ha0811

第55号  2008年11月

(第1027話) 父からの便り 2008,11,29
 “岐阜市にお住まいの名知あやさん(30)の父親は、学校の先生をしていた。そのため、幼いころからほとんど一緒に旅行に出掛けた記憶がない。それどころか、父親は勤め先のことが優先で、名知さんの学校の行事にも参加できなかった。それが原因で、いつしか、なんとはなしに父娘の間にぎこちなさを感じるようになっていた。
 名知さんが大学生活のため、京都で初めてのー人暮らしを始めた時の話。入学式の当日、父親からはがきが届いた。新しい環境への不安と戸感いに、早くも心が疲れていたところだった。冒頭には「愛するあやへ」と書かれてあった。家族の近況の後、風邪をひかないようにと結ばれていた。ただそれだけの内容だったが、涙が止まらなくなった。
 この後、来る日も来る日も父親からはがきが届いた。父親からのはがきは、4年間でなんと500通を超えた。あれから10年。結婚して来春には赤ちゃんが生まれる予定だ。「父親と同じように子供を愛していきたいです。それが父からもらった愛情のお返しだと思います」と。父からの手紙は、今も宝物だという。”(11月16日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。父親が娘に4年間で500通の手紙、愛情の示し方はいろいろあるものである。普通にはよほどの必要がないかぎり、父親が娘に手紙を出すことはないのであろう。ボクなど出した記憶がない。それが4年間、3日に1通である、敬服する父親である。それを娘さんはキチンと受けとめ、その手紙は宝物だという。真心は通じるものである。
 教師は父兄に向かって、子供とのふれあいの必要性を説く。しかし、それを説く教師にその時間がない。父兄に見本を見せねばならないのに自分の子は放ってある。名知さんのお父さんもそうだった。何かおかしい。

(第1026話) 全盲ろう教授 2008,11,27
 “東京大先端科学技術研究センター准教授(バリアフリー論)の福島智さん(45)が教授に昇進した。福島さんは目と耳が不自由な全盲ろう。福島さんによると、全盲ろうの大学教授就任は国内初で、世界でもまれだという。
 「バリアフリーの研究拠点を東大につくることと、全国に約2万2千人いる盲ろう者が訓練やケアを受けられる『日本版ヘレン・ケラー・センター』の設立が次の目標」と抱負を語った。
 福島さんは9歳で失明18歳で聴力も失った。手の甲を上にした盲ろう者の指を、点字タイプのキーに見立ててタッチし言葉を伝える「指点字」を母親が考案。このコミュニケーション方法で受験を克服し東京都立大(現首都大学東京)に入学。大学院にも進み、金沢大助教授を経て2001年、東大の助教授(当時)に就いた。
 専門のバリアフリー論は、思想や法制度などを含め、人と社会を取り巻くさまざまな障壁が研究対象。講義では指点字の通訳を介して学生たちの声を聞く。妻は結婚生活をつづった書籍も出版した光成沢美さん(39)。昇進を喜びつつも、福島さんの体を気遣っているという。”(11月15日付け中日新聞)

 記事からです。称賛の気持ちで「(第1021話)足でつかむ夢」を紹介したところであるが、またまた凄い人があったものである。全盲ろうで東大教授である。どれだけの努力があったであろう、想像を超える。
 お母さんが「指点字」なるものを考案されたのも凄い。「必要は発明の母」という言葉もあるが、まさにそれを行く母である。この母にしてこの子ありだろうか。
 専門がバリアフリー論であると言うことだが、身を持っての研究だけに説得力もあろう。今後の活躍を楽しみにしたい。

