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第53号  2008年9月

(第998話) こう呼んで 2008,9,29
 “マリさん、五十歳。娘さんが婚約したばかりなのに早くも公言している。「私、孫には『マリちゃん』と呼ばせる」
 五十歳前後で「おばあさん」になったおばさんたちは孫に「おばあちゃん」と呼ばれたがらない。「ばあば」(私はこの呼び方が好きだが)もいやがる。名前や愛称で呼ばせている人も珍しくない。中には「おかあさん」と呼ばせている人もいる。「スーパーで二歳の孫がはぐれて『おかあさーん』と叫んでいた。『ここよう』と駆け寄ると周囲の人が『まあ、高齢でがんばったのね』という目で私を見た」そうだ。ちなみに孫の本当の母親は「ママ」。ややこしい。
 もっとユニークな例も。その人は四十代半ばで「おばあさん」に。本人も孫も生粋の日本人だが「テレビの外国映画を見て、その名前の響きにあこがれていた」ので「キャサリン」と呼ばせているそうだ。おお・・・。外見も若く、自分でも「まだ若い」と思っているおばさんたちの「呼ばれ方」へのこだわり。なかなか楽しい。”(9月14日付け中日新聞)

 もう度々紹介させて頂いている作家・小川由里さんの「おばさん事典」からです。つまらないこだわりとも、たわいもない話とも言えるが、まあ、こんなことを楽しむのもいいだろう。何でも楽しんでしまう、これも人生豊かに生きる秘訣である。この話で「キャサリン」は特に面白い。こんなユニークな発想もあるのだ。
 ちなみにボクは「じいじ」でも「おじいちゃん」でもない。パパのパパで「大パパ」と呼ばせている。もう一人のおじいちゃんと区別がついていい。ボクもこだわった一人だ。
 しかし、晩婚化や更に結婚しない人も多くなって、こんなことを楽しめない人も多くなっている。子を持つすべての親にこんな楽しみを与えたまえ。

(第997話) ありがとう 2008,9,27
 “九十五歳になる母を施設に預けて、はや一年半。その間には高熱を出して病院へ運ばれたりもしたが、一週間でまた元のベッドヘ戻れた。毎日、兄妹のうち誰かが必ず見に行くように連絡をし合っている。私たちが部屋へ人ると、顔を見るなり「ありがとう」と言う母。自宅にいたときも、病院にいたときも、今も、自分の子どもに「ありがとう」「ありがとう」と言う。
 私たちとしては少々切なく、複雑な気持ちにさせられる瞬間だが、この施設に来て、私はもう一つの「ありがとう」に出合った。職員の方々が、母を見舞う私たちに「ありがとうございます」「ありがとうございました」と言ってくださることだ。自分の親を自分たちで見切れず、お願いしているのはこちらなのに。それに、決してかわいいとは言えない年寄りの何もかもをお世話してくださる方々が、「ご苦労さま」でもなく「お疲れさま」でもなく、「ありがとうございました」と言ってくださるのです。私は今更のように、この施設の職員の方々に大事なことを教えられました。明日もニコニコ顔の母を見に行くのが楽しみです。”(9月10日付け中日新聞)

 半田市の主婦・木村さん(65)の投稿文です。 この話もほとんどボクの家の状況と同じである。まず老母の「ありがとう」の言葉である。今は痴呆が進んでこの状況にはないが、以前は何事につけ「ありがとう」の言葉を連発していた。嫁と姑、そして介護、沢山の摩擦があって当然だろうが、老母の「ありがとう」の口癖のおかげで、摩擦は比較的少なかったと思う。腹が立っても「ありがとう」と言われては怒るわけにもいかない。ボクにブツブツ言う位で終わる。
 そして、施設の方の「ありがとうございました」である。二人の老母がお世話になっている二施設とも行くと「ありがとうございました」と言われる。この言葉に一瞬びっくりし、何か違う、正しい日本語使いではないと感じる。マニュアルかもしれない。
 しかし、これはボクの速合点だという気がしてきた。施設の職員の方は世話をしている間に、自分の身内に思われてくるのかもしれない。あれだけ親身にしていればそうした感情が生まれてきても自然だ。それがあの言葉になるのではないか。本当にありがたいことである。

