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第73号  2010年5月

2010/05/30(Sun) (第1288話) 一読・一笑 寺さん MAIL 

 “長生きできる言葉に出合った。「一読・十笑・百呼・干字・万歩」だ。毎日実施せよとのことで、頑張って実行している。毎日一回は文章を読み、十回笑い、百回深呼吸し、文字を干字書き、一万歩歩け、とのことらしい。
 文章は声を出して読み、深呼吸は腹式で、笑うのは大声で、とあった。家の中だけではあるが、新聞や雑誌は声を上げて読むことにした。千字は、投稿文の作成だ。万歩は、歩散計を腰にセッセと投稿案を練りながら歩く毎日。散歩は心の洗濯になる。まさに考えるアシ(足)である。百呼は散歩途中の公園で緑の中、マイナスイオンを全身に浴びて行っている。
 難しいのは十笑だ。嫌な事件が相次ぐ昨今、十怒になってしまう。しかし、作り笑いでも脳が勘違いして特殊なホルモンを分泌するらしいので、一人ニヤニヤしている。忍び寄る老いに負けてなるものか、と日々努力の私だ。”(5月11日付け毎日新聞)

 埼玉県川口市の丸山さん(男・69)の投稿文です。「一読・十笑・百呼・干字・万歩」、健康を保つにいい目標だと思うが、何が難しいだろう。生活、健康など様々な状態が影響するし、状況はどんどん変わっていくし、人によって大きく違うと思う。
 誰にとっても比較的難しいのは十笑ではなかろうか。ボクもしかりである。普通に生活していて1日に何回笑うことがあるだろうか。日によってはゼロではなかろうか。丸山さんのように、意識して一人ニヤニヤしたりしなければならないだろう。本当は、大きな声を出して笑う笑いだろうが、難しいことだ。しかも、この中で最も大切なことかもしれない。




2010/05/28(Fri) (第1287話) 人生で最高の宝物 寺さん MAIL 

 “母が介護を受けるようになって今年で10年。食事の時間に私がスプーンを口元に運ぶと、母はツバメのひなのように口をあけて待っている。私が劫かったころ、まるで大きな壁のように見えた母の背中。その母は今年103歳だ。もしかしたら、お別れが近づいているのかもしれない。そんなふうに感じる時もある。でも、「来世もきっと私を産んでね」とそっとささやくと、「うん」と言って静かにうなずく母。
 9日は「母の日」だ。母の枕元に置いた深紅のカーネーションが「よく生きたね」とほほ笑みかけているようだ。大切な母の介護を続ける日々。それは、私の人生の中で、最高の宝物だ。”(5月8日付け読売新聞)

 神戸市の主婦・虎井さん(75)の投稿文です。何が最高の宝物なのか、中味を知って驚いた。母親を介護できることが最高の宝物という。それも75歳の人の話である。老老介護の話である。時には悲惨な話になる事例である。虎井さんの母娘の愛情が深かったと言うことであろうが、人様々と言うことをまた感じる。
 最近の新聞に、母親が亡くなって父親だけになったら、子ども達が寄りつかなくなったという話が出ていたが、ボクの家もまさにそうだろう。どうしてもボクが先に死ななくてはならない。




2010/05/26(Wed) (第1286話) 無監督試験 寺さん MAIL 

 “息子が通う市立速星中学校では、「信じあう心」を実践するため、50年以上前から先生の監督なしに試験をする「無監督試験」が行われている。先日、創立記念の集いがあって、当時の教師や卒業生から始まった頃の話などを伺った。
 無監督試験は、1958年(昭和33年)に着任した校長が始めた。教師の質や生徒の向学心などを見て、この学校なら信じあう心を実践できると確信、発案したという。何度も協議を重ねて教職員と生徒が賛同し、まず59年に3年生だけで始めた。すると進学率が向上し、同じ年に始めた購買部の無人販売も成功したため、60年から全学年で始まったという。
 当時の生徒たちが信頼に応えようとする姿が目に浮かんだ。信じあう心を学び、育った生徒たちは、社会に出た後も信じあう心を大切に持ち続けていくだろう。”(5月8日付け読売新聞)