(第1025話) 驚きと嬉しさ 2008,11,25
 “週四日ですが、朝二時半に起床して、百九十部余りの新聞をバイクで配っています。店を出発してから配達区域の一軒目まで、バイクで走らせる間は、さすがに首をすくめたくなる冷え込みを感じる季節となりました。
 先日、配達先のYさん宅の前で、キーがささったままの車を見つけました。キーのあった状態を簡単に説明書きしたメモとそのキーを、新聞と一緒に郵便受けに人れておきました。
 この秋、初めて吐く息が白く見えた日で、まだ真っ暗な午前四時前のことでした。いつも通りバイクを走らせていると、Yさんが玄関先に立っていたので驚きました。「先日は、キ−の件でありがとうございました」わざわざお礼を言いに外で私を待っていてくれたのでした。思いもかけなかったので、うれしくて、心がポカポカになり、軽やかに残りの新聞を配り終えました。
 それまで面識のなかったYさんですが、明日からは、Yさん宅に届ける時、あの優しいお顔を思い出しながら手渡しする気持ちで、新聞を届けたいと思いました。”(11月15日付け中日新聞)

 「くらしの作文」から、愛知県豊明市のライター・藤江さん(女・34)の文です。第1024話に続いて、また言葉の力の話です。藤江さんはキーをさしたままの車を見て、危ないなと感じ、車のキーを外し、メモと一緒に郵便受けに入れておいた。Yさんはその行為に感謝し、早い時間に起きて待ち、感謝の言葉を伝えられた。藤江さんの心はぽかぽかになった。言葉の力は大きい。
 藤江さんやYさんの行為はさほどのことでもないようにも思えるが、その場に立ったとき、そのまま通り過ぎないだろうか、早く起きて待つことをするだろうか、ボクにそうするという自信はない。余分なことはしない、紙片などで済ますなど安易に流れる方が大きい気がする。藤江さんやYさんの行為を頭に入れておきたいものだ。その気になれば誰もができることである。

(第1024話) とろろ汁 2008,11,23
 “今月22回目の結婚記念日を迎えた。感謝を込めて夕食は「ちょっと気合を入れて作ろう」と思ったが、ふと夫が今一番喜ぶ料理はなんだろうかと考えた。真っ先に浮かんだのは、2人で掘った自然薯。とろろ汁に決めた。
 すり鉢でひたすらすった。粘りがまとわりつき、すってもすっても終わらない。だし汁を少しずつ入れながらすりこぎでのばす作業を繰り返しながら、結婚生活を振り返った。夫には、ずっと大きな心で見守ってもらっている。自然薯掘り、干し柿や栗きんとん作りなど自然と向かい合うこと、ゆったりと時間・空間を楽しむことを心穏やかに教えてもらった。
 どれくらいすり鉢と向かい合っていたかは、覚えていないが、「この味だ」と納得できた時、見計らったように夫が帰ってきた。夫の満面の笑みを見ることができ、とても柔らかな時間を感じながら、記念日を迎えられたことに感謝した。”(11月11日付け朝日新聞)

 四日市市の会社員・柿野さん(女・46)の投稿文です。結婚22年、とろろ汁を作りながら、今までの結婚生活を振り返る。「自然と向かい合うこと、ゆったりと時間・空間を楽しむことを心穏やかに教えてもらった」という言葉始め、「大きな心」「やわらか時間」などの言葉にも感心する。結婚生活を見つめながらこんな言葉を自然に言える夫婦はどれほどあるであろう。何とも穏やかな夫婦像である。
 ボクの妻は町育ちで、結婚するまで野菜作りなどしたことはない。今では、ボクが言わなくても草取り位は自分からするし、ボクの手助け位はできるようになった。ここまでは柿野さんとほぼ同じであろうが、その後は大違いだ。
 ボクもとろろ汁は大好きで、長芋を沢山作り、今の時期からは毎晩のように食事に出てくる。でも柿野さんと違って、すりこぎでするわけではなく、すり下ろし器でするだけである。自然薯と長芋ではまず芋自身の粘り気の違いがあるが、作り方がますます粘り気の違いを起こす。わが家のとろろ汁はあっさりとしていて、粘りがまとわりつくなどと言うことはない。これは愛情そのままの現れだろうか・・・しかし、自分が蒔いた種だから納得せざるをえない。また、妻はゆったりとした時間・空間を教えられたとは間違っても言わないだろう。柿野さん夫婦には全く感心せざるをえない。

