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(第688話) 人の心のバリアー |
2006,11,29 |
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“視覚障害者にとって「白い杖は三つの意味がある」と中途失明の女性が話してくれた。 一つは、私は視覚障害者ですよという「シンボル」になる。二つは、道を軽くたたいて触覚のように「確認」する。三つは、路上駐車の車や溝とか危険から身を守る「安全」の杖になる。けれど「歩道でさえ受難を強いられる」と女性は嘆く。 自転車で歩道を突っ走る。スピードを出して後ろからビュッとかすめていくのが、とても怖い。徐行して欲しい。地下鉄の入り口の周りに自転車があふれている。点字ブロックを白い杖で伝って、自転車にぶつかって将棋倒し。車が車道へ出るために歩道に切り込むこう配も、白い杖にはまぎらわしく、車いすは傾くから大変だ。 白い杖の女性は「人の心のバリアー(障壁)もなくして」と訴える。歩道の点字ブロックの上で立ち話をする人たちに、行く手をふさがれる。「私たちのためだけの歩道じゃないけど、目配りを忘れないで」。”(11月14日付け中日新聞)
ボクは昔、視覚障害者に係わっていたことがあり、また今一宮友歩会に全盲の方が参加されていることもあり、視覚障害者の方のことは気にかかる。先日の一宮友歩会の反省会で、準備運動を声で指示しながらやって欲しいという声があった、と言う話が出た。まさに目では分からない盲人の人の声であろう。配慮が行き届かなかった。こういう人の参加で勉強させてもらっていると思った。もっといろいろな人の参加でいろいろなことを知りたいと思う。 視覚障害者への配慮は「(第31話)点字ブロック」(2004.8.9)でも書いたことである。
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(第687話) 山で迷わない法 |
2006,11,27 |
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最近は中高年の方の登山が盛んになって、山の事故のニュースも多い。名古屋市の会社員・西山さん(男・57)が、山岳会の会員の経験から道の迷うのを防ぐ方法を投稿されていた。
“まず、地形図に赤いペンで、これから登るルートを書いておこう。この作業で、山の概念が頭に入る。さらにガイドブックなどで得た情報なども書き込んでおく。赤い布をルートの木の枝や幹に結んでおこう。曲がり角、尾根の合流地点、沢の徒渉地点など、迷いやすいと思ったら、ためらわず結ぶ。何かの理由で下山が遅くなり、日没後に下りる場合もある。登山口からしばらくは、目立つ白い布がいいだろう。帰りに布を回収する。たまには振り返って反対側の景色も覚えておくのも大切だ。 リーダーは、メンバーの世間話には加わらず、冷静でいたい。メンバー全員が会話に熱中していると、重要なポイントを見逃すことにつながる。特に登山道がしっかりしていない場合は、皆でよく見て歩くことが必要だ。”(11月11日付け朝日新聞)
ボクも以前はよく山登りをしていたが、ここに示されたことは何一つしていなかった。リーダー頼り、現地の標識頼りであった。安易な山登りであった。もう山登りをすることもないと思うが、猛省である。リーダーに何か起こることだってある、そんなときどうするのか、やはり自分なりの心構えはしておかなくてはいけない。 この西山さんの文で、特に注意を喚起されたのは「リーダーはメンバーの世間話に加わらず・・・・」と言う箇所である。ウォーキングでも同じであると思った。リーダーは一部の人との談笑に夢中にならず、いつも全体に目を配っていなければいけない。
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(第686話) 人間模様 |
2006,11,25 |
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“伸び放題の雑草が気になり、近所の公園の草取りを始めました。庭の草とは違って雑草はなかなか手ごわく、蚊の猛襲にも悩まされ、悪戦苦闘の2週間余。期せずして新興住宅地の人間模様を垣間見ることとなりました。 顔見知りの近所の女の子たちが「草取りする」と寄ってくることもあります。公園内のザクロの実を採ってと甘える姿は、とても可愛らしい。疲れ気昧だったある日、我が家の前で、小学校低学年くらいの男の子から「小野さん、いつも公園の草取りありがとうございます」と思いがけない言葉をかけてもらいました。感激して、新たな活力を与えていただきました。 大人の方々も様々です。ねぎらいの言葉をかけて下さる方もいれば、明るくあいさつして下さる親子連れもいます。そんな時には心が和みます。一方で、背後を無言で通り過ぎる人、回り道をする人、露骨に不快感をあらわに通り過ぎる人……。そんな時には「他意はありません。私は町と公園をきれいにしたいだけです」と心の中でささやきながら、軽く会釈をしています。”(11月10日付け朝日新聞)
