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第65号  2009年9月

2009/09/30(Wed) (第1177話) 自主運営喫茶店 寺さん MAIL 

 “津市の西郊に居を構えて40年近い。共働き、子育てと、がむしゃらに走ってきた。しかし、大きな忘れ物を残してきた。地域住民のことだ。団地は現在約700戸。70歳以上の住民は400人近い。一人暮らしの方が68人。喫茶「いずみ」は住民の呼びかけで毎月第2日曜日の午前8時から11時まで集会所で開く。もう1年半続いている。
 ボランティア17人。300円の手作りサラダとコーヒー。緑茶、昆布茶は無料だ。平均百人の来客。「ここへ来るまで誰とも話す機会がなかった」「この日を楽しみにくつろぐ」と語る。このごろ、孫と一緒の老夫婦が目立つ。うれしい限りだ。
 男性ボランティアは4人だが、職場と家庭にしばられ、地域問題には甚だ疎い。地域づくり、人づくりは試行錯誤だ。毎回30分のミニ反省会を繰り返し改善する。「ゆっくりでき、楽しかった」という一言が何よりの励ましだ。”(9月18日付け朝日新聞)

 三重県津市の高校講師・佐藤さん(男・69)の投稿文です。会社ひとすじに走っている多くの人が陥るのが、地域との係わりの薄さである。リタイアしたら住んでいる所が主に過ごす所になるのであるから、その薄さにすぐ気づく。知人もいない、地域のことが分からない。もう残りの人生だからとそのまま過ごすのか、いや、まだ長いと克服するのか。本当に短ければいいが、それは分からない。20年、30年あったらもう一人生である。やはり克服するのが賢明であろう。
 佐藤さんは積極的に取り組まれたのである。そして、素晴らしい場を持たれた。多くの地域で参考になる代表的事例ではなかろうか。




2009/09/28(Mon) (第1176話) 日本語会話資格  寺さん MAIL 

 “「二〇六九年以降、公共の場で会話するためには日本語会話資格三級以上が必要になります。資格を持たずに会話した場合、罰金刑に処せられます。対象者は十八歳以上の全国民、本年度より順次コンピューターで・・・」
 「は? ナニそれ」「意味わかんないんだけど」「人前でベシャっちゃいけないわけ?」「信じらんない、バッキンとか言ってるしぃ」「ぶっちゃけ、ありえなくない?」「資格なんて、ちょームリ」「マジうざい」
 そこへ、艶やかな黒髪の若い女性が近寄り、話しかけた。「おばあさま方、今からでも遅くありませんわ。私が正しい日本語の会話法をお教えしますから、頑張って、勉強しましょうよ」”(9月13日付け中日新聞)

 「300文字小説」から名古屋市の主婦・池井さん(33)の作品です。この小説は何と理解すればいいのか・・・。今の若者言葉の人たちが老人になった60年後、若い人はどんな日本語を使っているだろうか。歴史は繰り返す、流行も繰り返す・・・意外に今の高齢者の、正当な言葉をナウイと思って使っていたりして。その時、会話資格が必要となったとすると、小説のような話になるのではないか、ボクはこのように理解した。その時までボクが生きておられれば、1級は無理でも即3級は取れるだろう。
 60年後に今の若者言葉が、若者の間で古くさいと言われるのは確かだろう。作者はどのように思って書かれた知らないが、いずれにしてもなかなかの小説だと思う。




