|
(第747話) 大笑いする活力 |
2007,3,30 |
|
“離婚して、娘二人と自分の母親と四人で暮らしている女性がいる。おじさんとは古い付き合いだ。ある時、おじさんがフッと彼女に聞いた。 「あなたは女手一つで二人の子を育て、母親との暮らしを支えている。随分大変な生活だと思うけど、そんな中で一番楽しいことといったら何かな」彼女は一瞬のためらいもなく、「家族四人でおなかがよじれるほど大笑いしている時が一番楽しいかな」と言った。 おじさんは腕組みしてうなった。かつて、おじさんの一家も夫婦に息子と娘の四人暮らしだった。今思えば四人で泣き笑いしていたころが、わが家の絶頂期だったかもしれない。子どもが巣立ち、今は夫婦二人きりの、ちょうど結婚当初と同じ状態になっている。お互いの自我は丸くなり、怒鳴り合うことも、大声で笑い合うこともなくなった。 まだ間に合う。夫婦二人、おなかがよじれるほど大笑いする活力をわが家に取り戻さねば、とおじさんは心に期したのだった。(3月11日付け中日新聞)
飛鳥圭介さんの「おじさん図鑑」からです。ボクの家庭も飛鳥さんとほとんど同じだ。子供らが出ていって大笑いしたことなど思い出せない程である。かつては笑顔を売り物していたボクだが、特に最近のボクは笑うことが少なくなった。この文を読んで気がつき、反省させられた。大きな肩の荷が下り、本当はこれからなのに・・・・。
|
|
|
|
|
(第746話) 退職した男性 |
2007,3,28 |
|
“家族のため、企業のために働き続けた男性も退職すれば、「粗大ごみ」と呼ばれた時代がありました。捨てられてはかなわないと、「ぬれ落ち葉」になって、へばりつきました。でも、乾けば元のもくあみ。夫たちは次に「核兵器」となり、捨てるに捨てられない存在として、妻に寄り添いました。妻たちは「核兵器」と化した夫をそっとしておきました。そう、無視したのです。自分は、友達とモーニングやランチでおしゃべりして発散。 地域社会とのつながりが少ない夫は、ついに「ミノムシ」族になっていきました。自分の殼に閉じこもり、ひっそり家という木にへばりついています。あげくの果てに、「亭主在宅症候群」という病名まで付けられてしまいました。主人らはさぞ、不本意なことでしょう。少々、可哀想な気がします。 これらの呼称はすべて、妻側から付けられたものですが、夫たちはどう受けとめているのでしょう。そして、「ミノムシ」の次は、何と呼ばれるのでしょう。”(3月10日付け朝日新聞)
岐阜市の主婦・澤田さん(67)の投稿文です。退職した男性にこれだけの言葉が作られていたのか・・・知らなかった。これがすべて女性からつけられたのか、それにしてもうまい。澤田さんが言われるようにこれを男性はどう受けとめているのか、この投稿文には異論も多いと思うが、ボクは男性への叱咤激励と受けとめておきたい。こう呼ばれないようにするためにはどうすればいいのか・・・・。
|
|
|
|
|
(第745話) 箸の手を替える |
2007,3,26 |
|
“今年に入って、右手に持っていた箸を左手に持ち替えて食事をしている。まだぎこちなく、行儀悪く見えるかも知れないが、目的は二つ。一つ目は右脳を刺激し働きを良くするためだ。効果は不明だが、眠っていた神経や機能を呼び起こしている気がする。二つ目は、将来病気やけがで右手が使えなくなっても、不自由なく食事ができるようにするためだ。
その結果、1回に口に運ぶ量が減り、食事の時間は長くなった。食べ物を噛む回数が増え、同じ料理でも違った食感や味わいが発見できた。”(3月10日付け朝日新聞)
長岡市の薬剤師・猪浦さん(男・47)の投稿文からです。またいろいろなことを考える人がいるものだ。でも考えさせられる。妻と話していたら、脳梗塞などで男性は右半身が、女性は左半身が不随になる人が多いという。それが本当なら、男性のボクは猪浦さんの言われることは重要になる。ボクなど右手オンリーで、左手はほとんど使えない。まずは脳梗塞にならないことに気をつけるべきであるが、気をつけてもならないとは限らない。この話を今から本気で取り組むべきか、悩むことばかりである。
|