 富山市の保育士・安居さん(女・45)の投稿文です。試験を監督員なしで行う、こんな学校があったのだ。それも50年以上も前から続いているという、驚きだ。信頼されていると知ると裏切れない気持ちになる、分かる気はするが、一人二人の話ではない。どの程度の規模の中学校か知らないが、数千人の卒業生があるのではなかろうか。伝統とは凄いものだ。もっともっと自慢して広げて欲しいものである。




2010/05/24(Mon) (第1285話) 夜は避けて 寺さん MAIL 

 “相変わらず多い自殺者。当人の悩みや苦しみ、残された者の悲しみ・・・。それを思うと、私はとても悲しくなります。原因は人それぞれで、他人が推し量ることはできません。それでも、私は「命を大切にしてほしい」と叫びたいです。いつだったか、こんなことを聞いたことがあります。
 「考え事や悩み事を夜にしないこと。とかく夜は頭を下げがちになるから。もし、夜しか考えられない時は仕方がない。けれど、結論だけは夜出してはいけない。夜が明けてから出しなさい」と。
 私にはこの春から、社会人として故郷を離れた息子がいます。近くにいないため、息子の悩みに気付いてやれないことが気掛かりですが、そんな時にこの言葉を思い出してくれたらと思います。人間はそんなに強くはありません。こんな私にも、悩むことはあります。でもそんな時は畑で大空を見上げ、両手を思い切り伸ばし深呼吸をします。ニンジンのように大地に根を伸ばす力はありませんが、努力はしているつもりです。”(5月1日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の農業・中野さん(女・47)の投稿文です。「夜、結論を出さない」これはボクもそう思って心がけていることです。終えた後はどうしても怒りや興奮、時には嘆きも高まっている。時間をおくとかなり静まってくる。一晩寝るとかなり違ってくる。 例えばメールでも、怒りや興奮があるものは夜書いてもいいが、送信するのは朝にしたい、するべきである。朝読むと、あのまま出さなくてよかったと思うことが度々である。ボクからメールが行く人は、朝が多いなあ、と感じて貰っていると思う。沢山の失敗をしてきたから、言えることである。
 この「話・話」でも最初書いてから掲載するまでに機会があれば何度も読み直す。気になるところを少しずつ手を入れている間にだんだん軟らかいものになっていく。この「話・話」でさえそうなのだ。まして重要なことはなおさらだ。
 しかし、勢いに任せてすることがいい場合も時にはある。例えばプロポーズである。あんなもの冷静だったらあれこれと考えてできない。そんなこともあるから人生難しい。




2010/05/22(Sat) (第1284話) お礼に返す日本語 寺さん MAIL 

 “先日、都内へ行った時のこと。寝ている息子をベビーカーから降ろした拍子に、ベビーカーが倒れてしまった。あわてて起こそうとすると、そばにいた外国人女性が起こしてくれた。すぐにお礼を言うと、「どういたしまして」と返ってきた。
 それを聞いてハッとした。今まで、お礼を言われても、「いえいえ」や「はい」とあいまいに返していた自分が恥ずかしくなった。本来、お礼を言われたら、このように返事をするのが礼儀なのだろう。親切にしてもらったうれしさに加え、改めて、自分のこれまでの言葉遣いを見直すきっかけにもなった。これから言葉を覚えていく2歳の息子にも、親としてきちんとした日本語や礼儀を覚えさせようと思った。”(4月29日付け読売新聞)

 埼玉県川越市のパート・鈴木さん(女・30)の投稿文です。日本人は「悟り」が重視され、何事も余りはっきり言わないことが身に付いている。しかし、この悟りがなかなか理解されない時代になっている。文化の衰えと思うが、誤解されては元も子もない。時代にあったように変えて行かざるを得ない。しかし、お礼はいつの時代にもはっきり言った方がいいであろう。
 最近の中日新聞で「お疲れ様」という言葉の使い方で、いろいろな意見が出ている。きっかけは「お疲れ様」と言われると、返って疲れてしまう、意欲が衰えてしまうと言う投稿からだったと思う。ボクは何か終えた時「お疲れ様」「ご苦労様」と言うのは常識と理解していた。この意見にはびっくりし、時代の移り変わりを感じると共に、文化伝承の衰えを感じざるを得ない気持ちだった。




