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第43号  2007年11月

(第856話) かたもみ券 2007,11,29
 “大事なものを入れておく「何でも箱」を整理しようと、中のものを調べていたら、孫からもらったー冊のかわいらしい手作りノートが出てきました。中を開くと、「おばあちゃんへ。かたもみ券、ゆうこう期間いつでもつかってね。時間十分間。メッセージ 長生きしてね」と書いてあります。
 次のページには「おじいちゃんへ。足もみ券、同じくいつでもつかってね。時間は十分間。メッセージ お仕事がんばりすぎないでね」と書いてあり、読みながら思わず笑いこけてしまいました。この孫たち二人は、もう中学二年生です。いつもらったかも定かでないこの券、本人もすっかり忘れていることでしょう。
 年末には息子一家と娘一家がやってきます。このかたもみ券を見せたらどんな顔をするのやら、ちょっぴりいたずらっぽく振る舞ってみようかと、わくわくしています。”(11月21日付け中日新聞)

 岐阜県揖斐川町の主婦・竹中さん(71)の投稿文です。この○○券、わが家にも記憶のある話です。娘二人が何歳の時だったかもう覚えはないが、確かに貰った。子供心にも何か役立ちたいと思うときがあるのであろうか。ひょっとしてわが家にも残っていないかと探してみたが、○○券は使ってしまったのだろう、見つからなかった。しかし、別のものが見つかった。娘が10歳と8歳の時の父の日のプレゼントである。喫茶店のメニューをまねた贈り物である。メニューには娘らが作れそうな目玉焼きだのトーストなどの食べ物とコーヒー、ミルクなどの飲み物が並んでいる。その中から選んでくれというのである。わが家にもそんなことがあったのだ。誕生日カードやクリスマスカードなども保存してあった。竹中さんの文からこんなことも思い出させて頂いた。この文から皆さんにも何か温かい出来事を思い出して頂くとこの文の価値が一層上がるのだが・・・・。

(第855話) 待ち合わせ 2007,11,27
 “私は待ち合わせ時間を「守る派」である。以前待ち合わせすることが多かった女性は「いつも遅れる派」だった。その日も10分遅れて来て、息を弾ませながら言った。
 「あなたは時間を守る人だから待ち合わせするととても焦るわ」遅れて来て言うことかと思いながら、なんだかおかしかった。近年は「守る派」がほとんどで、約束の5〜10分前には現れる。先日の相手が言う。
 「実は遅れないように30分前に来てさっきまで喫茶店にいたのです」「同じです」と私。「あら、それなら約束の時間まで一緒にお茶すればよかった」「次はそうしますか」なにがなんだか。”(11月18日付け中日新聞)

 小川由里さんの「おばさん事典」からです。約束時間に少し早く来すぎて、それまで喫茶店で過ごす、それでまた雑誌などに夢中になりまた遅れる。笑い話のような話ですが、現実にいくらも起こしていそうな話です。
 昔は○○時間などと言って、田舎の寄り合い(会議)など平気で30分も1時間も遅れていた。若輩などは時間通りに行き、長老は遅れてやってくる。ボクは父親が早く亡くなったので、若いときから寄り合いに出ていたが、いつも待たされる方であった。しかし、サラリーマンが多くなったおかげか、次第に正時間開始になっていった。約束時間に遅れることは人の時間を奪う不当行為である。時間いくらで働く人が多くなって、この意識が生まれてきたのであろうか。約束時間前の到着を心がけたい。ただし人の家庭を訪問するときは家人をあわてさせないように正時間、又は5分遅れがいいであろう。

(第854話) 最高の褒め言葉 2007,11,25
 “この秋、ニットのベストを買った。全体が透かし編み模様で、襟からすそまでフリルのようなレースが付いている。ちょこんと袖があり、羽が生えているみたいだ。秋なのに若草色というのも気に入った。
 急に寒くなった先日、初めてこのベストを着てみた。夕方、庭木の手入れをしているところに、夫が帰ってきた。反応を聞こうと近づくと、いきなり「何、その服。森の妖精みたいじゃん」。「え、何?今何て言ったの?妖精って言ったでしょ」あまりのはしゃぎように慌てた夫は「いや何でもない。間違った」と玄関のドアに手を伸ばそうとした。すかさず「さっきのきれいな言葉、もう一回言って」と迫る私に、くるっと振り向き、「その色、やっぱり森のコケだ」と言い捨てた。
 でも聞いちゃったもんね。間違えでもコケでもいい。結婚27年間で一番ナイスな言葉だったよ。”(11月17日付け読売新聞)

