事からです。 第二次世界大戦の戦前戦中戦後、大変な時代だった。もう二度とあってはならない出来事である。しかし、世界を見れば未だ至る所で戦争は行われている。この恐れのある行動には十分見据えておかねばならない。人間の愚かさは意外な理屈を生むのである。あの愚かな体験をしながらも日本とて例外ではない。
 赤紙・・・戦後生まれのボクには分からない事ではあるが、知識としては知っている。昨年8月10日にTBS系で「最後の赤紙配達人」というドキュメンタリーとドラマ構成のテレビ番組があった。この記事の西邑仁平さんを主人公にした番組である。私の知人に、この記事に出てくる紘さんの友人がいる。その人から「是非見てください」という連絡があってこの番組を見た。そんなことがあってこの記事を紹介した。
 赤紙1枚で人生が変わってしまう。配達する人も仕事といいながらも大変な重荷を背負って配達された。改めて戦争のむごさを覚えた。




2010/08/24(Tue) (第1326話) ポケットの手紙 寺さん MAIL 

 “台風の季節がやってきた。五十一年前の九月二十六日。忘れもしない恐ろしい一夜だった。夕方、避難命令。避難後、私が住む碧南市内の百軒の集落は大変なことになっていた。堤防が二キロ近く決壊し、家は全壊か流失。危険が迫り、私たちは避難場所を三回変かった。
 朝が来た。空腹の子どもたちが泣きだした。地域の婦人会の人たちが、たくさんのおむすびを作ってくれた。おいしかった。避難場所を去る時、一人の女性が赤ちゃんをおんぶした人に「皆さんで分けてください」と、布おむつをどっさりくれた。うれしくて、みんな泣いた。帰る家を失った私たち四百五十人は、仮住宅ができるまで寺で暮らした。救援物資の一箱に、小学五年生の私にぴったりのオーバーがあった。右のポケットに手紙、左のポケットにせっけんが詰まっていた。
 私はお礼の手紙を出した。東京に住む同学年の児童で、その後、何度か物資を送ってくれた。五年生同士の文通が始まった。就職、結婚、出産・・・いろいろと書いた。伊勢湾台風から五十一年。孫が、そのころの私たちの年ごろになる。いつか、何かあったら恩返ししたいと思う。”(8月12日付け中日新聞)

 愛知県碧南市の主婦・杉浦さん(61)の投稿文です。今年は今のところ台風の発生も少ないが、台風の季節がやってきた。東海地方、特に愛知県で忘れられないのは伊勢湾台風である。ボクにもこの体験があるから台風は恐ろしいものという意識がある。近づく予報が出るといろいろ備える。
 杉浦さんはボクには比較にならない大変な体験をされた。東京の5年生の人は味なことをされた。その中で生まれた交流がその後ずっと続いてきた。それは人と人の気持ちの問題である。それに答えた杉浦さん、良い人間関係は人生の宝である。温かい話である。




2010/08/22(Sun) (第1325話) 師匠と弟子 寺さん MAIL 

 “「いいか。植物ってのは水と肥料はやり過ぎては駄目なんだよ。水が少ないと水を求めてどんどん根を伸ばすんだ。いつも水があると根を伸ばさなくてもいいから、丈夫には育たない。肥料だって同じさ。素人が一番間違えやすいところだね」一本だけでは実がつかないと、三本も買ってきたブルーベリーの苗が窮屈そうに植わっている猫の額ほどのわが家の庭で、週末になると好奇心旺盛な弟子に家庭菜園のノウハウを教えている私。
 弟子に自然に親しみ花や木に興味を持たせるのも私の役目である。とある日曜日。家族でやって来たのは信州・飯田のブルーベリー狩り農園。「うちのもこんなになるかなー」。弟子が、甘くて大きな実をいっぱいほおばっている。気候の違いだとは思いつつ、農園のおじさんに聞いてみた。
 「大体、素人は真夏の暑いときにもあまり水をやらんで枯らしてしまうことが多い。ここいらと違って下は余計に暑いからな」「・・・」「じいちゃん!」「・・・」”(8月4日付け中日新聞)

