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第57号  2009年1月

(第1059話) 街並みガイド 2009,1,31
 “知多木綿の産地として栄えた知多市岡田地区の街並みガイドに取り組んでいる市民らが十八日、初めて現場に出て、本番さながらの練習をした。二月十五日午前九時から、一般の観先客を相手に実際に案内する。
 ガイドは市が市民の提案に助成する「協働提案事業」として昨年十月から始まり、市民ら二十五人が参加。これまで落語家の話術を学んだり岐阜県恵那市の街並みガイドの視察をしたりしてきた。この日は、木綿が保存されていた古い蔵や明治時代に建てられた簡易郵便局など二十五ヵ所を回り、自分で考えた説明を仲間の前で披露した。
 緊張した様子で木綿問屋の説明に挑戦した同市八幡台の上村明紀さん(68)は「人前でしゃべることに慣れていないので、思っていることを表現しきれなかった。難しいですね」と照れ笑いした。”(1月19日付け中日新聞)

 記事からです。街並みガイドが最近各地で盛んになっている。ウォーキングなどで各地に出かけるものにとっては実にありがたい。始めて行くところはもちろん、よく行くところでもちょっとした史跡や見所などは見落としがちである。こうしたガイドさんにはそこら当たりをキチンと案内して頂ける。昨年一宮友歩会の例会でも蟹江町でガイド団体の方に非常に丁寧に案内してもらった。そして今日は、今年の6月例会で説明して頂ける人と打ち合わせをした。
 ガイドになられる人は大変であろう。まず街を知り、話し方も勉強しなければならない。大変ではあるが、街おこしには非常に有効であろう。訪れる方にも迎える方にもいい仕組みが始まったと思う。
 最近は旅行社でもこうしたガイド団体を活用されている。ボクも昨年2カ所で案内してもらった経験がある。業者が目につけるとはそれだけ有効であると言うことである。

(第1058話) モップと教頭先生 2009,1,29
 “日進市の原さおりさん(37)が以前、印刷会社に勤めていた時の話。仕事の打ち合わせで、ある中学校に出掛けた。夏休みに入る少し前のことで、猛暑の中、校舎の周りの草刈りをしている男性に目がとまった。大きな植木ばさみで、汗ぐっしょりになりながら刈っている。よく見るとそれは、その学校の教頭先生だった。「教頭先生自らが草刈りされて、大変ですね」と声をかけると、「生徒が危険なので」とおっしやった。この学校では自転車通学する生徒が多い。草が伸びていると生徒の姿が隠れてしまい、行き交う自動車から見えなくなって危ないというのだ。黙々と草を刈る教頭先生の姿に、頭の下がる思いがした。
 また、ある日のこと。校舎の中をモップを手にして歩く教頭先生を見かけた。思い切って尋ねると「生徒の様子を見るために校内を巡回するので、ついでに掃除もできてー石二鳥なので」とおっしゃった。知り合いの保護者の人に聞くと、いつもモップを手にしていることが分かった。保護者会などで学校に行くと、いつも「ご苦労さまです」「ありがとうございます」と気持ちを込めて言われるとも聞いた。”(1月18日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。学内ならまだしも学外を一人で草刈りはなかなかできることでない。それも教頭先生ともなると、生徒や他の先生に目を光らせることが主になり、自分からの行動はしにくいものだ。多分、自分でできることをいつも考えてみえるのだろう。それがモップを持っての校内巡回にもなる。教育はまず言葉より態度で示すことといえよう。
 モップといえば、最近はなかなか面白いものが出てきている。底がモップのスリッパである。妻はこれを履いて廊下を歩いている。これも一石二鳥であろうか。