2010/05/20(Thu) (第1283話) 腕輪紛失始末記 寺さん MAIL 

 “4月中旬、旅行会社の北九州方面2泊3日の旅に妻と参加した。最後の日、豊後高田から門司に向かうバスの中で、腕輪がないと妻が騒ぎ出した。2月下旬に買ったばかりのものである。青くなっていた。腕輪なんてものは無くなるためにあるものだと言って、私は冷静さを装っていた。
 実はこの日の朝、私はホテルの脱衣場の籠の中で人の忘れた腕輪を見つけ、フロントに届けておいた。人のものを届けていて、自分の妻が無くしていれば世話がないと、内心は腹立たしい思いであった。
 妻はなくしそうなところを考えて、途中下車時に添乗員さんに告げていた。そして、バス移動中に添乗員さんがやってきて見つかったという。嬉しくなるやら驚くやらである。豊後高田で昼食を取った大寅屋食堂という店で、後に来た人が見つけ、店の人に渡しておいてくれたという。どうも妻が上着を脱ぐときに一緒に抜けてしまったらしい。
 その後連絡を取り合い、郵送されてきた。妻は早速にお礼の品を送っていた。こんなにスムーズに見つかったのは、妻の予想が当たったこと、店の名前を覚えていたこと、添乗員さんが連絡をつけられたこと、見つけて預けられていたことなどいろいろな幸運が重なったからだろう。多くの親切にあずかったが、私は、私が見つけた腕輪をフロントに預けたことが最大の功労だと内心ほくそ笑んでいる。まさに情けは人の為ならずである。”

 この文は、実はボクの文であり、僕ら夫婦の話である。「話・話」で紹介しようと思って書いた。しかし、なぜか突然時折ここでも紹介している中日新聞の「くらしの作文」に投稿することを思いつき、始めて投稿した。しかし、1ヶ月近くたっても掲載されないので没になったろう。そこで最初の予定通りここに紹介した。




2010/05/18(Tue) (第1282話) 再び誓った愛 寺さん MAIL 

 “ハワイ旅行に出かけた際、買い物に興味のない私たち夫婦は、夫婦が再び愛を誓い合う「バウ・リニューアル」というセレモニーに参加しました。欧米では普通に行われているそうです。
 牧師とウクレレ奏者と我々の4人だけで、わずか30分の式でした。海の見える静かな公園で、牧師に続いて「病気の時も苦しい時も愛します」と言った時には、声が震え、夫の目も潤んでいました。新婚の時には高揚感で通り抜けた言葉が、40年たった今は、じんと胸にしみいりました。
 年々、空気のような存在になり、ぞんざいな振る舞いになっていることを反省しました。今はお互いに少し優しい気持ちになっています。夫婦とも忘れっぽくなったので、この思いを忘れずに行きたいです。”(4月29日付け読売新聞)

 川崎市の主婦・加藤さん(63)の投稿文です。バウ(VOW)とは誓う、「バウ・リニューアル」とは、今まで一緒に歩んできた2人が銀婚式や金婚式だけではなく、人生の節目に絆を確かめ合い、もう一度愛の誓いを立てるという欧米の習慣だそうです。外国には味な儀式があるものだ。日本には○○婚式が沢山あるが、それは単なる祝いで終わっているだろう。再び意識を確かめ合うとなると、また違った趣があろう。
 ボクは○○婚式もほとんど意識したことがない。そういえば今年は結婚40年だ。ルビー婚式だそうだ。バウ・リニューアルはハワイで盛んに行われているようだ。ハワイはまだ行ったことがないし、加藤さんのようにこの機会にハワイに行ってバウ・リニューアルをしてこようかな。こんな提案をしたら妻は何と言うだろうか。