(第996話) 引き揚げ時の駅員さん 2008,9,25
 “1945年の12月28日、私たち一家4人は博多駅の大混雑の中でぼうぜんと立ち尽くしていました。生まれ育った朝鮮半島からの引き揚げでした。私は女学校2年生で関節リウマチの母を背負っていました。弟はランドセル、父は持てるだけの荷物を持っていました。中年の駅員さんが寄ってきて、「どこまで行くの」と言われました。「三重県の四日市まで」と申しますと、もう1人の駅員さんと2人で、父の荷物を窓から列車の中に運び入れ、私たちを席に座らせてくださいました。父は感謝して、朝鮮半島から持ってきた3kgぐらいの米を「皆さんで食べてください」と差し出しましたが、駅員さんは「大変ありがたいが、今、米は命の次に大切な物だから、何を捨てても持って行きなさい」と受け取りませんでした。
 その後、四日市の伯父の家にたどり着きましたが、イモのかゆを1食食べさせてくれただけで、一晩明けたら「家を借りたから」と言われ、追い出されてしまいました。何もないところで、あの米がどれだけ私たちを助けてくれたことか。見ず知らずの人の温情に感謝しました。”(9月5日付け朝日新聞)
 
 三重県四日市市の主婦・吉田さん(76)の「ひととき」と言う欄への投稿文です。引き揚げ者は本当に大変であったようだ。その大変な状況の中で、少し嬉しい話はいつまでも心に残る。吉田さんにはもう60年以上も昔の話である。こういう一つの嬉しい話がその後の人生にいい影響を及ぼしたことは十分に考えられる。人への接し方は重要である。
 毎年終戦記念日が近づくと戦争の思い出の話が多くなるが、終戦の年生まれのボクには知識として知っていても実感できない。これからはますます体験者が少なくなるが、でも戦争の愚かさは知識としても伝えていかねばならない。

(第995話) 干潟のゴミ 2008,9,23
 “先日の紙面に絶滅危惧種になっているカブトガニの国内最大級の産卵地である北九州市小倉南地区の曽根干拓のことが載っていた。
 そこは私が毎日散歩するコースで、四季折々、水辺の鳥たちの様子を見ながら川の堤防を歩く。その岸辺に、いつも長靴、日よけ帽、軍手のいでたちで、海岸のゴミや、打ち寄せるアオノリを片付けている婦人がいる。「砂浜に干潟のゴミなどがかぶさるとカブトガ心の卵が孵化できないから」と婦人は言う。来る日も来る日も、終わりなき戦いを続けている。たった1人で打ち寄せるゴミを片付けて、もう何年になるのだろうか。ここでの楽しみは、「トンチャン」と名づけたトンビに、持ってきたえさを放り投げて食べさせることだと言う。見事にキャッチするトンビがいた。いかに彼女のここでの日々が長いかがわかる。
 学術調査でたまに来た人にはわからない。こんな婦人がいるから、曽根干潟はきれいなのです。”(9月5日付け朝日新聞)

 北九州市の主婦・杉本さん(79)の投稿文です。到る所で隠れた善行はなされている。しかし、それを上回る心ない行為が多いのは残念だが・・・。特にゴミ拾いなどは賽の河原である。拾った後に、拾った後に捨てられていく。でも拾わないと更に捨てられる。この婦人の行為の成果は大きいのである。
 ボクの会社で名古屋の街中のゴミ拾いを始めたことは、この「話・話」などいろいろなところで触れてきたことであるが、その成果は十分に上がっていると感じている。確実に始めた頃に比べ量が減っている。清掃間隔を狭めたから当然ではあろうが・・・。

(第994話) 挑戦 2008,9,21
 “三月末に退職したのを機に、前々から考えていた樹木の剪定や育て方を学ぶため、四月から近くの高等技術専門学校造園科へ入校した。昨年の今ごろは、デスクワークをしていたのでついていけるか不安だったが、二月の校内見学会に参加し、「今やらなかったら後悔する」と思えるようになり、迷いは吹き飛んだ。
 今までに樹木の名前を覚えながら、クロマツ、ネズミサン、イヌツゲ、カイズカイブキ、モッコクなどの剪定を習った。その結果、歩いているうちに近づいて「葉がそりくりかえっているからマメツゲだ」などと、独り言を言うようになった。
 炎天下の訓練はきつく、七月に入ってからは家に帰るとぐったりとしてしまうことも度々。だが、造園の技術は少しずつ身に付いてきた。新しい友人ができたこともあり、つらいと思ったことはない。思い切って挑戦して良かったと思っている。”(9月4日付け中日新聞)