犬山市の主婦・小野さん(66)の投稿文です。前回に続いて草取りの話しですが、内容はいささか違う。近所の公園もわが家の庭と同じ、伸び放題の雑草は目障り、そこで始めた草取り。なんと奇特な人だろう。そんな姿にいろいろな反応を示す通りがかりの人。多分生活はそれほど違わないだろうが、示す態度は様々、それが小野さんには驚きだったのであろう。善い行為には素直に応じたいもの、それが広がりを大きくする。難しくなった世の中、大人ほど手本を示さねばなるまい。小さなことの積み重ねでいい。
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(第685話) 草取りの極意 |
2006,11,23 |
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“収穫の秋である。わずかな家庭菜園をやっているが今年も草取りに追われることが多かった。 「篤農家は草を見ずして草を取る」と、聞いて育ったはずなのに、この達人の領域はまだ、実感出来ないでいる。隣の畑の主人は「昔から土を動かしていれば草は生えない」と、教えてくれた。それだと思った。私は「草を見ずして草を取る」の解釈を間違っていた。草を見たら、すぐ草を取ること解釈していたのだ。極意は「土を動かす」ことにあったのだ。鍬で土の表面をなでておれば、いいのである。そうすれば雑草のタネの発芽を阻止できる。芽を出しても枯れてしまう。 学ぶことは多くある。願わくば長生きして道を究めたい、と思うのだが・・・。”(11月10日付け朝日新聞)
小牧市の松本さん(男・75)の投稿文からです。ボクには草取りについて全く話す資格はない。わずかばかりの農地がいつも草ぼうぼうである。今年4月からはきれいにするからと言っていたが、昨年以上にひどい。 「土を動かす」簡潔な言葉にして見事言い得ている。土を動かしていさえすれば草は生えない。生えないうちに土を動かすことはまた楽で、すぐにすんでしまう。ボクは父の時代から見て育ったからよく分かる。知って行わないのは、知らずに行わないことより劣る。 そして今日のボクは草と猛烈に格闘した。格闘しなくてもよくなるのはいつのことか・・・・。
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(第684話) アルバム |
2006,11,21 |
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“ある日、知り合いの奥さまが実家に帰ったとき、亡き両親のアルバムが見たいと尋ねると「全部捨てた」と言われて悲しかった、と話していました。私たち夫婦は旅行が好きで、たくさんのアルバムがあります。私たちが世を去ったときに始末に困り全部捨てられても寂しい気がします。 そこで、一冊か二冊を孫の代まで残してもらえるようなアルバムを今年から作り始めました。表紙に「宝 おじいちゃんとおばあちゃんの記録」と書きました。目が悪くなってきたので人物を大きく写すことに心掛けて楽しんで作っています。旅先や孫たちと一緒に遊びに行ってはパチリ。学校や保育園の行事に参加したときの写真をパチリと、孫の成長と私たちの老いていく姿をアルバムに残したいと思います。”(11月9日付け中日新聞)
豊田市の主婦・松永さん(64)の投稿文からです。残された遺産を遺族はどう扱うか、金銭的価値のあるものであれば、それはそれで問題もあろうが、まずは喜ぶところである。しかし、思い出位しか価値のないものについて、少々であれば問題もなかろうが、多くなるとこれは途方にくれる。そんなもののひとつにアルバムがある。ボクにも本箱1本位、何十冊とある。そろそろ処置を考えた方が良い。松永さんの方法はひとつの提案、手法である。僕ら夫婦が共に亡くなったらすべて処分してくれと言っておいても、この最初の話しのように、そうばかり行かないこともある。やはり処分し易いようにしておくことに越したことはない。
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(第683話) あの頃にもう一度 |
2006,11,19 |
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中日新聞サンデー版では作家・川又さん監修による「300文字小説」というコーナーが始まった。300文字以内の読み切り作品の募集をしている。11月5日版には東京都の主婦・菅野さんの「あの頃にもう一度」という作品が掲載されていた。
“「ああ嫌だ、年はとりたくないわねえ」趣味の会に集まった老女性たち。 「もうー度若くなれるとしたら、何歳くらいがいい?」 「十代は御免ね。塾通いはしたくないし、ヘソ出しファッションも抵抗あるし」 「二十代は? 何度も素敵な恋ができるわよ」「でも、最近の男性は、まるで頼りなさそう」 「三十代は?」「子育ての苦労は、もうたくさん」 「四十代なら?」「住宅ローンに子供の受験。夫は浮気盛り」 「五十代は熟年離婚の季節だし」「六十代は、夫の定年、濡れ落ち葉」 「じゃあ、いつがいいのよ」「私たち、戦争を体験してる世代でしょ。今の平和がどれだけ有り難いか」 「そういうことかしらねえ」なんとなく、話は、そこに落ち着きました。”