(第1057話) 仲間 2009,1,27
 “「常滑アカデミー」という、二十年近く続く集まりがある。常滑市職員と陶芸家の夫妻を中心に、彫刻家や団体職員などさまざまな職業の人たちが飲んで食べて語り合う会。いかめしい名前だが、夫妻のため開いた仲間同士の結婚式で、誰かがふざけて「常滑アカデミーの皆さん、集合ですよ」と叫んだのがきっかけという。
 新年早々、会のメンバーの一人である歯科医師(65)が書展を開いた。昨年一月、肝臓がんが見つかり「余命半年」と宣告された彼のために、会の仲間が中心となって七月に誕生会を開催。「来年も誕生日を祝おう」と激励し、ものづくりはお手のものという会員達が、書が好きなこの男性のために手製の落款を贈った。
 初めての書展には、友人たちの思いに応えて書きためた作品が並んだ。「世の中は五分の真味に二分侠気 あとの三分は茶目で暮らせよ」という書があった。大学時代の恩師の言葉で、ずっと座右の銘にしているという。「宣告後も、不思議と愉快に暮らせている」とこの男性。作品には、プレゼントされた落款が押されていた。”(1月17日付け中日新聞)

 「ぺーぱーナイフ」という中山記者の文からです。まず会の名前がいい。高尚な会のような名であって、実は飲み会という。名は体を表すと言うが、その逆も又真か。医師が座右の銘とされている「世の中は五分の真味に二分侠気 あとの三分は茶目で暮らせよ」も又実にいい。「三分は茶目で暮らせよ」が、ボクに欠けていると思うことだけにより納得する。この姿勢で過ごせば気楽になることばかりだ。「常滑アカデミー」を叫ばれた人もこの精神を十分に持っておられたのだ。
 実は一宮友歩会も最初は飲み会の会だったのだ。一宮地方のウォーキング愛好家の飲み会に、名前を付けないと呼びかけにくいと言うことで、ボクが勝手につけた。そして、単なる飲み会なのに立派な?会則も作った。全くの遊び心であった。それが数年前からこの会の名でウォーキングが始まった。名が体を表すようになった。こう見るとボクにも全く茶目な心得がないわけではないようだ。もう一つボクが名付けの会がある。「イーヤ会」という平成18年退職者の会である。18をイーヤと読替「どうでもイーヤ」と描かせたつもりである。これは全くの飲み会である。これ以上の発展は考えられない。

(第1056話) 今年はナ行 2009,1,25
 “年の始めに1年の「生活鍛錬」を立て、実践している。昨年は「タチツテト」の人生設計で70%の成績だった。「タ」は高望みしない。高い期待は落胆も大きい。体に悪い。「チ」は知恵と知識をふんだんに使う。能あるタカはツメを隠すと言うが、生涯隠しっ放しでは無能過ぎる。「ツ」は強がりは大けがの元。たえず自分の身の丈を考え、自分のペースを守る。「テ」は手足を動かす。老化は脚から来るとか。ひたすら歩くだけで高価な薬だ。「ト」は年を考えない。若い人は「年を考えて」忠告してくれるが、生涯青春の心意気がなえたらおしまいだ。
 さて、今年の人生設計は「ナニヌネノ」。「ナ」は無くて七癖と言われる自分の個性を確認し、伸ばすべきを伸ばし、削除すべきものを切る。「ニ」は逃げないで恥も忘れて挑戦する。初めから逃げ腰では幸福にも逃げられる。「ヌ」はぬるま湯につかったゆったりした気分を保つ。「ネ」は眠りこそ明日の活力源、寝るほど楽はながりけりの実践だ。「ノ」は野菊のような彼女に出会うこと。かなわなくても期待だけで甘美。”(1月14日付け朝日新聞)

 中津川市の林さん(男・77)の投稿文です。これが77歳の人の文か・・・まさに脱帽である。1年の目標をタ行だのナ行だのにかこつけて定める。これを考えるだけがまずひと仕事だ。それも納得できるものでなければならない。結果は見事なものだ、どれを取っても唸らざるを得ない。
 「タ」はもうボクにもない。しかし「ト」は常に持ちたい。「テ」は無理もなく実践しているので気にすることはない。「ニ」も心がけたいことであるが、難しい。「ノ」に至っては感服である。ボクにこの力量はない。でも大いに参考にしたい。

