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(第720話) あらたまっちゃって |
2007,1,31 |
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“月に一度、二人だけで暮らす両親の元に通い始めて、数年がたちます。「父さんまた来たよ」「ご苦労さん」。この一瞬から私は子どもに帰ってしまう。少しだけ手の込んだ料理を作って父の好きなコーヒーを入れ、三人であーだこーだとおしゃべりに花を咲かせます。その後は、その辺の掃除と買い物を済ませて掃ってくる。そんな一泊だけの私の来訪を両親は楽しみにしてくれているようです。 夕方になって帰り支度を始めると、決まって母が「もう掃っちゃうの」と寂しがりますが「またすぐ来るから」と言って外に出ます。以前は父母のどちらかが駅まで送ってくれたものですが、足腰が弱くなったこのごろでは門の前で、必ず「どうもありがとう。こ こでごめんください」と二人で頭を下げるのです。 「いやだ、あらたまっちゃって」とちゃかすのですが、私はこの「ごめんください」に弱い。鼻の奥がツーンとしてくるので急いで手を振って別れてくるのです。”(1月14日付け中日新聞)
岐阜市の自営業・北川さん(女・56)の投稿文からです。親子の中のあらたまった言葉使い、照れてなかなか言えないものだ。分かっていると思っても、そうでないことが結構多い。ここが親子不仲のもと、ボクなどいっぱい経験した。親しき仲にも礼儀あり、特に「ありがとう」は重要である。 ボクの妻の母親は昔から病弱で、妻がよく世話をしている。ボクに会うと「**子にいつもいろいろ親切にしてもらってありがとうございます」といつも他人行儀に言う。ボクがするのならまだしも、自分の子供がするのであるから、そんなこと言わなくてもいいのにと思うが、人の妻になったらもう自分の子供でもないと思っているのだろうか。でも言われて悪い気はしない。これが大切なのかもしれない。
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(第719話) 珊瑚寿 |
2007,1,29 |
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“昨年十二月十一日に八十五歳の誕生日を迎えました。八十歳の傘寿は何の問題もなく過ぎました。が、次の米寿までの八年間は長すぎる。その間に年を祝う節目の年齢とか言葉はないものか思いを巡らせているうちに八十三歳が近づいてきました。ある日、「花見寿」はどうだろうかと考えました。「八十」を「ハナ」とし「三」を「ミ」として「ハナミ寿」に。ハナミズキ明るいイメージもあることですし・・・。友人には「なあにこれ、鼻水っ」と笑われましたが。 そして、八十五歳は意外に簡単に決まりました。傘寿の傘の下に五をそのまま付けて「傘五寿(さんごじゅ)」で出来上がり。めでたい長寿の珊瑚にあやかって「珊瑚寿」にしました。友人も異議なく賛成です。私はその意味を味わいながら米寿を目指します。”(1月12日付け中日新聞)
岡崎市の木村さん(女・85)の投稿文からです。記念日というのは、日々生活のひとつの区切り、喜び、お祝いをし次のステップにする。80歳ともなれば1年1年が重要、次の8年の間に独自の記念日を設ける。なかなか面白い発想です。こんなことを思いつく人の精神は健康そのものです。 ここ3話、連続して年齢と記念日の話になりました。偶然というものは面白いものではありませんか。
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(第718話) 聖人式 |
2007,1,27 |
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“私の町では、昨年12月10日に町内在住の80歳、160人を対象にした、傘寿を祝う「聖人式」が催された。これは町長の提案による町民の意識改革のひとつ。60歳定年後の20年間を第2の活動期として、老人扱いせず、現役時代の経験を生かして社会貢献を果たす熟高年と位置づけて人生のマイスターとしての活動を促す。
80歳の時点で初めて老境の一里塚と認め、長寿を願い、豊かな余生を送る節目にしようという試みである。私もこの聖人式に参加して町長の式辞を聞き、激動の80年間の生涯が脳裏を去来した。 我々の20歳は徴兵検査だったが、戦後は成人式になった。そして第2の成人式である「聖人式」。これを企画した町当局のアイデアに賛辞を送りたい。(1月8日付け朝日新聞)
岐阜県白川町の農業・伊佐治さん(男・79)の投稿文からです。またまたユニークな発想である。長寿社会、そうそう老人にはさせない。60歳からの20年を第2期活動期、80歳にしてやっとひとつの卒業、聖人である。しかしこの歳になってもなかなか聖人とはいかない・・・一生いくわけではないが、もう一頑張りか。 私の町では60歳で老人会入会である。勘弁して欲しいといったが、許されなかった。