|
|
|
|
(第744話) 姫路城復元模型 |
2007,3,24 |
|
“宮川のほとり、閑静な住宅地奥にたたずむ″姫路城″。三重県伊勢市円座町の井村裕保さん(69)が、約22年かけて自宅庭で製作してきた復元模型がほぼ完成。四月に予定している完成式に向け、補修作業が続く。
本物の23分の1のスケールで忠実に復元。現存しない建物は大分県で見つかった古文書をもとに製作した。面積は約165平方m。高さ約2.5mの繊維強化プラスチック(FRP)製の大天守がそびえ、石垣や樹木は本物、瓦や壁の色にもこだわり”白鷺城”の風格を漂わせている。 思い立ったのは47歳の時。妻・郁子さんから誕生日に贈られた姫路城の写真集がきっかけだった。「山並みが背景になるように」と土地を購入し、作業小屋を建設。資料を集め設計図を書き、毎日のように作業小屋へこもった。定年後は一日平均6時間は作業をしていたという。原材料費だけで約1800万円。”(3月10日付け中日新聞)
趣味の世界のことで、最近これほど驚いたことはない。ふさわしい土地を買い、材料だけで1800万円使い、22年の歳月をかける。新聞には写真も掲載されていたが、素晴らしい。趣味と言うより道楽であろうが、これだけの夢をかける、まさに一筋である。夫婦でされたことだからできたことであろうが、まさに人様々である。当然のように平凡なサラリーマン生活をし、のめり込むでもなく少々の趣味を持ち、淡々と老後を迎える、そんな人間にはまさに快哉を送りたい過ごし方である。特別の能力や人生を考えられたわけではなく、平凡の中から成し遂げられたと思うから快哉を叫びたいのである。ここまで成し遂げられるともう平凡など言うのは失礼千万か・・・・。
|
|
|
|
|
(第743話) 佃公彦 |
2007,3,22 |
|
“「新聞漫画は新鮮さが命。正月以外は描きだめはしなかった。休刊日は休めるはずだけど、同時掲載している北海道新聞は、発行することがある。だから毎日毎日、雨の日も風の日も寝ても覚めても、アイデアを考えていた。孤独な仕事でしたよ」 佃さんの一日は、新聞を読むことから。午前七時、東京都中央区佃の自宅からアトリエに来ると、午前中いっぱいかけ五紙の隅から隅まで目を通す。「ニュース記事だけでなく、広告も読者投稿欄も俳句欄もすべてがヒントになりました」 机に向かうのは昼すぎ。「シーンとしていないと筆が走らない」と、BGMもかけず来客の訪問も断る。六畳一間ほどの室内には、机と、昔ながらの黒電話、昼寝用のソファ、それに本棚が一つ。植物図鑑や浮世絵の安藤広重の画集、山頭火の句集、スヌーピーの原書などが並んでいた。 アイデアのベースは、少年時代を過ごした疎開先の徳島の風景だ。小川のせせらぎ、田植え、ミミズと土のにおい、虫捕りにザリガニ捕り、頭に落ちてきたクリのイガの痛さ・・・。”(3月8日付け中日新聞)
中日新聞に新聞漫画を連載されていた佃公彦さんが、平成19年3月8日をもって病気により休載された。この間に掲載された回数は、12997回であり、東京新聞に掲載されたものも含むと、15451回である。過去の最高は加藤芳郎さん(毎日新聞・まっぴら君)の13615回という。わが家は中日新聞を長年取っており、佃さんの「ちびっ子紳士」「ほのぼの君」を愛読してきた。15451回を365日で割ると42年以上である。書きだめもしなかったと言われるから、ほぼ毎日休みもなく4コマ漫画を書き続ける、毎日アイデアを生み出す、人間業とは思えない。少なくともボクと同類の人間ではない。でも佃さんは人間である、人間って素晴らしいことができるものである。楽しい、明るい漫画を長年ありがとうございました。
|
|
|
|
|
(第742話) 拝啓社長様 |
2007,3,20 |
|
“先日、夫が勤続四十年の表彰状をもらって、上機嫌で帰ってきた。中小企業の建設会社に勤務。「明日、社長からお前に記念品が届くから、お礼の返事ぐらい出しとけよ」と夫は言った。 翌日、私あてに手紙と品物が届いた。その包みを開きながら、高校卒業後に人生の半分以上をこの会社で過ごし、悩んだり迷ったりしながらも働けたのは、社長さんのこんな気配りもあったからだろうと、思った。 礼状はどう書こうかと、あれこれ悩み、なかなか進まない。お礼の気持ちを伝えるだけなのに、胸がドキドキし、まるで先生に出す作文を書く気分だった。”(3月2日付け中日新聞)