 豊川市の松下さん(男・60)の投稿文です。「定年は自分で」や「残業ゼロ」など、ここ60歳後の話が続いているが、今回もそんな話である。吉越さんは「定年後の準備を現役時代からしなさい」言われているが、松下さんは退職後に始められた。しかし、何をするかは現職時代から考えられていたと言われるから、準備はされていたと言えよう。そして、挑戦して良かったと言われているから、まずは良しである。
 人間は野菜や樹木など植物の係わるのはいい。植物の生長を見るのは楽しいし、健康にも環境にもいい。ボクも先日の連休に行事の合間をぬって種蒔きや植え付けに精を出した。今日は庭木の剪定などを予定していたが、雨でできなかった。

(第993話) 病歴書 2008,9,19
 “妻は数年前から、病気の履歴書とでもいうべき「病歴書」を持っている。今までにかかった、大きな病気や手術の内容と時期を書いたものだ。病気や手術が多すぎて、記憶していられなくなったらしい。
 治療中の病気と使っている薬の情報を書いたプリントも入っている。かかりつけの病院の電話番号、主治医の名前、健康・保険証から、緊急連絡先も入っている。この5年で3回救急車の世話になっており、同乗する私もこの病歴書で救急隊の方の質問にもすぐ答えられ、病院との連絡にも助かっている。
 妻がこれを始めたきっかけは、阪神大震災で被災した方々が、治療中の病気や使っている薬が分からず、困ったと聞いたからだという。そうだったのかと、感心したが、妻の友はいつ急な入院になってもいいように「入院用品」をそろえて、誰でも分かるようにしてあるそうだ。妻か私か、どちらが入院してもいいように、わが家でも早速、入院用品をそろえることにした。”(9月4日付け朝日新聞)

 豊橋市の高校講師・山本さん(男・64)の投稿文です。いろいろな状況があっていろいろな発想がある、「病歴書」とはまたいい発想である。新聞を少し気をつけて読んでいると、いろいろなことが見つかる。
 何歳の人の文かを見てみれば、ボクと全く同年代、ボクも考えた方がいいと言うことであろう。わが夫婦は、幸いに今のところ書くほどの病歴もないが、でも病歴以外にいざというとき、伝えねばならぬことはある。わが夫婦はまだ「おくすり手帳」ももらっていなかった。この文を読んで早速もらってきた。この手帳の中にいろいろ書き込んでおこう。
 同日の新聞に「エンディングノート」の話が出ていた。この言葉も初めて知った。内容についてはボクもいろいろ思っていたが、このことも真剣に考えねばならない。実は妻の妹夫婦が大変な状況になっていて、ボクにも身近な話になっているのだ。

(第992話) 残業ゼロ 2008,9,17
 吉越浩一郎氏の著作「残業ゼロの仕事力」という本が会社で回覧された。次に回さねばならないので、早速読んだ。同感する部分が多かったので紹介したい。
 残業は美徳という意識があったが、今はいくらか薄れてきているが、それでも多すぎる。過労死もある。氏は社長に就任すると、以前から気になっていた残業の多さを改める取り組みを始めた。強いリーダーシップで社内の抵抗を押し切り、残業ゼロの会社にした。この19年間、増収増益をあげながらである。本ではその過程と方法が紹介されている。
 「ワークライフバランス」という言葉もよく聞くようになった。仕事と仕事以外の生活の均衡である。氏はこのバランスは仕事をしている間だけでなく、人生という長いスパンでも考えるべきだと言われる。そして、
 “定年後を余生ではなくて本番の人生=「本生(ほんなま)」として充実させるためには、それ以前にいろいろ準備をしておかなければなりません。
 じゃあ、その本生のための準備をいつやるかといったら、現役の間に仕事以外の時間を使ってやるしかないのです。毎日遅くまで残業していたら、そんな時間はとてもじゃないけれど、とれないでしょう。だから、その前から少しずつでも残業の時間を減らす努力をしなくてはならないわけです。”
 全く頷ける。ボクは十分とは言えないが、そんな意識でやってきた。それがウォークや川柳やグラウンドワーク活動になっている。残業は労使共に不利益であることを認識し、ゼロをめざすべきである。
 それにしてもボクの会社もなかなかさばけてきたものだ。こんな本を読ませるし、グラウンドワーク活動は取り入れてくれるし、今月から名刺に「くるみん」マークもすり込まれた。少し嬉しくなってきた。