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(第717話) 20歳の「ありがとう」 |
2007,1,25 |
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“先月、1通の手紙が家に届きました。その日は20歳になる大学2年の長男の誕生日です。「あれ?」と裏を見ると、果たして、その東京に住む息子からでした。中には家族6人の一人ひとりに書いたメッセージ。そして、食事券がありました。 私あての手紙には「お母さん、産んでくれて、ありがとう。大切に育ててくれてありがとう。今までいっぱい反抗して、困らせたけど、20歳を迎えた今日、僕はお礼を言いたい。一緒に贈った食事券は、自分が働いて稼いだ金で買いました。学生の分際で筋が違う、と言われるかもしれないけど、バイトをしたのは、お礼の券を買うためだけです。おいしいものでも、みんなで食べてきてください」とありました。 「学生のバイト禁止」の我が家では、この手紙で動揺したのも事実。でも、遠い東京のコンビニで、田舎育ちのあの子がスモックを着て、まごまごしながら、必死に働いている姿を思い浮かべると、涙が出て困りました。”(1月8日付け朝日新聞)
静岡県裾野市の教員・宍戸さん(女・46)の投稿文からです。日本の20歳は、選挙権が与えられ、酒タバコが許される、人生のひとつの区切りです。その区切りをどうとらえるか・・・宍戸さんの息子さんは、この機会に家族への感謝の気持ちを食事券という形で表された。それも親からもらうお金で買っては意味がないと、家族の間で禁止になっているアルバイトをして調達された。麗しい話ではないか・・・・家族とはこうでありたい。
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(第716話) 三しない |
2007,1,23 |
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本年100歳を迎えられる「南無の会」会長の松原泰道さんの文が、1月7日付けの中日新聞に掲載されていた。その中からほんの一部を紹介します。
“私は、師父の教えに従って、「無理をしない・無駄をしない・無精をしない」の″三しない″を守るように努めています。 無理をしない、はいわゆる年寄りの冷や水をいうのではありません。老いるととかく自我が強くなり、道理を無視しがちなのを自戒するのです。無駄をしない、は老人には労働力も生産力もないから浪費や物をそまつにしないようにすることです。無精をしない、は年寄りは身体を動かすのがおっくうになるから、つとめて自分で出来ることは自分ですることです。 私の健康法とて別にありません。ただ出来るだけ規則正しい生活をするようにしていますが、それも規律一辺倒ではなく、多分にゆとりを持たせます。”(1月7日付け中日新聞)
100歳の方の話がどこまで我々壮年や青年に役立つか・・・少なくともこの無理、無駄、無精の「三しない」はすべて役立つと思う。 1月16日の中日新聞に、宗教評論家のひろさちやさんが「忙しいのは不幸」と言うタイトルで「義務的なこと(仕事)に忙しいのは不幸であって、自分のために使える自由な時間をたっぷり持っているのが幸福」と言う意味のことを書かれていた。この「三しない」と併せて考える必要がある。
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(第715話) 我等は |
2007,1,21 |
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「 我 等 は 」 武者小路実篤 我等は過去の人間から受けとったものに 我等の精神と労働を加味して、 未来の人間に渡すものである。 出来るだけよくして渡したい。 武者小路実篤氏は、若き日にトルストイに傾倒し、のちに「新しき村」を作るなど徹底した人生肯定、人間信頼の理想に生きた。「我等は」の詩には、そうした彼の、人間信頼の肯定的な心が、何の飾りもなく、実に率直に訴えてくる。彼はいう。過去の人たちが残 してくれた歴史を受けとめて、その上に自分たちの精神と労働を持って、自分たちの後につづく人たちのために、よりよい世界をつくり上げて渡したいと。 私はあの敗戦の無残に敗れた祖国の姿に、私が培ってきた心の支柱が、音を立て砕かれた。そんな苦悩の中で私は、自分の生きる道を仏教に求めた。そして会社を辞め、焼跡に本堂建設中であった教団に馳せ参じた。師は私に教えてくれた。 「今本堂を建設中だが、大工が建物を建て、建具屋が建具を作り、畳屋が畳を作る。しかし寸法どおり作ってきても、そのまま決して合うものではない。合わないのは大工が悪いからといって、合わない建具や畳のままにしていたら、どちらが笑われるであろうか。あとから入れる建具や畳を合わせてこそ、家が成り立つのだ。人間も世の中に後から生まれてきたのだから、まず世の中の現状を引き受けて、その上に自分の理想とする世界をつくる努力をすることが大切ではないか」”(1月7日付け中日新聞)
