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第52号  2008年8月

(第984話) 先送りの恩返し  2008,8,31
 “結婚するとき、すでに義母は糖尿病の合併症により、目は見えず体も弱く、布団に伏せがちでした。近い将来、介護が必要になることは目に見えていました。ですから、私は義母のことも踏まえて結婚を決めました。嫁いでからも、義母の視力はどんどん落ち、毎日体の痛みを訴え、布団に入ったままの日も増え、結婚当初に比べるとはるかにお世話することが増えてきました。
 私には四歳の息子と二歳の娘がいます。幼い子を抱えての介護は決して楽ではありません。しかし、子どもたちにとって大きな影響を与えていると思います。先日、息子が義母の手を引き、「ここに段差があるよ」と教えていました。私の言葉そのままでした。そのとき、私は子どもたちが私の姿をちゃんと見ていたことに気が付きました。
 介護は本当に大変です。でも、義母のお世話をしようと決めてから五年がたった今、気持ちは変わりません。時がたてば、私も誰かのお世話になるときが来ます。後先逆ですが、今、その恩返しを先にさせていただいているのだと、感じています。”(8月10日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・木村さん(33)の投稿文です。親と子は順送りである。子供の頃親に受けた恩は、自分の子に返す。それが老後の面倒と言うことになると、まず親の面倒をみて、自分の面倒は子にしてもらう。これを木村さんは、恩返しを先にやるという表現である。面白い考え方だ。でも、これで家庭は成り立ち、社会も成り立つ。
 そしてこの文で、やはりなと思うことは「子は親の背中を見て育つ」と言うことである。子供は親のやっていることはすぐ真似をする。いくら口先で良いことを言ってみても、自分でやりもせず言うのは身勝手だ、と言うことになって返って反発する。親が黙ってやっている姿に、子供が感心すれば子供もそのようにする。子供の教育は言うよりもやっている姿を見せる、これが肝腎である。
 親が父母の面倒をよくやっていれば、子供は知らぬうちにそれを学ぶ。投稿欄を見ていても「親がこうやっていた」といった尊敬の気持ちの言葉は多い。わが家の老母は昨年から特養にお世話になっているが、子供や孫もよく特養へ見舞いに出かける。そんな時、孫は進んで老母の車椅子を押している。その姿を見ると、孫にとって良い環境にあると嬉しく思う。長寿社会になり、自分の老後は誰に面倒をみてもらうことになるか分からない。孫かも知れないのだ。

(第983話) 赤ちゃんの母親 2008,8,29
 “小牧市の加藤和子さん(80)が、四月に生まれたひ孫に会うため東京の孫娘の家を訪ねた時の話。名古屋駅から朝九時台のひかり号に乗り込んだ。ほぼ満席。加藤さんの後から、赤ちゃんをダッコバンドで抱えた二十四、五歳の母親が乗り込んで来て、加藤さんの三つくらい前の席に座った。
 発車して間もなくのこと。突然、その母親が席を立って周りに向かってあいさつした。「皆さま、おはようございます。これからきっと皆さまにご迷惑をおかけするかと思いますが、お許しくださいますようよろしくお願いいたします」大声でよく通る声だった。かなり遠くの人まで聞こえたはず。何人かが後ろを振り返って母親の方を見た。加藤さんは、初めての出来事にうれしくなって、思わず拍手をしてしまったという。”(8月10日付け中日新聞)

 志賀内泰弘さんの「ほろほろ通信」からです。見ず知らずの人の中で大きな声で発言する、この母親の行為はかなりの勇気がいる、普通にはできることではない。以前、赤ちゃんに泣かれて周りの人に迷惑をかけ、謝りたい経験があってのことだろうか。それにしても勇気がある、ボクにはできない。加藤さんがそれに答えて拍手したのもいい。このお母さんも安心されたであろう。
 この文の冒頭に「子供が騒いでいると親は何をやっているのだと思い、赤ちゃんが泣いていると親が気の毒になる」という意味のことが書かれていたが、ボクも全くそうだ。赤ちゃんは言ってどうなるものでもない、見ていて全く子育ては大変だと思う。しかし、4、5歳以上の子供になったら言ってきかせねばなるまい。

