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(第630話) 二日遅れ |
2006,7,30 |
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“地方の郡部には夕刊は配達されていない。私の住むあたりもそうで、これはどの新聞もいっしょである。だからこの夕刊は郵送で、二日遅れで私の元に届く。 二日遅れで紙面を読むことを続けたら、不思議なことに気づいた。新聞に向かう「私」に、なにやら余裕のようなものが出来てきて、いつもより落ち着いてよく読めている、という感じがするのである。朝刊もそのようにして読んでみると、それがさらにはっきりする。遅れているから用をなさないかといえばそうではなくて、かえってその遅れが、いい方ヘとはたらく。 新聞は速報を旨としているだろうから、その速さに合わせて、読み手も急ぐ気持ちを持っているのかもしれない。まずはそこから自由になる。”(7月18日付け中日新聞)
映画監督・小栗康平さんの文からである。先日の「待ち時間」と似たような話である。早いことは善、とかく早く早くとせかせる時代、それに逆行するような話である。この早さについていけず、落ち込み、精神不安定に陥る人も多い。本当に早いことは善であるのか、遅いことに効用はないのか・・・・それを説いている。
ボクはこの文を書くために、何日も遅れた新聞を読んで話題を探している。小栗さんが言われるように、読む前にある程度知っているので落ち着いて読んでいる気がする。また速報性に価値のあるニュースなどはほんの一部で、大半の記事は数日の遅れなど何の問題もない。
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(第629話) 免許証お返しします |
2006,7,28 |
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“先日、七十二歳の夫のもとへ「免許証更新に伴う高齢者の運転講習会」の案内が届きました。「免許証をお返しします」と言うと、「それは、世の中のためにいいことですね」と係の人が言われました。 夫はもともと、運転が苦手で定年後はほとんど車に乗らなくなりました。まして、アッシー君をやってくれるような人でもありません。「車、やめようかな」と相談を受けてから手放して、もう八年になります。 幸い、私の住む地域はバスの便もよく、近くにショッピングセンターもあって買い物に不自由はありません。”(7月17日付け中日新聞)
四日市市の主婦・山本さん(76)の投稿文からです。自動車の便利さを知った人が、免許証を返却することには大変な決意がいると思う。取ること以上に大変であろう。高齢者の自動車事故も増えている。賢明な判断である。 高齢者が元気なことは大変嬉しいことである。しかしながら、元気といっても高齢者は高齢者である、とっさの判断や危険を避けることは自分の思っているほどにはいかない。事故を起こす前にそれを自覚することは至難なことである。必要以上に落ち込むのもいけないが、過信するのはそれ以上にいけない。人並み異常に元気と思っているボクは、それこそ人並み以上に気をつけねばいけない。まあ、ウォーキングをやっている分には問題ないが・・・・。
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(第628話) 一流の女優 |
2006,7,23 |
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“ある女優が地方での舞台公演中に、宿泊先のホテルでめまいを起こし転倒した。その際、女優の命ともいうべき顔を強打した。顔面の骨が陥没する重傷で、医師はすぐに入院、手術が必要と言った。だが彼女は翌日からも舞台に立ち続けた。化粧で傷を隠し、残り十一回の公演をこなしたのである。
すべての公演を終えた後、帰京し治療を始めた。症状は深刻で、「顔が崩れた」状態であったという。幸いなことに、彼女はもとの容貌をとりもどした。闘病は終わったが、この貴重な体験を無駄にしてはならないと考え、もっともひどい状態の時の顔写真を公開した。誰もが絶句するくらい痛々しい写真である。が、彼女は何のてらいもなく話した。 「世の中には病気やけがと闘っている人が大勢おられます。その人たちの励みになればと思い、この写真を公開しました」”(7月12日付け中日新聞)
