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第39号  2007年7月


(第803話) 食の浪費防止 2007,7,30
 日本の食糧自給率は40%という他国に頼る国、その上年間2000万トン以上もの食べ物を捨てているという浪費、輸入し捨てる、何とも食については傲慢不遜な国・日本である。そんな国に対する主婦からの提言である。
 “まず、家庭でもできることを考えてみた。食品の賞味期限は「0.7の安全率」を見込んで設定されており、保存テストで出された期限の7割の期限が書かれているため(例えば、10カ月を7ヵ月に)、期限を過ぎてもすぐに捨てる必要は本来ないと知ってほしい。
 外食の際は、予約を取る店や、少ないコースメニューから選ぶ店を選択する方が、食材の無駄も少なくて済むし、廃棄する食材の価格を値段に乗せずに済むため値段も安く済む。仕入れのし過ぎは食材の大量廃棄につながることをお店も認識してほしい。冷蔵車の中身をできるだけ捨てずに、あれこれ工夫する主婦感覚からの意見です。”(7月20日付け毎日新聞)

 東京都の主婦・柴田さん(47)の投稿文からです。賞味期限きれの食材を使って断罪されている会社がよくニュースになる。規則を破っているのだから、責められるのは当然だが、少しヒステリックな責め方ではないかという気がしている。本来食材の賞味期限などは保管状態で全く違ってくるものであり、一律に律するものではない。昔は食べられるかどうかは匂いをかぎ、少し口に含みなどして自分で判断したものである。これだけ大量輸入、大量廃棄している国の賞味期限については、再考を要するのではなかろうか。
 柴田さんの外食の話も面白い。ボクがよく行く店の昼食メニュ−はひとつである。注文の必要もないし、席に座れば同時に出てくる早さである。この早さと安さと家庭的な味が魅力で行くのであるが、柴田さんの指摘で食材の無駄のなさに気付いた。それが安さにつながっていたのだ。主婦感覚はエコ社会に重要のようだ。

(第802話) 竹ぼうきと表彰状 2007,7,28
 “自宅の向かいが村の神社で、長さ50mほどの狭い市道が通学路兼参道になっています。大空狭しと生い茂るイチョウ、クスノキ、松、桜の葉っぱが入れ代わり立ち代わり舞い落ちます。
 雨の日を除いて、お参りの人や通学児童の通る前に、早起き一番でほうきゴミ袋を持って道に出るのが私の日課です。亡母から受けついてもう20年あまり。すり減って取り替えた竹ぼうきの数も5,6本になるでしょうか。葉っぱに交じって、空き缶、たばこの吸い殼、ゴミや時に犬のうんちもあって大変です。
 「きれいになりますね」と村の人。「おばあちゃん、ありがとう」と黄色い帽子の通学児童。うれしい言葉に酔いしれているある日、市役所から、「市民憲章」とやらに定められた郷土美化への功労大なりとかで、表彰状がもらえました。難しいことは分かりませんが、光栄です。”(7月17日付け中日新聞)

 碧南市の岡田さん(女・80)の投稿文です。今日も小さな善行の話であるが、でも行為そのものは小さいかもしれないが、期間を考えるととても小さいと言えない。雨の日以外、亡母から受け継いで20年と言われるから大変な行為である。人間にとって「継続」と言う行為は、非常に困難な行為である。「継続は力なり」という言葉があるごとく、継続はとんでもない効果を発揮する。だから市役所から表彰もあったのである。
 そして、岡田さんには60歳からの行為である。ほぼ現役を終わってからの成果である。やはり60歳は第2の人生の始まりという見本である。岡田さんのこの文章から人生の貴重な教訓を2つも得るのである。