 愛知県長久手町の村瀬さん(男・66)の投稿文です。「300文字小説」としても優秀作であろう。しかしこれは「くらしの作文」に投稿されたものである。そして、この話は我が家を覗かれた感じである。
 我が家も今年ブルーベリーの苗を2本買ってきた。そして先日、1本がほとんど枯れかかっているに気づいた。びっくり、それから毎日水やりである。生き残るのだろうか・・・今気がかりな1つである。
 ボクも村瀬さんと同じように「水と肥料はやり過ぎては駄目」と言う知識を持っている。そう思って水など最初やるだけで、すぐに止めてしまう。しかしこれもやはり状況である。様子を見ながら、その時その時に応じて判断していく、これが大切である。知識の1つ覚えは怠慢である。子育ても同じである。甘やかしては駄目であるが、様子をよく観察して、時には甘いことが必要な時もあるのである。




2010/08/19(Thu) (第1324話) 天使の活動 寺さん MAIL 

 “入院患者らを元気づけようと、滋賀県長浜市の七郷小学校は六十年以上、地元の市立湖北病院への慰問を続けている。取り組みの名は「天使の活動」。心を込めた贈り物と笑顔が、病気やけがの治療で落ち込みがちな患者に元気を届けてきた。
 「早く良くなってください」。赤井稜基君ら五年生三人がベッド脇から優しく声を掛けると、九十代のおばあさんは「本当にありがとう」と目を細めた。
 天使の活動は一九四九(昭和二十四)年に、六年生や教員が病院を見舞ったのがきっかけ。五七年ごろから毎週土曜に訪ねるようになり、「土曜の天使」と呼ばれるようになったという。近年は週休二日制などのため四〜六年生が交代で、各学期に一回訪れている。(中略)
 半世紀以上の歴史があるだけに、経験者は祖父母にまで及ぶ。今回参加した橋本凌君の祖父司さん(六八)もその一人。「畑で花を摘んでから自転車で行ったんや。帰り道に先生にまんじゅうを買ってもらえるのがうれしくてなあ」と懐かしむ。ただ当時は持って行った花をまとめて職員に渡すだけだったといい「継続するだけでも素晴らしいのに、内容も今の方が充実している」と喜んだ。(後略)”(8月3日付け中日新聞)

 記事からです。60年以上にわたり、学校活動として病院の訪問を続ける。時代に応じてその形は変わっているというが、素晴らしいことである。天使の活動という名も素晴らしい。親子で話せる家族もできていい絆にもなっている。いつものボクの口癖であるが、継続すれば大きな力、功績になる、まさにそんな話である。
 2006年9月23日の「(第656話)水質調査11000日」も、学校活動として継続した話である。再度読んで頂きたい。個人でも団体でも、継続は難しいから称賛されるのであるが、ある段階を過ぎるとそれほどいうようなことでもない。習慣になれば淡々とやっていくものであり、頑張るというほどのものでもない。この「話・話」も6年、1300話を超えた。




2010/08/17(Tue) (第1323話) 妻を弔う 寺さん MAIL 

 “日吉ミミさんの歌が終わって、最後に人生訓のような話を聞いてなるほどと思った。私はラジオやテレビで歌や浪曲を聴くのが好きだ。特に歌が終わった後で、歌手が自分の苦労話をちょっぴり語るところが好きだ。ミミさんは「若いころは桜の花のように散るのが好きでした。でも病気を患ってからはアジサイの花のように、枯れてもしがみついて生きたい」と言い、一人前になるまでの苦労話をした。
 私は若いころ、海軍飛行予科練習生になって桜の花のごとく、お国のためにと思っていたが、昨年十一月に妻を亡くしてからミミさんと同じ考えになっていることに気づいた。亡くした妻の一周忌、三回忌、そして七回忌と、できるだけ弔ってやるのが私の責任であり、生きがいだと思うようになった。
 世の荒波を乗り越え、子や孫と生活できたのも妻がいてくれたからだ。長生きして、亡き妻に手を合わすことで恩返しがしたい。”(8月3日付け中日新聞)

 三重県明和町の中西さん(男・83)の投稿文です。桜とアジサイか・・・うまく例えられたと思う。我が家のアジサイももう花は終わったが、まだしっかりとしがみついている。花の終わった人生も、妻を弔うことに生き甲斐を見いだし、生にしがみついていく。これも上手な生き方であろう。
 凡人がそれなりに健全に生きて行くには生きる理由がいる。自殺すれば別だが、そうでなければ人間死ぬまで生かされる、生きねばならぬ。生きるには無目的であっても生きることはできるが、それなりの目的があった方が生きやすい。ボクなど少しばかり勤勉にできたので、これから大変である。会社を退職した時、社会活動を停止した時、まだまだいくつもの段階を踏まねばならない。そして妻より少しばかり早く死ぬことである。




