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第54号  2008年10月

(第1012話) 女房床 2008,10,29
 “「はい、終わり」。ヘアトニックを振りかけて頭をマッサージ。襟足をブラッシング。肩をモミモミしてくれるのはいとしの妻である。「ああ、すっきりした。サンキュー」と僕。気分は爽快。初秋の風のよう。硬い椅子に座り続けの約1時間。さすがに尻が痛い。と、妻がコーヒーを運んでくる。愛の香りだ。味は最高。街の理髪店ではこうはいくまい。ここは、我が家自慢の「女房床・幸せの理髪店」である。
 34歳の春から私は理髪店へ行ったことがない。妻は私の専属理髪師だが、もともとド素人。私の給料が3万円弱のころ、散髪料の節約と次女のミルク代を浮かすため1250円のバリ力ンと散髪道具を買ってきた妻が言った。「私、頑張る。1回につき1000円貯金しましょうよ」。「グッドアイデアだ」と僕。
 なじみの理髪店へ行き、マスターのバリカンやカミソリさばきを興味津々観察する妻だった。「好きこそ物の上手なれ」。今や玄人はだしである。”(10月13日付け毎日新聞)

 千葉県八千代市の梅原さん(男・75)の「男の気持ち」への投稿文です。34歳からと言われるので、もう40年以上だ。全く麗しい話だ。こういうのを幸せという。また1回につき1000円を貯金するというのもいい。まさにグッドアイデアである。昔はこういう話も多かったと思う。貧しさが故である。慎ましい生活が本当はいいのだ。おごりもない。それがお互い励みにもなる。
 ボクの父親も床屋さんへ行ったことは多分なかったろう。丸刈りであったので、鏡を二つ使いながらほとんど自分一人でやっていた。器用なものであった。それをボクに自慢していた記憶がある。
 梅原さんの文の最後には「来世があるならば、また、君と結婚したいな。いいよね。」とある。75歳ならばの言葉であろうか、ボクにはまだ言えない。

(第1011話) 漢字能力検定試験 2008,10,27
 “私が今年一番うれしかったことは、漢字能力検定試験で一級に合格したことです。七十七歳で会社を退職した時、八十歳までに漢検一級を目標にしました。高齢になってからの勉強は、一歩前進二歩後退の連続。遅々として進まず再三嫌気がさしました。
 最初の試験では、正解率が50%を切る惨憺たる結果でした。覚えるよりも忘れるほうが早いと思える状態に、挫折しそうになることもしばしばでした。挑戦すること八度。目標とした八十歳はとっくに過ぎてしまいましたが、目標を達成する前に挫折はしたくない」との思いで頑張り続けました。
 漢字講座の先生から合格証書が伝達され、すてきなご褒美を頂いた時は、感激でいっぱいになり、まぶたに熱いものがあふれてきました。講座の仲間から盛大な拍手で祝福された時は、お礼のあいさつさえ言葉になりませんでした。「継続は力なり」を実行できたのは、同じ目的を持った集まりの中に身を置いていたためだろうと思います。
 今後は漢字の奥深さに触れることができるよう勉強を続けたいと思います。”(10月13日付け中日新聞)

 名古屋市の大橋さん(男・83)の投稿文です。77歳で会社を退職、80歳までに漢検一級を目標、8度の挑戦、83歳で達成、意欲がある人はあるものだ。ボクより一回りも、二回りも年上である。ボクなどどうすればいいのか、悩むばかりである。
 「継続は力なり」もいい。これはボクの口癖であるが、まさにその実例である。
 しかし、今年を3ヶ月も残して、今年一番嬉しかった事というのはどうだろうか。あまりに早い宣言ではなかろうか。まだ何があるか分からない。ノーベル賞はもう終わったが、まだ何か賞があるかも知れない。