少し長い引用ですが、大乗教常任理事・瀬上さんの「こころの詩」からです。過去を引き継ぎ、次世代の人に渡す・・・それも良くして渡す。これが人類がいつまでも存続する原理原則です。次世代への責任です。ところが地球環境や社会環境を見渡せば、人類は全く逆のことをやって来たのではないか。ここ30年、100年で地球の遺産を食い尽くし、後世に汚れた地球を渡そうとしている。今からではもう遅いかもしれないが、少しでも地球破滅を遅らせる努力をしなければならない。
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(第714話) 農産物 |
2007,1,19 |
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“日本は昨年、ハクサイやキャベツなどの野菜類が大豊作でした。しかし南半球のオーストラリアでは空前の大干ばつで、小麦の生産量が例年の四割しか収穫できなかったそうです。 片や廃棄しなくてはならないほどたくさんとれ、一方では不作に苦しむ。天候に左右されやすい農業の、不安定さと難しさを感じた二つの国の出来事でした。今では野菜を作る際、温度や湿度を調節してオートメーション化する場合もあるようですが、すべての野菜 を工業製品のように生産できるわけはありません。 農業ほど、涙をのんで廃棄しなくてはならないつらさと、次の生産ができるかどうか分からないものはないと思います。それを考えると、野菜などを作る生産者には誰もが感謝しなければならないと思います。”(1月7日付け中日新聞)
岐阜県本巣郡の公務員・桑原さん(28)の投稿文です。ボクは農家育ちで、農業の辛さをよく知っているだけに、こうした農業に理解ある文を読むと嬉しくなる。農業は本当に天気に左右される。それを自給率がいくら低くなろうとも、他の商品と同じように、安ければいいと輸入品でまかなってきた。「農は国の本」なのである。食糧は何よりも大切な生命線である。そして、農は食糧だけの問題ではない。国土保全の問題も含んでいる。粗末にした大きなしっぺ返しがまもなくやって来る。山を見よ!単なる材木の生産の場と考え、輸入材と競争させたところに、山は荒れ、災害が頻繁になっている。
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(第713話) たまごの日 |
2007,1,17 |
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“「どこの御家庭の冷蔵庫にも、卵はありますね、安くて便利な食品です」・・・ラジオから流れる声で、遠い昔のことが思い出されました。母子家庭のわが家は、いつも粗食で卵なんてぜいたく品です。そんな生活でも、月に一回「たまごの日」がありました。 母と子ども五人分の卵を六個買ってきて、みんなの食卓に一個ずつのせます。私は大好きな卵かけご飯にします。妹二人はみそ汁に人れて口端を黄色にして食べています。残りの三個は、母がいり卵にして幼い妹と弟に等分に分けてやります。母は鍋についたのを、こそげて食べるだけです。 卵一個で家中が幸せな気分になれます。卵アレルギーなんて言葉もなかったし、風邪をひくと大ぴっらに食べられる貴重品でした。お互いに寄り添い、ひっそり生きていましたが、ご近所さんも親切でした。今思うと一番幸せな時を過ごしたような気がします。幸福はお金でもモノでもありません。”(1月7日付け中日新聞)
常滑市の堀井さん(女・79)の投稿文です。ボクも卵というと、郷愁に浸ります。ボクが小学生のころ、鶏が5羽位いつもいました。産んだ卵がボクの口にはいるのは、滅多にありません。その卵は取っておいて、ある程度たまると、近くの万屋さんへ持っていって物々交換です。でも時折食べられる卵ご飯のときは、堀井さんと同じ、幸せな気分の絶頂でした。でも堀井さんの家がいいと思うのは、こうして「たまごの日」と言える日があったことです。より思い出深いものになります。この発想は他のことにも使えそうです。それにしても現代の方が比較にならい豊さなのに、幸せ感も満足感も薄いとは、どういうことだろう。 ここ3話ばかり、高齢の女性の投稿文が続きました。こうした文を書かれることにまず敬意を表しますし、素朴な文ながら何か心引かれるものがあるのは、やはり年の功であろうか。
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(第712話) 後ろ姿が手本 |
2007,1,15 |
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“夜を日に継いで野良仕事に明け暮れた祖母だが、日焼けした顔はいつも穏やかで、愚痴ったり他人の陰口を言ったりするのを聞いたことがない。