(第1023話) 言葉のふりかけ 2008,11,21
 “家族の弁当作りに毎朝奮闘中の主婦たちの集りで、どんな弁当が家族に好評だったかを聞かれ、ある主婦が、こう答えた。
 「私、すごいことを発見したんです。白いご飯にふりかけをかける時に、言葉もー緒にふりかけてみるの。そうしたら、どんなに手抜きのおかずの日でも『今日の弁当おいし かった』って言われるのよ。不思議でしょう」「えーっ? 信じられない。本当に? どんな言葉をかければいいの?」「本当よ。でもね、どんな言葉がいいかは、自分で見つけないと効果がないの」
 さあ、あなたなら、どんな言葉をふりかけますか?”(11月9日付け中日新聞)

 300文字小説から、豊田市の主婦・小木曽さん(46)の作品です。2004年7月18日付けの「(第18話)言葉は力なり」と同じような話である。18話は花に言葉をかける話であるが、切り花に効果があれば、弁当にも効果があることは間違いがないだろう。本当に言葉の力は凄いのである。「どんな言葉がいいかは、自分で見つけないと効果がないの」と言う小木曽さんの落ち?もうまい。確かに言葉は当事者同士で分かち合えること、他人にはうかがい知れない。
 ボクも長いこと弁当を持って通勤していた時代がある。どんな言葉がふりかかっていたのだろう。おかげで無事勤められたのだろうか。

(第1022話) アートエリアロード 2008,11,19
 “道路に背を向けて、歩道にすっと立っているブロンズ像。北名古屋市徳重の県道名古屋江南線を北へ進んでいると、車窓から見えてくる。本格的な美術作品のようだが、なぜこんな車がせわしなく行き交う場所に設置されているのか。気になって調べてみた。
 「それは合併前の旧西春町の景観づくり事業の一環です」と同市の担当者。街角にモニュメントを設置し、住民に気軽に芸術作品と親しんでもらい、潤いと安らぎを感じるまちづくりにつなげるのが目的という。
 旧西春町は、1990年に名古屋芸術大と協定を結び、同芸大北側の市道(当時は町道)豊山西春線の一部1.5kmを「アートエリアロード」と名付け、同芸大の教員や学生の作品など16基を順次、整備した。その後も、県道名古屋江南線沿いの歩道や文化勤労会館(同市法成寺)などに設置。これまでに、各所にブロンズや石などで作られた作品41基が置かれている。
 この事業は、06年3月の北名古屋市合併後も引き継がれ、名鉄西春駅東側にも2基のモニュメントが設置された。ことし10月、同市と同芸大は教育やまちづくりなどの幅広い分野で連携する協定を締結。同市は「協定の一つの柱として、この“屋外ギャラリー”をさらに発展させたい」と話す。”(11月9日付け中日新聞)

 一部省略していますが、記事からです。旧西春町内の歩道にブロンズ像が設置され、それに名古屋芸術大学が協力していることは以前から知っていたが、こうした詳しい経緯は知らなかった。大学も構内に留まっておらず、外部に働きかける時代になっている。名古屋芸術大学のこの協力はもう20年になると言うことだから、こうした行動の先駆けと言っていいだろう。大学を地域に持つと言うことはいろいろな面で大きな効果を生む。
 実はこの記事がボクに及ぼした効果も大きい。この掲載された日、来年の一宮友歩会2月例会の下見を行うことにしていた。その例会は旧西春町内の史跡巡りを計画したものである。記事の中にある「アートエリアロード」も歩くことにしていた。この記事を読んでより興味を持って出かけた。そして、予定していた距離を延ばして1.5kmほぼ全線を歩くことにした。ブロンズ像の写真もほとんど撮ってきてホームページに掲載した。全くタイミングの良い記事であった。こういう偶然は痛快だ。

