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第45号  2008年1月


(第887話) 他人の目には長所 2008,1,31
 “授業で、周り5人に自分のいいところを聞く課題が出た。すると自分が短所と思っているところを周囲は「長所だ」と言ってくれて驚いた。私は、「作業が遅い」「頑固」「興味がないことへの行動力が弱い」と思っていた。しかし、周りから見ると「丁寧」「自分の考えを貫くことができる」「やりたいこと、好きなことをしている時の行動力が強い」だそうだ。自分が考えたこともなかった「見た目で判断しない」も長所だと教えてくれた。逆に、私が友達の長所を言った場合も「自分ではそう思わなかった」と言っていた。このように、自分にとって「悪い部分」でも、角度を変えると「良い部分」に見えてくることがある。
 今まで私は、他人ばかりをうらやましく眺め、自分自身と向き合おうとしなかった。これからは、誰よりも近い存在である自分のことを見つめよう。きっと、自分だから分かる「私の良さ」が見えてくるはずだ。”(1月17日付け毎日新聞)

 草津市の中学生・山田さん(女・15)の投稿文です。久々若い人からの文です。いい課題が出され、良いことに気付かれた。見方を変えると全く逆の意見になる、人生の多くにあることです。短所にあまり落ち込まず、長所におごらず、時折自分を省みながら人生を進めていくことであろう。これはいうほどに簡単なことではなく、ボク自身に戒めていっていることである。
 世の中、会社も学校も社会も評価ばやりである。ボクにはこのことが世の中おかしくしているひとつの原因ではないかと思える。実力主義とか、実績主義とか、これも評価で決まるが、評価する人の見方ひとつで変わるし、公正な評価手法もまず難しい。だから他人の評価を丸飲みするのではなく、参考にしておく位の気持ちでいいのではなかろうか。

(第886話) マリと子犬の物語 2008,1,29
 “先日、五歳と七歳のめいを連れて映画館へ行った。年齢が小さいので最後まで静かに見ているか不安な思いもあったが出掛けたのである。映画は東宝映画の「マリと子犬の物語」。ところが、めいたちは長時間にわたる映画を最後まで見ながら、時には涙を浮かべていた。そして終了後「めっちや感動した。もう一回見たいくらい」と言うのである。きっと二人とも、子供なりに何かを感じ取ったであろうと思い、映画館を後にした。”(1月16日付け中日新聞)

 四日市市の自営業・飯田さん(女・66)の投稿文からです。ボクはこの投稿文を読んで、映画館へ行ってみようという気になった。そして出かけ、胸を熱くして帰った。
そして、1月21日の中日新聞にこのマリという犬が、山古志に帰村した記事が載っていた。
 “中越地震で全村避難した旧山古志村の実話を基にした絵本や現在上映中の映画「マリと子犬の物語」のモデルとなった犬のマリが、新潟県長岡市山古志東竹沢の梶金集落に再建された飼い主の団体職員、五十嵐豊さん(42)宅に″避難先〃から戻った。
 マリは地震当日に三匹の子犬を出産したが、豊さんの外出中に地震が発生し、父の高繁さん(73)が家具の下敷きとなったため、子犬の世話をしながら高繁さんのほおをなめて励ました。マリは全員避難した無人の集落で子犬を育て、二週間余り後、ヘリで迎えに来た豊さんに救出された。一時は仮設住宅で過ごしたが、豊さんの知人で同市瓜生の会社員片桐良雄さん(54)宅へ預けられ、子犬はそれぞれ別の飼い主が見つかった。”
 
 投稿記事を見て映画を見に行く。そして翌日、その後の話を新聞で読む、この偶然の面白さ、楽しさ、これだから人生止められない。こんな話を伝えられるこの「話・話」も止められない。
 2007年10月31日の「(第843話)カモダザウルス」も同じような面白さであった。前日に実物を見ていなかったらその記事を見逃したかもしれない。このマリの話もこれほど興味深く読まなかったであろう。折角持っている目や耳や頭を生きているうちに十分に活用しないのはもったいない。