(第1010話) 名古屋コンビ 2008,10,25
 “編集局で久しぶりに歓声がわいた。それも連日。日本人のノーベル賞ラッシュだ。さらにうれしいことに、四人はいずれも中部にゆかりのある方ばかり。物理学賞の南部陽一郎さんは福井育ち。小林誠さんと益川敏英さんは名古屋大学で出会い、化学賞の下村脩さんも名大で研究を重ねた。とりわけ小林さんと益川さんのコンビは、そろって名古屋で生まれ、育った純粋の名古屋っ子である。
 私の周りにも、小林さんと幼なじみとか、中学から大学まで一緒だった先輩がいる。口をそろえて「まこちゃんは、おとなしいけど気分のいい秀才だった」。私も一度だけお会いしたことがあるが、その通り、謙虚で飾らない人だった。その小林さんを、素粒子研究で名高い坂田昌一研究室で待っていたのが四歳上の益川さん。アイデアが豊かで議論好きの天才肌だ。
 若者の理科離れを憂える益川さんは「知ったかぶりをしなさい。何かの拍子に未熟さが分かり、さらに勉強しようと思う」とユニークなエールを送る。小林さんも「ひとつのアプローチにこだわらず、多くの可能性を自ら切り開く中で成果は出てくる」と。”(10月11日付け中日新聞)

 加藤編集局長の「編集局デスク」と言う欄からです。日本人にとって誰にも嬉しい出来事ではあるが、愛知県人には特に嬉しい出来事だ。それも3人が愛知県に係わりがあるとは、何という巡り合わせであろうか。ボクの娘婿は名古屋大学卒であるので、更に喜ばねばならない。
 「知ったかぶりをしなさい」とはまたユニークな発想である。これは大いに恥をかいて、発憤する材料にしなさいということであるが、なかなか腹がいることである。嫌われるもとでもある。でも、これ位でないと事は成らないということであろうか。考えてみると、ボクの口癖の「有言実行」も似た発想である。これでボクは大いに恥をかいてきた。
 「多様なアプローチ」も納得することである。一つ、二つの失敗であきらめることなく、方法を変えてどんどん挑戦しなさいと言うことであるが、これも難しいことである。これらができる人が事を成す人である。
 今回のノーベル賞受賞でボクの驚きは、2人がアメリカ在住であることである。喜んでばかりはいられない。

(第1009話) 準備されてたはがき 2008,10,23
 “先月末。ーカ月ぶりに彼女からのはがきが届いた。小躍りして読むうちに、これって「遺書」と全身の血が引いた。横書きの文面には「幸せだった毎日のありがとうをカバンに詰めた」とあった。いっぱいの幸せを力バンに詰めて旅立ったのだろう。81歳だった。
 文面はコピーだが、あて名は自筆で、最後に自分の名前を記し、月日のみ娘さんが書き入れるようにしてあり、100通ほどあったという。何と見事な最期だろうか。
 7年前、乳がんを見つけ手術。元気だったが、昨年食道に転移していたのが分かった。その後、入退院を繰り返しながらも、「口から食べたい」の一念で、管を通す胃ろうを拒んだ。「水さえ食道に入らないって初めて知った」と笑っていたのが印象に残る。
 1人で全部死の準備をしたのに、死の言葉はー言も口にせず、立派としかいいようがない。医師を褒め、看護師さんに感謝した彼女。その気持ちを、私は大切にして生きていこう。”(10月7日付け朝日新聞)

 名古屋市の主婦・渡辺さん(70)の投稿文です。死を悟って、いつ天国、極楽に行ってもいいように、生前お世話になった人へお別れの手紙を書いておく。日付と投函だけ残された人に託しておく。いざ書きたいと思ったときには、その時間も体力もない、そんなことが往々であろうに、心憎いばかりの配慮である。渡辺さんが言われるように、本当に見事な最期である。でもこのようにできるのは、納得のいく人生、幸せだったと言える人生、そう言う平生からの行いと心がけがあってのことであろう。
 人間にとって生まれるときと死ぬときは最大に重要事である。人生が始まり終わる。生まれるときは自分の意思が係われないが、死ぬときは自分の意思を働かせることができる。この幸運を生かしたいものだ。