(第1055話) 天国からのお年玉 2009,1,23
 “師走の慌ただしい夕方のこと。九月十四日に肝細胞がんで入院、五十四日目であっけなく七十歳で亡くなった主人のところへ、思いがけず、福祉課の方が民生委員の活動費を届けてくれました。日々寂しさの中、家族も私も仕事に復帰して、少しずつお父さんのいない生活のリズムができはじめたころの出来事でした。主人は民生委員を志し半ばでリタイアしたものの、最後まで気に掛けていました。大切な思いのこもった活動費です。
 早速仏壇にお供えして、孫や娘たちに「天国からのお年玉」として、元旦に渡しました。寂しい新年を迎えて思いもかけないお年玉。受け取った孫たちは「びっくりしたよ」「なんで?」と。娘たちは涙ぐんで「お父さんありがとう」と喜んでくれました。よかったですね、お父さん。今年はどんな年になるでしょうか。孫たちの成長を楽しみに、皆で力を合わせて頑張っていきますよ。
 私も一月末に退職します。これからも健康に気を付けて、毎日のうれしかったこと、喜んだことを書く「よろこび日記」を付けて、残りの人生をしっかり歩いていきます。”(1月13日付け中日新聞)

 蒲郡市のパート・高橋さん(女・68)の投稿文です。悲しみがまだあけぬ中、思いがけなく亡くなった人の報酬が届けられる。この報酬をどう受け取り、扱うか・・・高橋さんの「天国からのお年玉」として子供や孫に渡されたのは、実に機転の利いたものだったと思う。ほのぼのした暖かさを感じる。
 ボクはこの投稿文でもう一つ心引かれたのは「よろこび日記」という言葉である。愚痴や面白くないことは書かず、毎日の嬉しかったことや喜んだことだけを書く日記であろう。いささか偏った日記であるが、こんな日記もあるのだ。日記は個人のものである。よほどの著名人にもならない限り、公表されることもなかろう。悪口だろうと批判だろうと何を書こうが自由である。その自由な日記に高橋さんは喜び事だけを書かれているのである。実はこれは非常に優れた方法であるのだ。2004年12月23日の「(「話・話」第151話)日記術」を読んで頂くと、向後千春早稲田大学助教授の「できるだけ嫌なことは書かずに、楽しい思い出やエピソードを書くようにします」と言う文が書かれています。これが継続する秘訣なのです。これを高橋さんは「よろこび日記」として書かれているのだ。「話・話」も「よろこび日記」のようなものだ。だから続いているのだ。

(第1054話) 夕刊 2009,1,21
 “小雨がパラパラ降っている夕方帰宅した。冬の六時はもう暗い。夕刊を取り出し、家に入って包まれたビニール袋から新聞を取り出したところ、上部が10cmほどぬれているのに気が付いた。配達の時に一時的に強い雨が降ったためか、ビニールにもまだ小さな水滴が多く残っていた。完全密封されていないところから侵入したようだ。少しぬれていても、別に文字が読めないわけではないので「まあいいか」と納得し、そのまま夕刊を卓上に置き夕食の章備にかかった。
 しばらくすると、玄関でチャイムの音。そこにはいつも新聞を配達してくれている兄ちゃんが立っていた。「すみません。夕刊がぬれてしまって。交換に来ました」と申し訳なさそうな顔でペコンと頭を下げた。私はびっくりして「わざわざすみません」とお礼を言い、新しい夕刊と交換していただいた。
 販売店から3キロ以上もある寒い夜道を、バイクで届けてくれるとは思いも寄らなかった。年齢とともに感激が少なくなりつつあるが、心が温かくなり感謝の気持ちでいっぱいになった。その夕刊を読んでいると、活字がほほ笑んでいるようだった。”(1月6日付け中日新聞)