(第991話) ニコッ 2008,9,15
 “顔見知りの地元のおじさんが畑にいた。「こんにちは。降ってきそうですね」と声をかけると「おっ、久しぶりだね」とクワを置いて道に出て来た。何か用事かな?「いや。『ニコッ』のあいさついいねえ。わし、思わずクワが軽くなった」
 あらまあ。「たくさんの人が散歩で畑の前を通るけれど、あいさつしない人が多くなった。同じ地域に住んでいるのに。あいさつし合えば、こんなふうに気軽に話もできるのに」おじさんは地域の人同士のふれあいが少なくなったことを憂えているのだ。「オガワさん。さっき、してくれたような『ニコッ』のあいさつを地域でいっぱいして、広げてくれんかね」と笑顔で言って、おじさんは畑に戻って行った。
 その会話を思い出しながら「ニコッ」のあいさつを続けている私だが、あるときハッと気付いた。一人だけ「ニコッ」抜きのあいさつをしている人がいることに。地域で一番親しい人なのに。それは夫である。なぜか夫には難しい。”(9月1日付け中日新聞)

 作家・小川由里さんの「おばさん事典」からです。ここに書いてあることはボクの環境とほとんど同じである。畑で働いている人にも出会えば挨拶をするのは、ボクの周りにまだまだ残っている習慣・礼儀である。「ニコッ」は別にしてだが・・・ボクも心がけている。しかし、新しい住人が増えてきて、また散歩する人が増えてきたのに挨拶をしない人が多くなっているのも同じだ。知らない人でも村中であったらこちらから先に挨拶をしようと、心がけていたつもりだが、あまりされないと自然にしなくなっていた。この文をきっかけにもう一度挑戦してみたい。挨拶は社会の貴重な潤滑油なのだ。
 そして「一人だけニコッを抜きのあいさつをしている人」があるのも同じだ。困ったことだ。この歳になっても自己改造を図らねばならないことばかりだ。

(第990話) 定年は自分で  2008,9,13
 “会社勤めの人にとって、定年は人生の大きな節目となる。恐らく心の内で、ある時からカウントダウンが始まっている。あと何年で終わりだ、と▼定年の日に、自分の力量が急低下するわけではない。〈亀の甲より年の功〉と言うではないか、と思ってみたりもしよう。だが定年はそれぞれの人生に等しく、区切りを付けていく▼社員がいつ引退するかは本人が決めることと、定年制を設けていない経営者がいる。愛知県豊橋市で工作機械をオーダーメードで製造・販売している『西島』の西島篤師社長(57)。140人の社員のうち60歳以上は18人。最高齢は75歳で、勤続50年表彰を受けた社員も3人いる▼ものづくりの技術は、一生を通じて磨いていける。だから60歳も進化の途中にすぎないと痛感したのである。報酬も年齢ではなく、能力に応じて支払われる。ちなみに今、最高評価の社員は70代だという。高齢化社会を元気にするための一つのモデルになろう。(9月1日付け中日新聞)

 コラム欄「中日春秋」からです。人間、一般には自分の意思のまま過ごせるのは大きな幸運である。働きたいときまで働き、働きたくなったら辞める、これもその一つである。自由業や自営業はそれが比較的やりやすい。でも定年のあるサラリーマンにはそれが許されない。この「西島」の場合はその定年がないのである。なぜそれが可能なのか。それは「ものづくりの技術」であり、60歳も進化の途中であると言う考えが大きなことであろう。企業にとってまだ向上する人を辞めさすのは企業の損失であり、何も辞めさすことはない。これは企業にとっても、働く人にとっても大きな徳である。あまり一般的でないことだから記事になる。
 多くの企業に定年制があるのは、定年近くになると能力が落ちてきて、世代交代をさせた方がいいからである。大方の人が定年を過ぎても能力が向上するのなら、いろいろな要素が絡むであろうが、多分企業は定年年齢を上げるであろう。
 多くの仕事は、多くの人は残念ながら高齢になると能力が落ちるのである。だから定年のあることもありがたいのである。いったん区切りをつけて、適した新たな仕事や生活に向かうのもまた一つの方法である。