(第1008話) 信長居館遺構 2008,10,21
 “岐阜市は6日、岐阜公園内で進めている織田信長の居館跡の発掘調査で、けやき谷と呼ばれる谷間に石垣と溝で囲まれた一角が見つかり、内側にこれまで未発見の建物があった可能性があると発表した。信長のもとを訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの記述と照らし合わせると、信長の茶室があった場所と推察できるという。市はフロイスの記述から、茶室があったのは金華山の山際にある階段状の土地で、その最も奥の山側とみている。”(10月7日付け朝日新聞)

 記事からです。ボクには普通であれば、一度読んでそれまでの記事ですが、今回はこの「話・話」に取り上げるのです。なぜなら、今年8月の一宮友歩会の例会で、この発掘現場を見てきたのです。それも岐阜市の教育委員会の人の説明を受けながらです。ちょうどこの箇所も発掘調査がされていました。暑い日でしたが、分かりやすい説明に皆さん一生懸命聞いてみえました。この記事は中日新聞も出ていたので、この例会に参加された人は、興味を持って読まれた人が多かったのではないでしょうか。
 こういった偶然は嬉しいものです。それにはいろいろな体験が必要です。やれるときにやる。ボクみたいな歳になると、いつ突然できなくなるかも知れない。数ヶ月前に会った知人が昨日亡くなった。今年の心構えに書いたように「今が本番、今日が本番、そのうちはもうない」である。(今年1月5日の「第875話 今が本番」をお読みください)

(第1007話) ハンディ越え努力 2008,10,19
 “今月六日に北京パラリンピックが華やかに開幕。約四千人の選手がメダル獲得を目指して競い合った。メダルを取ることは大切だが、私は北京へ行くまで努力してきた道のりの方が大事だと思う。ハンディキャップのある人たちにとって、毎日の練習は人一倍大変だったと思う。きっと苦しくて、挫折しそうになったことが何度もあったことだろう。
 私はテストで思うような点が取れないと「せっかく頑張って勉強したのに・・・」と自分を責めてしまう。でも、今までやってきたことは決して無駄ではない。いつかきっと、努力が実る時があると思う。パラリンピックの選手たちが競技する姿を見て、こんなことを教えられたような気がした。”(9月27日付け中日新聞)

 名古屋市の中校生・大垣内さん(女・15)の投稿文です。オリンピックに続いて、パラリンピックである。このパラリンピックから、大垣内さんはメダルを取ったことより、それまでの努力が大切、素晴らしいと気づかれた。中学生でこのことに気づかれたのは大きい。
 社会は結果で評価するが、自分自身にとっては過程が大切である。結果は一瞬のこと、過程はとても長い時間である。結果を重視すれば、悪い結果だと今までの過程、努力をすべて否定することになり、虚しさに陥る。自分自身には長い時間をどう過ごしたかの方が大切である。有意義に過ごしたと思えれば、それでいい。
 努力が実るかはまた別物である。同じように努力しても、オリンピックにもパラリンピックも出られなかった人は五万といる。しかし、努力しなければ出られることはない。

(第1006話) エレベーターの中で 2008,10,17
 “身体障害のある息子がいます。以前のようにひどくはありませんが、今でも障害者に対する偏見や差別を時々感じます。だから、世間の人たちの迷惑にならないよう、ひっそり暮らしていけたらと思っています。
 外出の際、車いすでエレベーターに乗る時は「狭くなってごめんなさい」と言うのが私の口癖です。先日も自宅のマンションで、いつもの言葉を口にしてエレベーターに乗りました。すると、中学生くらいの女の子が「『ごめんなさい』なんて言わなくてもいいです。車いすに乗っているのは悪いことじゃないです」と、にこやかに、でもはっきりと言ってくれました。彼女の態度に感心するとともに、障害を一つの個性として見てくれていることを、とてもうれしく思いました。心のバリアフリーが広がっていることを実感しました。今の子供たちが大人になるころには、もっと障害者も生きやすくなることでしょう。”(9月26日付け毎日新聞)