 豊橋市の野沢さん(男・67)の投稿文です。少し以前までは、雨の日の新聞は濡れていても仕方がないと思っていた。あれだけ重い新聞を抱えて雨の中を走り回れば、濡れるのも当然、それでもご苦労さんと思っていた。しかし、最近そんな日は必ず袋に入れられている。濡れて当然と思わない配達の関係者があったのであろう。ありがたいことである。配達する人も濡れることに気を遣わなくてよくなって少しは楽になったであろうか。
 少しの濡れを気にして取り替えに走る、これも仕事に対する責任感であろう。してもらって嬉しくないはずはない。その気持ちがこの投稿になる。感謝を形で表す、これも大切なことである。

(第1053話) 投稿33年 2009,1,19
 “本紙に初めて投稿したのは、1975年7月のことである。「夏休みは継続のよいきっかけ」という発言だった。それが掲載されて原稿料は1000円だった。現金から図書券・カードと変遷はあるが、今でも1000円に変わりがないのが面白い。
 以来、投稿を続けて33年ほどになる。その投稿数は800余編でファイル7冊を数える。その中で掲載されたのは249編で、そのすべてを保存している。
 今年は傘寿を迎える。ちょろどよい節目でもあり、記念事業?として「投稿文集」を作りたい。それが私の新年の決意である。今その準備として、内容となる目次と本の体裁などを楽しみながら考えている。これまで行ってきた投稿を年を追ってまとめ、その折々の世の中の動きが見えるような貴重な一冊にしたい。”(1月4日付け中日新聞)

 岡崎市の市川さん(男・79)の投稿文です。今回も継続の成果の話である。33年の間に約800編投稿され、249編が掲載されたという。月2編投稿された計算になる。新聞の投稿は多くの方の目に晒す。書くにもかなりの気配りと勇気がいる。この「話・話」も多くの方に見られる可能性はあるが、現在のところそんなに多くの方ではない。新聞とは比較にならない。それが33年間である。そして、投稿文集ができるほどになった。こだわりであろうか、継続の成果である。
 投稿欄を見ると時折見かける名前に出会う。ひとつの楽しみ、生き甲斐にされているのであろう。前向きな姿勢であるだけに評価したい。

(第1052話) 日記読み返し 2009,1,17
 “小学校6年生の時の担任の先生に勧められて書き始めた日記は、大みそかで48年になる。今年は60歳になる節目の年でもあり、47年分の記録を最初から読み返そうと意気込んでいる。
 ページ数に制限を付けずに書いてきた大学ノートは何冊あるかも分からず、押し入れを探すのも面倒だと思い、今まで手をつけずにいた。健康に恵まれ、平凡な人生を送ってきたが、これまでの人生の半分以上を過ごしてきた教員時代にはいろいろな思いが詰まっているし、若い頃にはつらいと思うことも多かった。それらをどのように書いて乗り切ってきたのだろうと、中年になった今ゆとりの気持ちで読み返してみたい。
 表紙に番号と日付を書いていこうか、赤ペンでラインを引きながら読もうか、全部のノートを積み上げ写真を撮ろうか、それとも、読んだページから破り捨てて早めの身辺整理にとりかかろうかなど、読み方を模索している。順調に読み進められるかどうか、見当もつかないが、還暦を迎える8月ごろには目標を達成したい。”(1月1日付け朝日新聞)

 各務原市の主婦・中島さん(59)の投稿文です。またまた日記の話である。1月5日の「(「話・話」第1046話)日記つけましょ委員会」で、日記などあまり読み返すことはない、と書いたばかりであるが、今回はその日記を読み返す話である。60歳の節目の年に今までの日記を読み返そうというのである。それもなまじっかな日記ではなく、また47年分という。これを整理しながら読むのは大変な作業になるであろう。でも大変な作業になるほど書き上げられたのである。月日というものは、継続というものは素晴らしい結果を生み出すものである。読まれた後の心境も知りたいものだ。
 日記を書くきっかけは小学生の時の先生の言葉と言われる。それが今や60歳、多分中島さんは亡くなるまで続けられるだろう。後30年はある。先生の言葉の重さを知る。多分先生の日記の勧めは多くの生徒が聞いたであろう。その言葉をどのように受け入れたか、中島さんのように正面から受けとめたか、聞き流したか、結果は大きな違いとなる。小さい時の親や先生の言葉は大きな影響を及ぼす。十分に心したい。