名古屋市の主婦・永田さん(54)の投稿文からです。会社の勤続表彰を本人ばかりではなく、家族にも出される社長さん。考えてみれば何十年という勤務は本人だけの努力でできるものではない。その人を支える人があって始めてできること。だれもが分かっていることではあるが、それをきちんと示される社長さんに、家族は大いに感激するだろう。ボクも昨年勤続38年の勤務を終えたが、本人に紙1枚だったな・・・・。
|
|
|
|
|
(第741話) 数独 |
2007,3,18 |
|
“本紙にも毎週連載されている数字パズルの「数独」、私もこれの虜となり、通勤途上の地下鉄やバスの中でも鉛筆と小冊子の問題集が手放せない。先般、飛行機の中で解いていた時、隣の座席の人が声をかけてきた。見ると、その手にも数独パズルの小型本があった。
数独談議となり、アッという間に福岡に着いた。今、一週間の予定で来ているポーランドでも、SUDOKUと表記される小冊子の問題集が街の書店や空港の売店に何種類も並べられている。解き方は、本紙に掲載されているものや日本で売られているものと同じで、一から九までの数字を縦横の行列に、四角の九つの升目に重複しないように入れていく。数独ゲームには、縦横の空いた升目に文字を入れて完成させるクロスワードパズルの普及ぶりに追いつく勢いを感じる。鉛筆と問題集を手に、五分でも十分でも自分の空いた時間に集中して解くことができ、気持ちの切り替えも容易にできる。”(2月27日付け中日新聞)
大学教授・家本さんの随想である。数独が開発されたのはもうだいぶ前になるようだが、ブームになったのは2005年にイギリスから始まり、それが世界に飛び火、日本では昨年あたりからのようである。そして、ボクも先月くらいからはまっているのである。家本さんと同じように、小型本を持ち歩き、電車の中やその待ち時間、夜寝る前とか、少しの時間を利用している。集中しないとすぐ間違えてしまう。間違えるとなかなか途中からは修正しにくく、最初からやり直しとなる。ボクが買った本ではまだ初級編のレベル2であるが、もうだんだん解きにくくなってきている。これからは研究しなければならないだろう。どの位のめり込んでいくのか、少々の楽しみ位にしておきたい。
|
|
|
|
|
(第740話) 天国と地獄 |
2007,3,16 |
|
2月22日付け中日新聞「世界のジョーク・フランス編」からです。
“ある政党の党首が事故で亡くなった。天国の入り口で迎えた聖人がこう言った。「政治家をどう遇していいか分からない。神様は君が地獄で1日、天国で1日過ごしてからどちらに行くかを選ぶことを望んでおられる」 地獄は予想に反して天国のよう。旧友や気のいい悪魔と酒を酌み交わし、美食に舌鼓を打った。翌日の天国はみな礼儀正しいのだが、貧しい人ばかりで顔なじみがいない。話題もまじめだった。 党首が「天国は興味深いのですが、地獄でのびのび暮らします」と地獄の扉を開けると、そこは一面の焦土。鎖でつながれた人々はぼろ着をまとい、ごみを拾っていた。”
一部省略していますが、人間をよくとらえたジョークである、感心した。水清ければ魚棲まず、清廉潔白な人とは付き合いにくい、人間ほどほどに汚れたところが住みやすい。類は友を呼ぶ、悪友の方が付き合いやすいし、楽しい。しかし、神様は公平、信賞必罰であり、因果応報である。その覚悟はしておかねばなるまい。
|
|
|
|
|
(第739話) 掌中の珠 |
2007,3,14 |
|
“「掌中の珠」とは最も大切にしているもののたとえた。とりわけ最愛の子どものことを指すと、辞書にはある▼両方の手のひらに抱えられた小さな赤ちゃんの写真は、まさしく「掌中の珠」を思わせた。昨年十月、妊娠わずか二十一週の段階で生まれた米国の女児、アミリア・ソニア・テーラーちゃん。病院がこのほど公開した誕生間もなくの写真であり、体重はたったの284g、身長は約24cmだったそうだ▼手のひらを広げてこれくらいかと想像し、「よくぞ生まれけり」と感じ入る。その後は順調に成長して今の体重は2000gを超え、数日内に退院できる見通しとなった。▼普通、妊娠期間は37週から40週で、妊娠21週での誕生は世界記録とか。アミリアちゃんが誕生した病院はあくまで例外的な事例と強調し、「奇跡」と呼ぶほどだ。”(2月22日付け中日新聞)