(第982話) 落とした手紙  2008,8,27
 “もしかしたらこの新聞を読んでいるかもしれないあなたに、お礼を言いたくて投稿しました。七月十二日、沖縄の友人にあてた手紙を、外出中に落としてしまいました。心当たりのある名古屋市港区役所周辺を捜しましたが見つからなかったので、あきらめて後日、ポストカードに同じ内容を書いて送りました。
 カードを送った翌日、「届いたよ!」とメールが来たので電話をずると、手紙が二通届いたというのです。まさか記憶障害?と自分を疑ったのですが、聞けば落としたはずの封筒の方は、神宮の郵便局の印が押されており、私はその辺りを通っていません。ということは、封もせず切手も張らずの手紙を、親切な人が拾って出してくれたのだ、と思いがけない展開に二人で感激しました。世の中って楽しいですね!友人の気持ちも込めて、本当にありがとうございました。”(8月8に付け中日新聞)

 名古屋市の玉村さん(女・20)の投稿文です。拾った手紙に切手を張り封をしてポストの投函する、いたずらや無関心が多い世の中には親切な話である。
 切手を張らずに出したらどうなるであろう。受取人が払うのか、差出人に戻るのか、また郵便局にとどめ置かれるのか、いろいろなケースがあるようである。この場合は多分受取人が払われるでしょう。差出人の名前が封筒に書いてなくて、受取人が不審に思って拒否したら郵便局据え置きとなるのだろうか。
 この話で少し気になるのは、拾われた人は中味を見られたであろうか。もし見られたのなら、悪意はなくても内容によっては思いがけない展開にもなる。この話から、封書を封もせず持ち歩くときはよほど気をつけねばと思う。善人に悪意の気持ちを起こさせる行為は罪悪だ。財布を落とすのは罪悪だ。

(第981話) 誠意ある行動 2008,8,25
 “いかにもどこかの社長のようなスーツ姿で金時計をつけた老人に、「どうもありがとうございました」と、深々と九十度のおじぎをされたことが、つい最近あった。具体的に何をしたかというと、道をたずねられ、偶然その場所がよく知っている所だったことから、丁寧にわかりやすく説明したのだった。僕は典型的な高校生であると白覚している。髪や制服の着こなし方といい、大人から見ればだらしなく見えるだろうと思う。そんな僕に、このような老人が後頭部が見えてしまうほどのおじぎをしたのだった。ささいなことではあるが、僕にとっては胸が熱くなるほどうれしく、そして驚いた。
 これから数年すると社会人として働くわけで、外見は大切である。しかし、少なくとも誠意を持って人と接すれば、外見や年に関係なく自分を認めてもらうことができるのだと深く悟った出来事だった。”(8月8日付け中日新聞)

 岐阜県山県市の高校生・川崎さん(男・18)の投稿文です。いかにお礼といえど、自分よりはるかに若い、子供と思える人に向かって深々とお辞儀をするのは、なかなかできることではない。特にいつも崇められている社長と思えるような人ならなおさらである。行為には、どうしても社会的地位や老若という歳がついて回り、いかにお礼といえど、目上の人には丁寧に、目下の人にはぞんざいになるのが普通である。ボクなど全くそうだ。それであえて批判されることでもない。しかし、そういったことを離れ、その行為自身にかぎれば、親切にしてもらえば丁寧にお礼を言うのは当然である。気をつけねばならない。
 しかし、川崎さんが言う「少なくとも誠意を持って人と接すれば、外見や年に関係なく自分を認めてもらうことができる」と考えるのは少し早計だ。知らない人はまず外見で判断する。そうならざるを得ない。一度悪い印象を持たれると、その修正には大変な時間と努力を要する。やはり外見も大切だ。そう言いながら、ボクはもう長いこと髪を黒く染め若作り?してきたが、つい最近それを止めた。さあ、どうなるか・・・・。