「もったいない」「ありがたい」「おおきに」が口癖で、不平不満を漏らさぬ点は母と同じだ。煮物、漬物、障子張り、繕い物、家事全般を後ろ姿で教えてくれたと、今改めて感謝する。雨の日は1日に10足も草履を作った。 20歳で嫁ぐまで祖母と寝ていた私は、物心ついた頃から毎晩のように、祖母の手枕でおとぎ話を聞いた。数々のことわざや村の言い伝えも口移しで教わり、解説もしてくれた。 「転がる石にこけは生えぬ」「急がば回れ」など、地道に努力する大切さを教えてくれた。「ご先祖様の顔に泥を塗るようなことをするな」「お天道様が見てござる」と人の道を説いた。79歳になって間もなく、日焼けの跡もまだ残る、短い患いで旅立った祖母。多くの無形の財産をもらった。”(1月4日付け朝日新聞)
岐阜市の主婦・田中さん(72)の投稿文です。「もったいない」始めここに出てくる言葉は昔の人の常套句、人生の基本的な言葉だ。現代でもその重要性は何ら変わらないが、ついおろそかになりがち。知識としては知っているだろうが、身に付いていない。現代社会の多くの問題もここにある気がする。あまり多くのことを知らなくてもいいから、人生の基本的なことを反復して身につけることが重要と思うが、いかがであろうか。 この文を書いた人は30代位の人かと思ったが、72歳とは、間違いではないかと思うほどである。人間いくつになっても祖母、母である。そして、我々世代は子や孫に「後ろ姿が手本」と言ってもらえるだろうか。
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(第711話) 5年用日記 |
2007,1,13 |
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“今年も残り少なくなり、毎晩書いている日記もあと少しで終了することになった。5年前の年末、新しい日記帳を買いに行った書店でしばらく迷った。一番の迷いは、3年用にするか5年用にするかだった。 当時、夫を亡くして数年を経てもまだまだ生きる気力は少なく、とても5年用はいらないと思った。それで3年用を買って帰ったが、一晩眺めて翌日、5年用に取り換えてもらった。途中で書けなくなってもいいじゃないか。もっと気楽に生きてみようと。そして5年がたった。5年間使ってみると、その利点がいっぱいあるのに気づいた。(中略)
今年はためらわずに5年用を買った。5年間にすっかりなじんだので同じ日記帳である。この先5年生きられるかなどと悩む気持ちは全くない。「あと5年間しっかり記帳を続けるぞ」との思いで今年を締めくくった。”(12月29日付け朝日新聞)
豊橋市の向坂さん(女・79)の投稿文です。70歳を過ぎて、日記帳を買うのに3年用か5年用か迷ったという話しに、何か愉快なものを感じた。そして、5年過ぎて今度は迷うことなく5年用を買ったとは、また痛快な話である。日記を書く、それを続ける、書いていない人と比べるとその違いは大きい。 さてボクは、3年用を使い始めて23年たつ。少なからぬ効用があったと思う。日記帳の話は(第103話)(第151話)にもあります。
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(第710話) 定年後3つのY |
2007,1,11 |
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定年後の男性の生き方については、ボク自身の問題でもあり、もう何度もここで取り上げてきた。そして、まだ迷っている部分がある。12月30日付け中日新聞には、家庭や地域で起きている夫婦の現実的な悩みに、作家の吉武輝子さんらの識者が答えたシンポジウムの紹介が載っていた。
“妻の悩み《定年後することのない夫をどうすればいいでしょう》 「もったいない。人生九十年、豊かな能力が在庫品なんて」。吉武さんは六十三歳で俳句、七十三歳でハンドベルを始めた経歴を披露し「これまで夫の稼ぎでぬくぬくと生きてきたあなた。おだて上手になって、能力を生かしあげて」。家裁調停委員の松田敏子さんは「何かやらないといけないという世間の強迫観念を気にせず、長年締めたネクタイを外してゆっくり生きたい人も認めていいのでは」と温かい一言。 夫の悩み《妻が昼食を作らなくなった》 カウンセラーの谷島陽子さんは「妻はいつも家にいるわけではないのだから、期待しないで。あなたがやることが大事です。認知症防止にもなりますよ」。(中略) 弁護士の渥美雅子さんは、夫婦円満のコツは「3つのYの心がけ」と紹介。「3つとは役割、余技、友人。家庭や地域で役割を持ち、人を楽しませる余技ができて、妻だけに寄りかからずに友人を持つ。妻も友人の一人として付き合えると、お互い気楽です」”