作家・海月ルイさんの文です。女優の話には全く疎いボクですが、妻が芦川よしみという女優だと教えてくれた。更に黒柳徹子さんと対談しているビデオも見せてくれた。公開の写真もその中で見ました。傷を負っても続けたのは、準主役で代役もないことからということですが、一流のプロとは本当に凄いものです。
一流の役者やプロスポーツ選手は家族や親の死に目にも会わないと言うが、このことは本当に賞賛するべきことなのだろうか。日本に来ている外国人プロ野球選手は、家族にことあるとすぐに帰ってしまう。助っ人だからと甘えているのかと思っていたが、最近「国家の品格」という本を読んで少し疑問を感じ始めている。
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(第627話) 待ち時間 |
2006,7,22 |
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“その銀行はいつも込んでいるのに、なぜかすいていた。番号券を取って座る間もなく呼ばれ、あわてて窓ロヘ。あっと言う間に二件の用が終わる。 勝手なもので長く待たされるとうんざりするくせに、待ち時間なしというのも妙に味気無い。行内の人間ウオッチングを楽しむ間もなければ、思いがけない知人と出会うこともない。 「病院だって受け付け直後に呼ばれると心構えができていなくて焦る。少し待つほうが落ち着くわ」”(7月9日付け中日新聞)
「おばさん事典」の作家・小川由里さんの文からです。銀行もその他の客商売も待ち時間の短縮に力を入れている。それがお客さんへのサービスと思っているからである。そんな中に、小川さんのような意見を言われると戸惑ってしまうだろう。でも小川さんは少数派であり、その小川さんも初めての体験で待ち時間の効用を知ったのである。 体験は最高の教師である。いろいろ体験していろいろ体で知るのである。するとこの体験のように全く違った感想を持つこともある。そして、人は優しくなるのである。
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(第626話) ビーチクリーナー |
2006,7,20 |
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“砂浜の清掃といえば人海戦術。ボランティア頼みが実情だ。H研究所の二輪開発センター技術陣は、そんな砂浜を機械で清掃する「ビーチクリーナーシステム」を完成させた。約1時間で東京ドームの4分の1ほどの面積をきれいにすることができる。 牧場などで使う四輪バギー車に2種類の清掃アタッチメントを付け替えて砂浜を走っ てゴミを回収する。走行速度は時速5〜20kmだ。 システム開発のきっかけは海岸のあまりの汚さを見た若手社員からの提案だった。「簡単にできるだろう」と本業の四輪バギー車開発の合間に始めたが、結局、開発には数億円と約5年の歳月を要した。”(7月9日付け朝日新聞)
プラスチック製品など腐らない品物が多くなって、日本国どこもかしこもゴミだらけである。そして、砂浜はまさにゴミの集積場である。川から海に流れ出たゴミや、はたまた外国からも砂浜に集まってくる。海水浴場ともなれば自分の責任ではないと思いながらも、片づけざるを得ない。今までは人海戦術しかなかったが、このピーチクリーナーの開発は大きな朗報である。 このニュースで素晴らしいのは、これだけの費用と歳月をかけて開発したピーチクリーナーを使用しての砂浜清掃活動を、社内のボランティア活動として行うという話である。そしてこのクリーナーの問い合わせはあるが、市販の予定はないという。これが大手企業の社会活動であろうか。
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(第625話) 大根のおかげ |
2006,7,18 |
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“先日、大根の煮物を食べている時、夫が「お母さん(私のこと)がたばこやめたのも大根のおかげだったな」。 そうです。すっかり忘れていましたが、私は五年ほど前まで約十年間、一日二十本たばこを吸っていました。その日、スーパーで夫の好物の新サンマを発見。しかしSサイズの大根が二百五十円。高い!「大根おろしはやめ」とレジを出ていつものように自販機でたばこを買った。たばこを手にした時、ふと思ったのでした。二百五十円の大根は高いと買わないで、二百四十円のたばこを買う私って一体・・・・。 以来、たばこは買っていません。吸いたいと思った時は、どうしてやめようと思ったのかと考える。するとアラ不思議、たちまち吸いたい気持ちはうせました。”(7月9日付け中日新聞)