(第801話) 緊急停車 2007,7,26
 “五月の大型連休。大口町の佐藤純子さん(65)が娘さん家族に会うため、東京行きの高速バスに乗ったときのことだった。静岡県に入ったところで、停留所にバスが止まった。乗客のみんなが「おかしいな」とざわついた。というのは、そのバスはトイレ休憩のために何ヵ所かのサービスエリアで短い休憩を取る以外、ノンストップのはずだったからだ。
 そこでは一人の若い女性が真っ青な顔をして降りて行った。しばらくして戻って来ると、運転手さんが乗客に呼びかけた。「お客さまの中で、どなたか酔い止めの薬をお持ちの方はいらっしやいませんか」と。佐藤さんはすかさず手を上げ、二つほど後ろに座っていた女性に薬を差し上げた。「なるべく多めの水で飲んでね」
 ほどなく浜名湖サービスエリアに到着。休憩の後、その女性の顔色は、かなり良くなっていた。「これなら楽しい旅ができそうです。本当にありがとうございました」とお礼を言われた。さて、再び出発の際、運転手のアナウンス。「皆さまには緊急停車、そのほかのご協力を願いまして本当にありがとうございます。この後、安全で楽しい旅を進めてまいります」。車内にほんわかと温かな空気が流れた。佐藤さんは、その運転手さんの行動、そして一言に感心してしまったという。これぞプロとしての仕事だと。”(7月15日付け中日新聞)

 志賀内さんの「ほろほろ通信」からです。今回も乗り物に係わる小さな善意の話である。投書欄を気をつけてみていると、こうした乗り物に係わる話の多さにびっくりする。乗り物は、いい話にしろ、悪い話にしろ、いろいろなドラマを生むのである。この「話・話」ではいい話ばかり取り上げているが、特に多いのはマナーの悪さの話である。公共の乗り物は他人がある時間を共有する場である。自分の世界に浸ることもできるが、でも人は見るとなく見ている。そのことを十分に意識しておかねばならない。
 佐藤さんは「これぞプロ」と称賛されているが、先日の投書欄では似たような話で「何をもたついている、皆早く行きたがっているぞ」と苦情を言っている話しがあったが、何が人間をこれほどまでに違わせるのだろうか。

(第800話) ホームでの光景 2007,7,24
 “一宮市から名古屋に行こうと、名鉄のプラットホームで電車を待っていたときのことです。ホームに電車が人ってきました。すると、売店の人がまさにその電車に乗ろうとしているお客さんを追い掛けて、店を飛び出してきたのです。何が起きたのかと思い眺めていたら、どうもそのお客さんは釣り銭を受け取るのを忘れて、慌てて電車に乗ってしまったようです。
 乗ると同時に、電車のドアは閉まってしまいました。すると、その店員の方は即座に車掌さんに事情を話し、お客さんが忘れていった釣り銭を車掌さんに託したのです。車掌さんから渡してもらうためです。電車は何事もなかったかのようにホームを離れました。無事、釣り銭はお客さんに渡ったことでしょう。何の変哲もない光景でした、今のすさんだ社会だからこそ、何か私にはほほ笑ましく映りました。”(7月14日付け中日新聞)

 一宮市の石原さん(男・67)の投稿文です。釣り銭を忘れた客を追いかける、ある程度当然の行為である。でも、電車に乗ってしまう客である。そのままにして、後日気付いた客がもらいに訪れる、これでも非難されることではない。しかし、通勤客でもない限り、当分機会がない客かもしれない、時間と運賃をかけてもらいに行く額でないかもしれない(その公算の方が大である)。このとっさの判断、行為が石原さんの胸を打ったのである。そしてこうした小さな誠意が客を呼ぶのである。商売に限らない、人生はこうした小さな誠意が大切であり、その積み重ねの上に友好的な近隣関係が築かれる。最近はそれが少し崩れかけている。