(第980話) 尊敬する人 2008,8,23
 “小学6年の娘が国語の授業で尊敬する人は誰かとたずねられたという。私は、娘がどんな偉人の名前をあげたのかと興味津々で聞いてみた。
 娘は「お隣のおじさん」と答えたという。娘が小さな頃から長年、日曜の朝にゴミ袋を持って、町内中のゴミ拾いをしている。それがすごいなあと思ったらしい。授業では、お客様第一で一生懸命働いているからと近くのコンビニの店長さんをあげたお子さんもいたという。子供は、身近な地域社会から直接多くのことを学んでいるのだと思い知らされた。
 同時に身近に尊敬できる方がいてくださることに親として改めて感謝した。お隣のご主人がされてきたことは、ただ町内をきれいにするだけではなかったと感じた。ちなみに隣のご主人が拾ってこられたゴミを人知れず分別されている奥様も、尊敬に値するのではと娘に話すと、深くうなずいていた。”(8月5日付け朝日新聞)

 茨城県古川市の主婦・白戸さん(41)の投稿文です。先日の第976話で「金メダルを贈りたい人」を紹介したが、まさにこのおじさんこそ金メダルを贈る人にふさわしい人だ。町中のゴミを長年一人でこつこつ拾う、尊い行為である。それを尊敬の眼で見ている少女、こういう身近な行為の与える影響は大きい。この少女には折に触れ一生この姿が現れるだろう。それが悪いことから遠ざけ、良い行為に近づける。白戸さんも言われるように、町の中がきれいになることよりも、こうした子ども達に良い影響を与えることの方がもっと意味があるだろう。逆に、大人のちょっとしたルール違反は、その行為の及ぼす影響より、それが子供与える影響の大きさを知らねばいけない。投書欄には青少年から大人だってこんなマナー違反をしているというものがかなり多い。批判している間はいいが、大人がしているから自分もしていいと言うようになったら大変だ。そうなる可能性は大きい。

(第979話) ローマ人の物語 2008,8,20
 “夏休み。勉強にも身が入らず、バイトをする気力もなく、クーラーの部屋で漫画ばかり読んでいる高校生のあなたにお勧めの本があります。塩野七生著「ローマ人の物語」全15巻です。
 「そんな長いものが読めるか!」と言うでしょう。私もそうでした。衰える一方の頭にカツを入れようと、還暦記念に1巻だけ、絶対読めないだろうなあと思いつつ図書館で借りました。それが、こんなに面白い本を読んだのは初めてと思うようになったのです。紀元前8世紀から後5世紀までのローマ帝国の隆盛と、なぜ衰退していったかが、資料に基づき自身の考えをパンチのきいた文章で述べられていて、どんどん引き込まれていきました。
 恐らく2、3巻まで読むと、あなたはたった15巻しかないのか、次はシーザーの「ガリア戦記」を読みたいとか、ラテン語を習いたいとか思うことでしょう。そして、親は言うでしょう。「ご飯も忘れて勉強せんと、ちょっとは遊んだらどう」”(8月1日付け朝日新聞)

 三重県いなべ市の梅山さん(女・60)の投稿文です。「ローマ人の物語」の素晴らしさはよく聞いているが、残念ながらボクはまだ読んでいない。読んでいたら「そうだ!そうだ!」と梅山さんと一緒に勧められるだろうに情けない。
 しかし、梅山さんの勧め方はうまい。文章力か、ユーモアか、60年の人生でもっとも面白かったいうくらい心酔したからか。そしてこうした本をこんなに言わせる梅山さんは素晴らしい。面白いと言っても、面白さが分かるにはかなりしっかり読まないとそれが分からない本の気がする。ボクはこうした長編ものから遠ざかって久しい、一度検討してみるか。
 『そして、親は言うでしょう。「ご飯も忘れて勉強せんと、ちょっとは遊んだらどう」』こう親に言わせたらこの高校生も痛快だろう。周りも見直すだろう。今や「ご飯も忘れてゲームばかりして、ちょっと勉強したらどう」と親にこういわせるのがほとんどだから。

(第978話) 持続を目標に 2008,8,18
 “今や「持続可能な社会システムの構築」は21世紀の人類にとって最重要課題である。これは、裏を返せば大量消費文明が持続不可能であることを意味している。経済発展と環境問題は両立できるのだろうか。
 自然界には「永久機関は不可能」という大原則がある。どんなに科学技術を駆使しても、経済発展を望むならば、永久機関を作ろうとした先人の誤りを繰り返すことになるのではないか。地球温暖化や化石燃料の枯渇は、経済発展という価値観を捨て去り、真の持続可能な社会へ方向転換する最後の機会なのではないだろうか。原子力により経済発展を維持しようとするならば、生態系の平衡をあるベき姿に戻そうとする自然のフィードバック機能に逆らうことになる。一度生態系の平衡が崩れてしまったならば、元に戻すのは不可能に近い。経済一辺倒な価値観を捨て、江戸時代のような生活に戻れたらどんなに暮らしよいだろうかと、夢想している。”(8月1日付け朝日新聞)