名古屋市の松山さん(女・56)の投稿文です。必要品にはお金を惜しみ、無駄な嗜好品や遊びなどには苦もなくお金を出す。誰もこんな行為に思い当たるのではなかろうか。税金や公共料金などの値上げにはすぐ苦情を言う。しかしそれ以上のお金を自分の都合には苦もなく使う。松山さんがたばこを買ったとき、そのことに気づいた一瞬である。それが5年も続いてしまったから、立派なものである。本当に自分のしていることを冷静に見つめ直したら、苦笑いすることがいっぱいである。
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(第624話) 女性の年齢 |
2006,7,16 |
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“「女性に年齢をきいてはいけない」とは、いったい誰が言い始めたことなのだろうか。縁談をひかえた二十代の小娘ならともかく、三十、四十を過ぎた一人前の女がこの言葉を口にするのを聞くと、「おまえはアホか」と怒鳴りつけたくなる。 女が三十を過ぎたら、何かいけないことがあるのか。四十を過ぎたら恥ずかしいのか。五十を過ぎたら、生きていてはいけないのか。 わたしは若いころの自分が嫌いだ。世間知らずで思いやりがなく、身勝手で、自分のことだけ考えて生きていた。それが顔ににじみでている。 男でも女でも、何十年も生きてきたということは、それだけの年輪を重ねてきたということである。”(7月5日付け中日新聞)
作家・海月ルイさんの文からです。ボクもかねてから理解が行かなかった。これだけ男女同権、機会均等が言われて久しいのに、なぜ女性は年令を言わないのか、なぜ聞いてはいけないのか、昔から言われてきたままだ。年令を聞けば何を知らなくてもある程度のことは推量できる、年令は人を理解するのに大きな要素だ。年令で人を推し量るのがよくないというなら、男性でも同じだ。男性にはよくてなぜ女性にはいけないのか。しょせん女性は若さか、容姿か。最近のコマーシャルや街中のあられもない女性の姿を見ると、何を言っていても結局本音は体が勝負か、都合のいいところは温存か、情けない。海月さんのような人に拍手喝采を送りたい。
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(第623話) エコな農業 |
2006,7,15 |
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農業の大変さやおいしい野菜について7月2日付け中日新聞に掲載されていた。この話は「(第268話)旬を味わう」(2005.4.26)と同じような話であるが、非常に大切な話だと思うので紹介したい。愛知県にある阿久比町営農研究会の沢田さんの文です。
“農家はこれまで他の産地より少しでも高く売ることを目指し激しい競争を行ってきました。このため消費者のどんな要求にも応える努力をしています。このことが能率の悪い、不経済な農業を生み出しているのです。
農産物の出荷作業はとても手間がかかり大変です。品質を表す等級、大きさを表す階級があり、それらを細かく手作業で仕分けをしなければなりません。野菜は曲がっていても、大きさが多少違っても、また傷か付いていても昧や価値はさほど変わりません。生産量の一部の秀品だけが高く売れ、出荷物全体の販売額は思うほど上がらず、農家の経営は努力のわりに、報われないことが多いのです。農家ばかりか、無駄なコストのために消費者も高い野菜を買うことになっています。”
衣料品など見栄えが重要なものもあるが、野菜は食べるについて見栄えはほとんど不必要です。細かく切ったり煮てしまえば、見栄えが良いも悪いもありません。沢田さんの言われるように、消費者の無理解に農業が振り回されているわけです。見栄えのために薬品漬けにして、返って体に悪い食品さえ作っています。 消費者は神様です。農業に限りません、生産者は消費者に振り回されるのです。日本の農業は危機です。農業が危機と言うことは、国土保全も危機です。賢い消費者になって農業も国土も救わねばなりません。旬を大切にする、おかしな規格に惑わされない、地産地消など心がけたいものです。
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(第622話) 風呂敷 |
2006,7,13 |