2009/09/26(Sat) (第1175話) 命の泉 寺さん MAIL 

 “四十代の知人がしみじみとおじさんに語った。「先日、母の米寿の祝いに故郷に帰りました。親族が集まって母の長寿を祝ったのです。ぼくは子どももいませんし、離婚経験者です。そのことで母に心配ばかりかけていました。で、薄給の中から積み立てた百万円を母へのお祝いとして包みました」母親は泣いて喜び、「この子にこんな大金をもらった」と、親族に披露してみせたという。
 「翌日、帰るぼくを空港まで見送りにきた母が、お土産といっしょに紙包みをぼくに渡しました」機中で「何だろう」と開けてみた彼は驚いた。手紙と現金二百万円が入っていたのだ。そして、母の自筆の手紙には「おまえのお祝いはどんなにうれしかったことか。でも、今の私にはお金は要らない。私よりおまえの孤独な生活が心配だ。都会で一人で生きていくのはつらいだろうが、どうか、どうか、元気で暮らしてください」と。
 ああ、母さん!と、彼は、この年にして親不孝のわが身が情けなく、さらに老母の思いの深さに打たれて、涙があふれ出て止まらなかったという。聞いていたおじさんもまた、ポロポロ涙が止まらない。”(9月13日付け中日新聞)

 久しぶりにエッセイスト・飛鳥圭介さんの「おじさん図鑑」からです。この話は実際の話であろうか・・・そうでなくても実際にありうる話であろう。そして、少し気持ちを込めて読めば、胸につまるもの無くして読める方があろうか。本当についホロッとしてしまう。
 親不孝な子ほどかわいいという。そんな子は心配することが多い。気配りすればするほどかわいくなるのである。何事も関わりを持って始めて身近なものになるのである。出来がよくて親と全く疎遠な子より、心配をかけるのもひとつの親孝行か。まあ、何事も程度ではあるが・・・・。




2009/09/24(Thu) (第1174話) 台風の思い出(その2) 寺さん MAIL 

 “1951年以降で上陸時の気圧が最も低かったのは、61年9月16日の第二室戸台風だったと、8月16日付の本紙サンデー版で知った。
 私たちはその前年、遮るものの何もない高台に家を構えた。台風の襲来は昼間だったが、土曜日だったためか夫も在宅していた。伊勢湾台風を経験していた私は、あれこれ口うるさく言ったが、夫は取り合わなかった。でも、だんだん風が強くなり、突っかい棒をしたり畳を窓側に当てたりした。風はさらに強くなったが、私は8ヵ月の身重で戸を押さえる力もなく、そのうち逆に外の方へ引っ張られそうになった。風の恐ろしさを夫は初めて知ったようだ。
 消防団員だった夫はその後、呼び出されて出掛けてしまった。調べると瓦は吹き飛び、私一人ではどうにもならなかった。停電で夕飯の支度もできず、隣家のお世話になった。それから台風が来るたびに、夫は会社を休むようになった。備えあれば憂いなしというが、忘れたころにやってくるのが災害で、怖いのは風だけではない。非常持ち出し品はいつも準備している。”(9月9日付け中日新聞)

 岐阜県恵那市の安田さん(女・73)の投稿文です。ボクは伊勢湾台風よりその2年後の第二室戸台風の方が恐かった。伊勢湾台風は夜であったので状況がよく分からなかったが、第二室戸台風は昼間だった。状況がよく分かるので、それだけに恐かった。
 ボクの職場も災害が起こる危険性があると、家を守るより出かけていかねばならぬ職場であった。それだけに怖れがあると早くから準備をした。これは伊勢湾台風や第二室戸台風の体験があったからであろう。
 最近は台風の上陸は少なくなり、それより豪雨による被害が多くなった気がする。ボクの地方にしてみれば東海豪雨である。河川の決壊や土砂崩れを受けた地域は大変であった。ボクの家の近くの川も堤防から水が溢れ、なかなか引かなかった。その後大規模な復旧や改修が行われた。今ではその川も大水があっても早く引いてしまう。稲が水にかぶってもそんなに大きな被害にならない。
 公共事業(この言葉は土木事業をさすことがほとんどだが)の不要が叫ばれて久しい。本当にそうだろうか。気候も大地も気がつかないうちに変わっていく。今まで安全なところが明日安全とは限らない。事業には10年単位の時間がかかる。新しい内閣は国家百年の大計を誤らないように進めて欲しいものだ。