男としては渥美さんの言葉に注目したい。この3つのYは、一朝一夕でできることではない。やはり定年以前からの心がけが必要である。 1月4日に、75歳からの新老人を唱える95歳にして現役医師・日野原重明氏のテレビ対談を見ていた。氏が「60歳からは助走の時代」と言われた言葉に、少しおかしい言葉使いだなとは思いながらも、徐々に負荷を少なくしていって75歳からの老人に備える、定年になったからと言って急に減らしてはいけない、なるほどと納得していた。しかし、話は全く逆で、75歳に大ジャンプと言うことであった。現に日野原氏はその年に病院長になられるのである。あきれた。全く人間は様々だ。ボクの悩みはいっこうに解決しない。
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(第709話) 恩送り |
2007,1,9 |
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“「恩送り」という言葉がある。「恩返し」はどちらかというと恩を受けた相手に直接、恩を返す。恩送りは山下景子さんの著書『美人の日本語』(幻冬舎)によると、受けた相手とは限らない。恩を別の誰かに送る。その誰かが、また別の誰かに送る。そうやってみんながつながっていく。 病気や災害、自殺で親を亡くした遺児の奨学金と「心のケア」に取り組んでいるあしなが育英会の活動は、まさに恩送りだろう。恩を受けて大人になった遺児が新たな遺児となった子どもの世話をする。精神科医の野田正彰さんは「やさしさの文化」と名付けている。”(12月30日付け中日新聞)
「中日春秋」というコラム欄からです。「恩送り」とは始めて知った言葉である。良い言葉である。人から受けた恩を、与えた人に返せればそれはそれでいいが、それができない場合も多い。それを他の人に返す、与えた人もその方が喜ばれることもある。このくり返しで世の中良くなっていく。 親の恩などこの例の分かりやすい例であろう。自分が子供持って始めて親の恩を知る。そして、同じように子供に施していく。親から虐待を受けた子が虐待に走りがちなどという話は、この恩の逆の話である。人の行為はその時点だけでは終わらないのだ。良い輪を広げねばならない。
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(第708話) 手のぬくもり |
2007,1,7 |
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“主人と初めてバスツアーに参加しました。それも一番人の押し寄せている京都へ。予想はしていたものの、あまりの人の多さに驚いてしまいました。 目的地に着くとバスを降りるなり、主人が私の手を握ったのです。一瞬驚いて、主人の顔を見ました。主人は目を合わせないようにこう言ったのです。「ちゃんとつないでいないとな」。そして、ゆっくり歩き始めました。 なんだか胸がふわあっとしてうれしくなりました。少し曇っていて風が冷たく感じたものの手のぬくもりが冷たさを和らげてくれました。すばらしい紅葉を見て、主人の何げない優しさに触れ、忘れられない京都の一日となりました。「今度は雪の京都へ行きたいね」と話をしながら眠りにつきました。 やさしさと ぬくもり感じ 紅葉がり (12月22日付け中日新聞)
浜松市の主婦・早津さん(52)の投稿文です。昨年の12月21日に書いた「(第699話)大きな手と月」と同じ話題です。ことさらコメントは不必要でしょう。 この年末から正月にかけて、ボクがこれほど家にゆっくりいたことはかつてない。老母ふたりがわが家にそろい、元日には一族郎党27人がわが家に集まったこともある。この間の妻の働きには、調子が悪いと言いながら、その気遣い、行動にはただ感心するばかりである。この妻をどう助け、どう報いるか、ボクの今年の大きな課題である。
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(第707話) 感性を伸ばそう |
2007,1,5 |
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“書道の授業時間が、規定に満たない中学があると聞いた。受験に必要な学科の授業を増やしたためと思われる。全国の高校で、必修科目を履修していなかったことが明るみに出て大きな問題になったが、それと同じ構図である。 小中学校が受験の必須科目を重視して、音楽や美術、書道などを軽視するのは、生徒にとってもわが国の将来にとっても憂うべきことだと思う。それは目の前の利益に目がくらんで、遠い大きな利益を逃すようなものだ。芸術によって人間は情緒豊かになり、感性が磨かれる。このことにより、独創的なものが生み出される。 数学や理科を学ぶことはもちろん重要ではあるが、これは世界の誰もがいつでも、どこでも身につけられるものだ。しかし、最先端の科学を生む発想をはぐくむには、その国に根付いた文化など感性によることが大きいもの。このことは、多くの学者が口をそろえて言っていることだ。”(12月19日付け中日新聞)