2010/05/16(Sun) (第1281話) 25年後の謝罪 寺さん MAIL 

 “二十五年ほど前に愛知県刈谷市内の書店で万引したのを謝罪したいと、匿名の手紙が中日新聞岡崎支局に届いた。おわび代を含め現金三万円と謝罪の手紙が同封されており、これを経営者に渡してほしいという内容だ。店は既に閉店し、店主も亡くなっているが、家族は「昔のことだからもういいのに・・・。今の時代にそんな人もいるんですね」と驚いている。(
 「私は書店において25年間ほど前に本を万引きをいたしました」で始まる手紙には、
「心の中にわだかまりがあり、いつかおわびしたいと思っていました」と心情がつづられている。「本来ならば対面して謝罪すべきではありますが、顔をお見せする勇気が無く、お許し願います」と名前も住所も一切明かしていない。
 連絡できないため、万引の事実関係は確認できない。万引したという書店は刈谷市野田町の県道沿いにあった故加藤則幸さん経営の「いろは書房」で、七、八年前に閉店。加藤さんは昨年、七十九歳で亡くなり、家族は同市今川町に住んでいる。(中略)
 次男の寿行さん(五四)とも受け取りを丁重に断り、中日新聞社会事業団を通じて恵まれない人のために役立ててほしいと申し出た。寿行さんは「せっかく謝罪する気持ちになってくれたのだから、私たちもお返しする気持ちになりたい」と静かな口調で話した。”(4月26日付け中日新聞)

 記事からです。罪の大きさである。よほどの悪人でない限り、また善良であればあるほど小さな罪にも苦しむものである。25年も前の万引きにいつも心が痛んでいたのであろう。そこで、思い立ってお金を預託した。最近万引きの話は多い。遊び感覚であるようだ。この風潮を作り出したのは何なのか。こういう話から、罪の及ぼす苦しみを理解して欲しい。一生の重荷になるのだ。
 似たような話として、2007年6月12日掲載の「(第779話)54年前のいたずら」を読んで頂きたい。
 ボクがこの話を取り上げたのは、加藤則幸さんというなつかしい名があったことにもある。川柳東浦の会の印刷物はいろは書房に頼っていた。そして加藤則幸さんから頂いた加藤さん著作の本があるはずだと思い出し、捜してみた。あった、「刈谷の石仏を訪ねて」という本であった。もう20年も前の発行であり、当時のボクは余り石仏に興味もなかった。今は、ウォーキングのコースを作るために歩いていると何と多くの石仏に出合うことか、この石仏にもう少し知識があったらもっと楽しかろうと思うことが度々である。もう一度読んでみよう。




2010/05/14(Fri) (第1280話) 郵便配達員(その2) 寺さん MAIL 

 前回と同じ4月25日付け中日新聞の「ほろほろ通信」から、その後半部分です。
 “ちょうどその日に、瀬戸市の矢野美知子さんから「私も同じ思いで郵便配達員さんに感謝しています」という便りが届いた。矢野さんは長年、絵手紙を描いている。友達からも絵手紙が届く。雨の日には絵の具がにじまないようにと、はがきがビニール袋に入っている。まだ降りだしていないけれど曇り空のときにも。
 矢野さんはおっしゃる。「なかなかできない心遣いです。一言お礼が言いたいけれどまだお目にかかれません」。広報の方からまた小欄へ問い合わせがあるかもしれない。”

 郵便物を雨に濡れないようにビニール袋に入れる、これも嬉しい配慮である。個人でここまでするのにはかなりの労力を要する。どの程度までされているのか知らないが、この方も表彰したい方だ。
 新聞はいつ頃からかビニール袋に入っているようになった。これも助かっている。これは業務として行われるようになった。新聞は一定の大きさなので機械で入れることもできるだろうから、作業工程の一つに入れればいいだろう。しかし、郵便物は大きさも重さも様々だ。機械で入れることは難しいかもしれない。ここに一個人の配慮に頼ることになっているのだろうか。
 広報の方に問い合わせはあったでしょうか。




2010/05/12(Wed) (第1279話) 郵便配達員(その1) 寺さん MAIL 

4月25日付け中日新聞の「ほろほろ通信」を2回に分けて掲載します。
 “郵便事業会社東海支社の広報担当の方から、4月11日付「ほろほろ通信」について問い合わせの電話があった。それは、こんな話だった。豊橋市の長岡さんの家に郵便を配達してくれる人は、家の中まで聞こえるようにと大きな声で「郵便で〜す!」と呼び掛けてくれるという。手紙を待ちわびる者への気遣いだ。「言葉一つで温かな気持ちになれます。いつもありがとうございます」という長岡さんからのメッセージを紹介した。
 「個人情報に支障のない範囲で、長岡さんのお宅の町名だけ教えていただきたいのです」という。「なぜですか」とお聞きすると・・・。「この話の配達員を特定して褒めたいのです。お客さまからさまざまな苦情が寄せられます。できるかぎり丁寧に説明やおわびをさせていただいています。でも、多くの頑張っている社員もいます。お客さまに喜んでいただいた社員を褒めることで、本人の一層の励みになればと。さらには周りの手本になってサービス向上につながることを願って」”