(第799話) 納豆 2007,7,22
 イチゴの次は納豆です。といっても話の内容は全く違います。作家・森村宗冬氏の「食べる日本史」から「万能の健康食・納豆」の話です。
 “「納豆の日」がある。7月10日。選ばれたのは言うまでもなく語呂合わせ。なっとう=七ッ+十というわけである。
 納豆の効果については、最近、あるテレビ番組でねつ造事件が起こり、大問題となった。だが、ねつ造があろうがなかろうが、納豆が身体に良いという真実は、いささかも揺るぎない。納豆の効果は多岐にわたる。肥満の防止と改善、動脈硬化の予防と改善、高血圧の予防と改善、整腸と疲労回復etc。とにかく、万能の健康食品である。納豆がかように身体に良いのは、主原料となっている大豆のパワーもさることながら、納豆菌による発酵というプロセスを経ることで、よりパワーアップしているからである。
 納豆菌そのものの働きも見逃せない。納豆菌はとても生命力が強く、百度の熱湯でも平気である。また胎内でも一週間は生きており、その間に有害な菌を退治してくれる。納豆菌の戦闘力?はきわめて高く、サルモネラ菌、チフス菌さえも、納豆菌にはたちうちできないそうだ。”(7月5日付け中日新聞・要約)

 我が家庭も毎日ではないが、かなり頻繁に納豆が出てくる。でもボクは昔ほどではないが、今でも苦手だ。妻には頭で食べろといわれる。その頭とは、この森村さんの話であろう。それにしても凄い健康食品だ。これほどとは知らなかった。特に胎内で一週間も生きていることや、チフス菌なども退治してくれるとは驚きだ。食は命の源泉、良いといわれるものを少しずつ、いろいろ食べること、いくら良くても偏りは要注意だと思う。
 テレビ番組の肥満防止効果で納豆が店からなくなり、ねつ造と知ってその熱もすぐ冷めるような日本人の付和雷同にはいささか驚いた。そして、肥満防止の関心の深さにも驚く。肥満など必要以上に食べなければ済むことである。

(第798話) イチゴ 2007,7,20
 “45年に及ぶサラリーマン生活をやめた。夢中になれることはと思い、家庭菜園を始めることにした。猫の額ほどの畑で孫が一番喜ぶイチゴを作り「はい、当社製造の朝一番採りイチゴのデザートだよ」と言って、食卓に並べてみたい。まずは作り方を学ばねばと、参考書を買った。続いて、苗、肥料、マルチも買った。一万五千円ほどの出費だった。
 五月、待望のイチゴ十粒が採れた。意気揚々と食卓に並べ、「はい、当社製造の初物だよ。初物を食べると寿命が延びるというから、みんなで食べよう」。すると、孫の一人が「八人家族だから、一人一個しかない」。「二個余るのはジャンケンだよ」と三人の孫は真顔そのものになった。女房といえば、怒ったような顔。一万五千円も掛けて。それだけイチゴを買ったら、どれだけ買えると思う」
 いや、実は烏よけの網と網を支える枠も買った。三万二千円したが、女房にはまだ言っていない。これを知ったら「チョー豪華なイチゴ。しかもまずい」くらいで済むかな。もっと怒り心頭で「向こう四ヵ月、晩酌はなしよ」となるかもしれない。”(7月6日付け中日新聞)

 岡崎市の新海さん(男・68)の投稿文です。全く笑い話のような話であるが、でも笑ってはいけない。これは仕事や商売ではない、遊びなのだ、道楽なのだ。遊びで、かけた以上の見返りがあったら、それはもう遊びではない。少しばかり収穫があるから、かけた費用と比較してしまう。釣りなども同じだが。ゴルフや絵画・書道などではいくらお金をかけてもそんな比較はしないだろう。
 新海さんはいい趣味を見つけられた。家庭菜園は全く楽しい。手をかけた植物が生長する姿を見るのは全く嬉しい。それが人間の自然の姿だ。お金は大いにかければいい。かければかけるほど一生懸命になる。でも、ボクの家庭菜園は田畑の維持が目的で、趣味でないから、お金はかけない。家庭菜園にして広すぎるので苦痛だ、猫の額ほどの人が羨ましい。