(第885話) 笑顔を意識 2008,1,27
 “「笑顔に勝る化粧なし」という素晴らしい言葉と出合った。これは若い女性だけでなく、無表情になりがちである私のような高齢期にこそ大切だと思う。
 笑顔も意識しないと、良い笑顔は生まれない。毎朝、鏡に向かい明るい声で「おはよう」と言いながら笑顔を作ると効果があるといわれる。初めはぎこちなくても、何回も繰り返しているうちに、自然と笑顔が身に付くという。
 表情は心の内面を映す鏡といわれる。いつも自然に笑顔が定着するようになると、明るく和やかな心がはぐくまれてきた証しである。にこやかな笑顔とさわやかなあいさつは、人と人とを結び付ける懸け橋になる。私はこの笑顔の点検を毎朝欠かさずすることにした。にこやかな笑顔とさわやかなあいさつの持ち主になって、誰からも親しまれる老人になるように心掛けたい。”(1月8日付け中日新聞)

 鳥羽市の中村さん(男、83)の投稿文です。いつも笑顔でおられれば、本人にとっても周りの人にとってもこんなに良いことはない。しかし、9の良いことがあっても1の暗い方に影響されがちなのが人間である。人間欲深いのである。自然暗い顔が多くなる。中村さんはそれを意識して克服し、笑顔を作ろうといわれるのである。最初は作り笑顔であるが、それも次第に自然になり、笑顔ができれば暗いことも吹き飛ぶというわけである。一理である。
 ボクも以前に比べれば心配事は少なくなった。でも笑顔も一緒に少なくなった。自分ながら全く理解に苦しむ。中村さんの言われることを心がけねばならない。2004年10月18日の「(第88話)笑いは心の養生」も併せて読んでいただくと良い。

(第884話) 夢の予備 2008,1,25
 “あるおばさんが言う。「私の長年の夢は、本物の温泉を引いた別荘を持つことだった。夫も私もお風呂が大好きなの。老後は別荘で温泉ざんまいもいいなあと」湯けむりの中で混浴する老夫婦。いいかも!「この夢、一年前にかなえたのよ」
 すばらしい。それにしてはあまりうれしそうには見えないが。「ええ。夢見ているときのほうが、ああしよう、こうしようって考えてホント楽しかった。働きがいもあった。今、なんだかつまらない。それに別荘は遠いから管理も大変でね。このごろ、よく思う。ああ、あのつぎ込んだお金があったら旅行もいっぱい行けたのに、と。人間って勝手よね」
 「今度は別の夢をかなえるために励んでください」と私が言うと彼女はふうっと静かに笑った。「もう、夢はないの・・・」
 そうか、夢も私のように二つも三つも予備を持って欲深く「まだーつしか、かなっていない」と追っているほうが長く気力を保てるのかもしれないなあ。皆さまも夢はたくさん持ってください。”(1月6日付け中日新聞)

 作家・小川由里さんの「おばさん事典」からです。本当に人間は貧乏性で、極楽でのんびりとはいかないもののようだ。目的を持って頑張るが、目的を果たすと腑抜けになってしまう、大学新入生の五月病などはその典型であろう。また事業欲や金銭欲は目標を達すると、その目標を更に高める。悲しいほどの貪欲さである。
 どう思っても腑抜けはまずい。テレビをぼんやり見ていて腑抜けにならないのは難しい。そこで小川さんは沢山の夢を持てと言われる。可能な夢を次々達成していくのか、たやすく果たせない大きな夢1つを追い求めるのか・・・・いずれにしろ夢を見つけねばならない。問題は年老いて夢を見つけることである。安楽になって夢を見つけるにはかなりの好奇心、意欲がいる。そうなると、意欲ある若いときに夢を蓄えておくことが肝心になる。
 また、達して終わる夢ではなく、継続することを夢とするものもある。例えば、この「話・話」も当面目標を1000話に置いているが、もう少し高めるとか・・・。