(第989話) 虫聴き 2008,9,11
 “最近涼しい日が続きました。この後、残暑はどれくらいの厳しさでやってくるのかちょっと気になります。いつの間にか夕暮れも早くなり、少し前までは午後七時はまだ空は明るく、夕日を眺めていた時刻だったのが、もう今は真っ暗。そんな夜に響いてくるのは虫の声。
 昔から日本人は虫の声を聴き分けて楽しみました。スィーッチョン、スイーッチョンとリズムよく聞こえてくるのはウマオイ。コロコロリーリーとかわいらしいけれど力強いのはエンマコオロギ。意外なのはコンクリートに囲まれている都会の中でも耳を澄ませばたくさんの虫たちの声が聴けること。長くなっていく夜の楽しみの一つです。”(9月1日付け中日新聞)

 「くらしの歳時記」という欄からです。「虫聴き」という文字にふと目が止まった。こんな優雅な日本語があるのだ。虫の声をしたって田舎道を歩く、気持ちの持ちようによっては貴族の世界である。歳時記の本を開くと、虫合わせ、虫狩り、虫吹くなどの言葉もある。俳句の世界では今もこんな言葉が使われているかどうか知らないが、普通には縁遠くなった言葉である。時折こんな言葉に触れ、日本人の生活、日本語の豊かさを知ってみるのもいいだろう。
 こうして夜パソコンに向かっていても、ボクの耳には虫の声が届く。秋になったと知る。秋は短い。十分に味わって冬を迎えたいものだ。そして、冬には冬の言葉を知りたいものだ。

(第988話) 五人姉妹の底力 2008,9,9
 “私たち姉妹は今年四月、「仲良し五人姉妹展」を名古屋市営地下鉄黒川駅構内の黒川ギャラリーで開きました。五人合わせて三百四十二歳。「老女展になってしまう」と、わいわい言いながら楽しくそれぞれの作品を飾り付けました。私は、未熟な絵手紙を出品しましたが、姉たちは、ちぎり絵、生け花、とき絵(立体絵画)、着物のリフォーム、ビーズ、マクラメ編み、パッチワークなど、とても素晴らしい作品でした。驚きました。感動しました。こんな立派な作品を持っている姉たちを心から尊敬しました。この作品を多くの方に見ていただきたいと思いましたが、宣伝方法も知らず、友達と地下を通る方に見てもらいました。
 姉たちがいつまでも元気で、また姉妹展をしたいです。そのときは、多くの方々に見ていただきたいと願っています。何はともあれ、姉たちのパワーに乾杯。”(8月26日付け中日新聞)

 名古屋市の宮崎さん(女・63)の「つるかめサロン」への投稿文です。姉妹5人が揃って手芸の趣味、特技があって、平均70歳で共同の作品展を催す。ありそうでなかなかない、羨ましい、幸せな姉妹である。こういう話を聞くと、女性をつくづく羨ましく思う。男兄弟5人ではまずあり得ない。まず趣味を同じくすると言うことが難しい。そしてこの歳で、誰も亡くならずに5人揃うと言うことも難しい。本当に女性は長寿社会を謳歌している。女性だけ人生を謳歌させておいていいのだろうか。もし5人兄弟でこんな催し物ができる人たちがあったら是非やって欲しいものだ。

(第987話) 幸せになるために 2008,9,7
 “松本サリン事件で犯人扱いされ、報道被害の矢面に立たされた河野義行さんの妻澄子さんは、還暦を迎えて亡くなられました。河野さんの「命あるかぎり」をちょうど読み終わって、すぐのことでした。
 人を恨んだり、憎んだりすることは、かけがえのない人生をつまらないものにする。人は幸せになるために生まれてきたんだ、とありました。
 今の私にとって、最高の励ましとなりました。日々の生活、仕事での対人関係が時としてストレスとなるときに、この言葉がよみがえります。私は、1年余の看病の末、主人をがんで亡くしました。早いものでもうすぐ7回忌です。自らを責め、無気力になるなどつらい思いをしました。でもこの本に出合って心の持ち方がいかに大切かということを改めて思いました。”(8月22日付け朝日新聞)