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“先日、本紙朝刊に地球温暖化対策推進本部の広告が掲載された。そこに記されていた「ふろしきを使えば、買い物の回数がエコの回数になる」という言葉がふと目に留まった。 わが家でも中学生の二女がときどき風呂敷を使っている。というのも家庭科の授業で被服製造の際、製作途中の作品などを風呂敷に包んで次の授業までしまっておくというのだ。風呂敷なら包み方によって大きさも変えることができ、かさばらない。 風呂敷というと何となく古くさいイメージがあるが、考えてみれば今の時代に合っているのではないだろうか。使い捨ての袋を使わずにサツと風呂敷を使う。そんな習慣がおしゃれと受け入れられるようになってほしい。風呂敷ブームになればエコ生活ももっと進むはずだ。”(6月29日付け中日新聞)
名古屋市の主婦・鏡味さん(46)の投稿文です。ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境副大臣・マータイさんが日本語の「もったいない」を絶賛されたことから、エコ生活の認識が深まった気がする。そして、その一つとして風呂敷が見直されている。名古屋市博物館で今年の4月から5月にかけて「世界大風呂敷展」なるものも開催された。投書欄にもこの意見のように風呂敷を見直す意見を多く見るようになった。考えてみれば、本当に風呂敷は多様性がある。第606話で触れた日本の和室と同じである。 見直す意見は多くなったが、ボクが電車の中や街中で見ることは今のところ皆無だ。先日、ボクは風呂敷に図書を包んで会社に出かけた。それ以来、鞄の中に風呂敷を忍ばせている。思いがけないときに活用できることを期待して。
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(第621話) 稲垣克彦基金 |
2006,7,11 |
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“名古屋大付属病院(名古屋市昭和区)で受けた手術後に医療過誤で倒れ、ことし三月に四十三歳で死去した稲垣克彦さんの父克巳さん(76)、母道子さん(73=愛知県春日井市)が「医療の安全と質の向上のために役立ててほしい」と二十七日、同病院に三千万円を寄付した。病院は「稲垣克彦基金」と名付け、職員、学生らに対する医療安全のための教育、研修などに活用する。
克巳さんは「無念の気持ちは決して消えることはないが、病院が古い体質を変えて、安全確保に向けた新しい取り組みを始めたことも分かった。より一層発展させるために役立ててほしい」と話した。”(6月27日付け中日新聞)
医療過誤で22年間という長い闘病生活を余儀なくされた家族が、裁判で勝ち得た補償金を当の病院に寄付するという話である。美しい話ではあるが、寄付する方も、寄付される方も苦渋の決断であろう。この話をテレビのニュースでも見たが、病院側はまさに叱咤激励の針のムシロである。 医療過誤が後を絶たない。情報公開されるようになって、表沙汰になり易いからであろうか。そればかりでなく、医療が高度になったうえ、経費削減と人減らしが進んでいるからと思う。これは病院に限らない、日本のどこの世界でも同じである。技術が進んで、その分ゆとりが生まれなければいけないのに、逆に密度が濃くなって緊張がより強くなっている。競争がますます激しくなり、事故もますます増える、覚悟しておきたい。
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(第620話) 電子ブック(その2) |
2006,7,9 |
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インターネットで電子ブックを調べればいろいろな説明が出てくるが、使った者の感想を書いておきます。 乾電池を入れたときの重さは約280g、やや厚めの新書版くらいの重さです。厚さ、大きさも新書版くらいです。ですから持ち運びはかなり楽です。この中に、ハードディスクだけでも何十冊と保存できるし、メモリースティックを入れれば何百冊と保存し持ち歩けるだろう。さて、電子ブックの値段であるが、ボクの感じでは紙本の値段の2分の1から3分の1です。ですから、70〜80冊も読めばリーダー代は只となる勘定です。 ところが大きな問題がある。購入した電子ブックの多くが、2ヶ月間で消えてしまうことである。貸本屋さんから2ヶ月の期間で借りたことと同じである。さてこの代金は安いか、高いか・・・。ボクはこれは安いと理解したのである。その他多くのメリットがあると理解した。@購入した多くの本は二度と開くことがない。その現実から何も所有しなくても、2ヶ月もあれば十分である。場所も取らない、邪魔にもならない。A2ヶ月という有効期間があることで、積んでおくわけにいかない。その間に読まなくてはお金をどぶに捨てることになる。このことは「読む薬」で大変いい試みだといった理由と同じである。B電子ブックリーダーは文字の拡大ができ、細かい文字が読みづらくなった僕ら老人には大変便利である。C本屋さんや図書館に行かなくても手軽に自宅で購入できる・・・等々である。 実はこの電子ブックは鳴り物入りで販売されたが、普及しなかった。本は所有するものという観念に勝てなかったのである。皆さんはいかが理解されるのでしょうか。