(第883話) 「やっと」の一言  2008,1,23
 “    確(しか)と立ち苺食める幼子のはえ初めし歯は白き宝石
 おいが長男を連れて遊びに来た時、感じるままに詠んだ歌である。「やっと明るい短歌が詠めたね」いつもファクスで近況報告をしあっている友の感想だった。約8年前、夫を失ってからというものは、景色を詠んでも猫を詠んでも、悲しみがどこかににじんでいた。それ以後、私に寄り添ってくれた友の心の底からの安堵感が、「やっと」の一言で手に取るように伝わってきた。自分でも気づかなかった心の変化に驚いた。
 私が自分の気持ちを持てあましていた時、一緒に悩み、悲しみ、つらさを分かち合ってくれた友だからこそ、「やっと」という言葉が思わず出たのだろう。胸に熱いものがこみ上げてきた。”(1月4日付け朝日新聞)

 春日井市の主婦・吉村さん(60)の投稿文です。思わず出た一言が感動を与えた。言葉の重さである。
 3話続けて「あの一言」から紹介したが、年齢を見るといずれも高齢である。他に5話載っていたが、77歳、63歳、71歳、71歳、70歳の方である。意図して高齢の方を選ばれとしたら別だが、そうでなければ、言葉の重さというのは歳いってから分かるということであろうか。

(第882話) 愚を悟る 2008,1,21
 “旧制中学3年の時、A先生の社会学の授業はいつも3時間目だった。教室に入ってこられると、「君たち、弁当を食べたんじゃないか。今食べたら夕食まで我慢できないよ」と、早メシの忠告で授業開始が恒例だった。
 卒業を前にした最後の授業のとき、「今日は君たちに特別なプレゼントを提供する」と言われ、チョークで黒板に「愚を悟る我の姿や梅の花」と大きく書かれた。「進学の人、社会で働く人も、常に自分は愚か者で何も知らない初心者だという思いを胸に持ち、知らないことは上司や同僚に堂々と納得のゆくまで聞いたり学んだりすることを実践したら、いつか寒風の中に人知れず高貴な香りを放ちながら咲く、梅の花のような人間になるんだよ」と力説された。
 あれから数十年が経過したが、人生訓として処世訓として貴重で鮮明な梅の一句は、今年も色あせない私の指導標である。”(1月4日付け朝日新聞)

 鹿児島市の不動産業・椨さん(男・78)の投稿文です。「愚を悟る・・・・」はA先生創作の言葉であろうか、こうした言葉は実感、体験がないとなかなか出ないものである。そしてこの言葉は椨さんの一生の指導標になった。人生すべてのことに言えることであるが、何が人に大きな影響を与えるか分からない。些細なことが一生を左右することもある。ボクが川柳を始めるきっかけなどまさにそんなものである。言葉もしかりである。
 ボクが若いとき研修で知った言葉、「人は考えた通りの人間になる」、時折思い出す言葉である。考えた通りになるかどうかは知らないが、考えないことには始まらない、理想や夢を持てと言うことである。

(第881話) 年賀状に借用 2008,1,19
 1月4日の朝日新聞の投稿欄は「あの一言」というテーマであった。その中から3題ほどを紹介します。

 “私の読書は、週刊誌2冊と月刊誌1冊、文庫本月に―冊といったところです。読めば、気に入った短文を手帳に記入し、その年の一番良いのを年賀状のあいさつ文に借用させていただいております。
 今年はプロゴルファー青木功氏の「今、ここ、自分」でした。氏が連載されている週刊詰のコラムにあったのですが、エージシュートを達成し優勝という快挙の後でしたので、なおさら感銘を深くした次第です。
 過去の積み重ねで今があり、少年・青年・壮年・老年ともどもの歴史の中に今があります。ここはどこなのだ、ここになぜいるのか、ここで何をなすべきなのか、その最善の方法は何か。その判断は、色々な情報が飛び交う中で、自分がしなければなりません。時間がある時は熟慮して結論を出せばよいのですが、世の中ではとっさの判断を求められることがしばしばあります。その時はどうするのか。自分しかないのです。ゴルフの世界だけでなく、あらゆる分野にわたって、この一言は通用するのではないでしょうか。”(1月4日付け朝日新聞)