(第1021話) 足でつかむ夢 2008,11,17
 “交通事故で4歳の時に両腕を失った愛知県西尾市西尾中学校教諭、小島裕治さん(28)=同市中畑町=がパソコンのキーを足でたたいて半生をつづった「足でつかむ夢−手のない僕が教師になるまで」を出版した。
 ダンプカーにはねられた悲惨な事故を振り返る「天国に行った僕の両手」から「非常勤一最後の授業」までの38章で構成。教員採用試験に合格した昨秋から今夏までに書き上げた。
 英語教師を志したのは、名古屋外国語大(愛知県日進市)在学中のニュージーランド留学がきっかけ。現地の小学生との交流で「こんな僕でも何かを伝えることができるんだ」と気づいた。採用試験に何度も挑み、一年間の非常勤講師を経て、今年の春から西尾中で教壇に立っている。本には座ったまま足を高く上げ、足の指に挟んだチョークで黒板書きする写真も収録した。
 「僕は事故で両腕を失いました。だけど、夢は失いませんでした」と小島さん。「両手は人を傷つけたり、不幸にしたりするためにじゃなく、困っている人のため、そして自分の夢をかなえるために使って」と訴える。”(11月6日付け中日新聞)

 記事からです。生まれつき両腕両脚がない「五体不満足」の乙武洋匡氏が有名であるが、それと同類の話です。と言って、それで済まされる話ではない。それまでの苦悩や努力は並大抵のものではなく、ボクなどが軽々コメントできるものではない。
 この文章の中で気になったのは、最後の方の「両手は夢をかなえるために使ってください」の言葉です。両手がない人の言葉だけに実感があります。小島さんにしてみれば、両手を持ちながら無駄に使っている人を見られたらイライラされるでしょう。もったいなくてたまらないでしょう。これは両手ばかりではありません。足も頭も目も耳も、持てる五体を十分に活用してくださいと言うことでしょう。五体満足であればそのことを忘れ、健康なればその健康を忘れ、ないもののことをこぼす。こぼす前に、あるものを十分に活用しているのか、それを問われた気がします。活用できるのも生きている間です。ボクなど恥ずかしくなってしまう。

(第1020話) ギンナン 2008,11,15
 “隣のお宮さんにとっても大きなイチョウの木があります。見上げると、これ見よがしにたわわにギンナンが実り、「秋が来たよ」と存在感を示しています。肥やしがあるわけでもなし、歩き回った土は硬く、それでいて毎年小粒ながら、「不作」という言葉を知らないかのように数々のおいしい実を結びます。
 春から夏にはいっぱいの緑をいただき、秋にはギンナンの実をちょうだいして、二重の感謝です。たまたま商店を営ませていただいていますので、掃除がてら道に落ちた実をたくさん収穫して、お客さまにおすそ分けいたしております。
 ギンナンを拾うことは簡単ですが、きれいにするまでの作業は大変。乾かして、感謝のの気持ちや酒の肴のレシピを書いた紙片と一緒に、三十粒くらいをポリ袋に入れます。毎年約三百袋を用意します。一人でも多くの方におすそ分けできればと、大木を見上げています。”(10月31日付け中日新聞)