「中日春秋」」というコラム欄からです。人間の生命力、そして現代の医術、全く凄いものである。ボクの知人で、800g位で生まれた孫が元気に育っている話を聞いているが、その比ではない。それだからニュースのになるのだが、この命は大切にしたいものだ。しかし、同じ命ながら、一方で何と命を粗末にするニュースが毎日多いことだろうか。 先月ボクに孫が生まれ、こちらは予定日の11日遅れで、3950gもあった。
|
|
|
|
|
(第738話) 風船が取り持つ |
2007,3,12 |
|
“今から17年前、私が動めていた保育園が10周年を迎え、その記念行事で園の住所を付けて風船を飛ばしました。その風船のーつが、知多市のお宅まで飛びました。庭木に引っかかっているのをその家の小学生が見つけ、園に返事を書いてくれました。それ以来、その子と私はお互い顔も知らずに年賀状のやり取りを17年続けてきました。私は保育園をいくつか転勤し、6年前に定年退職をしたことなど知らせました。 彼からの年賀状には、中学、高校と進学し野球に熱中する様子や成人式の決意、就職し、厳しい社会の中でゆとりが欲しいなどといった悩みなどがつづられます。「先生も体に気をつけて」という添え書きがいつもありました。 今年、初めて写真入りの賀状が届きました。彼の顔がわかったのです。まだ童顔が残る紋付きはかまの青年と、和服の女性との結婚式の写真でした。 風船一つの縁で17年もの間、賀状を書いてくれた彼。顔を知ってさらにうれしくなり、この好青年に何かお祝いをしたいと、私はあれこれ考えています。”(2月20日付け朝日新聞)
日進市の主婦・村田さん(67歳)の投稿文です。風船ひとつから見ず知らずの人が、17年間年賀状のやりとり、時折ある話ではあるがいい話である。それも親子ほど違う年齢差から、多分、先生と生徒の気分ではなかったろうか。ちょっとした縁にどう対応するかによって、その後が全く違った人生になることがある。いい縁を上手につかみたいものだ。
|
|
|
|
|
(第737話) 包みの中身 |
2007,3,10 |
|
うそも方便、その第3話目、最後です。
“それは五つか六つのころだったと思います。私と弟がわがままを言って母を困らせた時、母は白いエプロンを外し、風呂敷包みを大事そうに抱えて「もうおうちには帰らないからね」と言って、出て行ってしまいました。さあ、大変。あんなに大きな風呂敷包みを持っていったら本当に家から出て行ったに違いない、と必死に後を追いかけました。泣きながら「いい子になるから家に帰って」と母の着物の袖と風呂敷包みにしがみつきました。
風呂敷包みをもぎ取ることに成功し、「これさえ渡さなければ大丈夫」と家に戻りました。母は何事もなかったように帰り、風呂敷包みをほどきました。中身はなんと取り込んだばかりの洗濯物でした。
それからほどなく母は若くして亡くなりました。母と結びつく思い出の少ない私にとっては、この「うそ」が、母からつかれたたった一つの「うそ」だったと思っています。”(2月21日付け朝日新聞)
豊橋市の主婦・伊東さん(71)の投稿文からです。母親が幼い子供にうそをつくのであるから、ことは簡単だが、伊東さんにとって数少ない思い出になった。何が幸いするか分からないものである。人間明日もしれない身、つい先日今年大学を卒業される息子さんを突然亡くされた知人があって、このことが身に染みる。日々大切にしていきたいものだ。
|
|
|
|
|
(第736話) うそで合格 |
2007,3,8 |
|