(第1051話) 人生の再出発 2009,1,15
 “これまでの六十年間の人生で、今年くらい自分が変わったと感じる年はない。今ツナギ(作業服)を着て仕事をしているが、去年の今ごろのスーツ姿の私からは想像できなかった今の自分である。
 私は今年の三月、市役所を退職して廃棄物を扱う会社に再就職した。公務員、それもデスクワークしか経験のない自分が民間で勤まるのか、不安いっぱいの再スタートであった。幸い、トップや同僚の温かい目に見守られて九ヵ月がたとうとしている。私の希望で重機の資格も取得、時々壁に穴をあけるが一日の半分くらいは重機と格闘しながら、いい汗をかいている。
 還暦を迎え、人生の下り坂をゆっくり下っていくような気持ちを抱き始めていたが、最近では二つ目のエンジンが点火したような心境だ。私は人生の分岐点ではいつも幸福の女神がほほ笑んでいるように思えてならない。”(12月31日付け中日新聞)

 半田市の会社員・公平さん(男・60)の投稿文です。日本の多くの企業には定年退職という制度があり、大半の人は退職を余儀なくされる。そして、退職すると生活が一変する。悠々自適家庭生活に入る人、趣味やボランティアに道を見つけ出す人、第二の勤めに出る人等様々である。特に第二の勤めに出る人の職種、立場、勤務形態等はいろいろである。
 公平さんはデスクワークから現場の仕事に転職された。頭脳的仕事から肉体的仕事である。この変化は大きい。年を経ての肉体的仕事への転職だから、不安はいっぱいだったであろう。それを9ヶ月たって、二つ目のエンジンに点火したような心境と言われる。そして「人生の分岐点ではいつも幸福の女神がほほ笑んでいるように思えてならない」といわれる。幸せな転職であった。恵まれた転職であった。でもそれは公平さんの心構えによるところも大きいと思う。自分から重機の資格を取るなど積極的であった。何事もまず心構えによるところは大きい。ここまでと思えばここまでだし、まだまだと思えばその先はある。「果報は寝て待て」という言葉もあるが、これとて何もせずに待っておれと言うことではなく、やるだけやって待てと言うことである。まずは「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」(上杉鷹山)という精神であろう。この精神はいくつになっても変わることはない。そして「人間万事塞翁が馬」のごとく、一喜一憂する事なかれである。

(第1050話) ボケ防止 2009,1,13
 “老人医療の専門家、フレディ松川さん(62)の近著『フレディの遺言』(朝日新聞出版)を読んだ。前半の「遺言」は、自分が認知症になった時を思い、家族やヘルパーヘのお願いをあれこれ連ねたもの。後半は医師として、介護や予防の勘所を説く▼〈私の目をしっかりと見て、優しい声で話しかけてくれたら、きっとあなたが大好きになります〉〈私の心が寂しいとき、私が若いころに大好きだった曲を聞かせてください〉。温かな挿絵を交えた短文は切なく、哀しい▼だがこれらは、記憶がこぼれ始めてからでは伝えられない。約2千人を看取った経験が紡ぎ出した、声なき伝言といえる。理解しがたい言動を目の当たりにした時、叱れば患者はおびえ、症状が高じかねない。逆に優しく接すれば、軽度に保つこともできるという▼予防では、ぼけたらどうしようとクヨクヨ案じるのが一番悪いそうだ。先生のお勧めは、友だち、散歩、ありがたいことに活字。活字の朗読はさらに効果的らしい。ここまで読まれた方はもう一度、大きな声でいかがでしょう。”(12月25日付け朝日新聞)