2009/09/22(Tue) (第1173話) 台風の思い出(その1) 寺さん MAIL 

 “昭和三十三年九月二十六日の狩野川台風の日、私は一人住む母の家にいた。とにかくものすごい風雨で、ガラス戸が弓なりにたわみ、私は必死に押さえていた。その時、母が「怖い」とすがりついてきた。戦時下に三人の子を抱え、厳しく育ててくれた気丈な母から初めて聞く言葉。私がこれからは母に代わってやらなければと心に刻んだ一瞬だった。翌年は伊勢湾台風で各地が大被害を受けた。
 二つの台風は不幸な災害だったが、その復旧のために土木工学や機械はすばらしく進歩したと聞いた。海辺では風台風が来ると一日にして作物が茶色に枯れる塩害に遭ったが、海岸に消波ブロックが投入され堤防が築かれて、潮の上がることはほとんどなくなった。
 どんなに予報が進歩しても天変地異は防げない。が、人間はその中から立ち上がってゆく力を持っている。日ごろの訓練とともに、常に心の備えをしていなければと思う。”(9月9日付け中日新聞)

 静岡県牧之原市の主婦・山下さん(77)の投稿文です。まもなく9月26日である。狩野川台風と伊勢湾台風の来襲日である。山下さんは狩野川台風で被害を受けられた。ボクは伊勢湾台風で被害を被った。毎年のように台風が上陸する沖縄や九州地方と違って、あまり台風被害を受けない地方だけに、対策も手ぬるく被害が大きかったかもしれない。 ボクの記憶では、ボクの家は伊勢湾台風の時、何の対策もしていなかった。情報も少なかったが、対策をしてスカを喰うことも度々で狼少年になっていたかもしれない。畑の中の一軒家であったので、まともに風を食らった。朝外へ出てみると、戸箱や壁は飛び、沢山の瓦が落下していた。
 その後、この被害を受けた地方は大変な対策工事がなされた。もう50年もたち、老朽化したところは順次補強工事がなされている。山下さんが言われるように、どんなに予報が進歩しても天変地異は防げない、日ごろの訓練と常に心の備えをしていなければと言われるのは真実だ。




2009/09/20(Sun) (第1172話) 300文字小説に挑戦 寺さん MAIL 

 “何を血迷ったか、中日新聞サンデー版の「三百文字小説」を書いてみたいと思った。紀貴之の「女もすなる日記というものを・・・」ではないけれど、小学生も入選している。私は五十八年も生きてきた。書けないはずはない、と高をくくった。
 茶わんを洗いながら、歯を磨きながら、あれこれ考える。題材は、身の回りにいくらで転がっていそうなのに、「うーん、難しい」。同時に、並行して二、三作書いている小説家の頭の中は、どうなっているのだろう。
 ある晩、ついに筆が運んだ。明け方近く書き上がった。会心の作だ。「サンデー版に投稿しようと思うの。読者第一号よ」。朝、鼻高々で夫に見せた。「何も面白くないけど・・・」。何時間も推敲をした私の作品を、ものの二分で却下した。久しぶりに帰ってきた息子に、ことの経緯を話した。「あの住井すゑさんは、五十すぎで小説デビューしたんだってさ。始めるのに遅いということはないよ」とエールを送ってくれた。今、私は楽しい三百文字小説を書きたいと、辺りをキョロキョロ見回している。”(8月30日付け中日新聞)

 三重県四日市市の主婦・能勢さん(58)の投稿文です。300文字小説はボクの興味を引く話も多く、この「話・話」でもう何度も紹介した。能勢さんはそれに挑戦しようと言うのである。まず、小説よりもその挑戦の投稿文が採用された。まあ、これもいいではないか、思いがけない副産物である。
 文を書くのも慣れである。常日頃の心がけである。多くのことに早いに越したことはないが、プロになる訳でもなければ、息子さんが言われるように始めるのに遅いということはない。思った時が始め時である。いろいろ興味を持ってキョロキョロするのは楽しい。そして、できあがった小説はしばらく自分の記録として温めるのもよかろう。けなされたからと言って悲観することはない。時間を経てまた読み直し、推敲すると次第にいいものになって行くだろう。それから投稿でも遅くない。プロではないのだから経過を楽しみたい。