 4月11日の「郵便で〜す!」については、この「話・話」の4月28日第1273話で紹介した。この話はその続編である。この「ほろほろ通信」を読んだ配達員の郵便事業会社がこの配達員を褒め、また多くの社員に知らせたいというのである。褒めることを知らない社会である。多分、郵便事業会社も沢山の苦情を受けているのだろう。それだけに、会社は褒められた機会を生かしたい、ボクにはよく思いついてくれたと嬉しく思う。
 僕らの若い頃は批判精神を持つことがいかにも尊いことのように教えられた。いろいろ改善して行くには批判精神も大切であろう。でも批判精神と自己のわがままとは多分に間違えるし、紙一重だ。それより先に教えねばならないことは感謝の心ではなかったろうか。




2010/05/10(Mon) (第1278話) トイレに格言 寺さん MAIL 

 “僕のうちのトイレのドアには相田みつをさんの言葉が書いてあります。「やれなかった やらなかった どっちかな」というものです。
 僕には本当はやろうとすればできるのに、やれないと決めてしまい、結局はやらなかったことがたくさんありました。僕はトイレに行くたびにこの言葉を見て、やれないといってやらなかったことをできるだけ減らそうと決めました。今は考えてやれると思ったことは片っ端からやるように努力しています。
 僕はサツカーのゴールキ−パーをしています。でも、背が低いので、もっと大きくなるように牛乳をできるだけ飲むように努力しています。僕を変えてくれた言葉に感謝しています。”(4月23日付け中日新聞)

 岐阜県富加町の中学生・立部さん(男・13)の投稿文です。トイレというのは思いの外貴重な場である。いつも行ってじっとしている。受験時代にトイレに暗記するものを書いて貼った記憶のある人も多いのではなかろうか。立部さんの家の活用もひとつの方法であろう。事実、中学生の息子さんはそこに書いてあった相田みつをさんの言葉に大きな影響を受けて、この投稿文のようになった。知恵は使いようだ。
 実は我が家のトイレには須永博士さんの絵と文が飾ってあったことがある。「生きるんだよ、あかるく笑顔で自分の心をつらぬくのだよ。くるしいことやさみしいことは自分をきたえるためのできごとなんだよ・・・・」というものであった。子供たちにどんな影響があったかは知らない。しかし、大分以前より「あちこちに知らせる 孫ができたよ」という妻の川柳に変わって、今日もボクはそれを見て用を足している。




2010/05/06(Thu) (第1277話) 警官のおふくろさん 寺さん MAIL 

 “長野県木曽町に、40年以上にわたって地元警察署に差し入れを続けている女性がいる。同町福島の上村はやさん(84)。自家製の漬物や煮物を週に一度、昼食時間に合わせて届ける。世間話をしながら木曽署内を回る姿は、まるで「警察官のおふくろさん」だ。(中略) 
 当初は自宅から署まで、1.5kmの道のりを歩いて通った。足腰が弱くなった今は毎週、タクシーで往復。「習慣になっちやって、もう癖のようなもの」と笑う。2人の息子はすでに独立、15年前に夫を亡くして一人で暮らすが、体力が続く限りは通い続けるつもりという。(中略)
 ランチタイムを通じて、これまでに知り合った警察官は県内全域に広がった。毎年150通以上の年賀状が届く。「息子がたくさん散らばっているようなもの。ありがたいね」と目を細めた。”(4月23日付け中日新聞)

 「虹」という記事欄からです。これはまた奇特な人があるものである。食べ物の差し入れを週に1回、40年以上とは費用も労力も大変なことである。今ではタクシーを使ってまで出かけるとは、本当に息子に会いに行く気持ちだろう。息子と思えばたやすいことかもしれない。でも、他人をなかなかそう思うことはできない。上村さんの人柄、生き甲斐であろうか。続けている内に「習慣になっちやって、もう癖のようなもの」というのも事実だろう。続けている内に止められなくなってしまう。そこまで来るのが立派である。いろいろな人生があることを実感する。
 実はボクはフィリピンの3人の息子に仕送りしてきて、もう15年以上になる。先日妻とどこで断ち切るかということが話題になり、まもなく年金生活になることもあって、今の子が小学校を卒業する機会に止めようと言うことになった。継続も難しいが、止める機会を見つけるのも難しい。