 刈谷市の会社員・黒田さん(男・71)の投稿文です。1942年生まれ、65歳にしてまだ現役の青木功氏の言葉だけに重みがある。1月5日に紹介した「今が本番」と共に味わってみたい。
 さて、年賀状について新聞等では様々な意見が飛び交う。印刷やパソコン作成では味気ないとか、年一度の安否確認の便りだからそれでも良いとか・・・・。しかし、一工夫あればそれに越したことはない。黒田さんの年賀状はまさにそれである。1年の読書の集大成と考えれば大変な労作である。今年はどんな言葉が送られてくるか、楽しみにしておられる方も多かろう。そしてその言葉を参考にされる方もあろう。
 わが家では昭和56年以来毎年、夫婦二人の川柳をのせている。ワンパターンになっているが、楽しみにしているという方もあり、これも1つの手法と変えられそうもない。

(第880話) おたまじゃくし 2008,1,17
 中日新聞には「おたまじゃくし」という、珍妙な親子の会話やハッとさせられる孫の一言など、子どもの意外な発想を掲載する欄がある。時折面白く読んでいるが、1月3日付けの新聞には「おたま特集」として、1面を使って40話近くが掲載されていた。その中から数話を紹介したい。

【緊張】
 (インフルエンザ予防接種で、医師に「1,2の3で終わりだからね」といわれ)
〈子〉(終わった後)ふう、良かった!こことこ・・・3つ注射すると思ったもん。(5歳)
【ご意見箱】
 (スーパーに置いてある箱に口を近づけて)
〈子〉オーイ、聞こえますかあ?  〈私〉何してるの  〈子〉だって、あなたのお声をお聞かせくださいって書いてあるもん。(9歳)
【役割分担】
(パパがゴミ出しをします)
〈子〉パパ、いつも会社にゴミを持っていってどうするんだろう。(3歳)
【話題の的】
(弟が生まれて)
〈子〉みんながかわいいって言ってくれるね。 〈私〉お世辞かな。 〈子〉違うよ。それをいわんと話が始まらんもんね。(9歳)
【愛読者】
〈私〉「よく、おたまじゃくしに載ってるね」って隣のおばさんに言われたよ。 〈子〉だって、お母さんがいっぱい書くからって言っといて。(9歳)

 いかがでしょうか、一人クスッと笑ってしまう。この会話は大人同志ではできない。またこの笑いは大人の会話では生まれないほほえましさ、温かさがある。ぼくらにとってこれはもう孫に求めるしか仕方がない。だから孫はかわいい。

(第879話) 老いの心がけ 2008,1,15
 “今年の四月で六十六歳になる。気力と体力、共に衰えを感じずにはいられない年代である。六十五歳を過ぎるころから急速に衰えだすということをよく耳にする。私も老化防止のためにいろいろと試みているが、少しやり過ぎると疲れが出てしまう。だから老化防止という意地など張らず、今年は老いを素直に受け止めることにした。サラリーマンという狭い世界から広大な第二の人生に踏み出しているが、知らないことばかりである。子供のような好奇心で次のことを心掛け、老いの喜び探しをしたいと思う。
 @健康第一、笑顔一番の毎日 Aおしゃれをして外出する B一期一会の縁を大切にする C若者は時代の師と仰ぐ D万物に感謝、生命に合掌して生きる
 第二の人生という堅苦しいことでなく、気楽に楽しく、年寄りは年寄りらしく生きることだと思う。”(1月3日付け中日新聞)

 亀山市の岩谷さん(男・65)の投稿文です。似たようなテーマをもう何度も扱ってきた。文として読むといずれももっともである。しかし、全く逆の意見もあり・・・・見方ひとつでどちらが良いとも取れる・・・難しい。
 例えば、老いを意識して慎重にしたり、心静かにした方がいいのか、いや、老いなど意識せず、欲望を持って溌剌と活動した方がいいのか・・・・、気楽に楽しくが良いのか、苦しくても頑張ったほうがいいのか・・・・。どちらを取っても良い方にも転がるし、悪い方にも転がる。結果を見て人は言う、しかし本人は両方はできない。
 さてどうするか・・・・今まで掲載したこの種の文をもう一度読み返し、今こそ自分にあった選択をしなければならないだろう。