 大阪府箕面市の主婦・古川さん(59)の投稿文です。このように冷静、客観的に判断できる中学生もいるのである。車椅子の人がいなかったら、普通の人がもう数人多く乗れたことであろう、古川さんはそのことに対する謝りである。車椅子の人が謝らねばならないなら、肥満の人も謝らねばならない。
 頭を下げ、謝ることによって人間社会はスムーズに行く。しかし、僕らはこういった障害者の方にそれをさせてはならない。ましてや「世間の人たちの迷惑にならないよう、ひっそり暮らしていけたらと思っています」などと言う発言をさせてはならない。

(第1005話) ヒガンバナ200万本 2008,10,15
 “のどかな田園地帯を流れる川沿いに広がる真っ赤な点描。童話「ごんぎつね」の著者・新美南吉のふるさと愛知県半田市でヒガンバナ約200万本が見ごろを迎えている。
 南吉童話の舞台、岩滑地区の矢勝川流域で「童話の村秋まつり」を開催中(10月13日まで)だ。会期中は南吉直筆の作品、日記などを展示する新美南吉記念館を中心に、土日祝日に移動紙芝居の上演、半田の特産品の即売などがある。
 ヒガンバナは高田橋から弘法橋まで約2キロにわたって続く。愛知県豊橋市から訪れた男性は「少し太陽が傾いたころ赤が映えてきれいだよ」とうっとり。「矢勝川の環境を守る会」が保守管理している。幼少時に南吉と遊んだこともあるという小栗大造さん(90)が「童話の舞台の堤をキャンバスに、ヒガンバナで真っ赤な風景を描く」という思いで平成2年から球根を植え始めた。”(9月25日付け中日新聞)

 「旅レシピ」と言う記事欄からです。矢勝川のヒガンバナは過去数度見たことがあるし、これだけの数は他で見た記憶はない。一大景観、一大名勝地である。小栗さんらが平成2年から植え始めた成果である。そして大きな輪になった。秋まつりも行われるようになった。いろいろな発展になる。継続の力は大きい。先日この地域に出かける機会があり覗いてみたが、残念ながら大半はすでに散っていた。
 数年前に、娘の家を川沿いに建てた。その時、ボクは家の前の堤防にヒガンバナの球根を少し植えた。今年はもう何十本と咲いた。散歩の人が楽しんで見ている。後5年、10年すればどうなるだろう。密かな楽しみだ。

(第1004話) f地(しょうち)三郎 2008,10,13
 “四年続けて講演旅行で世界一周。「来年はインドやオーストラリアヘ行きたい。幼児教育を世界が求めていることが分かったから」。福岡空港に帰り着いた途端、次の旅行計画を語り始めた。
 「三歳までが子育ての勝負どころ」と説く百二歳の教育学者。「親子で取り組めば心のきずなや感性が育つ」と、空き箱などを材料に手作りおもちゃ教室を始めたのは九十七歳の時だ。その成果を広めようと、ことしは約一ヵ月かけてフィンランドやセネガルなど十二カ国を訪ねた。脳性まひの息子二人を育て、一九五四年には先駆的な障害児教育施設 「しいのみ学園」を福岡市に創設。福岡教育大教授を経て、中国にも障害児学級を開いた。虚弱体質だった幼いころ、母親が注いでくれた愛情が生きる力になったという。「一口三十回かみなさい」。そんな母の教えを今も守っている。北海道出身。福岡市在住。”(9月23日付け中日新聞)