 小牧市の教員・丹羽さん(男・49)の投稿文です。「話・話」にこういった議論を呼ぶような話題はあまり掲載しないようにしているが、この意見には日ごろボクが思っていることに近いものがあるし、重要なことであるので紹介しました。丹羽さんの言葉を借りてボクの意見を言うならば「大量消費文明、経済発展という価値観を捨てない限り現在の自然環境を維持するのは不可能」ということです。現状を見ていると、例えば新聞では、あるページでは消費抑制、エコ活動の重要性を論じ、他のページを見てみると経済の活性化、消費の拡大を論じています。他のマスコミでも同じようなものです。ある時間では温暖化を憂い、ある時間では経済成長率の低下を憂いています。これでは自然環境の維持などできるとは思えません。ボクは、人間いくら叡智を働かせても経済成長を求める限り、悪化のスピードをどの程度落とせるか、それが精々だと、かなり悲観的な見方をしています。全世界的に見て、経済成長の欲望を止めることはまず不可能です。環境が変わっても、人間が住めなくなる環境になるまでにはまだかなりの年月があるでしょう。丹羽さんの文をきっかけに更によく考えてみるのもいいのではないでしょうか。

(第977話) 男の改造 2008,8,15
 “石川さゆりさんの「天城越え」がクライマックスにさしかかった。ちょうどその時である。「ヘェーックショイ」傍若無人、天下無敵、恥も遠慮も慎みも腰をぬかしそうな、特大くしゃみが満員の劇場を揺るがした。崇之さんは驚きのけぞる。二列前の席に座っているおやじだった。いくら何でもこれはないぜ。
 「まったく失礼よ、あのバカげたくしゃみは何なの。信じられないわね」「だから私、夫のことさそわないの。うちのくしゃみも強烈よォ。エチケットなんて言葉があることさえ知らない」「セキとタンもいや。ハンカチで鼻押さえて下向けば、あれはどの大音量は防げるわ」たしかにそうだと、崇之さんもうなずいた。二年前に妻を亡くした彼は、やっとこのごろ一人遊びを楽しめるようになった。
 出るもんは仕方ないだろと男は言うけど、それは違う。つまり成熟してないのだ。周囲と出演者への気配りさえできれば、猛獣も恥じ入るようなくしゃみにはならない。まだまだ男の改造は道が遠いと崇之さんは思った。”(7月30日付け中日新聞)
 
 作家・西田小夜子さんの「妻と夫の定年塾」からです。男性へのなかなかの辛口批評である。でも否定できない。会社社会から別の世界へ出るには、また別のマナーが必要である。特に男性社会で生きてきた人が、女性の多い社会に出るにはよほどの心構えが必要になる。今更とか、「触らぬ神に祟りなし」などといっておられればいいが、宗之さんのようにすべてを許してくれる妻を先に亡くす場合もある。ボクも妻より長生きする気持ちはさらさら無いが、今のところボクの方が健康で元気であるようだ。

(第976話) 金メダルを贈りたい人 2008,8,13
 “住友生命がインターネットを通じて「金メダルを贈りたい人は誰ですか」と質問し4000人の回答を集計した。記事はその結果を、母親(25.9%)が父親(7%)に圧勝などと伝えていたが、それに驚きはない▼むしろ少し意外だったのは、父母を特定しない回答を含め「親」(42.1%)がトップだったという点だ。しかも二位は「配偶者」(19.8%)、三位は「子ども」(8.2%)。いわば、両親と子で表彰台独占である▼さらに詳しく見れば、「祖父母」「兄第姉妹」の回答もあって、合わせると、「家族」は72.9%にも。妙な悲観も引っ込む、何だかほっとさせてくれる数字ではないか▼ふだんは口に出さない感謝の気持ち、の象徴だろう。「親子」「家族」が互いに贈り合う金メダルには、まもなく開幕する北京五輪のそれにも負けぬ輝きがある。”(7月30日付け中日新聞)