2010/05/04(Tue) (第1276話) 皆勤賞 寺さん MAIL 

 “小学校のころからここの年になるまで、いまだかつて皆勤賞をもらったことがない。その私が、皆勤賞をいただいた。
 私は市のコーラス団に入っている。もう二十年余りにもなる。練習は週に一回、夜にある。練習をしている会場まで、歩いて十五分くらいかかる。雨が降ったり風邪をひいたりして、欠席したことも何度かある。《もう、やめようか》と思ったこともあった。でも、練習を終えて帰る時の爽快感が何とも言えない。そして去年の四月、ふと一念発起。《無欠席で頑張ろう》という決心をした。
 帰りは仲間の車で送ってもらうものの、行きは健康のために歩くことにした。仲間も応援してくれた。それが実って、皆勤賞となったのだ。皆勤賞をいただいた日は、ちょうど私の誕生日だった。先生も仲間もみんなで「ハッピーバースデートゥーユー」を歌ってくれるというおまけまでついて、すごく幸せだった。初めての皆勤賞。どんな賞よりもうれしい。私の大切な宝物になるだろう。”(4月21日付け中日新聞)

 三重県熊野市の主婦・松田さん(79)の投稿文です。いくつになっても賞をもらうのは嬉しいものだ。自分の努力の結果であれば、それもこの歳で皆勤賞はなおさらであろう。高齢になればなるほど、健康は重要なことだ。皆勤賞は健康の証しだ。どんな賞よりも嬉しいと言われるのは本当だろう。
 今健康を誇るボクも、実は皆勤賞には縁がなかった。小中学校で1年皆勤のことはなかったのではなかろうか。毎年秋口に風邪を引いていた。今からでも遅くない、どこかで一度皆勤賞をもらいたいものだ。
 それにしても松田さんは60歳位からコーラス団に入られたのだ。もともと意欲旺盛なのだ。コーラスは健康にいい。これからも続けられることを期待したい。




2010/05/02(Sun) (第1275話) はげ山の植樹 寺さん MAIL 

 “「千本桜も咲いたなあ」。私の住む漁村には、愛相会という郷土を愛する人たちが結成した会があります。地区の活性化のため、二十年以上前に、同じ志を持つ人たちでつくった会です。
 その人たちが十年余前に、地区の中心にあるはげ山に桜を植樹してくれました。かつては地区の土地で、区民に貸して野菜畑として耕作していましたが、猿やイノシシの害で耕作が放棄されていたのを整備して、桜を植えました。千本桜と名付けられ今では立派に花を咲かすようになって、地区の人の目を楽しませてくれます。桜の便りも聞かれる昨今、はげ山の千本桜も咲き、よそへ花見に行けない人にも春らんまんを演出して、村を活気づけてくれます。近くの橋から、はげ山を望めば、ふるさとを温かく包んでくれる千本桜です。”(4月21日付け中日新聞)

 三重県南伊勢町の山本さん(女・76)の投稿文です。地区のはげ山を地元の人で素晴らしい桜の山に変えた、地域の共同の力は大きい。そんな見本のような話です。
 地区の財産だから地区で良好に保全していくのは、当然といえば当然です。でも、その当然が通りにくくなっている。山には人の高齢化も過疎化も進んでいる。田畑も担い手がなくなっている。全国津々浦々、自然の崩壊は進んでいる。今後更に進んでいくだろう。政治や行政は当然ながら、広く国民も知恵を力を出さねばならない。自然の恩恵は所有者のみが享受するものではないのだし、その崩壊は全国民に被害を及ぼすものである。いろいろな試みがなされてきてはいるが、崩壊のスピードに対応が追いついていない気がする。
 先日我が村で、田植え前の用水ざらえ(用水の清掃)があった。参加者が少なくなった。高齢者が多くなった。いずれ今の形では進まなくなる気がする。




川柳&ウォーク