人生を見事に語った作品と思って紹介した。いろいろな人生があるが、多くの人生はいろいろ苦労を乗り越えて現在がある。その苦労は思い出だけで十分である、もう戻る気にはなれない、今がいいのだ。この話はそんなことを言いたいのであろう。 ボクもこう問われて、戻りたい年代は思い浮かばない。今を享受しているからであろうか。「(第1話)5年の命短縮」(2004年5月27日)につながる話しである。(第1話を読んでみようという方は、ホームページ「川柳&ウォーク」の「付録」にあります)
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(第682話) 患者講師 |
2006,11,17 |
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“病は時として私たちを打ちのめし、生きる力を奪い去ります。歴史的にも、病者は「弱者」としてのみ扱われてきたこともありました。しかし本当に闘病は単にマイナスの体験なのでしょうか? 「患者の持つ力」が見直され始めた昨今、自らの闘病体験を社会に役立てたいと考え、医学・看護学部の授業に出向き体験を語る「患者講師」の活動に注目が集まっています。その起源は実に二十七年も前のこと。「膠原病友の会」の会員が大阪大の医療技術短大で闘病経験を語った時に始まります。これは「教壇に立つ活動」と呼ばれ、これまでに三十人を超える患者講師が誕生しました。”(11月3日付け中日新聞)
いいなステーション代表・和田さんの「気になる医療用語」からです。こういわれて考えてみれば、病にかかるというのはマイナスかもしれないが、それと闘うというのは大変な体験である。その病の専門家であっても、体験はした人にしか分からないこともあろう。それに打ち勝ったなどとなれば、命に係わることだけに、少々の人生体験などものの数ではない。それだからマスコミなどでもよく取り上げられるが、医療の専門の場で活用されても不思議ではない。 この話から、人は場を得ればどんな人も先生になる得ることを知った。一宮友歩会では、この会を気に入っていただいてほとんど毎回参加される全盲の人がみえる。この人の行動が多くの人に感嘆を与えている。この人も立派な先生である。
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(第681話) バラ一輪 |
2006,11,15 |
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“今年も花屋に紫とピンクのリンドウが並んで売られている。十数年前、仏花を買いに行ったときのこと。後ろに居た男性が「妻にリンドウの花を贈りたいけど、紫かピンクかどちらが良いですか」と店員に声を掛けた。店員は「つぼみがたくさんありますので、ピンクが良いと思います」。 私が「あら、優しいお方ですね。奥さん幸せですね。私主人からタンポポの花一輪もらったことないですよ」と言い、仏花の代金を払って店を出ると、先ほどの男性が私に真っ赤なバラー輪を差し出し「どうぞ」と言われた。私は「え、私に」と驚きの声を上げた。男性はうなずいてまた「どうぞ」と。”(11月3日付け中日新聞)
岩倉市の主婦・近さん(67)の投稿文からです。それにしても世の中きざな男がいるものだ、花一輪で人間性など分からないのに・・・・。これだからボクなど全く浮かばれない・・・。などと皮肉を言いながらも、ボクにできないことをするから素晴らしい。 「察する」という素晴らしい日本文化があるが、でも行動も必要であろう。心と行動が伴って完全である。 ・・・・イヤ待てよ・・・・ボクは先日シクラメンとパンジーの花を買ってきた。これを「君のために買ってきた」とか「君にあげる」と言えばよかったのだ・・・・それを言うか言わないかの違いか・・・・しまったな・・・・。
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(第680話) 名刺力 |
2006,11,13 |
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“ポロシャツの胸ポケットに手をやり「あ、もう名刺ないんだった」と言う人。「そんなもんねえやい」といばる人。定年直後の男と名刺の関係は複雑らしい。胸のあたりが寒いんですと打ちあけた人もいる。「それじゃ名刺作っちゃいましょうか」と私は提案した。 そこで私がすすめたいのは、「おれの名刺」である。どこのだれでもない個人の名刺を持つのだ。住所と名前だけだっていい。そこにちょこっとイラストを人れてみたり、似顔を描いたり、愛犬の写真を印刷する。また「ネコパンチ研究家」とか「ガマの油同好会」「シャコバサボテン愛好家」「カレーうどん友の会」と、興味のあることや好きなものをくっつけてしまう。ありふれた名称や偉そうなものはやめよう。”(11月1日付け中日新聞)