 北海道斜里町の村石さん(女・54)の投稿文です。この話は村石さんに限ったことなのか、それとも女性一般のことなのか・・・・これが女性一般のことなら、なんと女性とは単純なのか・・・ご主人はどういう意味で「妖精」と言われたのか、ただ自分のイメージの中で「最高の褒め言葉」と有頂天になっている。おめでたいことである。
 しかしながら、こんな単純な女性を満足させられない男性というのも、なんとも不甲斐ないものである。ボクもその不甲斐ない典型であるが・・・・。村石さんのご主人は思わず「妖精」などと言ってしまったが、後では「コケ」などと照れ隠しをしている。ボクとあまり違わないようだ。

(第853話) ビッグイシュー  2007,11,23
 “「ビッグイシュー日本版」は、女優のアンジェリーナ・ジョリーなどが表紙を飾る、おしゃれな雰囲気の雑誌だ。若者向けオピニオン誌として、映画や音楽から社会問題までを取り上げる。1冊300円だが、書店では手に入らない。ホームレスの人たちが街頭で販売している。
 ホームレスの人に仕事を提供することを目的に1991年にロンドンで創刊され、オーストラリア、アフリカにも活動が広がった。日本版は2003年9月から。オリジナル版の翻訳記事のほか、国内の話題などを掲載する。月2回刊で、束京、大阪、福岡など11都市で売られている。
 販売員に登録すると、10冊を無料で提供される。街頭でこれを売って得た収入で、次からは1冊140円で仕入れる。これを300円で売り、160円を得る。身分証明書をつけるなど行動規範もある。1日25冊ほど売れれば、アパートを借り、職に就いて自立する可能性が開ける。
 「救済ではなく、ビジネスとして取り組んでいる。そうでなければ持続しない」と、「ビッグイシュー日本」代表の佐野さんは説明する。”(11月17日付け読売新聞)

 名古屋の街角で本を売っているような人を時折見かけていたが、どんな人かも知らず、この新聞記事を読んでやっと分かった。まさにこの人たちだったのだ。そして、ビッグイシューについてインターネットで調べて少し分かった。人間にはいろいろな知恵があるものだ。いろいろ問題を含んでいるかもしれないが、それでも「救済ではなく、ビジネスとして取り組んでいる。そうでなければ持続しない」には納得する。市民による一方的な救済には無理がある。ホームレスの人々に公園で炊き出しをしている風景も時折見かけるが、いろいろなメニューがあっていいと思う。今度ビッグイシューを売る人を見かけたら買ってみよう。

(第852話) つれあいにモノ申す(その4) 2007,11,21
 またまた11月14日付け中日新聞の「つれあいにモノ申す」からです。この欄は格好の「話・話」の題材になりそうで、今後も度々登場しそうである。

◎幸せのペアカップ
 “三十一回目の結婚記念日を迎えることができた。少々高価だったけれど、思い切ってペアカップをそろえた。白地に金ラインが気に人って、それを眺めながらていねいに洗っているだけでうれしくて、幸せな気分。おまけに「コーヒーが入ったぞー」の声が聞こえてきた。いつもおいしいコーヒーをありがとう。(ホットコーヒー 55歳)”
 この文を読んでいて解釈に迷ってしまった。カップを洗う人とコーヒーを入れる人がどう読んでも違うのだ。ホットコーヒーさんは女性か、男性か・・・。多分で女性で、ホットコーヒーさんがカップを洗い、旦那さんがコーヒーを入れられるのだろう。多分、コーヒー豆をひいて・・・・。わが家にはほど遠い風景で、それで解釈に迷ったが良い夫婦だ。
 結婚記念日に何か記念のことをする、これも羨ましい。わが家などいつも過ぎてから気がつく。そして来年はと思いながら毎年同じことを繰り返している。

◎分相応に
 “結婚して三十七年。あなたは馬車馬のように働いてくれ、家を建て、三人の子にそれなりに学歴をつけてくれました。感謝しています。定年を迎え、やさしくなったと思いきや、何と下請け会社の十七歳も若いグラマーバツイチ女性に夢中になりすぎて、嫌われた様子。ウッフッフ。分をわきまえて。あなたには、この古女房が一番よ。(37年しのぶちゃん 59歳)”
 定年退職、この節目についてはこの「話・話」の中でもう何回も触れてきたことである。長寿命社会になって定年後をどうとらえるか、定年以前より難しい問題ともなる。そうして考えた結果、例えば、もう人生の義務は終わった、これからはもっと自由を謳歌しよう、となる。そしてとんでもない方向に走る。しのぶちゃんのご主人はあわやであった。古女房殿が寛大でよかった。定年後といえども今までの人生が下敷きとなる。その下敷きを考慮しながら、分相応に着実に歩むことであろうか。