2009/09/18(Fri) (第1171話) 古びた箱 寺さん MAIL 

 “亡き夫の初盆が近づいたある日、盆ちょうちんを用意していると、古びた箱が目に入りました。開けてみると、懐かしい私の通知簿や賞状類でした。
 50年前の伊勢湾台風で、わが家は屋根まで水中に沈み、1か月ほど知人の家でお世話になっていました。このため、ほとんどの家財道具が使えなくなってしまったはずなのに、箱が残っていたのが不思議でなりません。きっと、亡き母が子どもの宝物だからと、ぬれた物を古新聞の間に丁寧に挟んで、時間をかけて乾かし、結婚の時に持たせてくれたのでしょう。母の愛情が身にしみ、熱いものがこみ上げてきました。
 通知簿に書かれていた小学1年から高校3年までの担任の先生の言葉は、インクがにじんでよく読み取れませんが、かすかに浮かぶ先生の名前、励ましの言葉に見入ってしまいました。苦しい生活の中、無理を言って珠算学校へ通わせてもらいました。そして、目標にしていた全国珠算教育連盟第一級検定合格証書も残っており、その時の感激が昨日のようによみがえってきます。夫を亡くして落ち込んでいる母からの贈り物だと思えてなりません。”(8月30日付け朝日新聞)

 愛知県津島市の主婦・木村さん(67)の投稿文です。小中学校時代の通知簿や賞状の類はある時には邪魔でも、後になると懐かしいものである。木村さんの場合、何十年ぶりに見るものであり、また伊勢湾台風で何もかもなくなっていたと思われていたのだから、より懐かしいであろう。宝物が残っていた思いであろうか。
 それにしてもお母さんの心遣いは凄いものである。娘さんの思い出は残さねばと言う思いであったろう。いや、本人以上にお母さんの宝物であったかもしれない。それだけに大切に保管し、人知れず娘さんのお嫁入りの道具の一つにされたのかもしれない。
 こうしたものはなかなか捨てられないものである。わが家にもまだ娘のものが残されたままである。そしてボクのものも残っている。この「話・話」でも記したと思うが、またHPの随想の中でも「私の宝物」として紹介しているが、こうした思い出の紙くずが本箱何本分にもなっている。未だ旅行やウォーキングに行って増え続けている。




2009/09/16(Wed) (第1170話) 自分で起床 寺さん MAIL 

 “小学4年生の息子は夏休み期間中も、学校に行く時と変わらず、朝6時に起きて、夜9時に寝る生活を送っている。
 入学する時、私は「朝は自分で起きるようにしなさい」と話した。「寝坊したらどうするの」と言う息子に、「家を出る10分前になったら、起こしてあげる」と答えた。息子は当初、朝5時から約30分おきに目を覚まし、「もう起きる時間?」と聞いてきた。しかし、今では目覚まし時計も必要ないくらい、きっちり6時に起きられるようになった。
 今の子供たちは、生活リズムの乱れから、食欲があまりなかったり、授業中にぼんやりしたりすることも多いと聞く。息子に対して「ちょっと厳しいかな」と思った時もあったけれど、規則正しい生活を送る習慣を身につけてくれたことに安心している。”(8月27日付け読売新聞)