(第797話) 街の騒音 2007,7,18
 “中日劇場(名古屋市中区)の全客席が、六月から携帯電話の「圏外」になった。席の範囲だけ電波を抑止する装置を導入したからだ。きっかけは昨年十月、森光子さん主演の「放浪記」公演。しっとりとした名場面を着信音が台無しにする事態が相次いだため、対策を講じざるを得なくなった。
 日本中の街に、さまざまな音があふれる。商店は大音量で音楽を流し、電車に乗れば「ドア付近に立ち止まらず順に奥の方ヘ・・・」「一人でも多くの方がお座りいただけますよう席は譲り合って・・・」。都市の住人はいつの間にか、こんな状態への″鈍感力″を身につけてしまったのだろうか。
 静けさを大切にする国、フィンランドで暮らした指揮者の新田ユリさんは耳を休めることで耳がよくなることや、より遠い情報、深い情報まで得ようと身体が自然に活動することに気づいた」そうだ。帰国後、日本を「こんなにうるさいところだったのか」と感じ、騒音に疲れて「いろいろなものごとへの積極的な行動意欲や、思考能力さえも奪われそうな感じがした」という。
 とりあえず月に一日か二日は「街の騒音を控える日」にしてみたらどうだろう。忘れてしまっていた静寂の力を、少しは感じられるかもしれない。(7月1日付け中日新聞)

 中日新聞放送芸能部長・工藤さんの「世談」からです。2007年7月2日の第789話「テレビの音」と同様な話である。現代は街中も家庭も騒音だらけである。それも自然の音ではなく、人工音である。静が全く苦手になってしまった。静穏を孤独と感じるようになってしまった。わが家ではテレビやラジオ、ステレオのかけっぱなしということはないが、それでも事の大小は別にしてそんな傾向にある。人間いろいろな時間があっていいが、静と向かい合う時間も必要である。新田ユリさんのいわれるような効用があればより必要である。そしてそれは意識しないとできないのである。「騒音を控える日」を本気で考えた方がいい。

(第796話) 500円の幸せ 2007,7,16
 “最近さえないなあと思いつつ、気晴らしに出掛けた先で一冊の薄い本を買いました。「500円の幸せ」とタイトルが付いていました。五百円なんて最低賃金にもなりゃしないと思いながら読んでみました。
 「一家破産で毎日お金のことでけんかが絶えない夫婦がいました。ある日、三歳の娘が自分の貯金箱から五百円玉を母親に渡して言ったそうです。「お母さんたち、お金があればけんかしないんでしょう?」三歳の幼い子の心をどんなに痛めていたか、初めて気付いたそうです。それから夫婦は話し合い、奮起して頑張っています。そのときの五百円玉をお守りにして。
 ある夫婦はギリギリの家計費から夫婦で飲むビール代に、五百円玉貯金を一年間して旅行をする家族や、図書館の往復バス代にと、ささやかな幸せがいっぱい詰まっていました。
 読んでいるうちに胸がいっぱいになりました。なんかうまくいかない現実から逃げてたのかな、と反省しました。そういえば私にもあったなあ、五百円玉。私も探してみよう五百円の幸せを。明日からまた就職活動頑張ろう。”(6月28に付け中日新聞)

 石川県珠洲市の主婦・寺山さん(42)の投稿文です。500円、外食のボクには毎日の昼食費にもならない。でもお金は使いよう、500円どころか100円、10円でも大きな価値がある時がある(2005年7月13日の第346話「10円玉」を再度読んでみてください)。1円足らなくても電車に乗れない。1円を笑うものは1円に泣く。まして500円、いろいろなドラマを生むであろう。その500円による幸せ、ボクも読んでみたくて、インターネットで調べたらすでに絶版、図書館に行ってみたが無かった。