 コラム欄「中日春秋」からです。この住友生命の記事を見たとき、ボクもコラム氏と同じように、ホッとした気持ちを持った。社会の最小単位は夫婦、家族である。それが崩壊したら健全な社会などあり得ない。金メダルを贈りたい人が「家族」と73%もの人が答えていることに「日本家族は健全である」と安心した。多くの人は家族に、その誰かに感謝や敬意の気持ちを持っているのだ。社会ではいろいろな悲惨な事件が報道されているが、割合的にはわずかである。崩壊家族も多いようだが、まだ救いはある。
 しかし、逆に「金メダルを贈りたい人」と問われて、家族以外になかなか思い浮かばないと言うことである。母親や家族は自分にもっともよくしてくれる人である。よくしてくれる人だから金メダルを贈りたい。また、本当に自分によくしてくれる人は家族以外にないということを証明したことにもなる。でもこのアンケートの趣旨は、自分によくしてくれる人を尋ねたわけではなく、もっと広い意味で尊敬できる人を求めたのではなかろうか。

(第975話) 親の愛情知る 2008,8,11
 “私は去年十七歳で妹ができました。母は三十五歳で高血圧の持病があったので、すごく大変な出産でした。妹は予定より二ヵ月早く生まれた未熟児で、私はーカ月以上会わせてもらえませんでした。あれからー年たち、妹はまだほかの子と比べても小さく、成長も遅いです。それに体も弱く、毎月病院に通っています。それでも毎日必死に生きていて、私は母親ではないけれど、「この子の小さな命を何があっても守ってあげたい」と思っています。
 このようなことを考えた時、母が私のことも同じように心配して、守りたいと思ってくれていたんだと思うと、とても温かい気持ちになります。たまたまうちの家族に生まれてきてくれた妹のおかげで、今まで気づけずにいたことにたくさん気づけました。両親の子供に対する愛情の深さなど、普通ならいつまでも気づけなかったと思います。妹に感謝の気持ちでいっぱいです。”(7月30日付け中日新聞)

 愛知県高浜市の高校生・安藤さん(女・18)の投稿文です。未熟な妹に対する両親の献身的な姿から、両親の自分に対する愛を知り、更に妹へ感謝の気持ちを持つ。何という優しい気持ち、読んでいて心洗われる。人はこんな素直な気持ちになれるものだ。18歳の女子高生といえば、反抗の固まりであっても不思議ではない。安藤さんのような境遇の場合、妹ばかりに関わり合って、と反抗的になる場合も多い。この違いはどこから出てくるのだろう。どのように接したら、こうなるといえるものはあるだろうか。いろいろ言ってみるが、多分それだけではならない総合的なものだ。安藤さん、今の気持ちをいつまでも忘れないように願っています。それが貴女のためでもあるのです。

(第974話) 細井平洲 2008,8,9
 中日新聞には今、童門冬二氏の「歴史に学ぶ知恵」が連載されており、7月27日の第53回は細井平洲についての話であった。細井平洲は、江戸中期の学者で現在の愛知県東海市(当時は尾張国知多郡平島村)の出身である。一宮友歩会の今年12月の例会は東海市の史跡巡りを予定しており、7月12日に第1回目の下見をしたばかりである。そして、東海市には5カ所も細井平洲の像が立っており、平洲の名を付けた平洲小学校もあり、いかに市民が平洲を誇りに思い熱い気持ちを寄せているのか知ったばかりである。歴史に学ぶ知恵から少し紹介したい。
 “平洲は実学を重んじ、当時財政難にあえいでいた大名家の財政再建のための指導をおこなった。そのテキストが「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」である。(中略)
 平洲が「嚶鳴館遺草」を与えた大名には、尾張藩主・米沢藩主・西条(四国)藩主などがいる。とくに米沢藩主上杉鷹山が有名だ。平洲は鷹山のために何度も米沢にいき、新しくつくった興譲館における学校教育を通じて、鷹山の改革を助けた。
 そしてこの平洲を発見したのが上杉家の医者で学者でもあった藁科松柏だ。その発見方法が面白い。平洲は「学問は庶民の実生活に役立たなければ意味がない」といって、両国橋のたもとに立って、この青空劇場でほかの芸能人たちに交じって、自分の学説をやさしく説いた。はじめのうちは白眼視されたが、やがてはほかの芸能人の誰よりも平洲の前に立つ聴衆がいちばん多くなった。そして平洲が語り終わると、みんな拳を眼に当ててあふれ出る涙を拭いたという。藁科松柏はそういう平洲の講義をきいて、(この先生こそ、養子若君の指導者に適任だ)と考え、懇望して上杉家に招いたのである。”
 