 神奈川県大和市の主婦・伊藤さん(42)の投稿文です。生活習慣をキチンとすることは生活の基本、大切である。特に朝キチンと起きることは、1日の始まりだけにより大切である。子供にそれを身につけさせるのは親の仕事である。伊藤さんはその仕事をキチンとされた。
 また、子供にそれを求めればまず親がしなければならない。最近、その自覚が書ける親が多いことが新聞等で感じられる。それまではいい加減であっても子を持ったからにはその自覚を持たなければならない。子と共に成長する親でなければならない。それでこそ子を持った意味もある。
 その点、ボクの男孫は2人とも優秀である。いつも6時前には起きているようだ。親よりも早いことも多いらしい。さすがボクの孫だと誉めてやる。農家育ちのボクは子供の頃から寝坊が許されなかった。それは幸いだった。「早起きは三文の徳」それを実感している。子供頃からの習慣は生涯続くだろう。少し遠くにいる女孫2人はどうなっているだろう。親が親だけに少し気にかかる。




2009/09/14(Mon) (第1169話) 近所の温かさ 寺さん MAIL 

 “夏休みに家族で田舎のおばあちゃんの家に行った。夜10時過ぎ、「あともう少し」と思いながら、荷物を抱えておばあちゃんの家に続く暗い道を歩いていた。いつも、おばあちゃんは外で私たちを待っていてくれる。けれど、今日は夜遅いのでいないだろうと思っていた。だが、懐中電灯を手にして待っていてくれた。
 後ろから男の人がおばあちゃんに話しかけてきた。近所の人だそうで、車を運転していた時、彼の子供がおばあちゃんが1人でいることに気付き、心配して見に来てくれたという。おばあちゃんは感謝していた。
 そんな2人を見て、私は心が温かくなった。自分の家族のように心配してくれる人が近所にいたら、どんなに心強いだろう。私も自分の家の近所の人にあいさつをしっかりして、親しくなりたいと思った。”(8月27日付け読売新聞)

 東京都の中学生・宮崎さん(女・13)の投稿文です。おばあちゃんがいて、子供がいて、その親がいる、その温かい連携である。そのことに13歳の女子中学生が感動して投稿する。そして多分、宮崎さんは投稿して採択されたこの投稿文を生涯忘れないと思う。それと同時に内容も忘れないだろう。何かの折りにふと思い出し、行動にも心がけるだろう。
 文を書く、更に投稿など人前に発表する、この効果は大きいのである。投稿欄も中高年というか、高年が非常に多い。元気な老人が多い証拠である。その中で若い人の文は目を引く。若い人に読書離れ、作文離れが起こっているという。若い人の体験文が多くなることを期待したい。




2009/09/12(Sat) (第1168話) 幸せ預金 寺さん MAIL 

 “古里の友人から久しぶりに電話がありました。彼女の古里言葉には、私をたちまち元気にしてくれる魔法の響きがあります。しかし、今回はいつもと様子が違っていました。仕事のことで悩み、落ち込んでいたのです。
 「今日は幸せ預金をたくさんしたんだね」私がこう言うと、彼女は「何それ」と問いかけてきました。「困難にぶつかっても、近い将来にきっと利子が付いて大きな幸せになって返ってくる。しばらく我慢してみよう、という私流の法則だよ」と説明し、励ましました。
 難しい問題に直面すると、気持ちの切り替えは容易ではありません。でも、「幸せ預金」だと考えてみてはどうですか。”(8月27日付け読売新聞)

 愛知県愛西市の主婦・日比野さん(51)の投稿文です。今の苦しみ、困難の克服は将来への「幸せ預金」か、うまいことを言うものである。いろいろな困難を乗り越え、その蓄積が力となり、幸せな将来へとつながっていく。このように理解すれば、今の困難もさほど苦になるまい。良い知恵だ。
 とはいうものの、当人はなかなかそんな気になれない。それにはやはり回りの支えである。こうした助言である。人との係わりは鬱陶しい時もあるが、いざというときには大切である。そのいざというときに対応できるか、できないかの違いが大きいのである。それができるのがその人の能力であり、財産である。
 人間、悩みがないと不安になるかと思う位に悩みを探しても持つものである。そして、そんな悩みなど時が立つと共に消えている。人生ほとんどのことは時間が解決しているのである。幸せ預金や時が解決するなど、こうした知恵を持ちながら乗り切っていきたいものだ。