(第795話) ホタル狩りと細雪 2007,7,14
 “先日、2日間にわたって当地でホタル狩りが行われ、私も参加した。垂井町表佐は、谷崎潤一郎の名作「細雪」に出てくるホタル狩りの舞台である。ここしばらくホタル狩りは行われなかったが、今年は公民館の特別活動として復活した。昨年10月ころから幼虫が育てられ、今回の見学会となった。
 当日は老若男女、子どもたちにもホタルは珍しく、多くの参加者でにぎわった。当地は湧き水が出る所であり、水が清らかで、ハリヨの生息地でもある。ホタル狩りでは、保存会が整備した小川の草むらをホタルが飛び交う様が何とも言えない幻想の世界を醸し出していた。
 後日、地元の図書館に行き、司書の方に谷崎の「細雪」のホタル狩りの部分を教えて頂いた。先日のホタル狩りを思い起こして感激に浸ることができた。”(6月22日付け朝日新聞)

 岐阜県垂井町の農業・若山さん(男・62)の投稿文です。垂井町は山紫水明、ウォーキングに好適なところで、いろいろな会がでよく例会を催す。ボクも何回も行っている。若山さんの文にも紹介されているハリヨの生息地であり、水中花バイカモが咲くときはさらによい。この地が「細雪」のホタル狩りの地とは知らなかったが、水がきれいなところだけに、そうであるのも頷ける。
 しかし、この地でも今はホタルも珍しく、幼虫を育ててホタル狩りをしたことにはいささか驚いた。愛知県ではホタルを育成している会をいくつも知っているが、岐阜県の山間の地方でもそうなのか。自然のホタルが乱舞する光景を見るのは今では夢なのだろうか。
 ホタルの乱舞を知った人には、その光景を再生することが夢のようだ。先にも触れたが、ボクの係わっているグラウンドワーク東海に、ホタルの幼虫を育成している団体がいくつも入っている。壊した自然を元に戻すのはなかなか難しいが、でもこうした活動が広がることを期待したい。

(第794話) 子孫が100人 2007,7,12
 “我が家には毎年、この時期になると静岡の祖母から新茶が送られてくる。現在104歳で子、孫、曽孫(ひまご)、玄孫(やしゃご)は総勢100人。全員の名前をはっきり言えるスーパーばあちゃんだ。
 祖母は仕事などで県外に散った子らを思って、毎朝、お日様に無事を願うし、60年以上前に逝った祖父の墓参りも欠かさない。98歳のとき、危篤の知らせを受け、覚悟して見舞ったところ、病状が回復して数日後、公園で玄孫と縄跳びをしていたなど、武勇伝は数々ある。末っ子の父が実家を訪ねると、朝の4時でもベランダに立って手を振りながら待っている。「超能力があるのかも」と不思議がったが、毎日、末っ子の訪問を待ってベランダに立っていたと最近になって聞いた。
 先月、施設に入り案じていたが、本人は施設暮らしに満足している様子。「でも、今年の新茶は無理だな」と思っていた矢先、例年通り新茶が届いて驚いた。”(6月23日付け朝日新聞)

 名古屋市の教員・山本さん(女・40)の投稿文です。長寿社会になった、そして一時代前の世代は子供も多かった。すると104歳で総勢100名にもおよぶ子孫ができたという。これにはその伴侶は含まれていないのであろうから、驚くばかりである。いろいろ苦労も多かろうが、これを幸せという。
 ボクの妻の家族が集まると、30人になる(伴侶も含める)。これでも集まると壮観、楽しい。山本さんのような話は、これからの少子社会ではなかなか望めないことである。山本さんはこの大家族を誇りに思い、楽しんでください。