(第851話) 盲導犬 2007,11,19
 “込み合っている地下鉄でのこと。向かいの座席の2人がさっと立ち上がったので、何だろうと思って見てみると、盲導犬を連れた人が乗ってきた。
 盲導犬は空いた座席の下に静かに横たわり、乗客の奥の方にぴったり寄せていた。盲導犬の機敏な動きに見とれていると、視覚障害者の方が盲導犬をいたわるようにしてゆっくり腰を下ろした。通勤時間帯の電車内で、その存在に気付かないほど盲導犬は静かだった。私は大きな犬は苦手だが、その盲導犬はいつまでも見ていたいほど、けなげで温かい印象を受けた。
 盲導犬を育て上げた人たちの苦労は並大抵ではないはずだが、犬だって大変な訓練を乗り越えてきたのだろう。すごいと思った。目が不自由でも外に出て行こうとする人の勇気にも感心させられた。座席をさっと立ち、席を譲った乗客にもすがすがしさを感じた。”(11月6日付け読売新聞)

 東京都の主婦・橋井さん(48)の投稿文です。以前は盲導犬がホテルや飲食店に入ることを拒否されたり、いろいろトラブルを起こしていたが、最近はそんな話も聞かなくなった。盲導犬を見る機会も多くなり、理解は進んでいるのであろう。橋井さんはひとつのことからいろいろの感動を覚えられた。こういう姿は素晴らしい。
 ボクは若いの頃に盲導犬に接する機会があり、いつも感心していた。そして盲導犬を伴う視覚障害者の明るさにもびっくりしたものだ。
 名古屋の栄には、誘導者を交通事故から身をていして守り、片足を失った盲導犬サーブの像がある。ボクのホームページ「街角の偉人・愛知県編」にまっ先に掲載している。

(第850話) つれあいにモノ申す(その3) 2007,11,15
 11月7日の「つれあいにモノ申す」から2編です。
◎男心とは
 “奥さま方にぜひご理解いただきたいです。男は照れ屋さんが多く、奥さまの手料理がどんなにおいしくても「おいしい」「ありがとう」が照れくさくて、なかなか言えないのです。でも、みんな心の中では、奥さま方のご苦労に感謝しているのです。ぜひ、男心を知ってほしいです。”(無職76歳)
 まさに旧人類の言葉だ。そして旧人類はこれでも成り立ってきた。しかし、新人類はこうは行かない、きちんと言葉に出していわないと本当にトラブルになってしまう。新人類の方が誤解がなくって良いから、旧人類も見習うべきであろうが、分かっていてもできないのが旧人類の真骨頂である。

◎間接告白
 “先日、孫娘が遊びに来た。きれいな女子高生になって、祖父の私も鼻が高い。笑顔を私に向けて「おじいさん、幸せな人だね」と言うので理由を聞くと、ばあさんが「健康で働き者のおじいさんが好き」とのたまった、という。年がいもなく、胸が熱くなった。でもな、何でそんなこと孫に言うのか。じいに直接言わんかい。”(照れ屋のじい 61歳)
 「色紙の言葉」のように間接に聞くのは、直接より効果は大である。しかし、間接ではうまく伝わるかどうか不確かである。この照れ屋のじいが直接言われたらどういう対応になるか、想像すると面白い。まあ、こういう出来事が時折あって、信頼を確かめ合って何十年と一緒に過ごすのであろう。
 
 この「つれあいにモノ申す」では、ここに紹介したようなほほえましい話は少なく、どちらかというと辛辣な非難が多い。しかし、野村さんの言われるように「本当はきっといい夫婦なんだろう」と思う。これだけのことを公表しても平安は保たれると信頼しているわけだから。逆に言えば、言えない夫婦ほど問題かもしれない。

(第849話) つれあいにモノ申す(その2) 2007,11,13
 この欄には毎回5、6編の短い投稿文が紹介されている。10月31日の「つれあいにモノ申す」から2編を紹介します。
◎色紙の言葉
 “母が九十一歳で亡くなり、母への思いをひとことずつ書いた色紙を棺に入れることになった。主人の書いたひとこと。「いい娘さんを頂き幸せです。これからも仲よくします」に、しばし悲しみを忘れた。”(主婦65歳)
 自分の母親に向かって「いい娘さんを頂き幸せです」と言ってもらえる、こんな嬉しいことはなかろう。母親への孝行にもなり、自分に直接言ってもらうより嬉しいのではなかろうか。この言葉、ボクもそのまま使える。