 天声人語からです。この文は、「刑事コロンボ」で知られるピーター・フォークさんや、元女優の南田洋子さんが認知症に患っておらることに関して書かれたコラム欄の一部です。テレビで放映された長門裕之さんが南田洋子さんを介護してる番組はボクも見た。
 先日も特養でお世話になっている両母を見舞った。そしていつもながらここで過ごされているお年寄りを見ると、人生の終末について考えさせられてしまう。ただ寂しい気持ちだけで見てはいけないことは分かっているが・・・・。これは宿命なのだ。知ることを知り、やれることをやって、その後の宿命なのだ。その知ることを知り、やれることをやるひとつの方法が、この文の後半の知恵である。周りの人は優しく接し、本人は散歩や活字に接し明るく生きる。その結果の呆けるか呆けないかは人ごとでいいのだ。そう言うことであろう。

(第1049話) 耐え難きを耐える世代 2009,1,11
 “森光子さんの中日劇場公演「放浪記」が終わった。関係者一同、胸をなで下ろした。八十八歳の高齢だけに、ちょっとつまずいただけでも大変なことになる。その森さんが公演中、足の痛みを訴えた。「歩けない」と。
 すぐ病院へ。エックス線を撮り、検査。何事もなくて、ホテルに戻った。翌日、森さんは普段通り舞台を動き回った。楽屋ではまだ痛そうにしていたそうだ。それが舞台ではスックと立つ。役者魂ここにあり、だ。
 御園座では「松井誠特別公演」に朝丘雪路さんが出演。楽屋を訪ねたら、「足が痛くて、正座しにくいの」とおっしゃっていた。朝丘さんも終演後、すぐ病院へ。
 検査の結果、足じゃなくて背骨がずれているためと判明した。しかし、舞台は休まず、最終日の二十一日まで出演を続けた。朝丘さんももう七十三歳。昔の人といっては失礼だが、お二人とも体も根性も鍛え方が違うのだろう。見習いたいものです。”(12月22日付け中日新聞)

 「エンタメモ」という記事欄からです。こうした行為ができるのは筆者が言われるような鍛え方であろうか、それとも気構えや責任感であろうか、その他のものであろうか。ここら当たりの人になると、もう凡人の範疇ではないので、僕らと比較できるものではない。とはいうものの、同じ人間である。
 先日、NHKのドラマ「フルスイング」を見ていたら、元プロ野球コーチ高林導宏氏は「気力」を説いていた。そして「気力とはあきらめない心」とも言っていた。名を成した人というのは何か心に期した信念があるのだろう。
 恐れながらボクにもある、それは「継続」である。ウォーキングも川柳も日記も、またこの「話・話」も・・・・でも、事が違い過ぎる。

(第1048話) 高校三年生 2009,1,9
 “作曲家遠藤実さんの訃報には、本当にびっくりしました。高校へ入学したばかりの不安な時期、突如として「高校三年生」がテレビやラジオで流れたのです。
 でも最初のメロディーは、今のものとは似ても似つかない曲だったといいます。東京オリンピックの前の年でもあり、もっと軽快なリズムの方がいいということになり、十分足らずで作曲し直したということです。
 以来四十数年、舟木一夫さんのコンサートにはなくてはならないものになったのです。舟木さんいわく、「これは私の歌ではなく、皆さんの歌です。私は代表して歌っているだけです」と。その通りかもしれません。
 その曲はイントロが流れると、自然に手拍子が出てきます。青春がよみがえり、元気をくれるのです。舟木さんもすごいですが、遠藤先生はもっとすごいと思います。遠藤先生ありがとう。”(12月21日付け中日新聞)

 愛知県刈谷市の主婦・川松さん(61)の投稿文です。僕らの年代には「高校三年生」に思い出のある方は多かろう。ボクにはボクの高校3年生の時に世に出た曲である。しかも舟木一夫さんはボクの住む一宮市出身である。知り合いに舟木さんと同級生の人もいる。
 大学時代、休みに旅行などして出身地を聞かれ「一宮市です」というと「舟木一夫の出身地ですね」と良く言われ、びっくりしたものである。一宮市=舟木一夫くらいの感じであった。この歌を始め「修学旅行」「学園広場」など実に歌いやすく、音痴のボクでも良く歌った。これは国民栄誉賞を受けられた作曲家の遠藤実先生に負うところ大であろうが。舟木さんが「これは私の歌ではなく、皆さんの歌です。私は代表して歌っているだけです」といわれていると言うが、この言葉は謙遜もあるが、そればかりではないと思う。多くの人がそれほどに歌い、親しんだのだ。
 人それぞれにこんな歌があるだろう。歌と共にある時代を語る、それは喜ばしいことである。ボクは久しくカラオケも行っていない。今度行ってこんな歌を歌いまくり、青春を懐かしもう。そうしたら渋い顔をされるだろうか。