(第878話) 豆本 2008,1,11
 昨年、一宮市の松波さんという方から70冊もの豆本をいただいた。ある知人が私の川柳をこの方にお見せしたところ、10句位を1冊の豆本にし、下記の文と共に私に送られてきたのである。

“  なぜ豆本が『幸』を呼ぶか
 昔中国で、『科挙』と称される官吏登用試験に合格すると、名誉も、高収入も、美しい妻も思いのままといわれ、難しい試験に何年も何年も挑戦したという記録があります。その時、衣服に「豆本(小さな小さな参考書?)」を縫い込んで受験すると合格するという話が現在に伝わり、「豆本」を身につける(例・財布等に入れる)と『幸』が訪れるとの話です。”

 葉書の半分以下の大きさの本を豆本というようだが、送られてきたものは横2.2cm、縦4.5cm程度のものである。同じ本が何冊もあったので1冊だけを残し、その豆本と上記の文をコピーしたものと併せ、知り合いに配って歩いた。松波さんの好意に答えて豆本の普及に貢献したのである。豆本を調べてみるとブームだったこともあり、最小のものは0.9mm*0.9mmだという。1mm以下というのだからどんな本なのだろう。世界にはいろいろなことに凝る人がいるものだ。
 科挙試験に臨んで衣服に縫い込んだとはカンニング用だったのであろうか。それから幸を呼ぶというのだが、ボクの川柳ではたして幸を呼ぶのだろうか。ボクは本の中味は問題ではないといって渡していたが・・・・。

(第877話) 絵手紙毎日8年  2008,1,9
 “福井県おおい町川上の画家渡辺淳さん(76)の大きなガマ口のような郵便受けに毎日、絵手紙が届く。差出人は練馬区の高校二年森岡実莉さん(17)。実莉さんは小学三年の時から渡辺さんに絵手紙を送り続けている。
 「小学二年の担任の先生が毎日、日記を書くという課題を出していました。毎日やることはいいことだし、絵が好きだったから。送る相手がいた方がいいから淳にしました」。
 自宅マンションのダイニングテーブルで一枚当たり十五分程度で描く。五十九歳離れた老画家から絵の通信レッスンを受けようという意図はない。絵の道に進む気持ちもなく、都立高校のバスケットボール部主将として都内で一つでも上のランクをと練習に励む日々だ。「淳さんは私の絵を全部ほめてくれます。習慣付いているので、これからも出します」と朗らかに話した。”(12月28日付け中日新聞)

 川崎記者の記事からです。かなり省略してあります。またまたすごい人がいるものだ。「小学3年という子供の時代から」「8年毎日」「それも絵を」「59歳も年上の人に」、この1つづつだけでもすごいのに驚くばかりである。絵の道に進むつもりでもなく、バスケット部の主将だと言うから更に驚く。森岡さんにこれだけのことをさせるのは何だろうか。絵が好きだけでできることだろうか。継続の重要性を知っているから、といっても大人ではない、小学生である。森岡さんがどのような大人になるか、興味深い。
 神童、天才と呼ばれた子供も20歳過ぎればただの人、という言葉がある。孫を見ていても神童か天才かと思うときがある。子供の能力は大人が思う以上に凄いのである。どの人もそのまま素直に育てば凄いのであろうが、大人社会に触れることによって低下していくのであろうか、もったいないことである。

(第876話) 脳卒中 2008,1,7
 高齢になって心配になるのは寝たきりになることであり、65歳以上の寝たきり患者の約4割は脳卒中に起因するといわれる。中日新聞12月22日に全面広告ではあるが、第30回日本血栓止血学会学術集会の内容が掲載されていた。その中からほんの一部であるが、抜き書きしてみる。