 「この人」と言う欄からです。102歳で世界一週講演旅行の見出し文字にびっくりした。今日本でもっとも活躍する高齢者の日野原重明さんの97歳に勝るとも劣らず、またまた素晴らしい人があったものだ。障害児教育施設の「しいのみ学園」という施設名は知っていたが、それ以上のことは知らなかった。その創設だけでも素晴らしいのに、102歳でまだ活躍されているとは、日本の底力はまだまだある。ボクの知らないことだらけだ。
 f地さんについて調べると、福岡教育大学名誉教授、韓国大邱大学大学院長、中国・長春大学名誉教授、上海・華東師範大学名誉教授、モスクワ心理教育大学名誉教授などの肩書きが並び、ペスタロッチ賞(昭和31年)、ペスタロッチ教育賞(平成19年)などとある。三才児教育学会会長の肩書きもある。
 こんな素晴らしい人がこんなに長生きしている、僕ら凡人はせめて年齢だけでも上回りたいものだ。長生きして恥ばかり多くなっても・・・・。

(第1003話) 伊勢湾台風を語り継ぐ会 2008,10,11
 “5千人を超す死者・行方不明者を出した伊勢湾台風を語り継ぐ会が20日、名古屋市南区の白水小体育館で開かれた。南区の災害ボランティア団体が開いた「防災の集い」の企画。約350人が参加し、体験者が濁流に翻弄された恐怖を語ると、会場は静まり返った。台風は59年9月26日に来襲した。南区は高潮のため、特に被害がひどかった3人が体験を話した。
 塾経営、加古美恵子さん(58)は「洗濯機の中にいるようだった」と水にのまれた時を振り返った。風雨と波で上下左右も分からなかった。トラックの荷台に助け上げられたが、そこにも水が迫った。約20人でつま先立ちになり、歌をうたって朝を待った。台風で家族5人を失った加古さんだが、この時助け合った体験が、人生の支えになった。「一人だけで放り出されていたらどうなったか」(中略) 
 柴田隆さん(70)は、いかだで避難所を訪ね歩き、家族を捜した日々を振り返った。会場には、屋根の上で途方にくれる女性、遺体を捜す米軍の様子などの記録写真も展示された。集いの実行委員長、村松克己さん(60)は、「この体験を伝えていきたい。来年も開くつもりだ」と語った。”(9月21日付け朝日新聞)

 記事からです。ボクの人生で、一番怖かった自然災害は伊勢湾台風である。中学2年の時である。自宅の周りは畑であり、風を防ぐものは何もない。そして、もろに風の被害を受けた。真っ暗な中で必死に雨戸を支えた。しかし、壁も戸箱も飛び、瓦も沢山飛ばされた。平屋建ての家が傾いた。本当に怖い体験だった。でも幸い浸水はなかった。
 愛知県内どこも大変だったが、特に海に近いところは大変だった。海岸堤防がずたずたに切れた。満潮と重なり海水が奥深くまで押し寄せてきた。名古屋市南区などは、貯木場の木材が一緒に押し寄せてきた。ゼロメートル地帯の海部郡などはいつまでも水が引かなかった。
 愛知県内の自然災害では、最近では東海豪雨が大きかった。また近い将来には東海地震や東南海地震が想定されている。役所等で対応はいろいろされているが、いざというとき個々にまではなかなか思うようにいかない。自分の身は自分で守ることを心がける必要がある。そう言った意味でも、紹介した催しは是非必要である。災害は忘れた頃にやってくる、しつこい位の繰り返しが必要である。

(第1002話) 農のある暮らし(その2) 2008,10,7
 “「半農半X」とは何か。私は「持続可能な農ある小さな暮らしをベースに、自分の得意なことや大好きな仕事をして社会に生かしてゆくこと」と定義する。
 地球温暖化や39%まで落ちた食料自給率など、私たちの眼前に横たわる難問を解決していくには、食料生産や、なるべく化石燃料を使わない暮らし方をしっかりと押さえる必要がある。それが「半農」。そうして、自らの創造性や独自性で、生きがいや環境問題などに挑んでゆく。それが「半X」だ。「X」とは、自分の「天職」といってもいい。(中略)
 「半農半X」は田舎暮らしをする人だけではなく、都会でも可能なスタイルだ。「半農」といっても1日の半分を農にあてよという意味ではない。土や田の自然の生命と触れあう時間を持つことで大事なものに気づくと言うことである。”(9月6日付け朝日新聞)