(第1047話) 覚悟の上 2009,1,7
 “「覚悟の上でみえたのですか……」初診の診察室で医師が私に聞いた。私は「はい」と答える。がん告知の2時間前の会話である。レントゲン撮影と超音波診断の結果を受け、医師は私に答えを告げた。70年も生きてきた私である。何があってもあわてることはないと、日ごろから心に決めている。過去にはアナフィラキシー・ショック(急激なアレルギー反応)で数回、死の淵をさまよいながらも今、生きている。がんともお付き合いさせていただこう。
 しかし、自分にとっての反省点があるはずである。還暦後の10年を振り返ってみた。生活環境が変わり、生きがいとする趣味に没頭し、体へのいたわりに欠けていた気がする。「肉体は正直に老いている」「気力だけが先行してもだめですよ」と、どこかでささやいてくれているようである。病はすべて「早期発見早期治療」が生き方上手と実感し、この一年が終わる。”(12月26日付け朝日新聞)

 岐阜県瑞浪市の河端さん(女・70)の投稿文です。がんの治療法は格段に進歩してきているが、まだまだ難しい病気である。がんといわれればある程度覚悟しなければならない。河端さんは診察を受けられ、がんと告げられることを覚悟して医師の前に座られた。「70年も生きてきた私である。何があってもあわてることはないと、日ごろから心に決めている」と言われる。でも、いざがんを告げられてその言葉通りにできるであろうか。でも、河端さんは言われる通りに、落ち着いて対応された。それは、以前にも生死をさまよわれた経験があるからかであろうか。70年生きてこられた納得であろうか。
 ボクは未だ生死をさまようような病気も怪我もしたこともない。こうして「話・話」などでいろいろ勉強させてもらっているが、がんを告げられて冷静におられる自信はない。
 実は妻の妹(56歳)が昨年12月に乳ガンの摘出手術を受けた。他に転移していることも分かり、年明けから抗ガン剤治療が始まった。昨年の今頃は何も言っていなかったのに。ボクの身近でこんな話が始まったのだ。ボクはまだ70歳に時間があるとはいうものの、何があってもそろそろ覚悟できるようにしておかねばならない。難しいことではあるが、今年の課題としたい。

(第1046話) 日記つけましょ委員会 2009,1,5
 “日記を開いたら、見知らぬ文字で、こう書いてあった。
 「こちらは日記つけましょ委員会です。あなたは小学生の時から三十年、欠かさず日記を書いてくれました。その努力を讃え、あなたに、好きな日をもう一回過ごす特典を与えます。では、日記を読み返し、好きな年月日を書き込んでください」
 ぼくは押し入れから古い日記帳を探し出し、ぺらぺら、めくっていった。どの日がいいかな? 学校時代? 仕事をはじめた時? それとも結婚した時か・・・子供が生まれた時かな? 三十年分の日記を読み返してから、ぼくは、日記に、こう記した。
 「日記つけましょ委員会さん、もう充分です。一日分だけでなく、三十年間の日々を過ごすことができました。ありがとう」”(12月21日付け中日新聞)

 300文字小説から、愛知県南知多町の石黒さん(女・34)の作品です。30年分の日記を読み返すことで、結果30年分の日々を過ごすことになったしまった。味のある話である。この話は「話・話」第1話に通じる話である。
 日記は読み返すものであろうか。まずは書きっぱなしである。でもそれで十分に日記を書く効用はあるのである。書くことで1日を振り返り、反省し、気分を落ち着かせる。ボクが日記を読み返すのは、3年通用日記を使用しているので、その日記帳の前年、前々年に書いたもの位である。今年から新しい日記帳であるので読み返すものがないのは少し寂しい気がする。
 今年から意を決して日記をつけ始められた人もあろう。日記についてはこの「話・話」で何度も話題にしている。第103話、第151話、第711話などを読み返していただくと良いだろう。