(第793話) お父さんへの仕返し 2007,7,10
 “我が家の「お父さん」は夫である。この「お父さん」には、むかつくのである。私の人権を全く認めていないのである。夕食後に大好きな編み物を始めると、3分もたたないうちに「あれを持ってこい」。編み物の続きを始めると「それを持ってこい」「お湯加減を見てこい」「ビールを持ってこい」。さあ、編もうと思うと「寝るわ」と電灯を消す。「今に見ていろ、きっと仕返しをしてやるぞ」と思っていたら、あれを見つけてしまったのである。
 夫が経営している小さな喫茶店の前に置いてある自転車が、ひどくゆがんでいるのである。オフィス街にある店には、よく昼食の出前の注文がある。夫は料理を盛った鉄のステーキ皿を何枚も岡持ちに入れて左手で持ち、右手でハンドルを握る。バランスをとるため自転車は思い切り右に傾いている。
 夫はこうして自転車がゆがむまで働いて3人の子どもを育て、両親を看取り、家を建てた。それを思うと、どんなにむかついても「ちゃら」にしなければならないだろう。仕返しはやめて、お礼を言うことにしよう。「お父さん、ありがとう」”(6月22日付け朝日新聞)

 桑名市の主婦・平屋敷さん(68)の投稿文です。失礼な言い方かもしれないが、前回の「300文字小説」のような面白さである。家庭内の行動は自分勝手、亭主関白な夫に仕返しを考えていた妻が、夫の働く苦労の跡を見て、仕返しから感謝に変じたという平屋敷さん、ご夫婦にとって、こんな良い発見なかった。一歩世間に出てみれば七人の敵がいることは、家庭内を見ているだけではなかなか分からない。亭主関白ほど、仕事のことを家庭内で話さないので、よけい分からない。平屋敷さんご夫婦に安堵すると共に、お喜びを申し上げる。
 年金が夫婦別請求できるようになり、熟年離婚が増えていると言うが、お互い悪いところばかり目につき、良いところへ目がいっていないのではないか、そんな危惧を感じる。

(第792話) 何が何だか 2007,7,8
 “ボクが一階でテレビをつけた時、居間では、まだ二人の客が、おやじと話をしていた。
 おふくろが果物を出すと、客の一人が言った。「奥さん、もう何せんといてえな。あれっ、何や、もうこんな時間。そろそろ何さしてもらおか」もう一人も「そや。あんまり何しとっても何やでな」と応じる。「果物、何してってなあ」と、おふくろ。「奥さん、そんなにしてもうたら、何ですわ。もう私ら、何さしてもらいますで」「そやな、そろそろ何さしてもらお」すると、おやじも、「そうでっか。ま、あんまり何しても何やでな。ほなら」と二人を玄関へ送り出した。
 ボクには、何か何だか、ちっともわからなかった。”(6月24日付け中日新聞)

 津市の地方公務員・戸上さん(男・46)の「300文字小説」の作品です。代名詞で済ますことは前回の話題と似た話であるが、でもこれは全く違う話である。日本人の「察する文化」というのか「阿吽の呼吸」というのか、なかなか見事なものである。時には勘違いを起こして問題となったり、また後であの判断はまちがっていたのではなかったかと心配になったり、いろいろあるが、まあこれも日本の文化である。単刀直入にはっきり言うのも良いが、内容にもよるが、こんな世界も趣があってよろしい。頭の体操にもなるし???。戸上さんは何が何だかさっぱり分からないと言われるが、この程度の内容ならボクはほとんど間違いなく「何」を埋められる。

(第791話) アレどこだ? 2007,7,6
 今年も、サラリーマン川柳ベスト10が発表され、ボクも頂いた。なかなか好評で、年中行事になった感じである。そのサラリーマン川柳を題材にした投稿文が載っていた。
 “「忘れぬよう メモした紙を また捜す」・・・この通り、目に付く所に置いてないとこうなる。このごろは、次の日に必要なメモは起きたら一番早く目に付く所に置くことにしているので、少しは良くなったが・・・。
 「アレどこだ? アレをコレする あのアレだ!」・・・・この通り、結婚四十七年のこのごろの私たち二人の会話には代名詞が多い。「あれどこへいった?」「それ取って」「あの時さ」「それそれ、あの人」と言っても、毎日会話が通じている。いかん、いかん。これでは二人とも固有名詞を忘れてしまうと思い、主人が「あれどこへいった」と言ったら、分かっていても「何のこと?」と聞き、「それ取って」と言っても「何を?」と聞き返す。これからますます、「あれ」「これ」が多くなるかもしれない。気を付けて過ごそう。”(6月20日付け中日新聞)