2010/08/15(Sun) (第1322話) 何げない会話 寺さん MAIL 

 “私は、ジムに通っています。誰とも話さず、ただもくもくと筋トレをしていました。特に寂しいとも思っていませんでした。
 ある日、一人のおばさんが声をかけてきました。「毎日通っているの、えらいね」「いえいえ、家にいても暇なんで」。それだけの会話でした。次の日、またあのおばさんが声をかけてきました。「こんにちは、学校は楽しいかね」「はい、とっても楽しいですよ」「それはよかった」。笑顔で言ってくれました。
 その次の日、今日は自分から声をかけてみようと思いました。「今日は学校で球技大会があったんですよ」「そんなことしたのに今日もジムに来たの。タフだね、若者パワーだね」。やっぱり笑顔で言ってきました。
 それからもその日の出来事を話し続けました。おばさんはいつも、笑顔で聞いてくれます。その笑顔を見ているとこっちも笑顔になって、胸がいっぱいになるくらい幸せをもらった気がします。”(8月1日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市の高校生・桜井さん(女・15)の投稿文です。声をかけるおばさんに出会った、それに応じた、このちょっとした日々の出会いが人格に大きな影響を及ぼす、ままあることです。対応の仕方によってその後の人生は大きく変わります。いいチャンスは見逃さないようにしたいものです。桜井さんは見事です。一生の宝になるでしょう。
 社会として大切な声をかけ合うことを現代はすっかり忘れている、厭わしいものと思っている気配さえある。それが孤独死を招いたり、不安定な人間を増大させている。ボクの住む田舎道でも会う人ごとに会釈をしたり、声を交わしたものですが、新住人にが増えると共に少なくなった。ボクは挨拶をする事を心がけてきたつもりだが、これからはもっと意識しようと思う。




2010/08/11(Wed) (第1321話) 熱中症 寺さん MAIL 

 “猛暑の夏。津市安濃町の大塚の公園で七月二十三日正午ごろ、近くに住む無職倉田一美さん=当時(65)が熱中症で倒れ、死亡した。ボランティア活動で一人、公園や寺の敷地の手入れをしていた最中の出来事だった。(中略)
 公園は集落を見下ろす高台にあり、貝の化石も出土する子供の格好の遊び場。そばにある寺は、住民が「観音さん」と呼んで親しんでいる。夏場は雑草が生い茂るため、一美さんは「大切な場所だから」と毎日、草刈り機で手入れした。短い草は手で丁寧に抜き取った。孝一さんは「地元の人なら誰でも、一美さんのボランティアを知っていた。本当に感謝していた」。
 一美さんは、老人会でグラウンドゴルフをする時は「熱中症になるといけないから」と塩分の入ったあめを配ったり、妻の福子さん(58)に「家の中でも熱中症になることがあるぞ」と注意を促したりするなど、暑さに人一倍気を使っていた。その矢先の悲報。「まさか夫自身が倒れるなんて。周りの人や私ばかり気に掛けて、ばかみたいに責任感が強い人でした・・・」。福子さんは仏間の遺影を悲しそうに見つめた。”(8月1日付け中日新聞)

 記事からです。熱中症の事故を今年ほど聞いた覚えはない。近くでも熱中症にかかった話を聞く。気温が人間の体温を超えるといきなり増えるのだろうか。気温が35度を超える予報を毎日のように聞く日々が怖くなる。
 そんな中でも死亡にいたる人は80歳代などかなり高齢の方と思っていたが、この記事にびっくりした。65歳、それもかなり元気な人で熱中症にも気を配っていた人、それが作業中に突然亡くなった。ボクと全く同じ条件だ。本当に人ごとではなくなった。ボクも先日草刈り機を使った。でもそれは朝方で、ボクは農作業は朝方か夕方しかしないようにしている。しかし、それだけでは不十分であろう。




2010/08/09(Mon) (第1320話) 伴侶の大切さ 寺さん MAIL 

 “連れ合いの他界は最高のストレスである。私も四十八歳の時に経験した。胃がんの手術を経て三年後に旅立ったのである。覚悟はしていたが、うつ病になってしまった。その時の精神科医の指導は「供養より再婚」であった。その後、友達の紹介で現在の妻と再婚したが、長男は私の再婚には反対し、親子の縁を切ってしまったのである。
 そして歳月は二十年ほど流れ、今度はその長男の嫁が血液のがんを患ったのである。数回の抗がん剤投与を受け、七ヵ月後無事に退院。その後は三ヵ月に一度検査通院をし、元気に業務に励んでいる。このような経過を経て伴侶の大切さを悟り、長男から「あの時はお父さんの気持ちがよく分からなかった。一方的に拒絶してゴメン」とわびてきた。
 嫁の入院は悲惨だったが、これを機会に親子のきずながよみがえったことは果報だった。人は皆、自分が体験しなければ相手の苦労が分からない。親子げんかをする前に、相手の立場に自分を置き換えて熟慮し、その上で行動しよう。親子のきずなは深まるだろう。”(7月31日付け中日新聞)