 “脳こうそくや心筋こうそくを起こした患者さんの多くは、動脈硬化を抱えている患者さんです。従って動脈硬化の発症や進展を押さえることは、血栓形成の予防、ひいては病気発症を未然に防ぐ意味があります。動脈硬化の危険因子としては、高血圧、脂質異常症、糖尿病、肥満などがあります。危険因子を持った国内患者数は、高血圧で3千万人、脂質異常症で2千万人、糖尿病で7百〜8百万人いるといわれ、いずれも増加傾向にあります。日本脳卒中協会が発表した「脳卒中予防十カ条」を参考にするなどして、生活習慣の見直しをはかり、危険因子を減らすように努めてください。”
 として次の十カ条を上げている。
 @手始めに高血圧から治しましょう。A糖尿病、放っておいたら悔いが残る。B不整脈、見つかり次第すぐ受診。C予防には、タバコを止める意志を持て。Dアルコール、控えめは薬、過ぎれば毒。E高すぎるコレステロールも見逃すな。Fお食事の塩分・脂肪は控えめに。G体力にあった運動続けよう。H万病の引き金になる、太りすぎ。I脳卒中、起きたらすぐに病院へ。
 更に脳卒中に前触れとして次のことを上げている。
 @食事中に箸を落とす。A片側の手足が震える。Bものが二重に見える。C言葉が出てこない。Dパピプペポ・ラリルレロがはっきり言えない。E目の前が暗くなる。F視野の半分が欠ける。G片方の目が見えない。

 気がつくままに抜き書きしたが、これを参考に十分に気をつけたいものだ。ボクなど曲がりなりにも定年退職し、子供らも独り立ちした。一応やらねばならぬことをやり終えた今、死ぬことより寝たきりになることの方が怖い気がする。多くの老人の願望が「ピンピンコロリ」と言われるのがよく分かる。気をつけることは気をつけて、寝たきりになったときは運命、仕方がないと言えるようにしておきたい。

(第875話) 今が本番 2008,1,5
 “『今が本番、今日が本番、今年こそが本番。明日がある、明後日があると思っているうちは何もありはしない。肝心な今さえないんだから。 東井 義雄』
 師走を迎える度に、声も姿もない時の流れに、月日という、師走とか正月という名前と区切りをつけ、人の認識にのぼらせようとした古人の智恵を思う。
 相田みつをさんに「そのうち」と題する詩がある。「そのうちお金がたまったら、そのうち家でも建てたら、そのうち子どもから手が離れたら、そのうち仕事が落ち着いたら、そのうち時間のゆとりができたら。そのうち・・・そのうち・・・そのうち・・・と、できない理由をくりかえしているうちに、結局は何もやらなかった空しい人生の幕がおりて、頭の上に淋しい墓標が立つ。そのうち、そのうち、日が暮れる。いまきたこの道、かえれない」
 願わくはこんな年の暮れや人生の暮れにならないよう、「今が本番、今日が本番」と立ち向かってゆきたいものである。”(12月23日付け中日新聞)

 青山俊董さんの「今週の言葉」からです。いつも感心しながら読んでいるが、まさに人生訓たる欄であるので取り上げるのを控えてきた。でも「明日が本番」などと言っておられなくなったわが身から紹介せざるを得ない。
 東井さんの「肝心の今さえない」という言葉にハッとさせられた。一番肝心なのは、過ぎ去った過去でも、来ないかもしれない未来でもない、一番確かな今が何と言っても一番肝心である。その今をおろそかにして、明日でもあるまい、それが東井さんが言われたいことであろう。頷かざるを得ない。未来が少なくなった者にはなおさらである。
 相田さんの言われる「そのうち」は怠け者や嫌なことを忌避する本当にうまい言い訳である。本人が言い訳と思っているうちはまだ救われるかもしれないが、そう思っていないときは更にやっかいだ。人間こういうことには本当に利口で、言い訳はいつでも思いつくのだから。
 ボクの使っている日記帳には「年頭の所感」を書くページがあり、毎年書いている。今年は「今が本番、今日が本番、そのうちはもうない」と書いた。これをこれからのモットーとしよう。