2009/09/10(Thu) (第1167話) ピアノを孫に 寺さん MAIL 

 “二十年以上眠っていたピアノを六月末、二人の孫のために修理、調律してよみがえらせました。買ったのは約三十五年前。長女が幼稚園に入り、ピアノを習い始めたのに合わせて購入したんです。外国のピアノで、日本で組み立てられたといいます。有名メーカー製ではないけれど、すべて手作りで、今はプラスチックを使う部品も木を使ってある。長く弾けると聞いて気に入りました。    
 そのピアノも娘が中学校を卒業してからは触れる機会が少なくなってしまいましたが、自宅に大事に置いてありました。でも組み立てたメーカーは数年前に破綻したとか。残念です。このたび、娘夫婦が家を新築。音楽教室で電子オルガンを習っている孫に手渡すことにしました。調律してあらためて聴いた音は深みと迫力があって素晴らしかった。調律に来てくれた業者さんも「良い製品だ」と太鼓判を押してくれました。孫が長く使ってくれたらと思っています。”(8月27日付け中日新聞)

 名古屋市の恒川さん(おとこ・67)の投稿文です。このように立派なピアノではないが、わが家にも全く同じようなことが起ころうとしている。二女家族の家の新築が来年2月を完成目標に始まっている。間取りにはピアノを置く位置も確保されている。そして、そのピアノには昔、娘が使っていて、まだわが家に置いてあるピアノが予定されている。恒川さんと同じ状況である。代々使えるような代物ではないが、少しでもそのようなことになるのは本人も嬉しかろうが、僕たち夫婦にも嬉しいものである。またピアノにも嬉しいことであろう。ものを大切にするという意味でも良い。
 わが家には娘が読んだ「少年少女世界名作ライブラリー」全13巻が残っていたが、先日小学3年の孫が全巻を持って行った。他の孫も読まねばならないから、大切に扱うように言っておいた。実はこの本はボクが古本屋で買ってきたものだ。本など大切に使えば何代でも使えるのである。新本より歴史があって味わいがあるというものである。




2009/09/08(Tue) (第1166話) 緊急地震速報 寺さん MAIL 

 “今月十一日の午前五時、台風9号の進路が気になり、枕元のラジオのスイッチを入れた。ニュースの途中で突然、何かの発信音。ん? 聞き覚えのある音・・・。緊急地震速報だ!気付いた途端、グラブラッと揺れがきた。《もうきた。本当に、速い!》と実感しながら布団の上で揺れが収まるまで、じっと待った。
 それからテレビをつけ、震源地は駿河湾で震度6弱。住んでいる地域は震度3と知った。後日の新聞に、震源地から愛知県まで、速報の第一報から揺れの到達まで12〜37秒くらいの猶予時間があったと出ていたが、私はもっと短く感じた。
 振り返ってみると、ラジオだったせいか、速報の発信音を聞いても、とっさには何だったか思い出せず、速報の内容もよく覚えていない。ただ直前に地震という言葉を耳にし、気構えができたことは確かたった。
 しかし、東海地震という大きな揺れがきた場合、速報を聞いたとしても、専門家が首っように、身の安全を回り、逃げ道を確保することができるかどうか自信はない。でも、がスの火を止めたり、テーブルの下に潜ることはできると思う。今回は貴重な体験ができた。”(8月21日付け中日新聞)