 「異見新言」という欄から、半農半X研究所代表・塩見直紀氏の意見です。かなり省略しています。この意見もボクの持論をかなり代弁してくれています。と言うより、ボクは半農とまで思っていません。20坪前後の家庭菜園で結構です。その効用を思いつくままに述べてみます。
 @野菜を育てる楽しさを知る。やってみれば誰でも楽しい。A 野菜の旬を知ることができる。旬の野菜を食べることは重要です。B無農薬の健全な野菜を食べることができる。商品でないから無農薬でいい。C農家の大変さを知る。野菜を買うときに感謝の気持ちが生まれる。D心身の健康にいい。体を動かせば、肉体はもとより心の健康にも役立つ。
 そして次がボクが思うもっとも大きな効果です。E 耕作放棄地が減少する。今後農家は急激に減少し、耕作放棄地が拡大する。特に都市近郊では宅地や駐車場など他に転用される。結果、異常気象以上に出水がひどくなり水害が多発する。農地は防災施設です。農地が草ぼうぼうでは犯罪やゴミの不法投棄、見苦しい景観などマイナス要因ばかりです。所有者の責任を言っているだけでは解決できません。今の世代が終わったら担い手がないのです。
 その他食糧自給率の向上、環境保全、エコ生活、いろいろメリットが考えられます。
 「原則全家庭に家庭菜園を義務づける」、それほど無理な義務でしょうか。まず農地の確保ですが、一部大都会の中心部では無理かも知れませんが、車で10分も走る気になれば、全国どこでも農地は確保できます。義務づけ、役所が斡旋すればいいのです。貸し手はいくらでもあります。近郊農家は農地を持っていることが重荷なのです。農地を耕すような時間がない、と言われる方は時間の使い方を再検討する必要があります。家庭菜園程度はレジャーです。食糧を作るのです。子育てと同様に最も重要なことです。
 これは冗談のような本気の意見です。暴論かもしれませんが、こんな主張をしてくれる政治家はありませんか。

(第1001話) 農のある暮らし(その1) 2008,10,5
 “「異見新言『若者帰農』」(6日朝刊)を読みました。私も義母の家に隣接する荒れ地を3年前から開墾し、少しずつ畑を広げています。最初は細い大根や大きくならないジャガイモに苦笑の連続でしたが、今夏はナスやトマトなど野菜はほとんど自給自足できるようになりました。商売するわけでもないので気楽なものですが、自然条件に左右される農作業や、作物の豊不作を自然の摂理として受け入る寛容さも身につき、今まで感じたことのない充実感も覚えています。
 しかし、農作業をしてみると、これほど大変なのに「農」が社会的にないがしろにされていることに憤りを感じます。環境破壊を防ぎ、食糧自給率を改善するのも遠い道のりのような気がして歯がゆくてなりません。「異見新言」にあったように、農ある暮らしの中で、自分の好きな仕事もする「半農半X」というスタイルが定着すれば、世の中の意識も現実も変わっていきそうで希望がもてました。”(9月17に付け朝日新聞)

 埼玉県春日部市の会社員・須田さん(男・56)の投稿文です。ボクには馬鹿にされるような強い持論がある。それは日本の「全家庭において家庭菜園を義務づける」ことである。須田さんの文は、まさにこの持論を実践、賛同して頂いたような文である。農の大変さ、楽しさを知って頂いた。
 「異見新言『若者帰農』」(6日朝刊)は読み落とした。早速新聞を捜したらまだ残っていた。次回にそれを紹介した後で持論を少し述べてみたい。