(第874話) イノチ 2008,1,3
 “若いときは何とも思わなかったことが、年を重ねるにしたがって、切なく、いとおしく思われることがある。春夏秋冬の移ろい、花鳥風月の美しさなど、若い時分には見向きもしなかったことが、今ではおじさんに深い感動と慰謝をもたらしてくれるのだ。
 「四季が巡るのは当たり前だ。暑いの寒いの、なんて言っていられるか。花鳥風月なんぞ面倒だ。おれは多忙なんだよ」と、乱暴かつ粗雑に過ごしてしまった若年の自分を嘆いても、取り返しはつかない。せめて、ここまで生き永らえ、自然を全身で受け止められるようになったことを、素直にありがたいと思うべきだろう。
 こういう、いわば人の自然回帰は、自然の移ろいを己と同化させ、イノチをいとおしみ、大切にすることにほかならない。そしてその果てにあるのは、自分自身の命の終えんなのだ。人の死も大自然の営みのサイクルの中にある。
 今年もまた暮れる。歳末の喧噪をも、おじさんはほほ笑みを浮かべて楽しもうと思う(ナンチャッテー)。”(12月23日付け中日新聞)

 エッセイスト・飛鳥圭介さんの「おじさん図鑑」からです。先日来この「話・話」で、3話自然の話を記したのも、それの現れであろうか、まさにボクのことをいわれている気がする。それを飛鳥さんが言われるように、素直にありがたいと思おう。自分の残りが少なくなって、自分のイノチを考えるようになって、自然の営みや移ろいも視野に入ってくる。これも別の言い方をすれば年の功であり余裕である。
 先日親しい友人が3ヶ月ほどの入院を言われた。原因は特に分からなく、加齢+ストレス・疲れだろうということであった。元気だから、気分も若い頃とあまり変わらないので、若い頃と同じようにやれると思っていると大間違いだ。加齢を意識して過ごさねばいけないということである。それには余裕である。ボクも全く要注意だ。

(第873話) 松竹梅 2008,1,1
 新年明けましておめでとうございます。順調にいけば、今年はこの「話・話」が当面の目標の1000話が達成できます。頑張っていきますので、引き続きよろしくお願い致します。

 正月といえば松竹梅です。わが家も飾りました。「愛ラブ自然」という欄からです。
 “松竹梅は「歳寒三友」といって、万物が枯れる寒い冬でも負けることなく栄える植物の代表です。松も竹も冬でも青々とした葉をつけています。梅は寒いときから香り高い花を咲かせます。
 南天は、難を転ずるの意味で、福寿草とセットにし、たとえ災難があってもそれが福に転ずるようにとの願いです。千両、万両は、文字通り財貨に困らないようにとの願いです。ちなみに百両はカラタチバナ、十両はヤブコウジを充てています。福寿草は、財貨の福と長寿を併せた名前です。花言葉も「幸福を招く」花として正月飾りには欠かせません。”

 植物にも、その特徴になぞらえていろいろないわれがある。特に花言葉など面白い。ボクのホームページの川柳欄では、毎月毎号、花をタイトルにし、その花の性質、花言葉などを紹介しいている。例えば昨年12月は、「万年青(おもと)の章」とし(科目)ユリ科(花言葉)崇高な精神、長寿、長命、母性の愛、「寒い冬にも緑の葉の色を変えない所から万年青の文字があてられ、めでたい植物とされている。お正月の花として緑の葉と赤い実は重宝され、また新居の玄関に飾ると 縁起がいいと言われる。」と、写真とともに紹介した。この川柳連れ連れ草の欄によって花をだいぶ勉強した。ただもう72号になり、身近なところで花を見つけるのが苦労になっている。漢字で書ける花にこだわっていることも難しくしている。このこだわりがどこまで続くか、もうまもなく息切れの気がするが・・・・でも楽しみでもある。


川柳&ウォーク