 名古屋市の会社員・渡辺さん(女・55)の投稿文です。「ローマ人の物語」に続いてまた本の紹介になりました。河野義行さんについては、新聞等で見る以外何も知りませんが、その新聞等での姿勢にはいつも感心していました。冤罪をかけられながらも、どうしてあれだけ冷静に対応できるのか、ほぼ植物人間となられた奥さんにどうしてこんなに長い期間、あれだけの愛を持って接しられるのか・・・・そしてよくこれだけできた人に冤罪をかけたものだ、といろいろ考えさせられます。
 そして、この本の中の言葉です。「人を恨んだり、憎んだりすることは、かけがえのない人生をつまらないものにする。人は幸せになるために生まれてきたんだ」河野さんなら人をいくら憎んでも恨んでもいいのに、その人からこのように言われるとしみじみと受け取らざるを得ません。この本、ボクも一度読まざるを得ません。
 「ローマ人の物語」は、文庫本で全31巻のうち今6巻目を読んでいます。全く面白い。

(第986話) 募金箱に少しずつ 2008,9,5
 “名古屋市中川区の北村安代さん(69)がボランティアの仕事に出掛けるため、金山総合駅の南口でバスを降りた時のこと。出入り口付近から、子どもたちの「お願いしまーす」という声が聞こえた。目をやると十人くらいの小学生が募金箱を抱えてずらりと並んでいた。
 北村さんの前を二十代の男性三人が歩いていた。と、そのうちの一人が箱の中に小銭を入れた。子どもたちは声をそろえて「ご協力ありがとうございました」と言う。
 ところが、それで終わりではなかった。その男性は、十人の募金箱すべてに順にお金を入れていったのだ。その後に続いて、仲間の二人の男性も同じように十人の募金箱へ。子どもたちの「ありがとうございました」の声が、笑顔とともに連呼された。”(8月17日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。なかなか粋な計らいである。ボクも募金するとき、どの人に入れようかなと迷うときがある。そして、たいがい先頭の人に入れてしまう。大人なら問題ではなかろうが、子供の場合、少ない人にひがみ気分も出るのではなかろうか。ヒョッとしてこの若者、寂しい思いをした経験があるのかも。この分割して募金は見習ってもいい行為だ。

(第985話) ゴーヤーブーム 2008,9,2
 “今、わが家はゴーヤーブームだ。庭で育てていたゴーヤーが次々と実りだし、「今日は何を作ろうかな」と毎日料理している。私が知っていたのはゴーヤーチャンプルくらいなので、調理法を本などで調べ、いろいろ作ってみた。その中で家族に大好評だったのが、ゴーヤーミートボールだ。ミートボールの中にゴーヤーのみじん切りが混ぜてあり、甘酢あんをからめたものだが、ほとんど苦味が気にならず、子どもたちも「お代わり!」の連発だった。今では、わが家のゴーヤーのおかずの人気ナンバーワン。もう一つ、意外な味だったのが、ゴーヤーアイスクリーム。「アイスの中にゴーヤーが」と思いながらも、興味津々で作り、食べてみるとおいしい。あの苦味とアイスクリームの甘味がよく合い、さっぱりしている。子どもたちの「もっと食べたい」のリクエストに応え、いつも冷蔵庫に作り置きするようになった。
 まだまだ猛暑が続く。ビタミンCが豊富なゴーヤーを食べて、家族全員で暑さを乗り切りたい。”(8月17日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・桜井さん(38)の投稿文です。ゴーヤーはゴーヤとも苦瓜ともツルレイシとも言う。ボクもこの8月はゴーヤ漬けになった。川柳連れ連れ草8月号のタイトルは「苦瓜の章」とし、掲示板の「UPクイズ」にも使った。もちろん食べる方もである。苗も買ってきたし、種で蒔いたものも成長したから大変な収穫となった。最近はわが地方でも家庭用に作る家は多くなった。桜井さんが言われるようにビタミンC等の水溶性ビタミンを多く含む事や、健胃効果もあるため、夏バテに効く健康野菜・ダイエット食品として有用である。
 わが家の奥さんが作る「ゴーヤ佃煮」のレシピを紹介しておきます。苦みをなくすのにかつおぶしを入れるのがミソらしい。わが家の夏は常時この佃煮が食卓に載っている。
 @ゴーヤ1kgに、ちりめんじゃこ70g、みりん100cc、酢100cc、醤油200cc、砂糖200g、いりごま50g、かつおぶし100gを用意する。Aゴーヤの種を取り、塩もみをし、湯の中に入れ、冷めるまで置く。B調味料を煮立て、ゴーヤを入れ、汁気が無くなるまで煮込む。


川柳&ウォーク