(第1000話) 「話・話」1000話 2008,10,3
 2004年6月から始めたこの「話・話」が今回できりのいい1000話になった。約52ヶ月で1000話、我にしてはよくやってきたものである。今第1話から読み返しているが、よくこれだけ良い話を集めたものだと自画自賛である。まさにボクの宝となりかねない。第1000話はこの「話・話」の意図等を再度記しておきたい。
 新聞の意見欄等を見ていると圧倒的に多いのは、要望、批判である。それも必要ではあるが、心豊かな人生、社会は自分で構築しないと進まない。これではほど遠い。時折ある良い話を拾い出すことは、自分自身にとって有益だろうし、それを伝えることは社会的にも少しは意味があるだろうと思ったのが、始めたきっかけである。社会的な意味があったかどうかは不確かであるが、自分自身に良かったことは疑いもない。
 まず、新聞等から良い話題を拾い出す。当初と最近では、取り上げ方も書き方も大分変わってきているが、実際の行動としてあったものを優先してきた。1000話ともなると似たような話も多くなるが、人はすぐに忘れるものであるので、それはあまり意識しないことにしている。でも、話題に窮するときも多く、そんな時は、軽い話や笑いを誘う話も良かろうと取り上げてきた。見つからねば掲載しなければいいのであるが、これがボクたるところで、毎日や1日おきと決めたら、できるだけそれを守りたいのである。その心がけがなければボクに継続は難しい。
 もちろん掲載する日に書いているのではない。常に5話程度をストックし、順に掲載していく。それまでの間、できるだけ読み直し手を入れる。それでもこの程度である。今回読み直していて誤字脱字の多さに赤面している。
 最初の頃は短い文章にまとめようと努めていたが、最近はそうなっていない。ボクの体験や考えもできるだけ書くようにしている。恥の上塗りであるが、単なる紹介より身近な話題になるだろうと思うからである。更に読み直していて気づいたのだが、一面ではあるが自分史になっていることである。
 そして一応の目標としていた1000話にたどり着いた。この間に良い話を見つける楽しさ、やり甲斐を見いだした。もちろんこれからも続けたい。次は1500話を目標としよう。ご愛読ください。

(第999話) コーラス 2008,10,1
 “定年退職後、特に趣味のない私は、いつしか大型ショッピングセンターで過ごすことが日課になっていた。でも、そこはにぎやかな所だが、誰とも話さぬまま買い物ができ、いつも孤独感を覚えた。家に帰ればテレビが相手。もちろん、夫や息子たちとの家族のだんらんはあるが、社会とのかかわりがなくなることがいかに寂しいものか、痛感した。
 そんな私に転機が訪れた。知人の誘いでコーラスサークルに入ったのだ。「コーラス?」。わが家の男どもは、顔を見合わせて笑った。確かに美声ではないし、清楚なステージ衣装が似合う体形でもない。でも、少しの勇気を出して入団を決めた。
 案の定、最初は恥ずかしくて声が出なかったが、何よりすばらしいメンバーの方々と出会い、そのー員となれたことがうれしかった。町の文化祭での発表や福祉施設への慰問では、拍手をいただく喜びや達成感も味わうことができた。年配の方は、一緒に口ずさんでくださり、その優しい顔に、ふと亡き父母の面影が重なって、譜面に涙がにじむこともある。第二の人生に。すてきなハーモニーを与えてくれた仲間に感謝したい。”(9月15日付け中日新聞)

 浜松市の主婦・西山さん(69)の投稿文です。コーラスも老後にいい楽しみごとだ。腹から声を出して健康にもいいし、仲間づくりもしやすい。コーラスはハーモニーが大切だからもちろんかなりの努力はいる。気恥ずかしがっていたらできない。西山さんの歳で始めるのは大きな勇気がいる。孤独感の体験がこの勇気を与えてくれたのだろう。この勇気がなくては何もできない。まずは西山さん万歳。
 実は音痴のボクにもコーラスの体験がある。思い出してみればもう20年近くも前のことになる。ベートーベンの第九を主に5年ばかり歌っていた。今、再度歌う勇気はない。


川柳&ウォーク