(第1045話) 50年目の贈り物 2009,1,3
 “先日、七歳年上、七十五歳の妻の指に視線がいったとき、指輪がないことに気付きました。私と妻は結婚届は出しても、結婚式はしていないので結婚指輪はないのです。
 当時、私は十八歳で給料は子供の小遣い程度でした。小さい家庭を維持するため、時間外も働き通す会社勤めの日々。妻は育児をこなし、わずかなお金て家計のやりくりをしていました。
 定年退職から八年過ぎて、精神的にも見る範囲は広くなったのに、妻の指先に注ぐ視線は遅過ぎました。早速、妻と同伴で店に行き、妻の気に入ったリングの指輪を注文しました。二週間後、私は出来上がってきた指輪を、妻の左手薬指にはめました。妻の喜びはひとしおでしたが、私には、妻のしなびた指が五十年の歳月を耐え忍んだ苦労の証しに見えました。目頭が熱く熱くなりました。”(12月20日付け中日新聞)

 春日井市の浅井さん(男・68)の投稿文です。またまた唸るような夫婦愛です。結婚50年にして、奥さんの指に指輪がないことに気づき、買ってきてはめる。普通なら、気づいてもそれまでのことだろうが・・・・。浅井さんの場合は、金婚式が新たな始まりと言うことになろうか。結婚式に買うのは、ある程度当たり前であるが、結婚50年にして始めてと言うことだから、奥さんには感激はあまりあるものがあろう。全く味のある行為をする男性があるものだ。
 ボクの妻も指輪をはめていない。ボクも浅井さんの行為をまねてみようか。金婚式までにはまだかなりの年数がある。この話を覚えておられるであろうか。まず無理な気がする。でも、今年1年位のことは覚えておられるであろう。年の始めに、密かに何かを企てるのも良かろう。

(第1044話) 3個と20個 2009,1,1
 明けましておめでとうございます。今年もいい話を提供していきたいと思います。

 “ある晩のこと。六歳の長男が「今日はサイテーな日だった」と暗い顔をしていました。理由を尋ねると、大切にしていた風船を誤って割ってしまったことに始まって、嫌なことが三つもあったと言うのです。
 そこで「じゃあ良いことはいくつあったの?」と質問してみました。すると、思いがけない問いに戸感った様子でしたので、一緒にその日一日の「良いこと」を数えてみることにしました。
 「まず、朝、元気に起きられたでしょう」「朝ごはんをおいしく食べられたでしょう」・・・。という具合に、朝から晩までささいなことを数えていきました。すると、なんと二十個も良いことがありました。「三個の嫌なことと、二十個の良いこと、どっちが多い?」と再び聞きました。息子は「二十個!じゃあ良い日なんだね」。いつもの笑顔に戻っていました。
 今の子はいろいろな意味で恵まれていますが、当たり前のように思っていることにも幸せを感じられるような子に育ってほしいと思います。”(12月29日付け中日新聞)

 蒲郡市の松本さん(女・37)の投稿文です。6歳の子供との会話ですが、新しい年の第1話にふさわしい話と思って紹介します。「良いこと探し」はまさに「話・話」のテーマです。
 人間生きていれば、多分当たり前の良いことがいっぱいのはずです。ご飯ひとつ食べるにしてもいろいろな恩恵を受けていますから。人間当たり前以上のことにしか幸せを感じません。その当たり前に感謝し、幸せを感じられれば幸せいっぱいです。幼い子は素直です。そんなことを教えられる松本さんも幸せですし、良い母親です。
 寿命が残り少なくなった僕らは、より原点に戻り日々を過ごしていかねばと思います。「話・話」を書きながら、良い日を感じながら今年も過ごして行きたいと思っています。


川柳&ウォーク