またまた作家・西田さんの「妻と夫の定年塾」からである。「第368話 定年後の名刺」(2005年8月6日)でも触れた話題である。なかなか面白い発想である。こうした名刺をもらったら、記憶に強く残るであろう。ボクも作りたいところだ。 名刺を持ち続けていた人が、その名刺がなくなったらやはり淋しいだろうか、ボクにまだその体験がない。ボクは今、会社の名刺と遊びの名刺の2種類を持っている。遊びの名刺は一宮友歩会会長などの肩書きがすり込んであるが、この名刺を使う機会は多くなくすわけにはいかないので、こうした面白い名刺を持つことは当分先のことにならざるを得ないだろうか。
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(第679話) 町内参加 |
2006,11,11 |
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“学区の運動会が先日開かれ、家族で参加した。本年度はこの地に引っ越して初めて、町内の体育委員を引き受けている。運動会を開くため、日ごろ顔を合わせることがない人の家を訪ねて回り協力をお願いした。 人数合わせのため、無理して競技に参加してくれた人、チームに差し人れを届けてくれた人、後片付けを最後まで手伝ってくれた人など、多くの人の協力を得ることができ、心に熱いものを感じた。 学校でクラスの名簿が配布されなくなり、どんな人が住んでいるのか、最近はさっぱり分からなくなった。運動会開催のために走り回ったおかげで、普段、何げなく歩いている所に「この人が住んでいるんだ」などと知識を増やすことができた。また、地域に住む人の顔と家が一致するようになったら、不思議と夜道を歩いても明るく感じるようになった。”(10月28日付け中日新聞)
名古屋市の主婦・藤原さん(39)の投稿文からです。人と人との関係が煩わしく、また回りの目や束縛がイヤで地域の連携を断っていく。それを自由で楽というが、平生はそれで十分生きていける現代。しかし、藤原さんはそんな中で地域の連携を経験され、努力をされた。その結果、地域での生活が明るくなった。皆が少しだけ地域の中で努力をする、協力をする、それだけで地域は十分よくなる。今起きているいろいろな問題もかなりが解決されるだろう。そして、楽しくなる。現代は個人生活では努力をするが、地域の中での努力が大いに不足していると思う。個人の幸福や満足は地域を切り離して成り立つものではない、そのことに気づかねばいけないのだ。
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(第678話) まつたけ弁当と伊勢エビ |
2006,11,9 |
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“娘は学校から帰ると「毎日、マツタケを弁当に入れてくる子がいるんやでー。『もう、飽きた』と言うから、もろうて食べた」と言った。 うちではこの時期、伊勢エビ漁の最盛期なので、角が折れて水揚げできないエビや、二つ三つかかるサザエをウインナーと一緒にいためて、弁当に入れていた。買い物に行けないほど早朝から忙しく、それが一番身近にあり安価であったからである。 まつたけ弁当を持ってくる子も、傷があったり規格に合わなかったりで、出荷できないものが毎日の食卓に乗るのであろう。その後、娘は何度か伊勢エビでマツタケを釣ったようである。 高級とされるものはそれゆえに品質も厳しく、都合のあるものは、産地では日々の食材となるのである。”(10月27日付け中日新聞)
尾鷲市の主婦・三鬼さん(58)の投稿文からである。まつたけと伊勢エビ、産地でない人にとっては最高に高価な、滅多にお目かかることのない食材、それが飽きるほどに毎日である。羨ましいと言いたいところであるが、そうではない。食材など滅多に口に入らないものが珍品、貴重品である。絶対的に価値の高いものなどないのである。そうは言うが、全く食材が手に入らなくなって、何が欲しいと言われたら、ボクは米と野菜だと言うと思う。多くの人はそうではなかろうか。パン食だという人も三度が三度パンではあるまい。米と野菜が豊富な現在は本当に幸せなのだ。でもその幸せはいつまで続くのだろうか。 ボクの父親の時代は専業農家であった。1ヶ月もナスが続いた記憶があるが、まつたけや伊勢エビよりまだよかったと思う。
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(第677話) 四九の市 |
2006,11,7 |