 愛知県西尾市の野田さん(男・73)の投稿文です。夫婦伴侶の大切さ、こういう話ができるのは望ましい夫婦の形ができているからです。そういう形になった夫婦に一方の欠如は耐え難いものでしょう。野田さんは鬱病にもなられた。
「供養より再婚」とは、やはり精神科医の言葉でしょう。以前の夫婦を断ち切る話ですから普通の人には言えません。ここは医者、いろいろな事例から先を見据えた助言でしょう。野田さんが伴侶を亡くされたのは40代ですからこの先30年、40年とあります。事実そのようになっています。その間、一人は好ましくない、これが医者の判断であり、ボクにも頷ける助言です。いくら相思相愛でもそれはもう過去のこと、事の理をわきまえながら前を見ていかねばなりません。最近は高齢者の結婚も増えているようです。
 息子さんの反感もわかります。親子は年齢も体験も一世代違います。なかなか理解できないものです。一時親子断絶になったのは仕方がないのかも知れませんが、うまく理解が行ってホッとしました。少し形は違いますが、前々回に続いて親子の絆の話でした。




2010/08/07(Sat) (第1319話) お寺の掲示板 寺さん MAIL 

 “月に三回ほど、片道三十分くらい歩いて、遠くのスーパーヘ買い物に出る。田舎の細い坂道を下りた道路のそばにお寺の掲示板が立っていて、短い言葉を達筆な文字で書いた紙が掲示されている。
 「こどもはこれから大人になる。大人はこれから何になる」通るたびに立ち止まって読んでいる。「悲しいことに、善いことをしていると思うたびに口が大きくなって、人を呑みこんでしまう」そんな問いかけに出合うと、思わず考え込んだり、にやりと笑ってしまったりする。
 寒かったころから春先まで、ずっと同じ言葉が書かれていた。「『人の為』と書いたら『偽』という字になりました」ご住職もお気に入りの箴言かなあ−、といつも思っていた。私も、自分の行動を常に問いかけ、戒めたいと考えている。
 バスに乗れば五分もかからないスーパーヘわざわざ回り道して出かけるのは、次の新しい言葉を知りたいから。今日も私は歩いて行く。”(7月27日付け中日新聞)

 三重県四日市市の主婦・高木さん(75)の投稿文です。お寺さんで時折こんな掲示板を見かけますが、出合うと嬉しいですね。この文によって人生を振り返るいい機会です。
 ボクはこのように教訓になる掲示板が至る所にあったらいいと思うが、でも他の所では不審に思ったりする人もあるでしょう。寺院では誰もそのような不審は感じないでしょう。むしろ、寺院はそういった教訓を教えてくれる場所と思っている人が多いのですから、寺院でもっともっと増えることを望みます。
 ボクは今の寺院に不満がすごくあります。最近、葬儀や法要があったり、檀家総代になったことでお寺さんに接する機会が増え、ますます不満は増えています。こういう掲示板でもしてもらえれば、少しでもボクの不満は和らぐと思うので切に望みたい。