 愛知県吉良町の主婦・神谷さん(61)の投稿文です。続いて災害関連である。
 数十秒前といえども地震も予期の速報が出るようになったのだ。地震の予知などできるものではないと思っていたが、人間の知恵はたいしたものである。何十秒でも早く分かれば、身の安全や火の処理などはできる。と言っても、これも日ごろの心構えが重要である。ここらのことはこの神谷さんの投稿文でよく実感できる。こうした体験文を読むことも大切であろう。
 ボクも地震にびっくりして飛び起きたが、まだ起きる前でラジオもテレビもつけていなかったので、この地震速報は知らなかった。その後、8月25日にも千葉県東方沖で発生した地震にも緊急速報が出たが、予想した地震は起きず誤報と報じられた。こうした誤報で恐いのは関係者が萎縮することである。まだ研究段階であるだろうから、非難など気にせず、研究を続けて欲しいものだ。




2009/09/06(Sun) (第1165話) 1人でする(その2) 寺さん MAIL 

 “夏空が白み始めた朝五時、愛知県半田市の矢勝川沿いに、使い込まれた剪定ばさみの音が響く。旋盤工土本修二さん(68)が土手の雑草を刈り込む音だ。土本さんは三年前、矢勝川のたもとにある「ごんごろ緑地」と周辺の土手の清掃をたった一人で始めた。草が少ない冬を除いて、ほぼ毎日作業する。「こういう仕事が、自然と染み付いちゃって」
 きっかけは、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風だった。海べりの市営住宅にいた時、大波が衣浦湾の堤防を乗り越えてきた。両親ときょうだい五人の七人家族が表に飛び出した時には、水は胸の高さ。流された家族は散り散りになり、母と八歳の末の妹が濁流にのまれた。
 当時十八歳。旋盤工の仕事の傍ら、被災後一年間、青年団の一員としてスコップ片手に五百軒を回り、消毒と清掃を続けた。「母と妹を亡くしたつらさを、体を動かすことで忘れようとしたんだろうね・・・」やがて、ボランティアが生活の一部になった。市内の岩滑地区に移り、子供が生まれると、保育園のイチゴ作りを手伝ったり、子供会の世話をしたり。ごんごろ緑地に来る前の十年間毎朝、名鉄半田口駅のホームの清掃をした。駅が改修を終えたのを見届け、緑地に通うようになった。(後略)”(8月14日付け中日新聞)

 「虹」からです。1ヶ月ばかり前の8月5日第1150話として紹介した話の関連です。1150話では近くの人が投稿された話であるが、これは記者の方の記事です。取材して詳しく紹介されている。こうしたボランティアを始めるきっかけになったのは伊勢湾台風で母や妹を亡くしたことという。何がきっかけになるか分からぬものである。
 伊勢湾台風は9月26日、まもなくその日がやってくるが、今年は50年目になる。この台風はボクの今までの人生で最大の被害をもたらせた台風である。瓦や壁は吹っ飛び家は傾いた。これから新聞等では関連記事が載るだろう。人の人生を変えるほどに大きな災害であった。思いがけない話が出てくるかもしれない。 