名古屋市の医師・石垣さん(男・57)の投稿文です。高校以上の数学や理科が実際に役立つのは、それを専門とする一部の人であり、ほとんどの人には音楽や美術、書道、さらには保健、家庭課などの方が役立つのである。それらは人間の感性を磨き、実生活に必要な知識なのである。こういった方面が優れている人の方が、生き生きと過ごされていることを感じるのはボクだけであろうか。それが大学受験科目から除かれているために、おろそかになっている。全く惜しいことである。石垣さんの言われるように、こういった感性が科学などの発想にも役立つとなればなおさらだ。
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(第706話) アートで心のキャッチボール |
2007,1,3 |
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“見た人は思わずほほ笑んでしまう。そんな米国漫画「ピーナッツ」の世界がそこにあった。アーティスト大谷芳照さんは、1993年、キャラクターグッズを扱うスヌーピータウンショップのデザインを通じて、作者のチャールズ・M・シュルツ氏と出会う。大谷さんは、自身の作品をシュルツ氏に見せ、アートを通じての交流が始まった。2人の友情は深い信頼へとつながるが、2000年にシュルツ氏は他界。 「自分のアートを50年間描き続けなさい」という氏の言葉を受け「日本人だからこそ表現できる、五感でわかるアート」として和紙と墨による手法を開拓した。スポーツ選手や子どもらとの合作など、アートを通じて「心のキャッチボール」を実践し続けている。”(12月19日付け中日新聞)
愛知県の大学生4年生・稲本さん(女)の紹介文からです。昨年12月に名古屋市中区、松坂屋本店内の松坂屋美術館で「大谷芳照が訳したスヌーピーの世界展」が開かれた。スヌーピーがなにやらよく知らぬまま、たまたまこの展覧会を見る機会を得た。そして、ボクには考えもつかぬ、こんな作品を生み出す人間の能力にびっくりした。人間の能力って凄いものだ、と改めて実感した。もちろん、50年間毎日漫画を連載し続けたシュルツ氏に至っては人間業とは思いがたい。 この会場では、M・シュルツ氏を記念したシュルツ博物館(米・カルフォルニア州)元スタッフのMikiさん(本名小野寺美樹・47)の説明も聞くことができ、紹介文のような内容もよく理解できた。そんな親しみがあって稲本さんの文を紹介した。
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(第705話) 感謝の花火 |
2007,1,1 |
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明けましておめでとうございます。今年も話題を見つけて提供しますので、ご愛読ください。まずは元日にふさわしいいい話です。
“愛知県新城市の新城市民病院の看護師久米さんは、師走の病棟から空を見上げ、今夏の夜空を焦がした花火を思い出す。自然と「ありがとう」「頑張ろう」という気持ちになる。
当日、病院から約1km離れた公園の会場で、次々と打ち上げられる花火を眺めていた。始まって約一時間したころ。「新城市民病院四階病棟のみなさんへ。お世話になりました 古市」とのアナウンスとともに、8号玉が上がった。去年、胃がんで入院した同市職員の古市さん(男・57)が、看護師たちにお礼に贈った花火だった。 古市さんは胃がんで、昨年7月から1ヵ月半、同病院に入院、胃の全摘出手術を受けた。医師から「5年後に生きている確率は10%」と言われた。直前まで高校野球の審判などをし、健康には自信があった。ショックを受け、ふさぎ込んでいるのを励ましたのが、四階病棟13人の看護師チームだった。 「死に直面した不安を受け止めてもらい、病気に立ち向かう気持ちになれた」と古市さん。手術を終えて病室の窓から外を見ると、花火が上がっていた。「来年も生きて、感謝の気持ちを伝えよう」。そう心に誓い、今年の花火に思いを託したのだった。 次々と打ち上げられた約2000発の中で、古市さんの8号玉は一番きれいで、大きく見えた。「今できることを精いっぱいやること。大切さを教えてもらった気がする。気持ちが落ち込んだりした時は、空を見上げて思い出し、頑張っていきたい」と久米さん。”(12月22日付け中日新聞)
心動かされた小さな話題、元気をくれるハッピーニュースを募集している「青空」という欄からです。感謝の気持ちを花火に託す、感謝の示し方にはいろいろあるものだ。 時の流れに区切りはないが、人間生活は上手に区切りをつけている。新しい年が始まった。新たな気分にさせてくれる。新たな思いを抱きながら、そして諸々に感謝しながらこの1年を健やかに過ごしたいものだ。
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