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(第619話) 電子ブック(その1) |
2006,7,8 |
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「読む薬」で本を借りて読むことに触れたが、ついでに今ボクが実践している本の読み方について紹介しよう。 本を読むには、買って読む、図書館などで借りて読むなどの他、喫茶店などで飲み物代を払って本は無料で読むなどの方法もある。昔は貸本屋で料金を払って借りて読むなどという方法もあったと思うが、今あるかどうか知らない。 ボクの今度の仕事は、電車で移動する時間が多くなることが分かっていたので、この時間を読書の時間に充てられると思った。本を買うか、借りるか、はたまた???・・・重いものは持って歩きたくない。電子ブックなるものがあることを知って、電気店へ行ってみた。普通4万円以上の品物、現品限り3万3千円・・・買うつもりでは来なかったが、エエッイ買ってしまえ!まさに衝動買いである。 買ったのは、正確には電子ブックリーダーである。パソコンと同じで、ここまでではただの箱である。ソフトを入れなければならない。パソコンで電子ブックを購入してダウンロードし、更にリーダーにインストールするのである。 ここまでの説明では、かなり面倒で高価・無駄なものと思われるだろうが、ボクは買ってよかったと思っている。大いに活用している。話が長くなりそうなので、続きは次回にしよう。
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(第618話) 読む薬 |
2006,7,6 |
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“映画の自主上映会の企画などで草の根の文化運動にも活躍する愛知県半田市の針きゅう師、藤井さん(46)が、半年前に新しい治療院を開いた。治療室に入ると、その一角に大きな本棚があるのが目に留まった。 「待合室でなく、なぜ治療室の中に」と思いつつ、並んだ本に目をやると、自然、食、農業、医療など、さまざまな分野の一般向けの本がぎっしり。「これらの本も、患者さんに″処方″するんですよ」と藤井さん。 通常の治療と併せて、その人に一番合った本をこの棚から選んで貸すのだという。「ちょっとした気づきや心の変化が、病気の好転するきっかけになる」という東洋医学的な発想による読む薬。患者の評判は上々という。”(6月27日付け中日新聞)
世の中にはいろいろな試みがあるが、この発想はなかなかいいと思う。健康や病気に関する本はちまたに溢れている。何が本当なのか、何が本当にいいのか、いろいろ読んで惑わされる。それを鈴木さんは助言しようというのである。ふさわしい本を置いておいて、それを貸し出されるのである。 貸し出すというのがなかなかいい。本を紹介して買えというのであれば、何か商売くさいし、患者の負担にもなる。また、本も買ってしまうと積んどくだけで、なかなか読まないということもある。医者から借りたからには、読んで返さなければならない。考えるほどに良い手法である。
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(第617話) 5年契約 |
2006,7,4 |
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“最近、離婚という二文字を見かけることが多い。私は、以前から「結婚したカップルは契約を五年ごとに更改しよう」と言ってきたが、なかなか賛同されない。しかし、まずは気持ちの問題なのである。人間というものは期限つきのほうが相手に優しくなれるし、前向きにもなれる。マラソンだって、ゴールがあるからがんばれる。どんどんゴールが遠ざかっていったら、よほどの人格者でも、やる気を失うはずだ。
役場を介在させる必要などなく、二人だけで五年に一度「離婚届」を書き、それを嫌々でも仲良くても破り去る儀式を結婚記念日に行えばいい。大急ぎで付け加えれば、私の提案に反対したほぼすべての人は、「そんなことをしたらみんな離婚してしまう」と言って一笑に付したのである。(6月23日付け中日新聞)