2009/09/04(Fri) (第1164話) あなたならどうする? 寺さん MAIL 

 “右の乳房に嫌な痛みを感じ、乳がん検診を受けた。超音波、マンモグラフィー・・・と検査が進んだ。「乳がんです」と医師。七年前の直腸がんに続いて二度目のがん告知である。幸い温存手術が可能だという。
 七月中旬、二時間ほどの手術を受けた。数日後、まだ残っているかもしれないがん細胞を死滅させるために抗がん剤治療を勧められた。副作用の一つとして髪の毛がほとんど抜けるという。エツと息をのみ《そんなの絶対にイヤ》と心で叫んだ。消灯時刻が過ぎた薄暗い病室で、《やっぱり嫌だ》という気持ちと(仕方がないのかなぁ)という気持ちが葛藤していた。
 お見舞いに来てくれた友達に、迷っている気持ちを伝えた。そして聞いてみた。「あなたならどうする?」と。間髪を人れず、答えが返ってきた。「髪の毛ごときで何迷ってんの。そんなに嫌なら髪が抜ける前にツルツル坊主にして、ついでにかつらをかぶれば済むことじゃん」すごい迫力と説得力に、何だか気持ちがスーと楽になった。「なるほど。そうだよな」と、笑顔になれ。退院二日前のことだった。”(8月13日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の松波さん(女・64)の投稿文です。女性なら髪で迷う気持ちも分かる気がしますが、そこは周りの人の助言である。この友人は実にスッキリしている。今何が一番大切か、今何をしなければならないか、間違えないようにしなければならない。
 実は妻の妹も昨年乳ガンと分かり、抗ガン剤で丸坊主となり、手術で乳房も取った。今年の7月には友人が喉頭癌で声帯を痛め、また別の同級生は直腸癌で肛門を取った。ボクにはショックが続いている。
 そんな中、先日先輩と話していて関西大学の藤井美和准教授の話を聞いた。帰ってインターネットで調べてみた。その話は8月20日にNHK教育テレビで放映された内容であった。「死の疑似体験」というもので、ボクの理解で簡単に紹介すると「12枚のカードを用意し、自分の大切なものを書く。そして、2枚のカードを取り出し、そのうちの大切なもの(カード)を残し、他のものを自らの手で破る。次に残りの10枚の中からまた1枚を取りだし、先の1枚と比べ大切な方を残し、他を破る。それを繰り返していく。最後には最後に残った1枚も破り捨てる。」となります。カードには「両親」「友人」「仕事」や「愛」、「命」と言ったものが並び、死に近づくというのはそれらを順になくしていくことだと言う説明になります。この疑似体験はかなりなショックで学生の中には泣き出す人もあったとか。
 ボクの年になると、この無くすものがどんどん多くなっていきます。「命」を書いた人は多分「命」が最後に残るでしょう。「命」を犠牲にしても残すものがある人はまた一つの幸せと言えるでしょうか。




2009/09/01(Tue) (第1163話) 子どもの声響く町 寺さん MAIL 

 “私の住んでいる岐阜県中津川市福岡地区では、夕方五時になるとメロディーとともに子どもの声がまちに流れます。「五時になりました。小学生の皆さん、家に帰る時間です。周りの人にあいさつをして、交通事故に遭わないよう気を付けて、早くおうちに帰りましょう」
 これは中津川市に合併される前の旧福岡町にある四つの小学校の児童会や放送委員会の子どもたちがそれぞれ工夫した呼び掛けです。また、朝や夕には職員の声で地区の連絡事項や、どこどの誰々さんが亡くなり、何時に葬賎があるといった情報も伝えてくれます。ときには熊が出没し、注意を呼び掛ける緊急放送もあります。
 個人情報がうんぬんといわれる世の中にはなりましたが、いずれも生活に欠かせない情報で、人情あふれるいいまちだと思いませんか。都会の人にはなかなか想像できないかもしれませんが、きょうも放送を聞いた子どもたらが「さようなら」と元気にあいさつして帰って行きます。”(8月13日付け中日新聞)

 岐阜県中津川市の勝能さん(69)の投稿文です。ボクはある縁があって年に何回となくこの福岡地区へ行きます。この文を読んだ後、行った時に気をつけていたら確かにこの放送が流れました。みんなで気をつけましょう、みんなで守っていきましょう、そんな一体感を感じさせる気がしました。
 この放送がどのように住民の方にとられているか、また、今も続いている地方がどれだけあるか知りません。今の時代、ほとんどの地域で都会と変わらない情報が手に入ります。こんな放送は必要がない、騒音だ、前時代の遺物だ、そんな声もあるのではないでしょうか。
 勝能さんは非常に前向きにとらえられ、また誇りに思われている。何も無くすばかりが能ではない。今までのものでも上手に活用することが肝腎であろう。福岡地区へこれからもこの放送を聞くのを一つの楽しみして出かけたい。




川柳&ウォーク