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“岩倉市史などによると、明治初期に商業の発展を図るために、同市下本町の旧岩倉街道沿いに定期的な市が立つようになり「四九の市」と呼ばれた。中本町や神明生田神社境内にも広がり、通行に困るほど繁栄した時期もあったが、1960年前後に廃れたという。この市を復活させてにぎわいを創出しようと、市内のボランティアらでつくる岩倉市まちづくり推進協議会が中心になり、市内の史跡を巡る「岩倉ウオークラリー」と併せて準備を進めてきた。 会場では、ボランティアら220人が協力して名古屋コーチンの卵や地元の野菜を販売する屋台などを出したほか、市内の商店が乾物や生花、洋服などを売る店を出して四九の市を再現。ウオークラリーの参加者も参加費と同額の金券をもらって完歩後に市で買い物をし、一般の市民とともににぎわいを楽しんだ。”(10月25日付け中日新聞)
10月22日に愛知県岩倉市で開催された催し物の記事である。なぜかボクに協議会長名の案内状が届いていたので、孫を連れて出かけた。6kmばかりのウォークであったが、近い所ながら始めてくるところもたくさんあった。初の催し物ながら、ウォークラリーの参加者が550名、交通誘導などのボランティアが200人であると言う話しから、出店者などを入れると1000名位が係わったと考えられる。にぎわい創出がねらいと言われるから、大成功ではなかったろうか。ここまでの苦労は並大抵ではなかったと想像されるが、こうした努力が人と人のつながりを築き、活性化を産む。これからもいろいろ苦労があるだろうが、たゆまぬ努力をしていって欲しいものだ。それが係わる人の楽しみとなるように。
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(第676話) 川の字 |
2006,11,4 |
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“昨年十月、わが家に待望の娘が生まれた。ようやく寝返りも自由自在にできるようになったこのごろ、かねて主人のあこがれであった川の字で寝ることになった。 主人の寝相が悪いため、娘が踏みつぶされないかと今まで私が拒み続けてきたのだが、もうそろそろ大丈夫だろうと今晩から親子三人、布団を並べて寝ることになった。 しかし、娘は主人に似たのか寝相が予想以上に悪く、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ。しまいには川の字どころか、あみだくじのようになってしまっているではないか。一度寝たらなかなか起きない主人も神経を使うのか、何度も起きては娘を元の場所へ戻すの繰り返し。熟睡できず仕事の疲れも取れないようで、主人の描いていた「理想の川の字」とは少し違ったようだ。”(10月19日付け中日新聞)
岐阜県羽島市の主婦・番さん(25)の投稿文からです。これもボクにとってはもう忘れていたなつかしい言葉です。結婚し、子供ができ、親子三人川の字になって寝る、幸せな家族を象徴する姿ではないだろうか。最近はそれが理想ではない人も多くなったようだが、人類はこの姿が理想であっていいとボクは思う。 ボクもこんな時代があった。真ん中にいた娘が、朝起きるとよく端にいた。どうして問題もなく順番が変わるのか、不思議であった。その娘達も今は子供を間に挟んで川の字で寝ているようだ。
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(第675話) 謄写版 |
2006,11,1 |
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“博物館の車がわが家の前に止まりました。三十年間、使い慣れた謄写版を引き取っていただくのです。学芸員のお二人が素早く梱包して走り去りました。 思えば三十年前に知人からいただいた謄写版です。月に一度、仕事の予定表を刷っていました。鉄筆で原紙に原稿を書きますが、強く書けば原紙が破れたりして初めのころはその加減が難しく失敗の連続でした。一度に百枚を刷りますが、作業は妻と一緒なのです。私がローラーで刷り、妻が紙を取り上げるのです。約一時間の作業がとても落ち着き、素直な気持ちになれるのです。刷りながら、子育てのこと、仕事のこと、将来のことなどを話し合いました。”(10月16日付け中日新聞)
名古屋市の自営業・都島さん(男・63)の投稿文です。ボクも昔、と言っても小中学生の頃であるが、よく謄写版を使ったものだが、もうそのようなものがったことさえすっかり忘れていた。この話から、ボクは久しぶりに昔の資料を引っ張り出してみた。謄写版で刷った小中学生時代の劇のシナリオや文集が保存してあった。その中に中学校の卒業文集があり、それは自分の文はそれぞれ自分で鉄筆で書いたものであった。懐かしい、手作りのよき時代を思い出す。 都島さんは使い続けられた謄写版を、今回博物館に寄贈されたわけだから、いつか展示されるのだろう。その使い方の説明や懐かしく語られるのは昭和20年代生まれの人までだろうか。機器の進歩は著しい。時には昔をふり返ることも意味がある気がする。
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