作家・日垣隆氏の社会時評という欄からの文である。唖然とするような提言であるが、少し開き直って考えてみるとなかなか妙味のある提言である。お互いうかうかしていたら離婚されてしまい、常に相手を気遣いながら生活をしなければならない。思いやりのある生活になるだろう。ただし離婚されたくないならである。さて一方が離婚したかったらどうなるだろう。すぐに成立である。また普通でいけば長い結婚生活である。その間には良いときも悪いときもある。悪いときに当たったらまた離婚である。妙味もあるが、ボクもすぐには頷けないな・・・・凡夫だから。 ボクは逆に5年ごとに婚姻届を書くというのはどうかと思う。5年ごとに新婚の新鮮な気持ちに戻って再び始める・・・これなら頷ける。
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(第616話) 歩数計 |
2006,7,2 |
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“還暦をすぎた同年代の知人たちが歩数計を持ち始めた。歩数の話題が出ると、気になったが、年寄りくさいし、病気や健康状態の話も好きではなかった。 昨年の緑が深まる季節に入院、心臓の手術をした。退院しても歩くことが怖かった。初めて自宅の玄関を出てコンビニまでパンを買いに出た時、陽光に輝く並木の葉や空き地の雑草を奇跡のように美しく感じた。歩くことのすばらしさに気づいた。 1年たった今、私は歩き、自転車に乗り、車を運転している。普通の暮らしに復帰できたうれしさからか遊び心が生まれて、歩数計を買った。一番シンプルで安いものだ。トイレに入ってもこっそり歩数をのぞく。どこまでで何歩、帰って何歩、おもしろくて夫にも買った。”(6月21日付け朝日新聞)
羽島市の主婦・伊藤さん(64)の投稿文からです。人間順調なときは何もかも当たり前、感謝の念を忘れる。特に健康についてはそうだ。ところが、指1本の小さな怪我でさえ、こんなに不便になるのかと驚く。心臓手術ともなれば全く健康のありがたさに気がつく。伊藤さんもまさにそんな経過である。そして歩数計(万歩計)を購入された。 我々ウォーカーは多くの方が歩数計は持っている。いろいろな目安にしているのだ。ボクは加算距離歩行計というものをほぼ常時携帯している。1日の歩行距離と、計器をセットしてからの日数とその間の累計距離が表示される。今計器には908日、7232kmと表示されている。この間の1日平均約8kmということになる。ウォーカーを自認するにはいささか寂しいが、一般人としては合格点であろうか。 歩数計を付けることが年寄りくさいという言葉には驚いた。
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(第615話) 優しさこそ(その2) |
2006,7,1 |
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子どもが親を追い回して刺殺したり、高校生が自宅に放火し母親と弟ら3人を死なすといった悲惨なニュースが続く中、母親の優しさの重要性について書いた投稿文があった。 “どんな人も母親のおなかに宿り、十ヵ月余を経て誕生します。最初は純真無垢ですが、少しずつ個性がそなわるのです。 ある雑誌に「頭の良い人の隣にいても頭はよくならないが、優しい人のそばにいると優しくなれる」と書いてありました。つまり、母親の優しさは子どもに伝わるということですね。それだけに母親の力は大きく、特に家庭で占める役割は他に変えられないものがあるのです。”(6月18日付け中日新聞)
岐阜市の松尾さん(女・58)の文です。男女平等、機会均等などもっともなことが叫ばれ、女性も社会に出る機会が多くなっている。また、昔からの男女の役割分担みたいなことが否定されてもいる。そんな時代の流れの中で、松尾さんは母親の家庭での優しさの重要性を説かれている。 ボクも女性の社会進出を何ら否定する気はないし、役割分担の修正も認める。しかし、子供を産み、乳を与えるのは女性である。これは父親の真似できない母親の特権であり、その結果母親のできる優しさである。子供も自然に母親の優しさを求めている。少なくとも子供に対して、父親と母親が同じであってはいけないのだ。父親は厳しく、母親は優しくしてバランスを取り合うのが自然の成り立ちであると思う。母親が自らその権利を捨てることはない。
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