◎心配しすぎ?
 “洗面所の鏡の前で私は白髪、あなたは薄毛にためいきをついていた時、「おまえもハゲればいいのになあ」とあなた。「何でよ!」と怒ったら「ハゲになれば、誰にも相手にされないから心配しなくて済む」だって。心配ご無用。あなた以外の人に全然モテませんから。いつまでも愛してくれてありがとう。これからもラブラブの夫婦でいようね。”(ぴーこママ38歳)
 ごちそうさまと言うところです。日頃ぶつぶつと言い合っていても、何かの折りには嫉妬心を持つ、これをお互い確認しあって夫婦は継続していく。こうして言葉に出せる、旧人類のボクには無理だ。

(第848話) つれあいにモノ申す(その1) 2007,11,11
 “主人が亡くなって一年。一人で生きる覚悟をして、仕事を始め、寂しさと不安と格闘しながらも、人々の温情をかみしめながらの一年でした。
 ある日、久しぶりに中日新聞を隅々まで読みました。主人が晩年、生活面の「つれあいにモノ申す」を読んで、笑いながら、私にも「これ読んでみろ」と幾度となく言っていたことが思い出され、胸が締め付けられました。若いころは、何度も離婚したいと思うことかありながら、それを乗り越えてきました。お互いがお互いの必要性を十分に分かって、「お前なしでは」「あなたなしでは」と言いながら暮らすようになってからの別れはつらいものでしたが、主人のおかげで幸せな人生だったと思えます。
 「つれあいにモノ申す」の夫婦も、きついことは言っていても、本当は、きっといい夫婦なんだろうなあ、と想像しています。”(11月7日付け中日新聞)

 名古屋市の介護職員・野村さん(女・61)の投稿文からです。いろいろな夫婦があるものだ、とボクもいつもにやにやしながら読んでいる。そして思い当たることもいっぱいである。最近のものから数編を選んで次回から紹介してみます。

(第847話) 手元美人 2007,11,9
 “書の世界では単鉤法という筆の持ち方があるが、鉛筆で標準と紹介されるのは、親指と人さし指でつまむように持ち、中指を添える形の単鉤法だ。指先に力が入るので、細かい線を書くのに最適とされる。
 ところが、手元美人運動で今年二月から十月まで計八回、書道教室の児童とともに市民やイベント参加者らに行った鉛筆の持ち方調査では、正しい単鉤法で持てた人は千三百四十五人のうち二百十五人で、16%にすぎなかった。親指の位置がおかしかったり、鉛筆が立ちすぎていたり、力が入りすぎていたり・・・。
 持ち方で注意すべきポイントは四点、@人さし指はかぎ型にするA親指の位置は人さし指より上B虎口(親指と人さし指の付け根の間)は開くCたなごころは卵を包むように。丹羽さんは「人さし指で文字を書く意識で。人さし指と鉛筆をー体化させることが大事」と話す。”(11月6日付け中日新聞)

 「手元美人運動」をしている愛知県岡崎市の書家・丹羽さん(女・60)の話からの記事からです。箸も持ち方については2004年8月11日の「(第33話)箸遣い」などこの「話・話」の中でも触れたが、悪い人が多くなっている。そして鉛筆の使い方も同じである。幼いときから書かせることに一生懸命で、持ち方については教えない。悪い持ち方のまま大きくなってしまうからであろうか。ボクも気になっていたが、それを改善しようと手元美人運動をしている人がいた。食べれるから、書けれるからいいだろう、と言うものではない。いい持ち方は効率が良いし、美しい。小さいときに回りが気をつければできることである。「手元美人」とはまたいい名付けをしたものだ。

(第846話) 生き抜く力 2007,11,7
 10月27日の中日新聞に、「編集局デスク」という欄に加藤編集局長が中日教育賞を受賞された人の言葉を紹介されていた。
◎愛知県蟹江町で知的障害者グループホームを主宰する村瀬正卓さんの言葉。「私はホタルになろう。たとえ小さな灯でも、ともし続け、誰かが気がついてホッとしてくれればいい」
◎岐阜県中津川市・福岡小学校の青木完治校長。同校では、児童全員が一年間で本を百冊読破する運動を二十七年間も続けている。「本物は続く。続けば本物になる。続けてゆくことが、大切なんです」
◎児童十六人という小さな学校で大きな夢をはぐくむ教育を進める、浜松市・熊小学校の中野栄治校長。「教育は、川の流れに字を書くようなもの。効果はすぐには表れず、全く成果の出ないこともあります。それでも私たちは、愚直に努力を重ねるしかありません」
 こうした言葉を紹介しながら加藤編集局長は次のように書いている。
 “学力は大事ではあるが、教育の一部分にすぎないと私は思う。教育の最大の目的は、子どもたちが大人になったときに自立し、生き抜く力を養うことだろう。学カテストには「正答」がある。だが、社会でぶつかるのは、ほとんどが「正答」のない問題だ。自分で答えを見つけて、壁を乗り越えねぱならない。それが生き抜く力であり、今回受賞した先生たちの取り組みは、その力を培う実践にほかならない。”