 中津川市の主婦・松田さん(68)の投稿文からです。松田さんの年齢にはまだ時間があるが、でもわが家も同じだ。捜し物で費やす時間、この時間が結構多い、全く無駄で情けなくなる。先ほど置いたものが分からない。特に扉や車のキー、爪切りや小物のたぐい、いつもふたりで情けなく思いながら探し回る。そして、固有名詞が出てこない。特に人の名前、これで後30年生きられるのだろうか。でも訓練や心がけである程度は防げるだろう。松田さんはひとつの提案をされた。夫婦でするひとつのゲームと思えば楽しかろう。早速ボクも密かに試みたい。

(第790話) 一人弾くピアノ 2007,7,4
 “廊下の片隅にじゃまくさそうに置いてあるピアノ。娘が置いていったものだ。誰も弾く人がいない。ちょっと弾いてみようかな。もちろん習ったこともない。今日は息子もいないから迷惑にはならない。ふたを開けて、ドレミファソ・・・。ぎこちないこわばった手で弾いてみた。いい音だな。昔歌った童謡を弾いた。自然に弾けるものだ。手はぎこちないが音がいい。だんだんピアノの中に入り込んで夢中になってしまう私。いい気持ち。久しぶりに子どもに帰ったような自分に気が付いた。”(6月19日付け中日新聞)

 春日井市の理容業・纐纈さん(女・63)の投稿文からです。娘が使っていたピアノが、今はだれも使う人がなく、邪魔になっているのはわが家も同じだ。狭いアパートに持ていけとも言えぬ。再び役立つときがあるだろうか。世間にはこんな家も多いのではなかろうか。
 纐纈さんはそんなピアノをたたいてみて、新たな発見をされた。余裕の出た今、いろいろやってみるのもいい。わが家ではそろそろいろいろなものを整理せねばならぬ。いろいろ試しながら整理する必要がある。こんな発見があると面白いのだが。

(第789話) テレビの音 2007,7,2
 “親睦旅行で、おじさんたちは山あいの温泉宿に行った。入室するやいなや、テレビをつけた人がいた。聞けば、何か特別に見たい番組があるわけではないらしい。「何か音がないとダメなんだ」「せっかく山奥まで来てるんだ。川の音や鳥のさえずりを聞こうじゃないか」「そういうんじゃ、なんだか寂しいだろ。静かなのが苦手なんだ」こんな談笑の間も、見ていないテレビはつけっ放しだった。
 聞けば、彼は独身で、帰宅するとまずテレビをつけるのだそうだ。テレビの音がないと、己の存在の確認ができないと大仰なことを言う。多分、それは逆だろうとおじさんは思った。静かな部屋では己の存在とまともに向き合うことになる。それが嫌なのだろう。そして、現代人の多くが彼と同じ「テレビ依存症」とも言える症状を抱えている。
 一日でもいいから、テレビをつけないで暮らしてみてください。何と多くの時間が己自身のものになるか、実感できること請け合います。”(6月17付け中日新聞)

 飛鳥氏の「おじさん図鑑」からです。何かの統計でも、旅館について真っ先にすることは「テレビをつけること」がダントツ1位であったという記憶がある。この風景はこの独身男性に限らず、一般的風景である。考えてみれば、まさにテレビ依存症である。そしてそのテレビの内容たるや、見るほどのものでもないのにである。
 己の存在とまともに向き合う、これは多くの人にとってなかなか辛いものがある。社会にとって、家族にとって、我が人生においてこれでいいのか、思えば思うほど分からなくなる。でも時には逃げ出さないで、この時間作りも必要である。



川柳&ウォーク