2010/08/05(Thu) (第1318話) 大きな代償 寺さん MAIL 

 “遠方に住む息子を装ったオレオレ詐欺に引っかかり、数百万円を支払ってしまった。何とも情けない。受話器から聞こえる声はひどい鼻声だったが、息子も鼻が悪いので疑いもしなかった。「熱があるから明日は休んで医者へ行く」「また電話する」などと言って電話を切った。翌朝、再び電話。「店を開いている友人の保証人になったが、友人が借金を返さずに逃げてしまった。自分が支払わないと勤務先に連絡が行き、信用を失ってしまう」と言う。
 冷静さを完全に失って体ががたがた震え、息子をでき愛する愚かな母親になっていた。金融機関の方から声を掛けていただいたが、全く気付かなかった。あの時、経緯を話していれば・・・と後悔している。
 後日、息子から手紙と現金が送られてきた。「母の深い愛を、あらためて感じました。母さんは、内職をしながら仕送りをしてくれたので、僕が必ず返してあげる。元気を取り戻し、長生きしてください」。涙で文字がかすみ、読めなくなった。自責の念に苦しみ、眠れない日が続いている。親子のきずなは一層強いものとなったが、その代償はあまりにも大きすぎた。”(7月20日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・東さん(69)の投稿文です。このような振り込めサギで親子の愛を確認し、絆が深まったとは、これを塞翁が馬というのでしょうか。でも親子の信頼は何よりも大切なこと、金銭では代えられぬ事。この不運を喜びに変えた、と慰めの言葉ですが、それにしても大きな代償でしたね。
 ボクの家庭ではこのような電話を受けた体験がないのでよく分かりませんが、注意されても相手に踊らされる話を聞きますので、よほど巧妙なのでしょう。我が家も老人二人、だんだん判断能力が落ちてきていますので、心せねばと思います。




2010/08/03(Tue) (第1317話) 母の写真(その2) 寺さん MAIL 

 “先日、母を最初から見守り続けてくださっている施設スタッフの森さんから思いがけないお話をうかがいました。
 「大半の人は、今の寝たきりのおばあちゃんしか知らない。若い人たちが元気なころの写真を見て、こんな時もあったんだ、と思うことで、より大切に心を込めてお世話をしようという気持ちになれるんですよ」。この言葉は、私の心にしみ、安堵もいたしました。
 どんな状態になっても今日一日は母の貴い命だと思います。息子(六十歳で他界した私の夫)の分まで長生きしてほしい、賜った寿命を全うしてほしいと切に願うこのごろです。”(7月15日付け中日新聞)

 前回と同じ篠田さんの投稿文の後半です。こういう見方もあるのかと知り、なるほどと頷きました。もっと早くこの文に出合っていればと思いました。
 写真は父の亡くなる前に写した家族全員の写真などでしたが、母が愛読したお経の本や仏教関係の本をおきました。母の後半の人生は念仏一筋で、そのころが最高に至福の時期だった思います。賜った寿命を全うしたと思います。篠田さんのお母さんもよい環境に恵まれておられるようで、生を全うされる事を祈ります。
 現代はありがたいことに、それだけ生を大切にできる時代になったということです。逆に長寿社会になっただけに、寿命を全うするのが大変な時代ともいえます。老人介護は家庭を崩壊させるような大きな問題に発展することは報道などでよく知る所です。日々その大変さを携わった人でないとなかなか理解できないかもしれません。場合によっては子育て所の騒ぎではありません。介護をされる人もする人も知恵を出し合って生き抜かねばなりません。




2010/08/01(Sun) (第1316話) 母の写真(その1) 寺さん MAIL 

 “ことし卒寿を迎えた母が、老健施設にお世話になって十年以上が過ぎました。スタッフの皆さんの温かく優しい介護に支えられ、いつも穏やかな表情で過ごしています。
 今は要介護5で、目もほとんど見えず、寝返りも意思表示もできないけれど、せめて思い出をそばに置いておきたいとの思いで、母の部屋に写真のカラーコピーを飾っています。母が三十代のころ、小学生だった娘二人と撮った古い写真、家族で初詣での時の孫たち(二十代)との一枚、嫁いだ娘夫婦が里帰りした時の笑顔、喜寿の祝いの小瀬鵜飼見物、宴席などです。”(7月15日付け中日新聞)

 岐阜市の篠田さん(女・63)の投稿文です。少し長いので2回に分けて紹介します。この篠田さんの話は全く我が家の話とだぶります。この文に触れていきながら先日満95歳で亡くなった母の思い出を書きたいと思います。
 ボクの母は10数年にわたりデイケア、ショートスティ、そして、老健、特養とお世話になってきたので一応の知識がありますので、要介護5、老健施設に10年以上という言葉に少し疑問を感じますが、ここではそのようなことは問わないことにしましょう。状況に応じていろいろな施設にお世話になってきたいうことでは我が家も全く同じです。そして、どこも家庭ではとてもできない親切な対応に感謝しています。
 この文で、母の若い時の写真を飾っていたという文に少しハッとさせられました。最後2年近くお世話になった特養では、個室でありできるだけ家庭の雰囲気を作ってあげてください、という言葉に写真も飾りました。でも、晩年のものでした。若い時の写真を飾ろうという考えはありませんでした。




川柳&ウォーク