 教育は個人にとって、日本の将来にとって最高に重要な課題であり、最高に難しい問題である。家庭で一人二人の子供を十分に導けないのに、学校では千差万別の人を人が導く、難しくない訳がない。それを示すように文科省でも方針がくるくると変わる。そうした難しい課題に一定の成果を上げて、今回の表彰となる。表彰された学校をボクなりにみてみると、ひとつの方針を持って継続してきたことと思われる。継続は自信となり、伝統となり誇りとなる。これは個人にとっても同じである。継続の力は大きいとあらためて思う。
 生き抜く力にも継続は大きな力を及ぼす。これだけやってきたと思い起こせるものがあれば、くじけるのを防ぐ。最近ボクはつくづくそんなことを思っている。

(第845話) 最高齢の博士号  2007,11,5
 “尾張旭市の森井さん(76)が名古屋大で文学博士号を取得し、二十四日、同大で学位授与式が行われる。七十六歳での博士号取得は同大の最高齢。孫ほどの学生たちと一緒に学び、夢の博士号を取った森井さん「学ぶことに年齢は関係ない」と喜びをかみしめている。
 森井さんは一九五三(昭和二十八)年に天理大文学部を卒業。五七年から九四年まで天理教名古屋大教会の会長を務め、国内外の布教活動に努めた。(中略)
「若い学生はいろんな知識を持っていてよく勉強している。1冊の本でも読み込みが深く、(学生との)議論はとても刺激的だった」と振り返る。”(10月24日付け中日新聞)

 記事からです。森井さんは2001年に社会人特別選抜で名古屋大学に入学されたという。70歳で入学、そして苦節7年、博士号取得である。森井さんは「学ぶことに年令は関係ない」と言われるが、入学されるだけならまだしも博士号取得とは、ただただ頭が下がる。人は様々とは言うが、ぼくらとは違いすぎる。
 2007年10月19日の「(838話)続きはあちらで」でも高齢者の学習意欲について紹介したが、自分はここまでと思うとそこで止まる。最近ボクはそんな気分に陥っていたが、こうした文を読むと反省させられる。

(第844話) 賞味期限 2007,11,3
 “北海道を代表する銘菓「白い恋人」が賞味期限を改ざんしていたことが発覚、厳しい批判を受けたが、和菓子の老舗「赤福」も売れ残りの商品を再販売して営業禁止処分を受け驚いている。最近の消費者は食品の安全性に関心が高く、容器などに記載されている製造年月日や賞味期限を見て、調理したり廃棄したりする人が多い。
 メーカーが賞味期限を改ざんすると、品質に問題がなくても消費者をだました、と厳しく追及される。それは当然と思うが、私は食品の賞味期限を最終的に判断するのはメーカーでなく、消費者ではないかと思う。賞味期限以前であっても「あれっ、おかしいな」と感じたら処分しなくてはいけない。逆に「これなら食べられる」と判断したら、たとえ賞味期限が過ぎていても食べて良いと思う。
 現代人は生きていくために最も基本と言える「食」の感覚を失ってはいないだろうか。他人任せにしているように思う。私たちはこの基本的な能力を取り戻さなくてはいけない。そのために必要なことは、自分の舌の感覚を高めることだ。”(10月23日付け中日新聞)

 春日井市の後藤さん(男・61)の投稿文です。食について、2007年7月30日の「(第803話)食の浪費防止」で似たような話を紹介したばかりであるが、再び取り上げた。後藤さんの意見は、803話でボクが書いたコメントとほとんど同じである。
 食について安全がもっとも大切であることは明らかであるが、次に今日的には食材を無駄にしないことである。「白い恋人」も「赤福」も食中毒等は出していない。そして、消費者は製造日を疑わなかった。更に食材も無駄にしなかった(が、これが問題であった)。実質は何も問題を出していない。ただ、規則を犯し、消費者を欺いた。そうさせる何かがあった。これからはそこを問題化していかねばと思う。


川柳&ウォーク