“母は機転を利かせたうそがうまい。中学受験ではこんなことがあった。第2志望校の結果が出たら、母は「受かっていたけれど、お金がないから入学金は払えません。第1志望、頑張って」と励ます。気を良くした私は自信を持って第1志望校の受験に臨み、合格した。 大学に入った昨春、母が私に打ち明けた。「時効だから言うけど、実は第2志望の中学、不合格だったのよ」。母は本当のことを打ち明け、肩の荷を下ろしたようだった。
一方の私はほっとした。あの時に本当のことを聞かされていたら、ショックとプレッシャーで第1志望校に受かっていたかどうか。今の私の人生も違っていたかもしれない。”(2月21日付け朝日新聞)
札幌市の大学生・飯田さん(女・19)の投稿文からです。まさにうそも方便、人に勇気や希望を与えるうそなら有効に生かそう。飯田さんが「お金がないから払えない」といわれて、すぐに納得されたのも面白い。素直であり、いい親子関係であったのであろう。
|
|
|
|
|
(第735話) 母がくれた薬 |
2007,3,4 |
|
「うそも方便」という言葉があるが、これから3題はそのうそが功を奏した話である。朝日新聞の投稿欄で「うそ」というテーマで募集されていたものからである。
“高校の受験シーズンが近づくと思い出すのが「頭のよくなる薬」のことだ。長野県の山間部に住んでいた私は地元の高校ではなく100キロほど離れた浜松市の進学校にどうしても入りたかった。 受験勉強らしきものを始めたが、成績はなかなか上がらない。そんな時、母が「これを飲むと頭がよくなるよ。他人には決して言ってはいけないよ」と、大きな瓶に入った薬を手渡してくれた。その日から、「これを飲むと頭がよくなるのだ」と信じて毎日、飲んだ。夜中の3時ごろまでの猛勉強のかいもあったのか、県内で行われる模擬テストの成績はグングンと上がっていった。最終のテストではトップになり、志望校に合格出来た。 大学受験期になり「潜在意識をいかす」ということが書かれた本を読んだ。この本から、こうなりたいと思う姿を想像しながら勉強すると効果が上がることを知った。しかし、母はあの薬のことを「本当に頭のよくなる」と信じていたのか、それともうそをついていたのか。私は母にその真相を亡くなるまで、確かめることがどうしても出来なかった。”(2月21日付け朝日新聞)
豊橋市の塾経営・宮下さん(男・58)の投稿文です。頭がよくなる薬と言われて信じて飲んだというのであるが、現代はまやかしのそんな薬、話が氾濫しているようだ。宮下さんも当時は信じられたと思うが、そして、今は多分信じてみえないが、それを否定したくない気分なのであろう。だから確かめることもできなかった。温かい話はいつまでも大切にしたいものなのだ。
|
|
|
|
|
(第734話) 雨ニモマケズ |
2007,3,2 |
|
“80歳の誕生日を迎えた。幼い頃に抱いた80歳のイメージは、背中を丸め、ひなたぼっこをしながら所在なく過ごす姿だったように思う。だが今、私は年なりに元気で、一人暮らしを送っている。できることならこれからの人生をこんな風に生きたいと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」になぞらえてみた。 雨にも負けず、風にも負けず、庭には四季折々きれいな花をいっぱい咲かせ、草木が芽吹くころは娘の庭の草むしりに精を出し、孫のところに行っては子守をし、寒さに向かえば曽孫の綿入れはんてんを縫い、安らかな眠りを願ってパジャマ作りにミシンを踏む、友とときには旅の思い出づくりに憩い、姉妹と集いてきずなを深め、亡き夫の命日にはハンドルを握ってお墓に走り、供養を欠かさず、隣人との交流を楽しみ、三余の学びも心がける、こんな人生を全うできたらうれしい。 丈夫な体で生かしてくれた両親に感謝し、元気をくれる子孫にいつまでも役立つ存在でありたい。”(2月17日付け朝日新聞)
豊川市の小林さん(女・80)の投稿文からです。なかなか味わいがあり、ユーモアもある替え歌ならぬ、替え詩である。詩の内容も、人生老後はこうありたいという見本のような話である。80歳にしてこんなことを考えつく小林さんは心身共に健康、素晴らしい。ボクが作るとどうなるか・・・雨に少し負け、風にも少し負け、庭には雑草が茂り・・・・皆さんも是非挑戦してみてください。
|
|
|
|
|
|