 名古屋市の酒店経営・小川さん(男・62)の投稿文です。イチョウ、ギンナンは秋を彩る代表的な樹木である。見る分にはいいが、近くに住む人は大変な落ち葉に不平も言いたいところであろう。しかし、小川さんはうまく付き合い、感謝さえされている。掃除がてらギンナンを拾い、手入れをしてお客様にお裾分けをされる、いい知恵である。
 名古屋の桜通は駅前から約1.1km区間は、幅員50mの道路にイチョウの大木が4列に並ぶ素晴らしいものだ。ボクはこのイチョウ並木の下を歩きながら出勤する。今は紅葉も始まり、落ち葉も舞い、ギンナンも落ちている。いい風景であるが、匂いには閉口する。川柳連れ連れ草の今月号は「銀杏の章」とし、この桜通のイチョウの写真を掲載する予定だ。
 さて、桜通にイチョウ並木というのは首をかしげざるを得ない。調べてみると、桜通というのは沿道に桜天神があるところから名付けられたようだ。そして、イチョウは昭和12年の汎太平洋博覧会を記念して道路整備された際に植えられたようだ。桜は検討されなかったのか、なぜイチョウになったのか、気になることである。

(第1019話) 黒部の太陽 2008,11,13
 “大阪・梅田の梅田芸術劇場で公演されていた舞台「黒部の太陽」が26日に閉幕した。1968年(昭和43年)に三船プロダクションと石原プロモーションの共同制作で公開された映画を、題材となった関電トンネル開通50周年、そして映画上映から40周年にあわせて舞台化した。映画で主役となった石原裕次郎役を中村獅童さんが、三船敏郎役を神田正輝さんがそれぞれ演じ、舞台上で25トンの水を実際に噴き出させるという演出も話題を呼んだ。(中略)
 黒部の太陽という作品が、なぜこれほどまでに多くの人たちの心を引きつけるのだろうか。一つには建設当時の「黒四ダム」に対する日本全体の期待が大きかったことがある。国民は電力不足という背景からダム建設に多くの期待を寄せていた。そして、その建設には大きな困難の克服が必要だった。現在の公共事業不要論の風潮とはまったく異なった世論が、当時は存在していた。(中略)
 当時建設にかかわったゼネコンの人たちも「やり遂げなければならないという責任感で生きがいがあった」と口をそろえる。こうした人たちが積み上げた努力の結晶が、日本の建設史上に金字塔として残る黒四ダムなのだろう。当時と比較して、現在の建設産業を取り巻く状況は厳しく、そして寂しい。ある元社長は 「いまの若者にこの映画を見せたら、仕事のつらさばかり目立って逆に建設業界には来なくなるかもしれない」と話す。”(10月30日付け建設通信新聞)

 「建設論評」と言う欄からです。映画「黒部の太陽」は封切られてすぐに映画館へ見に行った。土木工学科を卒業して就職する寸前だったと思う。まさに感動の映画だった。そして先月、黒部ダムを見、関電トンネルを通った。関電トンネルでは大量の水が噴き出し工事が難航した破砕帯の位置が表示してあった。
 栄枯盛衰は人の世の常、産業も時代と共に変わる。第一次産業と同じように土木事業の衰退も激しい。本当に衰退していい産業だろうか。
 人間にはやり甲斐と共に評価も重要である。公共事業不要論の風潮の中で土木事業に意欲を見いだすのは難しい。更に、土木事業は3Kとも5Kとも言われる辛い産業である。やり甲斐をなくし、他に職があればそちらに走るのだ。
 公共事業不要論は高速道路やダム事業等大型事業に焦点を当て、それで公共事業すべて不要の風潮を作っているのではなかろうか。家から一歩外に出ようとすればまず道路を利用せねばならない。川も橋も公園も、土木構造物でいっぱいである。造った土木構造物もいずれ壊れる。壊れたままで耐えられるだろうか。また自然災害がある。これに対応する土木事業の役割は大きい。また不要論を説く人も、その人の身の回りで本当にもう十分だと思っているのだろうか。交通も安全で、災害の心配もないだろうか。いざというとき、技術も人もなかったと言うことにならなければいいが・・・。