 芸人扱いの平洲が藩主の指導者になる、人は一生懸命やっていればどこで見いだされるか分からない、そんな逸話である。人が見ていようが、見ていまいが、自分の良いと信ずる態度で事に当たる、結局はこれが一番自分のためである。評価を受ければそれも良し、無くてもそれも良し。

(第973話) モンスター 2008,8,7
 “先生に、脳天をコツンと叩かれた。そもそも宿題を忘れたのは僕だし、とくに痛かったってわけでもなかったんだけど、なんとなくママに告げ口したのがよくなかった。
 学校へ抗議しに行く、とママが言い出したのだ。慌てて、体罰ってほどじゃないよ、と弁解しても聞き入れてくれない。
 翌晩、ママは、すごく機嫌がよかった。どうやら、本当に、先生にあれこれ文句をつけてきたようだ。
 参ったなあ、とオムライスを口に運んでいたら、インターホンが鳴った。ママが玄関のドアを開けると、目を三角にした中年女性が立っていた。
 「あなた、うちの子を怒鳴りつけたらしいわね!」先生が先生のママに告げ口をしたのだ。”(7月27日付け中日新聞)

 千葉市の自由業・森村さん(男・26)の「300文字小説」です。前回に続きまたまた300文字小説からですが、前回の1週間後のものです。昨今は権利主張が行きすぎてモンスターばやりです。この小説のようなモンスターペアレントから始まって、客、患者・・・更に納税者。この話もありそうな気がする。生徒の親はモンスターかも知れないが、先生の方は子離れができていない親ということであろう。今や先生は言われっぱなし、やられっぱなしの時代である。ボクの娘婿は小学校の教師であるが、疲れ果てている。娘は母子家庭だという。だからこれはボクの私的な感情であるが、この話を少し痛快に感じる。
 「お客様は神様」という言葉がはやったが、これはお金を払う方が偉い、という考え方になってしまった。紙切れ崇拝社会になってしまった。本当にお金を払う方が偉いのであろうか。お金をもらう方は、知恵を働かせ、何かを作り、何かをしと、ともかく実働が必要である。ただ紙切れを渡す人よりよほど尊いと思う。教師より生徒の方が、その親の方が偉いのであろうか、医師より患者の方が、売る人より買う人の方が偉いのであろうか、ボクはすべて逆だと思う。そしていざとなれば、紙切れはただの紙切れ、先生や医師や売る人の方が強いのである。その実際には強い方への戒めとして「お客様は神様」が使われたと思う。この言葉に客の方が有頂天になってはならない。社会は一方だけでは成り立たない。買って頂く、売って頂く、すべてこの精神が必要だ。

(第972話) 不気味なマラソン 2008,8,5
 “人生とは長いマラソンのようだという。まさに、その人生マラソン真っ直中の男が、すぐ隣を走る同年代の白髪の男に声をかけた。「この道の終わりには何かあるんでしょうかね?」「そりゃあ、死に決まってますよ。なんせ、これは寿命レースですからね」それじゃ、お先にと、白髪の男は右手を挙げて走り去った。
 「お先にだって? 死のゴールヘ、そんなに急ぐなんてバカバカしい」鼻で笑うと、男はわざとゆっくり歩き始めた。まもなく、ヒタヒタと近づく不気味な足音に男は振り返った。死神だった。「おや? 追いついてしまいましたね」死神の腕が、親しげに男の肩に絡みついた。”(7月20日付け中日新聞)