(第1018話) 一粒の真珠 2008,11,11
 “「たった一粒の真珠でもそれをつなげば首飾りができるように、小さなことを地道に積み重ねていけば、成果が得られると信じて歩んできました」一昨日あった中日教育賞の贈呈式で、松蔭高校(名古屋市)の福田俊彦先生が述べたスピーチだ。ほかの受賞者も長年、「小さなこと」を「積み重ねて」きた先生や学校ばかり。その言葉はどれも、真珠のような深い光沢を放っていた。(中略)
 冒頭の福田先生は、生徒自身に実験をさせる化学の授業に取り組んでいる。「失敗も多く、こちらはハラハラし通し。でも、その体験から生徒たちが驚きや感動を味わい、好奇心を膨らませてくれれば」
 そう言えば、ノーベル物理学賞に決まった益川敏英さんが、文科相を相手にこんな苦言を呈していた。「子どもはみんな好奇心を持っている。それを選択式テストばかりの受験教育でつぶしてしまい、考えない人間を育てている。教育汚染だ」「今の親は教育熱心ではなく、教育『結果』熱心にすぎない」その通りだと思う。好奇心とは、可能性の別名である。”(10月25日付け中日新聞)

 加藤編集局長の「編集デスク」からです。毎年10月に行われる中日教育賞、今年も編集デスクで取り上げられた。そして、ボクも取り上げる。この賞は、長年続けてきたという実績が評価されることが多いからである。「小さな良い行為の継続」を大切に思うボクの思いと一致するのである。今年はまさにそんな話ばかりであった。一粒の真珠で価値が高いものもあるが、それは至難なことである。凡人には連ねることによって価値が生じる。連ねられれば凡人ではなくなる。だから賞の対象にもなる。今年は好奇心が加わった。好奇心は可能性であり意欲である。
 昨年の中日教育賞の話は2007年11月7日の「(第846話)生き抜く力」で紹介している。

(第1017話) 免許返納 2008,11,9
 “普通自動車の運転歴46年になる夫が突然、「免許証を返納する。バス停もタクシー会社も近いし大丈夫だよね」。青天のへきれき。「なぜ」と聞くと「勘が鈍った」の一言。最近、車庫入れで度々接触していた。若いころ、私が免許の取得を考えた折に「お前の性格では危険。時間が許せば送迎する」と説得され、断念したことがあった。私も免許を持つべきだったと抗戦。即座に承服はできなかった。
 このうっぷんを友人に訴えると、全員から「本人の意思を尊重すべきだ」と返ってきた。日を追うごとに私の心境はかわってきた。失うものは、日々の買い物、娘の職場への往復、孫にかかわる雑事、私のサークル活動など。このすべての送迎が終わる。
 一方、得るものは事故への不安が解消、車人間の夫が足で動く、維持費はゼロ、地球温暖化抑制にも貢献―など。利便性の喪失さえ受容できれば、絶対に得策だ。
 夫がリタイアして10年。車に依存の生活が大きく変わる。無理をせず、2人で自転車で出かけよう。「老老サイクリング」かな。”(10月20日付け朝日新聞)
 
 埼玉県所沢市の主婦・田中さん(73)の投稿文です。免許返納は免許取得より難しい気がする。自分では技能の衰えを感じないし、認めたくない。しかし、認めても気をつけて乗ればまだまだ大丈夫だと思う。利便性の喪失を考えると、とても返納する気になれない。そして、高齢者の事故はうなぎ登りに増えていく。最近、マスコミでもこの問題を扱う番組や記事が増えている。放置できない問題になってきているのだろう。
 田中さんは自分をよくわきまえてみえる。自分の環境の便利さを考慮してもよく決断された。ボクにはもう少し先の問題とは思うが、心構えを作っておく必要がある。
 将来、制度的に返納させる方法も生じてくるだろう。その場合、問題なのは交通環境があまりよくなく、マイカー頼りの地方の高齢者である。問題は簡単ではない。

(第1016話) 好きな言葉ノート 2008,11,7
 “大学3年生だった1978年1月から好きな言葉をノートにつけている。もらった年賀状にあった、うれしく思った言葉を書き留めたことが始まりだった。家族や友達、恩師、職場の先輩や後輩、教え子や保護者の発言に加え、本や新聞で見かけたものも書いてある。それぞれの言葉に振った通し番号は954番にまで増えている。
 以前、なかなか言うことを聞いてくれない子供が多かった学級の担任を終えた時、「いろいろな子を広い心で受け止めてくださり、ありがとうございました」と保護者から言われた時はうれしかった。私が自信をなくしかけた時、そうした励まされる言葉がぎっしりと詰まっている、このノートを見ることにしている。このノートを大切にして、心に残る言葉を増やしていきたい。”(10月18日付け読売新聞)

 青梅市の小学校教諭・吉岡さん(女・52)の投稿文です。素敵な話だ。特に若いときからは始められたのがいい。若いときから継続すれば、継続時間が長く重みをます。もう30年だ、そして、954番にもなる。一朝一夕にはならない。
 良い言葉を書きためる、自己研鑽のひとつの手法である。多くの人が記憶としてされていることであるが、人はすぐ忘れるものである。是非メモとしてされるといい。その気になれば、そんなに難しいことではないと思う。この行為は「話・話」に通じることである。ボクはまだ5年弱である。

(第1015話) 野菜作り 2008,11,5
 “五年ほど前に、夫が「野菜を作る」と言いだして、庭に小さなスペースを作りました。が、何も出来ないまま単身赴任になりました。空いた土地がどうにも気になってしかたなく、自分で野菜作りをしてみることにしました。
 土の耕し方も知らず、野菜作りの知識もなく、手探りで始めたのですが、これが結構楽しくて小さな幸せをもたらしてくれました。花はそれぞれに個性があってきれいで、実が徐々に大きくなっていく姿に喜びを感じ、トマトが陽を受けて緑や赤に輝く姿に感動します。ゴーヤの葉の輝きには涼と癒しをいただきます。収穫する時に一番ワクワクするのはジャガイモで、どれくらいの大きさに育っているだろうかと土を掘る手に力が入ります。そして何より、家で採れた野菜の味は格別です。無農薬で、生産者も生産地もはっきりしているので安心して食べられます。
 野菜作りをしてみていろいろな発見もありました。はじめから、私には無理だとか、私には向いてないとか決め付けないで、なんでもチャンスがあればやってみるものだと思いました。どこに喜びや幸せが転がっているかわかりませんからね。さぁ、これからは白菜・春菊・ほうれん草・青梗菜・レタス・・・。”

 この文は、先月の川柳連れ連れ草第82号に掲載した悠澪さんの随想です。そして次のような感想文を書いた。「真っ先に感想文を書きたくなる随想でした。野菜作りは知らなくてもできる、やってみれば楽しい。まさに私の主張の実践者です。私の2008年10月7日付けの〈「話・話」第2002話 「農のある暮らし(その2)」〉を読んでいただければ分かります。」
 ご主人が野菜作り始めようとスペ−スを作られたが、思いを果たさぬうちに単身赴任、それを受け継いで悠澪さんが始められた。そして、野菜作りの楽しさやメリットを実感された。まさに私の言っていることを証明されたようなものです。身近にこんな人があった、嬉しいですね。
 「私には向いてないとか決め付けないで、なんでもチャンスがあればやってみるものだと思いました。」この言葉も私の口癖の言葉です。「私たちは人に限らず毎日のようにいろいろな出合いがある。それを単なる出合いにするのか、生かすのか、それによって大きく変わってくる」この文は、今月の社内報に依頼されて私が書いた文の一部です。悠澪さんは川柳連れ連れ草で川柳を始められ、それ以来投稿を欠かされたことがありません。その面でも優秀者です。