 岐阜県大野町の主婦・目加田さん(55)の「300文字小説」です。人生訓もあり、ユーモアもあり、うまいなーと感心した。人間そんなにあわててどこへ行く、特に社会人を見ているとそう思う。ボクのように第二の勤めのようになると、少し冷静に見られる。僕らの若い頃はいくら忙しいと言ってももう少し余裕があった、無駄もあった、人もいた。携帯電話が発達して、より余裕が無くなった。余裕のない分死に急いでいる、といっても大きな間違いはない。人の一生の容量は決まっているとすれば、よりそうだ。死へのゴールを急ぐのは全くばかばかしいし、それでなくても死神は遠慮なく近づいてくる。死神に近づかない方法、近づかれない方法を模索したいものだ。

(第971話) 野茂英雄様 2008,8,3
 “前略 野茂英雄様。あなたは一九九〇年、当時の近鉄に人団し、見事、新人王に選ばれました。前に新聞で読んだのですが、その時、こう言ったそうですね。「花があるうちに辞めるんじゃなくて、落ちぶれてボロボロになっても投げ続けようと決めました」▼十八年の歳月が流れました。当時二十二歳も今や三十九歳。ついに引退だと聞きました。そしてなおもこう語っていたと。「引退する時に侮いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は侮いが残る」▼渡米後も大活躍でしたが、やがて挫折と復活の繰り返しに。でも、もはやチャンスが途絶えたと見えた時でさえ、あなたは、あきらめなかった。本当に言葉通り投げ続けました”(7月19日付け中日新聞)

 「中日春秋」というコラム欄からです。引退のインタービュー記事を読んだとき「引退する時に侮いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は侮いが残る」、この言葉に唖然とした。野茂の功績は長島、王に劣らないものだという人がいる。それだけの功績を残してこの言葉である、さすが野茂、常人と違うと思った。この記事で新人王に選ばれたときの言葉を知った。「落ちぶれてボロボロになっても投げ続けようと決めました」、その決心通りに人生を進めた。これを知ってますます驚いた。若いときにそう思ったとしても、これだけの栄光に包まれれば、この言葉を覆しても何の非難を受けることではない、ボロボロは耐え難い屈辱だと思って自然だ。最盛期を一歩下った時期に引退するスポーツ選手は多い、これも自然だ。野茂は本当に野球が好きだった、これは事実だったろうが、ボクにはそれだけでは納得がいかない。

(第970話) 孫とばあさん 2008,8,1
 “雨の土曜日。息子たちも家にいるし、孫は来ないだろうから、宿題の絵手紙を描かなくっちやと、道具を広げた。墨をすって絵の具を開く。
 すると・・・。ドタバタバタ。「おばあちゃん」。孫の来訪だ。保育園が休みなので、兄妹ツーショットである。さあ大変。「ぼくも描く」「ののちゃんも」とうるさい。私は一急いで紙と鉛筆を持ってくる。しかし、顔彩と筆を見つけた孫めは、色鉛筆では承知しない。
 しばらくすると、兄の方が 「おばあちゃんゴメね」としおらしいことを言ってきた。「ぬ、ぬ何をした?」「でんでん虫、つぶしちゃった」朝、画材用に見つけてぬれた皿の上に載せておいたでんでん虫が災難に遭っていた。
 散々散らかし、でんでん虫をつぶして帰って行った。せっかく描く気になったのに今日も描けなかったなー。ため息をつきながら、なぜか笑いが込み上げてくる一時であった。”(7月18日付け中日新聞)

 中津川市の主婦・前川さん(62)の投稿文です。どこの家庭の話かと、一瞬戸惑った。少し違う部分はあるが、このドタバタはわが家と同じである。妻もそう思ったらしく、夕食時に話題になった。そして、「話・話」に採択した。前川さん宅は兄妹だからまだわが家よりいいと思う。わが家は男二人である。家の中を体育館や運動場と間違えている。1時間も相手をすると疲れてしまう。これではたまらぬと何か少し手伝わせる、すぐ遊びに変えてしまう。さすが、子供と感心したいがそんな場合ではない。後がまた一苦労である。そうして帰ってくれるとホッとする。
 しかし、これを恵まれていると言わず、何と言おう。この状況を望んでいる人は多いと思う。まず子供が結婚してくれること、そして比較的近くに住んでくれること、この条件があって更に子供が生まれてくれること、これだけ揃うことは近年稀なりである。この環境もそんなに続くことでもない。このドタバタと当分楽しく闘おう。


川柳&ウォーク