(第1014話) 思えばあの時 2008,11,3
 “いよいよ読書の秋、到来。この季節になると、決まって思い出すことがある。中学3年時の国語授業。担当のM先生が私の読書懸想文を市のコンクールに選出すると発表した。課題図書は、大魚を相手に闘う老人の姿に心を打たれ、一気につづったヘミングウェーの「老人と海」。決して学業成績が良いわけではなく、周囲の級友たちはどよめいた。それ以上に私が一番驚いた。国語は比較的好きな科目ではあったが、まさか学校代表とは……。しかも―人のみ。残念ながら結果は入選せず佳作だった。
 後日、体育館での全体生徒朝礼。壇上で校長先生から直接手渡された1枚の賞状。今も大切に保管してある。思えばあの時、先生の目に留まったことが、私にとって読んだり書いたりすることへの、確かな自信につながったのだと思う。
 現在、国語科の教員として日々、無限の可能性を秘めた10代の青少年たちと接している。彼ら彼女らの後の生き方にまで、何らかの良い影響を与えていけるような教育者を目指して奮闘中だ。”(10月15日付け毎日新聞)

 茅ヶ崎市の教員・斉藤さん(男・44)の投稿文です。ちょっとした一言、ちょっとした出来事がその人に大きな影響を与えたり、時には一生を左右することさえありうる。斉藤さんが国語科の教員になった遠因は「思えばあの時の・・」と読書感想文のコンクール提出だったと考えつかれた。人にはそんなことが往々にあり得る。一目惚れというのもあるのだから・・・・。良い方に影響するものだったらいうことなしである。ボクだって小学生の時、学芸会の劇の演技を褒められ、役者になろうかと思ったときがあるが、数年で消えた。
 実は斉藤さんと全く同じようなことが先月、ボクの小学2年の孫に起こった。夏休みの絵が発明工夫展に学校から推薦、提出された。そして、なんと学校で一人入賞し、全体朝礼の場で、校長先生から賞状が渡されたという。その絵は、夢絵画ということで「恐竜動物園」だそうである。本人は平生から将来恐竜博士になると言っている。斉藤さんと同じようなことになるのか、いささか気がかりである。

(第1013話) ヨシカズ 2008,11,1
 “十年前に帰省したときに実家の玄関先にあった俗名「金のなる木」の葉を数枚持ち帰った。その年はがんを患って闘病中の父の体調が思わしくなく、幾度か新幹線に乗り父を見舞ったのだった。持ち帰ったその葉を小さな鉢に大切に植えた。うまく根付けば父の健康がよみがえる気がしたが、その年の九月二十四日、母の自宅介護のかいなく父は亡くなった。
 父は亡くなったが、あの時の小さかった葉っぱは鉢の中に根を張り立派な木に成長した。私はいつのころからかその木を、父の名前でヨシカズと呼んでいる。植物に名前を付けてかわいがる私を、夫は最初ばかにしていたが、風で鉢が転がっていたりすると「おい、ヨシカズが倒れとるぞ」などと言うようになった。今ではヨシカズも子供や孫ができて三鉢になった。”(10月15日付け中日新聞)

 三重県いなべ市のパート・森さん(女・56)の投稿文です。植物に亡くなった父親の名前を付けて呼ぶ、たわいもない話と言えばそうも言えるが、でもこれも麗しい話ではないか。父親の形見か生まれ変わりか、犬や猫のようなペットならまだしも「金のなる木」というのが面白い。
 実は妻の父親が亡くなって、父親が育てていた「金のなる木」がわが家にやってきた。今では来たときより大分大きくなった。ただし、父親の名前では呼んでいない。それだから「話・話」の種にならない。森さんの文を読んで気づいたのは、子供や孫を作ることである。枯らかさないうちにやっておく必要がある。
 今年2月の川柳連れ連れ草第74号は「花月の章」となっている。花月とは「金のなる木」のことです。このページも見て頂くとよいでしょう。

川柳&ウォーク